今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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先月3月は紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を北から順に紀ノ川、有田川と書き進め、そして日高川についてを書き進めるなかで、ある疑問が生じ、その疑問を、近くに控えていた和歌山市での勉強会の際に実地検分しようと考え実行しました。しかし、そこでの観察から、さきの疑問への見解は、たしかに、ある程度明瞭になった感はあるのですが、その明瞭化された見解を組み込み、手を着けていた日高川流域の歴史文化のブログ記事をさきに進めることが出来るのかと問われれば、ことはそう上手くは進まず、それまでの寝不足や季節の変わり目ということもあって体調不良(不定愁訴)となり、新たなブログ記事を作成する気力がなかなか湧いて来ませんでした。それでも、ある種類の公開される記事は定期的に作成しており、また、その文章を作成するための題材探しは日常的に行っていたことから、気力は湧かずとも、それは以前によくあった「スランプ」とは性質が異なると云えます。また、ここ最近のことを思い出しますと、先週の木曜日は所用もあり、また散歩も兼ねて、都内をおそらくは10㎞近く徒歩にて移動し、そして、その翌日、金曜日は幾つかの記事で、計6000文字以上の文章は作成したことから、翌日の土曜日は疲れが出て辛かったという記憶があります。そして本日、木曜日も、おそらく5㎞以上は徒歩で移動し、さらに自転車で6㎞ほど走り、くわえて、読み進めている幾つかの著作も、それぞれ有意に進みましたので、それなりに疲労はしているのでしょうが、本日は自然に新たな記事作成に取り掛かることが出来ました。おそらく、今月初旬からの体調不良(不定愁訴)は、徐々に改善されつつあるのかもしれません。しかし、ある程度の年齢になってから、疲労による体調不良になると、回復するまでに掛かる期間がバカにならなくなるのかもしれません…。ともあれ、また復調しましたら、日高川流域の歴史文化についてのブログ記事を、さらに先に進めたいと考えています。
しかし一方で、日高川流域の歴史文化の資料をあたっていますと、古墳時代末期、万葉集に収録された幾つかの和歌の作者が生きた時代の歴史が想起されてきます。そして、それら和歌の意味と、その作者の後の命運、そしてまた、そのしばらく後の我が国の命運とを併せて考えてみますと、現在の我が国とも通底するものが感じられることもあり、また暗鬱とした気分になります…。そして、その暗鬱とした気分とは、視点を変えてみますと、これまた日高川にまつわる安珍・清姫伝説を一通り理解した後に、おそらくは多くの男性が抱くであろう感情と類似したものであるのではないかと思われました…。
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さて、みなさん、このわたしにいささか敬意を示してくださるのは、ともかく結構なことだ。わたしの栄誉は、これすなわちフランスならびにみなさん方の名誉にほかならないから。今みなさん方の目の前でオムレツを食べ、酒杯を傾けているのは、半白の口髭をたくわえた老軍人とも言えるが、また歴史の一齣でもあるのだ。まだ若造のうちから歴戦の勇士となり、剃刀を使う前から剣の使い方を知り、百戦のうち、ただの一度も敵に背中を見せたことがない英雄ーその最後の生き残りが、このわたしなのですぞ。20年のあいだ、わが軍はヨーロッパ各国に真の戦闘とは、どんなものか、いやというほど知らしてやった。それがひとわたり終わったとき、わが征露の大軍をよく崩壊させたのは、ひとえに寒暖計の仕業であって、銃剣では決してなかった。ベルリン、ナポリ、ウィーン、マドリッド、リスボン、モスクワーわが軍はこの都市全部に馬を進めた。いやまったくの話、も一度繰り返すが、お子さん方に花束を持たせてお寄こしなさい。この耳はフランス軍のラッパの響を聞き、この目は、再び翻ることがなさそうな国国にフランスの軍旗がはためくのを見たのですぞ。
今こうして肘掛け椅子にうとうとすると、勇士たちー緑の軍衣の追撃兵、巨人揃いの胸甲騎兵、ポニャトフスキ将軍麾下の鎗騎兵、白いマントの龍騎兵、黒毛皮の高帽がゆらゆら動く擲弾騎兵などが、次から次へと目の前を通り過ぎ、それから太鼓の低い激しい音が轟き、土煙の舞い上がった渦の中を、かついだ刀剣の合間から、丈の高い戦闘帽をかぶった褐色の顔の列が、長い羽毛をなびかせ、揺り動かしているのが見える。次に馬を進めるのは赤毛のネー将軍、それに顎がブルドッグを思わすルフェーブル将軍、さらにガスコニー地方人らしく、ふんぞり返って歩くランヌ将軍、そして綺羅星のような将軍たちと、派手な飾り羽の最中に、ちらと目にとまったのが、あの人物ーほのかに微笑をたたえ、遠くを見るような目付きをした猫背の男。とたんにわたしの微睡は醒めて、椅子から飛び起き、かすれ声を張りあげ、頼りなく手を指しのばす。ティトー夫人よ、過去の幻影の中に住む老人を笑ってください。
戦争が終わったとき、わたしはれっきとした旅団長で、師団長に昇進するのも間近だった。だが軍人生活の栄光と苦難を物語るのだったら、むしろ若い時分のことに戻ったほうがよさそうだ。ご存じと思うが、配下に多くの部下と軍馬を抱えた将校は、兵員と馬匹の補充から、飼葉の補給、馬丁の面倒、兵舎のことなどに絶えず追いまくられ、敵と対決していない時ですら、毎日の生活が実に厳しいものだ。ところが、やっとこ中尉とか、やりくり大尉といった青年将校時代には、双肩にかかる重さといえば、肩章以外にはなく、拍車をがちゃつかせ、外套をカッコよく靡かせ、酒杯を飲みほし、女に接吻するのも勝手で、頭の中にあることといえば、ただ優雅な生活を楽しむことだけ。思いもかけない冒険を体験をするのは、むしろこの時代なので、これからお聞かせする物語では、この時代のことをしばしば取り上げることになろう。そこで今晩は、わたしが《陰鬱な城》を訪れた顛末と、デュロク少尉の奇妙な使命と、ジャン・カラバンと名乗り、後にストラウベンタール男爵とわかった男の身の毛もよだつ事件をお話ししよう。
まず知っておいていただきたいのは、1807年2月、といえばダンチッヒ陥落の直後、ルジャンドル少佐とわたしはプロシアから四百頭の軍馬を東部ポーランドへ補給する命令を受けた。
厳しい気候に加え、エイローの激戦のため、軍馬の損失がはなはだしく、われらが第十軽騎兵連隊は、軽歩兵連隊に変わってしまう恐れがあった。だから少佐と私は、前線では大いに歓迎されることがわかっていた。しかし、われわれは、はかばかしく前進できなかった。それというのも雪が深くつもり、しかも悪路ときていて、おまけに護衛兵としては前線に復帰する病気上がりの兵員が20人いるだけだった。おまけに飼葉が毎日変わり、ときにはまったくやれないときもあるので、これでは並足より早く馬を動かすことは不可能というものだ。物の本などでは、騎兵は疾風のように、狂乱の駆け足で通過と書いてあるのは知っている。しかしわたしは戦闘を交えること12回にして、わが騎兵旅団がいつも並足で行進し、敵の前だけでは速足で駆けるのに、大いに満足するようになった。これは軽騎兵と追撃兵について言っているのだから、胸甲騎兵や龍騎兵にいたっては、さらにこれに輪をかけて当てはまることになる。
わたしは馬が好きだ。だからあらゆる年齢、色合い、性質の四百頭の馬を配下に持てて、わたしは大満足だった。馬は大部分ポメラニア産だが、ノルマンディやアルザスからのもいて、馬もそれぞれの地方出身の人間の場合と同様に、その性格が違っているのが認められて面白かった。さらに気がついたことは、これはそれ以後もしばしば認められたことだが、馬の性質はその色合いでわかった。気紛れで過敏な神経を持っ、あだっぽい薄い赤褐色から、胆のすわった栗毛まで、そしておとなしい葦毛から、強情な磨墨まで。こんなことはわたしのこれからの話とは、まったく関係はないが、四百頭の馬が最初に出てくるとなると、騎兵将校はどう話を進めていいものやら。私はまず自分の興味をひくものを話題にすることにしている。こうすればみなさんも興味を感じてくださるものと思う。
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丁度、一週間前に和歌山から戻りましたが、その後、滞在期間およびそれ以前からの睡眠不足によるものか、文章を作成したり書籍を読む気力・意欲が湧きませんでした。おそらく、こうした散文形式のものであれば、多少強いれば作成することは出来たのかもしれませんが、しかし、そうはなりませんでした。
一方、こうした状況は以前にも経験したことがあり、その際には、読めそうな書籍を読み進めて、徐々に調子を取り戻していたことが思い出されます。おそらく、多くの方々がそうであると思われますが、読み易い書籍とそうでない書籍があります。そして、それが何らかのきっかけにより変化することがあります。そして、その変化を「これまでの書籍(文章)を読めなくなってしまった…。」と嘆くのではなく、現時点で読める他の書籍(文章)を探す努力をした方が良いと思われ、その意味においても図書館や書店は大変有益であると考えます。
かつて歯系院生であった頃、一日中、実験や論文の読み込みなどをして帰宅してから就寝までに、大抵の日は、何かしらの人文系の書籍は読んでいました。さらに、それが金曜日であったりすると、原付で丘を下り、オプシアミスミ内の比較的規模の大きい書店で立ち読みなどをすることも少なからずありました。つまり、丸一日、実験などの手作業をしつつ、ある分野の論文などの文章(英文含む)を読んでいても、その後に、興味がある異なる分野の書籍(文章)であれば、ある種レクリエーション感覚で読むことが出来て、そして、そうした文章もまた、ある程度硬質な学術的な著作であっても、楽しむことが出来ていたことは、現在まで(どうにか)継続出来ている当ブログにも、何らかの影響を与えているのではないかと考えます。
つまり、当時は、いや現在もあまり大きくは変わりませんが、あまり経済的な余裕がなかったことから、書籍を読み続け、そしてその後働くようになっても、書籍を読むことが出来なくなると、息苦しさを感じていたものですが、その意味から冒頭で述べた気力・意欲の減退・枯渇とは、やはり何かしらのシグナルであり、それを受容しつつも、他方で読めるものを読もうとする努力、あるいは姿勢は保持した方が、次なる内面でのギア合わせが出来易くなるのではないかと考えます。
そして、このギアが合っている状態で駆動することにより、良い考えや文章が生じるのではないかと思われます。そして、その視座から現在の私は、休止していると云えますが、しかし、こうした散文形式の文章であれば、これまで継続したブログ記事作成の効果から作成することが出来るようですので、引き続き、読める文章を読み、作成することが出来る文章を作成していこうと思います。そして、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
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『ええ、私は昨日の夕方前に関空に着き、そこから南海に乗って(和歌山)市駅まで出て、そこからYT食堂まで少し急いで行き、ほぼ営業時間ギリギリで入ることが出来ました。YTで食事を済ませた後は、ぶらくり丁方面からJR和歌山駅近くの予約していたホテルまで、これも歩いて行きました。今回は残念ながら、いつものホテルが訪問全日では予約出来ずに、仕方なく和駅近くのホテルに予約しましたが、そのチェックアウト時間が早く、本日の勉強会の開始まで多少時間があったことから、丁度、和駅も近いので朝から電車で御坊まで行きました。と云いますのも、実はここ最近紀州・和歌山の河川毎の歴史文化について扱ったブログ記事を作成しておりまして、これまでに北から紀ノ川、有田川についてのブログ記事は投稿しており、現在、日高川について扱ったブログ記事を作成しています。そして、これを作成するために資料をあたっていますと、また以前のように疑問やら仮説が湧いて来まして、それで、その実際のところを見聞しようといった目的があったのです…。かなり久しぶりに和歌山市以南まで行きましたが、御坊駅に着いた時には、ここからさらに南へ50㌔ほど行くと南紀白浜があると思って、何だか感慨深いものがありました。それでも、御坊の空気も和歌山市よりも、さらに自然の薫りが濃厚で、南紀白浜を髣髴とさせました。そういえば、御坊市を含むこのあたりは、日高地方、そして行政単位では御坊市以外のこの一帯から梅で有名なみなべ町までが日高郡に属するのですが、南紀白浜在住時の感覚では、田辺は気軽に行ける隣町であり、そしてその北隣のみなべ町もまた、そこから地続きの同じ文化圏といった感じであったのですが、実は、そのみなべ町も日高郡に含まれていたのだと、この時不図、思い出しました…。ともあれ、御坊に着いて、そこから歩いていくつかの目的地に行き、そこで過日生じた疑問や仮説と照らし合わせて帰路に着き、御坊駅まで考えつつ歩いていて、そこで不図、用水路を渡る小さな橋の上から下を見ますと、その決して広くはない用水路の流れに、大きな鯉が群生していまして、それを見て、衝撃を受けて急に現実に引き戻されたのですが、しかし、それも思い返してみますと、南紀白浜在住時に、そこに棲む生物の大きさに衝撃を受けたことが何度かあったことが想起されました。その一つは、これまでに作成したブログ記事にて扱いましたが、たしか大雨の夕方に一人で車を走らせて、富田川沿いに上富田町から中辺路方面に向かっていますと、ヘッドライトが大きなカエルを照らし出したため、ビックリして車を停め、大雨のなか外に出ますと、ヘッドライドに照らされたその大きなカエルは至って落ち着いており、その様子に何やら畏怖のようなものを感じて、お辞儀をして急いで踵を返したことがありました。こうしたことは、現在話してみますと何やら迷信的で不合理な行動と思われるかもしれませんが、しかし、あの時は何故だがそう思ったのです…。しかし、これもまた考えてみますと、何やら紀州ネタが多い「日本霊異記」(「日本国現報善悪霊異記」)に収録されている説話の様ではないですか…(笑)。あとは、これまた白浜在住時に所用で那智勝浦にあるホテル浦島まで行った時に、このホテルは駐車場から入口まで船で渡ることで有名でして、まあ実際は自動車でも入口まで行けるのですが...。ともあれ私は船に乗るために船着き場にいますと、その桟橋の足元の海中に見えた魚が何であったか忘れてしまいましたが、とにかく大きく感じて不気味に感じたこともありました…。しかしまあ、自然が豊かな南紀ですとカエルや魚だけでなく、人間もまたえらく大きくなることがあるのかもしれません…。そして、そうした一人が和歌山市内に生れ田辺に長く住んだ南方熊楠であったのだと思います。御存知であるとは思いますが、南紀白浜には南方熊楠記念館がありまして、そこには昭和天皇の御製「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を彫った石碑があり、生物学者でもあった昭和天皇は、30年以上前に進講をした南方熊楠をとても印象深く覚えておられたのだと思いますが、そこまで強い印象を与えるほどの博識ぶりとは、やはり、見方によれば大きく成長したものであると思いますので、それらに間に通底する何かがあるのではないかと思います。しかし同時に、この自然の豊かさが、そこに生きる生物全般を大きく生育させていたのは、その生物が土地の産物を食べていたからです。いわば、その土地に生かされていたからです。その点、近代までの遅い陸路と海運の時代までは良かったのですが、その後、鉄道や自動車そして飛行機などで物品が大量に輸送されるようになりますと、他の生物は違いますが、しかし人間は、そうした土地が生み出す生物ではなくなってしまい、大きな物流や情報の網に絡めとられて、かつてのように大きく生育出来なくなり、そして少なくとも精神の方は徐々に小さくなって行ってしまうのではないかと思うのです…。その意味で海運が物流の中心であった時代までは列島の東西を結ぶ要地に位置して、沿海部が長い紀州和歌山は、さまざまな産品が流通して、活発に独自の文化を育んでいたのですが、それが鉄道・自動車道路網が主流になりますと、徐々に血流ならぬ物流が行かなくなり、段々と廃れていってしまい、そして、その様相を、私はこの「失われた30年」で見てきたのではないかと鯉を見た用水路を後にして思い、少し悲しくなってしまいましたね…。いや、しかしこれもまた少し見方を変えてみますと、現在のように世の中が乱れてきた平安後期から末期に熊野詣が盛んになりましたように、こうした状況は紀伊・和歌山が再び陽の目を見る契機となるのではないかとも思われるのですが、しかし、実際のところはどうなるのでしょうか…。まあ、もう少し考えてみます。』