2024年11月6日水曜日

20241105 読む書籍が変ると、意識もまた変わることについて(途中から対話形式)

 現在もいくつかの書籍を読み進めていますが、考えてみますと、2022年2月に勃発した第二次宇露戦争以降、購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなりました。それ以前であれば、周囲のご意見から、あるいは、感覚的な立ち読みなどで見つけていましたが、4年前の新型コロナ禍に続く第二次宇露戦争、そして今なお戦闘・緊張状態が続いている中東、アフリカ、中南米の国々といった国際情勢は、大げさでなく、第二次世界大戦終結以降、最も混乱している状況と云えます。そして、そうした状況を出来るだけ精確に知るためには、海外報道機関による情報は、とても有益であり、それらの報道動画を視聴し、そこで述べられていた情報と関連する、我が国のアカデミアやシンクタンクなどの調査研究機関が運営するサイトの動画を視聴して、そこで納得出来る見解を示す研究者が著した著作が紹介されていますと、後日の書店訪問の際には、やはり、立ち読みして購入に至ることも多く、これが、冒頭で述べた「購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなった」背景にある主たる事情と云えます。そして、そうしたことから、自然と読む書籍の分野は国際関係論や近現代史関連が多くなりましたが、先日、不図、気になったた谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡」を読んでみますと、さきの国際関係論や近現代史などの著作で述べられている文章とは異なった深度で文章について考えるようになり、また、おそらく、その深度での考えが、本来の我が国の言葉での「考える」を意味したのではないかとも思われるのです。そして、そこでの語彙からは、どうしたわけか、自然と和歌山や鹿児島での古くからの地名や、当地の郷音での話し言葉のイントネーションが想起されるのです。また、そうしたことを文章としていますと、今年の春に鹿児島へ訪問した際のことが想起されました。それは鹿児島での歯科理工学会が開催された日の晩に、以前、歯系院時代にお世話になった先輩の先生との会話です。そして、その会話を再現したものを以下に示します。

私「**先輩、それじゃあ今日は早めに医院を閉めて天文館までいらしたのですか?」

先輩「いや、早くには閉めれんよ…。閉めてから大急ぎで準備して来たのです。あとは照国の会館にちょっと用事があって、それも済ませてきました。そういえば、**さん(私のこと)は、あそこの歯科技工専門学校に**先生と一緒に歯科理工学の実習を教えに行ってましたね。あ、あそこの歯科衛生専門学校にも求人票を出さないと…。」

私「…開業医の先生ともなると色々と大変ですね…。あと**先生によると先輩の歯科医院は歯科衛生学校の臨床研修先になっているとお聞きしましたが...。」

先輩「そうなんよ、まったくかなわんよ…。でも、歯科衛生学校といっても、さっきの照国の方じゃなくて、もう一つの方の学校の方で、あそこは**さん(私のこと)が院生だった頃、**先生の代わりで1年間、歯科英語の講義したことがあったでしょう。」

私「ええ、そうです。あれは2012年でしたね。しかし、あれから12年も経つと、先輩の医院がそこの臨床研修機関になるのですね…(笑)。でも、私があそこで歯科英語の講義をさせて頂いた時、学生さんは皆、年頃らしく快活で元気でしたから、おそらく、あの子達はその後、良い歯科衛生士になったと思いますよ。」

先輩「うん、少し前までは照国の学校を出た衛生士さんの方が優秀だと云われていたけど、最近は、こっちの学校を出た衛生士さんも優れているってよく聞きますので、まあ両方の学校が共に良くなってくれれば、こちらとすれば云うことなしですよ(笑)。」

私「ああ、そうですね。そういえば、今のお話を聞いていて思い出したのですが、以前、私が歯科英語の講義をしていた頃、桜ケ丘から原付で朝に行っていましたが、講義室に入ると宿題か何かをされている学生さんが多数いて、そのなかで、近くにいた学生が何をやっているのかと、開いたノートを見たところ、そこに短歌らしきものが数首書かれていたため、驚いて「何、君は短歌を作るのですか?」と訊ねたところ、その学生さんは「いえ講義の課題で作りました。」と返答されました。どのような講義であるか分かりませんが、しかし、その学生さんはたしか徳之島か奄美大島かの御出身で、高校の同期が照国の技工専門学校におられました。お二人とものびのびとした立派な体格でしたが、そうした学生さんが短歌を作って、そしてまた歯科英語も、まあ普通に出来ましたね、ただ面白かったのは、私が講義の際によく行っていた、私が教科書の英文を音読して、続いて、その部分を学生さんが繰り返し音読してから和訳を述べて頂く流れのなかで、その課題の短歌を作っていた学生さんに当ててみますと、英文を音読した後に、しばらく間をおいてから、おもむろに音読した漢字を何文字か述べるのです。しかも、その漢字はたしかに、その英文の主な意味を示すものであったことから、少し驚いて「すごいな、英文を漢文に訳す講義であれば、それは正解かもしれないけれど、それを日本語で云うとどんな感じですか?」と問うたところ、それらしい和訳を述べられましたので、まあ、それで良かったのですが、しかし、そうした言葉の用い方について、沖縄や島も含めて、ここ九州の特に南の方では、何だか独特なものがあると思うのです。そして、実際、そうしたことを意見として述べていた谷川健一という熊本出身の民俗学者がいましたが、そのなかで、万葉集などの日本の古代の謡(うたい)の原型は九州南部や沖縄の南島歌謡にあると述べているのです。そして、そうした見解を介して、私が経験したさきの歯科英語の講義でのことを考えてみますと、何だか深いものがあるようにも思えてくるのです…。」

といった意味のことを私が述べると、その先輩は肘を卓上に置き、もう片方の手でロックの芋焼酎が入ったグラスを口元におき、少しづつ飲みながら、真面目な様子で聞かれていた。

 こちらの先輩は、鹿児島の男性らしく、普段は至極陽気な方であるのですが、時折、私がこうした話をする時は、それが当地の気風であるのか、真面目に聞いてくださることが多く、また内容も分かって質問もされるのですが、それは自らの文化や風土などが部外者からどのように見られ、考えられているかを知る良い機会と捉えているのかもしれませんが、そのあたりについては今のところよく分かりません…。

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2024年11月5日火曜日

20241104 2285記事の到着および今後の記事作成および人工知能(ChatGPT)について

 今回の記事投稿により、総投稿記事数が2285に到達します。昨年5月の2000記事到達以降からは意識しつつ引用記事を多めに作成してきましたが、次の区切りの良い目標である2300記事に到達することが出来ましたら、しばらく当ブログから離れて、そして今度は徐々に自らによる独白記事を多く作成したいと考えています。これまでしばらくの期間、有意に多く作成してきた引用記事は、どれも興味深いと思われた記述であり、そうして作成した記事が多くの方々に読んで頂けることは作成した私としても「良い記述を紹介できた。そして引用元の著作にも興味を持って頂けると良いな…。」と思い、また、それが新たな引用記事作成の意欲にも繋がるわけですが、しかしやはり、引用記事は、自らによる文章ではないため、ブログ記事作成後にある、ある種の達成感が希薄であり、そしてまた、この作成後の感覚の蓄積もまた自分にとって重要なものであったことを感覚として知ったのが、この1年程度であったと云えます。引用記事の作成を継続していますと、日常での書籍の選び方、読み方も徐々に変化していき、そして読書が自分にとって楽しいものではなくなるような感覚が度々ありました。しかし他方で、この書籍や記述を選ぶ際の感覚は、継続していますと向上したようにも思われました。おそらく、こうした感覚には「詩心」と通底するものがあると思われます。ともあれ、さきのように、読書の楽しみを維持するためにも、自らによる記事作成継続の重要性を知ったわけですが、そこから、来る2300記事到達以降は、また徐々に自らの文章による記事作成へシフトしたいと考えています。また、普段文章を作成していないと、機に応じて適切と思しき考えを想起して述べることも困難になってくると思われますので、次の100記事作成のタームでは、強めに「引用記事作成を(出来るだけ)禁止」したいと考えます。そのため、当初の方ではおそらく、また経験不足により稚拙化した独白形式の記事がしばらく続くと思われますが、こちらも継続していきますと、徐々に調子を取り戻し、自分なりにではあれ、何とかまた読めるものを作成することが出来るようになっていくのではないかと、これまでの経験は語ります。そして、ここで重要であるのは、それを自らで決断して、実行したという記憶であると考えます。そして、そうしたことから、さきに述べた2000記事以降の引用記事を主とした投稿が続いた期間で、それに慣れて慢性化しつつも、また、意識しつつも、そこまで労せずして、自らによる文章作成へと戻ることが出来るのだと考えます。しかしまた、大変興味深いことは、先述の2000記事到達の2023年5月以降、いや、より視野を大きくして2020年代初頭からは、我々人類が一般的に人工知能(ChatGPT)を用いて文章作成をするようになったことであり、実際、当ブログでの数十以上の投稿記事は、人工知能(ChatGPT)を用いて作成したものであり、また人工知能(ChatGPT)を援用したブログ記事作成についても、以前にブログ記事を作成しましたが、端的に、おそらく、毎回、人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成も出来ると思われますが、それは、さきに述べた引用記事の作成期間と同様、記事作成後の何らかの感覚の蓄積が困難になると察せられることから、その適切な用い方については、また自分なりに考えていきたいと考えています。しかし、人工知能(ChatGPT)の一般化による社会への影響は大きいと考えられ、今後数年かけて、その波及効果が社会に顕現してくるものと考えます。しかし、考えてみますと、もしこれが2015年6月以前の当ブログを始める前に社会で一般化していたならば、果たして私はここまで、ある種の執念や情熱をかけてブログ(文章作成)を続けていたのであろうかとも思われます。そして、その視座から、あるいは私は運が良かったのかもしれないとも思うのです。また、2020年代初頭の人工知能の普及が進む以前から、数年以上にわたり、自らで文章を作成してきたことは自分にとっては多少は意味があったように思われます。そして、そうした言語を用いる経験があったからこそ、人工知能(ChatGPT)の出現の驚きを体感として理解出来たのだと思われます。ともあれ、冒頭に戻って、今後2300記事までは、以降の独白文章によるブログ記事作成への移行期間として、拙く、多少短くではあれ、出来るだけ自らによる文章での記事作成を心掛けます。

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2024年11月3日日曜日

20241103 有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」 pp.57-60より抜粋

有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」
pp.57-60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861109604
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861109607

 シュンペーターによれば、「変動機構についてのわれわれの理論は、非連続性を強調している。われわれの理論は、いうなれば、発展(evolution)は継続的な革命によって進行する。またはこの過程中には、その特徴の多くを説明する躍動ないし飛躍がある、という見解を採っている」(ibid.:[Ⅰ]236,訳[Ⅱ]337)という。すなわち、シュンペーターは、不可逆的な時間の下で、非連続的で質的な変化が生み出されるという。このような理由からシュンペーターは、「森の輪郭を、ある目的のためには非連続的と呼ぶことと、他の目的のためには連続的と呼ぶことの間に、何の矛盾もないように、それら〔連続性と非連続性〕の間にはなんらの矛盾もない」(ibid.:[Ⅰ]227,訳[Ⅱ]338)と指摘する。

 さらに、シュンペーターは、このように飛躍に基礎付けられた「「発展」とは、経済が自分自身の中から生み出す経済生活の循環のことであり、外部からの衝撃によって動かされた経済の変化ではなく、「自分自身に委ねられた」経済に起こる変化とのみ理解すべきである(Schumpeter[1911]2006:103)という。すなわち、経済の外部からの衝撃によって惹き起こされた変化ではなく、内生的な変化だけを発展として捉えるというのである。

 シュンペーターは、これらの性質のために、「それ〔創造的反応〕はすべての関連した事実を完全に知った観察者の立場から、事後的に理解できるに過ぎない。事前には、実際上、決して理解できない。すなわち、推論の普通のルールでもって、以前から存在する事実から創造的反応を予測することはできない。…創造的反応は、それがないときに出現したであろうような状況とは断絶した状況を創り出す。これがなぜ創造的反応が歴史的過程のなかで本質的要素なのかということの説明である。いかなる決定論的信条(deterministic credo)もこれに対して抗することはできない」(Schumpeter 1991a:411-412,訳336-337:傍点は引用者)と述べる。創造的破壊は、不可逆的な変化であり、事前に予見することができない、内生的で非連続的な質的変化を本質とするのであり、創造的破壊によって生み出される現象は、常に予測することができず、新しいものとなる。

 次に、前述した性質を有するために創造的破壊と創造的進化とは、数学的・微分的方法では捉えることができない。まずベルクソンは、次のように説明している。

 無機の物体の現在の状態は、それに先立つ瞬間の事情にもっぱら左右される。科学が限定し孤立させたシステム内の質的な位置は、それらの質点が直前に占めた位置から決まる。言葉を換えて言えば、有機化されていない物質を支配する法則は、原理的には、(数学者の解する語義での)時間が独立変数の役目をつとめる微分方程式でもってあわらされる。生命に関する法則もそうであろうか。…生命の領域には何ひとつこれに類するものがない。(Bergson[1907]2001:19-20,訳42:傍点は引用者)

 このように、創造性としての生命を微分方程式によっては、説明することができないと述べる。というのも、ベルクソンによれば、微分方程式とは、量的な変動を取り扱うことができるだけであって、質的な変動を取り扱うことができないからである。同様に、シュンペーターも、このような方法によっては、創造的な変化としての発展を捉えることはできないと述べている。

 時間的に無数の小さな歩みを通じて行われる連続的適応によって、小規模の小売店から大規模な、例えば百貨店が形成されるというような連続的変化は生態的考察の対象となる。しかし、最も広い意味での生産の領域における急激な、あるいは一つの計画にしたがって生まれた根本的な変化についてはそうはいかない。なぜなら、静態的考察方法はその微分的方法に基づく手段によって、このような変化の結果を正確に予測することができないばかりでなく、そのような生産革命の発生やそれにともなって現われる現象を明らかにすることができないからである。(Schumpeter 1926b:94-95,訳[上]173:傍点は引用者)

 このように、経済発展の現象は、不可逆的な連続性の相ー不可逆的な時間ーの下における内生的で質的な変化としての飛躍を本質とするために、微分的方法によっては捉えることができない。創造的進化と創造的破壊とは、微分的方法では捉えられない本質を有するという点でも共通しているということができよう。

 最後に、創造的進化においては、「生物は何はともあれ通過点」(Bergson[1907]2001:129,訳160:傍点は引用者)にすぎない。すなわち、それぞれの生物種が「生命のはずみ」を連繋して役割を果たしているのである。進化の主体と考えられるべきものは、無数の個体を生み出しつつも、それらを超えて進む連続的全体としての生命(創造性)ということになる。ベルクソンは、「生命のはずみ」とは、言い換えれば、創造せんとする要求であると述べている。創造的破壊においても、「そのような人間〔企業者〕たちは、ほかになすべきことを知らないために、創造する(schaffen)」(Schumpeter 〔1911〕2006:138)のであり、企業者というものは、「変動機構の担当者」(Schumpeter 1926b:93fn,訳[上]170fn)にすぎない。そして、このような企業者に、次のような症状が現れたならば、それは企業者機能の死ではなく。それを担う人間の死にすぎないとシュンペーターは述べる。

 典型的な企業者というものは、…獲得したものを享楽して喜ぶために生活しているのではない。もしこのような願望が現われたとすれば、それは従来の活動線上の停滞ではなく衰滅であり、〔自己の使命の〕履行ではなく身体的死滅の徴候である。(idid.:137,訳[上]244)

 こうしたことから、経済発展論における企業者とは、創造的進化における生物種と同じように、いわば「創造性」の乗り物としての機能を果たしていると考えることができるかもしれない。すなわち、企業者も単なる通過点の役割を果たしているということができるのではないだろうか。もし、このように考えることができるとするならば、企業者機能であるところの「創造性」は死すべきものとしての個々人を超えるものであるという結構が、「創造性」としての「生命のはずみ」が死すべきものとしての諸生物種を超えたものであるという結構と同じであり、この点においても、共通しているということが言えるであろう。

2024年10月28日月曜日

20241028 銅鐸についての考察

 銅鐸は、我が国の弥生時代での特徴的な青銅製祭器であり、その姿は多くの教科書や歴史書に掲載されていることから、当時、この特徴的な青銅器が盛んに製作されていたことを疑う者はほとんどいない。

 弥生時代の社会において銅鐸は重要な意味を持ち、そしてまた、かなりの労力を注いで製作されていた。その様子は現代の我々からすると、ある種「カルト的」な情熱に基づいていたようにも考えられる。しかしながら同時に、銅鐸を製作し、それを祀っていた弥生時代の我が国社会の様相が、どのようなものであったかという問いに対して、古代史や考古学の分野においても、いまだ明確な見解は得られていない。

 しかし、こうした状況それ自体は、とくに各学問分野の限界を示すものではなく、それよりも、性急に見解や結論を出さない慎重な態度こそが重視されるべきものと考える。他方で、不明瞭な視座から断定的な見解や知見を述べることは、どの学問分野においても慎むべきと考える。

 銅鐸は、我が国に文字文化が(ほぼ)存在しなかったとされる弥生時代の文化事物であることから、当然ながら、同時代の文字資料を通じて、その詳細を知り得ることは不可能であり、銅鐸実物や出土した環境のみが手がかりであり、そこから当時の社会の様相などを推測するほかにない。そのため、当時の具体的な銅鐸祭祀の様相や、行っていた社会の全体の様相を明らかにすることは容易ではない。しかし他方で後世に編纂された歴史書の中には銅鐸に関する記述が散見される。我が国最古の歴史書である『古事記』や、それをもとに編纂された『日本書紀』には、銅鐸に関しての記述はない。そして、これらが記述対象とした時代に銅鐸が用いられていたのであれば、何も触れられないのは不自然である。したがって、銅鐸は、記紀が記述した時代以前の社会において用いられていたと考えるのが妥当と云える。

 また、『古事記』においては多くの文量が割かれている出雲神話が『日本書紀』では、記述が大幅に削られている点も、記紀に銅鐸の記述がないことと関係があると考えられる。いうまでもなく、こうしたことは、当時の支配者が自らの統治方針に基づいて歴史や神話を編集した結果であり、そこで前時代の祭器である銅鐸の存在を匂わせる記述が削除されたと考えることは自然であると云える。

 他方で、平安時代初期の八世紀に編纂された『続日本紀』には、銅鐸に関しての具体的な記述が見られる。以下、その該当部分を引用する。

「和銅六(713)年、丁卯。大倭国宇太郡波坂郷の人、大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之れを献ず。高さ三尺、口径一尺、其の制、常に異にして、音、律呂に協ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。」
(『続日本紀』巻六)

この記述によれば、和銅六年(713年)、大倭国宇太郡波坂郷の住民が銅鐸を発見し、それを朝廷に献上したとされる。銅鐸は高さ三尺(約90センチ)、口径一尺(約30センチ)の大きさであり、その音が音律に調和していたという。また、「その制、常に異にして」という表現からは、この銅鐸が大和朝廷の文化の系譜上にあるものではなく、異質な文化的背景を持つものであったことが示唆される。そして、この記述から銅鐸は、大和朝廷の成立以前の社会において祭祀や儀礼で用いられたものであり、その社会の制度と密接に関わっていたことを、当記録の筆者は知っていたものと考える。

さらに、『扶桑略記』にも銅鐸に関する興味深い記述があり、以下にそれを示す。

「天智七(668)年正月十七日。近江国志賀郡にて崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口を掘り出す。高さ五尺五寸、又奇好の白石を掘り出す。長さ五寸。夜、光明を放つ。」
(『扶桑略記』天智天皇の条)

この記述は、天智天皇七年(668年)の出来事として、近江国志賀郡で崇福寺の建立に際して発見された銅鐸について述べている。銅鐸の高さは五尺五寸(約167センチ!)とされ、さらにその近くから奇妙な白石も掘り出されたという。これらの物品は夜になると光を放ったとされ、銅鐸がただの青銅器ではなく、特別な意味を持つ存在であったことが示唆されている。この記述が11世紀末に編纂されたものであることから、必ずしも史実をそのまま伝えているとは限らないが、少なくとも当時の僧侶や官人たちが銅鐸を大和朝廷以前の異質な文化に属するものと認識していたことは明らかである。

 これらの記録から、銅鐸は弥生時代の文化事物でありヤマト(大和)朝廷成立以前の社会で用いられた祭器であったと云える。それでは、なぜ銅鐸は他の弥生時代からの青銅製祭器である鏡や、あるいは勾玉のように三種の神器とされなかったのだろうか。鏡は三種の神器の一つとして天皇の権威を象徴する存在であり、勾玉もまた、朝廷儀礼のなかで重要な役割を果たした。それらに対し、銅鐸は朝廷の文化体系には取り込まれずに歴史の表舞台から姿を消していったのである…。

 この謎を解く手がかりは、出雲の国譲りや神武東征といった神話にあると考える。これらの神話は、大和朝廷が日本列島の支配の過程を象徴するものであり、朝廷の文化体系に組み込まれたものは、その支配を正当化するといった意味あいを持っていた。しかし、銅鐸はこうした神話の枠組みの中で位置づけられず、異質なものとして排除された。そして、この解釈は、銅鐸の出土状況とも合致するのである。

以上の考察から、銅鐸はヤマト朝廷の成立以前の弥生時代の社会にて祭器として用いられた。しかし、朝廷成立により、その役割を終え「奇異なもの」として歴史の片隅に追いやられていった。銅鐸は、鏡や勾玉のように権力の象徴としての地位を得ることはなかったが、我が国の弥生時代での社会の様相を知るための重要な手がかりとなり、また我が国で弥生時代から古墳時代へと変遷する過程を理解する上で欠かせないものと云える。そして、今後もさらなる研究が積み重ねられ、この時代の謎が少しでも解明されることが期待される。

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2024年10月27日日曜日

20241026 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」 pp.18-20より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188552
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188559

 ユーゴスラヴィアの戦争は一九九一年から二〇〇一年まで、衝突勢力と地域を変えながら断続的に続いた。その展開はかなり複雑なので、詳しくは専門書を読んでほしい。それでも最低限の知識だけ確認するとすれば、紛争の軸はまずはセルビア民族と他民族の葛藤にあった。
 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の中心は、名実ともにセルビア社会主義きょうわこくだった。連邦の首都はセルビアの首都であるベオグラードにあったし、面積も人口も最大だった。歴史を遡っても、一九世紀にこの地域の統合で大きな役割を果たしたのはセルビア王国だった。
 それゆえ連邦の解体にもっとも強く抵抗したのもセルビアだった。とくにクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの二共和国、そしてセルビア共和国内の自治州だったコソヴォには多くのセルビア人が住んでおり、ミロシェヴィッチ政権はそれらの地域が支配から離れることを警戒した。むろんそれは他民族からすれば時代錯誤な「大セルビア主義」の押しつけにほかならない。しかしそれはセルビアからは民族の危機に見えたのだ。
 というわけで、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ユーゴスラヴィア人民軍は、彼らの独立を阻止すべく介入を始めた。スロヴェニアにはあまりセルビア人がいなかったので、戦闘は一〇日で終わった。けれどもクロアチアでの戦闘は、いま記した理由でたいへん長引くことになる。
 翌年の一九九二年には隣のボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を宣言し、連邦はそちらにも介入し始めた。人民軍は両国でセルビア人が結成した民兵組織を支援し、大規模な戦闘を展開した。その過程でのちに紹介する「サラェヴォ包囲」も行われた。クロアチアでの戦争は一九九五年一一月まで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争は一九九五年一二月まで続き、多くの歴史ある町が廃墟になり、あちこちで「民族浄化」が行われた。
 民族浄化は、虐殺や迫害や強姦などの手段を用い、特定の地域から特定の民族以外を排除して民族構成を純粋化すなわち「浄化」することを意味する言葉である。この言葉そのものがユーゴスラヴィア紛争のなかで生まれた。民族浄化の展開は当時の欧米メディアで積極的に報道され、二〇世紀も末になってヨーロッパでまだこんな残酷なことが行われているのかと驚きをもって受け止められた。それは、二〇二二年二月にロシアがウクライナに侵攻したとき、二一世紀にもなってヨーロッパでまだこんな大規模な戦争が起こるのかと驚かれたこととよく似ている。
 クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争が終わったあと、一九九八年から九九年にかけては、こんどは南セルビアのコソヴォが紛争の舞台となった。コソヴォも一九九一年に独立を宣言していたが、ミロシェヴィッチ政権はそれを抑え込み続けていた。しかしアルバニア人の民兵組織が力をつけ、一九九八年についに政府軍と本格的に衝突し始めたのである。こちらでも凄惨な民族浄化が展開され、セルビア人とアルバニア人双方で多数の難民が発生した。NATOがその戦争を止めるために空爆に踏み切ったのは、さきほども記したとおりだ。
 空爆の結果、ミロシェヴィッチ政権はコソヴォから軍を引き上げ、かわりにNATO主導の治安維持部隊が進駐した。とはいえ、紛争の余波はセルビアとコソヴォの境界付近や隣のマケドニアで続き、二〇〇一年になってようやく事態は安定することになる。
 ユーゴスラヴィア紛争とはこのようなできごとだった。この一連の戦争は、当時、第二次大戦後のヨーロッパで展開されたもっとも大規模な紛争だった。死者と行方不明者は一〇万人にのぼり、難民と国内避難民をあわせて二〇〇万人を越えた[★3]。その傷跡はいまもあちこちに残っている

2024年10月25日金曜日

20241024 株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」 pp.38-43より抜粋

株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.38-43より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480434828
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480434821

 慶長(一六〇〇)年九月十五日午前四時、島津義弘率いる島津隊が関ケ原に到着した。第十六代島津宗家当主・義久は彼の兄、その後継者で次期島津家当主・忠恒(のちの家久)は彼の息子にあたる。

 すでに六十六歳となっていた義弘は、当時としては相当な老人であるが、戦場を駆けまわることで鍛え上げた足腰はいまだに衰えを感じさせなかった。

 小西行長、宇喜多秀家隊も相次いで顔を揃え、西軍(豊臣方)の陣容はほぼ整った。夜が明けるにつれ昨日から降り続いた雨はほぼ上がったが足下はぬかるみ、霧のために見通しがきわめて悪かった。

 午前七時過ぎ、東軍(徳川方)の徳川家康四男・松平忠吉隊と井伊直正隊が宇喜多秀家隊に向い攻撃を仕掛け、いよいよ合戦の火ぶたが落とされた。濃い霧の中、鬨の声や銃声が響き渡り、敵か味方がの区別がつかないまま無数の足音が地面を揺らした。

 やがて霧が晴れ、周囲の状況がはっきりとしてきた。

 この時、空から関ケ原を見下ろせば、色とりどりの軍旗、指物、馬印が風になびき、華やかな祭りの会場さながらの光景が広がっていたはずだ。

 明治初期に陸軍大学校教官として来日したドイツ人のヤーコプ・メッケル少佐が、関ケ原の陣営配置図を見せられると即座に「西軍勝利」の判定を下したという逸話はあまりにも有名である。それほど西軍の布陣は有利であったし、武力においても勝っていた。が、多くの武将の裏切りにより、西軍は敗北を喫した。死闘の裏でひそかに取り交わされるさまざまな駆け引き、関ケ原の戦いは武力と武力の衝突というよりも、知力と謀略に彩られた人間ドラマそのものであった。その多くの登場人物の中でも、最も知力に溢れていたのは、勝者・徳川家康であったことは今さらいうまでもあるまい。

 さて、この戦いにおいて、西軍島津義弘隊はまるで傍観者のように孤立していた。史料によりばらつきはあるが、この日義弘に従った兵員は、千人から千五百人の間。薩摩から日向一帯を治め厖大な数の家臣団を抱えていた島津家にしてはいささか寂しい陣容であるが、一騎当千の彼らはこの大混戦の中、一歩も前へ出ることなく、ひたすら何事か待っているかのようであった。そして、陣容に近づく者は西軍であれ東軍であれ、構わず撃退していた。

 いったいなぜ、彼らはこのような不思議な戦い方をしていたのだろうか。

 そもそも島津隊の政治方針は中央政権とは一線を画し、自分たちだけの楽園・薩摩のみを守り抜くという独特なものである。織田や豊臣などのような、天下統一といった途方もない夢などは彼らには興味がない。この戦乱を利用して自領を増やしたいという企画はあったが、それも九州内の話であり、それ以上の領土欲はない。

 なのに、こうして天下分け目の戦いに参加する仕儀に相成ったのは、たまたま義弘が伏見に滞在中であったためである。そして、行きがかり上、西軍に引き込まれることになったが、本音をいえばこの合戦自体に参加したくなかった。島津は豊臣家再興だのといった御大層な大義にはとんと興味がない。大事なのはわが所領のみ。

 とはいえ戦場でこのような振る舞い方はまことに紛らわしい。 

 島津隊を味方だと信じて逃げてきた宇喜多秀家、小西隊までもが斬り払われ、宇喜多隊の多くは池寺池に落ちて溺死した。

 慶長五年九月十五日午後三時ー開戦からおよそ八時間経過した今も、島津隊は関ケ原にいた。すでに西軍は総崩れしつつあり、戦場にはぽつんと彼らのみ取り残される結果となった。東軍はジリジリと迫り来て、ついに彼らは敵方に取り囲まれてしまう。

 いかにもやる気のない戦いぶりから想像がつくように、彼らは西軍に殉じて全員討ち死にするつもりなどなかったが、さりとて、おめおめと白旗をあげて東軍に投降するつもりもなかった。

 そこで彼らは「名誉ある撤退」を決意する。西軍への義理はすでに果たした。ここにとどまる理由はない。よって撤退するというわけである。

 だが、それを見越した東軍は予想される二つの退路にすでに兵を終結している。このまま進めば袋の鼠となることは確実だった。義弘は目をつぶり耳をすませ、自らの進むべき方向を考えた。 

 そこで彼の得た結論はー敵中突破。

雲霞のごとく満ちている敵の真っ只中に突っ込んで、戦場を離脱するなど通常の感覚ではありえない選択肢だった。だが百戦錬磨の義弘の直感は「どの退路をとっても敵が待ち構えているのならば、いっそ相手の意表を突いて、戦場の中央を突破せよ」と告げていた。

 義弘は周囲の者たちを一団にまとめると、

「突き進め!」

 と叫ぶや否や馬を走らせ、たちまち一団は立ち上る砂の塊となり猛然と敵陣中へと前進したのである。

 何が起きたのだろうー東軍の誰もが呆然と島津隊の動きを見つめていた。それは島津隊に相対していた福島正則も同じである。

「敵ならば斬り通れ、さもなくば自らの腹を切れ!」

 義弘の言葉に応じて島津隊は一斉に刀を抜き、福島隊の方向へと殺到した。島津隊は福島隊との斬り合いを覚悟していた。

 だが、福島隊は思わず身を引き、島津隊の前に自然と道が開かれた。それはまさに海が割れ、道が現われたという「出エジプト記」モーゼの話を地でゆく光景だった。

 ちなみにこの時、福島正則の息子で、十七歳の正之が島津隊に立ち向おうとして、家臣から諫められたという逸話が遺されている。

 すでに勝敗は決している。死を覚悟し、目を血走らせて猛進する島津隊と戦っても何の意味もない。福島隊の家臣は若様に「犬死してはなりませぬ」と教えたのだ。これは現在に生きる私たちにもうなずける、合理的な判断である。

 しかし薩摩武士の考え方はまったく違っていた。彼らの内部には、合理的な思考では説明のできない、野生の血がたぎっていた。自分の死が有益なのか無益なのか、どう生きるのが得なのか、そのような小ざかしい線引きは彼らにとってはどうでもよい。

 「薩摩の男はここぞと決めた時、ここぞと決めた場所で、自らの意志に従い死んでゆくのみ」

 猛獣の群れと化した島津隊。気を呑まれて彼らを通過させた東軍は、ふと我に立ちかえり追撃を開始するが、後の祭り。義弘は主要な武将を次々と失いながらも、大垣から伊勢路を越え大阪へ落ち延びた。途中、大阪に留め置かれていた人質の妻子らを連れ戻し、九月の末に薩摩へと帰還した。

2024年10月22日火曜日

20241022 岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」 pp.414‐416より抜粋

岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」
pp.414‐416より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003812824
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003812822

 横穴式石室は、すでにふれたように遺骸を石室の側面から搬入する墓室で、単に遺骸を納めた棺を囲う竪穴式石室と違い、石室自身がひろい空間をもち、そこに何人かの追葬を可能としたものである。もっとも朝鮮から日本に伝わった当初は、たとえば福岡県老司古墳にみるように、一墳に小形の数石室がつくられ、石室自体も小さく、一室一遺体、せいぜい二、三遺体の埋葬という状況にあった。この種の竪穴系横口式石室とよばれるものは、五世紀に北部九州を中心にひろがったが、なお畿内や瀬戸内沿岸においては普及をみず、一部の中・小墳の墓室として採用されたにすぎなかった。朝鮮との交流が深かったと考えられる北部九州にまず定着し、ついで、瀬戸内、畿内へとひろがっていったものである。

 この横穴式石室が玄室と羨道と前庭部とを整え、普遍的な墓室型式として全国各地に採用されてくるのは、六世紀中葉以降である。その直前には畿内および西日本における一部の首長層の間にひろがったが、六世紀中葉以降は、一部の地域や集団を除いて東北南部から九州南部にまで、それ以前の竪穴式石槨・粘土槨・各種石棺・箱式石棺・木棺直葬など多様な埋葬施設のほとんどにとってかわるかのように普及していった。中には横穴式石室の影響によって同じ思想をもって営まれた横穴という型式をとる地域や集団も、出雲・豊前京都郡・肥後・能登・東海・東国など各地にあったし、南九州では地下式横穴という型式をとった。

 横穴式石室の羨道部は埋葬のたびに閉塞がなされるのが普通であった。その玄室には、組み合わせまたは釘どめの木棺、組み合わせ式箱式石棺、また吉備東部・北部などでは陶棺などに納められた遺骸が安置されるが、首長墳とみなされる大形石室の場合には、しばしば刳抜造りの家形石棺が置かれる。羨道部は玄室と現世とをつなぐ通路の役を果たすものであったが、やや新しい段階となると、そこへ追葬がおこなわれる場合もある。羨道部のちにはその入り口をもって閉塞する行為の過程で祭祀がおこなわれたらしく、石塊にまいって土器類が発見されることがある。前庭部もまた遺骸搬入の一種の通路でもあるが、そこに大甕が掘り据えられていたり、破砕した土器類が発見されることなどから、祭祀がおこなわれたことが考えられる。これらのことからみて、この石室の普及に伴って、墳頂を中心とする祭祀から羨道前面ないし前庭部を中心とする祭祀への移行が進みつつあったことは確実である。このことは墳丘の高さや大きさとの関係を薄め、やがて墳丘の強大性の意味を漸次失わせることになる。