2017年11月6日月曜日

20171105 九州古墳文化において特徴的な要素について(石人石馬・装飾古墳)

我が国で最も大陸、朝鮮半島に近い北部九州は、古来よりいち早く先進文化を導入する機会に恵まれていた。

それ故、この地域では四世紀末頃には既に横穴式石室といった大陸由来の埋葬様式を受容し、従来様式である竪穴式石室と折衷させた竪穴系横口式石室を用いた墳墓が現れた(谷口古墳(佐賀県唐津市))。

また筑肥沿岸地域においては五世紀前半の造営とされる老司古墳、鋤崎古墳、丸隈山古墳(すべて福岡市)などが横穴式石室の埋葬様式を用いている。

また、この埋葬様式は筑肥沿岸地域のみならず内陸河川ともいえる筑後川、菊池川流域地域などにおいても早くに伝播、受容された。

この時代(四世紀末~五世紀前半)の北部九州地域における横穴式石室採用の背景には、四世紀末における大和王権による朝鮮半島への派兵に当地域の豪族が動員され、彼らが半島にて、その埋葬様式を実際に見聞したことが影響しているのではないかと考える。

くわえて九州の古墳文化における特徴的な要素として石人石馬、装飾古墳が挙げられる。
そして、これらの出現もまた五世紀前半にまで遡る。

石人石馬とは地域にて産出する阿蘇凝灰岩を以って作成された近畿その他地域の古墳における埴輪に代替、相当するものであり、これを土器でなく、石を用いて作成するところに当時の九州における文化の独自性、独創性を感じさせる。

この石人石馬にて有名な古墳は江田船山古墳、岩戸山古墳などが挙げられ、また、それら古墳の多くは福岡県南部、熊本県北部に位置している。

しかし、この独特な威容を持つ石人石馬文化は六世紀前半に生じた筑紫君磐井の乱以降急速に衰頽した。

また、石人石馬の衰頽以降、当地域にて盛行した装飾古墳とは、さきの横穴式石室という埋葬様式に付随するものであるが、これは玄室内部の壁あるいは遺体を区切る石障などに呪術的意図を込めた文様、図形を描き、さらに彩色を施したものであり、後代になると破邪的意図を込めた事物の線刻(靫、盾など)、さらには大陸由来の思想的背景をも有する絵画、文様などが描かれるようになった。

我が国における文様、図形、絵画などが玄室あるいは墳墓周辺に描かれた古墳とは、その全体のうちのかなり多くが、この筑、肥あるいは豊の国(福岡県南部、熊本県北部、大分県)にあるものと考えられる。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』


















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