鶴木次郎のブログ
主に面白いと思った記述、考えたことを記します。 自身の備忘録的な目的もあります。
2025年1月27日月曜日
20250127 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳 「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻 pp.280-282より抜粋
「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.280-282より抜粋
ISBN-10 : 4150504644
ISBN-13 : 978-4150504649
難破船とグリーンランドの氷床スコアを利用すれば、初期ローマの経済的拡大を追跡できたのと同じように、その衰退も追跡できる。500年までに、ピーク時に180隻あった難破船は30隻まで減少していた。ローマが衰退すると地中海貿易はすたれた。ローマ時代のレベルに戻るのは、19世紀になってからのことだと主張する学者さえいる。グリーンランドの氷床からも似たような状況が読み取れる。ローマ人は銀でコインを鋳造し、鉛を用いてパイプや卓上食器類といったさまざまなものをつくった。氷床に堆積した鉛、銀、銅の量は、1世紀にピークを迎えたあとで減少したのだ。
ローマ共和国時代の経済成長の経験は、ソ連のような収奪的制度のもとでの成長事例と同じく、印象深いものだった。だが、包括的な一面を持つ制度のもとで起こったことを考慮しても、その成長は限られたものであり、持続しなかった。成長を支えていたのは、比較的高い農業生産性、属州からの相当な貢ぎ物、遠距離貿易などだったが、裏付けとなる技術的進歩や創造的破壊が欠けていたのだ。ローマ人はいくつかの基本的なテクノロジー、すなわち鉄製の道具や武器、読み書きの技能、鋤を使った農業、建築技術などを受け継いでいた。共和国の初期にはそれ以外のものを生み出した。たとえば、セメントを使った石造建築、ポンプ、水車などだ。だがそれ以降、ローマ帝国時代を通じてテクノロジーは停滞した。たとえば海運業では、船の設計や索具装置にほとんど変化はなかったし、ローマ人がオールによる操船術の代わりに船尾舵を開発することは決してなかった。水車の普及は遅々としていたため、水力がローマの経済に革命を起こすこともありえなかった。水道橋や都市下水路といった偉業でさえ、完成させたのはローマ人だが、既存のテクノロジーに頼りある程度の経済成長は可能だったが、それは創造的破壊の伴わない成長だった。こうした成長は長続きしなかった。財産権がさらに不安定になり、市民の経済的権利が政治的権利の後を追うように縮小すると、経済的成長も同じように縮小したのだ。
ローマ時代の新しいテクノロジーに関して注目すべきことは、その創造と普及が国家によって推進されたらしいことだ。これは善いニュースだ。ただし、政府が技術的発展に与しないと決めるまではー創造的破壊への恐怖のせいで、こうした事態はありふれているのだ。
20250126 知的探求の足場としての読書
つい先日、中央公論新社刊 竹中亨著『大学改革』を書店で立ち読みしたところ、大変興味深く思われたたため購入し、現在読み進めています。おそらく、ウェブ上にもあると思われますが、当著作の視座で興味深いところは、比較対象とする大学をアメリカ合衆国ではなく、ドイツ連邦共和国とした点と云えます。そして、文中にある、その理由についての記述も妥当であると考えたことから、さらに読み進めている次第です。
斯様に、現在もいくつかの新書や既読の著作を読んでいますが、冬も深まり寒さのために活性が落ちているのか、これまで、また新たに「それなりにヘビーな著作を読んでみよう」と思うことはありません。しかし、例年、暖かくなってきますと再び読書意欲も活性化しますので、特にあわてる必要はないと考えています。
とはいえ、昨今の読書について振り返りますと、以前にも述べたことがありますが、SNS(X)上の情報から購入した著作が多くなり、SNS使用以前(~2020年)のように、書店での立ち読みから購入に至るケースが減ったと実感しています。そして、そうした書籍選択時の行動の変化によるものなのか、ここ数年は国際情勢の変動に関連した著作を読む機会が多くありました。これらの著作は勉強になり良かったのですが、同時にやはり、そうした読書は少し疲労を感じることもあります。
端的に云えば、ある程度慣れた分野の著作であれば読む際にそれほどストレスを感じませんが、新たな分野の著作を読む場合は、その分野特有の言語に慣れるまで少なからずストレスを感じるものです。これは、近年読んだ中東・東欧を扱った著作の読書の際に度々感じました。しかし一方で、その中に既知の事柄(近現代史上の重要な出来事など)が含まれていると興味が持ち直されて、さらに読み進める意欲が湧いてくるのです。その意味で、ストレスが多い新たな分野での読書の中に、ある程度知っていると自覚できる要素があることは、その書籍を読み進める際に、ある種、理解の足場となるのではないかと考えます。
その意味において、読書という文字体験には、口語やマンガのような表現形態とは異なる種類の影響が精神にあり、それらの影響の蓄積と個々の相互反応が議論となり、さらに統合されて文章となり、学術的な洗練を経て論文などへと昇華されるのではないかと考えます。その意味から、諸学の基盤としての読書、すなわち、書籍を読み、その意味や内容を文章や図などを通じて理解し、実地での検証を試みるまでの行為の中には、人間の知性にとってきわめて重要なものが含まれていると考えます。そしてまた、そうであるからこそ、幕末期に大阪の著名な蘭学塾である適塾出身の方々が、当時のさまざまな方面で活躍することができたのではないかと考えます。
適塾出身の方々は、西洋の学問を取り入れ、それを我が国独自の文脈に応用して、その実力を示しました。そして、そうした我が国の基本的な状況は、現在であっても大きくは変化していないと考えます。しかし同時に昨今では、そうした知識や情報の参照元が、分野によっては西洋ばかりではないといった様相が強くなり、また今後は、さらに流動的になっていくのではないかと思われます。そして、そうした近年の歴史的潮流とは、あるいは数百年に一回程度のものである可能性もあることから、今しばらくは、この状況をもう少し理解するため、異分野の著作であっても出来るだけ読み進めます。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2025年1月26日日曜日
20250125 光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」 pp.69-72より抜粋
pp.69-72より抜粋
ISBN-10 : 4334785204
ISBN-13 : 978-4334785208
現代の日本人の間では親鸞と日蓮がポピュラーで、知識人の間では道元の評判がよい。これらの人たちはそれぞれ、ひたすら一つの方向に徹底していった。それが多くの日本人に好かれる。空海はそう単純じゃない。とくに明治以後の日本知識人には、ものすごく異質的に思われるのです。空海が好きという人は少ない。
-そこからだんだん結論的な話にはいらせていただきたいと思うんですが、われわれは人類史的にみまして偉大な創造的な仕事をした人を天才と称しているわけですが、学問、芸術そのほか創造的な頭脳を発揮した人が出てくるというためには、出てくる社会経済史的な環境がいると思います。弘法大師の場合も、大師と同じくらいの能力をもった人が、大師以前、以後になかったかというと、それは必ずしもそうはいえないと思う。逆に申しますと、もしあっても、あれだけの大きな仕事をする条件が熟していなかったと思います。わたしは環境論にすべてを帰そうとは思いませんが、そういった条件も無視できない。その条件というのは何かといいますと、やはり当時の社会において、かなりの矛盾と危機的状況が進行していたんじゃないか。さきほどの先生のお話ですと、最澄は比叡山の上で何をやったかというと、堕落した奈良仏教と理論闘争をしておったということですけれども、奈良仏教が堕落しておったというのは、当時の社会があの時点で相当混乱しておったわけなのでしょうか。
湯川 ぼくはそのへんの確かなことはわかりませんけれども、要するに奈良は首都として七十年ですか、七代も続いたわけでしょう。だけど、桓武天皇という人は、相当偉い統治者、政治家でしょうね。その時代になりまして、奈良ではあかんというので、場所を捜すと、京都のこの辺がひじょうにいい。そこで移るといっても、長岡京をつくりかけたり、なかなか簡単に移れませんけれども、細かい話は別として、わたしの歴史の見方は怪しいけれども、とにかく、日本の政治体制も社会も、やはり変わりつつある奈良時代の末期に弘法大師は生まれてきて、彼がおとなになったころには、京都が中心になって新しい体制にはいっていくわけですね。ですから、やはり大きな変動期に生れていたといっていいでしょうね。
ーそうしますと、わたしはさきほどから弘法大師に対する多少の疑問があったのですが、つまり空海が護国寺を守ったというのは、一応の変革を終って、堕落した反動的権力だけを護持する国家の教学、宗教を守ったというのではなしに、奈良の古いものを脱ぎ捨てて京都へ遷都してきた国家信仰といえども、なにか前向きの生産的、創造的なものがまだ残っていたとみていいわけでしょうね。
湯川 明治の初めごろに似ておりまして、奈良時代からすでに唐の文物、文化を取り入れるということをやっておりますから、ある程度引き続きですけれども、それがさらに強まるわけです。ただし弘法大師のパトロンは桓武天皇ではなくて、嵯峨天皇ですね。桓武天皇の時代にもかかっておりますけれども、桓武天皇は伝教大師のパトロンと思っていいと思います。次は平城天皇ですが、またその次の嵯峨天皇はひじょうな文化人なんです。教養の高い人で、字なんかもひじょうにうまいですし、中国的教養の非常に高い人です。それをもっと吸収したいというわけで、そうなると、弘法大師という人は、中国的教養全部を身につけているから、大師をひじょうに尊敬するわけです。ですから、パトロンになり、漢詩の贈答をしたり、友だちづきあいをしているわけですよ。だから、中国文化、唐の文化を全面的に吸収している時代でもあるわけです。
ーそうしますと、奈良の東大寺大仏殿の建造のときのように、律令国家がだいぶんあぶなくなって。それを引き締めるために聖武天皇がああいうものをつくったというのとは、社会経済史的背景がだいぶん違いますね。
湯川 どうでしょうかね、よく知りませんが、平安初期というのは教養主義みたいなものが、ひじょうに感じられる時代ですね。
2025年1月23日木曜日
20250123 春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」 pp.85-89より抜粋
ISBN-13 : 978-4861100581
古代には土地はそれぞれの魂をもつと信じられていた。これを国魂と呼んでいる。国魂は国の生命であって、それを身につけたものが、その国の支配者になることができる。どのような権力者であっても、国魂を身につけないと戦いに勝てないし、国魂から見放されれば、その国を支配することもできない。諸国に国魂を祀った神社があるのはそうした考えに基づいている。
琉球の最古の歌謡集「おもろそうし」巻十一には、
島が命
国が命 みおやせ
という言葉が出てくる。これは島や国に命があって、それを奉れ(みおやせ)という意味である。島や国を献上するというのではなく、島の命、国の命を献上するというのであって、明らかに服属のしるしである。島の命を島魂、国の命を国魂と置きかえることができる。島も国も生命をもっていたことは生国とか生島という名を冠した神社があることではっきりしている。
大嘗祭では悠紀・主基の両国から天皇を賛美する風俗歌が献上されたが、その歌には必ず地名が詠みこまれている。それは国の魂を奉ることをあらわに示しているのである。その中で最も古い記録は「古今和歌集」巻二十に見られる仁明天皇の和歌で、「古今和歌集」には五百種入集している。
地名を入れた歌は風俗歌であるが、この風俗歌が勅撰和歌集にとりあげられると、そこで詠みこまれた地名が歌枕になっていく、歌枕の枕は動詞の「まく」と関連があり、神霊の寓する所という意味である、というのが折口説である。ここにおいて歌が地名と切っても切れない由縁をもつことが分かる。
風俗歌はもともと国風(くにぶり)を指している。「風」というのは、「雅」に対してであり、「雅」は宮中の歌、「風」は地方の民謡というのが「詩経」の分類であるが、それはわが国では宮中の大歌、民間の歌の小歌の分類にもあてはまる。
しかし風をフリと詠ませるには別の理由がある。フリはタマフリのフリであって、フリはタマシイを相手に付着させることであると折口は言う。タマフリの歌が省略されて、フリとなった。それを「記紀」では振とか曲という。自分の支配する国の魂を天皇に差し出して身につけて貰うのが国風である。それを歌にしたものが、大嘗祭の風俗歌である。平安以降の大嘗祭でそれを詠むのは宮廷の歌人であったが、古い大嘗祭で風俗歌を奉献するのは土地の人々であった。
タマフリの歌であるクニブリの最後は「万葉集」に見られる東歌である。東国はさいごまで宮廷に抵抗していたから、それの服従を誓うためには国のタマシイをささげねばならなかったと折口は言う。そうであれば東歌に地名がかず多く登場することも、そのそもそもの背景が推察できるのである。東歌の特徴は民謡の色彩が濃厚であり、その表現は直截的である。その率直な歌の中で地名は大きな役割を果たしている。つまり地名はその土地の精霊として登場している。
折口は歌枕の地名を「ライフ・インデキス(生命の指標)」と称している。地名が歌に詠みこまれているということは、「生命の指標」をその歌に活していることになる。とも折口は言っている。
これは枕詞についても言える。枕詞には地名を冠したものが多いが、それは歌の一部になっていて、土地の霊を喚起する重要な役割をもっている。「葦が散る難波」と言えば、そこを訪ねたことのない人間にも昔の難波の情景が思い浮かぶのである。枕詞の枕も歌枕の枕と同断で精霊がよりつき、国魂が寓する。折口によれば、はじめは本縁譚があったのが、だんだん省略されて枕詞だけになったというのである。枕詞も歌枕と同様に「生命の指標」である。
ライフ・インデキスという言葉は折口の発明ではない。バーンの「民俗学概論」に出てくる語で、民族学者の岡正雄は「生命指標」と訳出している。たとえば、ある人の運命が樹木に結びつけられていて、もし樹木が凋むと、それに関係する人は病気にかかる。もしそれを切り倒すと、人は横死するという信仰がインド、西アフリカ、太平洋諸島に見られる。
折口はこの考えを枕詞や歌枕に適用したのである。「文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句」とみずから解説しているが、歌枕や枕詞の地名がそうであったということは、その歌と地名との不可分な関係を強調していることでもある。それをさかのぼれば、それぞれの国には国魂があり、それを密着させることがクニブリであり、それには地名が詠みこまれなければならなかったのである。
クニブリには二通りあった。一つはクニブリの歌であり、もう一つはクニブリの諺であった。諺は上から下へ宜り下す呪文である。それに対して、歌は下の者が上の者への愁訴哀願する内容をもつ。前にも述べたように「うたう」と「うったう」は同根の語である。
折口の呪言の「詞」から諺が発生し、叙事詩の「詞」の部分から歌が発生したと考える。つまり諺と歌は形式も内容も対照的である。諺は最小の偶数形式である二句型式であるが、歌は片歌にせよ短歌にせよ奇数形式であった。偶数形式の言辞が命令を内容とするのに対して、奇数形式はうったえる内容をもったと折口は言う。
風俗歌はクニブリウタと訓み、風俗諺はクニブリノコトワザである。後者は長い地名起源を説く詞章の後に、それを集約するような形であらわれる。クニブリノコトワザが最小になると、枕詞と地名という二句になる。つまり地名の本縁譚は枕詞の中に凝縮されるということから、そこには国魂が寓すると見られるのである。
枕詞や歌枕に見られる地名の重要性を見れば分かるとおり、地名は「うた」にとってはたんなる情景ではなく、その核心の生命を把握している。
2025年1月19日日曜日
2250119 紀州和歌山の食文化について:師匠からのお電話から思ったこと
ともあれ、師匠は紀州和歌山の歴史文化全般に造詣が深く、とりわけ食文化については知る限り随一と云えます。これまでに私が当ブログにて、紀州和歌山の食文化を題材とした記事を複数作成してきましたが、それらで述べたことの大半は、こちらの師匠から学んだものです。しかし、私が紀州和歌山の食文化に能動的な興味を持ち、その価値を認識するようになったきっかけは、それ以前の南紀白浜でのホテル勤務経験にあります。かつて、私が勤務していた白良荘グランドホテルは、地元食材を活かした料理によって高く評価されていました。そこでの勤務では、地域の食文化に触れる機会が多くあり、また、ホテル以外での日常的な食の経験も大変新鮮なものでした。そして、こうした経験を通じて、次第に地域の食文化に対し、さらに、我が国の食文化に対しても、それまでとは異なった視点を持つようになりました。具体的には、紀州和歌山は我が国の食文化に不可欠な醤油や鰹節の発祥地として知られ、さらに梅干しの生産量も全国一を誇ります。こうした我が国の食文化の基軸とも云える重要な食材がこの地で生まれた背景には、その豊かな自然環境と長い歴史の中で育まれた人々の知恵、そしてその結晶である技術があると云えます。また、当地の熊野本宮大社の主祭神である家都御子神が樹木や穀物(食物)の神とされている点も、地域食文化の奥深さを示しているものと考えます。そして、こうした考えや感覚とは、客観的な認識のみでは不十分であり、一定期間その地域に埋没して生活することによってのみ得られると考えます。それ故、書籍や文献資料のみでの調査、学習では不十分であり、実際にその地に住み、その文化に地元の住民として触れることが不可欠であると考えます。そして、そうした経験を経ることにより、やがて地域の諸文化が対自化され、理解が深まるのではないかと考えます。その意味から、紀州和歌山は私にとって、地域のみならず我が国の食文化について再認識させてくれた地域と云えます。
当然ではありますが、食文化をはじめ諸文化は、その地域の歴史文化や自然環境などと密接に結節しており、とりわけ思想文化が全般的に乏しい我が国にあって食文化とは、強い伝統的なアイデンティティを持つものであると云えます。そうした視座から、紀州和歌山の食文化が我が国全体の食文化のなかで、いわば過分とも云えるほどの重要性を持っていることは、端的にこの地域には、過去に対する実直な洞察と、それを積み重ねる努力があったからであると考えます。そうした意味で、私にとって紀州和歌山の経験やそれに基づいた知識や見識は、単なる記憶のみに留まるものでなく、これまでの、そしてまた、これからの活動や発信にも繋がる大切な基盤であると云えます。食文化とは、単に「食べる」という全ての動物が持つ本能的な行為を超えて、地域と、そこに住む人々の営みすなわち諸文化との結節そのものを象徴しており、その中には、積み重ねられた過去だけでなく、未来をも築く力を秘めているのではないかと考えます。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2025年1月15日水曜日
20250114 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.43-46より抜粋
pp.43-46より抜粋
ISBN-10 : 4309467458
ISBN-13 : 978-4309467450
20世紀には、民族主義運動がきわめて重要な政治的役割を果たしたが、この運動は、地球を分割してそれぞれ独立した民族国家にするのを支持する以外には、世界の将来のための首尾一貫したビジョンを持たなかった。インドネシアの民族主義者はオランダの支配と戦い、ヴェトナムの民族主義者は自由なヴェトナムを望んだが、人類全体のためのインドネシアの物語もヴェトナムの物語もヴェトナムの物語もなかった。インドネシアやヴェトナム、その他すべての独立国がどうし連携し、核戦争のようなグローバルな問題に人間はどう対処するべきかを説明する段になると、民族主義者は判で押したように、自由主義か共産主義の考えてに頼るのだった。
だがもし、自由主義と共産主義が今やともに信頼を失ってしまったのなら、ことによると人間は、単一のグローバルな物語という発想そのものを捨てるべきなのか?けっきょく、これらのグローバルな物語はみなー共産主義でさえー西洋の帝国主義の産物だったのではないか?ヴェトナムの村人たちは、トリール生まれのドイツ人とマンチェスターの実業家〔訳注 マルクスとエンゲルスのこと〕の頭脳の所産をどうして信頼しなくてはいけないのか?どの国もそれぞれ、古くからの自国の伝統によって定まる独自の道を選ぶべきなのだろうか?ひょっとしたら、西洋人でさえ趣向を変え、世界を動かそうとするのをやめて内務に専念するべきか>
これは世界中ですでに起こっていると思ってほぼ間違いない。それは、自由主義の崩壊によって残された空白が、過去の局地的な黄金時代にまつわるノスタルジックな夢想によって、とりあえず埋め合わされている結果だ。ドナルド・トランプは、アメリカの孤立主義への呼びかけは、「アメリカを再び偉大にする」という約束と組み合わせたーまるで1980年代あるいは50年代のアメリカが、21世紀にアメリカ人がどうにかして再現するべき完璧な社会であったかのように。EU離脱支持者はイギリスを独立した大国にすることを夢みているーまるで、自分たちが依然としてヴィクトリア女王の時代に生きており、「栄光ある孤立」がインターネットと地球温暖化の時代にとって実用的な政策であるかのように、中国のエリート層は、西洋から輸入した怪しげなマルクス主義のイデオロギーの捕捉として、いや、それどころか代替として、自らに固有の帝国と儒教の遺産を再認識した。ロシアではプーチンの公式ビジョンは腐敗した寡頭制政権の構築ではなく、かつてのロシア帝国を復活させることだ。プーチンはボリシェヴィキによる革命から一世紀を経た今、ロシアのナショナリズムと東方正教会への忠誠心に支えられた独裁政権がバルト海からカフカス地方まで勢力を拡げる。かつての帝政ロシアの栄光へ回帰することを約束している。
民族主義的な愛着と宗教伝統を混ぜ合わせた、同様のノスタルジックな夢が、インドやポーランド、トルコをはじめ、数々の国の政権を支えている。こうした幻想が他のどこよりも極端なのが中東で、そこではイスラム原理主義者が、1400年前にメディナの町に預言者ムハンマドが打ち立てた制度を真似たがっており、その一方で、イスラエルのユダヤ教の原理主義者がイスラム原理主義者さえも凌いで、聖書時代まで2500年もさかのぼることを夢見ている。イスラエルの連立政権は、現代のイスラエルの国境を聖書時代のイスラエルの国境に近づくように拡げることや、旧約聖書の律法を復活させることで、はては、エルサレムでアルアクサ・モスクの代わりに唯一神ヤハウェ(エホバ)の神殿を再建することさえ、公然と語っている。
自由主義のエリート層は、こうした展開をぞっとしながら見守り、大惨事を避けるのに間に合うように、人類が自由主義の道に戻ることを期待している。オバマ大統領は2016年9月、国連での最後の演説で、「国家や部族や人種や宗教どうしを隔てる昔からの境界に沿って明確に分割さて、ついには争いが起こる世界へと」後退してはならないと聴衆に警告した。そうした後退をすることなく、「開かれた市場と責任ある統治、民主主義と人権と国際法の原理が…今世紀における人間の進歩の最も強固な基盤であり続ける」と彼は述べた。
自由主義のパッケージは多くの短所を抱えているとはいえ、他のどんな選択肢と比べても、はるかに優れた実績を持っていると、オバマはいみじくも指摘した。ほとんどの人間は、21世紀初頭における自由主義秩序の庇護の下で享受したほどの平和と繁栄は、かつて経験したことがない。史上初めて、感染症で亡くなる人の数が老衰で亡くなる人の数を下回り、飢餓で命を落とす人の数が肥満で命を落とす人の数を下回り、暴力のせいでこの世を去る人の数が、事故でこの世を去る人の数を下回っている。
だが自由主義は、私たちが直面する最大の問題である生態系の崩壊と技術的破壊に対して、何ら明確な答えを持っていない。自由主義は伝統的に経済成長に頼ることで、難しい社会的争いや政治的争いを魔法のように解決してきた。自由主義は、より大きなパイの取り分を全員に約束して、無産階級を有産階級と、信心深い人を無神論者と、地元民を移住者と、ヨーロッパ人をアジア人と和解させた。パイがつねに大きくなっていれば、それも可能だった。ところが、経済成長はグローバルな生態系を救うことはない。むしろその正反対で、生態系の危機の原因なのだ。そして、経済成長は技術的破壊を解消することもない。破壊的技術をますます多く発明することの上に成り立っているからだ。
2025年1月11日土曜日
20240111 1848年の「諸国民の春」から学ぶ激動する国際情勢と我が国の戦略
2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の世界的流行(パンデミック)は、国際社会にとって大きな転換点であった。このパンデミックにより、各国は急速に内向きな政策を取るようになり、国際協調が試される局面を迎えた。同時に、社会の不平等が顕在化し、政府に対する市民の信頼が揺らぐ事態が頻発した。これらの動きは、1848年にヨーロッパ各地で発生した「諸国民の春」と呼ばれる革命運動に類似していると考える。当時、経済不安や不平等が背景となり、市民は自由や権利を求めて蜂起した。現代においても同様に、パンデミックは社会的亀裂を明らかにし、市民が不満を抱く状況を生み出している。
2022年2月、ロシアはウクライナへの軍事侵攻を開始した。この行動は、現状を武力で変えようとする試みであり、国際秩序に重大な挑戦を突きつけた。ロシアは国際社会から経済制裁を受けながらも、依然としてその意図を貫いている。この動きは、1848年の革命運動において保守勢力が革命の波に直面しつつ権力維持を図った姿勢と共通点があると考える。一方、中国は侵攻を続けるロシアを注意深く観察し、それを分析するなかで、自国の国際的地位を強化する戦略を進めている。中国はロシアとの関係を強調しながら、「一帯一路」構想を通じて中東地域での影響力拡大をはかっており、これまでの欧米主導の国際秩序に対抗する姿勢を強めている。
2023年には、ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃が中東全体の不安定化を招いた。この出来事は、1848年のヨーロッパにおける革命の伝播に似ている。当時、自由や独立を求める運動が複数の地域で同時多発的に広がり、各地の権力構造を揺るがした。同様に、現在の中東情勢も地域全体に広がる緊張を生み出している。さらに、中国による台湾侵攻や南シナ海での軍事行動の可能性も取り沙汰されており、これがアジア太平洋地域に新たな不安をもたらしている。この動きは、19世紀のオーストリア帝国がハンガリーやイタリアに対して武力行使で統一を維持しようとした歴史と重なる部分がある。現在の中国は、台湾問題を巡る国際的圧力と国内ナショナリズムの高まりの間で困難な舵取りを迫られている。
これらの動きは、我が国にも重大な影響を及ぼす。我が国にとって最優先課題は安全保障の強化であると考える。これまでの日米同盟を基盤として、自らの防衛力を高めるとともに、東南アジア・オセアニア諸国との更なる連携強化が求められる。また、経済面においてはサプライチェーンの多角化を進め、中国への依存を軽減する努力が必要と考える。同時に、中国との経済関係も維持しつつ、対立を回避する独自の外交政策を進めることが重要であると考える。
歴史を振り返れば、1848年の革命は多くが直接的には失敗に終わったものの、後のヨーロッパにおける近代化や民主主義の進展に大きく寄与した。同様に、現在の国際社会が直面する混乱も、新たな国際秩序の形成に繋がる可能性が少なからずあると云える。現在、世界が多極的秩序への移行が進むなか、我が国は、国際社会での平和を推進する役割を強化して、地域の安定を維持するために積極的に行動する必要があると考える。
そして、上述の現代の課題に対処するためには、歴史的視座を持つことが不可欠と云える。1848年の革命とその後のヨーロッパの変化を教訓とすることにより、現代の混乱をより深く理解し、新たな秩序を構築するための道筋を明瞭化することが出来るものと考える。そして、こうした歴史的視座に基づいて、我が国は長期的な戦略を構築し、未来への備えを検討することが良策であると考える。
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