2024年10月17日木曜日

20241017 株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」 pp.64-67より抜粋 

株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」
pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

 歴史的には、ナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古の時代のヨーロッパには一八世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現われたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族意識に積極的な理論的基礎づけを与え、その意味において民族主義(principle of nationality: nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは、民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで、以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合わせねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基礎を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的には後進的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を担った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮圧された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディーニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿してした。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存在自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのでないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭をしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸の続く限りこれ(革命)と戦うことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生れたブリトン人」(freedom Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勝となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

20241016 慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋

慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766425197
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766425192

 アダム・スミスが一八世紀末に執筆活動を行っていたとき、西ヨーロッパと東ヨーロッパの繁栄の違いはすでに顕著だった。東に向かうほど繁栄は少なく、封建制は強力になった。封建制は東ヨーロッパでも最も遅く経済の発展が遅れた。封建制は強力になった。封建制は東ヨーロッパで最も遅くまで残ったが、この地域はヨーロッパ大陸で最も経済の発展が遅れた。近代初期に最も勢いのあった二つの経済大国、すなわちオランダとイギリスとは対照的だ。おそらくオランダは農奴制など封建制の影響が最も小さな社会で、ギルドの力は弱く、絶対主義の脅威は一五七〇年代のオランダ革命によって取り除かれた。一方、イギリスではどこよりも早くアンシャンレジームの制度が崩壊した。農奴制は一五〇〇年までに廃止され、ギルドは一六世紀から一七世紀にかけて影響力を失った。教会は、一五三〇年代にヘンリー八世によって土地を没収・売却され、イングランド内戦と名誉革命によって独占状態や絶対王政に終止符が打たれた。そして少なくとも一八世紀はじめには、法の前の平等という概念が定着したのである。

 アンシャンレジームや封建制が早くから崩壊した場所で資本主義市場経済が台頭したことが証拠で裏付けられるなら、実際に古い制度が経済の発展を妨害して甦らせたと判断してよいのだろうか。このような結論を導き出しためには、少なくともふたつの問題が立ちはだかる。まず、アンシャンレジームの衰退と経済的成果の改善は時期が同じかもしれないが、この相関関係は逆の因果関係の結果だったとも考えられる。すなわち、資本主義の発達が封建主義制度衰退の原因であって、その逆ではなかったかもしれないのだ。たとえばアンリ・ピレンヌなど早い世代の学者は、貿易の拡大と商業社会の発達ーマイケル・M・ポスタンによれば「貨幣介在の台頭」-によって封建制の解体は説明できると論じている。

 二番目に考えるのが欠落変数バイアスで、その場合には、アンシャンレジームの衰退も経済成長のはじまりも、ほかの出来事や社会的プロセスの結果とみなされる。経済の制度を変更すべきか否かは社会の集団的決断であり、それはほかの諸要因に左右される。たとえば、イギリスの地理的立地や文化が中世後期に大きな経済的潜在力を生み出し、ひいいてはそれが封建制の深化を決定づけたが、近代に入ると封建制度は社会にそぐわなくなり、重要な因果的役割を果たせず衰退したのかもしれない。

 まさにこのような状況で欠落変数バイアスがどのような影響を生み出すか、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで興味深く論じている。近代初期、イギリスではヨーロッパで最もダイナミックな経済と、最も自由で絶対主義からかけ離れた政治制度が同時に発達した。たとえばダグラス・ノースやバリー・ワインガストらは、経済的成果は政治のイノベーションの直接的結果だと論じているが、ヴェーバーによると、つぎのように反論されることになる。「モンテスキューは「法の精神」のなかでイギリスに関してこう述べている。「イギリス人は三つの重要な事柄ー信仰と商業と自由ーを世界のどの国民よりも進歩させた」。そうなると、イギリスが商業で優位に立ち、自由な政治制度に適応したのは、モンテスキューが指摘している信仰と何らかの関わりがあったと考えられないだろうか」。このようにしてマックス・ヴェーバーは、宗教という欠落変数によってイギリスでの民主主義と資本主義の発達を説明できることを明言している。 

 したがって、アンシャンレジームの崩壊と資本主義の台頭の関係を調べる際には、逆の院が関数と欠落変数バイアスの二つが発生している可能性を認識しなければならない。自然科学では、このような問題を解決するために実験を行う。たとえば、似たような国の集団ーどの国も制度の発達が遅れているなどーを編成したうえで、無作為に選んだ一部の国(「処置」群)ではアンシャンレジームを廃止して、残りの国(「比較」一群)では制度を残して結果を確認できれば理想的だろう。二つの集団の相対的な繁栄に何が生じたか観察することも可能だ。もちろん、実際にそのような実験を行えるわけではない。しかし歴史家や社会科学者は、歴史が時として提供してくれる「自然実験」を利用することができる。

 自然実験においては、何らかの歴史上の偶然や出来事をきっかけに経済・政治・社会的な要因が働いた結果、一部の地域には変化がもたらされるが、一部の地域では条件が同じでも変化が生じなかったと考える。もしも、変化の程度が異なる地域同市の比較が可能だとすれば、変化を経験した地域は実験の処置群、経験しなかった地域は対照群とみなしてよいだろう。

 アンシャンレジームの衰退に関しては、一七八九年のフランス革命後にフランス軍がヨーロッパの大半に侵略した出来事に注目し、それが制度にバリエーションを生み出した原因だったと仮定すれば、自然実験を行うことができる。フランス軍はアンシャンレジームの中心的な制度を廃止した。年貢や特権など、封建制度の遺産の数々を取り除き、ギルドを解散させ、法の前の平等を採用した結果、ユダヤ人にも自由が与えられ、教会の土地は再分配された。この経験に注目すれば、アンシャンレジームを支えてきた重要な制度の一部が経済成長におよぼした影響を推測することができる。ヨーロッパのなかでもフランス軍に侵略されて制度が改革された地域を「処置」群、侵略されなかった地域を「対照」群として分類すればよい。これならば、処置群の制度が改革される前後のふたつのグループの経済的成果を比較したうえで、改革が行われたグループのほうが豊かになっているかどうか調べることができる。それが確認されれば、制度の改革がその後の繁栄に貢献した証拠が提供されるだろう。

2024年10月16日水曜日

20241016 集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻pp.11-13(日本語版への序文)より抜粋

集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻pp.11-13(日本語版への序文)より抜粋
ISBN-10: 4087607372
ISBN-13: 978-4087607376 

 文明の衝突というテーゼは、日本にとって重要な二つの意味がある。第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである。オズワルド・シュペングラーを含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろだったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世期に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にはならなかったのだ。

 第二に、世界のすべての主要な文明には、二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない。さらに、日本のディアスポラ(移住者集団)はアメリカ、ブラジル、ペルーなどいくつかの国に存在するが、いずれも少数で、移住先の社会に同化する傾向がある。文化が提携をうながす世界にあって、日本は、現在アメリカとイギリス、フランスとドイツ、ロシアとギリシャ、中国とシンガポールのあいだに存在するような、緊密な文化的パートナーシップを結べないのである。そのために、日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。その意味で、日本は他の国々がもちえない行動の自由をほしいままにできる。そして、もちろん、本書で指摘したように、国際的な存在になって以来、日本は世界の問題に支配的な力をもつと思われる国と手を結ぶのが自国の利益にかなうと考えてきた。第一次世界大戦以前のイギリス、大戦間の時代におけるファシスト国家、第二次世界大戦後のアメリカである。中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつからざるをえない。これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持するうえで決定的な要因になるだろう。したがって、本書が日本で刊行されることから、日本の人びとのあいだに文明としての日本の性格、多極的で多文明の世界における日本の地位などをめぐって真剣な議論がうながされることを、著者として希望するものである。

                    一九九八年五月

20241015 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138
ISBN-10 ‏ : ‎ 4532176794
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4532176792

 日本は非ヨーロッパの国でありながら、ヨーロッパおよびネオ・ヨーロッパ(アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド)社会と比肩する生活水準、工業化、科学技術を実現した最初の近代国家である。今日の日本は、経済や科学技術の分野のみならず、政治や社会でもヨーロッパやネオ・ヨーロッパと多くの共通点がある。議会制民主主義国家で、識字率が高く、みな洋装である。音楽も、日本の伝統音楽以外に、西洋音楽が楽しまれている。しかし、日本にはいまだにヨーロッパ諸国と違う点が、とくに社会生活や文化で顕著にみられ、その違いはヨーロッパ諸国間でみられる差異よりもはるかに大きい。日本社会に非ヨーロッパ的な面があるのは、驚くべきことではない。日本は西ヨーロッパから一万二〇〇〇キロも離れており、古代から交流のあった近隣のアジア大陸の国々(とくに中国と朝鮮半島)から多大な影響を受けていたのだから、それも当然である。

 一五四二年以前には、ヨーロッパからの影響はまったく日本にもたらされていない。それ以後、一五四二年から一六三九年までのあいだ、ヨーロッパの海外進出にともなう影響がつづいた。(とはいえ、あまりにも遠いせいで、その影響はごく小さくなっていた。現代の日本社会のヨーロッパ的側面は、ほとんどが一八五三年以降に日本にやってきたものだ。もちろん、昔からの日本的なものをすべて西洋的なものに置き換えてしまったわけではない。伝統的な要素は、今も数多く残っている。日本は、ココナッツグローブ大火の被害者や、第二次世界大戦後のイギリスのように、古い自己と新しい自己が混在するモザイクなのだ。本書で取り上げた他の六カ国と比べても、日本のモザイク性は際立っている。

 明治維新以前、日本の実質的支配者は、征夷大将軍と呼ばれる世襲制の軍事独裁者であり、天皇には実権がなかった。一六三九年から一八五三年までのあいだ、江戸幕府は日本人と外国人との接触を制限していた。島国であるという地理的条件の影響もあり、孤立の歴史がつづくことになる。だが、世界地図をざったみて日本とイギリス諸島の地理的条件を比較すると、この孤立の歴史に驚くかもしれない。

 ユーラシア大陸の東西の果てに海に浮かぶふたつの島国は、一見すると地理的条件がそっくりに思える(ちょっと地図をみて確かめてもらいたい)日本とイギリスは面積もほぼ同じようだし、どちらもユーラシア大陸のすぐそばに位置しているから、大陸との関係も当然似たようなものだろうと思われがちだ。だがイギリスがキリスト生誕の頃から大陸勢力に計四回も侵略されているのに対し、日本の一度も大陸勢力に侵略されたことがない。逆に、イギリスは西暦一〇六六年のノルマン・コンクエスト以後、一世紀に一度の割合で大陸に軍を派遣して戦っているが、日本は一九世紀末頃まで、ごく短期間の二度の出兵以外、一度も大陸に軍を派遣したことがない。また、三〇〇〇年前の青銅器時代から、ブリテン島とヨーロッパ大陸のあいだでは活発に交易がおこなわれていた。ヨーロッパ大陸で生産される青銅の原料となる錫は、コーンウォール地方の鉱山が主要輸出元となっていた。一、二世紀前のイギリスは世界でも屈指の貿易大国だった一方で、日本の貿易規模は非常に小さかった。地理的条件から単純に予測されることと明らかに矛盾する。この日英の差はなぜ生じたのだろう?

 この矛盾を説明するためには、もっと詳細に地理的条件をみるのが重要だ。一見、日本とイギリスの面積と隔絶度は似ているが、実際は日本のほうが大陸から五倍遠い(一八〇キロと三五キロ)。また日本はイギリスの一・五倍の面積があり、土地もはるかに肥沃だ。したがって、現在の日本の人口はイギリスの二倍以上で、農作物や木材の生産量と沿岸漁業の漁獲高も日本のほうが多い。近代工業が発展し、石油や鉄鉱石などの金属鉱物の輸入が必要となるまで、日本は必要不可欠な天然資源をほぼ自給でき、外国貿易の必要性は低かったーだが、イギリスはそうではなかった。日本史の特色ともいえる孤立には、以上のような地理的背景があった。一六三九年以降の鎖国は、その傾向を強めたにすぎない。

2024年10月15日火曜日

20241014 2022年2月から身に付いた習慣について

 2020年初頭から本格的に感染が広まった新型コロナ禍以来、2022年2月のロシアによる侵攻で始まった第二次宇露戦争、そして2023年10月からパレスチナのイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの越境攻撃によって勃発した紛争はいまだ収束の兆しを見せていません。そこから、ここ直近の2年間は、1945年の第二次世界大戦終結以降、最も世界情勢が不安定で緊張している期間であると云い得ます。

私自身、こうした状況をできるだけ広く精確に理解したいと考え、2022年の第二次宇露戦争勃発以降、海外報道機関の動画を視聴するようになりました。現在も十分に聴き取れてはいませんが、字幕機能を使ったり、同報道機関によるウェブ記事を読むことで、以前と比べ多少理解できるようにはなってきました。また、それ以前は(わざわざ)海外の報道動画を視聴することはなかったため、ある意味では、学びの機会を得たとも云えます。

とはいえ、これらの動画視聴や記事閲覧は「学び」というよりも、精確な情報収集のために行っているといった感覚です。また「情報を収集してどうなるのか?」と思われるかもしれませんが、情報を集め、自分なりにではあれ、理解が深化してきますと、これまでの経験や読書経験を参照して歴史上の類似あるいは共通する出来事が不図、想起されることが度々あるのです。そして、こうした経緯から、最近「1848年の欧州」に関する引用記事やオリジナル記事をいくつか作成したわけですが、これらは、前述の現在の戦争や紛争に関連する歴史上の出来事として検討してきた結果であると云えます。

そして、上記のように歴史と現在の出来事を関連付ける中で得られた感覚や考えは、当ブログや会話などを通じて発信する機会もありますので、面倒に感じることも多々ありますが、ここ2年半ほどは、世界情勢に即した書籍を読み、海外報道の動画を視聴し続けています。またそれらの具体的な内容につきましては、これまで当ブログにて、いくつか記事を作成しました。

ともあれ、現在の世界情勢は、2020年のコロナ禍以降、急速に悪化しているように見受けられます。また、この悪化は放置すれば自然に改善するものではなく、いずれ大きな国際間の衝突が起こり、関係諸国に甚大な被害が及んだ後、ようやく安定に向かうのではないかと危惧しています。もちろん、こうした予測が杞憂であってほしいと願ってはいますが、東欧や中東での事態の推移を見ていますと、ある程度悲観的に見ておいた方が、この先、どのような展開となっても「まだマシ」であるように思われるのです…。しかし、いずれにしましても今後、事態はどのように進展するのでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2024年10月13日日曜日

20241012 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

 共産主義を理解する上で忘れてはならないのは、それが近代合理主義的な楽観論の極致であることです。しかも、その裏には終末論的楽観論があります。キリスト教の黙示録に典型的に現われていますが、既存の体制が瓦解した後、素晴らしい世の中がやってくるという終末論の世界観は、段階的に経済や社会が改善されていくという普通の楽観論とは異なります。

 その萌芽はマルクスの著書にあります。「経済学・哲学草稿」「経済学批判」「資本論」などの著作があり、近代経済学を批判的に捉え直したマルクスの思想を簡単に紹介するのは不可能ですが、骨子はこれから申し上げるようなことになります。

 資本主義生産の元では、労働者が過剰になり失業が増える。その原因は機械制生産であるのが第一点。次に、失業が生じる状況下では、労働力は買い手市場となり、労働者はますます貧しくなっていく。この「絶対窮乏化」理論がマルクスの思想の根底にあります。そして、生産力は伸びているので、少数の資本家がますます豊かになり、生産力は彼らの経営するところに集中していくと指摘します。

 ところが、労働者は貧しくなっているのですから、購買力は増えず、商品は過剰気味になる。また生産力は向上するが、労働者に対して十分な賃金が払われないので、資本も過剰気味になる。この矛盾を解決するため、具体的には、余剰商品と余剰資本を売り捌くために、列強は帝国主義的に海外進出しますが、問題の解決にはならず、やがて過剰商品により恐慌が起こり資本主義が崩壊する。簡単に言えば、こういうことです。

 先ほどの「終末論的楽観論」がこの図式に存在することを皆さんお気づきでしょう。人間の矛盾した二つの気持ちを満足させる説明のし方がそこにあるのです。一方では、文明が進歩し生産力が上昇する。他方、都市においては貧困がなくならないどころか一層、悲惨さを増している。マルクスが生きた十九世紀はまさにそんな時代でした。

 産業革命後、なぜ都市労働者は苛酷さを強いられたのか、その理由はわかりませんが、一方で、我々が農村労働を長閑なものだと偶像化しがちであるという面はあろうかと思います。実際にやったことがないから、漠然と、自然の中で働くのは楽やろなという気持ちがあるのでしょう。しかし、実際のところ、それを値引きしても、産業革命初期の労働が田園における農業労働よりも苛酷であったことは間違いないでしょう。中世の農業は天気が悪いと休みになりますし、他にもやたらと休日がある。ヨーロッパであれば、キリスト教関連の祝日は一年中ありました。それに比べて、都市では労働時間が増え、工場の劣悪な環境で汚染された空気を吸って働かなければならなかった。当時の記録をみると、一八五〇年代のロンドンなどは言葉で言い表すことができないくらいすごかったようです。十軒長屋がずらっと並び、便所は一つ。衛生状態が悪いので、結核、コレラ、チフスなどの伝染病が時々流行したのもわかります。

 ところが十九世紀のイギリス人も何もしなかったわけではなく、人道主義的にいろいろな工場法を制定しています。それでも、一八七〇年に至るまで平均寿命は五〇歳以下で、ほとんど延びてない。人びとはひどい環境の中で生きていたことがわかります。しかし、そういう状況でも、近代人の頭には「進歩」という理念があり、彼らは「人間は進歩するはずだ」と思っているわけです。

 生産力も伸びているが、世の中に悲惨さも溢れている。それを見たとき、二、三〇〇年前なら、「人間の生活には悲惨さがつきものだ」「しかたがない」と自分を納得させたのだと思います。しかし、近代人は「しかたがない」とは言えない、そう考えられない頭の構造になっていまっている。そうすると、人間がもっと幸せになれるはずだし、世の中が進歩するはずなのに、この現状はなんだという暗澹たる気分になり、それなら、現状の体制を潰して伸びつつある生産力を使い、理想的な社会を作ればいいと考えるのは当然の帰結でしょう。

 マルクス主義者が「科学」と呼んでいる「人間は進歩するはずだ」、「こうすれば世の中は変えることができる」という信念に普通の人間的な共感が結びつくと、それが共産主義になるわけです。そして、そのブロセスの青写真を描くことができる少数者が社会を指導すべきなのだという思考回路を、レイモン・アロンは「終末論的楽観論の極致である」と指摘しています。

 世の中は複雑かつ不思議なもので、いいことが悪くなったり、悪いものがよくなったりすると柔軟に物事を考える立場だと、なかなかこういう発想にはなりません。しかし(人間は進歩すべきで、必ずその方法はある。その青写真は共産主義になる」という固い信念がある人間は、他人の意見には聞く耳を持たず、強引な形で政治を進めることになります。周囲もまた彼の批判ができなくなり、処刑する人も処刑される人も、正しい主義主張と一体のまま死にたいと思うでしょう。

2024年10月11日金曜日

20241010 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 十九世紀の世界の力関係の変化をみると、「西側の人間のもたらした衝撃」がありとあらゆる面に影を落としていることがわかる。この衝撃は、多くの経済関係ー沿岸貿易業者への「非公式な影響」から海運業者、植民者を直接に管理する総督、鉄道建設業者、鉱山会社などーを通じてあらわれたばかりでなく、開拓者、冒険家、宣教師の侵出にも、西側の疾病の伝染にも、西側社会の思想の伝播にもみられるのである。西側の衝撃はーミズーリから西へ、アラル海から南へー大陸の中心部にまで波及し、さらにはアフリカの河口から上流へさかのぼり、太平洋の島づたいに広がっていった。この衝撃の置き土産の一つが、(たとえば)イギリスがインドに残した道路や鉄道網、電信、港湾、都市建築などがあるとするなら、この時代の植民地戦争につきものの流血、暴行、掠奪といった悲劇もその一面である。事実、力と征服にはコルテスの昔からつねにこうした両面があったが、それに拍車がかかったのがこの時代だった。一八〇〇年にヨーロッパが占領し、あるいは支配していた地域は世界の陸地の三五パーセントだったが、一八七八年にはそれが六七パーセントに増え、一九一四年には八四パーセントを超える。

 蒸気エンジンと機械でつくられた道具に代表されるテクノロジーの発達によって、ヨーロッパは経済的にも軍事的にも圧倒的な優位をかちえた。先込め式の銃が銃(撃発雷管、銃身の施条など)の改善は、まさに不吉な前兆であり、元込め式の銃が出現して発射速度が大幅に高まったことは大きな前進となる。そして、ガトリング機関銃、マキシム銃、軽量の野砲が最後の仕上げとなって新たな「火器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべがなくなってしまった。そのうえ、蒸気エンジンを搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、ニジェールやインダス、揚子江などの大きな河川づたいに内陸部にまで入り込むようになる。こうして、移動性と火力とすぐれた甲鉄艦「ネメシス」は一八四一年と四二年のアヘン戦争で活躍し、中国防衛軍を惨憺たる目にあわせて、蹴散らしてしまった。もちろん、物理的に進出の難しい地域(たとえばアフガニスタン)では、西側の軍事帝国主義の侵略が阻まれるし、非ヨーロッパ軍のなかにもーシーク教徒や一八四〇年代のアルジェリア人などのように―新しい兵器や戦術を採用して戦い、激しく抵抗したものもあった。だが、ひらけた地形の国で戦闘が行われれば、西側は機関銃や重火器を配備することができるから、結果は考えるまでもなかった。この戦力の差を最も如実にみせつけることになったのは、十九世紀のオムドゥルマンの戦いだったろう。この戦争ではマキシム銃とリーエンフィールド・ライフル銃を装備したキッチナー軍が、夜が明けてわずか数時間のうちに一万一〇〇〇人のデルウィーシュを倒し、味方はわずか四八人の損害しか出さなかった。この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって、先進国は最も遅れた国々にくらべて五〇倍から一〇〇倍の力を手に入れたことになる。西側諸国の世界支配は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、ここにいたって、その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。