2024年10月16日水曜日

20241015 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138
ISBN-10 ‏ : ‎ 4532176794
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4532176792

 日本は非ヨーロッパの国でありながら、ヨーロッパおよびネオ・ヨーロッパ(アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド)社会と比肩する生活水準、工業化、科学技術を実現した最初の近代国家である。今日の日本は、経済や科学技術の分野のみならず、政治や社会でもヨーロッパやネオ・ヨーロッパと多くの共通点がある。議会制民主主義国家で、識字率が高く、みな洋装である。音楽も、日本の伝統音楽以外に、西洋音楽が楽しまれている。しかし、日本にはいまだにヨーロッパ諸国と違う点が、とくに社会生活や文化で顕著にみられ、その違いはヨーロッパ諸国間でみられる差異よりもはるかに大きい。日本社会に非ヨーロッパ的な面があるのは、驚くべきことではない。日本は西ヨーロッパから一万二〇〇〇キロも離れており、古代から交流のあった近隣のアジア大陸の国々(とくに中国と朝鮮半島)から多大な影響を受けていたのだから、それも当然である。

 一五四二年以前には、ヨーロッパからの影響はまったく日本にもたらされていない。それ以後、一五四二年から一六三九ねんまでのあいだ、ヨーロッパの海外進出にともなう影響がつづいた。(とはいえ、あまりにも遠いせいで、その影響はごく小さくなっていた。現代の日本社会のヨーロッパ的側面は、ほとんどが一八五三年以降に日本にやってきたものだ。もちろん、昔からの日本的なものをすべて西洋的なものに置き換えてしまったわけではない。伝統的な要素は、今も数多く残っている。日本は、ココナッツグローブ大火の被害者や、第二次世界大戦後のイギリスのように、古い自己と新しい自己が混在するモザイクなのだ。本書で取り上げた他の六カ国と比べても、日本のモザイク性は際立っている。

 明治維新以前、日本の実質的支配者は、征夷大将軍と呼ばれる世襲制の軍事独裁者であり、天皇には実験がなかった。一六三九ねんから一八五三年までのあいだ、江戸幕府は日本人と外国人との接触を制限していた。島国であるという地理的条件の影響もあり、孤立の歴史がつづくことになる。だが、世界地図をざったみて日本とイギリス諸島の地理的条件を比較すると、この孤立の歴史に驚くかもしれない。

 ユーラシア大陸の東西の歯てに海に浮かぶふたつの島国は、一見すると地理的条件がそっくりに思える(ちょっと地図をみて確かめてもらいたい)日本とイギリスは面積もほぼ同じようだし、どちらもユーラシア大陸のすぐそばに位置しているから、大陸との関係も当然似たようなものだろうと思われがちだ。だがイギリスがキリスト生誕の頃から大陸勢力に計四回も侵略されているのに対し、日本の一度も大陸勢力に侵略されたことがない。逆に、イギリスは西暦一〇六六年のノルマン・コンクエスト以後、一世紀に一度の割合で大陸に軍を派遣して戦っているが、日本は一九世紀末頃まで、ごく短期間の二度の出兵以外、一度も大陸に軍を派遣したことがない。また、三〇〇〇年前の青銅器時代から、ブリテン島とヨーロッパ大陸のあいだでは活発に交易がおこなわれていた。ヨーロッパ大陸で生産される青銅の原料となる錫は、コーンウォール地方の鉱山が主要輸出元となっていた。一、二世紀前のイギリスは世界でも屈指の貿易大国だった一方で、日本の貿易規模は非常に小さかった。地理的条件から単純に予測されることと明らかに矛盾する。この日英の差はなぜ生じたのだろう?

 この矛盾を説明するためには、もっと詳細に地理的条件をみるのが重要だ。一見、日本とイギリスの面積と隔絶度は似ているが、実際は日本のほうが大陸から五倍遠い(一八〇キロと三五キロ)。また日本はイギリスの一・五倍の面積があり、土地もはるかに肥沃だ。したがって、現在の日本の人口はイギリスの二倍以上で、農作物や木材の生産量と沿岸漁業の漁獲高も日本のほうが多い。近代工業が発展し、石油や鉄鉱石などの金属鉱物の輸入が必要となるまで、日本は必要不可欠な天然資源をほぼ自給でき、外国貿易の必要性は低かったーだが、イギリスはそうではなかった。日本史の特色ともいえる孤立には、以上のような地理的背景があった。一六三九年以降の鎖国は、その傾向を強めたにすぎない。

2024年10月15日火曜日

20241014 2022年2月から身に付いた習慣について

 2020年初頭から本格的に感染が広まった新型コロナ禍以来、2022年2月のロシアによる侵攻で始まった第二次宇露戦争、そして2023年10月からパレスチナのイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの越境攻撃によって勃発した紛争はいまだ収束の兆しを見せていません。そこから、ここ直近の2年間は、1945年の第二次世界大戦終結以降、最も世界情勢が不安定で緊張している期間であると云い得ます。

私自身、こうした状況をできるだけ広く精確に理解したいと考え、2022年の第二次宇露戦争勃発以降、海外報道機関の動画を視聴するようになりました。現在も十分に聴き取れてはいませんが、字幕機能を使ったり、同報道機関によるウェブ記事を読むことで、以前と比べ多少理解できるようにはなってきました。また、それ以前は(わざわざ)海外の報道動画を視聴することはなかったため、ある意味では、学びの機会を得たとも云えます。

とはいえ、これらの動画視聴や記事閲覧は「学び」というよりも、精確な情報収集のために行っているといった感覚です。また「情報を収集してどうなるのか?」と思われるかもしれませんが、情報を集め、自分なりにではあれ、理解が深化してきますと、これまでの経験や読書経験を参照して歴史上の類似あるいは共通する出来事が不図、想起されることが度々あるのです。そして、こうした経緯から、最近「1848年の欧州」に関する引用記事やオリジナル記事をいくつか作成したわけですが、これらは、前述の現在の戦争や紛争に関連する歴史上の出来事として検討してきた結果であると云えます。

そして、上記のように歴史と現在の出来事を関連付ける中で得られた感覚や考えは、当ブログや会話などを通じて発信する機会もありますので、面倒に感じることも多々ありますが、ここ2年半ほどは、世界情勢に即した書籍を読み、海外報道の動画を視聴し続けています。またそれらの具体的な内容につきましては、これまで当ブログにて、いくつか記事を作成しました。

ともあれ、現在の世界情勢は、2020年のコロナ禍以降、急速に悪化しているように見受けられます。また、この悪化は放置すれば自然に改善するものではなく、いずれ大きな国際間の衝突が起こり、関係諸国に甚大な被害が及んだ後、ようやく安定に向かうのではないかと危惧しています。もちろん、こうした予測が杞憂であってほしいと願ってはいますが、東欧や中東での事態の推移を見ていますと、ある程度悲観的に見ておいた方が、この先、どのような展開となっても「まだマシ」であるように思われるのです…。しかし、いずれにしましても今後、事態はどのように進展するのでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2024年10月13日日曜日

20241012 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

 共産主義を理解する上で忘れてはならないのは、それが近代合理主義的な楽観論の極致であることです。しかも、その裏には終末論的楽観論があります。キリスト教の黙示録に典型的に現われていますが、既存の体制が瓦解した後、素晴らしい世の中がやってくるという終末論の世界観は、段階的に経済や社会が改善されていくという普通の楽観論とは異なります。

 その萌芽はマルクスの著書にあります。「経済学・哲学草稿」「経済学批判」「資本論」などの著作があり、近代経済学を批判的に捉え直したマルクスの思想を簡単に紹介するのは不可能ですが、骨子はこれから申し上げるようなことになります。

 資本主義生産の元では、労働者が過剰になり失業が増える。その原因は機械制生産であるのが第一点。次に、失業が生じる状況下では、労働力は買い手市場となり、労働者はますます貧しくなっていく。この「絶対窮乏化」理論がマルクスの思想の根底にあります。そして、生産力は伸びているので、少数の資本家がますます豊かになり、生産力は彼らの経営するところに集中していくと指摘します。

 ところが、労働者は貧しくなっているのですから、購買力は増えず、商品は過剰気味になる。また生産力は向上するが、労働者に対して十分な賃金が払われないので、資本も過剰気味になる。この矛盾を解決するため、具体的には、余剰商品と余剰資本を売り捌くために、列強は帝国主義的に海外進出しますが、問題の解決にはならず、やがて過剰商品により恐慌が起こり資本主義が崩壊する。簡単に言えば、こういうことです。

 先ほどの「終末論的楽観論」がこの図式に存在することを皆さんお気づきでしょう。人間の矛盾した二つの気持ちを満足させる説明のし方がそこにあるのです。一方では、文明が進歩し生産力が上昇する。他方、都市においては貧困がなくならないどころか一層、悲惨さを増している。マルクスが生きた十九世紀はまさにそんな時代でした。

 産業革命後、なぜ都市労働者は苛酷さを強いられたのか、その理由はわかりませんが、一方で、我々が農村労働を長閑なものだと偶像化しがちであるという面はあろうかと思います。実際にやったことがないから、漠然と、自然の中で働くのは楽やろなという気持ちがあるのでしょう。しかし、実際のところ、それを値引きしても、産業革命初期の労働が田園における農業労働よりも苛酷であったことは間違いないでしょう。中世の農業は天気が悪いと休みになりますし、他にもやたらと休日がある。ヨーロッパであれば、キリスト教関連の祝日は一年中ありました。それに比べて、都市では労働時間が増え、工場の劣悪な環境で汚染された空気を吸って働かなければならなかった。当時の記録をみると、一八五〇年代のロンドンなどは言葉で言い表すことができないくらいすごかったようです。十軒長屋がずらっと並び、便所は一つ。衛生状態が悪いので、結核、コレラ、チフスなどの伝染病が時々流行したのもわかります。

 ところが十九世紀のイギリス人も何もしなかったわけではなく、人道主義的にいろいろな工場法を制定しています。それでも、一八七〇年に至るまで平均寿命は五〇歳以下で、ほとんど延びてない。人びとはひどい環境の中で生きていたことがわかります。しかし、そういう状況でも、近代人の頭には「進歩」という理念があり、彼らは「人間は進歩するはずだ」と思っているわけです。

 生産力も伸びているが、世の中に悲惨さも溢れている。それを見たとき、二、三〇〇年前なら、「人間の生活には悲惨さがつきものだ」「しかたがない」と自分を納得させたのだと思います。しかし、近代人は「しかたがない」とは言えない、そう考えられない頭の構造になっていまっている。そうすると、人間がもっと幸せになれるはずだし、世の中が進歩するはずなのに、この現状はなんだという暗澹たる気分になり、それなら、現状の体制を潰して伸びつつある生産力を使い、理想的な社会を作ればいいと考えるのは当然の帰結でしょう。

 マルクス主義者が「科学」と呼んでいる「人間は進歩するはずだ」、「こうすれば世の中は変えることができる」という信念に普通の人間的な共感が結びつくと、それが共産主義になるわけです。そして、そのブロセスの青写真を描くことができる少数者が社会を指導すべきなのだという思考回路を、レイモン・アロンは「終末論的楽観論の極致である」と指摘しています。

 世の中は複雑かつ不思議なもので、いいことが悪くなったり、悪いものがよくなったりすると柔軟に物事を考える立場だと、なかなかこういう発想にはなりません。しかし(人間は進歩すべきで、必ずその方法はある。その青写真は共産主義になる」という固い信念がある人間は、他人の意見には聞く耳を持たず、強引な形で政治を進めることになります。周囲もまた彼の批判ができなくなり、処刑する人も処刑される人も、正しい主義主張と一体のまま死にたいと思うでしょう。

2024年10月11日金曜日

20241010 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 十九世紀の世界の力関係の変化をみると、「西側の人間のもたらした衝撃」がありとあらゆる面に影を落としていることがわかる。この衝撃は、多くの経済関係ー沿岸貿易業者への「非公式な影響」から海運業者、植民者を直接に管理する総督、鉄道建設業者、鉱山会社などーを通じてあらわれたばかりでなく、開拓者、冒険家、宣教師の侵出にも、西側の疾病の伝染にも、西側社会の思想の伝播にもみられるのである。西側の衝撃はーミズーリから西へ、アラル海から南へー大陸の中心部にまで波及し、さらにはアフリカの河口から上流へさかのぼり、太平洋の島づたいに広がっていった。この衝撃の置き土産の一つが、(たとえば)イギリスがインドに残した道路や鉄道網、電信、港湾、都市建築などがあるとするなら、この時代の植民地戦争につきものの流血、暴行、掠奪といった悲劇もその一面である。事実、力と征服にはコルテスの昔からつねにこうした両面があったが、それに拍車がかかったのがこの時代だった。一八〇〇年にヨーロッパが占領し、あるいは支配していた地域は世界の陸地の三五パーセントだったが、一八七八年にはそれが六七パーセントに増え、一九一四年には八四パーセントを超える。

 蒸気エンジンと機械でつくられた道具に代表されるテクノロジーの発達によって、ヨーロッパは経済的にも軍事的にも圧倒的な優位をかちえた。先込め式の銃が銃(撃発雷管、銃身の施条など)の改善は、まさに不吉な前兆であり、元込め式の銃が出現して発射速度が大幅に高まったことは大きな前進となる。そして、ガトリング機関銃、マキシム銃、軽量の野砲が最後の仕上げとなって新たな「火器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべがなくなってしまった。そのうえ、蒸気エンジンを搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、ニジェールやインダス、揚子江などの大きな河川づたいに内陸部にまで入り込むようになる。こうして、移動性と火力とすぐれた甲鉄艦「ネメシス」は一八四一年と四二年のアヘン戦争で活躍し、中国防衛軍を惨憺たる目にあわせて、蹴散らしてしまった。もちろん、物理的に進出の難しい地域(たとえばアフガニスタン)では、西側の軍事帝国主義の侵略が阻まれるし、非ヨーロッパ軍のなかにもーシーク教徒や一八四〇年代のアルジェリア人などのように―新しい兵器や戦術を採用して戦い、激しく抵抗したものもあった。だが、ひらけた地形の国で戦闘が行われれば、西側は機関銃や重火器を配備することができるから、結果は考えるまでもなかった。この戦力の差を最も如実にみせつけることになったのは、十九世紀のオムドゥルマンの戦いだったろう。この戦争ではマキシム銃とリーエンフィールド・ライフル銃を装備したキッチナー軍が、夜が明けてわずか数時間のうちに一万一〇〇〇人のデルウィーシュを倒し、味方はわずか四八人の損害しか出さなかった。この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって、先進国は最も遅れた国々にくらべて五〇倍から一〇〇倍の力を手に入れたことになる。西側諸国の世界支配は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、ここにいたって、その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。

2024年10月9日水曜日

20241009 株式会社講談社刊 (講談社現代新書 1168) 千田 善著「ユーゴ紛争: 多民族・モザイク国家の悲劇」pp.70-71より抜粋

株式会社講談社刊 (講談社現代新書 1168) 千田 善著「ユーゴ紛争: 多民族・モザイク国家の悲劇」pp.70-71より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061491687
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061491687

 長い間ユーゴに暮らしていた私の実感として、警官も軍人も庶民にとっては同じ国家機関であり、一枚岩の協力・連携をしているように見えるものだ。しかしこの朝、(ユーゴ)連邦軍兵士とスロベニア警察官の表情は対照的だった。

 トルジン村の民家の前で、軍人は「事故」を恥と感じ、アジア人の新聞記者をにらみつけ、やり場のない怒りを持て余している。一方、警官は明らかに戸惑いながらも、素手同様で戦車を止め「してやったり」という表情でニヤリとしている。昨日まで同じ国の権力機関に属していたものたちが「独立宣言」境に敵味方に分かれる。「独立」とはそういうものなのかと、不思議な感じがした。

 しばらくするうちに、ただ驚いたり、ニヤニヤしていた警官や村人、つまりスロベニア人たちも、「こういう場合には、怒るものだ」ということを思い出してきたようだ。

 警官には「マスコミ取材には許可なく応じるな」との命令がでれいたが、ある警官は小声で「これはヒトラーの軍隊と同じだ。まったくひどい」と話しかけてきた。まわりのやじ馬からも「どうか、ユーゴ連邦軍のこのひどいやり方を、世界中にしらせてくれ」という声が聞こえてくる。

 何の変哲もない農村、ふだんは退屈で眠たげであろうこの村に、ある朝早く、突然、戦車がやって来た。五〇年前のヒトラーと同じだと感じるのも無理はない。

 しかし、この時点で、トルジン村の住民たちも、わたしたちマスコミ関係者、そしておそらく連邦軍の兵士たちも、「戦争」というものを実感しかねていた、われわれの目の前にあるのは、「事故」を起こした戦車三両と大破した乗用車、トラック、観光バス。取り囲むやじ馬。これが戦争というものなのだろうか?

 わたしたちは空港行きをあきらめ、トルジン村を出発したのだが、これが結果的に命拾いになった。あちこちで封鎖された道を何ヵ所も迂回しながら、なんとかリュブリャナまでたどりつくと、トルジン村で本格的な戦闘が起きたという知らせが入った。

 わたしたちが出発した直後、立ち往生する戦車と兵士を救出するため、連邦軍ヘリコプターが降下作戦を決行した。スロベニア軍との間で銃撃戦となり、連邦軍兵士四人、スロベニア軍兵士二人、巻き添えになった民間人一人が死亡した。連邦軍兵士二〇人余りが捕虜となり、負傷者(スロベニア軍兵士八人、民間人二人、連邦軍兵士四人)は、リュブリャナ大学付属病院に収容された。

 危ういところで戦闘の巻き添えにならずにすんだわたしたちがトルジン村で見たものはやはり本物の戦争、正確にはその序盤だったのだ。

2024年10月7日月曜日

20241007 女性のSTEM分野進出のための方策:専門職大学

*醫療系專門職大學新設の意義
 現代社會において、科學・技術・工學・數學(STEM)分野は、技術革新と經濟成長を支ふる根幹にして、此の分野に於ける女子の參與は、社會の持續的發展および多樣性の確保に必要不可欠なるものといへん。然るに、我が國にては、女子のSTEM分野進出遲々として進まず、かねてより問題とされ來れり。斯くのごとき問題を創意工夫を以て克服せん爲の一方策として「醫療系專門職大學」の設立が考へらるるなり。此の大學は、女子がSTEM分野にてキャリアを進めん爲の基盤を成すのみならず、地域社會の活性化とジェンダー平等の實現にも資すること疑ひなし。

*醫療分野とSTEMの結びつき
 醫療および齒科醫療の分野は、科學・技術と密接に關聯せるものにして、此の領域に於いては、生命科學を基礎としつつ、技術の革新が常に求められ、科學的知識および工學的な手法の導入は必須なり。此の背景に鑑み、前述の醫療系專門職大學は、STEM分野への自然なる導入路となり得るものなり。學生らは、各々の職に應じた學科にて必要なる技能を修めるのみならず、科學的探究心を涵養し、將來に於いてSTEM分野にて活躍する爲の基礎を築くこと得るべし。また、臨床に即した實踐的カリキュラムは、科學・技術に對する具體的理解を深め、女子にとりてはキャリアの選択肢を大いに廣ぐる有益なる學びと經驗を提供す。斯の如くして、醫療分野に於ける普遍的なる知識を修めることにより、多くの女子は、STEM分野への道を拓き、その能力を充分に發揮し得るに至らん。

*地域醫療の發展と社會貢獻
 醫療系專門職大學の設置は、女子のSTEM分野進出を促進するのみならず、地域醫療の充實にも資す。今、我が國の多くの地域に於いて、醫療從事者の缺乏は深刻なる問題と化し、地域醫療を擔ふ人材の育成は急務と謂ふべきなり。此の情勢において、地元出身の學生が地元にて學び、その後地域の醫療に貢獻せば、醫療の質の向上はもとより、地域社會全體の發展および活性化にも寄與すべきものなり。此の仕組により、女子にとりては、家庭と職務を兩立し易き職場環境の整備および柔軟なる勞働形態が進み、安定したキャリア形成も可能となりぬべし。

*STEM分野に於ける婦女子のキャリア形成支援
 醫療系專門職大學は、婦女子がSTEM分野にて活躍せんための環境を整ふるものなり。また、醫療分野にて成功を収めし既卒女子は、次代女子に對するロールモデルとなり、後発の女子にもSTEM分野への挑戰を促す役割を果たすべし。それゆえ、かかる女子の存在は、社會全體にSTEM教育の重要性を知らしめ、女子の進出を支援する文化を醸成するに資すること疑ひなし。先行事例が増すことにより、次代の女子は、更に自信を以てSTEM分野に挑戰することを得るべく、環境整備も進むべし。

*STEM分野への多樣なる參入を支ふるインフラ
 醫療系專門職大學は、STEM分野にて、多樣なる背景を持つ者の參入を支援するインフラとしても重要なり。實踐的なる敎育を施すことにより、理論のみに留まらず、實際に役立つ技能を修め得るため、従來STEM分野に興味を抱かざりし女子や他分野からの轉向を望む者にも、新たなるキャリアの選択肢を提供するものなり。醫療分野の知識や技術は、他の工學や技術職にも應用することが可能にして、幅廣きキャリアの可能性を開くべし。

*醫療系專門職大學の設置がもたらす未來
 醫療系專門職大學の新設は、女子がSTEM分野に進出せんための重要なる一歩とならん。此の大學を通じ、女子は高度なる技術と知識を修め、地域社會や醫療分野など多分野にてリーダーシップの發揮が期待される。また、ジェンダー平等の推進にも資すること疑ひなく、女子が職業選択の自由を享受し得る社會の構築に寄與するべし。更に、醫療從事者としての技能および科学的知識を持ちたる女子の増加により、地域醫療の拡充強化のみならず、地域經濟の發展をも期すること可也。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。










2024年10月4日金曜日

20241003 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.110‐112より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.110‐112より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 産業革命は、30年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それを加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。そして統治する階級、とくにその先頭に立っている人びとは考え違いにおちいっていた。この考え違いは非常にたかまり、根強くなっていて、打倒されることになった権力の維持に、最も利益をもっていた人びとの抵抗をも無力化させるほどのものであった。中央集権化は、すべての革命行動えおパリを制覇するということに、また政府のよく整った機構を掌握するということに追いこんでしまった。そしてすべての事物が変動しやすくなっていて、変動する社会のなかでの諸制度や諸理念、習俗や人びとは、副次的な多数の小変動は別としても、少なくともここ60年の間で起こった七つの大きな革命で、揺れ動いたのである。こうしたことどもが、それらのことがなければ二月革命はありえなかったような、この革命の一般的原因なのである。革命を導き出すことになった主要な偶発事は、王朝的反対派の不手際な激情であり、彼らは選挙改革を実現しようとして、反乱を育ててしまったのである。この反乱をまずはじめに過剰に抑圧し、ついでに放置してしまう。突然に権力の糸を断ち切ってしまった旧大臣たちが姿を消してしまい、後を継いだ新たな大臣は混乱におちいって、権力を一時的にとりもどすことも、やぶれ目を結び直すこともできなかった。動揺するとはとても考えられなかったほど強力であった。かつての彼らの立場をとりもどすことに、全く力およぼなかったこれらの大臣たちの失策と精神の動揺、将軍たちのためらい、人望あり精力に満ちた王族がいなかったこと、だが何より国王ルイ=フィリップの老いの愚かさとでもいうべきもの、たぶん何をもってしても予想できなかったと思われるその気弱さ、この点は事件によって誰の目にも明らかになってからは、ほとんど信じ難いものとして、人びとの印象に残ったことである。

 私は時々、国王の心のなかに急に生み出された、そして前代未聞ともいうべき意気阻喪が、一体どうして起こったのかと考えてみる。ルイ・フィリップはその生涯を革命のただ中で過したのだから、経験がなかったわけでも、勇気や気力に欠けていたわけでもなかった。しかしあの日だけは、これらのことが完全に欠けていたのである。私は彼の弱体ぶりは、彼の驚愕があまりにもひどかったことに起因すると考える。彼は起ったことが何かを知る前に仰天してしまったのだ。二月革命はすべての人にとって予知しえなかったことであるが、誰よりもまずルイ・フィリップにとってそうだったのだ。外部から何の忠告も受けなかった彼は、革命に対し無防備のままだった。というのも数年前から彼の精神は独善的なある種の孤立のなかに立てこもってしまっていて、こうなるとだいたいそんな場合でも、長い間の幸せになれた王族の知性が生命を保つことになってしまうのだ。そうした生活のなかで、王族たちは財産を才能と思い違え、誰からも学ぶことはなくなったと信じてしまうため、どんなことにも耳をかそうとしなくなるのである。とくにルイ・フィリップは、すでに指摘したように、彼の大臣たちもそうだったのだが、これまでの歴史の事実が現在になげかけるまやかしの閃光に、目をくらまされていたのだ。