先ほど帰宅し、ブログの閲覧者数をチェックしてみますと、ここ最近では珍しいほど多くの閲覧者数(700程度)となっていました・・。
『一体これはどうしたものであろうか・・?』とも少し考えてみましたが、残念ながら、その説明に適した仮説らしきものは思い付きませんでした・・(苦笑)。
とはいえ、これら記事を読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。
さて、昨今、一日のブログ閲覧者数が1000に達することが時折(概ね週末)ありましたが、こうしたことは記事を書く側になってみますと、やはりいくらかは緊張するものであり、次いで、さきにも書いたとおり『そこで読まれた記事とは一体なぜ読まれたのであろうか?また読後どのような感想を持つに至るのであろうか?』などと、しばらく考え込んでしまうことがあります・・。
しかし、こうした考えに『捉われて』しまいますと、新たな記事作成に対して構えてしまう・萎縮してしまうといった傾向があるようであり、現在をも含めた記事作成段階においては特にそうした意識を心に抱く、意識の多くを占めることは避けた方が良いとものと考えています・・。
また、そういえば『人は何かを創造している時の自身に対しては客観的になることは出来ない。』というコトバを何処で聞いたことがありますが、これはそうしたことにも関連があるのかもしれません・・。
さて、つい先日より効率的なブログ記事作成のため、電車での行き帰りにてノートにブログ記事の題材となりそうなことをあれこれメモ書きしております。
しかしあいにく、これはかなりの殴り書きであるため、その中からどうにか判読出来るものの一つを主題として書いて行きますと、現在私がいる首都圏では基本的に何処に行っても看板、標識、吊り広告など『文字・文章』があふれております。
その中で自身はほぼ無意識ながらも何かを感じ、考え、そしてその反応として、あるいはこれまでのブログ記事作成は為されているのかもしれない・・それに対して、もし自身がこうした環境(至るところに文字・文章が空間に掲示されていないところ)ではないところに居住することになった場合、たとえ、その他の環境が現在と同一であったとして、私は継続的にブログ記事の作成は出来るのでしょうか・・?
もう少し具体的に考えるために自身の過去を振り返ってみますと、かつて在住した何れの地域の日常においても、おそらく自身が意識的に接する以外の文字・文章(書籍、PC画面など以外の文字・文章)とは、現在に比べかなり少なかったのではないかと云えます・・。
また、端的に云いますと、それは、現代の我が国では、都市化の度合いと関連があるのではないかと思われます。
そして、この二年間そうした【どちらかと云えば都市化された】環境の中で継続的なブログ記事作成が為されてきたことは事実であり、また今後、自身がそうではない環境、たとえば窓の外に目をやると山、川、海などが見えるような環境且つ仕事場への往復にあまり文字・文章を見かけることがない場所に在住することになった場合、現在のような継続的なブログ記事の作成とは出来るのでしょうか・・?
あるいは出来る場合においても、それはどのような変化を書かれたブログ記事に対し与えるのでしょうか?
はたまた、もしそこで記事を書くことが困難であると感じた場合、自身はどのような反応するのか?とは、自身を用いたなかなか面白い実験ではないかと考えましたが、さて如何でしょうか・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の熊本、山陰東部、福島県周辺などでの地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧その後の速やかな復興を祈念しています。」
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