先日から読み進めている宮地正人著「幕末維新変革史」は、その後あまり頁が進まず、現在50頁程まで至りました。当著作のこれまでの概要は、先ず、天文学、外洋船、航路の発達・発見により、後の欧米列強による砲艦外交や帝国主義に至るまでの環境整備が為され、他方、我が国においては、18世紀後半からの徳川治世下での文治主義政策により、天皇を本来の我が国の統治者とする「国学」もまた興隆に至り、来るべき維新回天期の思想的な下準備が為されたといった構成であったと云えますが、この構成は自身にとっては新鮮であり、興味深く読み進めています。(若干、ポール・ケネディ著「大国の興亡」の冒頭部を想起させられましたが)
また、この18世紀後半からの「国学」の興隆は大変興味深い現象であり、それは本居宣長や平田篤胤といった個人の思想が、それぞれの弟子・門弟を媒介として各地に広がり、ある地域においては、その影響は明治期に至るまで継続し、他の地域においては、後世に至るまでの波及・伝播はあまり生じ得なかったと云えるのではないかと思われます。
それは、各地域における神社の来歴等、あるいは反動としての廃仏毀釈の対象となった寺院の記録などを検討することにより、ある程度まで認識が可能ではないかと考えます。また、そうした中で現在に至るまで続く、何らかの地域における普遍的とも云える「感覚」を見出すことが出来たのであれば、それはそれで意味があるのではないかと考えます。
ともあれ、以上の考えは、これまで当著作を読みつつ、不図、思いついたことではあるのですが、こうしたことは、どのような書籍を読む上においても、なかなか重要なことであると私は考えます。
また、以前であれば、こうした仮説とも云える思いつき、着想は、現在よりも湧いていたと感じられるのですが、年を経る毎に徐々に減衰しているように感じられます。見方によれば、それが脳や感性が加齢により硬直化して、柔軟性を喪失していることを示しているのかもしれませんが、やはり、こうした文章の文脈を読むことを通じて、文脈から外れた、自身にとっては新しく、そして「間違ってはいない」と思うことが出来る考え・解釈が生じるということは、本能に近いレベルから楽しいものであり、また、それが書籍を読む一つの大きな楽しみであるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
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