鶴木次郎のブログ
主に面白いと思った記述、考えたことを記します。 自身の備忘録的な目的もあります。
2025年5月2日金曜日
20250501 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.174-176より抜粋
pp.174-176より抜粋
ISBN-10 : 4309229441
ISBN-13 : 978-4309229447
革新派は、伝統や既存の精度や機関を軽視し、より良い社会構造を一から創出する方法を知っていると考える傾向にある。保守派はそれよりも伸長になりがちだ。保守派の主要な見識を言い表した人物として最も有名なのがエドマンド・バーグであり、彼によれば、社会の現実は、革新の擁護者が把握しているよりもはるかに込み入っており、人々はこの世の中を理解して未来を予測するのがあまり得意ではないという。だから、たとえ物事が不当に見えても、あるがままにしておくのが最善であり、もし何らかの変化が避けられないのなら、その変化は限られた範囲でゆっくりと進むべきなのだ。社会は、長い間に試行錯誤を通して積み上げられてきた規則や制度や習慣の複雑な仕組みによって機能する。そうした無数の規則などが、互いにどう結びついているのかは誰にも理解できない。古代からの伝統は馬鹿げていて現状には無関係に見えるかもしれないが、それを廃止すれば、思いがけない問題が生じかねない。逆に、公正で、とうに起こっているべきであるように思えた大変革も、旧来の政治体制が犯したどんな罪よりもはるかに重大な罪につながりうる。ボリシェヴィキが帝政ロシアの多くの不正を改め、完璧な社会を一から創出しようとしたときにどうなったか見てみるといい、というわけだ。
したがって、これまでは保守派であるというのは、政策よりもペースの問題だった。それか特定の宗教やイデオロギーに傾倒しているから保守派となるわけではない。すでに存在し、それなりに機能してきたものなら何であれ維持することに熱心なのが保守派なのだ。保守的ポーランド人はカトリック信徒、保守的なスウェーデン人はプロテスタント、保守的なインドネシア人はイスラム教徒、保守的なタイ人は仏教徒だ。帝政ロシアでは、保守的であるとは皇帝を支持することを意味した。1980年代のソ連では、保守的であるとは共産主義の伝統を支持し、グラスノスチ(情報公開)やペレストロイカ(改革)や民主化に反対することだった。同時期のアメリカでは、保守的であるとはアメリカの民主主義の伝統を支持し、共産主義や全体主義に反対することだった。
ところが2010年代から20年代の初めには、多くの民主社会で保守政党がドナルド・トランプらの非保守的な指導者にハイジャックされ、過激な革命政党に変えられてしまった。アメリカの現共和党のような新種の保守政党は、既存の制度や伝統を維持するために最善を尽くす代わりに、そうした既存のものに強い不信の目を向ける。たとえば、彼らは科学者や公務員、世の中のために働いているその他エリートたちに対して、これまで払って当然だった敬意を退け、彼らを軽蔑の目で見る。選挙のような民主主義の基本的な制度や伝統も同様に攻撃し、選挙での敗北を認めることも、権力を潔く移譲することも拒む。バークの主張するような保守政策とは違い、トランプの打ち出す政策は、既存の制度を破壊し、社会に大変革を起こすことを訴える。バーク流の保守主義が樹立されたのは、バスティーユ牢獄の襲撃が起こったときであり、バークはぞっとしながらこの事件を見守った。ところが2021年1月6日、多くのトランプ支持者は、連邦議会議事堂の襲撃を熱狂しながら見守った。トランプの支持者は、既存の制度は完全に機能不全に陥っているので、打ち壊してまったく新しい構造を一から築き上げる以外に選択肢はないと説明するかもしれないが。だが、この見方は、正しいかどうかにかかわらず、保守派ではなく典型的な革命主義者のものだ。革新派は保守派の自滅にすっかり不意を衝かれ、アメリカの民主党のような革新派の正当は否応なく、旧来の秩序と規制の制度の守護者になった。
なぜこんなことが起こっているのか、確かなことは誰にもわからない。テクノロジーの変化のペースが加速し、それに伴って経済も社会も文化も変わっているため、穏健な保守派の政策が非現実的に見えるようになってしまったからというのが、一つの仮説だ。もし既存の伝統や制度や機関を維持するのが絶望的で、何らかの大変革が避けられないようなら、左派による革命を妨げるには、先手を打って人々を煽動し、右派による革命を起こさせるしかない。これが1920年代から30年代にかけての政治のロジックであり、当時、イタリアやドイツ、スペイン、その他の保守勢力は、ソ連型の左派による革命の機先を制するため(と考えて)過激なファシスト革命を後押しした。
2025年5月1日木曜日
20250430 株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」pp.36-39より抜粋
ー日本の彫刻は宗教彫刻であって、その志向するところは精神的な感動をあたえるにあった。肉体はただ精神の宿る場として、このかぎりにおりてのみとりあげられた。肉体を肉体として表現しようという意欲はなかった。呪縛し魅惑する精神がもっとも宿る肉体の部分は、顔と手である。故に、ここが仏教彫刻の焦点である。ただこれをよりよく表現するためにのみ、顔と手には(そしておそらく胸あたりまでは)実在的にも充実した探求がされている。しかし、他の部分はほとんど顔を手を支える台のようなものであり、肉体としての注意の中に入ってこない。こういう部分の迫真的表現は、できなかったのではない。しようとしなかったのである。技能はあっても、その興味がなかったのである。そして、右の精神的感動の表現のためにもっとも用いられた表情は、荘厳な調和ある相貌のほかに、憤怒と微笑だった。また印を結んだ手の形だった。この神秘主義はさまざまのヴァリエーションをなしているが、この原理は他の原理が入ってきた後代にも、ずっと主流となっている。後代の肉感的であるといわれる彫刻ですら、その意図するところは肉感を通じての神秘感にあった。白鳳のあの完全な肉体への志向は、一つの挿話にすぎなかった。日本人は肉体を肉体としてヨーロッパ風に意識したことは、ほとんどなかった。仏像は人体としてではなく、精神的影響をあたえるものとしてつくられ、肉体を独立した存在として四方八方から立体的に眺めるという気持はなかった。いまのわれわれにとって自明な彫刻感は、おそらく大正時代に入ってはじめて確立したものであろう。だから、われわれが古い彫刻を見るときには、レンズを代え、ピントを別に合わせなくてはならぬー。
この私の臆説は、念裏にすこしづつ醞醸していたのだったが、この釈迦三尊を見たときに決定的なものとなった。
光背を頂点とする大きな三角形の中の、線の音楽の中から、三尊の顔と手が浮き出している。顔と手以外の部分には、実在を再現しようという意図はまったく見られない。体躯は非情な強靭な線の交錯する塊にすぎない。本尊は小さい台の上に坐っているので、蓮茎の上の脇侍と共に宙に浮いているようであり、そのひろく張りだして垂れた裳は着物というよりもむしろ雲のようである。
胸にたれ下ったふしぎに象徴的な襟も、肩にかかっている蕨手形の髪も、光背の渦巻も、すべて線による主観の表現であり、現実を遮断している。そして、抽象的な紋様をくりかえすことによって、直観に限定された方向をあたえ、感情にきびしい統制を加て、意識のうつろいやすい感性の領域からひき離して、絶対世界へと強制している。
本尊の体躯は萎縮して、顔はゴツゴツとして頬骨がつき出て、鼻は平らに、唇はひろく、ほとんどネグロ的な相好である。何となく未開人の呪術師を思わせ、こちらを凝視しながら嘲笑しているようでもある。円満とか慈愛とかいうことからはとおく、むしろ怪奇で醜悪である。
醜とか悪とかグロテスクとかいうことは、つよい力をもっている。むしろ醜の中にこそ、人の心を貫き圧倒するものがある。額から光を放って人をおそれさせはばからせたカインは、強烈な呪縛力をもっていたのであろう。この像も人の心にしみ入るような凝視と蠱惑をもっている。そして、この手!この手はじつに傑作だと思った。両手共に掌を前にむけて、片方は挙げ片方は垂れ、いかにも人を吸引しながらしかも同時に拒否しているようである。中門の遠望にもこれに似た謎のような感じを味わったけれども。
この仏像の前に、飛鳥の人はおそれおののいたことであったろう。一光三体の六つの視線に射すくめられて、ひれ伏したことであったろう。かねてから山の霊や木の霊や生や死のもつ呪力はしっていたが、精神が自立して主体となって、このような超人の俤をとってかれらの前に出現したのは、これがはじめてであったろう。
私にはこの仏像の印象はじつに強烈で、金堂の四天王と共に、暗い神秘主義の絶頂だと思われた。
ところが写真ではー。この三尊は光線を十分にあてた大きな写真で見ると、いずれも若々しく柔和な微笑をたたえている。古拙で純潔で愛らしい。左右の脇侍は、宝物殿の六観音によく似たあどけない子供の顔をしている。私がじかに見たのとはまったく正反対の表情である。その呪縛は畏怖ではなく、情愛である。見ていて心をとろかすようである。
どちらがほんとうなのだろう?
やはり両方がほんとうなのだろう。
この仏像は二重の表情をもっているにちがいない。
2025年4月28日月曜日
20250428 総投稿記事数2330に到達して思ったこと:義務から自然な営みへの変容
さて、今回の記事投稿により、総投稿記事数が2330に到達します。とはいえ、これもあまりキリの良い値ではなく、来る6月22日の当ブログ開始から丸10年になるまでに、さらに20記事ほど追加して2350まで到達ことを今後の目標とします。また、ここ最近は、どうしたわけか、以前ほど投稿記事数に対する拘りがなくなりました。しかし同時にそれは、必ずしも情熱が冷めたというわけではなく、当ブログ以外でも定期的に文章を作成する機会はあることから、文章作成自体に対する情熱や興味は以前と比べますと、たしかに変容したとは云えますが、しかし減衰したとは云えませんし、こうした停滞やプラトーといった時期も、作成期間には度々あって然るべきであると考えます。そしてまた、それが、当ブログが開始から丸10年に到達する直前とも云える時期であれば、なおさらであると考えます。つまり、ともかくも記事を作成する意志を持ち続けていれば、いつかはまた復調出来ると、これまでの経験は語るのです。とはいえ、作成する意志を持っていると自己暗示をかけているだけではダメであることから、こうして、あまり日付けの間隔を空けないようにして、新規での更新が必要であるのだと思われます…。しかし、そこには以前のような逼迫した感覚はありませんので、やはり私のブログにかける情熱や興味は変化したのだと云えます。くわえて、少し以前に集中的に引用記事を作成していた期間がありましたが、これも、現在考えてみますと、自らの文章を作成するに際しても有意義であったと云えます。さらに、以前より運用を試みている汎用化しつつあるChatGPTは、私の場合、(どうにか)継続している当ブログがあったことから、能動的そして継続的に文章作成に援用することが出来ているのだと云えます。こちらに関しては、関連する新書などを読み参考にしている部分も少しはありますが、それ以外は、ほぼ自らの泥縄式の手探りにて文章作成の援用に用いており、また、おそらく相対的に見れば、その上達の程度も遅いのでしょうが、それでも、慣れないながらも手ごたえを感じつつ、新たな文章作成の手法を体感を通じて学習する感覚は新鮮であり、今後、さまざまな文章の作成に用いることが出来るようになれれば良いと考えています。また、ChatGPTは初版が出てきた当初、2022年11月の頃と比較しますと、現在の最新版は、かなり能力の向上が認められますが、それでも、おそらく、こうした個人の意見や所見などの文章の生成はおそらく困難であり、そして、そうした当初にある文章を作成するのは、今後、ChatGPTの性能が大幅に向上したとしても、やはり当分の間は人間であり続けるのではないかと考えます。そして、その当初にある文章を私が(どうにか)作成することが出来るのは、これまでの経験と、そして当ブログの継続があったからであると考えます。
2025年4月25日金曜日
20250424 体調不良と歴史と万葉集から
先月3月は紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を北から順に紀ノ川、有田川と書き進め、そして日高川についてを書き進めるなかで、ある疑問が生じ、その疑問を、近くに控えていた和歌山市での勉強会の際に実地検分しようと考え実行しました。しかし、そこでの観察から、さきの疑問への見解は、たしかに、ある程度明瞭になった感はあるのですが、その明瞭化された見解を組み込み、手を着けていた日高川流域の歴史文化のブログ記事をさきに進めることが出来るのかと問われれば、ことはそう上手くは進まず、それまでの寝不足や季節の変わり目ということもあって体調不良(不定愁訴)となり、新たなブログ記事を作成する気力がなかなか湧いて来ませんでした。それでも、ある種類の公開される記事は定期的に作成しており、また、その文章を作成するための題材探しは日常的に行っていたことから、気力は湧かずとも、それは以前によくあった「スランプ」とは性質が異なると云えます。また、ここ最近のことを思い出しますと、先週の木曜日は所用もあり、また散歩も兼ねて、都内をおそらくは10㎞近く徒歩にて移動し、そして、その翌日、金曜日は幾つかの記事で、計6000文字以上の文章は作成したことから、翌日の土曜日は疲れが出て辛かったという記憶があります。そして本日、木曜日も、おそらく5㎞以上は徒歩で移動し、さらに自転車で6㎞ほど走り、くわえて、読み進めている幾つかの著作も、それぞれ有意に進みましたので、それなりに疲労はしているのでしょうが、本日は自然に新たな記事作成に取り掛かることが出来ました。おそらく、今月初旬からの体調不良(不定愁訴)は、徐々に改善されつつあるのかもしれません。しかし、ある程度の年齢になってから、疲労による体調不良になると、回復するまでに掛かる期間がバカにならなくなるのかもしれません…。ともあれ、また復調しましたら、日高川流域の歴史文化についてのブログ記事を、さらに先に進めたいと考えています。
しかし一方で、日高川流域の歴史文化の資料をあたっていますと、古墳時代末期、万葉集に収録された幾つかの和歌の作者が生きた時代の歴史が想起されてきます。そして、それら和歌の意味と、その作者の後の命運、そしてまた、そのしばらく後の我が国の命運とを併せて考えてみますと、現在の我が国とも通底するものが感じられることもあり、また暗鬱とした気分になります…。そして、その暗鬱とした気分とは、視点を変えてみますと、これまた日高川にまつわる安珍・清姫伝説を一通り理解した後に、おそらくは多くの男性が抱くであろう感情と類似したものであるのではないかと思われました…。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2025年4月23日水曜日
20250422 (株)東京創元社刊 コナン・ドイル著 上野 景福訳『勇将ジェラールの回想』 pp10-13より抜粋
ISBN-13 : 978-4488511012
さて、みなさん、このわたしにいささか敬意を示してくださるのは、ともかく結構なことだ。わたしの栄誉は、これすなわちフランスならびにみなさん方の名誉にほかならないから。今みなさん方の目の前でオムレツを食べ、酒杯を傾けているのは、半白の口髭をたくわえた老軍人とも言えるが、また歴史の一齣でもあるのだ。まだ若造のうちから歴戦の勇士となり、剃刀を使う前から剣の使い方を知り、百戦のうち、ただの一度も敵に背中を見せたことがない英雄ーその最後の生き残りが、このわたしなのですぞ。20年のあいだ、わが軍はヨーロッパ各国に真の戦闘とは、どんなものか、いやというほど知らしてやった。それがひとわたり終わったとき、わが征露の大軍をよく崩壊させたのは、ひとえに寒暖計の仕業であって、銃剣では決してなかった。ベルリン、ナポリ、ウィーン、マドリッド、リスボン、モスクワーわが軍はこの都市全部に馬を進めた。いやまったくの話、も一度繰り返すが、お子さん方に花束を持たせてお寄こしなさい。この耳はフランス軍のラッパの響を聞き、この目は、再び翻ることがなさそうな国国にフランスの軍旗がはためくのを見たのですぞ。
今こうして肘掛け椅子にうとうとすると、勇士たちー緑の軍衣の追撃兵、巨人揃いの胸甲騎兵、ポニャトフスキ将軍麾下の鎗騎兵、白いマントの龍騎兵、黒毛皮の高帽がゆらゆら動く擲弾騎兵などが、次から次へと目の前を通り過ぎ、それから太鼓の低い激しい音が轟き、土煙の舞い上がった渦の中を、かついだ刀剣の合間から、丈の高い戦闘帽をかぶった褐色の顔の列が、長い羽毛をなびかせ、揺り動かしているのが見える。次に馬を進めるのは赤毛のネー将軍、それに顎がブルドッグを思わすルフェーブル将軍、さらにガスコニー地方人らしく、ふんぞり返って歩くランヌ将軍、そして綺羅星のような将軍たちと、派手な飾り羽の最中に、ちらと目にとまったのが、あの人物ーほのかに微笑をたたえ、遠くを見るような目付きをした猫背の男。とたんにわたしの微睡は醒めて、椅子から飛び起き、かすれ声を張りあげ、頼りなく手を指しのばす。ティトー夫人よ、過去の幻影の中に住む老人を笑ってください。
戦争が終わったとき、わたしはれっきとした旅団長で、師団長に昇進するのも間近だった。だが軍人生活の栄光と苦難を物語るのだったら、むしろ若い時分のことに戻ったほうがよさそうだ。ご存じと思うが、配下に多くの部下と軍馬を抱えた将校は、兵員と馬匹の補充から、飼葉の補給、馬丁の面倒、兵舎のことなどに絶えず追いまくられ、敵と対決していない時ですら、毎日の生活が実に厳しいものだ。ところが、やっとこ中尉とか、やりくり大尉といった青年将校時代には、双肩にかかる重さといえば、肩章以外にはなく、拍車をがちゃつかせ、外套をカッコよく靡かせ、酒杯を飲みほし、女に接吻するのも勝手で、頭の中にあることといえば、ただ優雅な生活を楽しむことだけ。思いもかけない冒険を体験をするのは、むしろこの時代なので、これからお聞かせする物語では、この時代のことをしばしば取り上げることになろう。そこで今晩は、わたしが《陰鬱な城》を訪れた顛末と、デュロク少尉の奇妙な使命と、ジャン・カラバンと名乗り、後にストラウベンタール男爵とわかった男の身の毛もよだつ事件をお話ししよう。
まず知っておいていただきたいのは、1807年2月、といえばダンチッヒ陥落の直後、ルジャンドル少佐とわたしはプロシアから四百頭の軍馬を東部ポーランドへ補給する命令を受けた。
厳しい気候に加え、エイローの激戦のため、軍馬の損失がはなはだしく、われらが第十軽騎兵連隊は、軽歩兵連隊に変わってしまう恐れがあった。だから少佐と私は、前線では大いに歓迎されることがわかっていた。しかし、われわれは、はかばかしく前進できなかった。それというのも雪が深くつもり、しかも悪路ときていて、おまけに護衛兵としては前線に復帰する病気上がりの兵員が20人いるだけだった。おまけに飼葉が毎日変わり、ときにはまったくやれないときもあるので、これでは並足より早く馬を動かすことは不可能というものだ。物の本などでは、騎兵は疾風のように、狂乱の駆け足で通過と書いてあるのは知っている。しかしわたしは戦闘を交えること12回にして、わが騎兵旅団がいつも並足で行進し、敵の前だけでは速足で駆けるのに、大いに満足するようになった。これは軽騎兵と追撃兵について言っているのだから、胸甲騎兵や龍騎兵にいたっては、さらにこれに輪をかけて当てはまることになる。
わたしは馬が好きだ。だからあらゆる年齢、色合い、性質の四百頭の馬を配下に持てて、わたしは大満足だった。馬は大部分ポメラニア産だが、ノルマンディやアルザスからのもいて、馬もそれぞれの地方出身の人間の場合と同様に、その性格が違っているのが認められて面白かった。さらに気がついたことは、これはそれ以後もしばしば認められたことだが、馬の性質はその色合いでわかった。気紛れで過敏な神経を持っ、あだっぽい薄い赤褐色から、胆のすわった栗毛まで、そしておとなしい葦毛から、強情な磨墨まで。こんなことはわたしのこれからの話とは、まったく関係はないが、四百頭の馬が最初に出てくるとなると、騎兵将校はどう話を進めていいものやら。私はまず自分の興味をひくものを話題にすることにしている。こうすればみなさんも興味を感じてくださるものと思う。
2025年4月22日火曜日
20250421 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 上 人間のネットワーク」 pp.66-69より抜粋
ISBN-10 : 4309229433
ISBN-13 : 978-4309229430
ネアンデルタール人は、孤立した小さな生活集団を形成して暮らしていた。そしてわかっているかぎりでは、異なる集団どうしが協力することが仮にあったとしても、それは稀で、わずかでしかなかった。石器時代のサピエンスも、数十人から成る小さな生活集団を形成してくらしていた。だが、物語を語るようになると、サピエンスの集団はもう孤立して生きることはなかった。崇拝されている先祖や、トーテム(訳注:部族や氏族などの集団が、自らや祖先と結びついていると考えている自然物や事象)である動物、守護霊などについての物語によって、集団どうしがつながり、物語と共同主観的現実を共有する複数の生活集団が、部族を形成した。それぞれの部族は、何百あるいは何千もの人を結びつけるネットワークだった。 大きな部族に所属していれば、争いが起こったときには明らかに有利だった。500人のサピエンスは、50人のネアンデルタール人を楽に打ち負かすことができた。だが、部族のネットワークには、他にも多くの利点があった。もし私たちが50人の集団で孤立して暮らしていて、普段の生活圏が深刻な旱魃に見舞われたら、多くが飢え死にするかもしれない。よそに移ろうとしたら、敵対的な集団に出くわす可能性が高いし、馴染みの内土地で食べ物や水や(道具の製作用の)燧石を見つけるのにも苦労しかねない。だが、もし自分の集団が部族のネットワークの一部なら、困ったときには集団のうちの少なくとも何人かが、遠く離れた友人たちのもとに行って暮らすことができるだろう。もし共有している部族のアイデンティティが十分に強固なら、彼らは私たちを歓迎し、地元に特有の危険や狩猟採集の場所を教えてくれるだろう。そして、10年か20年後には、今度は私たちが彼らに恩返しできるかもしれない。というわけで、部族のネットワークは、一種の保険の役割を果たした。リスクを、以前よりも多くの人に分散することで最小化したのだ。
サピエンスは平時にさえ、小さな生活集団内の数十人とだけではなく部族ネットワーク全体とも情報を交換し、大きな恩恵を受けることができた。部族内の集団の一つが、前よりも良い槍の穂先の作り方を発見したり、珍しい薬草を使った傷の癒やし方を覚えたり、服を縫うための針を発明したりしたら、その知識を他の集団へと素早く伝えることができた。サピエンスの一人ひとりは、ネアンデルタール人よりも知能が高くなかったかもしれないが、500人のサピエンスがいっしょになれば、50人のネアンデルタール人よりもはるかに高い知能を発揮できた。
これらすべてを可能にしたのが物語だった。物語の力は、唯物論的な歴史解釈には見落とされたり否定されたりすることが多い。特にマルクス主義者は物語のことを、根底にある力関係や物質的な利益を覆い隠す煙幕にすぎないと見る傾向がある。マルクス主義の理論によると、人々はいつも客観的な物質的利害に突き動かされていて、物語を利用するのは、そうした利益を偽装し、競争相手を混乱させるためにすぎないという。たとえば、このような観点に立てば、十字軍の遠征も、第一次世界大戦も、イラク戦争もすべて、宗教や国民主義や自由主義の理想のためではなく、強力なエリートたちの経済的利益のために戦われたことになる。これらの戦争を理解するというのは、神や愛国心や民主主義についての神話的なイチヂクの葉を一枚残らず取りのけ、力関係をむき出しにして眺めることを意味する。
ところが、このマルクス主義の見方はシニカルなだけではなく、間違ってもいる。十字軍の遠征や第一次世界大戦やイラク戦争をはじめ、人間の争いのほとんどで、物質的利益がそれなりの役割を果たしたことは確かではなるものの、それで宗教や国民主義や自由主義の理想が何の役割も果たさなかったことにはならない。しかも、物質的利益だけでは、どの陣営とどの陣営が争ったのかは説明できない。12世紀にフランス、ドイツ、イタリアの地主や商人が団結してレヴァント地方(地中海東岸の地方)の領土と交易路を征服しようとした一方で、フランスと北アフリカの地主や商人が手を組んでイタリアを征服しようとしなかったのはなぜか?そして、2003年にアメリカとイギリスがイラクの油田を征服しようとした一方で、ノルウェーのガス田を征服しようとしなかったのはなぜか?これは、人々の宗教的な信念やイデオロギー上の信念を拠り所としないで、純粋に物質主義的な打算だけで本当に説明がつくのか?
2025年4月19日土曜日
20250418 株式会社文光堂刊 エルンスト・クレッチメル著 相場均 訳『体格と性格』~体質の問題および気質の学説によせる研究~ pp382-384より抜粋
造形芸術の分野でも、詩人における場合とほぼ似通った様式の差異があちこちに見られる。ただこの差異は、技巧教育や詩の流行から受ける影響によって多少共不明瞭になっている。肥満型の循環気質の人に会っては、ハンス・トーマのように、素朴な客観性がみられるし、同じく循環気質でも、フランツ・ハルスの絵には、強烈な生気が、ほしいままに投げ出されているのである。彼はでっぷり肥っていて、「生に対してかなり享楽的」だったと言われている。しかし他方、典型的な分裂気質の人々の場合、フォイエルバッハには形式美をそなえた古典主義が見られるし、ミケランジェロやグリューネヴァルトには、高潮した激情がうかがえるのである。これは全くの分裂気質的な芸術様式であって、その本質的な傾向はすべて、豊かな天分を持った分裂病患者の絵画に現れた芸術感覚に一致している。総括して表現主義と呼ばれるものは、さまざまな心理学的成素を含んでいるが、それらは皆、すでに我々が見た通り、典型的な分裂気質的なものである。1.極端な様式化の傾向、すなわち立体派的要素。
音楽の分野で、これに相当する気質型を分析しようとしても、まず準拠すべき基盤がない。というのは、有名な大作曲家はたいてい、生物学的に複雑な合質を示しているからである。そしてあまり重要でない作曲家については、音楽の専門家だけが、かなりの資料を集めることができるという程度なのである。
学者の型
学者は、後に説く実際活動に生涯を捧げた人々と同様に、たいていの場合、個人心理学的立場から利用できる客観的資料を詩人ほどたくさん残していないものである。その上、彼等においても、すでに我々の知っている事柄が、反復して現われているに過ぎないので、ここでは、極く手短かに扱うことにする。また学者は、少数の傑出した人々は別として、肖像がなかなか手に入り難く、綿密な電気も少ないのである。たとえあっても、それは彼等の仕事や戦いを数えたてたものか、あるいは、一般民衆教化につくした彼等の功績をたたえる読み物にすぎない。
ところで前世紀以来、学者の体型が一般にどのように推移して来たかをみると、興味深い事実がわかる。古い時代、特に神学者、哲学者、法学者にあっては、幅がせまくて長く、しかも彫りの深い、細長方の顔が支配的で、エラスムスや、メランヒトン、スピノザ、カントなどのような容姿が多かったが、19世紀以後は、肥満型が多くなり、特に自然科学の分野にこの傾向が著しい。多くの肖像を集めたものを比較してむると、大まかな標準を得ることができる。例えば私は、神学者や哲学者、法律家などの、非常に特色のある銅版画を集めた。1802年版の肖像画集をしらべてみたが、ちょうど60例のうち、大体35例は細長型の傾向が強い分裂性体格型を示し、約15例は混質が強く不正確であったが、肥満型のものは約9例に過ぎなかった。ところが19世紀の有名な医学者を網羅した挿画入りの医学辞典を調べてみると、特に名を知られた人々のうち、肥満型は約68人、混質ないしは不明瞭なものが約39人、分裂症の範疇に属する体格型は約11人であった。
このように大ざっぱな操作には、どうしてもかなりな誤謬が入りこんで来るものだが、次のような相違だけは、かなりはっきりしているので全く無視するわけにはゆかない。すなわち、古い時代の、主として抽象的形而上学的で、概念的体系的な研究に従事した精神科学者には、細長型の体型を示すことが多く、自然科学者のうちでも、具象的、記述的な分野には、肥満型の体型が多いということである。