2024年7月4日木曜日

20240704 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」 pp.573‐576より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」
pp.573‐576より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

頭をこわされた土井ヶ浜人

 山口県の響灘沿岸は、大陸との交渉を考えるうえで重要な土地である。二〇〇体あまりの人骨の出土した豊浦郡豊北町の土井ヶ浜遺跡は、港をひかえて集落があったと推定されているが、砂丘上の弥生前期の墓地から、一二四号人骨が発掘されたのは、一九五四(昭和二十九)年の調査であった。体格のいい成人男性だが、右腕に南島産のゴホウラ貝で作った腕輪(貝輪)をはめていて、全身に一一本の石鏃とサメの歯で作った二本のヤジリ計十三本のヤジリがつきささっていた。それについて、金関氏は、ハリネズミのようだという古人の形容を引用しておられる。「英雄の墓」と一部でいわれた理由である。 

 だが金関氏の観察は鋭い。この男性の頭骨は故意に砕かれていた。そこから推理すると、集団内の呪師のような人物は、その死が非業の死であったような場合には、危険な死霊がさまよい出ないように死体に損傷をあたえたとみておられる。このようにみると、「戦士や英雄の墓」か、それとも「呪師の墓」か、ヤジリが射込まれているという事実は同じでも、解釈はまったく変わってくる。

 人が殺されるのは、戦さ、刑罰、復讐といった常識的なもののほか、「魏志」倭人伝では持衰をあげている。「海を渡って中国へ行くには、いつも一人の者に、髪を梳らず、しらみも取らず、衣服は垢で汚れたままにし、肉も食べず、婦人も近づけず、喪に服している者のようにさせる」。そのあと、航海がうまくいけば、生口(奴隷)や財物をもらうが、逆の場合は持衰が謹厳でなかったからだとして、殺されたりする。

 持衰は船にはのらないで、陸上で祈祷の生活をしていたのであろう。ことによると、三浦半島の損傷のある人骨は、これも「海と陸のあいだの前方後円墳」でふれた浦賀水道の航海に関したものかもしれない。走水の海とよばれた浦賀水道が航海の難所であったことについては、弟橘比売命の入水伝説として「記紀」に語られている。三浦半島での弥生時代と古墳時代の卜骨の集中も、走水の海の航海に関係していたと私は考えている。もちろん私の想像にすぎないが、航海を安全の保障者、引受人的な性格のある持衰の失敗で、自分の縁者が生命を失ったと信じこむならば、持衰はたんに殺害すべき対象というより、復讐の相手になるだろう。このことは、大浦山人骨やひいては土井ヶ浜人骨についての一つの仮説になるだろう。

易えられる王、殺される王

 土井ヶ浜の例では、体内にのこされていたと推定されるヤジリは美しい磨製石鏃である。実際の戦闘では、打製石鏃のほうが肉体にあたえる打撃が大きく、土井ヶ浜の石鏃は儀式用という気配が強い。山賀の例は打製ではあるが、鋸歯縁の精巧な石鏃で、めったに見かけるものではない。特別のヤジリという点では根獅子の銅鏃も同じだが、このほうは、損傷個所に変化があるという解剖学的所見が動かなければ、戦闘のきずとみてよかろう。

 土井ヶ浜人骨についての金関氏の推測が当たっているならば、体内でヤジリののこり方が共通する雁屋や山賀の例も「戦士の墓」かどうかあらためて検討する必要がある。

 常識的になるが、矢をうけて、それが原因で生命を失い、埋葬される場合としては、①狩猟などであやまって矢をうけた、②戦いの最中に矢をうけた、③刑罰として射殺された、などがあるし、また死後に矢を射込まれた場合として、先ほど述べた金関説のように死霊の再帰を防ぐため徹底的に殺害するなどがある。

 このうち、狩猟中の偶然の被害は、矢の数が多いことでまったく成立しない。また「戦士の墓」が多いころ、弥生中期の争乱か、それに近い時期ではあるが、戦いの最中でのきずということにも、私は不自然さをおぼえる。「三国志」烏丸鮮卑東夷伝の夫余の状にその習俗についての名高い記事がある。「水旱(天候)調わずして五穀熟らずば、その咎を王に帰し、王を易えるべきだとか、王を殺すべきだという意見がでる」

 この夫余の習俗では、農耕生産について王の咎が問われるわけだが、おそらく「倭人伝」の持衰について描写されていたような司祭者としての禁忌の度合が問われるのであろう。だから、首長が集団に殺されることがあるというのは、ある場合には生産の問題であり、あるいは航海の安全であり、またある場合には戦さの帰結であっただろう。私には河内平野の「戦士の墓」が、もちろん、その人物らが戦士であることを否定できないまでも、壮絶な戦死者の墓としてよいかどうかの決定は今後にのこるように思う。

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