さて、今回の記事投稿により、総投稿記事数が2330に到達します。とはいえ、これもあまりキリの良い値ではなく、来る6月22日の当ブログ開始から丸10年になるまでに、さらに20記事ほど追加して2350まで到達ことを今後の目標とします。また、ここ最近は、どうしたわけか、以前ほど投稿記事数に対する拘りがなくなりました。しかし同時にそれは、必ずしも情熱が冷めたというわけではなく、当ブログ以外でも定期的に文章を作成する機会はあることから、文章作成自体に対する情熱や興味は以前と比べますと、たしかに変容したとは云えますが、しかし減衰したとは云えませんし、こうした停滞やプラトーといった時期も、作成期間には度々あって然るべきであると考えます。そしてまた、それが、当ブログが開始から丸10年に到達する直前とも云える時期であれば、なおさらであると考えます。つまり、ともかくも記事を作成する意志を持ち続けていれば、いつかはまた復調出来ると、これまでの経験は語るのです。とはいえ、作成する意志を持っていると自己暗示をかけているだけではダメであることから、こうして、あまり日付けの間隔を空けないようにして、新規での更新が必要であるのだと思われます…。しかし、そこには以前のような逼迫した感覚はありませんので、やはり私のブログにかける情熱や興味は変化したのだと云えます。くわえて、少し以前に集中的に引用記事を作成していた期間がありましたが、これも、現在考えてみますと、自らの文章を作成するに際しても有意義であったと云えます。さらに、以前より運用を試みている汎用化しつつあるChatGPTは、私の場合、(どうにか)継続している当ブログがあったことから、能動的そして継続的に文章作成に援用することが出来ているのだと云えます。こちらに関しては、関連する新書などを読み参考にしている部分も少しはありますが、それ以外は、ほぼ自らの泥縄式の手探りにて文章作成の援用に用いており、また、おそらく相対的に見れば、その上達の程度も遅いのでしょうが、それでも、慣れないながらも手ごたえを感じつつ、新たな文章作成の手法を体感を通じて学習する感覚は新鮮であり、今後、さまざまな文章の作成に用いることが出来るようになれれば良いと考えています。また、ChatGPTは初版が出てきた当初、2022年11月の頃と比較しますと、現在の最新版は、かなり能力の向上が認められますが、それでも、おそらく、こうした個人の意見や所見などの文章の生成はおそらく困難であり、そして、そうした当初にある文章を作成するのは、今後、ChatGPTの性能が大幅に向上したとしても、やはり当分の間は人間であり続けるのではないかと考えます。そして、その当初にある文章を私が(どうにか)作成することが出来るのは、これまでの経験と、そして当ブログの継続があったからであると考えます。
2025年4月28日月曜日
2025年4月25日金曜日
20250424 体調不良と歴史と万葉集から
先月3月は紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を北から順に紀ノ川、有田川と書き進め、そして日高川についてを書き進めるなかで、ある疑問が生じ、その疑問を、近くに控えていた和歌山市での勉強会の際に実地検分しようと考え実行しました。しかし、そこでの観察から、さきの疑問への見解は、たしかに、ある程度明瞭になった感はあるのですが、その明瞭化された見解を組み込み、手を着けていた日高川流域の歴史文化のブログ記事をさきに進めることが出来るのかと問われれば、ことはそう上手くは進まず、それまでの寝不足や季節の変わり目ということもあって体調不良(不定愁訴)となり、新たなブログ記事を作成する気力がなかなか湧いて来ませんでした。それでも、ある種類の公開される記事は定期的に作成しており、また、その文章を作成するための題材探しは日常的に行っていたことから、気力は湧かずとも、それは以前によくあった「スランプ」とは性質が異なると云えます。また、ここ最近のことを思い出しますと、先週の木曜日は所用もあり、また散歩も兼ねて、都内をおそらくは10㎞近く徒歩にて移動し、そして、その翌日、金曜日は幾つかの記事で、計6000文字以上の文章は作成したことから、翌日の土曜日は疲れが出て辛かったという記憶があります。そして本日、木曜日も、おそらく5㎞以上は徒歩で移動し、さらに自転車で6㎞ほど走り、くわえて、読み進めている幾つかの著作も、それぞれ有意に進みましたので、それなりに疲労はしているのでしょうが、本日は自然に新たな記事作成に取り掛かることが出来ました。おそらく、今月初旬からの体調不良(不定愁訴)は、徐々に改善されつつあるのかもしれません。しかし、ある程度の年齢になってから、疲労による体調不良になると、回復するまでに掛かる期間がバカにならなくなるのかもしれません…。ともあれ、また復調しましたら、日高川流域の歴史文化についてのブログ記事を、さらに先に進めたいと考えています。
しかし一方で、日高川流域の歴史文化の資料をあたっていますと、古墳時代末期、万葉集に収録された幾つかの和歌の作者が生きた時代の歴史が想起されてきます。そして、それら和歌の意味と、その作者の後の命運、そしてまた、そのしばらく後の我が国の命運とを併せて考えてみますと、現在の我が国とも通底するものが感じられることもあり、また暗鬱とした気分になります…。そして、その暗鬱とした気分とは、視点を変えてみますと、これまた日高川にまつわる安珍・清姫伝説を一通り理解した後に、おそらくは多くの男性が抱くであろう感情と類似したものであるのではないかと思われました…。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
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2025年4月23日水曜日
20250422 (株)東京創元社刊 コナン・ドイル著 上野 景福訳『勇将ジェラールの回想』 pp10-13より抜粋
ISBN-13 : 978-4488511012
さて、みなさん、このわたしにいささか敬意を示してくださるのは、ともかく結構なことだ。わたしの栄誉は、これすなわちフランスならびにみなさん方の名誉にほかならないから。今みなさん方の目の前でオムレツを食べ、酒杯を傾けているのは、半白の口髭をたくわえた老軍人とも言えるが、また歴史の一齣でもあるのだ。まだ若造のうちから歴戦の勇士となり、剃刀を使う前から剣の使い方を知り、百戦のうち、ただの一度も敵に背中を見せたことがない英雄ーその最後の生き残りが、このわたしなのですぞ。20年のあいだ、わが軍はヨーロッパ各国に真の戦闘とは、どんなものか、いやというほど知らしてやった。それがひとわたり終わったとき、わが征露の大軍をよく崩壊させたのは、ひとえに寒暖計の仕業であって、銃剣では決してなかった。ベルリン、ナポリ、ウィーン、マドリッド、リスボン、モスクワーわが軍はこの都市全部に馬を進めた。いやまったくの話、も一度繰り返すが、お子さん方に花束を持たせてお寄こしなさい。この耳はフランス軍のラッパの響を聞き、この目は、再び翻ることがなさそうな国国にフランスの軍旗がはためくのを見たのですぞ。
今こうして肘掛け椅子にうとうとすると、勇士たちー緑の軍衣の追撃兵、巨人揃いの胸甲騎兵、ポニャトフスキ将軍麾下の鎗騎兵、白いマントの龍騎兵、黒毛皮の高帽がゆらゆら動く擲弾騎兵などが、次から次へと目の前を通り過ぎ、それから太鼓の低い激しい音が轟き、土煙の舞い上がった渦の中を、かついだ刀剣の合間から、丈の高い戦闘帽をかぶった褐色の顔の列が、長い羽毛をなびかせ、揺り動かしているのが見える。次に馬を進めるのは赤毛のネー将軍、それに顎がブルドッグを思わすルフェーブル将軍、さらにガスコニー地方人らしく、ふんぞり返って歩くランヌ将軍、そして綺羅星のような将軍たちと、派手な飾り羽の最中に、ちらと目にとまったのが、あの人物ーほのかに微笑をたたえ、遠くを見るような目付きをした猫背の男。とたんにわたしの微睡は醒めて、椅子から飛び起き、かすれ声を張りあげ、頼りなく手を指しのばす。ティトー夫人よ、過去の幻影の中に住む老人を笑ってください。
戦争が終わったとき、わたしはれっきとした旅団長で、師団長に昇進するのも間近だった。だが軍人生活の栄光と苦難を物語るのだったら、むしろ若い時分のことに戻ったほうがよさそうだ。ご存じと思うが、配下に多くの部下と軍馬を抱えた将校は、兵員と馬匹の補充から、飼葉の補給、馬丁の面倒、兵舎のことなどに絶えず追いまくられ、敵と対決していない時ですら、毎日の生活が実に厳しいものだ。ところが、やっとこ中尉とか、やりくり大尉といった青年将校時代には、双肩にかかる重さといえば、肩章以外にはなく、拍車をがちゃつかせ、外套をカッコよく靡かせ、酒杯を飲みほし、女に接吻するのも勝手で、頭の中にあることといえば、ただ優雅な生活を楽しむことだけ。思いもかけない冒険を体験をするのは、むしろこの時代なので、これからお聞かせする物語では、この時代のことをしばしば取り上げることになろう。そこで今晩は、わたしが《陰鬱な城》を訪れた顛末と、デュロク少尉の奇妙な使命と、ジャン・カラバンと名乗り、後にストラウベンタール男爵とわかった男の身の毛もよだつ事件をお話ししよう。
まず知っておいていただきたいのは、1807年2月、といえばダンチッヒ陥落の直後、ルジャンドル少佐とわたしはプロシアから四百頭の軍馬を東部ポーランドへ補給する命令を受けた。
厳しい気候に加え、エイローの激戦のため、軍馬の損失がはなはだしく、われらが第十軽騎兵連隊は、軽歩兵連隊に変わってしまう恐れがあった。だから少佐と私は、前線では大いに歓迎されることがわかっていた。しかし、われわれは、はかばかしく前進できなかった。それというのも雪が深くつもり、しかも悪路ときていて、おまけに護衛兵としては前線に復帰する病気上がりの兵員が20人いるだけだった。おまけに飼葉が毎日変わり、ときにはまったくやれないときもあるので、これでは並足より早く馬を動かすことは不可能というものだ。物の本などでは、騎兵は疾風のように、狂乱の駆け足で通過と書いてあるのは知っている。しかしわたしは戦闘を交えること12回にして、わが騎兵旅団がいつも並足で行進し、敵の前だけでは速足で駆けるのに、大いに満足するようになった。これは軽騎兵と追撃兵について言っているのだから、胸甲騎兵や龍騎兵にいたっては、さらにこれに輪をかけて当てはまることになる。
わたしは馬が好きだ。だからあらゆる年齢、色合い、性質の四百頭の馬を配下に持てて、わたしは大満足だった。馬は大部分ポメラニア産だが、ノルマンディやアルザスからのもいて、馬もそれぞれの地方出身の人間の場合と同様に、その性格が違っているのが認められて面白かった。さらに気がついたことは、これはそれ以後もしばしば認められたことだが、馬の性質はその色合いでわかった。気紛れで過敏な神経を持っ、あだっぽい薄い赤褐色から、胆のすわった栗毛まで、そしておとなしい葦毛から、強情な磨墨まで。こんなことはわたしのこれからの話とは、まったく関係はないが、四百頭の馬が最初に出てくるとなると、騎兵将校はどう話を進めていいものやら。私はまず自分の興味をひくものを話題にすることにしている。こうすればみなさんも興味を感じてくださるものと思う。
2025年4月22日火曜日
20250421 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 上 人間のネットワーク」 pp.66-69より抜粋
ISBN-10 : 4309229433
ISBN-13 : 978-4309229430
ネアンデルタール人は、孤立した小さな生活集団を形成して暮らしていた。そしてわかっているかぎりでは、異なる集団どうしが協力することが仮にあったとしても、それは稀で、わずかでしかなかった。石器時代のサピエンスも、数十人から成る小さな生活集団を形成してくらしていた。だが、物語を語るようになると、サピエンスの集団はもう孤立して生きることはなかった。崇拝されている先祖や、トーテム(訳注:部族や氏族などの集団が、自らや祖先と結びついていると考えている自然物や事象)である動物、守護霊などについての物語によって、集団どうしがつながり、物語と共同主観的現実を共有する複数の生活集団が、部族を形成した。それぞれの部族は、何百あるいは何千もの人を結びつけるネットワークだった。 大きな部族に所属していれば、争いが起こったときには明らかに有利だった。500人のサピエンスは、50人のネアンデルタール人を楽に打ち負かすことができた。だが、部族のネットワークには、他にも多くの利点があった。もし私たちが50人の集団で孤立して暮らしていて、普段の生活圏が深刻な旱魃に見舞われたら、多くが飢え死にするかもしれない。よそに移ろうとしたら、敵対的な集団に出くわす可能性が高いし、馴染みの内土地で食べ物や水や(道具の製作用の)燧石を見つけるのにも苦労しかねない。だが、もし自分の集団が部族のネットワークの一部なら、困ったときには集団のうちの少なくとも何人かが、遠く離れた友人たちのもとに行って暮らすことができるだろう。もし共有している部族のアイデンティティが十分に強固なら、彼らは私たちを歓迎し、地元に特有の危険や狩猟採集の場所を教えてくれるだろう。そして、10年か20年後には、今度は私たちが彼らに恩返しできるかもしれない。というわけで、部族のネットワークは、一種の保険の役割を果たした。リスクを、以前よりも多くの人に分散することで最小化したのだ。
サピエンスは平時にさえ、小さな生活集団内の数十人とだけではなく部族ネットワーク全体とも情報を交換し、大きな恩恵を受けることができた。部族内の集団の一つが、前よりも良い槍の穂先の作り方を発見したり、珍しい薬草を使った傷の癒やし方を覚えたり、服を縫うための針を発明したりしたら、その知識を他の集団へと素早く伝えることができた。サピエンスの一人ひとりは、ネアンデルタール人よりも知能が高くなかったかもしれないが、500人のサピエンスがいっしょになれば、50人のネアンデルタール人よりもはるかに高い知能を発揮できた。
これらすべてを可能にしたのが物語だった。物語の力は、唯物論的な歴史解釈には見落とされたり否定されたりすることが多い。特にマルクス主義者は物語のことを、根底にある力関係や物質的な利益を覆い隠す煙幕にすぎないと見る傾向がある。マルクス主義の理論によると、人々はいつも客観的な物質的利害に突き動かされていて、物語を利用するのは、そうした利益を偽装し、競争相手を混乱させるためにすぎないという。たとえば、このような観点に立てば、十字軍の遠征も、第一次世界大戦も、イラク戦争もすべて、宗教や国民主義や自由主義の理想のためではなく、強力なエリートたちの経済的利益のために戦われたことになる。これらの戦争を理解するというのは、神や愛国心や民主主義についての神話的なイチヂクの葉を一枚残らず取りのけ、力関係をむき出しにして眺めることを意味する。
ところが、このマルクス主義の見方はシニカルなだけではなく、間違ってもいる。十字軍の遠征や第一次世界大戦やイラク戦争をはじめ、人間の争いのほとんどで、物質的利益がそれなりの役割を果たしたことは確かではなるものの、それで宗教や国民主義や自由主義の理想が何の役割も果たさなかったことにはならない。しかも、物質的利益だけでは、どの陣営とどの陣営が争ったのかは説明できない。12世紀にフランス、ドイツ、イタリアの地主や商人が団結してレヴァント地方(地中海東岸の地方)の領土と交易路を征服しようとした一方で、フランスと北アフリカの地主や商人が手を組んでイタリアを征服しようとしなかったのはなぜか?そして、2003年にアメリカとイギリスがイラクの油田を征服しようとした一方で、ノルウェーのガス田を征服しようとしなかったのはなぜか?これは、人々の宗教的な信念やイデオロギー上の信念を拠り所としないで、純粋に物質主義的な打算だけで本当に説明がつくのか?
2025年4月19日土曜日
20250418 株式会社文光堂刊 エルンスト・クレッチメル著 相場均 訳『体格と性格』~体質の問題および気質の学説によせる研究~ pp382-384より抜粋
造形芸術の分野でも、詩人における場合とほぼ似通った様式の差異があちこちに見られる。ただこの差異は、技巧教育や詩の流行から受ける影響によって多少共不明瞭になっている。肥満型の循環気質の人に会っては、ハンス・トーマのように、素朴な客観性がみられるし、同じく循環気質でも、フランツ・ハルスの絵には、強烈な生気が、ほしいままに投げ出されているのである。彼はでっぷり肥っていて、「生に対してかなり享楽的」だったと言われている。しかし他方、典型的な分裂気質の人々の場合、フォイエルバッハには形式美をそなえた古典主義が見られるし、ミケランジェロやグリューネヴァルトには、高潮した激情がうかがえるのである。これは全くの分裂気質的な芸術様式であって、その本質的な傾向はすべて、豊かな天分を持った分裂病患者の絵画に現れた芸術感覚に一致している。総括して表現主義と呼ばれるものは、さまざまな心理学的成素を含んでいるが、それらは皆、すでに我々が見た通り、典型的な分裂気質的なものである。1.極端な様式化の傾向、すなわち立体派的要素。
音楽の分野で、これに相当する気質型を分析しようとしても、まず準拠すべき基盤がない。というのは、有名な大作曲家はたいてい、生物学的に複雑な合質を示しているからである。そしてあまり重要でない作曲家については、音楽の専門家だけが、かなりの資料を集めることができるという程度なのである。
学者の型
学者は、後に説く実際活動に生涯を捧げた人々と同様に、たいていの場合、個人心理学的立場から利用できる客観的資料を詩人ほどたくさん残していないものである。その上、彼等においても、すでに我々の知っている事柄が、反復して現われているに過ぎないので、ここでは、極く手短かに扱うことにする。また学者は、少数の傑出した人々は別として、肖像がなかなか手に入り難く、綿密な電気も少ないのである。たとえあっても、それは彼等の仕事や戦いを数えたてたものか、あるいは、一般民衆教化につくした彼等の功績をたたえる読み物にすぎない。
ところで前世紀以来、学者の体型が一般にどのように推移して来たかをみると、興味深い事実がわかる。古い時代、特に神学者、哲学者、法学者にあっては、幅がせまくて長く、しかも彫りの深い、細長方の顔が支配的で、エラスムスや、メランヒトン、スピノザ、カントなどのような容姿が多かったが、19世紀以後は、肥満型が多くなり、特に自然科学の分野にこの傾向が著しい。多くの肖像を集めたものを比較してむると、大まかな標準を得ることができる。例えば私は、神学者や哲学者、法律家などの、非常に特色のある銅版画を集めた。1802年版の肖像画集をしらべてみたが、ちょうど60例のうち、大体35例は細長型の傾向が強い分裂性体格型を示し、約15例は混質が強く不正確であったが、肥満型のものは約9例に過ぎなかった。ところが19世紀の有名な医学者を網羅した挿画入りの医学辞典を調べてみると、特に名を知られた人々のうち、肥満型は約68人、混質ないしは不明瞭なものが約39人、分裂症の範疇に属する体格型は約11人であった。
このように大ざっぱな操作には、どうしてもかなりな誤謬が入りこんで来るものだが、次のような相違だけは、かなりはっきりしているので全く無視するわけにはゆかない。すなわち、古い時代の、主として抽象的形而上学的で、概念的体系的な研究に従事した精神科学者には、細長型の体型を示すことが多く、自然科学者のうちでも、具象的、記述的な分野には、肥満型の体型が多いということである。
2025年4月16日水曜日
20250416 日本人の腸内環境と健康について
日本人の腸内環境には、世界的にも特徴的な点があります。それは腸内細菌に善玉菌であるビフィズス菌の割合が特に高いことです。同じ東アジア圏の中国人と比較しても、日本人の腸内環境は顕著に異なり、中国人の腸内環境はむしろ北米人に近いという結果が得られました。また、日本人の腸内細菌には、炭水化物やアミノ酸を栄養源として代謝する能力や海藻類を分解する酵素遺伝子を持つといった特徴もあります。こうした特徴は、我が国の古くからの水稲耕作文化と海産物を多く摂る食文化の伝統と関連していると考えられます。さらにまた、肥満率の低さや長寿といった健康文化とも関連があるとも考えられます。
先述のように日本人の腸内環境は5つに分類され、それぞれの特徴は以下の通りとなっています。
タイプA:肉中心の高たんぱく・高脂肪の食事を好むタイプで肥満の原因となるルミノコッカス属が多い。
タイプB:たんぱく質、脂質、炭水化物がバランス良く摂られているタイプで、肥満を防ぐバクテロイデス属や、炎症を抑える酪酸を産生するフィーカリバクテリウム属が多い。
タイプC:炭水化物に偏った食事が多いタイプで、バクテロイデス属は多いがフィーカリバクテリウム属が少ない。
タイプD:高たんぱく・高脂肪に加え、砂糖の摂取が多いタイプで、ビフィズス菌が多いものの、タイプAに近い腸内環境を持つ。
タイプE:野菜や魚が多く、脂質が少ない健康的な食事タイプで、日本人に多いプレボテラ属が豊富に含まれる。この細菌は食物繊維の分解に関与している。
上記の5分類は健康リスクとも関連しており、たとえばタイプE(野菜や魚が多い食事タイプ)やタイプB(バランスの取れた食事タイプ)が健康的で良いとされる一方で、タイプA(高たんぱく・高脂肪タイプ)は疾患リスクが高いことが指摘されており、タイプEの人に比べタイプAの人は心疾患のリスクが14倍、糖尿病が12.5倍、高血圧が11倍にも上ると報告されています。また、タイプCは炎症性腸疾患(IBD)そしてタイプDは肝疾患などのリスクが高いとされています。
さて、上述のように腸内環境と健康につい書き進めていますと、ドイツの精神医学者エルンスト・クレッチマーによる著書『体格と性格』が想起されます。クレッチマーは、さきの著作において、体格と性格や気質との関連性を考察しました。それを簡潔に述べますと、たとえば、細身の体型の人は内向的で厳粛な性格が多く、肥満体型の人は外向的で快活な性格が多いといったことです。ともあれ、これに、さきに述べた日本人の腸内環境による5分類を重ねてみますと、腸内環境が体格や性格の形成に関与している可能性も想定出来ます。
具体的には、タイプA(高たんぱく・高脂肪)のルミノコッカス属が優勢な腸内環境は、肥満体型を助長するだけでなく、性格的には快楽志向や衝動的な行動などとも関連する可能性が示唆されます。他方で、タイプEの野菜や魚を主とした食生活は、腸内環境が健康的であるだけでなく、内面での安定や持続可能な行動とも関連する可能性があります。このように、腸内環境には身体的健康だけでなく心理的傾向(性格)にも影響を及ぼす多面的な性質があると云えます。
腸内環境を良好に保つためには、プロバイオティクス(善玉菌)の摂取やプレバイオティクス(善玉菌の増殖を促す成分)を積極的に取り入れることが推奨されます。ヨーグルトや納豆などの発酵食品を継続的に摂取し、野菜、果物、豆類、海藻類に含まれる食物繊維やオリゴ糖を食生活に取り入れることで腸内細菌叢の多様性が保持され、健康な腸内環境が維持されます。我が国の伝統的食文化は、こうした観点から見ても、理想的であり、世界規模においても心身の健康に資する優れた食文化であると考えます。
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2025年4月14日月曜日
20250414 介護・医療分野の持続可能性に向けて
そして、この問題に対応するため、2019年には「特定技能制度」が導入され、外国人労働者の受け入れが拡大されました。しかし、2023年での介護分野にて就労する外国人労働者の数は2万人に届かず、2024年の目標として掲げた6万人には遠く及びません。こうした背景には円安の影響による我が国の平均賃金の低下や、米国やオーストラリアと比較して経済的な魅力が乏しくなっていることが挙げられます。さらに加えて、我が国での介護分野への若年層の就職も厳しく、介護・医療分野では、求人数は増加しているものの、労働環境の厳しさや賃金の低さなどから応募者側が忌避する傾向があります。また、さきに述べた円安等の背景から、より高収入・良好な労働条件を求めて、海外移住を希望する若者の動きも顕著になってきています。そして、こうした国内の状況が継続しますと、介護・医療分野での人材確保が一層困難になると考えられます。
そこから、この状況を改善して、介護・医療分野での持続可能性を確保するためには、多方面からのアプローチを採ることが適切であると考えます。具体的には、ロボット技術やICT(情報通信技術)などテクノロジーの活用により業務を効率化し、少ない人員でも良いサービスを提供できる体制を整備することが挙げられます。また、高齢の方々が自立できる環境を整え、介護従事者の負担をできるだけ軽減する仕組みも同様に重要と云えます。さらに、介護・医療職全般の労働環境や賃金を改善して、若年層から専門性と将来性を備えた魅力的なキャリアとして認識されることも大切であると云えます。とはいえ、こうしたテクノロジーの活用や処遇の改善だけでは、根本的な解決にはならないと考えます。根本に近い解決とは言えずとも、有意に改善すると考えられる、具体的な施策として、現行の人文社会科学系分野への進学希望者を介護・医療分野へ導くことであると考えます。例年、全大学進学者の半分以上は人文系に進みます。そして、このうちの2~3割程度が介護・医療分野への進学に興味を持ってもらうように、高校教育や進路指導などの段階で、将来のキャリア展望や社会的意義などを丁寧に説明して、魅力ある選択肢として提示できるようになることが、人材不足を解決する鍵になるのではないかと考えます。
そして同時に、介護・医療分野での専門知識と実践能力を養う「専門職大学」の新設も効果的であると考えます。既存の大学と専門職大学との異なる大きな点は、現場での実習の割合が多く、実践能力と専門知識とを統合したカリキュラムを提供し、即戦力となり、さらに成長可能性の高い人材の育成を目的とすることです。こうした新たな高等教育機関が拡充することで、優れた介護・医療専門職を多く輩出して、懸念される当分野での人材不足を改善することができるものと考えます。
また、介護・医療分野は、他の分野・産業とは異なり、直接的に経済的価値を生むものではありませんが、高齢化が進展する社会の生活基盤を維持する上で不可欠な分野です。そして、このことは、西欧など先進諸国においても同様の傾向があります。そこで、さきに述べた新設されるべき介護・医療系の専門職大学においては、実践的な外国語教育(話す・聞く)に大きく注力することにより、将来、我が国がこの分野において世界的な先導者となり、さらにまた、新たな普遍的な付加価値を生み出す能力を醸成することができるのではないかと考えます。
如上のように、我が国が介護・医療人材不足を乗り越えるためには、短期的・長期的双方の計画を組み合わせることが重要であると考えます。テクノロジー等による労働環境の改善、そして処遇改善、社会的な認知向上といった包括的なアプローチを推し進める一方で、世界規模で進展していく高齢化に対応するための人材を養成する機関として介護・医療系の専門職大学を新設することが、今後、我が国が国際社会において存在感を示し、適切な対価として外貨を得ていくための起点になるのではないかと考えます。
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2025年4月7日月曜日
20250407 その都度、読める文章を読み、書ける文章を書くこと
丁度、一週間前に和歌山から戻りましたが、その後、滞在期間およびそれ以前からの睡眠不足によるものか、文章を作成したり書籍を読む気力・意欲が湧きませんでした。おそらく、こうした散文形式のものであれば、多少強いれば作成することは出来たのかもしれませんが、しかし、そうはなりませんでした。
一方、こうした状況は以前にも経験したことがあり、その際には、読めそうな書籍を読み進めて、徐々に調子を取り戻していたことが思い出されます。おそらく、多くの方々がそうであると思われますが、読み易い書籍とそうでない書籍があります。そして、それが何らかのきっかけにより変化することがあります。そして、その変化を「これまでの書籍(文章)を読めなくなってしまった…。」と嘆くのではなく、現時点で読める他の書籍(文章)を探す努力をした方が良いと思われ、その意味においても図書館や書店は大変有益であると考えます。
かつて歯系院生であった頃、一日中、実験や論文の読み込みなどをして帰宅してから就寝までに、大抵の日は、何かしらの人文系の書籍は読んでいました。さらに、それが金曜日であったりすると、原付で丘を下り、オプシアミスミ内の比較的規模の大きい書店で立ち読みなどをすることも少なからずありました。つまり、丸一日、実験などの手作業をしつつ、ある分野の論文などの文章(英文含む)を読んでいても、その後に、興味がある異なる分野の書籍(文章)であれば、ある種レクリエーション感覚で読むことが出来て、そして、そうした文章もまた、ある程度硬質な学術的な著作であっても、楽しむことが出来ていたことは、現在まで(どうにか)継続出来ている当ブログにも、何らかの影響を与えているのではないかと考えます。
つまり、当時は、いや現在もあまり大きくは変わりませんが、あまり経済的な余裕がなかったことから、書籍を読み続け、そしてその後働くようになっても、書籍を読むことが出来なくなると、息苦しさを感じていたものですが、その意味から冒頭で述べた気力・意欲の減退・枯渇とは、やはり何かしらのシグナルであり、それを受容しつつも、他方で読めるものを読もうとする努力、あるいは姿勢は保持した方が、次なる内面でのギア合わせが出来易くなるのではないかと考えます。
そして、このギアが合っている状態で駆動することにより、良い考えや文章が生じるのではないかと思われます。そして、その視座から現在の私は、休止していると云えますが、しかし、こうした散文形式の文章であれば、これまで継続したブログ記事作成の効果から作成することが出来るようですので、引き続き、読める文章を読み、作成することが出来る文章を作成していこうと思います。そして、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
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2025年4月4日金曜日
20250403 御坊の用水路で群生する鯉を見て思ったこと
『ええ、私は昨日の夕方前に関空に着き、そこから南海に乗って(和歌山)市駅まで出て、そこからYT食堂まで少し急いで行き、ほぼ営業時間ギリギリで入ることが出来ました。YTで食事を済ませた後は、ぶらくり丁方面からJR和歌山駅近くの予約していたホテルまで、これも歩いて行きました。今回は残念ながら、いつものホテルが訪問全日では予約出来ずに、仕方なく和駅近くのホテルに予約しましたが、そのチェックアウト時間が早く、本日の勉強会の開始まで多少時間があったことから、丁度、和駅も近いので朝から電車で御坊まで行きました。と云いますのも、実はここ最近紀州・和歌山の河川毎の歴史文化について扱ったブログ記事を作成しておりまして、これまでに北から紀ノ川、有田川についてのブログ記事は投稿しており、現在、日高川について扱ったブログ記事を作成しています。そして、これを作成するために資料をあたっていますと、また以前のように疑問やら仮説が湧いて来まして、それで、その実際のところを見聞しようといった目的があったのです…。かなり久しぶりに和歌山市以南まで行きましたが、御坊駅に着いた時には、ここからさらに南へ50㌔ほど行くと南紀白浜があると思って、何だか感慨深いものがありました。それでも、御坊の空気も和歌山市よりも、さらに自然の薫りが濃厚で、南紀白浜を髣髴とさせました。そういえば、御坊市を含むこのあたりは、日高地方、そして行政単位では御坊市以外のこの一帯から梅で有名なみなべ町までが日高郡に属するのですが、南紀白浜在住時の感覚では、田辺は気軽に行ける隣町であり、そしてその北隣のみなべ町もまた、そこから地続きの同じ文化圏といった感じであったのですが、実は、そのみなべ町も日高郡に含まれていたのだと、この時不図、思い出しました…。ともあれ、御坊に着いて、そこから歩いていくつかの目的地に行き、そこで過日生じた疑問や仮説と照らし合わせて帰路に着き、御坊駅まで考えつつ歩いていて、そこで不図、用水路を渡る小さな橋の上から下を見ますと、その決して広くはない用水路の流れに、大きな鯉が群生していまして、それを見て、衝撃を受けて急に現実に引き戻されたのですが、しかし、それも思い返してみますと、南紀白浜在住時に、そこに棲む生物の大きさに衝撃を受けたことが何度かあったことが想起されました。その一つは、これまでに作成したブログ記事にて扱いましたが、たしか大雨の夕方に一人で車を走らせて、富田川沿いに上富田町から中辺路方面に向かっていますと、ヘッドライトが大きなカエルを照らし出したため、ビックリして車を停め、大雨のなか外に出ますと、ヘッドライドに照らされたその大きなカエルは至って落ち着いており、その様子に何やら畏怖のようなものを感じて、お辞儀をして急いで踵を返したことがありました。こうしたことは、現在話してみますと何やら迷信的で不合理な行動と思われるかもしれませんが、しかし、あの時は何故だがそう思ったのです…。しかし、これもまた考えてみますと、何やら紀州ネタが多い「日本霊異記」(「日本国現報善悪霊異記」)に収録されている説話の様ではないですか…(笑)。あとは、これまた白浜在住時に所用で那智勝浦にあるホテル浦島まで行った時に、このホテルは駐車場から入口まで船で渡ることで有名でして、まあ実際は自動車でも入口まで行けるのですが...。ともあれ私は船に乗るために船着き場にいますと、その桟橋の足元の海中に見えた魚が何であったか忘れてしまいましたが、とにかく大きく感じて不気味に感じたこともありました…。しかしまあ、自然が豊かな南紀ですとカエルや魚だけでなく、人間もまたえらく大きくなることがあるのかもしれません…。そして、そうした一人が和歌山市内に生れ田辺に長く住んだ南方熊楠であったのだと思います。御存知であるとは思いますが、南紀白浜には南方熊楠記念館がありまして、そこには昭和天皇の御製「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を彫った石碑があり、生物学者でもあった昭和天皇は、30年以上前に進講をした南方熊楠をとても印象深く覚えておられたのだと思いますが、そこまで強い印象を与えるほどの博識ぶりとは、やはり、見方によれば大きく成長したものであると思いますので、それらに間に通底する何かがあるのではないかと思います。しかし同時に、この自然の豊かさが、そこに生きる生物全般を大きく生育させていたのは、その生物が土地の産物を食べていたからです。いわば、その土地に生かされていたからです。その点、近代までの遅い陸路と海運の時代までは良かったのですが、その後、鉄道や自動車そして飛行機などで物品が大量に輸送されるようになりますと、他の生物は違いますが、しかし人間は、そうした土地が生み出す生物ではなくなってしまい、大きな物流や情報の網に絡めとられて、かつてのように大きく生育出来なくなり、そして少なくとも精神の方は徐々に小さくなって行ってしまうのではないかと思うのです…。その意味で海運が物流の中心であった時代までは列島の東西を結ぶ要地に位置して、沿海部が長い紀州和歌山は、さまざまな産品が流通して、活発に独自の文化を育んでいたのですが、それが鉄道・自動車道路網が主流になりますと、徐々に血流ならぬ物流が行かなくなり、段々と廃れていってしまい、そして、その様相を、私はこの「失われた30年」で見てきたのではないかと鯉を見た用水路を後にして思い、少し悲しくなってしまいましたね…。いや、しかしこれもまた少し見方を変えてみますと、現在のように世の中が乱れてきた平安後期から末期に熊野詣が盛んになりましたように、こうした状況は紀伊・和歌山が再び陽の目を見る契機となるのではないかとも思われるのですが、しかし、実際のところはどうなるのでしょうか…。まあ、もう少し考えてみます。』