2025年4月4日金曜日

20250403 御坊の用水路で群生する鯉を見て思ったこと

 『ええ、私は昨日の夕方前に関空に着き、そこから南海に乗って(和歌山)市駅まで出て、そこからYT食堂まで少し急いで行き、ほぼ営業時間ギリギリで入ることが出来ました。YTで食事を済ませた後は、ぶらくり丁方面からJR和歌山駅近くの予約していたホテルまで、これも歩いて行きました。今回は残念ながら、いつものホテルが訪問全日では予約出来ずに、仕方なく和駅近くのホテルに予約しましたが、そのチェックアウト時間が早く、本日の勉強会の開始まで多少時間があったことから、丁度、和駅も近いので朝から電車で御坊まで行きました。と云いますのも、実はここ最近紀州・和歌山の河川毎の歴史文化について扱ったブログ記事を作成しておりまして、これまでに北から紀ノ川、有田川についてのブログ記事は投稿しており、現在、日高川について扱ったブログ記事を作成しています。そして、これを作成するために資料をあたっていますと、また以前のように疑問やら仮説が湧いて来まして、それで、その実際のところを見聞しようといった目的があったのです…。かなり久しぶりに和歌山市以南まで行きましたが、御坊駅に着いた時には、ここからさらに南へ50㌔ほど行くと南紀白浜があると思って、何だか感慨深いものがありました。それでも、御坊の空気も和歌山市よりも、さらに自然の薫りが濃厚で、南紀白浜を髣髴とさせました。そういえば、御坊市を含むこのあたりは、日高地方、そして行政単位では御坊市以外のこの一帯から梅で有名なみなべ町までが日高郡に属するのですが、南紀白浜在住時の感覚では、田辺は気軽に行ける隣町であり、そしてその北隣のみなべ町もまた、そこから地続きの同じ文化圏といった感じであったのですが、実は、そのみなべ町も日高郡に含まれていたのだと、この時不図、思い出しました…。ともあれ、御坊に着いて、そこから歩いていくつかの目的地に行き、そこで過日生じた疑問や仮説と照らし合わせて帰路に着き、御坊駅まで考えつつ歩いていて、そこで不図、用水路を渡る小さな橋の上から下を見ますと、その決して広くはない用水路の流れに、大きな鯉が群生していまして、それを見て、衝撃を受けて急に現実に引き戻されたのですが、しかし、それも思い返してみますと、南紀白浜在住時に、そこに棲む生物の大きさに衝撃を受けたことが何度かあったことが想起されました。その一つは、これまでに作成したブログ記事にて扱いましたが、たしか大雨の夕方に一人で車を走らせて、富田川沿いに上富田町から中辺路方面に向かっていますと、ヘッドライトが大きなカエルを照らし出したため、ビックリして車を停め、大雨のなか外に出ますと、ヘッドライドに照らされたその大きなカエルは至って落ち着いており、その様子に何やら畏怖のようなものを感じて、お辞儀をして急いで踵を返したことがありました。こうしたことは、現在話してみますと何やら迷信的で不合理な行動と思われるかもしれませんが、しかし、あの時は何故だがそう思ったのです…。しかし、これもまた考えてみますと、何やら紀州ネタが多い「日本霊異記」(「日本国現報善悪霊異記」)に収録されている説話の様ではないですか…(笑)。あとは、これまた白浜在住時に所用で那智勝浦にあるホテル浦島まで行った時に、このホテルは駐車場から入口まで船で渡ることで有名でして、まあ実際は自動車でも入口まで行けるのですが...。ともあれ私は船に乗るために船着き場にいますと、その桟橋の足元の海中に見えた魚が何であったか忘れてしまいましたが、とにかく大きく感じて不気味に感じたこともありました…。しかしまあ、自然が豊かな南紀ですとカエルや魚だけでなく、人間もまたえらく大きくなることがあるのかもしれません…。そして、そうした一人が和歌山市内に生れ田辺に長く住んだ南方熊楠であったのだと思います。御存知であるとは思いますが、南紀白浜には南方熊楠記念館がありまして、そこには昭和天皇の御製「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を彫った石碑があり、生物学者でもあった昭和天皇は、30年以上前に進講をした南方熊楠をとても印象深く覚えておられたのだと思いますが、そこまで強い印象を与えるほどの博識ぶりとは、やはり、見方によれば大きく成長したものであると思いますので、それらに間に通底する何かがあるのではないかと思います。しかし同時に、この自然の豊かさが、そこに生きる生物全般を大きく生育させていたのは、その生物が土地の産物を食べていたからです。いわば、その土地に生かされていたからです。その点、近代までの遅い陸路と海運の時代までは良かったのですが、その後、鉄道や自動車そして飛行機などで物品が大量に輸送されるようになりますと、他の生物は違いますが、しかし人間は、そうした土地が生み出す生物ではなくなってしまい、大きな物流や情報の網に絡めとられて、かつてのように大きく生育出来なくなり、そして少なくとも精神の方は徐々に小さくなって行ってしまうのではないかと思うのです…。その意味で海運が物流の中心であった時代までは列島の東西を結ぶ要地に位置して、沿海部が長い紀州和歌山は、さまざまな産品が流通して、活発に独自の文化を育んでいたのですが、それが鉄道・自動車道路網が主流になりますと、徐々に血流ならぬ物流が行かなくなり、段々と廃れていってしまい、そして、その様相を、私はこの「失われた30年」で見てきたのではないかと鯉を見た用水路を後にして思い、少し悲しくなってしまいましたね…。いや、しかしこれもまた少し見方を変えてみますと、現在のように世の中が乱れてきた平安後期から末期に熊野詣が盛んになりましたように、こうした状況は紀伊・和歌山が再び陽の目を見る契機となるのではないかとも思われるのですが、しかし、実際のところはどうなるのでしょうか…。まあ、もう少し考えてみます。』

2025年3月26日水曜日

20250325 日高川流域の歴史と文化について(3/27加筆)

【概要】 
 日高川は、紀伊半島中央部に位置し、紀伊山地に属する護摩壇山を水源とし、山々を縫うように西へ流れ、和歌山県御坊市にて紀伊水道へ注ぐ。上流には険しい山地が広がり、中流には河岸段丘や扇状地、そして下流には沖積平野と海岸段丘が展開する流域一帯は、多様な自然環境と豊富な資源に恵まれ、縄文時代から現代に至るまで、流域に住む人々の暮らしの基盤となってきた。
 縄文時代の流域では、早くから人々の活動が為され、狩猟・採集・漁労を中心とした生活が山間部から沿海部に至るまで広く展開されていた。時代が下るにつれて、定住化が進展していった。特に縄文後期以降は、河川周辺や河岸段丘などに集落が多く営まれるようになり、そして生活空間は広がっていった。
 弥生時代に入ると、水稲耕作の普及により定住化はさらに進み、集落の規模や構造にも変化が認められるようになる。そして、水稲耕作の進化により生産が増加する一方で、集落間での交流や競合も次第に活発となり、社会構造の複雑化や高地性集落といった防御の要素が地域に現れ始めるようになる。この時期の流域は、周辺地域との結びつきが強まり、また広域な文化圏にも組み込まれるようになった。
 古墳時代になると、特に下流域には多くの古墳が造営されるようになり、こうした古墳の分布から、流域を拠点とした政治・経済的中心の存在があったことが認められる。また、それら古墳の造営様式や副葬品などの文化的要素は、周辺地域との技術的・文化的交流により形成されたものであり、当流域が広域な文化ネットワークに属していたことが理解出来る。
 奈良時代には、律令国家の体制が地方へと及び、流域も行政区画に組み込まれていく。郡制の整備により、役所や官人の存在が地域に定着し、条里制による土地支配や神社祭祀の制度化も進展した。この時代、仏教も浸透し、寺院や火葬墓が営まれるようになり、政治と信仰が結びついた社会の枠組みが構築されていく。
 平安時代には、荘園制の展開とともに、流域の土地は貴族や寺社の支配下に置かれ、農業生産が経済の中核を占めるようになる。川と海を結ぶ地理的条件を活かして、物資の集積や輸送の要地として港町が形成され、日高川は内陸と外海を結ぶ重要な経済動脈としての役割を担うようになる。このように、地域社会は単なる農村にとどまらず、交易や流通、信仰を包摂した多機能な構造へと変容していった。
 鎌倉・室町時代には、武士階級の台頭により、地域支配のあり方が大きく変化する。土着の武士(国人)たちは、山間部や流域に拠点を築き、自立的な政治勢力を形成していく。一方、地域の寺院や城館は権力の象徴となった。こうして地域社会は、政治や信仰が融合した独自の秩序を形成していった。この間も川と港を基盤とした物資の流通は衰えることなく、地域の内と外をつなぐ重要な経路として存続していた。
 戦国時代には、流域も紀伊国をめぐる争乱の波に巻き込まれることになるが、そうした不安定な状況の中でも、地域の農業技術や治水の知恵は培われ、安定した生産基盤が維持された。流域での川港などの拠点は、軍事・経済的にも利用され、再び戦略的な要衝としてその存在感を示すようになる。
 江戸時代には、紀州藩による統治のもとで流域にも安定がもたらされ、農業とともに林業・海運がさらに発展する。山間部では木材生産が盛んになり、伐採された材は川を利用して筏として下流へと運ばれた。川と連携する港町では商業が発展して物流の要所として藩内外との経済的つながりを深めていった。
 明治以降の近代化のなかで、流域も行政制度や交通網の整備が進められた。こうして、従来の水運・海運に加えて陸路が加わることで、流域の中心地は新たな交通・経済の拠点としての性格を強めるようになる。やがて、戦後の高度経済成長期以降は、都市への人口流出や産業構造の変化により、地域は過疎化や経済的停滞といった現在にも続く課題を抱えるようになる。一方、近年では自然環境や歴史的資源を活かした地域振興や文化財保全への取り組みも進められ、持続可能な地域社会のあり方が模索されている。
 このように、日高川流域もまた、自然環境と人間活動が絶えず相互に影響し合いつつ、縄文時代から現代にいたるまでの歴史を紡いできた。河川と海の接点にあるという地理的特性のもとで、多様な文化が交錯し展開してきたこの地域は、今なお、その豊かな歴史文化を現代に伝えている。

【縄文時代】
 日高川流域における縄文時代の遺跡群は、当時の自然環境や人々の暮らしを考察するうえで重要な手がかりとなる。特に下流域・沿海部に位置する川辺町や御坊市には、縄文時代当時、深い入り江(潟湖)が形成されていたと推測され、その地形に沿って複数の縄文遺跡が分布している。
 上流域では、田辺市龍神村に所在する湯ノ又遺跡がある。これは日高川左岸(北岸)の河岸段丘上での宅地造成中に発見されたもので、縄文時代中期から後期にかけての土器片や、粘板岩製および砂岩製の磨製石斧などの石器類が出土している。
 中流域の日高川町では、三十木地区の下流に位置し、日高川が大きく蛇行する佐井地区の北側河岸段丘上に大芝遺跡が所在する。当遺跡は、1953年(昭和28年)の紀州大水害後の復旧作業中に石器や土器が発見されたことにより明らかとなり、その後発掘調査が実施された。これまでの調査により確認された主な遺構・遺物には、縄文時代後期(約4,400年前)の竪穴式住居跡、石斧・石鏃などの石器類、深鉢や浅鉢などの土器が含まれる。特筆すべきは、竪穴式住居が13棟確認されており、これは和歌山県内で発掘調査された縄文遺跡としては最多棟数である。また、住居跡については今後の調査によってさらに増加する可能性も指摘されている。加えて、食料や道具の廃棄に用いられたとみられるゴミ捨て穴や、木の実などを貯蔵していたと考えられる貯蔵穴も確認されている。出土した土器の中には、東海地方や関東地方に広く分布する型式のものも含まれており、広域的な文化交流を示唆する重要な資料と評価されている。
 下流域の川辺町には、三百瀬・松瀬・入野・和佐・石浦などの縄文遺跡が所在し、対岸の御坊市には上野口遺跡が存在する。これらの遺跡は河岸段丘上に立地していたが、1953年(昭和28年)の大水害によって破壊され、多くの遺物が流出したことで、遺跡の存在が明らかとなった。松瀬遺跡は標高約25メートルの段丘上に位置し、縄文前期末から晩期末にかけての多様な土器が出土している。石器類は主にグレーチャート製で、石鏃・石匙・石錘・石斧などが確認されている。和佐遺跡は標高約18メートルに位置し、勾玉をはじめとする装身具や、石器類・土器片が多数出土している。そのほか、美浜町田井地区の斉津呂遺跡からは磨製石斧や石鏃が、塩屋町北塩屋の東大人遺跡ではナイフ形石器が、また、名田町の野島・壁川崎・馬地遺跡からは多種の石器類が出土しており、これらも含めて日高川流域における縄文時代の人々の営みの広がりを物語っている。
 まとめとして、こうした多様な遺跡の存在は、縄文時代においてすでに日高川流域が人々の移動や他地域との交易・交流の拠点として機能していたことを示唆している。換言すれば、中山間地域から沿海部に至るまで、変化に富んだ自然環境を有する日高川流域は、縄文の人々に多様な生活資源と舞台を提供していたと云えよう。その意味で、流域に点在する縄文遺跡とその出土物は、紀伊半島における縄文文化の地域的特性と、列島規模で展開された文化的ネットワークの両側面を考察するうえでの重要な資料であると云える。

【弥生時代】
 縄文時代においては、上・中・下各流域にて集落が営まれていた日高川流域であるが、縄文後期からは定住化が進み、やがて弥生時代に至り水稲耕作を基盤とした社会が普及して主流になると、集落は下流域に集中するようになる。こうした時代の流れを象徴するのが1999年に発掘された御坊市湯川町財部に所在する堅田遺跡であると云える。当遺跡は、弥生時代前期にはじまる環濠集落であり、我が国最古級とされる青銅器「ヤリガンナ」の鋳型や、鋳造するための溶炉遺構が出土したことで注目を集めた。鋳型は砂岩製であり、鋳造時の高温の溶湯による黒変が認められる。溶炉は楕円形に掘られた基礎上にカマド状の炉を築いた構造であり、当時としては高度な技術が用いられていた。これらの発見から、堅田遺跡が単に水稲耕作を基盤とした集落ではなく、鋳銅による金属器の生産拠点でもあったことがわかる。従来、我が国の金属文化の伝播は、朝鮮半島から九州北部に齎され、そこを起点として山陽・山陰方面へと伝播・展開していったと考えられていたが、堅田遺跡での鋳銅遺構の発見はこの定説に再考を迫るものと云える。他の鋳銅遺構が発見されたものとして佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡が挙げられるが、当遺跡は伝播元である朝鮮半島からも近く、遺跡内の鋳銅遺構については、およそ紀元前100年と考えられているが、堅田遺跡のそれは紀元前200年ほどとされており、現在までに発見された鋳銅遺跡としては最古段階のものと云える。くわえて、当遺跡から紀北、大和、和泉、伊勢、三河西部など各地から齎されたと考えられる土器、土器片なども複数出土しており、そこから当時、列島東西にわたる広域な交易ネットワークの存在が示唆され、また、そのなかで堅田遺跡は鋳銅遺構の存在から、重要な位置を占めていたと推察される。また、こうした広域なネットワークは、同時代の墓制にも影響を与えたと考えられ、日高川下流域では弥生時代前期には海岸砂丘上の土壙墓が多かったが、中期以降からは、家族墓的な傾向が強い方形周溝墓が造営された。具体例として、美浜町の吉原遺跡からは、こうした弥生時代の墓制の変遷が土壙墓や周溝墓の分布や構造などから認められる。また、御坊市塩屋町の海に突き出た半島状に位置する尾ノ崎遺跡では、方形周溝墓が18基確認されており、その中には前方後方形のものが含まれる。これは古墳時代に特徴的な前方後円墳への発展の様相を考えさせるものであり、墓制の変遷とともに、被葬者の階層分化・明確化が示唆される。そして、吉原・尾ノ崎両遺跡に共通して見られるのは墓壙内への土器の副葬である。壷や甕が墓壙の壁際に配置される形式が主流であり、大型墓壙では、破砕された土器片が埋土に混在する例も見られる。こうした副葬品の存在は葬送儀礼への意識の変化・深化を示すものと考えられる。ともあれ、以上のことから、弥生時代当時の日高川下流域は、列島において先進的な地域であったとは云える。

【銅鐸について】
 弥生時代の日高川流域での遺跡は下流域に集中しており、特に御坊市域では、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての土器片が法徳寺遺跡および東郷遺跡から出土している。 
 また、日高川水系の斉川中流域、すなわちJR紀勢線御坊駅周辺に広がる標高約6メートルの沖積平野一帯には、複数の遺跡が所在しており、これらは弥生時代から古墳時代、さらに奈良時代にかけて継続して営まれていたと推定される。特に、亀山の東南斜面(標高約70メートル前後)では、土地の開墾に伴い、弥生式土器が広範囲に散布して出土している。この斜面の尾根北側からは、銅鐸3口が破砕された状態で出土しており、これらは「朝日谷銅鐸」と呼ばれている。出土は、1937(昭和12)年2月、亀山山頂から北東に延びる尾根の開墾作業中に3口の銅鐸は重なり合った状態で発見された。いずれも高さ20センチに満たず、装飾性に乏しい小型の素朴な様式を呈しており、「聞く銅鐸」に分類される。これは、紀伊半島西部における銅鐸出土例としては最も古い部類に含まれる。また、当銅鐸出土地周辺からは壺型・甕型の弥生土器が多数出土しており、これらの様相から、当該地は弥生中期から後期にかけての高地性集落の存在を裏付ける根拠となる。加えて、サヌカイト製の有柄石鏃や柱状片刃石斧などの出土もあり、当時の生活文化の様相が示唆される。しかしまた、当地域における銅鐸出土例はこれにとどまらず、1939(昭和14)年、御坊駅と道成寺の間にある小溝から小銅鐸が発見されている。これは上部を欠損した状態であったが、これも高さ20センチほどの小型のものであり、先述、3口の朝日谷銅鐸と同様、古段階のものと云える。 また、日高川町鐘巻の名刹・道成寺に伝来する「鐘巻銅鐸」は、1762(宝暦12)年に道成寺の三重塔建設工事中に出土したとされるものである。この銅鐸は高さ100センチを超え、近畿式に分類される「見る銅鐸」の代表例であり、和歌山県内出土の銅鐸としては最大級のものである。さらに、日高町荊木の里山北斜面(標高約40メートル)の地中約1メートル地点からも、2口の銅鐸が並置された状態で出土している。これらは「荊木銅鐸」と称され、いずれも高さ約80センチの大型銅鐸であり、近畿式「見る銅鐸」に分類される。注目すべきは、この斜面の上方約30メートル地点から、弥生中期から後期にかけての土器片および石器も発見されていることである。これらの事例は、亀山と同様に、荊木にも弥生時代の高地性集落が存在していた可能性を強く示唆している。特筆すべきは、これらの銅鐸出土と高地集落遺構の併存が、紀伊地方における弥生時代後期の政治的・宗教的動態、さらには葬送・祭祀のあり方を考察するうえで重要な資料を提供している点である。特に小型で装飾性に乏しい「聞く銅鐸」と、大型で装飾を伴う「見る銅鐸」の混在は、銅鐸祭祀の地域的変遷の様相について考えさせられる。

2025年3月19日水曜日

20250318 新たな記事作成での調べものをしていて思ったこと

 これまで何回かにわたり、紀伊和歌山の河川流域毎の歴史文化について述べたブログ記事を作成しており、紀ノ川、有田川については既投稿です。そして現在は、日高川流域についての記事作成のための資料をあたり、そして、断片的な文章もいくつか作成しましたが、それらをまとめて投稿に至るまでは、今しばらく時間を要します。また、直近の有田川の記事においてもそうでしたが、調べていますと、これまでの知識が更新されて大変面白いのですが、他方、キリがありません。くわえて、日高川流域には、我が国のある面の歴史や文化において重要な意味を持つと考えられる要素が思いのほかに多く、そしてまた、それらを関連付けた考えなどが思い付くこともあるため、これまでの紀ノ川、有田川での記事作成により暖機運転が為されたのか、時折、20年近く前に修士論文を作成していた時の感覚が甦ります。そして、この感覚とは、さらにそれ以前の、南紀白浜在住時の感覚が基層にあることが想起されました。このように書いていますと、当然と云えば当然であるのでしょうが、しかし、その感覚とは、身体性が伴うものであり、その大気の感じや、薫りなども不図、想起されるといったものであり、感覚としては比較的強いものであると云えます。そういえば、南紀白浜在住時は屋外での記憶が多く、当時、自転車で白浜から現在ブログ記事を作成している日高川流域の最も大きな街である御坊市まで行った時のことが、資料をあたっていて不図、想起されました。その距離は50㎞程度であり、それなりに辛かった記憶がありますが、往路にて御坊市に着くと、市街地をウロウロとしばらく自転車で徘徊して、印象的なものを見つけると、分からないなりに、しばらく見入っていましたが、そうしたものの一つが、前述の資料をあたっている時に不図、想起されたのです。そして、その背景をさらに調べていますと、これまた自分としては大変興味深い関連性を思いつきました。この関連性は、おそらく、さらに資料をあたると、既にどこかに記述があり、新奇性はないと思われるのですが、こうした、資料をあたることによる、自らの記憶の鮮明化からはじまり、新たな仮説を思いつくことは、ある程度知っていると自覚している分野・領域であれば、そこまで多く生じることはないのでしょうが、かなり久しぶりに、この思いつく感覚を覚えました。そして、このことは、おそらく現在作成しているブログ記事に組み込むと思われますが、ともあれ、以前、修士院生当時は、こうした感覚が、ごく普通にあり、またそうであったからこそ、当時、割合多くの文献資料をあたることが出来たのだと思われます。そして、こうした現象とは、周囲の他の院生においても同様であり、また、そうであったからこそ、意見交換や自主的な勉強会が楽しく、さらに自分の専攻とは異なる分野への越境も自然に出来たのではないかと思われるのです。そして、おそらく、そうしたことが出来る期間とは、そこまで長いものではなく、ある程度の年齢にまで至ると、感覚が硬化してしまい困難になってしまうのではないかと思われます。しかし、それでも身につくものは多くなくとも、分野の越境を試みること自体には、それなりの価値があるのだと思われますが、それが生業との兼ね合いにより、あまり価値を見出せなくなるのだと思われます。また、社会全体において、分野の越境に価値を見出すことが出来ない社会とは、あるいは創造的な破壊や進化もまた生じ難くなるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?

2025年3月13日木曜日

20250312 ブログ記事作成方法と記号接地について(最近のブログ記事作成から思ったこと)0313加筆

 ここ数回、紀伊・和歌山での河川流域の歴史文化を題材としたブログ記事を作成してきましたが、おかげさまで、これらは思いのほかに閲覧者数が伸びました。読んでいただいた皆さま、どうもありがとうございます。

 また直近では、有田川流域の歴史文化を題材とした記事を作成しましたが、こちらは、まだ書き足りないと感じる一方で、一段落ついたとも思われることから、このあたりでいったん区切りをつけ、次は日高川流域の歴史文化を主題として作成したいと考えています。とはいえ、日高川流域もまた、紀伊の他の河川と同様、興味深いトピックが多く、それらを記事に取り上げるかの取捨選択で悩んでいます…。

 かつて、修士院生時代に当地域の民俗を研究していたため、手元にはいくらかの資料がありますが、他方、現在ではネット上にも興味深い資料が少なからず存在するため、それらを参照しつつ、さらにChatGPTも援用して、また新たな記事のたたき台(下書き・試案)の作成を検討しています。この手法は近年始めたばかりであり、いまだ慣れていませんが、他方で、ようやく、この手法でも記事作成に集中できるようになってきた感覚もあります。また、そこでの集中の感覚とは、本記事のような独白形式での記事作成時の集中の感覚とは異なります。

 とはいえ、こうした感覚もまた双方の継続によって、いずれ融合し、より大きな集中の感覚へと至るのではないかと思われますが、さて、どうなるのでしょうか? また、こうした集中の感覚の相違とは、作成文章に含まれる知見の身体化の程度、あるいは記号接地の程度の違いに因るのではないかと考えます。

 つまり、自らが即座に運用可能な知見を適宜組み合わせつつ文章を作成するのが、独白形式での作成方法といえます。一方、書籍やネット上の資料を参照しつつ、あるいは短文の切り抜きを集めながら、さらにChatGPTを援用して作成する方法では、示された文章の内容と自分の持つ知見とが噛み合わないことが多々あります。そのため、あらためて自分の知見とするために、さらに別の著作や資料を読み、確認や裏取りを行うのですが、面白いことに、この過程で新たな発見を見出すことが多いため、こちらもまた、それなりに楽しい面もありますが、さきの記号接地の観点からしますと、こちらの作成方法でのほうが乏しいと云えます。しかし、継続して経験を蓄積することにより、いずれ身体化・記号接地に至るのではないかとも感覚的には思われるところです。そして、この過程が、一面において「学び」とも称し得ると考えます。

 さて、先ほどから「記号接地」という言葉をたびたび用いていますが、これは最近ようやく意味を理解して、口語でも比較的頻繁に使うようになったものです。興味深いことに、こうした言葉について、その意味を理解することにより、それまで明確に意識されず、宙ぶらりんであった問題や疑問が、オセロの勝ち筋の局面のように次々とひっくり返ることがあります。直近の例としては、この「記号接地」の概念が挙げられますが、こちらにつきましては、また後日改めて本記事に追記したいと考えています。

 センスのあるなしは別として、私は幼い頃から歴史に関する本、書籍を読み続け、現在また、それに分類される著作を読んでいます。そしてまた、先日、歴史に関しての記号接地について言及したブログ記事を投稿しました。こちらの記事で『歴史とは、新たな発見などにより解釈が変わる可変的なものであるが、他方で、フィクションのなかでの事実は基本的に変わることはない。この対比を通じて、我々の歴史理解とは、身体感覚を伴う直接経験ではなく、研究の積み重ねなどによるものであり、そこから歴史理解については「記号接地」の確実性に疑問が残ると指摘し、さらに我が国では、歴史的事実よりも、それが持つ象徴性の方が重視され、歴史を因果関係の体系ではなく、文化的な「記号」として捉える傾向があることから、象徴の記号としての歴史は、新たな学術的な発見に因らずとも再解釈され続ける。』といったことを述べましたが、そうした事情から歴史を題材としたアニメ、マンガや映画や各種演劇などは、それなりの活気を呈するのですが、しかし、それらの多くは、あくまでも歴史を象徴として扱っていることが多く、時代考証などを十分に行っていないように見受けられます。そして、歴史を題材とした諸作品の国際比較を行うことにより、それぞれの国の歴史に対する姿勢や傾向を看取することが出来るのではないかと考えます。ともあれ、その視座から、我が国は、所謂、先進諸国のなかでは特殊であると云え、端的に「若く・幼い」といった感じを受けます。そして、私見となりますが、この感覚は、さきに述べた歴史理解の記号接地とも結節するのではないかと考えるのです。つまり、歴史理解の記号接地とは、どこまで行っても不確実性を伴うものであるが故に、それをフィクション化することにより、物語として消費していると思われるのです。そして、そうしたフィクションの物語が多産されることにより、不確実性はありながらも実際には過去にあった本当の歴史もまた、そのなかに埋没してしまい、そこから、歴史理解の記号接地なども、たくさんのうちの一つとして、等閑視に近くなってしまったのではないかと思われるのです。そしてまた、おそらく、実際の歴史への記号接地などを試みない状態の方が落ち着く方々の方が、現在の我が国社会では(圧倒的)多数派であると考えます。つまり、本質的に歴史には不確実性が伴うことから、その記号接地などは放棄して、そして同時に探求をも放棄してしまい、曖昧なままの歴史を曖昧なままで娯楽の一要素、背景として歴史を楽しむのが、我が国社会にて主流を成すスタンスであると考えます。しかしながら、不確実性を伴いつつも、実際の歴史を再構築していこうとする努力のなかに、仮にタイムマシンが発明されて、実際の歴史を知ることが出来るようになった場合に生じる記号接地よりも、人間の思考、そして、その後の深化や進化においては重要な何かがあるのではないかと考えます。
 そうしたことを踏まえ、これまでに何度か当ブログにて述べたことではありますが、またあらためて自らの歴史に対する記号接地と思われる経験を以下に述べたいと思います。

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2025年3月2日日曜日

20250301 紀伊半島西部の河川流域の歴史文化についてのブログ記事を作成していて思ったこと

 先日来より、紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を主題としたブログ記事を幾つか作成しています。これは現在も進行中であり、ブログの新規投稿を行わない日も、何かしら文章を作成をしたり、調べものをしたり、あるいは既投稿記事の加筆などをしています。そして、何故、今になり修士課程での研究テーマをまた視座を変えて扱ってみるのかと思い出してみますと、それは過日投稿の『20250206 既投稿記事からの発見と、ブログ記事作成への影響について』にて、これまでの投稿記事は紀伊・和歌山を主題とした記事が多かったと述べ、また現在も、年に二回程度当地を訪問する機会があることから、継続的に当地域に関心があり、私としては比較的文章化し易いのだと思われます。くわえて、冒頭で述べた地域の歴史文化を主題とするブログ記事を作成したり、あるいは作成のための調べものをしていますと、突如として当時の記憶が想起されることが度々ありました。そして、それらの想起された記憶は、作成中の文章や、調べものをしている書籍の記述と関連があるものが多いのですが、それらの想起された記憶と作成する文章とを、さらに混淆させて加筆をしたり、あるいはまた、新たに作成することにより、読み易い、読み難いは関係ないものの、文章に個性あるいはオリジナリティ(独自性)が付与されるのではないかと考えます。また、こうした試みは、以前より試みているChatGPTを用いた文章の作成と組み合わせることにより、以前と異なる方法で、自らの文章を作成することが出来るようになりますので、現在進行中の冒頭テーマでのブログ記事作成は、ここ最近では珍しく、続きを作成するのが少し楽しみです。以前に用いた、さまざまな資料を振り返ることで、以前は見落としていた事柄に気が付いたり、あるいは異なる解釈が生まれることは文章作成の醍醐味と云えます。そして、こうした作業を通じて、単に自らの内面の動きを説明するだけに留まらず、それらを多少は深化させて、さらに、それらを発信できることは、これまで継続してきたことではありますが、やはり、それなりに楽しいものであると云えます…。

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2025年2月21日金曜日

20250220 有田川流域の歴史と文化について(0309加筆)

 和歌山県中北部を東西に流れる有田川は、紀伊山地北部を水源として高野山の麓を流れ紀伊水道へと注ぐ。その流域には縄文時代からの遺跡が複数確認されている。その後、弥生時代への移行、すなわち水稲耕作の普及により、下流域への定住化が進み、当時代を通じ、集落の位置は何度か移動するものの、域内にて継続的に集落が営まれていた。また、当地域からは、銅鐸や銅戈などの弥生時代を特徴付ける青銅製祭器も複数出土している。やがて古墳時代に至ると、ヤマト朝廷と何らかの関係を持つ豪族が当地域を支配していたことが複数の古墳と、それらの副葬品などから示唆される。  
 このように考えてみると、有田川流域は興味深い地域と云える。その理由は、上流部に真言密教本山の高野山があり、その流れが当地域の豊かな自然環境を流れ、ぶどう山椒(ミカン科)や蜜柑といった独特の香気を放つ植物・果実を育み、そして、その最下流部には椒古墳と呼ばれる古墳があるためである。言語化は未だ困難であるものの、そこには何らかの深遠な思想があるのではないかとも思われる...。
 ともあれ、話を戻すと、古墳時代以降も有田川流域にはさまざまな出来事や出来事があり、以降、それらについて時系列的に述べていく。

縄文時代
 有田川流域における縄文時代の遺跡は、主に陸地からごく近い島嶼や有田川沿いの丘陵上に分布しており、縄文草創期から晩期の長期間にわたる土器片などの出土物が確認されている。代表的なものとして鷹島遺跡(有田郡広川町)や地ノ島遺跡(有田市初島町)が挙げられる。また下流域には縄文時代の土器片や石棒が出土した野田地区遺跡、その近くの藤並遺跡からは、縄文草創期から古墳時代以降に至るまでの各時代の遺物が多数出土している。縄文時代のものとしては磨製石斧や石鏃を含む石器・土器片などであるが、そこから、当地域(野田・藤並)が複数の時代にわたり中核的な集落として機能していたことが推察される。そして、紀ノ川下流域での、これと類する遺跡として太田黒田遺跡が挙げられると考える。 
 くわえて、これら縄文時代の遺跡からは鹿や猪の骨も多数出土しており、そこから当時、狩猟において弓矢が使用されていたものと考えられる。また、それらの骨や角を加工した骨角器も出土していることから、漁労にも活用していた可能性が高い。さらに、貝塚も発見されており、海や河川からの資源も重要な食糧源となっていたことが推察される。これらの知見から、当時、有田川流域の人々が自然資源を巧みに活用して生活を営んでいたことが理解出来る。
 さらに、自然資源の活用の興味深い一例として、さきに述べた流域の縄文遺跡から黒曜石製の石器も出土している。黒曜石は火山活動で形成される天然のガラス質の石であり、縄文時代は石器の素材として珍重されていた。しかし、有田川流域には黒曜石の産地が存在しないことから、遠隔地(近くでは奈良県二上山)から、もたらされたと考えられるため、当時、有田川流域の人々が広域な交易ネットワークを持っていたことが示唆される。  
 こうした事例から、有田川流域の縄文時代における人々は、地域の自然環境を活用しつつ、地域間の交易活動も活発に行っていたことが理解出来る。また、鷹島遺跡や藤並遺跡などの遺跡が、それぞれ異なった資源利用や交流の様相を示している点も特徴的と云える。このように、有田川流域での縄文文化は、広域な交易ネットワークを持ちつつ、同時に地域内でも独自の生活文化を形成していたことが遺跡の出土物から理解出来る。

弥生時代
 紀元前300年頃より有田川流域では、水稲耕作を基盤とした社会が形成されていたことが複数の遺跡や出土遺物によって裏付けられている。先述、縄文時代以来の藤並遺跡は、弥生時代においても地域の代表的な集落であり、その遺跡からは整備された水田跡や木製の農具、土器などが多数出土している。一方、有田川下流北岸、有田サンブリッジ北詰周辺に位置する新堂遺跡からは1932年(昭和7年)に「大峯銅鐸(新堂銅鐸)」が出土している。約40cmと32cmの2口の出土銅鐸は、扁平鈕式のもので比較的古段階に属し、地域での祭祀に用いていたものと考えられる。くわえて、当、有田川下流域での出土青銅器で大変興味深いものとして、有田市山地(旧有田郡箕島町)で1916年(大正5年)に大阪湾型(近畿型)銅戈6口が、交叉して3口ずつ重ねられ、儀礼的な埋納状態で出土した事例が挙げられる。同出土地からは約27cmの銅鐸も同伴出土との伝聞もあり、事実であれば、銅鐸と銅戈の同一遺跡での出土例は珍しく、他には兵庫県神戸市の桜ケ丘遺跡から14口の銅鐸と7口の銅戈が出土した事例と2007年に長野県中野市の柳沢遺跡にて銅鐸1口と銅戈7口が出土した事例のみである。また、当地で出土した大阪湾型(近畿型)銅戈は近畿地方南端の出土例であり、これに、同地域の旧吉備中学校校庭遺跡から発見された青銅鏡が弥生時代のものとしては近畿最南端の出土例であったことを加味すると、弥生時代のある時期においては、この有田川流域が銅戈や銅鏡を祀る文化圏の最南端いわば「文化果つるところ」であったと推察できる。さらに1877年(明治10年)有田市千田・野井で約43cmの銅鐸が出土したとの伝聞もある。そして、これらの当地域で出土した一連の青銅器から、当地には、先述の紀ノ川下流域でのそれはまた様相が異なる青銅器祭祀文化があったことが理解できる。以上のことから、有田川流域の弥生時代は、水稲耕作を基軸として展開を見せた農耕社会としてだけでなく、銅鐸や銅戈を用いた独特な祭祀文化を形成し、特に大阪湾沿岸地域との交流により、独自のマージナルな文化圏を築いており、換言すると、有田川流域が弥生時代の近畿交易圏の最南端であり且つ重要な地域であったことが推察される。

古墳時代:概要
 有田川流域は、紀伊半島西部に位置し、古墳時代には紀伊水道に面する交通・交易の要衝として栄えた。この地域は、弥生時代以来の農耕発展を背景に豪族が台頭し、古墳時代に入ると権力を象徴する多様な古墳が築造された。これらの古墳群は、単なる埋葬施設にとどまらず、有田川流域が畿内や東北アジア、さらには四国とも活発な文化交流を行っていたことを示している。なかでも椒古墳(椒浜古墳)、箕島古墳群、天満1号墳、宮原古墳などは、それぞれの地域的特色を反映しつつ、流域全体の社会構造や文化的特徴を明らかにする重要な遺跡と云える。

椒古墳
 有田市初島町浜地区に位置する椒古墳(椒浜古墳)は、有田川流域を代表する前方後円墳と云える。当古墳は5世紀中頃から後半に築造され、後円部は直径約20メートル、前方部は幅約8メートル、長さ約5メートルと推定されている。埋葬施設は、近畿圏においても最初期に属する横穴式石室であり、それまで主流であった竪穴式石室からの移行を示す点で時代の変革を象徴する古墳といえる。
 副葬品としては、虺竜文鏡(銅鏡)、石枕、直刀、甲冑、管玉、六弁花形金銅製飾金具などが出土しているが、特筆すべき出土品は、日本列島では奈良県五條市の猫塚古墳と本古墳の二例しか確認されていない蒙古鉢冑である。この冑は東北アジアの騎馬民族に起源を持ち、同じく紀の川下流域北岸の大谷古墳で出土した馬冑とも類似している。これらの遺物は、椒古墳の被葬者が東北アジアの影響を強く受け、軍事面でも密接な交流を行っていたことを物語っている。
 椒古墳周辺には、かつて複数の古墳が存在していたが、1940年(昭和15年)以降の石油精製工場建設により、その多くが失われた。奇跡的に椒古墳のみが現存し、工業地帯に変貌した今もなお、その存在を伝えている。また、地元にはこの古墳の被葬者を奈良時代の皇族長屋王とする伝承があり、1914年(大正3年)には墳丘上に「長屋王霊蹟之碑」が建立されており、現在も地域住民による例祭が行われ、歴史と信仰が交錯する場所となっている。

箕島古墳群
 有田市箕島地区には、箕島古墳群が存在する。箕島の北西部、東西に延びる丘陵の南斜面に築かれ、1925年(大正14年)の蜜柑畑開墾中に発見された。当古墳群は、地域の支配者層が有田川流域の東部を治め、紀の川地域と文化的に密接な関係を築いていたことを示している。現存する1号墳は、標高約10メートルの丘陵先端部に位置する円墳で、玄室の長さ約2メートル、幅約1.5メートル、高さ約2メートルの横穴式石室を持つ。石室の築造技法は、和歌山市の岩橋古墳群と共通する持ち送り積みの方式であり、かつて埴輪が周囲に巡らされていたと考えられる。このことから、箕島古墳群の被葬者は紀の川地域との結びつきが強く、畿内の影響を受けながら地域を支配した豪族であった可能性が高い。

天満1号墳
 和歌山県有田川町の藤並神社境内に位置する天満1号墳(泣沢女の古墳)は、直径約21~24メートルの円墳で、周囲には幅約3メートルの周溝が巡らされている。埋葬施設は南向きの両袖型横穴式石室で、全長約7.6メートル、玄室の長さ約3.6メートル、幅・高さともに約2.4メートルを測る。石室内からは耳環、ガラス玉、鉄釘、土師器、須恵器などが出土しているが、特に注目されるのは12歳前後の少女のものと推定される歯の発見である。歯の成長段階や摩耗の程度を分析した結果、被葬者が若年の女性であった可能性が極めて高いとされる。一般的に、古墳時代の首長墓では成人男性が葬られることが多いが、天満1号墳のように少女が埋葬された事例は極めて珍しい。このことは、当時の社会構造や身分制度、埋葬の在り方を考える上で重要な手がかりとなる。この古墳は7世紀前半に築造されたと推定され、1958年(昭和33年)には和歌山県指定史跡となった。また、天満1号墳の周辺にも複数の古墳が確認されており、この一帯が当時の有力者層の墓域であったことがうかがえる。天満1号墳は、有田川流域における政治的中心地の象徴であると同時に、埋葬された人物の年齢や性別の特異性から、当時の社会制度や価値観を探る上で極めて貴重な遺跡である。天満1号墳の周辺には、古墳時代の集落跡である藤並遺跡と新堂遺跡が存在し、これらは当時の有田川流域の政治・経済活動を考察する上で重要な役割を果たしている。藤並遺跡では、須恵器、鉄器、銅鐸、農具などが出土しており、ここが単なる集落ではなく官衙的(行政機関的)機能を持つ地域であった可能性が高い。一方で、新堂遺跡では海上交易の拠点としての性格が明確に示される遺物が出土している。有田川河口部に位置するこの遺跡は、当時の物流の中心地であり、外部地域との交易を管理する役割を担っていたと考えられる。これら遺跡の存在からは、有田川流域が単なる地方豪族の支配地ではなく、政治・交易・行政が密接に結びついた多層的な社会構造を持っていたことが読み取れる。特に、椒古墳の被葬者がこの交易を掌握していた可能性もあり、海上交易の利権が地域支配の重要な要素であったことがうかがえる。

宮原古墳
 有田市宮原町滝に位置する宮原古墳は、JR紀勢線紀伊宮原駅の西北方、標高約90メートルのミカン畑の中に存在する。墳丘は失われ、現在は石室の天井石が露出している。かつてこの周辺には3基の古墳があったとされるが、現在確認されているのは2基のみである。宮原古墳の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、紀の川流域に広がる岩瀬千塚古墳群に近い特徴を持つ。特に、玄室の前壁と奥壁が上段にいくにつれて強くせり出し、その上に天井石を架構する方式が採用されており、これは有田川流域以南の地域に見られる特異な造営法である。さらに、この造営法は、紀伊水道を挟んだ徳島県吉野川中流域(吉野川市山川町・美馬市)の古墳とも類似しており、有田川流域が紀伊半島内のみならず、四国、とも文化的なつながりを持っていたことを示唆される。そこから、宮原古墳の造営技法は、紀伊水道を越えた文化交流の痕跡を残している。

中世の有田川流域の歴史文化
 古墳時代以降も有田川流域は政治・宗教・経済の要所として発展し続けてきた。7世紀には全国的な評制の施行により、紀伊国の一部として「あで郡(安諦・阿氐・阿提)」が成立した。しかし、大同元年(806年)平城天皇(安殿親王)の諱(いみな)に類似していることを憚り「在田郡」と改称された。これにより行政の枠組みが整えられ、そして当地域は、さらなる中央との結びつきの強化をはかった。

平安時代
 弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が真言密教の本山を高野山を置くと、有田川流域はその参詣道「高野七口」の一つとして重視されるようになった。特に上流域の蘭島(あらぎ島)周辺は、高野山へ向かう修行僧や参詣者の往来が多かった。また、平安時代の仏教文化が地域に根付き、清水地区には当時の仏像が多く残されている。特に仏像彫刻の技法には都との文化交流の影響が見られる。また、堂鳴海山(どうなるみやま)には10世紀初頭以降建立の寺院の遺構が確認されている。このように、有田川流域は、高野山との関係を基軸として仏教文化が栄えた地域でもあり、その影響は鎌倉時代以降も続いていくこととなる。

鎌倉時代
 10世紀末には、有田川流域には石垣荘(上荘・下荘)が成立し、清水地区は上荘に属した。そして12世紀以降、本家の円満院(近江の三井寺)、領家の寂楽寺(白川喜多院)、そして地頭の湯浅党によって統治する「阿弖河荘(あてがわのしょう)」が成立した。特に地頭である湯浅党の影響は大きく、鎌倉幕府成立後、この一族は源頼朝の側近として活躍し、紀伊国の有力武士団としての地位を確立した。彼らは有田川流域の治安維持や荘園経営を行い、地域の発展に寄与したものと考えられる。しかし、鎌倉時代後期になると統治が揺らぎ、有田川流域でも土地を巡る争いが生じた。特に、高野山は「弘法大師御手印縁起」に記された範囲を本来の寺領であると主張し、近隣の荘園と領有権を巡る対立を深めていった。また、史料には「阿弖河荘上村百姓等片仮名書申状」という訴状が残されており、地元の百姓たちが地頭の湯浅党による暴虐を訴えている。このことから、当時の荘園支配は必ずしも安定していなかったと云える。
 また、鎌倉時代の有田川流域にて重要な人物の一人が明恵上人(みょうえしょうにん)である。明恵は1173年(承安3年)、紀伊国石垣荘(現在の有田川町歓喜寺)に生まれた。父は平重国、母は湯浅宗重の娘であったが、幼くして両親を失い、湯浅党の他門である崎山良貞のもとで育てられた。その後、叔父の上覚を頼り、京都の神護寺に入り、華厳宗や真言宗の教えを学んだ​。明恵は生涯を通じて厳しい修行を重んじ悟りを追求した僧侶であり「紀伊の法然」「紀伊の親鸞」とも称される。明恵の思想は、華厳宗の復興に大きく貢献し1206年(建永元年)には京都の高山寺を再興した。明恵は仏教の戒律を厳守する一方で、夢を通じて仏の教えを受けたとして『夢記(ゆめのき)』を著し、仏道修行の精神を後世に伝えた​。また、有田川流域にも、たびたび訪れて修行を行ったとされており、草庵を営んだ場所は「明恵上人紀州八所遺跡」として現在も遺っている。これらの遺跡は、有田市・有田川町・湯浅町に点在して修行の足跡を伝えている。また、彼の弟子である喜海は、これらに木製の卒塔婆を建立し、後に1344年(康永3年)、弁迂(べんう)によって石造の卒塔婆へと建て替えられた。これらの多くは現在も遺り「明恵紀州遺跡卒塔婆」として国史跡に指定されている​。さらに、明恵の生誕地とされる吉原遺跡周辺では13世紀中頃の掘立柱建物跡が発見されており、当時の集落構造が明らかになっている。また前述の縄文・弥生・古墳時代の記述にもある藤並地区では、13世紀中期、藤並荘の地頭であった藤並氏の居館跡が発掘されており、築造された土塁や堀の遺構が確認されている。そこから、藤並氏も有田川流域において一定の勢力を持っていたことが分かる​。こうして、鎌倉時代の有田川流域は、明恵上人による仏教思想の復興と、湯浅党・藤並氏などの武士団による政治支配が交錯する地となった。その後の南北朝・室町時代には、これらの勢力が戦乱に巻き込まれ、地域の社会構造が変化していくことになる。

室町・戦国時代
 室町・戦国時代の紀伊は、険しい山々と海に囲まれた地形により、外部勢力による侵攻が困難である一方、紀伊国内では国人・寺社勢力がそれぞれの権力を保持していることから、統一が進みにくい状況であった。有田川流域も例外ではなく、室町時代から紀伊国守護を務めた畠山氏をはじめ湯河(川)氏や玉置氏といった国人勢力、さらには高野山や根来寺などの寺社勢力が複雑に絡み合いつつ支配権をめぐる争いが繰り広げられていた。
 この時期、紀伊国守護であった畠山氏は有田川流域に対しても勢力拡大を試みた。しかしやがて、室町幕府の権威が衰退しはじめて畠山氏に内紛が生じると、紀伊国内では在地勢力が自立性を強めていった。特に紀北では寺社勢力が強く、中紀・南紀では国人勢力が勢力を拡大していった。
 こうした時代背景の有田川流域では、畠山氏による名目上の支配が続いていたものの、実際には湯河(川)氏や玉置氏といった国人領主が独自の勢力を保持していた。湯河(川)・玉置両氏は幕府直属の奉公衆としての地位を有し、守護である畠山氏からの影響を受けつつも一定の独立性を保っていた存在であった。奉公衆とは、室町幕府の将軍直属の編成された武士団のことであり、湯河(川)氏は日高郡小松原(現御坊市)を本拠地(出自は道湯川:現田辺市)として、玉置氏は日高郡江川(現日高郡日高川町)を本拠地としていた。また、守護畠山氏の庶流で幕府奉公衆でもあった畠山氏も有田郡宮原(現有田市宮原町)を本拠地とした国人領主であり、戦国時代を生き延びた。これら有力な国人領主の存在は、守護・畠山氏の勢力拡大を阻む要因であった。さらに、先述したが紀伊では、これら国人勢力だけでなく、寺社勢力も強大な影響力を保持していた。高野山、粉河寺、根来寺、熊野三山などの寺社は、広大な荘園を有し、独自の武力を抱えていた。1418年には守護・畠山氏と熊野三山の軍が田辺の支配をめぐり衝突して守護方が大敗している。また、1460年には、同畠山氏と根来寺が灌漑用水の使用をめぐる争いが生じたが、この戦いでも守護方は敗北している。このように紀伊国では在地の国人勢力だけでなく、寺社勢力もまた、戦国期での勢力争いの主要なアクターであった。
 やがて16世紀に入ると、有田川流域の勢力争いでは、国人勢力の湯河(川)直光が、復権をはかる守護・畠山尚順が拠点とした高城城(広城)を急襲して落城させるという事件が生じた。このように地域の勢力図は変転としており、紀伊国内のみならず各国で、このような争いが続いていた。
 そして16世紀も後半に入ると、紀伊国の戦国時代に大きな転機が訪れる。織田信長・豊臣秀吉による紀州侵攻である。1577年には織田信長が雑賀攻めを行い、鉄砲を駆使する雑賀衆と激突。さらに1585年には豊臣秀吉が紀州征伐を行い根来寺や雑賀衆を壊滅させた。この過程で、有田川流域の国人勢力にも大きな変化が生じて、多くが秀吉に降伏した。こうした戦国時代を通じた支配構造の変転、そして二度にわたる紀州侵攻の結果、紀伊国は豊臣政権の直轄地となり、それまでの在地土着の国人・寺社勢力は再編されて、その独立性はほぼ失われた。そして、その後の江戸時代において、紀州藩による統治のもとで有田川流域は新たな時代を迎えた。

江戸時代:概要
 江戸時代の紀伊は、紀伊国と南伊勢を藩領とした紀州徳川家(御三家)が統治した。藩の成立は元和5年(1619年)に徳川家康の十男・頼宣が藩主として入封したことに始まる。藩祖である頼宣は、紀ノ川下流域の和歌山城に大改修を行い本拠地とした。藩の石高は55万5千石と大藩であり、南伊勢の藩領には松坂城に城代を置き、また、御附家老・重臣の安藤氏・水野氏・三浦氏・久野氏は、それぞれ田辺・新宮・紀伊貴志・伊勢田丸に配して統治の強化をはかった。その後、享保元年(1716年)には紀州藩第5代藩主・徳川吉宗が第8代将軍となり、藩士200名以上が幕臣に登用され幕府内での影響力が強化された。他方、藩領内では河川の氾濫や天候不順による飢饉にたびたび見舞われ、享保17年(1732年)の享保飢饉の際には領内の収穫が半減して、幕府からの公金拝借により財政を維持するといった状況が続いた。その後、1700年代末の飢饉が続いた天明年間では、幕府の蔵米の拝借が為され、藩財政は幕府への依存を強めていった。
 また、かつて織豊期には独自の経済基盤により大名と並ぶ実力を有していた領内に古くからある寺社勢力(高野山・熊野三山・日前宮など)は、紀州藩による厳格な支配体制のもとで監視され、寺社領の自主的な運営は制約を受けるようになり、やがて藩の庇護のもとで管理されるようになった。 
 こうした藩による苛酷とも云える支配体制のもと有田川流域では、藩による奨励や支援を受けつつ、農・林・漁業を基軸として発展した。特にみかんの栽培は、藩の後押しもあり、また海運の便を活かし、大都市である江戸に多く出荷されるようになると、藩収入も増え、その財政基盤の強化に大きく貢献した。また、中・上流域の森林から伐り出した木材による林業や加工業もこの時代を通じ発展して、建材や船材の供給源として重要な役割を果たした。そして最下流域の沿岸地域では太刀魚漁が盛んとなり、この時代に夜間の光を用いた漁法が確立された。また、それにより、干物・塩漬けなどの加工業も発展して、それが海運業や商業と結びつき、江戸・大阪などとの交易活動が活発化した。しかしその一方で、有田川は増水により、たびたび氾濫を起こし、その流域に被害をもたらすことも多かった。そのため、寛政5年(1793年)には須谷(すがい)地区(現有田市宮原町)で堤防の補強工事が行われ、また、天保13年(1842年)には、増水時の排水強化のために上田和隧道が建設されるなど、治水事業も行われた。これら事業により、農作物の栽培が安定化して、そして有田川流域は、藩の財政基盤を支える重要な地域となり、またそれは、現代の流域の生活文化を特徴付けるものとなっていると云える。

有田川流域を含む地域一帯での柑橘栽培の歴史
 和歌山県有田川流域および、北隣の海南市を含む地域での柑橘栽培の歴史は、遠く古墳時代にまで遡ることができる。
 『日本書紀』垂仁天皇の御代に田道間守(たじまもり)が常世の国へ遣わされ、不老不死の果実である「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を持ち帰ったという記述がある。この果実こそ我が国最古の柑橘類であり、それを植えたとされるのが、現在の海南市下津町の「六本樹の丘」と伝えられている。この地は「みかん発祥の地」とされて、近くに田道間守を祀る橘本神社が鎮座している。平安時代、熊野詣の際に白河法皇が当地で「橘の本に一夜の仮寝して 入佐の山の月を見るかな」と詠んだと伝えられ、当時既に、橘の故事とともに社殿などの施設があったものと考えられる。そこから、当地域は我が国の柑橘栽培の源流と云え、また同時に、有田川流域を含む紀州・和歌山全体での柑橘栽培を考える上でも重要な意味を持っていると云える。
 ともあれ、田道間守が齎した六本の橘の木は、当地の気候風土に適応しつつ、さまざまな品種が生み、やがて有田川流域を含む紀州全域へと伝播した。有田川流域において、柑橘栽培の記録が現れるのは室町時代に入ってからである。永享年間(1429~1441年)、現在の有田市に位置する糸我稲荷神社の周辺で橘の木が実を結び、その甘みが蜜のようであったことから「蜜柑(みかん)」と称されるようになったと伝えられている。15世紀後半には、山の斜面を利用した栽培が広がり、やがて16世紀に入ると接ぎ木技術が導入され、品種改良が進められた。また、16世紀後半には現在の熊本県八代市から「小みかん」が当地域に持ち込まれ、これがのちに「紀州みかん」の品種のもととなった。そこから、既に戦国時代では有田川流域にて柑橘栽培は定着していたと考えられる。
 17世紀、江戸時代に入ると、有田川流域の柑橘栽培は藩による奨励のもとで更に発展した。これにより、山林の更なる開墾が進み、斜面地を有効活用するために石積みの段々畑が築かれた。斜面地の段々畑は水はけが良く、日当たりが良い環境を確保することができることから、より高品質なみかんの栽培が可能となった。さらに、この時代には甘みの強い品種への改良が為され、また、干鰯(ほしか)や油かすを用いた施肥技術も普及した。
 江戸時代での特筆すべき出来事として、1634年にみかんが初めて江戸へ出荷されたことが挙げられる。これは、有田川流域で栽培された柑橘が、商品作物としての地位を確立し始めたことを意味する。やがて同世紀末には、紀伊国屋文左衛門による大規模なみかんの海上輸送の伝説も生まれた。江戸では長雨による不作のため、みかんが不足しており、紀伊国屋文左衛門は、これを好機を捉え、暴風雨の中を船出して、大量のみかんを江戸に運び込んだとされている。これは史実としては不精確とされているが、当時、紀州のみかんが江戸の市場で評価され、流通量が増大していたことは史実と見て良いと考える。くわえて、蛇足ながら、ある一面での紀州人の性格的な特徴を上手く描いているとも云える。
 また、当時「蜜柑方(みかんがた)」と呼ばれる組織を形成して、みかんを栽培する農民たちが共同出荷を行っていた。蜜柑方は、みかんの品質管理や出荷の調整・輸送手配・販売などを統括して、紀州みかんの価値を向上させる重要な役割を担っていた。こうした、さまざまな環境整備により有田川流域での柑橘栽培は更なる発展を遂げ、江戸時代後期には年間出荷量は約15000トンに達していたとされており、江戸の人々にとって紀州のみかんは冬の定番の果物となり人気を博した。その後、江戸時代末期に至ると、紀州のみかんは江戸のみならず全国的に広まり、その地の食文化に深く根付いていった。そして、それまでの時期に確立された栽培技術や流通システムなどは、後の明治近代化以降、現代に至るまで受け継がれ、我が国有数の柑橘類の産地としての地位を保持している。そこから、有田川流域を含む当地域一帯は、我が国の柑橘栽培の源流をなす地域であり、その歴史により育まれたさまざまな技術や伝統は、今なお活気を保ちつつ、生き続けている。古代にまで至る先人たちの知恵と努力により培われた地域での柑橘栽培の文化は、おそらく今後も永く続いていくものと考えられる。

2025年2月14日金曜日

20250213 紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①

紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①
はじめに
 紀伊半島は列島内でも特に山がちで嶮しく平野が少ない。そして、半島を走る紀伊山地西麓からはじまる複数の河川は、単に自然の地形に沿った流れというものではなく、それら河川流域に住む人々に、時代を通じて、多大な影響を与えてきた。特に水稲耕作が本格的にはじまった弥生時代以降、それぞれの下流域沖積平野には、比較的大きな集落が営まれていたことが、さまざまな遺跡等から確認でき、また、
当時の社会構造や周辺地域との交易関係なども推察できる。
 
 当記事では、紀伊半島を流れる河川について、北から①紀ノ川、②有田川、③日高川、④南部川、⑤富田川と、それぞれの地理的特徴および歴史・文化的な背景を述べる。

①紀ノ川流域について
地理と概要
 紀ノ川は、特に降水量が多いことで知られる奈良県の大台ヶ原山を水源として、和歌山県北部を横断して紀伊水道へ注ぐ全長約136キロメートルの河川である。また、古くから大和(奈良)と紀伊(和歌山)とを結ぶ重要な水路であったことから、大和(奈良)に首府が置かれた時代はもとより、それ以前の水稲耕作がはじまった弥生時代より、その流域は栄えてきた。

弥生時代と銅鐸の出土
 古代より紀ノ川流域は交通の要衝であり、また特に可耕面積が広い下流域は弥生時代より栄えていた。そして、同時代に用いられ、近畿地方・西日本各地で数多く出土する青銅製祭器である銅鐸もまた紀ノ川流域から複数出土しており、その様相はさまざまであるが、紀ノ川以南の富田川までの銅鐸出土例がある主要河川下流域と比較すると、総じて後期大型の銅鐸は、平野部の紀ノ川のごく近く、あるいは中洲などから出土し、対して、初期・中期の比較的小型(~50㎝程度)のものは、集落跡、丘陵地といった平野内陸部から出土する傾向がある。また、これを先述した他の河川流域での出土様相と比較すると「三国志」内「魏志倭人伝」に記述がある「倭国大乱」(2世紀後半)との関連性も検討され得るが、ここでは扱わない。
 ともあれ、一つ興味深い事例を挙げると、弥生時代の紀ノ川下流域にて拠点的な集落であったと考えられる太田黒田遺跡(JR和歌山駅近く、戦国末期、織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの際の抵抗する紀州勢の主要拠点であった太田城の跡も近い)からの出土銅鐸は、当地(紀ノ川南岸)特産の緑泥片岩(紀伊青石)による舌を鐸内部に伴い出土し、またそれは、島根県加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(加茂岩倉4号・7号・19号・22号鐸)と同笵(同一の鋳型で作成)であった。そこから、弥生時代の紀ノ川下流域の社会とは、同時代の出雲地域と、何らかの祭祀文化を共有する関係であったことが示唆され、また、そこから、出雲神話にある大国主(オオナムヂ・大穴牟遅神)が、八十神達からの再度の襲撃を逃れるため、木国(紀伊国)の大屋毘古神(イタケルノミコト・五十猛神)のもとに避難したという話が想起される。

 その後、3世紀代、古墳時代に入ると、紀ノ川下流域においても銅鐸による祭祀は廃され、代わって当時代を代表する古墳が造営されるようになった。また、紀ノ川下流域において造営された古墳において特徴的であるのは、6世紀代(古墳時代後期)以降、我が国にて普及した朝鮮半島あるいは大陸渡来の墓制、横穴式石室を用いた比較的小型ものが圧倒的に多く、また、それらが平野丘陵部に集中し墓域を形成し、いわゆる群集墳となっていることである。そして、この群集墳の盟主的存在が当時、当地の国造であった紀氏であると考えられている。しかし、この紀州での紀氏とは、当群集墳の系だけでなく、同下流域北岸の大谷古墳の被葬者もまた、そうであったと考えられている。大谷古墳は副葬品に、国内で3例のみ出土例がある大陸的要素が強い馬冑があったことで知られ、そこから、当古墳の被葬者が、当時、5世紀代に半島でのヤマト朝廷の軍事活動に従事した人物であったことが示唆される。その他にも同下流域には、特徴的な遺物が出土した古墳があるが、それらの事例から、古代ヤマト朝廷が外征などを行っていた時代の紀ノ川下流域とは、大和盆地から外に進出する際の要衝であったことから、国内外の文物が蓄積し易い環境であったものと考えられる。さらに、この視座は、次の有田川下流域について述べる際にも有用と考える。そしてまた、これまでの記述から、以下に示すコンラッドによる「闇の奥」冒頭部近くの記述を模したブログ記事の作成を試みたのか、ご理解して頂けるのではないかと考える。

『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀ノ川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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