昨今の極東情勢においても多少関与することであるかもしれないが、軍事技術の進化もしくは端的に兵器の進化とは『その射程距離の延伸』と評しても不可ではないと考える。
実際にそれら兵器を扱う人間に対して『その射程距離の延伸』が如何なる効果を及ぼすのかと考えた場合、一つにそれは全ての兵器の『目的』とも云える『人を殺す』という行為に対する認識の希薄化、あるいはこれを別言すると『人を殺す』行為の際に(おそらく自然に生じる)心理的な葛藤・迷い・躊躇いなどの著しい減少ではないかと考える。
太古、我々の先祖が石製の斧あるいは槍などを持ち戦闘に参加した場合、それら兵器を用いた接近戦にて敵を殺害する際に否応なくその感覚を認識・実感しなければならない。
おそらくそれは、料理にて魚を捌いたり、肉を切る行為と明確に異なる感覚ではないかと思われる。
また、そうした感覚が太古より我々人類の精神に存在していたことから、後世に至りさまざまな宗教における基本的な道徳律にて『人を殺してはいけない』といった文言が記されたのではないかと考える。
しかしながら、こうした道徳律とは、あくまでも自身の属する共同体内において相応しい行為態度であり、敵に対する戦闘の場面においては、むしろ積極的に敵を殺害する行為態度の方が共同体(の勝利)に貢献するものとして賞賛された。
それら双方の行為態度をさまざまな場面において(心底から)適宜使い分けることが可能であるならば特に問題はないのかもしれない。
しかし一方において、我々人間の精神とは、おそらく自身が(価値のあるものとして)受容した道徳律をも含む何らかの価値観をその精神内部において普遍化する(したがる)傾向があるのではないかと考える。
そして、それ故に葛藤が精神内部において生じ、さまざまな思索が為され思想・哲学といったものが生じるのではないかと考える。
また、そのようにして進化発展を遂げた思想・哲学において培った『思考という力』が同時にさまざまな科学技術の進化発展の原動力ともなったと云える(おそらく我が国の場合、この経緯の詳細が若干西欧文化と異なるのではないかと考える)。
そして、それら共同の精神的土壌にあるものとは『実証の精神』ではないかと考える。
とはいえ、そのようにして進化発展を遂げた科学技術に随伴するものが兵器の進化でもあるのだが、その進化の方向とは『自己兵力が出来る限り損害を被らず、より多くの敵兵力に対し損害を与える』ことに(当然であるのかもしれないが)重点が置かれ、そして結果的に冒頭に述べた『人を殺す』という行為に対する認識の希薄化もまた生じたのではないかと思われる。
おそらくこれはジレンマと評しても良いのではないかと考えるが如何であろうか・・?
ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに日本列島において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域のインフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
昨今より再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
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