2025年4月4日金曜日

20250403 御坊の用水路で群生する鯉を見て思ったこと

 『ええ、私は昨日の夕方前に関空に着き、そこから南海に乗って(和歌山)市駅まで出て、そこからYT食堂まで少し急いで行き、ほぼ営業時間ギリギリで入ることが出来ました。YTで食事を済ませた後は、ぶらくり丁方面からJR和歌山駅近くの予約していたホテルまで、これも歩いて行きました。今回は残念ながら、いつものホテルが訪問全日では予約出来ずに、仕方なく和駅近くのホテルに予約しましたが、そのチェックアウト時間が早く、本日の勉強会の開始まで多少時間があったことから、丁度、和駅も近いので朝から電車で御坊まで行きました。と云いますのも、実はここ最近紀州・和歌山の河川毎の歴史文化について扱ったブログ記事を作成しておりまして、これまでに北から紀ノ川、有田川についてのブログ記事は投稿しており、現在、日高川について扱ったブログ記事を作成しています。そして、これを作成するために資料をあたっていますと、また以前のように疑問やら仮説が湧いて来まして、それで、その実際のところを見聞しようといった目的があったのです…。かなり久しぶりに和歌山市以南まで行きましたが、御坊駅に着いた時には、ここからさらに南へ50㌔ほど行くと南紀白浜があると思って、何だか感慨深いものがありました。それでも、御坊の空気も和歌山市よりも、さらに自然の薫りが濃厚で、南紀白浜を髣髴とさせました。そういえば、御坊市を含むこのあたりは、日高地方、そして行政単位では御坊市以外のこの一帯から梅で有名なみなべ町までが日高郡に属するのですが、南紀白浜在住時の感覚では、田辺は気軽に行ける隣町であり、そしてその北隣のみなべ町もまた、そこから地続きの同じ文化圏といった感じであったのですが、実は、そのみなべ町も日高郡に含まれていたのだと、この時不図、思い出しました…。ともあれ、御坊に着いて、そこから歩いていくつかの目的地に行き、そこで過日生じた疑問や仮説と照らし合わせて帰路に着き、御坊駅まで考えつつ歩いていて、そこで不図、用水路を渡る小さな橋の上から下を見ますと、その決して広くはない用水路の流れに、大きな鯉が群生していまして、それを見て、衝撃を受けて急に現実に引き戻されたのですが、しかし、それも思い返してみますと、南紀白浜在住時に、そこに棲む生物の大きさに衝撃を受けたことが何度かあったことが想起されました。その一つは、これまでに作成したブログ記事にて扱いましたが、たしか大雨の夕方に一人で車を走らせて、富田川沿いに上富田町から中辺路方面に向かっていますと、ヘッドライトが大きなカエルを照らし出したため、ビックリして車を停め、大雨のなか外に出ますと、ヘッドライドに照らされたその大きなカエルは至って落ち着いており、その様子に何やら畏怖のようなものを感じて、お辞儀をして急いで踵を返したことがありました。こうしたことは、現在話してみますと何やら迷信的で不合理な行動と思われるかもしれませんが、しかし、あの時は何故だがそう思ったのです…。しかし、これもまた考えてみますと、何やら紀州ネタが多い「日本霊異記」(「日本国現報善悪霊異記」)に収録されている説話の様ではないですか…(笑)。あとは、これまた白浜在住時に所用で那智勝浦にあるホテル浦島まで行った時に、このホテルは駐車場から入口まで船で渡ることで有名でして、まあ実際は自動車でも入口まで行けるのですが...。ともあれ私は船に乗るために船着き場にいますと、その桟橋の足元の海中に見えた魚が何であったか忘れてしまいましたが、とにかく大きく感じて不気味に感じたこともありました…。しかしまあ、自然が豊かな南紀ですとカエルや魚だけでなく、人間もまたえらく大きくなることがあるのかもしれません…。そして、そうした一人が和歌山市内に生れ田辺に長く住んだ南方熊楠であったのだと思います。御存知であるとは思いますが、南紀白浜には南方熊楠記念館がありまして、そこには昭和天皇の御製「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を彫った石碑があり、生物学者でもあった昭和天皇は、30年以上前に進講をした南方熊楠をとても印象深く覚えておられたのだと思いますが、そこまで強い印象を与えるほどの博識ぶりとは、やはり、見方によれば大きく成長したものであると思いますので、それらに間に通底する何かがあるのではないかと思います。しかし同時に、この自然の豊かさが、そこに生きる生物全般を大きく生育させていたのは、その生物が土地の産物を食べていたからです。いわば、その土地に生かされていたからです。その点、近代までの遅い陸路と海運の時代までは良かったのですが、その後、鉄道や自動車そして飛行機などで物品が大量に輸送されるようになりますと、他の生物は違いますが、しかし人間は、そうした土地が生み出す生物ではなくなってしまい、大きな物流や情報の網に絡めとられて、かつてのように大きく生育出来なくなり、そして少なくとも精神の方は徐々に小さくなって行ってしまうのではないかと思うのです…。その意味で海運が物流の中心であった時代までは列島の東西を結ぶ要地に位置して、沿海部が長い紀州和歌山は、さまざまな産品が流通して、活発に独自の文化を育んでいたのですが、それが鉄道・自動車道路網が主流になりますと、徐々に血流ならぬ物流が行かなくなり、段々と廃れていってしまい、そして、その様相を、私はこの「失われた30年」で見てきたのではないかと鯉を見た用水路を後にして思い、少し悲しくなってしまいましたね…。いや、しかしこれもまた少し見方を変えてみますと、現在のように世の中が乱れてきた平安後期から末期に熊野詣が盛んになりましたように、こうした状況は紀伊・和歌山が再び陽の目を見る契機となるのではないかとも思われるのですが、しかし、実際のところはどうなるのでしょうか…。まあ、もう少し考えてみます。』