2024年7月30日火曜日

20240729 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.149‐151より抜粋

株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.149‐151より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063

 ナチス・ドイツの勢威の絶頂において開かれた一九三九年の国家の祝典において宣伝相ゲッベルスは彼らの文化指導原理を繰りかえし述べ「主智主義は国民の聡明を害する」として演説した。竹山は同年五月二日のDeutsche Allgemeine Zeitung紙から次のように訳出した、 

 「デモクラシーは、独裁国家に於いては精神の自由が抑圧されている、と言うが、かかる主張もわがナチス独逸に於ては、もはや何の印象をも喚起せぬのである。確かに独裁国家に於ては、精神の自由は、それが国家的利益と相容れぬ場合には、制限を受けるのである。デモクラシーに於いては、精神の自由はこの点では制限を受けぬかも知れぬが、しかし資本家の利益と相容れぬ場合には確かに制限を受けるのです、されば、ここに一つの疑問を呈出したいと思う、-そもそも精神的労働に従事する者にとって、彼の精神的労働を全民族の国民的幸福に従属せしむるのと、あるいは姿も見せぬ少数の金権閥族の資本主義的利益に従属せしむるのと、いずれがより快くまた栄誉あることであるか?…

 吾人は断じて主智主義を以て国民的聡明と同一視してはならぬ。…過去数年間に於て、われらが国民的聡明は公共生活のあらゆる領域に於て真の奇蹟を成就した。今日わが国に於てなお僅かばかり生き残っている、リベラル・デモクラティックな主智主義がこの時期に於て為したところは、単に批評するのみであった。そうして、単に政治的のみならず、精神的にも、芸術的にも、文化的にも、とっくに任を終えた筈の西欧のデモクラシーにその範を求むるのみであった」

 そしてゲッベルスは断言する、”Kultur hat ihrem Wesen nach nichts Wissen und vor allen niches mit kalrer Intellektualiat zu tun."「そもそも、文化とは、その本質に於て知識、なかんずく冷やかなる知性とは何の関係もないものである。文化は民族性のもっとも深くもっとも純粋なる生命の表現である。文化は民族の国民的威力と結合して、はじめてその真の意義を獲得する」。そして新聞人の使命も定義される。「ナチス・ドイツに於てはジャーナリストは国家と民族とその利益とに奉仕する者であるが故に、彼等は職業的に兵士及び官吏と同一視さるべき、光栄ある任務を荷なっている。デモクラシー国家に於ては、ジャーナリストは姿も見せぬ資本強権の文筆苦力にすぎない。…リベラルな国家に於ける精神の自由とは、単なる架空な作り話であって、インテリ愚衆をして、事実存在せざるある状態を存在するかに思い込ませるべく、暗示にかけるだけの役に立っている」。

 教育の使命も同様に定義される。ヒトラーも自己の抱懐する世界観に則って若者を教育すべき旨を演説した、ヒトラーは年配の者に反対者のいることを知るがゆえに青年層に向って働きかける。「いわゆる自由なるものを排除することあるは当然である。次のように言う人間がいるであろう、「己の息子が何故労働奉仕なんかしなくてはならないのか。もっと高尚な仕事をしに生れたのだ。シャベルなんか担ぎ廻ってどうするのだ?何か精神的な仕事をしたらいいではないか」だが、おお君と、その君のいう精神とは一体何であるか!(Was Du, mein lieber Freund, schon unter Geist verstehst!)(再度、数十万の嵐の如き哄笑が支配する)。今、君の息子が西部地方で六カ月間ドイツの為に働いているのは、これは、君の全精神が一生の間ドイツの為になしえたよりも、事実に於てより大いなる事業である(群集は湧き上がる喝采を以て総統に賛意を表する)。しかも君の息子は、民族の内的分裂という最悪の迷妄をも排除すべく働いているのだ」。そしてヒトラーは脅迫をもまじえる、「吾人は勿論「働きたくないなら、働かぬでもよい」とは言わないのだ!」。

 竹山は演説の文言が行動に移されたドイツの文化状況を「ルネサンス以来ヨーロッパの人本主義文化を開展せしめる原動力となった原理、-個人、その自由、その知性ーの否定」と規定し、「英仏側が勝てば、思考の自由は救われ得る。ドイツが勝てばそんなものはわれらから根底的に奪われるであろう」と結論した。日本は昭和十一年来日独防共協定を結び、十五年は九月には日独伊三国同盟が結ばれようとしていた。大胆な発言であった。

2024年7月29日月曜日

20240728 株式会社岩波書店刊 金関丈夫著 大林太良編「新編 木馬と石牛」pp.68‐70より抜粋

株式会社岩波書店刊 金関丈夫著 大林太良編「新編 木馬と石牛」pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003319710
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003319710

結論をさきにいえば、スサノオのオロチ退治の話は、外婚的双分制社会における通婚形式のー少なくともその記憶上の伝承のーまだ遺っている時代における、農耕民に一般的だった神婚の祭事から起こり、後世にいたって、それがいろいろと変化した結果、その一部を遺す伝説となり、民話となり、子供ばなしとなったと同様に、一つの神話となって遺された物語だ、というのである。話は一種の英雄神話に変化したが、その中にも原型は部分的に、かすかに遺っている。いまそれらの断片を手がかりにして、できたらもとの姿に復元して見ようというのである。

 その手がかりはまず、川上から流れてくる箸である。他の話では、これが杖であったり、丹塗りの矢であったり、あるいは桃であったり、瓜であったりする。水にかづく斎女が、これを迎えて神とし、その一夜妻としてこれと交わる伊勢や賀茂の神事では、流れ寄る神木をミアレギといっている。「御生れ木」の意である。多くの伝説では、水辺の女がこれと交わって、英雄を生むことになる。あるいは、流れ寄ったものの中に、すでに小さ子が孕まれていて、これがのちに英雄となる。四世紀の「華陽国志」などに見える、夜郎国の英主竹王も、流れきたって洗濯する女の脚にまといつく竹幹の中にはらまれていた。女のこれと交わって英雄を生む話の方が、既生の小さ子の流れ寄るモーゼ説話の形よりは、原の形だったと思われる。

 中国の浣女という話も、中唐あたりの感応的な詩の材料にしばしば用いられているが、何か思想上の前歴があったと思われる。桃太郎や瓜姫ばなしでは、川下の洗濯婆さんになってくる。ホトタタライススキヒメも、これはいまでは「あわてふためく」の意と解されているが、やはり濯ぎ女であったにちがいない。斎女が機を織り、水を潜いで、流れ下るミアレギを待つという形が、このような変化を見せている。

 この流れ寄る棒が、竜蛇神を表すものだ、ということについては、それを傍証する多くの事例があって、すでに明らかになっている。かくして竜種の英雄神が誕生する。『日本霊異記』や中国の神怪譚に見える多くの話では、蛇子そのものを生むことにもなる。賀茂の伝説の雷神は、蛇神の顕現であり、蛇神はかくて天上につながる。華胥が雷沢の水辺に夢みて、蛇身人面の太皡を生む話は、この話の一部の脱落の姿であろう。

 雷と竜とは同一物であり、これた年の稔りを左右する、という考え方は中国にもあり、神は雷となって山上に降り、蛇となって渓を下る。斎女のこれと交わることによって、天地の和合を求める、という考え方にも、いくらか中国風のスペキュラティーフな匂いがある。川上から流れくる箸の表象する世界はこれであるが、それ以前に、も少し素朴な、直截な、地上的な儀礼があったであろう、と私は考えている。天などには必ずしも関しない、地上の男女神の媾交によって、穀霊を刺激し、穀粒を孕ませようという、純然たる擬制呪法に基づく祭事が、あったにちがいない、と思っている。

 第二の手がかりは櫛である。スサノオはクシイナダヒメを小形に変化させて、頭に挿したとなる。これは櫛をさしたことであり、女装したことである。ヤマトタケルや後世の岩見重太郎も、クマソやヒヒを退治するときに女装する。これらの英雄は、なぜ女装の必要があったか。

 水辺の異物から、あるいはこれと交わった川下の女から生まれた小さな女の子は、からだの人なみに達しない、弱々しい姿をとる。それだからこそ、かくれた霊力が具わったので、桃太郎が子供の姿であるのは、必ずしも子供ばなしになり終わった後の変化ではない。元来が若童の形だったのだ。私の想像する祭事の場面で、一人まえの男がこれを演ずる場合には、女装をした優さ男、すなわち男女双性神の神の姿を彼はとる。けっしていま考えられているスサノオやヤマトタケルのような、荒あらしい英雄の姿ではなかった。それが一人まえの男の姿ではなかったにもかかわらず、非常な力をふるう、というところから、微賤であったり、怠けものであったりする主人公が、果報のもちぬしであるという、多くの民話が生れてくる。

 第三の手がかりは霊剣である。スサノオはオロチの尾中に宝剣を得る。宋の「中呉紀聞」には、蛇尾が剣に化す話が見える。剣が元来山のものであり、山より下った蛇神に属していることについては、後にもふれるつもりである。

2024年7月28日日曜日

20240727 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻  pp.209-212より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 
pp.209-212より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375

 データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。これは突飛で傍流の考え方だという印象を受けるかもしれないが、じつは科学界の主流をすでにおおむね席捲している。データ至上主義は科学における二つの大きな流れがぶつかり合って誕生した。チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版して以来の一五〇年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの八〇年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。データ至上主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する。 

 データ至上主義はこうして、動物と機械を隔てる壁を取り払う、そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える動きをすることを見込んでいる。

 データ至上主義は、政治家や実業家や一般消費者に革新的なテクノロジーと計り知れない新しい力を提供する。学者や知識人にも、何世紀にもわたって私たちを寄せつけなかった科学の聖杯を与えることを約束する。その聖杯とは、音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する、第一の包括的な理論だ。データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第五番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本概念とツールを使って分析できるデータフローのパターンにすぎないという。この考え方はきわめて魅力的な。すべての科学者に共通の言語を与え、学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。音楽学者と経済学者と細胞生物学者が、ようやく理解し合えるのだ。

 その過程で、データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。これまでは長い一連の知的活動のほんの第一段階と見なされていた。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。もはや人間は膨大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。

 データ至上主義者は、母体である二つの学問領域にしっかりと根差している。その領域とは、コンピューター科学と生物学だ。両者を比べると生物学がとりわけ重要だ。生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生れたのだ。生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。

 今日、個々の生き物だけではなく、ハチの巣やバクテリアのコロニー、森林、人間の都市などさまざまな形の社会全体もデータ処理システムと見なされている。経済学者はしだいに、経済もまたデータ処理システムだと解釈するようになっている。経済は、小麦を栽培する農民や、衣服を製造する労働者、パンや肌着を買う消費者から成ると素人は考える。ところが専門家にしてみれば、経済とは欲望や能力についてのデータを集め、そのデータをもとに決定を下す仕組みなのだ。

 この見方によれば、自由主義資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する。資本主義は、すべての生産者と消費者を直接結びつけ、彼らに自由に情報を交換させたり、各自に決定を下されたりすることでデータを処理する。自由主義ではどのようにしてパンの価格を決めるのか?じつのところ、どのベーカリーも好きなだけパンを作り、いくらでも高い値段をつけられる。消費者も同じく自由に、買えるだけのパンを買うこともできれば、他の店で買うこともできる。バゲット一本に一〇〇〇ドルの値えおつけても違法ではないが、それでは買う人はいないだろう。

 今度はずっと大きなスケールで考えよう。投資家はパンの需要増加を予測すると、遺伝子操作によって収穫量の多い小麦の品種を作り出すバイオテクノロジー企業の株を買うだろう。すると、そうした企業に投資が流れ込み、研究が加速し、小麦が前より多く、遠く供給され、パン不足が回避できる。たとえバイオテクノロジーの大手一社が間違った理論を採用して行き詰ったとしても、おそらく競争相手のなかにはもっとうまくやる企業もあり、期待どおりの大躍進を遂げるだろう。このように、自由主義資本主義のでは、データ分析と意思決定の作業が、独立してはいても互いにつながっている多くの処理者に分散している。オーストリアの経済学者の大家フリードリヒ・ハイエクはこれを次のように説明している。「当該の事実に関する知識が多くの人の間に分散しているシステムでは、価格はさまざまな人の別個の行動を調整する働きをなしうる」

 

2024年7月26日金曜日

20240725 本日の慶應義塾史展示館での企画展示室の拝観から想起されたこと

 以前、当ブログにて述べたことがありますが、祖父母が住んでいた伊東市の家に主がいなくなって以降、そこに時々、伯父が行って泊りがけで草刈りなど庭の手入れなどをしていました。そして丁度同じ頃、私は和歌山から実家に戻り、歯科技工専門学校に通っていました。そうした状況もあり、夏季に伯父から「庭の手入れの手助けに来てほしい」との要望を受けて行ったことが何度かありました。実際、庭とは云ってもそこまで広くはありませんが、気候温暖な伊豆であると植物、樹木などの生育の具合も良いのでしょうか、盛夏の日中での庭の手入れは、頭と首にタオルを巻いて、防災用ヘルメットを被り、エンジン式の芝刈り機を用いて庭一面に生えた雑草を刈ったり、あるいは樹に登り余分な枝を払ったりなどで、それなりに時間を要する作業となり、雑談混じりではありましたが、日中は始終作業をしていました。やがて日が暮れてくると「そろそろ今日は終わろうか?」となり、18:00頃には作業を終えて道具を片付け、そして自動車で近くのスーパーマーケットまで夕食の買い出しに出かけました。そして戻ってから交替で入浴をして、買ってきた食材を卓上に並べ、伯父は好物のお酒を飲みながら、夕食(多くは地の魚の刺身)を食べつつ様々な話をされるのです。また、その際にテレビを点けていることが多く、時々、それを話題にして話を展開されることもあり、それらも興味深いものが多かったです。そうしたなか、敗戦記念日周辺での特集の一環であるのか、人間魚雷「回天」を題材とした横山秀夫原作、佐々部清監督による映画「出口のない海」が放映されており、二人とも、そうした題材には興味があることから、飲食をしつつではあれ意識を向けて鑑賞していますと、しばしば伯父が学生・院生時代に先輩や指導教員からお聞きしたと思しき戦時中の大学での話をされるのですが、それも興味深いものが多く、私の方は既にごく少量の飲酒により良い気分になっており、時には頷き、また時には不遜とも云える態度で疑問をぶつけていましたが、伯父もまた酔って良い気分になり、あるいは日中の肉体労働による達成感のためであったのか、鷹揚に受け答えをされていました。やがて映画も終盤に近づき、主要な登場人物である学徒出身の回天搭乗員たちが出撃による戦死、あるいは事故死などといった場面が続くようになると、二人とも言葉が少なくなり、やがて映画が終り、有名女性歌手によるエンディングテーマが流れてくると、伯父はティッシュペーパーで鼻をかみ「お酒を飲んでまた汗をかいちゃったからお風呂に入ってくるよ・・」と云って立ち上がり、タオルなどを取ってから、おもむろに私に「いやあ、悲しい映画だったね・・。しかし、当時、私がどこかの学生だったら特攻に志願していたかな?」と尋ねてきました。私は数秒間をおいて「・・ええ、伯父さんが当時の大学生でしたら、多分志願していたと思います。」と返事をすると「やっぱりそうかね・・。」と云って、もう一度ティッシュで鼻をかみ、こちらをちょっと見てから、風呂場の方に行きました。こちらを見た時の伯父の両目は少し赤くなっており、泣かれていたのかと思われましたが、態度や声色だけでは判然とはしませんでした。しかし、現在になり思い返し考えてみますと、あの時伯父は、やはり、少し泣かれていたのではないかと思われます。そしてまた、そのことは「弱さ」とも評されるような不名誉なことではないと私は考えます。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2024年7月24日水曜日

20240723 以前、熱心に読んでいた著作の記憶から思ったこと

当「ブロガー」にて作成したブログ記事をエックス(旧ツイッター)と連携をして、そこでさらにリポストなどをしているためであるのか、ここ数日間は、当ブログの1日毎での閲覧者数が通常の200~300人から増加していました。あるいはまた、他の要因があるのかもしれませんが、何れにせよ、より多くの方々に当ブログを閲覧して頂くことは、特に悪いことではないと考えますので、現在は2200記事到達後の休息期間とはしていますが、今しばらく、書籍からの引用記事を主として記事作成を継続したいと思います。そして、出来るだけ早い時期に次のある程度の区切りである2300記事まで到達したいと思っています。そうしたなか、昨日までの記事投稿により総投稿記事数は2330にまで至り、我がことながら、思いのほかに記事数のカウントが進んでいたことに少し驚かされました。また、そうした経緯から、私の場合、当ブログが(どうにか)9年以上にわたりこれまで継続することが出来た背景には、おそらく読書の習慣があったと云えます。もちろん、途中、仕事が忙しくなり、しばらく間を置くことも度々ありましたが、そうしたなかであっても、既読の著作のある記述を何かのきっかけで思い出しますと、その記述から引用記事を作成することは、特に抵抗も困難も感じることはなく、また周囲の知見のある方々に適法であるか問い合わせたところ、いくつかの注意点を頂きましたが特に問題はないとのことでした。そうした背景もあり、当ブログはこれまで、どうにか継続しているのだと云えます。また、読書と云えば、どうしたわけか、これまたここ数日、一連の当ブログから加藤周一による「日本文学史序説」の引用記事ではなく、それを題材とした記事がいくつか読んで頂いていたことが不思議そして面白く思われました。以前にも当ブログにて述べたことではありますが、当著作上下巻は鹿児島在住の期間に購入していましたが、そこでは身を入れて読むことはありませんでした。やがて、2013年9月に学位取得をして帰郷した頃から、それまでに積読状態であった著作をいくらか集中的に読むようになり、そして、当時、最も身を入れて読んだと思われるのが、さきの加藤周一による「日本文学史序説」上下巻です。これは2015~2017の期間での当ブログの投稿記事をある程度、注意して見ると、ご理解頂けると思われますが、当時はそこからの引用記事を少なからず作成し、また熱心にも同著作の英語版を古書にて全巻購入し、通読までは残念ながら出来ませんでしたが、努力もしつつ、それなりに楽しんで読んでいた記憶があります。当著作英語版は、その後の何度かの移動の際に、散逸してしまったのか、あるいは本箱の中に収納してあるのか、不明ではありますが、再度手に取って読んでみたいと思っています。そういえば、当著作の日本語版については、学位取得後すぐに開催された和歌山での勉強会の後の徒歩移動の際に市民会館近くの北大通りに架けられた歩道橋を渡っている際に「加藤周一の「日本文学史序説」はとても面白いですね。しかもこれは英語版も出ていますので、今後、どこかでまた「教養英語」のような科目をやらせてもらえるのでした、是非、この著作を教材として用いたいですね。」といったことを元気に宣っていたいた記憶があります・・(苦笑)。そして現在もまたおそらく、そうであるのでしょうが、こうした記憶が不図想起されますと「当時は何も知らなかったな・・。」と恥ずかしく思う次第です。また、その頃(2013~2014)はまだ、当ブログは始めておらず、いわば就職活動とアルバイト以外に何をやって良いか分からないままの反面で、それまであまり身を入れて読むことが出来なかった類の書籍をどちらかというと享楽的に読んでいた時期であり、それがしばらく続くと、何が原因であったかは忘れてしまいましたが、ともあれ、それまでの私は「読む」と「書く」あるいは「インプット」と「アウトプット」を比較すると、圧倒的に「読む」といった「インプット」の要素が大きかったのですが、それが辛くなってきて、そして、そうした時期(2015年前半)に相次いで数人の方々から「ブログ(文章作成)を始めてみてはどうか?」といった主旨のアドバイスを頂いて、当ブログを始めた次第ですが、そこからこれまでに9年以上の継続、そして2230記事の投稿をしたこと考えてみますと、紆余曲折がありながらも、それなりによく続けたものだとも思われます。とはいえ、今しばらくまたこれを続けて、出来れば来年の6月に丸10年間となるまでは、どうにか継続したいと考えています。おそらく10年間継続すれば、とりあえず、一つの(それなりに)大きな区切であることから、当ブログをやめても後悔はしないか、あるいは著しく乏しいと思われるのです。そして、さきの「加藤周一の「日本文学史序説」については、その続きを、また別の近い機会に述べさせて頂きたいと考えています。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年7月23日火曜日

20240722 慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編 pp.2‐4より抜粋

慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編
pp.2‐4より抜粋

1.慶應義塾医学所の開設と閉鎖

 慶應義塾大学医学部が創設される以前、慶應義塾医学所が明治初期に短期間だけ存在した。福澤諭吉は青年時代に緒方洪庵の適塾に学び、科学の重要性を痛感したため、慶應義塾が自然科学の分野においても拡充されることを希望していたという。とりわけ実験的、合理的な西洋医学には関心が強く、2回目の渡米の際には多忙をきわめていたにもかかわらず、英語の医学原書も買い求めて帰国した。「福澤諭吉伝」によると、医者になるためにドイツ語を学びたいと言った塾生の前田政四郎に対し、福澤は、英語で医学修業ができるようにするので、ドイツ語を学ぶには及ばないと答えた。そして、福澤は早速邸内に住んでいた福澤塾出身の医師の一人である松山棟庵を呼び、自分が塾舎を建てるので、そこで教えて欲しい、そうすれば塾の医学校すぐに開ける、と言った。こうした経緯があり、それが医学所設立の動機付けになったと記されている。

 福澤には江戸鉄砲洲時代の福澤塾以来、門下出身の医師も少なからずいた。松山はそのうちの1人で、子弟というよりも福澤とは親しい友人関係にあった。福澤は自ら出資して、明治6(1873)年に塾北側の空き地に学舎を建て、松山を初代校長として医学所を開設した。医学所は基本方針や会計を松山の自由裁量に任せたので、さながら松山の私塾の感があったという。慶應義塾医学研究所は設立の動機からもうかがえるように、ドイツ医学ではなく、英米の医学書をもって講義が行われた。予科3期、本科5期に分けられ、本科は主としてハルツホルン(Henry Hartshorne)の書をテキストとして使用した。

 学生数は最盛期には100人を超えるまでになった。しかし、明治13年に廃校とせざるを得なくなった。その理由として、「福澤諭吉伝」では、医学所には多大な経費がかかるが、他に官公立の医学校・病院もできてきており、そうしたなかで無理算段をしてまで医学所を維持する必要もないと考え廃校した。と述べられている。また、慶應義塾医学所では英米医学を採用したが、明治政府が設立した大学東校(のちの東京大学医学部)はドイツ医学を採用し、当時全国各地に開設されていく官公立の医学校もすべてドイツ医学を主体とした。私立として新たに開校した長谷川泰の済生学者も、教師として東京帝国大学の卒業生または上級学生を採用したこともあり、ドイツ医学を教えていた。当時、官立大学卒業生を除けば医師になる国家試験を受けてそれに合格することが必要であったが、ドイツ語を知らずに英米の医学書のみを学んだ者が国家試験を通ることは容易ではなかった。このことも廃校の原因の1つとして考えられる。

 また、その背景には慶應義塾そのものの経営難があったことも事実で、明治13年に慶應義塾出身者の有力者が集まって慶應義塾維持法が協議され、慶應義塾存続のための維持寄付金を5ヶ年賦で募ることが決められた。その申し込み総額は44000年に上り、松山棟庵も600円、当の医学所も当時としては大金の350円を払い込んだ。これにより慶應義塾本体は存続することができたが、慶応義塾医学所は廃校を免れることはできなかった。

2.医学部創設と北里柴三郎初代医学部長

福澤諭吉と北里柴三郎

 慶応義塾大学医学部は大正6(1917)年に大学部医学科として創設された。その初代医学科長(大正9年以降、医学部長)には北里柴三郎が招かれた。北里は、慶應義塾の独立自尊の精神を福澤諭吉から最も感化され、共有する人物の1人であった。

 北里柴三郎は、東京大学医学部を卒業したのち明治16年に内務省に入り衛生行政の道を選び、細菌学を専攻した。世界的な細菌学者で結核菌の発見者であるドイツのコッホのもとに6年間学び、困難とされていた破傷風の純粋培養に成功し、さらにベーリングとともにジフテリアの血清療法を発見した。ついで結核のツベルクリンの研究を行った。他国からの招きもあったがそれを断り、プロフェッソールの称号を得て明治25年5月に帰国した。

 北里は、当時公衆衛生が普及せず伝染病が蔓延している日本に、まず伝染病研究機関を設立しようと考えたが、時の政府は東京帝大などの官立の研究環境を北里に迅速に与えなかった。緒方洪庵の適塾時代からの福澤の親友である長与専斎は、自らの志を生かす場が得られず落胆していた北里を見て、その顛末を福澤に伝えた。福澤は優れた学者を見殺しにはできないと一念発起し、同年11月、芝公園の一隅に所有する土地に北里を所長とする私立の伝染病研究所を創設し、北里がそこで自由に研究を行うことができるよう取り計らった。

 この研究所は大いに繁盛したが、明治32年、研究所の運営をすべて北里に一任することを条件に、内務省管轄の官立伝染病研究所となった。この時北里は、これを受ければ独立自尊の精神が損なわれるのではないかと心配し、福澤に相談を持ち掛けたが、福澤から、北里の方針で経営が行われるのならそれで良いではないかと説得され、研究所を内務省の管轄とすることを受諾した。

 ところが大正3年10月、時の大隈重信内閣は文教統一行政整理の名の下に、突然、北里に相談なく、伝染病研究所を内務省より文部省に移管し東京帝国大学医科大学の各科に分属させることを決定した。北里にとってこの移管は、設立経緯からいって納得できるものではなく、自身の主義である総合的な研究に適わないものであるとして、伝染病研究所所長を辞任し、全職員も北里とともに総辞職するという事態に発展した。文部大臣や内務次官からも強く留任を迫られたが、このとき北里の意思は固く、一切の妥協案も受け付けなかった。

 辞職した北里は私費を投じ、コッホ研究所、パスツール研究所と並び称される北里研究所を新たに開設した。なお、それより前、伝染病研究所所長時代に、北里の名声を聞いて肺結核の新治療を受けようとして診療を希望する者が増加したため、福澤が北里のために研究所とは別に結核専門病院として、福澤の所有地に「土筆ヶ丘養生園」を建てた。この病院の経営が好調だったため、伝染病研究所所長辞任の後にすぐに新しい研究所を作る資金繰りができたのであった。

2024年7月22日月曜日

20240721 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.62-65より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.62-65より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

 エリート官僚は、軍事官僚も、行政官僚も、経済官僚も、すべて技術屋であり、信ずるものは技術だけである。彼らは、どんな意味においても決断主体ではない。彼らがナショナル・リーダーとして決断に迫られれば当惑せざるをえない。このとき救いとなるのは、彼が所属する機能集団としての共同体である。この共同体は彼に自然のごとく所与にみえ、その機能的要請は神聖である。彼にとって、世界の大勢(といっても、自然のごとくみえる共同体の特定した視座からみられた特殊な世界認識にすぎないのであるが)にのっとり、神聖なる任務を遂行する以外にかなる決断を下しえようか。このようにして、決断の契機は漠然とした使命感の中に解消するとともに、この決断がいかに特殊(すなわち、彼が属する一つの機能集団の機能的要請に過ぎない)なものであり、数多くのオルターナティブの中の一つの選択にすぎないことは意識にのぼらない。したがって、この選択に関する選択が背後に押しやられ、ついに鋭く意識化されないとともに、この神聖なる所与に対する批判に対しては、本能的拒否反応を示すようになる。このような例は、戦前のミリタリー・アニマルにも、戦後のエコノミック・アニマルにも、いかに多く発見しうることであろう。

 さて、以上、戦前の軍事官僚と戦後の特権官僚を・エリート・ビジネスマンの思考様式、行動様式を比較することにより、パターンとしては、いかに両者が類似しているかをみた。しかし、すでに強調したように、類似はここに終らない。エリート官僚のタイプこそ現在日本人の理想像であり、ほとんど日本人とくにエリートと呼ばれる人びとの行動様式はこのタイプに造形されつつある。ゆえにエリート官僚の行動様式の長所・短所は同時にまた、ほとんどすべての日本人の行動様式の長所・短所でもある。しかも、この行動様式が、戦前の軍事官僚の行動様式とパターンの上で同型であることから、われわれは重大な反省に迫られる。軍国主義による破局は戦前だけのことではない。またそれは、軍国主義という特定のイデオロギーの産物ではない。現在はすでに明白になっているように、軍国主義などというイデオロギーを持った人は、戦前の日本にはほとんどいなかったようである(このことについては76~78ページ参照)。イデオロギーではなく、日本独自の行動様式の特殊状況的表現が軍国主義的であったにすぎない。このように考えると、現在でも問題は少しも解決されていないことがわかる。戦争が駄目なら経済があるとばかり、ミリタリー・アニマルがエコノミックに衣がえしても、それは同型の行動様式(isomorphic behavior pattern)の異なった状況下における表現の相違にすぎないのであって、そこには、なんら内面からの原理的行動変革の組織的努力はみられない。このことはエコノミック・アニマルだけでなく、イデオロギー・アニマルにもあてはまる。ここに、イデオロギー・アニマルとは聞き慣れない言葉かもしれないが、軍事万能の単細胞生物をミリタリー。アニマル、経済万能の単細胞生物をエコノミック・アニマルと呼ぶのならば、イデオロギー万能の単細胞生物をイデオロギー・アニマルと呼んで悪い理由はなかろう。

 イデオロギー・アニマルの思想と行動とは、彼らの看板としてのイデオロギーの方向とは全く無関係に、ミリタリー・アニマルやエコノミック・アニマルのそれと構造的に同型である。大学紛争においては、いわゆる進歩的教授であればあるほど、全共闘の激しい攻撃の矢面に立たせられ、みじめなほど残酷な取扱いを受けたのであったが、その根本的な理由は、彼らが全共闘の眼には偽善者と映じたからである。それはそうだろう。デモクラシーのチャンピオンとしてジャーナリズムで活躍中の大学教授の教室が、水も漏らさぬ年功序列のハイアラーキーで形成されていたりするのである。


2024年7月20日土曜日

20240719 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.89‐90より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.89‐90より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

 中国が米中対立(競争)を想定しているとは言っても、それは中国が世界を二分する体制間争いとか、二極化を求めていると言うのではない。中国は目下、アメリカの一極体制が崩れて多極化に向かっていること、また先進国が世界秩序を主導する状況が大きく変化し、先進国ではもはや世界の諸問題を処理することができないことに注目する。こうした面では、先進国対新興国、先進国対開発途上国という大きな構図を中国は描いており、その新興国、先進国対開発途上国という大きな構図を中国は描いており、その新興国、開発途上国の代表として自らを位置付ける。

 また、中国は軍事安全保障の面でアメリカを中心とする安全保障ネットワークを明確に敵視する。中国がしばしば批判する際に用いる「冷戦的」というのはアメリカの安保ネットワークを批判する時に用いられることが多い。だからこそ、中国はNATO批判についてはロシアと歩調を合わせる。ただ、軍事的にNATOを批判するからと言って、中国はEUや独仏など欧州諸国との関係は維持しようとする。ただ、その際には欧州の自立性を求め、アメリカからの影響を受けないように促すのが常である。無論、ウクライナ戦争以降、とりわけ西欧諸国がアメリカとの関係を強化しており、中国の求めるヨーロッパの「自立性」を維持するのは困難だ。だが、中国としては「多極化」を求め、アメリカへの一極集中を相対化しようとするので、EUなどはむしろ協力相手となる。ただ、中国から見てあまりにアメリカに寄りすぎている日本はオーストラリアなどと共に、そうした対象にはなっていないようだ。

 他方、中国が新興国、開発途上国の代表としてアメリカや先進国との対抗軸を意識しているからといって、また米中「対立」を将来的に想定しているからといって、中露と先進国とが、また新興国と先進国とが、かつての冷戦のような陣営を形成して対峙することは中国にとっては好ましくない。中国自身が輸出管理法などで先端議技術を守ろうとしている一方で中国経済はアメリカをはじめ西側諸国との相互依存が強く、先端技術を除けば全面的デカップリングは困難だ。また、軍事安全保障面で西側諸国から敵視されて強く牽制されることは中国にとっても相当にコストがかかることだ。

 ウクライナ戦争を通じて、「中露」が「専制主義国家」として一括りにされ、先進国との間で陣営対立的な構図が生み出されていくことは、中国にとっては避けがたいところであろう。だがそれも、決して容易なことではない。その一因は、次に述べるロシアとの「緊密な」関係だ。

5 中露関係の考え方

 前記のような2022年という年の持つ制約、また対外政策にまつわる制約、また自らの描く世界像などを所与の条件として、中国はいかにウクライナ戦争に対処しようとしたのだろう。また、その際には、そのウクライナ戦争を思い起こし、最重要パートナー国であるロシアをいかに捉えようとしたのであろうか。

 2022年2月、北京冬季オリンピックに際して、プーチン大統領は訪中した。習近平はプーチンに破格の待遇を与え、マスクなしの単独会見をしている様子を国内メディアでも示した。他の首脳との写真はマスク付きの集合写真であったからその差は歴然であった。2月4日の中露共同声明は、前述の通り、ロシアの対NATO政策、ウクライナ政策に支持を与えているように見える。

 2022年2月25日、中露首脳は電話で会談した。この時、中国側の発表によれば、プーチン大統領がウクライナ問題の歴史的敬意とロシアがウクライナ東部で採っている特別軍事行動の状況、またロシアの立場などについての説明を加え、アメリカとNATOが長期にわたってロシアの合理的な安全を無視し、何度も合意を破棄し、普段に東方へと拡大し、ロシアの戦略上のボトムラインに挑戦しているなどと述べ、さらにロシアとしてはウクライナ側とハイレベル交渉を行う用意があるともした。とされている。それに対して習近平国家主席は、「中国としてはウクライナ問題それ自体の是非曲直から自らの立場を決定したい」と述べ、冷戦的な思考ではなく、各国の合理的な安全を重視、尊重して、対話を通じてバランスの取れた、有効で、サスティナブルな欧州の安全枠組みを形成するように求めた、という。しかし、このような中国側の発表に異を唱えるように、北京のロシア大使館は2月28日、習近平国家主席の発言として、「ロシアの指導者が目下の危機的な情勢の下で採った行動を尊重する、と習近平は強調した」と述べようとした。これはロシアのウクライナ侵攻に支持を与えたようにも読める。そして3月、冒頭が紹介したように、王毅外相は中露関係について「国際的な情勢がどのように険悪になとうとも、中露双方は戦略的な実力を保持し、新時代の全面的な戦略協力パートナーシップ関係を不断に前進させていく」と述べたのであった。これを見れば、中露は極めて強い関係を持ち、それを相互に確認していると見ることもできる。

2024年7月18日木曜日

20240718 筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで pp.251-253より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで
pp.251-253より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073612
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073617

 17世紀に初期の顕微鏡を用いて、自然界の事物や動物の組織の観察が行われた。ネーデルラントのレーウェンフクはロンドンの王立協会に多数の書簡を書いて、その観察結果を報告した。その中にたしかに酵母など微生物の観察が含まれているが、それが発酵や病気の原因と結びつけて考えられることはなかった。

 発酵は、古くからパン、ワイン、ビールなどを造るときに起こる現象として知られていた。体内での食物の消化や吸収の過程も、しばしば発酵になぞらえていた。微生物の存在とその働きは、19世紀に発酵が突破口となって明らかにされた。まずドイツのテオドール・シュヴァンは、顕微鏡で酵母を発見したその作用で発酵が起こると発表した(1837年)。しかしこの発酵の酵母説は、有力な化学者のイェンス・ベルセリウスとリービヒによって非難され、シュヴァンはその後の研究を断念した。

 フランスのリール大学の化学教授パストゥールは、ビート糖の発酵障害について相談を受けて研究し、アルコール発酵が微生物の作用により起こることを明らかにし(1860年)、その微生物を酵母と呼んだ。また空気中に存在する微生物が腐敗の原因であり、微生物が自然発生的には生じないことを実験的に証明した(1862年)。さらに発酵についての研究を発展させ、ワインの醸造(1866年)およびビールの醸造(1876年)の研究を発表し、パリのソルボンヌ大学教授になった。パストゥールの研究は、リスターによる外科手術の防腐法の開発に大きなヒントを与えた。

 病気の原因となる微生物は、ドイツのコッホによって発見された。コッホはゲッティンゲン大学で医学を学び、地方の小都市で医官として働きながら炭疽の研究を行い、炭疽菌の芽胞形成と病原性を明らかにした(1876年)。創傷感染症についての研究に取り組んで、創傷に続いて起こる敗血症で膿血症が、微生物の感染によってこることを動物実験と細菌学的検索によって示した(1878年)。

 1880年にベルリンの帝国衛生院に職を得て研究を開始、細菌の染色法や培養法を開発して細菌学の発展に大きく貢献し、当時の重大な感染症であった結核の原因菌を発見した(1883年)。ドイツの調査隊を率いてエジプトとインドでコレラの調査・研究を行い、コレラ菌を発見した(1883年)。ベルリン大学の衛生学教授に任じられ(1885年)、新たに設立された感染症研究所の初代所長になった(1891年)。結核菌の培養濾液からツベルクリンを生成し結核の特効薬として発表したが、これには治療効果がないことがわかり、現在では結核菌の感染の診断に用いられている。1905年にノーベル生理学医学賞を受賞した。

 微生物が感染症の病原体として特定できる条件を示した指針として、「コッホの原則」がよく知られている。コッホ自身が明確な形で述べたものではないが、コッホの弟子のフリードリッヒ・レフレルがジフテリアの病原体についての論文(1884年)の中で、「①疾患部位において微生物が典型的に証明される。②疾患部位で病変に意味のある微生物が分離され純粋に培養される。③(培養した微生物を)接種して病気が再び発生する」という三条件を挙げた。コッホはコレラの病院についての論文(1884年)でこれを捕捉して、微生物が病原体であることを証明するために「接種した動物から得た微生物を健康な個体に接種して同じ病気が生じる」ことが必要であると述べた。これを加えた四項目が、「コッホの原則」として広く知られている。

 コッホの衛生学教室および感染症研究所では、多くの研究者が集まり病原菌の研究を行った。ベーリングと北里柴三郎はジフテリア菌(1883年)と破傷風菌(1889年)を発見し、北里は日本に帰国してから香港でペストの調査をしてペスト菌を発見した(1894年)。パウル・エールリヒは細菌の染色法を開発し、後に抗体の特異性を研究して免疫学の基礎を築き、ゲオルグ・ガフキーはコッホの後任として伝染病研究所所長を務め、結核の等級分類表である「ガフキー表」を開発した。

 さらに病原体の発見を通して感染症に対する治療と予防への道が拓かれた。赤痢菌は志賀潔によって発見され(1897年)。病原体の発見によって、病気は特定の原因によって生じるという確信が生れ、その原因を解明するための研究が進められていった。

 感染症の予防のために最初に編み出された方策は、牛痘の接種による天然痘の予防、すなわち種痘である。これは19世紀末に病原菌が発見されるよりも前の1796年に、イギリスのジェンナーにより始められた。パストゥールは病原体を弱毒化して接種、その病原体による病気の発症を予防・治療する方法を開発し、ジェンナーの栄誉を称えて「ワクチン」と呼んだ。

20240717 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.65‐68より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913

 翌日の二月二十四日、私が寝室から出ていくと、街から帰った料理女に出会った。この善良な女は気が全く動転していて、涙声でわけのわからぬことを私に口走っていた。私には理解できなかった彼女の言葉のなかで、ただ政府が貧しい人びとの虐殺を実行させたということだけがわかった。私はすぐに下りて行き、街路におり立つや革命の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる自分に初めて気がついたのだった。街路の中央には人影がなく、商店は一軒も店に開けていなかった。馬車も散歩の人影も見えなかった。いつもは聞こえてくる路上の呼売り人の声もなかった。戸口で隣人同士が小さなグループに分かれて、うろたえた顔をして、ひそひそと話し合っていた。誰の顔も不安もまた怒りのために血の気を失っていた。私は国民軍の一兵士とすれちがったが、彼は銃を手にして、はや足で悲劇を演じているような姿をして通っていった。私は彼に近づいて言葉をかけたが、彼からは何も知ることができなかった。ただやはり政府が民衆を虐殺したということ以外は(ただ彼はそれに付け加えて、国民軍がそのことの処理に当ることができるだろうと言った)。こうして同じ事実の指摘がくり返されるだけだったが、私には何の説明にもなっていなかった。私は七月王政の堕落の性格を充分に知っていて、そこで残忍な行為が行われることなど全くありえないということについては、確信をもてたのだ。私は七月王政を最も腐敗の激しいものの一つとみなしていたが、また同時に、これまでにみたことがないほど、残忍な性格をもたないものだともみなしていた。そして私は、どんな噂の力をかりて革命が進展して行ったかを示しておきたいがためにだけ、この民衆を政府が虐殺したという言葉を報告しているのである。

 私は隣の通りに住んでいるボーモン氏のところに駆けつけた。そこで夜中に国王がボーモン氏を呼び出したことを知った。ついで出かけていったレミュザ氏のところでも同様の情報を得た。最後に会ったコルセル氏は事の経過を説明してくれた。しかし、それはまだ混乱したものだった。というのも革命のなかの都市にあっては戦場にあるのと同じようなものであって、それぞれの人は自分の目撃した偶発的な出来事を、これこそ革命の事態だと受け取るからである。私はコルセル氏からキャプシーヌ大通りでの銃撃事件のことを知らされ、またこの無益な暴力行為が原因となり口実となって蜂起がいきょに発生したことを知った。モレ氏がこうした状況で内閣を引き受けることを拒否したこと、ティエール、パロの諸氏と、それに最終的に内閣に加わることを引き受けた彼らの友人たちが宮殿に呼ばれたことなども知ったが、これらの事実はもうよく知られていることなので、立入って書くつもりはない。私はコルセル氏に、大臣たちは人心を鎮めるためにどのような動きをするつもりなのかとたずねた。すると氏は、「レミュザ氏から聞いたところだと、軍隊のすべてを後退させ、パリ市内を国民軍で溢れさせる計画だということだ」と言ったのだった。この表現は氏自身のものである。私は絶えず指摘してきたのだが、政治においては過去の記憶があまりに大きいために、しばしば人は身を滅ぼすことになったのである。

2024年7月16日火曜日

20240717 株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」 pp.10‐12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」
pp.10‐12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480031480
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480031488

ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。

 もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。

 ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。

 たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。

 しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。

 ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。

20240716 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」 pp.68‐70より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」
pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188544
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188542

 ーキーウにお住まいのエヴヘン・マイダンスキーさんとカテリーナ・マイダンスカさんご夫妻にお話をうかがいます。エヴヘンさんには昔チェルノブイリ・ツアーの運営でもお世話になりました。まずは侵攻が始まったときのことを聞かせてください。おふたりとも自宅にいたのですよね。

カテリーナ(以下、カーチャ)たまたま緊急の仕事が入って、わたしは二四日の午前二時くらいまで仕事をしていました。寝る直前にゼレンスキーがSNSにウクライナ語ではなくロシア語で「やめろ」と投稿しているのを目にしたのですが、疲れていたし、寝たかった。そうしたら、朝五時に母から電話がかかってきて、「戦争が始まった」と伝えられたんです。「戦争ってなに、寝かせてよ!」と返事したのをおぼえています。でも、すぐに飛び起きて・・・どうすればいいのかわかりませんでした。そのときわかっていたのは、ただ、ロシア軍が攻めてきたということだけでした。

 その後、朝の七時か八時だと思うのですが、ジェーニャ(エヴヘン)に非常事態に備えて荷造りを始めるように頼んで、わたしは食料品や薬を買い出しに行きました。わたしたちはバービン・ヤルの近くに住んでいて、家のすぐそばに薬局があります。通りにはひとが溢れていて、薬局にもすごい行列ができていました。でも、だれひとり話をしません。みんなショックを受けていたんです。そのときはじめて。上空を戦闘機が飛んでいく音が聞こえました。その後、キャットフードを買うためにもう一軒の薬局に行ったのですが、そこにも長い行列ができていた。ずっと並んでいました。それで・・・。正直に言うと、侵攻直後のことは、霧のなかにいるみたいであまり思い出せないんです。

エヴヘン(以下、ジェーニャ)ぼくは家に残り、ソファーを移動させてバリケードをつくりました。窓を閉めて、ドアに鍵をかけて、だれも入れず、猫も逃げ出せないようにしていたんです。ただ、二四日と二五日のことは、恐ろしい夢を見ているみたいで。ぼくもあまりおぼえていません。

カーチャ いまは警報アプリがありますが、当時はまだなくて、最初はニュースが手に入りませんでした。そこで、昔イラクを取材していた戦争ジャーナリストがいたことを思い出して、テレグラムで検索してみたんです。すると、彼は「午前四時頃にキーウに空襲警報が出た」と投稿していました。ジェーニャに伝えて猫を連れて地下鉄の駅に避難しました。駅にはたくさんのひとや動物がいて、だれもが泣きそうになっていた。

ジェーニャ 夜は自宅にかえりましたが、砲撃を避けるために廊下で寝ました。疲れ切っていて、いちど寝たらもう起きれなくなりそうだったので、最初はふたりで交代しながら寝ていました。でも結局、ふたりとも眠ってしまって。

ーその後、キーウから避難したのですか。

カーチャ 二六日にいちど、わたしだけ母の様子を見に行こうとしたんです。母もキーウに住んでいて、わたしたちの家から地下鉄で一本です。そのとき、まだ地下鉄は動いていました。駅はひとで溢れていて、運賃も必要ないと言われた。でも、「あと一五分で動かなくなる」とアナウンスがあって。それで母のところへいくのはあきらめて、歩いて自宅に戻りました。ジャーニャは駅まで迎えにきてくれました。すでに街には機関銃を携えた兵士がたくさんいて、ウクライナ軍の戦車がたくさん走っていました。戦車が道を通り過ぎるのを待っていたとき、「ああ、戦争がはじまったんだ」とようやく実感したのをおぼえています。

ジェーニャ それでぼくたちはその日のうちにキーウを離れました。ビラ・ツェルクバに住んでいるぼくの両親のもとに向かったんです。キーウから南に八〇キロくらいの距離にある街です。五月半ばまで、ぼくたちは両親の家に避難していました。

 ビラ・ツェルクヴァにいた頃は、しょっちゅう猫を抱いて浴室に隠れていました。防空壕に行く時間がないときは壁が二枚以上あるところで過ごすルールになっているんです。壁が二枚あれば、もし砲弾が一枚目を突き破っても、二枚目が守ってくれますからね。同じ理由で、キーウに戻ってきてからは、ずっと廊下にマットを敷いて寝ていました。

ー避難しているあいだ、仕事はどうしていたのですか。

ジェーニャ ぼくは燃料関係の多国籍企業で働いていて、コロナ禍以来、リモートワークだったんです。ここ四年間でオフィスに足を運んだのは一〇回くらいじゃないかな。だから避難しているあいだもリモートで仕事をしていました。こういうときは多国籍企業のありがたさを感じますね。資金力があるので従業員をサポートしてくれます。

カーチャ わたしは外資系ですが、仕事が再開したのは三月の一〇日すぎでした。日常が戻ってきたのは嬉しかったです。仕事のない時期も会社から手当が支給されてはいましたが、正規の給与に戻るのはやはりありがたかった。ウクライナの企業では、侵攻のせいで従業員が解雇されてしまうことも少なくありませんでした。二四日にすべてが止まってしまいましたからね。たとえばわたしの母の会社も最初は仕事がなくなったのですが、幸運なことにすぐに職場に復帰することができました。でも、職を失ってしまった知人もいます。

 仕事をしているときは、戦争のことを考えなくなるので気が晴れるんです。戦争が始まった頃から、オーストリアの心理学者フランクルが強制収容所での経験を書いた「夜と霧」があちこちで引用されています。いわく。最初に心が折れたのは戦争がすぐに終わると思っていたひとだった。二番目に心が折れたのは、いつか戦争が終わると思っていたひとだった。生き残ったのは、戦争という枠にとらわれずに、ただ毎日を生きたひとだった。その言葉が大いに心の助けとなっています。

2024年7月15日月曜日

20240715 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.224‐227より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.224‐227より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

 1876年、コッホは自分の研究を多くの科学者に説明した。その中には、以前から炭疽菌Bacillus antbracisを研究していた植物学者で微生物学者のフェルディナンド・コーンもいた。「bacillus」はラテン語で小さな杖、棹、棒を表す単語で、この細菌の棹状の形を示している。

「anthracis」は石炭と無縁炭を指すラテン語からきており、ある種類の病気に特有の生気のない黒ずんだ肌を指す。

コッホは微生物の生活環と伝染に関する自分の発見と、抑制する方法を説明した。コーンは感銘を受け、絶賛して出版の手筈を整えた。病原菌説支持者にとっては新たな大進歩であったが、自然発生説と瘴気説(196頁)の支持者はさらなる決定的打撃に見舞われた。

 コッホは1880年に帝国保健局に移動した。80年代の後半に彼はコッホの原則として知られる一連の事件ーある微生物が病気を引き起こすと確定するために使われる基準ーを考案した。

時間をかけて、自分が発見した新しい細菌のそれぞれにその条件を当てはめるつもりであった。コッホの原則は4点にまとめることができる
ー感染した生物(植物、動物)ないし組織は当該の微生物を大量に持っているが、健康な個体はもっていない
;微生物は感染した生物ないし組織から分離され、純粋培養で育てられなければならない
;培養された微生物が健康な生物へ入れられると、その生物が病気を発症する
;最後に、その「第2世代」の微生物はふたたび抽出・分離され、もとの微生物と同じだと証明されること。

これらの原則によって、コッホは微生物と病気が不可分であるかどうか確かめようとした。しかし医学はつねにそれほど明快ではない。たとえば、人間や動物の中にはある病気の「保菌者」(キャリア)がいるーごくわずかの症状しか現れないか、何の症状もなく表面上は健康であるが、体に病原菌を保有しているため他の人にうつす可能性がある。したがってコッホの原則は、絶対的な法則ではなく、理想的な基準として今日まで残っている。

 ベルリンでようやく助手付きの、彼にふさわしい実験室をかまえたコッホは、そこで研究の第2段階、すなわち結核についての研究を開始した。彼のチームは新たな方法と技術を開発し続けた。1881年頃の重要な技術革新は、海藻から抽出した寒天を用いたゼリー状の栄養物質での微生物の生育であった。微生物が小さな斑点状に生育するのが目に見えるため、便利で利用しやすかったー栄養液の中に入れてぐるぐるまわしたり、試験管の中深くに埋め込むよりも断然楽だった。この方法はコッホの助手ヴァルター・ヘッセによって開発されたが、それは彼の妻のアンジェリーナがゼリーとジャムを作った後で、ゲル化させるには寒天を入れるといいと言ったのがきっかけであった。

コッホのもう一人の助手ユリウス・リヒャルト・ペトリは発明品に自分の名を与えたーペトリ皿である。この蓋付きの、底が浅く丸いガラス製の平皿だと、寒天が広がるため、その中の微生物が簡単に観察できた。寒天とペトリ皿のどちらも今なお世界中で実験に使われている。

 その時コッホは世界でもっともありふれた、長期にわたる、死に至ることの多い病気ー結核を引き起こす病原菌の試験に臨んでいた。この病原菌は炭疽菌よりも小さく、そのうえ着色した染料にさまざまに反応した。研究は細目にわたり、苦心を要した。1882年3月24日、意気揚々としたコッホが、自分のチームがその病原菌、結核菌を発見し同定したと発表した。「人のかかる病気の重要性が、病気による死病者数で測られるのであれば、結核はペストやコレラなどのもっとも恐ろしい感染症よりもはるかに重大な病気とみなされなければならない」。続けてコッホは彼の開発した新たな染色法などの技術を記し、デンジクネズミを実験動物として用いた方法を、ヒト、サル、家畜の組織の研究とともに説明した。一匹の動物から採取された病原菌を培養液の中で育て、別の動物の体内に入れたところ、どれも結核を発症した。さらなる証拠のためにコッホは顕微鏡、染色された微生物の培養液のガラススライド、組織サンプルの入った壺、その他の器具を作り、観客が自分の目で見ることができるようになった。1カ月以内にその知らせはヨーロッパ全域と、続けて北アメリカ、アフリカ、アジアに広まった。当初コッホのバチルスと呼ばれたその微生物は今では「結核菌(Mycobacterium tuberculosis」と呼ばれる。

 次にコッホが関心を向けたのはコレラ菌であった。1883年、コッホは政府に任命され、エジプトのアレキサンドリアでの流行を調査するドイツコレラ委員会の委員長として派遣された。そこで彼は疑わしげなコンマ形の細菌を同定した。別の機会にインドへ行った彼は、そこでも調査を続けた。ついに原因となる病原菌を特定した。汚染された飲み水と食べ物を通して伝染すること(180~87頁参照)を説明し、予防策と鎮圧方法を助言した。これらの業績によってコッホは10万マルクという巨額の報酬を得て、世界的な名声がさらに高まった。実際のところ、コレラ菌―その後ビブリオ属コレラ菌Vibrio choleraeと命名されたーは、約30年前の1854年にイタリアの解剖学者フィリッポ・パチーニによって発見されていた。しかし病原菌説が当時はまだ見向きもされなかったため、パチーニの業績は認められなかった。

 炭疽病、結核、コレラに関する画期的な研究の後、ついにコッホはへまをした。1890年、大喝采を浴びながら、彼はツベルクリンー結核の治療薬ーを紹介した。彼はその出所を明らかにすることを拒み、動物で試験されたと述べた。当初は人間への実験で効果が確かめられたと報告されたが、ツベルクリンは重い副作用を引き起こすことがあり、時には死に至ることもあった。この治療薬と呼ばれた薬は治療をもたらすどころではなかった。コッホはツベルクリンが細菌の特別な抽出物であることを認めたが、その中身が何であるか正確に説明できなかった。世論は一転して彼を批判した。彼の研究は政府による後援であったとはいえ、彼がツベルクリンの製造者と財政面で関わりのあったことが明らかになると、事態は悪化した。妻と別れ、10代のヘドウィク・フライベルクとの新しい関係も助けにはならなかった。コッホは国を去り、ふたたび旅に出た。イタリア、アフリカ、インド、ニューギニアを訪れ、腺ペスト、らい病、マラリア、狂犬病、人間と家畜におこる珍しい熱病を研究した。1897年、新型のツベルクリンを発表した。これも失敗作だったが、その後、結核の診断に有効な試薬となった。ヒトの結核予防に有効なワクチンはようやく1920年代にー皮肉なことに、パストゥールが創設したパストゥール研究所でー開発された。

 後年の失敗にもかかわらず、コッホによって細菌と感染に関する新たな医学研究が高まりを見せた。彼の弟子には次の研究者たちが含まれる。1884年にジフテリア菌を特定し培養したフリードリヒ・レフラー、同じくジフテリアの研究に携わり、1894年に腺ペスト菌を発見した北里柴三郎、1901年に最初のノーベル生理学医学賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング、1906年に梅毒の初期感染の診断薬を調剤したアウグスト・フォン・ヴァッサーマン、1909年に梅毒治療薬アルスフェナミン(サルヴァルサン)を発見したパウル・エーリッヒなど。1905年、ロベルト・コッホは「結核に関する調査と発見」によってノーベル生理学医学賞を受賞した。ノーベル賞は、彼の不断の研究倫理によって刺激づけられた、数々の革新的な発見のあかしであった。彼が医学校での受賞エッセーに添えた題辞はラテン語で書いてある。「Nunquam Otiosus」、決して怠るなかれと。



20240714 夏になると思うこと、地域の食文化について【2222記事到達】

 今月ははじめから、夏本番とも云えるような酷暑の日が続き、さきの盛夏が思いやられるような夏の始まりであったと云えますが、個人的には、気温が上がり、湿度も高くなり、蒸し暑くなってきますと、南紀、和歌山での記憶が多く想起されます。これまでにも何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、私は首都圏で育ち、そこから、寒い北海道を経て、転勤により南紀白浜に住むことになりました。当初、この転勤は(とても)嬉しくないものでしたが、いまだ雪景色であった北海道を経ての清明の頃の南紀には、何といいますか、生命力の溢れた自然の精気によるものであるのか、いささか陶然とした心持ちが常態化するようなところがあり、そうした環境の中で、さまざまな地の食文化に接していますと、それぞれの食材や、それらを統合した料理の味を、より鮮烈に、そして重層的に、味覚を通じて理解出来るようになると思われるのです。あるいは他の要因も少なからずあるのかもしれませんが、私は、南紀白浜での生活により、それまであまり考えることのなかった地域の食文化に興味を持つようになりました。南紀は辺縁とはいえ和歌山県つまり関西・近畿文化圏に含まれますので、街中や隣の紀伊田辺の市街地には、古くからあると思しき「粉もの」のお店があり、また、それよりもう少しメニューが多く主に定食を提供する「食堂」と云えるようなお店もあり、古来からの地域の外食文化の様相が感じられましたが、他方で丁度その当時は、市街地郊外のショッピングセンターにファーストフードの店舗が出店して数年経った頃でもあり、その後「今度は**が(田辺)市内の**にできた。」といった外食チェーン店進出の情報が度々聞かれるようになりました。これは端的に「中央もしくはさらにその背後にある国際的な食文化の進出」であると云えますが、この高度に情報化された社会において、今さら「中央文化の地方への侵出・・」と思われる方々もおられるかもしれませんが、当時も含めて一定期間、南紀白浜の社会にいた私としては、こうした地元の感覚はたしかにあったと云えます。しかし同時に、そうした外来の食文化などを当初からむやみに排撃しないのも地域性であるのか、興味深いものがあると云えます。ともあれ、そうした経緯により、私は関西・近畿文化圏の辺縁とも云える南紀において、それまで即自的なものであった食材、料理などの食事全般を、対自的なものとして捉えなおす契機を得たのだと云えます。さて、食文化を対自的なものとするためには、おそらく、これまで著された古今東西の関連する文献資料をあたり、その述べるところを整理、検討して自らの言語体系を構築する、いわば演繹的な方法と、個別の事例を出来るだけ数多く文献資料や自らのフィールドワークを通じて取得、蓄積して、そこからある程度蓋然性の高い見解を体系的に述べるといった帰納的な方法があると思われますが、私の場合は、専ら後者をそれと知らず、単に「へえ、そんな料理・食材があるのか・・。」といった態で自分なりに経験を蓄積させていったのだと云えます。そしてまた、そうした経験を通じて、それまで知っていた食文化についての情報が更新され、そしてまた、わずかに興味も亢進されて、徐々に自分の中の食にまつわる要素が対自的なものになっていったのだと思われます。その意味において、我が国の食文化の要石とも云える「醤油」および「鰹節」発祥の地が、この県にあることには、大変興味深い偶然性(あるいは必然か)があるのではないかと思われるのです。

 我が国の伝統的な食文化を検討しますと、やはり全般として、より洗練されているのは、首都圏よりも関西・近畿文化圏であると云えますが、その関西・近畿の料理文化の中心・最先端とは、やはり多くの場合、京都であると言い得ます。しかしながら、その京都の洗練された食文化について、それを構成するさまざまな料理を検討してみますと、それらの多くは古の畿内全域では共通してあった料理(調理法)であったり、さらに、その料理の起源については、また諸説あるといった複雑な様相が多く、そして、そうした系譜づいた様相とは、文化の先端や中心である京都あるいは場合によっては大阪、神戸といった大都市よりも、いまだ一次産品が多く、古来からの食文化が自然に息づいている和歌山のようないわば辺縁地域の方が、より明瞭且つ複雑でない、理解し易い様相として認識出来るのではないかと思われるのです。そして、そうした理解を感覚を通じて得るためには、その地域にしばらくの期間、埋没して暮らす必要があると思われるのです。つまり、ある文化を、より深く、対自的なものとして捉えるためには、予めそれを即自的なものとしておく必要があるのではないかと思われますが、この「予め即自的なものにする」ことは、当記事冒頭にて述べた転勤時の私のように当初は受容し難いものであったとしても、その先に、ある程度の普遍性を持った優れた何らかの事物を見出し、そこでの感覚を自分なりに興味を持って探求し続けていますと、往々にして受容云々はどうでもよくなり、そして、いつしか見えてくるより大きな構造のようなものがあるのではないかと思われるのです。その意味で南紀を含めた紀州・和歌山のゆたかな食文化には、より多くの人々に「ほんまもん」の我が国古来からの食文化を経験する契機になるものが少なからずあるのではないかと考えます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年7月13日土曜日

20240712 書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.119‐121より抜粋

書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.119‐121より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4902854155
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4902854152

 学問は進歩すべき人類の貴重な誇りであるから、決して捨てずに之を研究するのが人類の品位を高うするのである。併しマダ研究の道途にある未製品の儘、之を人類の実際に当嵌めんとするのがいまの馬鹿学者である、即ち今世界に現存する「ソシヤルスト」「アナキスト」「ニヒリスト」「ボルセビーキ」又、今日の各政党なる物の思想如きが、疑もなく学問中毒の夫である、只だ統一的の真理は「デモクラシー」である。是は盛衰不変の威霊によりて保護せねば、真正の「デモクラシー」は存立せず、効果なき物である、夫は我日本が、原始以来其歴史を有した国である。歴史は国の生命である。歴史を有せざれば国とは云われぬのである。即ち歴史の不抜の習慣あると云う事である。不抜の習慣とは、歴史は取引の出来ぬ物である、改正の出来ぬ物である、夫が歴史であって、既に経過したる事実であるからである。

 日本は上から公許したる天理の「デモクラシー」を基礎とした創肇した国であるから、其歴史の半途から論じて見ても、素足に高足駄を穿いて学校に通いつつありし高平太の異名ある清盛でも太政大臣になったのである。

 伊豆の国の蛭が小島の懲役人の小供の頼朝でも、建久三年に覇府を鎌倉に開いて征夷大将軍になったのである。郷士上りの北条時政でも執権職になったのである。尾州中村の土百姓の子の秀吉でも関白になったのである。大飛びに飛んで云うても、長州の軽輩、伊藤博文、山形有朋、寺内正毅、田中義一でも、薩州の平士の黒田清隆でも松方正義でも、総理大臣になったのである。其他素町人、土百姓の国務大臣になったのは、枚挙に遑ないのである。

 之が太古以来、上より下に公許された「デモクラシー」の国である。立派な証拠である、今の青年は斯る結構な「民本国」に生れた事を衷心より喜ばねばならぬ、自己の器量修養一つでは、遠慮会釈もなく国政の大権が握らるるのである、斯る立派な国に生れながら、何の乏しき事あって、其歴史から組織から、遥かに劣等な学問中毒の夢に迷うて居る国の、馬鹿学者の書いた未製品抽象的の学問の真似をして、衆愚を集めて勢力と称し、泥棒をしても懲役に往っても構わぬ、正直な国民の納めた租税十八億円を攫み取ろう取ろうと日夜営々として喚き叫んで、政治の大権丈を得ようと争うと云うは何と云う事であろう。昔日、秦の始皇が儒者二十万人を抗にして殺し、項羽が秦の降卒百万人を殺したのも、害があって益なき者と断定しての所作ならば、或いは一面の理由があったかもしれないのである。

 庵主は決して日本の学者を抗にしたくはない、其れは尊崇なる、陛下の赤子である。ドウか覚醒して貰いたいのである。庵主は決して秦の降卒の如く、行詰って居る政党を殺したいとは思わぬ、夫れは庵主の大事な同胞兄弟であるから、ドウか覚醒して貰いたいのである。庵主の最も親愛する青年諸士は、ドウか庵主に同情をして、ドウか抗にせず殺さずして済むように、一世の吶喊の声を挙げて彼等を覚醒さして貰いたいのである。

2024年7月11日木曜日

20240711 丸9年間のブログの継続と総投稿記事数2220に達して思うこと・・10年間?

 現在作成している当記事の投稿により総投稿記事数が2220に到達します。そして、そこからさらに2記事の更新により2222と、これまでに1回のみの経験であった4桁でのゾロ目となりますので、それまでは出来るだけ速やかに到達したいと考えています。さて、ここ最近は書籍からの引用記事の投稿が続き、そうしたなかで、しばしば「自分の文章によるブログ記事を作成したい。」と思うこともありましたが、引用記事は、そこに本当に興味深いと思われた印象的な記述が含まれていれば、後日、何らかの契機の折り、速やかに、その詳細を想起することが出来るようになると考えることから、以前の投稿記事においても述べましたが、記憶の想起を補助する有効な道具になると考えます。そのため、引用記事の作成・投稿は、オリジナルでのブログ記事作成と比べ、創造的とは云えませんが、これらも、後日、活用することにより、それ(引用記事)がない状況と比べ、いくらかはマシな文章を作成することが多くなるようにも思われますので、本来であれば、現在は、先月6月の22日に到達したブログ継続期間9年以降の休養期間であるとも云えることから、あまり頻繁な更新はしなくて良いとは思うところですが、これまで継続してきた習い性であるのか、作成をしていないと落ち着きがなくなり、また、興味深いと思われた記述のある書籍は、まだ少なからずあることから、何となくで作成していましたが、やがて、それをしばらく継続していますと、面白いもので、何やら自分なりに、現在の状況に似つかわしい記述を引用記事として投稿していたところ、ある程度区切りの良い2220記事にまで至ったため、当記事はオリジナルでの作成としました。そのため、久々でのオリジナルでの記事作成となりますが、文章自体はその他で多少は作成していたことから、そこまで鈍っているといった認識はありませんでしたが、それでも、当ブログでの文体と、その他での文体を比較してみますと、大きくは異ならないとは思われるのですが、当ブログでの文体の方が少し柔らかいようにも思われます。そして、そのように意識を向けてみますと、私はこのように文章を作成してきましたが「それは誰に向けて、どのような視座から?」と、我に返ります・・。これについては、当初数年ほどは、ある程度具体的に想定していましたが、その後、それが惰性のように続いて、2020年からツイッター(現エックス)と当ブログを連動させて、その具体像を可視化されるようになりましたが、それでも、それに因る自らの文体に大きな変化はなかったように思われます。とはいえ、先述の2020年以降のSNSとの連動により、動画や著作を通じて存じ上げていた方々と意外と自然にコンタクトを取れるとがあることを知ってからは、当初は驚きもあって精神が萎縮したためであるのか、しばらくはスランプ気味となりましたが、全く作成出来ないほどではありませんでした。そして先月にブログ開始から丸9年となり、そこから、さらに20記事の追加となりますので、この調子で進めますと、あるいは来年の6月まで続けて10年間の継続となるのかもしれません・・。10年間の継続と考えてみますと、既にその90%は経過した現在において、当初と比べ何かの実感を伴う変化はあったのかとも思われますが、そうしたことは残念ながら今のところ想起されません・・。ともあれ、未だ本調子にはならず、今しばらくは引用記事を主として作成・投稿したいと考えております。しかし、ここ最近、以前と比べて眼などが疲れやすくなってきたと感じられますので、10年間の継続のためにも、出来るだけさまざまな無理は避けようと思います。そしてまた今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2024年7月10日水曜日

20240710 慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」 pp.103‐106より抜粋

慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」
pp.103‐106より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766417445
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766417449

 ペリーが渡来して以来、徳川幕府が諸外国と条約を結ぶに及んで、日本人は始めて幕府の措置の拙劣さ、その弱体さを知るに至った。さらに外国人と接触して、彼らの意見を聞き、また洋書を読み、訳本を見るにつれて、いよいよ見識が広くなり、鬼神の如き幕府といえども、人の力で倒せぬことはないと信ずるようになった。たとえていえば、つんぼや盲の耳や目が急に直って、始めて声や色を見聞したようなものである。

 こうして起った最初の議論は攘夷論であった。そもそも攘夷論が起った原因は、決して人々の利己的な感情ではない。自国と外国との別を明らかにし、自国の独立を守ろうとする誠意から出たものである。開闢以来始めて見知らぬ異国人と接したのだから、真っ暗で静かな深夜から、急に騒音だらけの白昼に変ったようなものだ。見るもの聞くものすべて奇奇怪怪で、気に食わなかったのは無理もない。攘夷家の志は、自分一個の利益のためではなく、日本と外国との優劣を自分なりに想像して、身を以て万国に冠たる祖国の運命を担おうと誓ったのだから、義勇奉公の精神といわなければならぬ。もちろん急に暗やみから明るみに飛出したような時代とて、戸惑うあまり、その思想は理路整然たるわけにはゆかない。その行動もとかく粗暴で、無分別に陥りやすかった。要するに、愛国心としては、粗雑で未熟なるを免れなかったが、ともあれ、国に尽くそうというのが目的だから、やはり無私の精神とせねばならぬ。またその論は、外敵を追っ払おうという一念だけだから、きわめて単純なものである。無私の精神で単純な議論を唱えれば、当然その意気込みはエスカレートせざるを得ない。これすなわち攘夷論が最初、力を得た由縁である。世間も一時この勢にのまれて、外国と交際することの利益は見ずに、ただ外国を憎む一方となった。天下の悪事はすべて外国との交際にありとして、少しでも国内に災害があれば、何もかも外人の所業、外人の謀略と称し、国をあげて外国との交際を喜ばぬ始末であった。たといひそからにそれを欲する者があっても、世間一般の風潮に同調せざるを得なかったのである。

 ところが幕府自体は、外交の衝に当る責任者だから、外人との交渉には相当の道理を以て臨まねばならぬ。幕府の役人とて、内心外交を好む者ではなかったが、外国の圧力と理詰めの談判とに抵抗しかねて、一応外交の必要を国民に説かざるを得なかった。だが、そんな理由は、攘夷論者から見れば、いかにもいくじのない一時遁れの欺瞞にした映じない。そこで幕府は、国民の攘夷論と外国人との板ばさみとなり、進退きわまった格好である。国民の力と平衡を保つどころか、ますます体制の弱体ぶりを暴露するに至った。そこで攘夷論者はいよいよ図に乗って、その活動は天下御免の形となり、攘夷復古・尊王討幕を看板にして、もっぱら幕府を倒し、外人を追っ払うことに狂奔した。その際、殺人・放火など、識者の眉をひそめるような暴力沙汰も少なくなったが、ともあれ倒幕という点で世論は一致し、全国の知力がすべての目的に集中した結果、慶応の末年に至って、ついに維新の革命は成功したのである。

 しかるに、この線を進めてゆけば、当然王政復古の暁は、直ちに攘夷を実行すべきであるのに、そうはならなかった。また仇敵の幕府を倒した上は大願成就のはずなのに、さらに一般の大名や武士まで抹殺したのはどうしたことだろう。思うにそれは偶然ではない。攘夷論は単に維新の最初の段階にすぎず、いわゆる事の近因をなしただけだからである。国民の知力は、最初かたその進む方向が別にあった。目的とするところは、王政復古でも、攘夷でもない。復古攘夷を名目にして、実は旧来の門閥専制の制度を退治するのが眼目だったのである。だから維新の主役は皇室ではなく、また適役も幕府ではなかった。つまりは知力と専制との戦いで、これを遂行した原動力は、国民すべての知力だったのだ。この知力こそ、事の遠因だったのである。

 この遠因たる国民の知力は、開港以来、西洋文明国の学問思想を援軍としたので、洋学の勢力は強大になった。だが、知力の戦いを進めるには、先頭を切る兵隊が要るわけだ。そこでしばらくかの近因たる尊王攘夷論を味方にして、専制門閥打倒の戦いを展開し、維新を成功させて凱旋したのである。先鋒をつとめた攘夷論は、一時大いに力を得たようだが、維新後には、次第にその理論が粗雑で、永続できぬことが分かってきた、そこでかつての無鉄砲な攘夷家も、だんだん武力主義を捨てて、知力主義の方に転向し、今日の日本を見るに至ったのである。今後もこの知力がますます勢いを得て、往時の粗暴幼稚な愛国心を周密高度の愛国心に高め、それによってわが国体を護持できるならば、無量の幸福というべきである。くり返していえば、王政復古は皇室の威力によるのではなく、皇室はただ国内の知力に尊王の看板を貸したにすぎない。廃藩置県も、維新の実力者の英断によるのではなく、彼らはむしろ国内の知力に動かされて、国民のエネルギーを具体化しただけである。

20240709 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.138-142より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.138-142より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

 もし、一握りのエリート層の手に富と権力が集中するのを防ぎたいのなら、データの所有権を統制することが肝心だ。古代には、土地はこの世で最も重要な資産であり、政治は土地を支配するための戦いで、あまりに多くの土地があまりに少数の手に集中したときには、社会は貴族と庶民に分かれた。近代には機械と工場が土地よりも重要になり、政治闘争は、そうした必要不可欠な生産手段を支配することに焦点を合わせた。そして、あまりに多くの機会があまりに少数の手に集中したときには、社会は資本家階級と無産階級に分かれた。それに対して二一世紀の最も重要な資産はデータで、土地と機械はともにすっかり影が薄くなり、政治はデータの流れを支配するための戦いと化すだろう。もしデータがあまりに少数の手に集中すると、人類は異なる種に分かれることになる。

 データの獲得競争はすでに始まっており、グーグルやフェイスブック、百度(パイドウ)、勝騰(テンセント)といった巨大なデータ企業が先頭を走っている。これまでのところ、こうした巨大企業の多くは、「注意商人(attention merchant)」というビジネスモデルを採用しているようだ。彼らは無料の情報やサービスや娯楽を提供することで私たちの注意を惹き、その注意を広告主に転売する。とはいえ巨大なデータ企業はおそらく、従来のどの「注意商人」よりもはるかに上を狙っている。彼らの真の事業は広告を売ることではまったくない。むしろ、私たちの注意を惹いて、私たちに関する膨大なデータを首尾良く蓄積することだ。そうしたデータはどんな広告収入よりも価値がある。私たちは彼らの顧客ではなく、製品なのだ。

 中期的には、このようなデータの蓄積は、これまでとは根本的に異なるビジネスモデルへの道を拓く。その最初の犠牲者は、広告業界そのものになるだろう。新しいビジネスモデルは、物を選んで買う権限を含め、さまざまな権限を人間からアルゴリズムへと移すことに基づいている。いったんアルゴリズムが私たちのために物を選んで買うようになれば、旧来の広告業界は潰滅する。グーグルを考えてほしい。グーグルは、私たちが何を尋ねても、世界一の答えを与えられる段階まで到達することを望んでいる。私たちが、「こんにちは、グーグル。あなたが自動車について知っていることのいっさいと、私(私の必要や習慣、地球温暖化についての見方、さらには中東の政治についての意見まで含む)について知っていることのいっさいに基づけば、私にいちばんふさわしいのはどの自動車?」とグーグルに訊くと、どうなるか?もしグーグルが適切な答えを与えることができ、もし私たちが、簡単に操作されてしまう自分自身の感情でなくグーグルの知恵を信頼することを経験から学べば、自動車の広告など、なんの役に立つだろう?

 長期的には、巨大なデータ企業は十分なデータと十分な演算能力を併せ持つことで、生命の最も深遠な秘密をハッキングし、そうして得た知識を使って私たちのために選択をしたり私たちを操作したりするだけでなく、有機生命体を根本から作り直したり非有機生命体を創り出したりできるようになりうる。巨大なデータ企業は、短期的には経営を維持するために広告の販売を必要とするかもしれないが、アプリケーションや製品や企業を、それらが生み出すお金ではなく獲得するデータに即して評価することが多い。人気のあるアプリは、ビジネスモデルを欠いていて、短期的には損失を出しさえするかもしれないが、データを惹き寄せてくれるかぎり、莫大な金銭的価値を持ちうる。たとえ今はそのデータからどうやって利益をあげるかわからなくても、データは持っておく価値がある。なぜなら、将来、生命を制御したり、生命の行方を決めたりするカギを握っているかもしれないからだ。巨大なデータ企業がそれについてのそういう形で明確に考えているかどうかは、はっきりとはわからないが、彼らの行動を見ると、ただお金よりもデータの蓄積を重視していることがうかがわれる。

 普通の人間は、この過程に逆らおうとしたら、ひどく難儀するだろう。現時点では人々は自分の最も貴重な資産、すなわち個人データを、無料の電子メールサービスや面白おかしい猫の動画と引き換えに、喜んで手放している。色鮮やかなガラス珠や安価な装身具と引き換えに、ヨーロッパの帝国主義者に図らずも国をまるごと売ってしまったアフリカの部族やアメリカの先住民と少し似ている。後で普通の人々がデータの流れを遮断しようと決めたとしても、そうするのはしだいに困難になるだろう。自分のありとあらゆる決定はもとより、医療や身体的生存のためにさえ、ネットワークに頼るようになれば、なおさらだ。

 人間と機械は完全に融合し、人間はネットワークとの接続を絶たれれば、まったく生き延びられないようになるかもしれない。子宮の中にいるうちからネットワークに接続され、その後、接続を絶つことを選べば、保険代理店からは保険加入を拒否され、雇用者からは雇用を拒否され、医療サービスからは医療を拒否されかねない。健康とプライバシーが正面衝突したら、健康の圧勝に終わる可能性が高い。

 あなたの体や脳からバイオメトリックセンサーを通してスマートマシンへ流れるデータが増えるにつれて、企業や政府機関は簡単にあなたを知ったり、操作したり、あなたに代わって決定を下したりするようになる。なおさら重要なのだが、企業や政府機関は、すべての体と脳の難解なメカニズムを解読し、それによって生命を創り出す力を獲得しうる。そのような神のような力を一握りのエリートが独占するのを防ぎたければ、そして、人間が生物学的なカーストに分かれるのを防ぎたければ、肝心の疑問は、誰がデータを制するか、だ。私のDNAや脳や人生についてのデータは私のものなのか、政府のものなのか、どこかの企業のものなのか、人類という共同体のものなのか?

 政府にそのデータを国有化するように義務づければ、おそらく大企業の力を制限できるが、ぞっとするようなデジタル独裁国家を誕生させかねない。政治家はミュージシャンのようなもので、彼らが演奏する楽器は人間の情動系と生化学系だ。彼らが演説を行う。すると国中で恐れの波が拡がる。彼らがツイートする。すると憎しみの爆発が起こる。こうしたミュージシャンにこれ以上高性能の楽器を与えて演奏させるべきではないと思う。いったん政治家が、直接私たちの情動のスイッチを入れて、不安や憎しみ、喜び、退屈を意のままに生み出せるようになれば、政治はただの情動操作の茶番と化すだろう。私たちは大企業の力を恐れるべきではあるが、歴史を振り返ると、やたらに強力な政府の管理下に置かれるほうが必ずしもましではないことが見て取れる。

 

2024年7月8日月曜日

20240707 株式会社紀伊国屋書店刊 徳仁親王著「テムズとともにー英国の二年間」 pp.108‐111より抜粋

株式会社紀伊国屋書店刊 徳仁親王著「テムズとともにー英国の二年間」
pp.108‐111より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4314012005
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4314012003

 オックスフォードの学生は一般によく勉強する。それはチュートリアルの効果が大きく、学部学生の場合でも俗にコレクションズ(Collections)と呼ばれるテストが学期ごとに行われ、学力診断が頻繁になされることとも関係する。また、学生は自分自身の意見をはっきり表明する。それはゼミナールや種々の討論会の時などはもちろん、日常会話の節々にも現れる。チュートリアルの時には、エッセイに自分の意見が入ってなければ、先生に満足してもらうことはできない。私が接した多くの学生がひじょうに幅広い教養を身につけていることも驚いたことの一つであった。特に、彼らは何人かが集まった時の話題の出し方がとても上手であり、居合わせた人すべてが何らかの興味を示しそうな話を選び、それを発展させていく。一言でいえば社交上手である。パーティーの席などではそれが遺憾なく発揮される。私も誕生日にマートンの学生を数十人招いてパーティーをしたが、ホストである私はうまく運営しようと心配するまでもなく、彼らが上手に会を盛り上げてくれた。心配は、むしろ日本酒を普段飲みつけない学生がいともおいしそうに賞味していたことであった。案の定数人が二日酔いの憂き目にあったという。

 ところで、彼らの日本に対する興味は科学技術および経済に関するものが多く、文化に対しては、きわめて特色あるものとは認めながらも、いま一つよく分からない様子であった。要するに、何々会社がどんな製品を作り、どんな点に特色があるといったことはよく知っていても、中には日本が赤道の北にあるのか南にあるのか分からない学生もいた。そうはいっても、「折り紙」や「盆栽」といった言葉がすでに多くの学生の間で知られていたのは嬉しいことであった。

 学生の身なりが質素な点も一つの特色であろう。また、それと同時に服装がバラエティーに富むことも見逃せない。すりきれたジーンズ、つぎのあたったセーターを平気で着、それでいて色の組み合わせなどにその人独自の個性が見られる点も面白い。夕刻になると、パーティーに行くためかディナー・ジャケットに身を包んだ学生の姿をよく見かける。特に女性が普段地味なのも、ひょっとすると彼女たちの着飾った自分たちを知っており、それができる自信が、通常の服装をかえって目立たなくさせているようにさえ思えるのである。

 オックスフォードでは学生はたいがい自分の自転車を持っている。オックスフォード市には一方通行の道が多く、市中心部の道路は大半が駐車禁止であることから、自動車はむしろ不便で、図書館や研究施設に自転車で通う学生の姿が多く見られる。私が初めてオックスフォードで自転車に乗った日、これを見たある学生が、私に「ああ、君もこれで本当のオックスフォードの学生になったね」と言ったが、それほどに学生と自転車は切りはなせないものとなっている。どの学生の自転車も相当年季が入っており、前輪と後輪とが乗っているうちにバラバラになりそうな代物が多い。自動車となると、持っている学生はかなり限られる。コレッジ内に住んでいる分には、どこに行くにも自転車の方が便利だからである。しかし、外部に住んでいる学生はその限りではなお。私も大学院生の車に乗せてもらったことがあったが、これもいつこわれるか分からないような相当古いものだった。服装といい、乗り物といい、古くて多少きたなくなっても使っているのは、オックスフォードでの一つのファッションなのであろうか。

 このように見てくると、オックスフォードの学生はすべて優等生と思われるかも知れないが、実はオックスフォードにはずいぶん変わった学生もいる。先に紹介した額に星のマークをつけている女子学生をはじめ、パンク・ファッションの学生もいないわけではない。また、あまりに頭が良すぎてとてもその人の発想についていけないこともあった。頭がいいといえば、私が入学した年、オックスフォードに弱冠十三歳の数学専攻の女性が入学したが、他のどの学生よりもよくでき、三年間在学しなければ卒業できない決まりがあるにも関わらず三年目に受ける試験を二年目で受けてしまった人がいた。

 変わっているという点では、ドンと呼ばれるオックスフォードの先生の方が面白い。見かけからしていわゆるエクセントリックな先生がいる。真冬でもワイシャツ一枚で出歩いたり、髪の毛をいっさい切らなかったり、窓のカーテンをすべて閉めきって研究していたり様々である。しかし、総じてオックスフォードの先生はまるで歩いている字引のようにものをよく知っている。学生がハイ・テーブルに招かれても、先生方はあまりに頭が切れ知識が多いので、会話に困る学生もいるといった話はすでにした。マートンのある先生がクイズに出て、ただ一人の全問正解を遂げたなどのエピソードも伝え聞いた。オックスフォードの先生でその名のよく知られている人に、「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロル(本名はドッジソン)がいる。彼はクライスト・チャーチ・コレッジで学び、そのコレッジで数学を教えていた。「不思議の国のアリス」は同コレッジのリデル学長の三人の息女と一人の同僚とともにテムズを船で遡る際に、彼女らの頼みに応じてルイスが語った次女のアリスを主人公とする物語である。また、映画「アラビアのローレンス」の主人公ローレンスもオックスフォードのオール・ソウルズ・コレッジの先生であった。

2024年7月6日土曜日

20240706 株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 下巻 pp.133-137より抜粋

株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 下巻 pp.133-137より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480087389
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480087386

 アイヌ民族が行っている熊の生贄の意味についてもまた、不確かなものがある。これは日本列島の島、エゾとサハリン、および千島列島の南部にも住む未開民族である。アイヌの熊に対する態度は、容易には理解しがたい。彼らは熊を「カムイ」という、「神」を意味する名で呼ぶが、一方で同じ語は外来者に対しても用いられるので、おそらく、超人的な力を備えているとみなされる存在以外の何者をも指してはいないだろう。またつぎのようにも言われている。「熊は彼らの主要な神である」。「アイヌの宗教において、熊は主要な役割を果たしている」。「動物の中で、とりわけ偶像として崇拝されているのが熊である」。「彼らは熊を独自の方法で崇拝する。…この野生の動物が、自然の非動物界の力よりも強力に、人に崇拝の念を呼び起こすものであることは疑いを容れない。アイヌ民族は、熊崇拝者と分類してよいだろう」。だが一方で彼らは、殺せるときはいつでも熊を殺す。「男たちは、秋と冬と春には、鹿と熊を狩って過ごす。貢物や税はその毛皮で支払われ、その乾燥肉を食べて暮らす」。実際熊の肉は彼らの主食のひとつである。生のまま食べることもあれば、塩漬けにして食べることもある。また熊の毛皮は彼らの衣服となる。事実、この主題について述べている著述家によれば、その「崇拝」は、もっぱら死んだ動物に対してのみ行われるものと見える。つまり、彼らは殺せるときはいつでも熊を殺すが、その死体を解体する過程で、入念に敬意を表し、謝罪のことばを述べながら、この神性を宥めようと努める。彼らが殺したのはその神の表象なのである」。「熊が罠にかかったり矢で射抜かれたりすると、猟師たちは謝罪の儀式ないし贖いの儀式を執り行う」。殺された熊の頭蓋は、小屋の中野栄誉ある場所に置かれるか、小屋の外の神聖な場所に置かれ、大変敬意をもって扱われる。これには「サケ」という名の神酒が捧げられる。キツネの頭蓋もまた小屋の外の神聖が場所に固定され、悪霊に対する護符とみなされ、また神託を求められる。だがつぎの点ははっきりと述べられている。「生きているキツネは生きている熊と同様、崇められることはほとんどない。人々はむしろこれを、できる限り避けようとする。ずる賢い動物と考えているのだ」。したがって熊は、アイヌによって神聖な動物として語られることはない。また明らかにトーテムではない。というのも、人々は自らを熊と称することはないし、自分たちが熊の子孫であるという伝説を持っていないように見える。彼らはこの動物を好きなように殺し、食するのである。

 だがここでわれわれに関係があるのは、アイヌの熊の祭り(いわゆる「イオマンテ」、「熊送り」を指す)である。冬の終わりになると、彼らは幼い熊を捕らえて村に連れてくる。最初はアイヌの女が乳を与え、その後は魚が与えられる。強い大人の熊に育ち、入れられている木の檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。しかし「とりわけ驚かされるのは、幼い熊が単に上質の食べ物を与えられるのみならず、呪物として、あるいはむしろ、一種の高次の存在として扱われ、崇められている事実である」。祭りは一般に九月か十月に行われる。その前にアイヌたちは神々に謝罪し、これまでこの熊を可能な限り大切に扱ってきたが、もはやこれ以上食事を与えることはできず、殺さざるを得ない、と申し立てる。熊の祭りを行う男は親戚や友人を招き、小さな村ではほとんど村人全員がこの祭りに加わることになる。このような祭りのひとつについては、ショイベ博士が目撃し、記録している。博士が小屋に入ると、およそ三十人のアイヌたちがいた。男も女も子どもも、皆盛装している。この家の主人はまず、炉で火の神に神酒を捧げ、他の客たちもこれに倣う。つぎに神酒はこの小屋の聖所で家の神にも捧げられる。その間、これまで熊を育ててきた家の主婦は、ひとり悲しみに沈んで静かに座り、ときおり涙を溢れさす。彼女の悲しみに偽りがないことは明らかであり、それは祭りの進行とともに深まるばかりである。つぎに、家の主人と何人かの客が小屋から出て、熊の檻の前で神酒を捧げる。数滴は皿に入れて熊に与えられるが、熊はすぐにこれをひっくり返す。そして主婦たちと娘たちが、檻の前で踊る。熊の檻に顔を向け、膝をわずかに曲げ、起き上がっては爪先で飛び上がるという踊りである。踊りながら女たちは手拍子を打ち単調な歌を歌う。家の主婦と、これまで多くの熊を育ててきた少数の老婆たちも、涙を流しながら踊る。熊に向かって両腕を差し出し、愛情のこもったことばで呼びかける。若者たちはほとんど悲しみとは無縁の様子で、笑いながら歌を歌う。騒がしさに心乱された熊は檻の中で激しく動き回り、悲しげな遠吠えを上げる。つぎに、アイヌの小屋の外に立てられている、イナウ(著者はinabosと記しているが、複数のイナウの意であろう。幣同様、神事に用いられる木製の幣束)という名の神聖な細枝の束に、神酒が捧げられる。この枝は二フィートほどの長さで、先端は削られ、螺旋状の鉋屑のようになっている。この祭りでは、笹の葉を付けた五本の新しいイナウが立てられた。これは熊が殺されるときにはかならず立てられるものである。笹の葉には、熊が甦るようにという願いが込められている。熊が檻から出されると、首に縄が掛けられ、小屋の周りを引き回される。この間、男たちは、ひとりの長に先導され、先端に丸い木の付いた矢を放つ。ショイベ博士もこれに加わらなければならなかった。つぎに熊はイナウの前に連れてこられ、一本の棒が口に入れられる。九人の男が膝で抑えつけ、柱に首を押しつける。五分後には熊は声も上げずに息絶える。一方主婦たちと娘たちは男たちの後ろに立ち、歎きながら踊り、熊を殺した男たちを打つ。つぎに熊の遺体は、イナウの前に敷かれた筵の上に置かれ、イナウの中から取り出された剣と箙が熊の首に下げられる。熊が雄の場合、首飾りと耳輪もつけられる。そして雑穀の煮汁と雑穀の塊、および鉢一杯の酒が、食べ物ととして熊に捧げられる。死んだ熊を前にして筵の上に座っている男たちは、これに神酒を捧げ、大酒を飲む。一方主婦たちと娘たちは、悲しみの跡をすっかり消し去り、陽気に踊り、老婆たちもまただれにも劣らず陽気に踊る。宴たけなわとなった頃、熊を檻から出した二人の若者が、小屋の屋根に上り雑穀の塊を皆に投げる。皆は老若男女の区別なく、これを奪い合う。つぎには熊は皮を剥がれ、はらわたを抜かれ、胴から首が切り落とされるが、このとき、皮は首のほうに残るようにする。血は椀に受けられ、これを男たちが大いにありがたがって飲む。禁じられてはいないものの、女と子どもは飲まないようである。肝臓は細かく切り刻まれて生のまま塩をつけて食されるが、これは女も子どもも食べる。肉とその他の内臓は家に持ち帰られ、翌々日まで保管されるが、その日には、宴に参加した者たち全員がこれを分け合う。血と肝臓はショイベ博士にも配られた。熊がはらわたを抜かれている間、主婦たちと娘たちは最初と同じ踊りを踊る。だが今回は檻の周りではなく、イナウの周りを踊る。この踊りで、先ほどまで陽気だった老婆たちは、再びさんざん涙を流す。熊の頭から脳が取り出され、これが塩とともに飲み干されると、頭蓋は皮から切り離され、イナウの傍の竿に吊るされる。熊の轡となっていた棒もまた、竿に括り付けられ、遺体に下げられていた剣と箙も同様に竿に付けられる。後者は一時間ほどで外されるが、他はその後もそこに立てられたままになる。人々は皆、男も女もこの竿の前で騒々しく踊り、今度は女たちも加わって酒宴が始まり、これが終わると祭りも終わる。


Chatgptを用いて作成した要旨
アイヌ民族が行う熊の生贄の意味は明確には理解されていない。アイヌは日本列島のエゾ、サハリン、千島列島南部に住む民族であり、熊に対して「カムイ」という「神」を意味する名を用いる。しかし、この言葉は外来者にも使用され、超人的な力を持つ存在を指している可能性が高い。熊はアイヌの主要な神であり、特別な崇拝の対象であるとされる一方で、彼らは熊を頻繁に狩り、肉や毛皮を利用する。熊の肉はアイヌの主食のひとつであり、熊の毛皮は衣服として使われる。この矛盾した態度は、彼らが熊を殺す際に入念に敬意を払い、謝罪の言葉を述べながら解体することに現れている。殺された熊の頭蓋は神聖な場所に置かれ、神酒が捧げられる。キツネの頭蓋も同様に扱われるが、生きているキツネは熊ほど崇拝されない。アイヌは熊をトーテムとは見なしておらず、自らを熊の子孫と称する伝説も持たない。

特に重要なのはアイヌの熊の祭り「イオマンテ」だ。冬の終わりに幼い熊を捕まえ、アイヌの女が乳を与え、後には魚を与える。熊が成長し、檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。祭りは九月か十月に行われ、熊に対する謝罪の言葉と共に熊を殺すことが申し立てられる。祭りには親戚や友人、村人全員が参加し、神酒が捧げられ、踊りが行われる。熊が檻から出され、首に縄を掛けられ、小屋の周りを引き回され、矢を放たれる。熊が殺されると、その遺体は神聖な場所に置かれ、剣と箙が首に下げられ、雑穀の煮汁と酒が捧げられる。死んだ熊の前で神酒を捧げ、大酒を飲む一方、女たちは悲しみから陽気に変わり、踊り続ける。熊が皮を剥がれ、はらわたを抜かれた後、その肉は保管され、参加者全員で分け合う。熊の頭蓋は皮から切り離され、神聖な竿に吊るされ、祭りが終わると共に、皆で酒宴が始まる。

このように、アイヌの熊の生贄の儀式は単なる食料確保や毛皮利用以上の宗教的、社会的意味を持つものであり、熊は崇拝される対象でありながら、生活の一部として狩猟される存在である。アイヌの熊に対する態度は、自然との共生や霊的な関係を示すものであり、彼らの文化や信仰の深層に根ざしている。

2024年7月4日木曜日

20240704 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」 pp.573‐576より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」
pp.573‐576より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

頭をこわされた土井ヶ浜人

 山口県の響灘沿岸は、大陸との交渉を考えるうえで重要な土地である。二〇〇体あまりの人骨の出土した豊浦郡豊北町の土井ヶ浜遺跡は、港をひかえて集落があったと推定されているが、砂丘上の弥生前期の墓地から、一二四号人骨が発掘されたのは、一九五四(昭和二十九)年の調査であった。体格のいい成人男性だが、右腕に南島産のゴホウラ貝で作った腕輪(貝輪)をはめていて、全身に一一本の石鏃とサメの歯で作った二本のヤジリ計十三本のヤジリがつきささっていた。それについて、金関氏は、ハリネズミのようだという古人の形容を引用しておられる。「英雄の墓」と一部でいわれた理由である。 

 だが金関氏の観察は鋭い。この男性の頭骨は故意に砕かれていた。そこから推理すると、集団内の呪師のような人物は、その死が非業の死であったような場合には、危険な死霊がさまよい出ないように死体に損傷をあたえたとみておられる。このようにみると、「戦士や英雄の墓」か、それとも「呪師の墓」か、ヤジリが射込まれているという事実は同じでも、解釈はまったく変わってくる。

 人が殺されるのは、戦さ、刑罰、復讐といった常識的なもののほか、「魏志」倭人伝では持衰をあげている。「海を渡って中国へ行くには、いつも一人の者に、髪を梳らず、しらみも取らず、衣服は垢で汚れたままにし、肉も食べず、婦人も近づけず、喪に服している者のようにさせる」。そのあと、航海がうまくいけば、生口(奴隷)や財物をもらうが、逆の場合は持衰が謹厳でなかったからだとして、殺されたりする。

 持衰は船にはのらないで、陸上で祈祷の生活をしていたのであろう。ことによると、三浦半島の損傷のある人骨は、これも「海と陸のあいだの前方後円墳」でふれた浦賀水道の航海に関したものかもしれない。走水の海とよばれた浦賀水道が航海の難所であったことについては、弟橘比売命の入水伝説として「記紀」に語られている。三浦半島での弥生時代と古墳時代の卜骨の集中も、走水の海の航海に関係していたと私は考えている。もちろん私の想像にすぎないが、航海を安全の保障者、引受人的な性格のある持衰の失敗で、自分の縁者が生命を失ったと信じこむならば、持衰はたんに殺害すべき対象というより、復讐の相手になるだろう。このことは、大浦山人骨やひいては土井ヶ浜人骨についての一つの仮説になるだろう。

易えられる王、殺される王

 土井ヶ浜の例では、体内にのこされていたと推定されるヤジリは美しい磨製石鏃である。実際の戦闘では、打製石鏃のほうが肉体にあたえる打撃が大きく、土井ヶ浜の石鏃は儀式用という気配が強い。山賀の例は打製ではあるが、鋸歯縁の精巧な石鏃で、めったに見かけるものではない。特別のヤジリという点では根獅子の銅鏃も同じだが、このほうは、損傷個所に変化があるという解剖学的所見が動かなければ、戦闘のきずとみてよかろう。

 土井ヶ浜人骨についての金関氏の推測が当たっているならば、体内でヤジリののこり方が共通する雁屋や山賀の例も「戦士の墓」かどうかあらためて検討する必要がある。

 常識的になるが、矢をうけて、それが原因で生命を失い、埋葬される場合としては、①狩猟などであやまって矢をうけた、②戦いの最中に矢をうけた、③刑罰として射殺された、などがあるし、また死後に矢を射込まれた場合として、先ほど述べた金関説のように死霊の再帰を防ぐため徹底的に殺害するなどがある。

 このうち、狩猟中の偶然の被害は、矢の数が多いことでまったく成立しない。また「戦士の墓」が多いころ、弥生中期の争乱か、それに近い時期ではあるが、戦いの最中でのきずということにも、私は不自然さをおぼえる。「三国志」烏丸鮮卑東夷伝の夫余の状にその習俗についての名高い記事がある。「水旱(天候)調わずして五穀熟らずば、その咎を王に帰し、王を易えるべきだとか、王を殺すべきだという意見がでる」

 この夫余の習俗では、農耕生産について王の咎が問われるわけだが、おそらく「倭人伝」の持衰について描写されていたような司祭者としての禁忌の度合が問われるのであろう。だから、首長が集団に殺されることがあるというのは、ある場合には生産の問題であり、あるいは航海の安全であり、またある場合には戦さの帰結であっただろう。私には河内平野の「戦士の墓」が、もちろん、その人物らが戦士であることを否定できないまでも、壮絶な戦死者の墓としてよいかどうかの決定は今後にのこるように思う。

2024年7月3日水曜日

20240702 株式会社筑摩書房刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「呪われた部分ー全般経済学試論・蕩尽」 pp.74‐76より抜粋

株式会社筑摩書房刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「呪われた部分ー全般経済学試論・蕩尽」
pp.74‐76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480098402
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480098405

我々は、メキシコ先住民の人身御供を、それ以前の人身御供よりも、完全に、そして生々しく知っているのだが、このメキシコの人身御供ときたら、宗教儀式の残酷史を頂点へ至らしめているのである。

 神官たちはピラミッドの高みで生け贄を殺害した。彼らは生け贄を石の祭壇の上に横たえて、その胸を黒曜石の刃物で突き刺すのだ。それから、まだ脈打つ心臓を取り出して、太陽へ掲げるのである。大多数の生け贄は戦争の捕虜だった。それゆえ、太陽の生命に必要な戦争という考えは正当化された。戦争は、征服ではなく、蕩尽という意味を持っていたのだ。戦争がなくなると、太陽が地上を明るく照らすこともなくなるとメキシコ先住の人々は考えていた。

 「復活祭のころに」一人の若くて、非の打ちどころのない美しい男が、生け贄に投じられた。この男は、すでに一年前に捕虜のなかから選ばれていたのだ。以後彼は大貴族のように暮らしていた。「手に花を持って、お供の人々に囲まれて町の中を練り歩いた。会う人みなに優雅に挨拶すると、挨拶された方も、彼をテズカトリポカ(最も偉大な神の一柱)の化身とみなし、彼の前に跪いて敬意を表するのだった。」ときどきカウチクシカルコのピラミッドの上の神殿で彼の姿が見受けられた。「彼は、昼でも夜でも気が向くと、その頂きに行って、横笛を吹き、それが終わると、世界の様々な所へむけてお香を焚き、自分の住まいへ帰るのだった。」彼の生活の優雅さや貴公子然とした気品のために人々はありとあらゆる気配りをした。「彼が太りだしたときには、細身の体型を維持できるようにと、人々は彼に塩入りの水を飲むように促した。」供儀の祭に先立つ二〇日間、この若い男は四人の成熟した娘をあてがわれ、彼女たちと肉体関係を結んだ。この四人の娘はこの目的のためにとても大切に育てられてきたのである。娘たちはそれぞれ女神の名前を与えられていた。(・・・)生け贄にされる祭の五日前には神として尊ばれた。王は宮殿のなかにいたが、宮廷の人々はこの若い男に付き従った。彼のために涼しくて快適な場所で様々な宴が催された(・・・)。彼の死の日が近づくと、彼はオトラコシュカルコと呼ばれる礼拝所へ連れて行かれた。しかしそこに行き着く前にトラピトザナヤンという名の地点に達すると、お付きの女たちは彼から離れ、彼を捨て去った。殺害される場に着くと、彼は神殿の階段を自分で登るのだが、その一段一段で、一年の間、音楽を奏でるのに用いてきた横笛の一つ一つを壊していくのだった。ピラミッドの頂きに達すると、彼を殺害する準備を整えた権力者たち(神官たち)が彼の身体を取り押さえて石の台の上に投げ置く。仰向けに寝かされると、彼は、手と足と頭をしっかり固定される。黒曜石の刀を持った神官が一撃でその刃物を彼の胸に突き刺す。刀を引き抜くと、今度は、その切り開いたばかりの開口部へ手を入れて心臓を抜き取り、すぐに太陽へ奉納するのである」・

 この若い男の遺体は大切に扱われる。神殿の中庭へゆっくり降ろされるのだ。並の生け贄の場合は、ピラミッドの階段の下まで投げ捨てられる。最も激しい暴力が常態なのである。たとえば遺体から皮をはがしたりする。そして神官がすぐにこの血みどろの皮をまとうのだ。何人かの人間を一個のゆで釜のなかへ入れておくこともある。そこからかぎ針で吊るし出して、生きたまま石の台の上に乗せるのだ。多くの場合、生け贄に供された人体の肉は食された。祭りは休みなく次から次に行われ、毎年、神事のための生け贄は途方もない数にのぼった。二万という数まで出されている。生け贄のなかで神の化身となった者は、まさに神のように列席者に囲まれたまま、供儀の場へ登っていき死の局面へ至るのである。