どうしたわけか、昨日分投稿記事の閲覧者数は投稿翌日にもかかわらず、かなり多くの方々(75)に読んで頂けました。
この記事のなかに少しは真新しいことが書かれていたのか分かりませんが、何れにしましても読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
また、あらためてこの投稿記事を読んでいて思い起こされるのはフレデリック・フォーサイス原作の映画作品『戦争の犬たち』であり、おそらくその舞台となったような国々とは、アフリカ・ラテンアメリカ地域では、特に第二次世界大戦後においても(は)珍しくなかったのかもしれません・・。
はたまた時代を遡って考えてみますと、幕末動乱期の我が国もまた、あるいはどこかで違った方向に政策の舵を切っていたならば植民地化・分割統治されるような事態になっていたのかもしれません・・。
さらには20世紀に入った後においても日露戦争に敗北していたならば、我々が生きる現在の社会とは大きく異なるものになっていたものと考えられます。
そのように考えてみますと、たしかに過去の時代(1945年に至るまで)に自国を他国に占領、統治させることを拒み続けた我が国の指導者を含む国民全般とは、もう少し高く評価されても良いのかもしれません・・。
また、そうした歴史に対する評価の延長線上から太平洋戦争末期における我が国軍隊が行った『あまりにも人命を軽視した』とも見做し得る一連の攻撃とは、そのいたましさにもかかわらず価値を見出すことが出来るのではないかと思われます・・。
もとより、こうしたことに対する我々日本人の基本的な態度とは、その行動の背景にある思想云々に拠らずして『尊いものである』と認めるべきであるのでしょう・・。
しかしながら他方、冒頭からの書き出しのように他国からの圧力に迎合、結託することにより自己の権力基盤と為した政権、権力者もまた特にアフリカ・ラテンアメリカ地域においては珍しくないなか、19世紀後半からはじまる我が国の近代化の過程、その歴史からは、不甲斐ない自身の先祖等が築いたものであるにもかかわらず、現代の我が国社会では感じることが困難ともいえる高い精神性、土性骨といった決して賢明ばかりでもなく、カッコよくもない、どちらかといえば前近代的あるいは部族的とも評すべき『強さ』のようなものを感じさせるのです・・。
そして、こうした一種の対比の構図を示したのちに『では、現在の我が国社会のさまざまな様相とは果たして如何なものであろうか?』と考えてみますと、どうもよく分からなくなってしまうのです・・(苦笑)。
何故ならば(勢い余って)その前近代的、部族とも云える『強さ』を全肯定するならば、それと同時にあまり論理的判断が下されることなく我が国の社会に根強く残る、さまざまな悪しき因習、思考様式等々もまた肯定あるいは消極的にではあれ結果的に是認してしまうのではないかといった危惧を抱くからです・・。
とはいえ、もとから『我が国の社会に根強く残る、さまざまな悪しき因習、思考様式等々』を一切存在しないものと規定すれば、ハナシのうえ、もしくは口語として他者に対し表明する考えとしては分かり易く、明快ではあるのでしょうが、おそらく、そうした考えを声高に表明する男性的な勢いのある方々は、一種のエンターテイナーではあるのかもしれませんが、政治についても思想においても、そこまで考えていないことの方が多いのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?
とはいえ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。
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