2023年11月30日木曜日

20231130 中央公論新社刊 竹内洋著「丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム」 pp.51-53より抜粋

中央公論新社刊 竹内洋著「丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム」
pp.51-53より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121018206
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121018205

いま本書を手にしている多くの読者、とくに若い読者はおそらく、蓑田の名前を耳にしたこともない人が多いだろう。まして蓑田が生涯にわたって、四〇冊以上もの本(編著も含む)を刊行し、蓑田が主宰した「原理日本」という月刊誌が、一九二五(大正一四)年一一月号から一九四四(昭和一九)年一月号まで一八年余にもわたり、通巻一八五号も発行されていたこと、何十冊という紙製凶器である人物攻撃パンフレットを作成し、各界要人に配布していたことを知る人は少ないであろう。

 しかし、戦後のある時期までの知識人、つまり戦前の高等教育を受けた者にとっては、リベラルな大学教授をつぎつぎに糾弾し、著書を発禁にさせ、大学から放逐する「大学教授思想検察官」として蓑田と原理日本社の名は記憶に深く刻まれていた。だから、戦後になっても一九六〇年代までは、「○○は現代の蓑田胸喜だ」とか「蓑田胸喜式」と、左右をとわずファナティックで攻撃的な人物の見立てに蓑田胸喜がつかわれていた。

 たとえば、山田宗睦が「危険な思想家」(一九六五)というベストセラーの中で、林房雄や、三島由紀夫、石原慎太郎などの保守派知識人を戦後民主主義を否定する思想家として槍玉にあげたときに、桶谷繁雄や竹山道雄は、「斬る」などの過激な用語で攻撃するやり口から山田のことを「現代の蓑田胸喜」(「座談会 危険な思想家」「自由」一九六五年五月号、「巻頭言」同誌同年六月号)といっている。左派の評論家松浦総三は、山本七平を反共主義者として「現代の蓑田胸喜かもしれない」といっている(「タカ派文化人の牙城「諸君!」の危険な構造」『「文芸春秋」の研究)。このころまでは、そういう見立てが知識人読者になるほどというリアリティをもたらす共通知識と共通感情があったことになる。

 蓑田は、日本版ジョセフ・マッカーシー(一九〇九ー五七)だった。といったらわかりやすいだろう。一九五〇年代初期のアメリカで、多くの学者を反米活動のかどで追放するという一大旋風を巻き起こしたヒステリー的反共運動の仕掛け人がマッカーシー上院議員である。とくにハーヴァード大学が狙い打ちにされた。蓑田胸喜も「赤化ないし容共」教授を「反日活動」(国体違反)として、糾弾と追放のキャンペーンをはり、東京帝国大学を攻撃した。蓑田はマッカーシーのように議員ではなく、民間の右翼思想家だったが、蓑田の背後には議員が控えていた。貴族院議員の三室戸敬光子爵(一八七三ー一九五六)、維新の志士の末裔井田磐楠男爵、軍人出身の菊池武夫男爵、衆議院議員の宮沢裕(宮沢喜一元総理大臣は長男)や江藤源九郎などである。平沼騏一郎小川平吉荒木貞夫などともつながっていた。

 いま名前を挙げた議員連は蓑田などの情報源によって、議会で帝国大学教授を「赤化教授」や「容共教授」はては「学匪」や「逆賊」という激しい言葉で糾弾した。瀧川幸辰事件も衆議院予算委員会での宮沢裕、貴族院本会議での菊池武夫などの「赤化教授問題」からはじまった。美濃部達吉の天皇機関説も一九三五(昭和一〇)年二月の第六七回帝国議会貴族院本会議での菊池武夫の弾劾演説から議会で連続的に槍玉にあがり、美濃部は貴族院議員辞職に追いやられる。攻撃材料と理屈を提供したのが蓑田だった。蓑田たちといまふれた貴族院議員などどの非公式のネットワークが公式圧力団体になったのものが帝大粛正期成同盟(一九三八年九月四日設立)である。会員は百数十人。貴族院議員のほかに右翼思想家、ジャーナリスト、もと帝大教授などをあつめていた。

2023年11月29日水曜日

20231128 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.169-172より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.169-172より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

こうして、不確定な将来のうちに、少なくとも確かなことが一つある。ここでは国民(という有機体)の生命を問題にしているから(時間の単位が長い。その単位で考えれば)わりあい近い時期に、イギリス系アメリカ人は、彼らだけで北極の氷原と熱帯との間の広大な空間をおおうであろう。大西洋の砂浜から南の海辺までひろがるであろう。イギリス系アメリカ人の人種がひろがっていく地域は、ヨーロッパの四分の三に等しくなると思う。連邦の気候は、全体として、ヨーロッパよりよく、天然の利に多く恵まれている点では同等えある。人口の比率も、その時には、われわれと明らかに均衡するにちがいない。ヨーロッパは数多くの国民に分かれ、絶えず起り来る戦争と中世の暗黒とを経て。今日一平方マイル四一〇人の密度をもつに至っている。

 幾世紀もたてば、アメリカのイギリス人の子孫が種々に分かれて、共通の相貌を示さなくなるであろう。しかし、新世界に諸階層の恒久的な不平等が樹立される時期を予見することはできない。平和か戦争か、自由か圧制か、繁栄か貧困かによって、イギリス系アメリカ人という大家族の種々の末裔がの運命にいかなる相違が生じようと、少なくとも、現在に似た社会状態が維持され、そこから流れ出る慣行と理念とを共有するであろう。

 宗教という絆だけで、中世においてヨーロッパにいた諸種族を同一の文明に結び合わせるに足りた。新世界のイギリス人はその他に数多くの紐帯をもっており、すべての人が人間の平等を求める世紀に生きている。中世は分裂の時代であった。各国民、各地方、各都市は強く個別化する傾向になった。今日、反対の動きが感じられ、諸国民は統一に向かって進むように見える。知的な紐帯は最も遠隔の地方をも結ぶ。人々は、一日たりとも、お互いが見ず知らずではありえないし、世界のどんな片隅に起こる事件も知らずにはいられない。また、今日、ヨーロッパの人々と新世界にいる彼らの子孫との間には、たとえ大洋によって隔てられていようとも、川でした隔てられていなかった十八世紀の都市の間(の相違)よりも差が見られない。この同化の連動が国を異にする人々ろ近づけるとすれば、まして同じ国民の末裔がお互い見ず知らずになることがあろうか。

 ゆえに、北アメリカの人口が一億五千万人を数える日が来、そのすべてが相互に平等で、同一の家族に属するごとく、起点を同じくし、同一の文明、言語、宗教、慣習、習俗をもっているという状態が現出するだろう。またそのとき思想は同一の形式で流布し、同一の色彩に彩られるであろう。他のことはすべて疑わしいとしても、これだけは確実である。そして、これこそ世界の全く新しい事実である。想像をいかにはたらかせても、その意義を把握するlことはできないであろう。

 今日、地(球)上に二大国民があり、出発点を異にしながら、同一の目的に向かって進んでいる。それはロシア人とイギリス系アメリカ人とである。二国民とも知らぬ間に大きくなった。人々の眼がよそにひかれている間に、突如として諸国民の頂きに位し、世界がその生誕と強大さとを知ったのは、ほとんど同時であった。

 他のすべての国民は、自然の定めた限界にほとんど到達し、もはや現状を維持するほかないと見えるが、この両者は成長の途上にある。他のすべては成長がとまるか、力をふりしぼってしか前進できないのに、彼らだけがやすやすと、しかも急速に、その途を進む。この途の限界は誰の眼にもいまだわからないであろう。

 アメリカ人は自然の課した障碍と闘い、ロシア人は人間と争っている。一つは広野と未開と闘い、他はすべての武器を身につけた文明と闘う。また、アメリカ人の征服は働くものの鍬によって行われるが、ロシア人は兵士の剣で征服する。その目的を達するのに、前者は個人利益にもとづく、個人の力と理性とを自由に活動させ、これを統制はしない。後者はすべての権力を、いわば一人に集中する。一つは自由を行為の主要な手段とし、他は隷従をとる。その起点は異なり、とる途は違うが、それでも、おのおの、秘められた天意により、いつの日かその手に世界の半分の運命を握るべく召されているかに見える。

2023年11月28日火曜日

20231127 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204922
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204929

ドイツに侵攻したソ連軍は「占領地帯」に入ると、可動資産、工場設備、線路などを根こそぎ奪い取ろうとしたうえ、東ヨーロッパにある他のドイツ領からも代償(ルーマニアの石油、フィンランドの木材、ポーランドの石炭)を提供するよう要求した。

 たしかに、ソ連は戦線でも軍需生産でもドイツを打ち負かした。だが、それは信じられないほど軍需生産だけに力を注ぎ、他の部門をないがしろにしてきたおかげであった。そのため消費財、小売り商品、農産物などの供給は大幅に低下した(もっとも、食料生産の低下はドイツ軍による掠奪が大きな原因であった)。とどのつまり、1945年のソ連は軍事大国ではあったが、経済的には貧しく、アンバランスだったのである。1945年に武器貸与法が廃止さて、さらにその後の政治情勢が変ってアメリカの資金の流入を排除するようになったため、ソ連は1928年の第一次五カ年計画に立ち返り、自国の資源だけで経済成長を達成しようとしたー当時と同じく、生産財(重工業、石炭、電気、セメント)と輸送に重点をおいて消費財や農業生産を軽視し、また軍事支出は戦時より自然に減少するにまかせる政策をとったのである。その結果、当初は難航したものの、重工業に関するかぎり「ささやかながら奇跡的成長」(M・マコーリー)をとげ、1945年から50年にかけて生産高が倍増した。スターリン政権は、国力の屋台骨を立直さなければならないという使命感に燃えていたので、その本来の目的を遂行するには、あるいは国民の生活水準が革命前より下がったままでも、さしたる抵抗を受けなかったし。ただし、ここで指摘しておきたいのは、1922年以降の経済成長と同じく、この工業生産の「回復」の大半は、戦前の生産高に戻ったにすぎないという点である。ウクライナを例にとると、冶金と電力の生産高が1940年の数字に達したのは1950年前後のことである。重ねていうが、この大戦のせいで、ソ連の経済成長は10年ほど前で止まったままだったのだ。長期的にみてそれより深刻だったのは、必要欠くべからざる農業部門がひきつづき不振だったことである。戦時緊急奨励措置が棚上げになり、投資が全面的に不充分だった(しかも投資先を誤った)ため、農業が沈滞し、食糧生産が落ち込んだのである。スターリンは農家が私有農地の耕作を優先することに、死ぬまで激しい反感をもちつづけた。そのためにソ連の農業はいつまでたっても生産性が低く、効率が非常に悪かった。

 その反面、スターリンは戦後社会の軍事的安全保障を高度に維持することには心をくだいた。経済の立て直しが必要だったとすれば驚くまでもないが、あの巨大な赤軍が1945年以降、三分の一に減った。それでも全部で175個師団を擁し、25000台の戦車と19000機の航空機を保有していた。したがって、世界最大の防衛戦力だったわけであるーそれを正当化していたのが(少なくとも、ソ連の立場からすれば)、将来の侵略者を思いとどまらせる必要であり、もっとあけすけにいえば、極東で手に入れた領土はもちろん、ヨーロッパで新たに獲得した衛星国をも抑えつける必要があるという考えだった。だが、たしかに巨大な軍隊ではあったが、師団の多くは基幹要員だけで構成されており、実質的には駐屯部隊であった。さらに1815年以降の厖大なロシア軍と同じ危機に瀕していたー軍事技術の新たな進歩を目前にして、装備の老朽化が進んでいたことである。これに対抗するため、師団を大幅に編成しなおして近代化を進めるだけでなく、国家の経済資源と科学資源が新兵器の開発に向けられるようになった。1947年から48年にかけては強力なジェット戦闘機ミグ15が配備され、アメリカやイギリスを見習って遠距離航空部隊が創設された。また、捕虜にしたドイツの科学者や技術者を使ってさまざまな誘導ミサイルが開発された。さらに、大戦中から原子爆弾の開発を進められていた。そして、ドイツとの戦いでは補助的な役割しかはたさなかった海軍も、新型重巡洋艦や外洋潜水艦が加わって変貌しつつあった。だが、こうした兵器類の大半は二番煎じのもので、ヨーロッパの基準からすれば高性能とはいえなかった。しかし、ソ連が決意の点で遅れをとっていないことには疑いをはさむ余地がなかった。

 ソ連の力を支えるうえで大きな役割をはたした第三の要因は、スターリンが1930年代後半の国内の秩序維持と絶対服従主義にあらためて重点をおいたことである。これをスターリンのパラノイアが昂じたせいとみるか、独裁を強化するための計算しつくされた動きとみるかーあるいは、その両方があいまった結果とみるかーは、判断の難しいところだった。だが、起った出来事をみれば歴然としている。外国人とつきあいのある者は要注意人物と見なされた。帰還した捕虜は銃殺された。イスラエル国家が建設され、ユダヤ人にとって愛国心の対象ができたために、あらためてユダヤ人排斥の措置がとられるようになった。尊敬を集めていたジューコフ元帥が1946年に陸軍総司令官を解任されるとともに、軍の指導部も規模が縮小された。共産党内部でも規律が強化された。入党も難しくなった。1948年にレニングラードの共産党指導部(スターリンはいつも嫌っていた)が粛清された。文学や芸術ばかりでなく、自然科学、生物学、言語学にいたるまで検閲が厳しくなった。こうした全面的な「絞めつけ」は、当然、前述のように農業の集産化をうながし、冷戦の緊張を高めた。また、自然のなりゆきとして、ソ連の影響が強い東欧諸国でも、同じようにイデオロギーの硬直化と全体主義者による統制が進んだ。対立政党の排除、人民裁判、個人の権利や財産にたいする攻撃などが日常茶飯事となった。こうした国内の状況に加えて、とりわけポーランドと(1948年の)チェコスロヴァキアで民主主義が排斥されたこともまって、ソ連の体制にたいする西側諸国の熱意がどんどん薄らいでいったのである。スターリンが充分に計算したうえでそうした措置をとっていたのかーソ連の指導部は粗雑な論理によって自国民はもとより衛星諸国の国民も西側の思想や富から隔離したいと思っていたーあるいは自らの死を前にしてパラノイアが昂じたせいにすぎないのかは、これまた判断の難しいところである。いずれにせよ「アメリカの支配による平和(パックス・アメリカーナ)」の影響力がまったくおよばないどころか、それに代わる別の道があることを示す広大な地域が存在することになったのである。

 そのソヴィエト帝国の成長は、マッキンダーをはじめとする地政学者の予想を裏づけるものと思われた。すなわち、軍事大国がユーラシア大陸の「中核地域」の資源を支配するようになり、またその国家がさらに「周辺地域」にまで拡大しようとしても、グローバルな勢力の均衡を保とうとする大海洋国家がそれを阻もうとするという予想である。それから二、三年して、アメリカ政府は朝鮮戦争の失敗による動揺もあって、「一つの世界」というかつての理想を完全に捨ててしまった。その代わり、世界を舞台に超大陸が仮借ない戦いを繰り広げるという幻想を抱いた。だが、これはすでに、終戦当時の状況が暗に物語っていたことである。トクヴィルがかつていったように、世界の半分の運命をゆるがす力をもつ国は、アメリカとソ連だけであった。そして、両国ともいわゆる「グローバリズム」という考えにとらわれていた。1946年に、モロトフは「ソ連は世界最強の国の一つである。いまや国際関係をめぐる重大問題はソ連を抜きにしてはなにも決定できない・・・」とまでいったが、これはその前にアメリカがソ連政府を意識してほのめかした言葉にたいするお返しであった。チャーチルとスターリンが東欧諸国をめぐって非公式な協定を結ぶのではないかと思われたとき、アメリカはこういったのである。「この世界戦争では、政治的にも軍事的にも。わが国にとって関心のない問題は文字どおり皆無である」(H・フェイスの引用による)。深刻な利害の衝突は避けられない運命にあったのだ。

2023年11月27日月曜日

20231126 内面の変化によって生じること・・(2080記事到達)

イスラエル・ハマース間の戦闘は二日前に一時休戦となり、現在は、人質や捕虜の交換や解放が続いているとのことですが、その後の展開としては、このまま休戦状態が継続することは難しいと考えます。あるいはその後、さらなる本格的な攻撃が始まる可能性も充分にあり得ます。とはいえ、現時点では、そうした見解を断定的に述べることもまた困難であり、そして、そうした不安定とも云える状況から、昨今は、先述の世界情勢と関連があると思われる書籍を見つけては頁を繰っては興味深いと思われる記述を拾い、それらを引用記事として投稿してきましたが、どうしたわけか、これらは引用記事としては、どれも比較的多くの方々に読んで頂きことが出来ました。とはいえ、述べるまでもなく、その背景にある世界情勢は決して喜ばしいものではないことから、それに対して感謝を述べることは妥当ではないものと考えます。

ともあれ、こうして、去る10/7以降、先述の世界情勢に関連があると思われた書籍の記述を、引用記事として、いくつか作成してきた次第ですが、こうした引用記事はいまだしばらくは作成可能であり、現在も当ブログ記事を作成しているPCが置かれた机の上には、20㎝ほどの高さに平積みされた書籍の山が五つほど並んでいる状態です・・(苦笑)。そして、こうした関連する記述を能動的に探したり、そしてそこから引用記事を作成する行為をしていますと、以前よりも、イスラエルを基軸とした中東情勢は詳しくなったように思われて、さらに現在であれば、2015年に亡くなった中東を一つの専門分野としていた伯父とも、もう少し深い議論が出来たのではないかとも不図、思いました・・。

こうして、ここ最近の自らの行動を振り返ってみますと、以前より私は、概ねそのようにして未知の分野について学び、知見を得てきたと云えます。そして、それを初めて本格的に行ったのが和歌山でした。その後の鹿児島では、同様・類似する部分もありましたが、そこでの実験や研究はどちらかというとチーム・ワークに近い部分が多く、自らの能動的な興味に基づく読書や調べものなどは、どちらかと云うと娯楽に近いものでした。しかし、それもまた、のち歯科英語の講義や、歯科歯科理工学実習の際には、ハナシのマトリックスや、つなぎや枕として大いに役に立ったと云えます。それは以前にも述べましたが2012年と、既に10年以上前のことになりますが、去る10月の鹿児島訪問にて、その際の記憶がまた鮮明に想起されました。そのように考えてみますと、当ブログの継続に至るまでの経緯について、それ以前の行為も関連しているのでしょうが、その直接的な起源となったものは、この時の経験であったと云えます。自らが学び、習い覚えたことを他者に対して工夫して伝えようとする行為に際しては、やはり好い加減な知識に基づくものであっては良くないため、それまでに学び、研究した内容と関連させつつ、良いと思われるものを自分なりに頑張って提供してきましたが、おそらく、そうした経験がなければ、少なくとも私の場合、現在のように不特定多数の方々に閲覧されるブログ記事などの作成、そして8年以上の継続は為し得なかったと云えます・・。

その意味で、そうした経験が、精神のある程度深いところで変化を惹起させることは、実際にあるのだと思われますが、そのように考えてみますと、当ブログを継続してきた経験が、今後また自分の精神にどのような変容を齎すのかと考えてみますと「怖い」と「面白そう」の二つの感情が混在しつつ生じてきますが、そこで「面白そう」が勝り、このまましばらく継続してみようとなるのが、時折聞く「アニマル・スピリット」ではないかと思われます。また、以前の投稿に記事末尾にて述べた「自分が比較的得意なこと」についてはまた次の機会に述べてみたいと思います。とはいえ、当記事にて述べたこともまた、その伏線ではあるのですが・・。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2023年11月25日土曜日

20231125 株式会社文藝春秋刊 山本七平著「山本七平ライブラリー11 これからの日本人」 pp.346‐349より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著「山本七平ライブラリー11 これからの日本人」
pp.346‐349より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163647104
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163647104

「キリスト教はイエス・キリストに始まる」は一種の常識だが、「キリスト教はアレクサンドロス大王に始まる」という妙な言葉もあるといえば、驚く人もいるであろう。この言葉は字義どおりには正しくないが、キリスト教の母体となった新約聖書、その新約聖書へと結実した一つの時代の起点をアレクサンドロス大王とその時代に置くことは、むしろ通説といってよい。

 アレクサンドロスの東征とその文化政策はヘレニズム圏を拡大したが、このことは同時に、彼と彼の後継者の広大な支配地における東方文化が、逆にギリシャ語圏に浸透して行くルートを開拓することにもなった。さらに彼の帝国の主要部分がローマの勢力圏にはいると、地中海周辺の全文化圏を統合する広大な「コイネー・ギリシャ語圏」ができ上った。ローマ人はギリシャを征服したが、文化的には逆にギリシャに従属したため、この世界は一つの共通言語で総括できる文化圏になったわけである。コイネーは「共通」の意味、そして新約聖書の言語は基礎をこのコイネー・ギリシャ語に置いており、その基礎を置いたのがアレクサンドロス大王だったわけであるーといっても新約聖書は、各書によって非常に差はあるが、しかしもしこれがアレクサンドロス東征以前の共通語「アラム語」で記されていたら、ローマ圏への浸透は考えにくく、現代のようなキリスト教文化の成立はあり得なかったであろう。当時のローマ圏では新約聖書成立期にもそれ以後にも、著作はギリシャ語で行うのが普通であり、有名なローマ人プルタルコスの記した「英雄伝」もユダヤ人のヨセフスやフィローンの著作も、また初代キリスト教の多くの文書もみなローマ圏の国際語ギリシャ語で書かれ、その結果、広大な全地中海圏への浸透が可能だったわけである。

「七十人訳」の影響

ギリシャ語がイエスの時代にすでに深くパレスチナに浸透していたことは、その弟子に純然たるギリシャ名の者がおり、それを少しも不思議としなかったことでも明らかだが、同時にこのことは逆方向への浸透もすでに始まっていたことを物語っている。新約聖書がギリシャ語圏に浸透する前に、まず旧約聖書が浸透していなければ、旧・新約聖書を一体としてこれを正典としたキリスト教は成立し得ない。従って西欧におけるキリスト教文化の成立の基礎を提供したものは、イエスの生まれる200年以上前になされた旧約聖書のギリシャ語への翻訳であった。ヘブル語から訳されたこの旧約聖書のことを通常「七十人訳聖書」と言い、これまたアレクサンドロス大王に起因する西欧キリスト教文化発生の最も大きな出来事の一つである。

 この聖書が七十人訳と言われるのは、この翻訳がエジプトでプトレマイオス二世(アレクサンドロスの部将であったプトレマイオス・ソーテールの後継者。在位前283―前247年)のとき、王命によりイスラエル十二部族からそれぞれ六名ずつ選ばれた計七十二人の「最高の名声を持つへブル人」によってなされたと記す「アリステアスの手紙」という文書に基づく。だがこれは伝説の集録を基にした権威づけのための創作と思われ、現実には、アレクサンドリアに住むユダヤ人二世、三世のために、相当長期間にわたって徐々に訳されていったものと思われる。そしてこの翻訳が必要だったのは、当時すでに多くのユダヤ人が海外、特にエジプトに移住し、へブル語聖書が読めないユダヤ人二世、三世が生じてきたからであった。というのは、これの翻訳が始まったと思われる前三世紀より三百年も昔、すなわちエルサレムが陥落し、上層の人びとがバビロニアへ強制移住させられた、あの「バビロン捕囚」のときにも、多くのユダヤ人がエジプトの地にのがれたことが記されているからである。それらに関する記述は決して少なくないが、直接的な史料としては、ナイルのエレファンティン島のユダヤ人武装植民者―いわば一種の屯田兵として、川上からのスダン人の侵入を警戒し、同時にその地に植民者として住む―のアラム語の手紙「エレファンティネ・パピリ」が残っている。またある時期のアレクサンドリアは人口の半分以上がユダヤ人であったとも記されている。

 七十人訳は「人類最初の正典の翻訳」と言われ、文化史的には大きな意義をもつが、その目的はいわば「同胞のため」であり、決して他民族への伝道もしくは浸透を目的としたものでなく、またパレスチナでの使用を目的としたものでもなかった。とはいえ、ユダヤ人のローマ圏への移住が進むとともに七十人訳の伝播も広がり、同時にパレスチナの地の一般民衆の通常用語がアラム語になり、へブル語が「敷衍訳的解説つき」でないとわからなくなると、七十人訳が逆に「ギリシャ語化したパレスチナ」にまで影響を与えても不思議ではなかった。新約聖書の旧約聖書からの引用の多くが七十人訳によっていることを、学者は指摘している。
 移住したユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を中心に生活していたが、彼らはこれを非ユダヤ人にも開放した。ギリシャ人からの改宗者も少なくなく、その人たちは改宗者として新約聖書にも登場するし、ルカ福音書を記した医者ルカはギリシャ人だと思われる。そしてこの人たちが正典としたのがこの七十人訳であった。いわば旧約聖書は、広いローマ圏のどこでも、そのローマ圏の共通語で読まれ、かつ説かれたわけである。そしてローマの帝政時代には、外来の新宗教へのローマ人、ギリシャ人の改宗は決して珍しくなく、ある時期のローマは、今の日本の新興宗教のようにあらゆる外来宗教が、それぞれ隆盛をきわめ、その中には後にキリスト教と宗教的覇権を争ったミトラス教もある。以上のような状態を背景として、パレスチナからローマ圏内の諸会堂へと巡回して講演・伝道旅行をする師(ラビ)たちも決して少なくなく、これも亦新約聖書に登場するし、イエス時代にはダマスクスの女性の半分がユダヤ教徒になったという記録もある。以上のように西欧への聖書の浸透は長い期間を経て徐々に行われたわけで、七十人訳からテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教にするまでには、六百年以上の歳月が流れている。

2023年11月24日金曜日

20231123 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.233‐236より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.233‐236より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

茂木 核の脅威といえば、キューバ危機(1962年)は覚えていますか。

養老 覚えていますよ。新聞が大きく書いているなっていう。

東 ネットがない時代の感覚ですね。いまならば毎日ニュースが出てSNSが大騒ぎになるはずです。

茂木 米ソの核戦争を描いたキューブリックの映画「博士の異常な愛情」は、翌年の63年に公開されているんですね。やっぱり天才だなあ。あのようなコメディが、日本のお笑いの文化からは全く欠けています。人類の存亡の危機こそを、笑いによってメタ認知しなければならない。そうしないと、いざというときにまともな判断ができません。日本のお笑いは、自分たちで重要なことを判断しなくてもいいと思いこんでいる人たちの文化だとおもうのです。それから時代が流れて、ベトナム戦争はどんな感じだったんですか。

養老 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)がうるさかったという印象です。

茂木 三島由紀夫の割腹自殺事件(1970年)はどうご覧になりましたか。

養老 司馬遼太郎が、あの演説を見ていた自衛隊の反応に対して、日本の社会は健全と書いていましたが、同じような反応でした。僕も含め、いわゆる普通の人は「変な人だな」くらいに見ていたように思います。あれを大きな問題と捉えて騒いだのはインテリ層だけだったのではないでしょうか。

東 三島由紀夫は日本近代の歪みを正そうとした作家だと言われます。しかし所詮はインテリのあいだのゲームでしかなかったと。

養老 そう思います。だから冷めていた。

茂木 前にも述べたように、僕は生物学的年齢に基づく世代論にはあまり与しませんが、何歳でそれを経験したかというのは大きいと思っていて、三島事件のとき養老さんは33歳で、僕は小学校2年生で8歳でした。東さんは生まれていないですね。

東 僕は71年生まれですから、生まれていません。

養老 三島事件より、むしろ連合赤軍のほうがひしひしと感じました。

茂木 あさま山荘事件が1972年ですね。テレビで立て籠もりの中継を見ていたのを覚えています。鉄球がんがんぶつかっているところを学校から帰ってきて見ていたなあ。養老先生は大学の医学部で教員をされていた頃ですよね。

養老 そうです。行くところまで行ったな、という感じでした。

茂木 テルアビブ空港乱射事件も1972年です。

養老 まだやっているのかという感じでしたが、医学部では教授会に入ってきて机をひっくり返すような赤軍派のやつが現にいましたから、それどころではなかった。

茂木 あの頃はよど号ハイジャック事件(1970年)も三菱重工ビル爆破事件(1974年)もあったし、いまから考えるとすごい時代ですよね。

東 丸の内で爆破事件が起こるなんて、いまではなかなか想像ができない。

養老 この国は暴力手段を持つと絶対にそれをコントロールできないで振り回しますから。今回の防衛費増額の話も大丈夫かよと思います。

茂木 本当にそうですよね。文官が軍人をコントロールできるとは思えない。

東 ウクライナ戦争以降、「平和が大切」と言うとバカ扱いされる空気が出来てしまいました。軍事評論家や国際政治学者の発言がリアリズムがあり、平和などと言うのはオールド左翼だという対決の構図が作られてしまいましたが、本当はいまこそみなで平和について考えるべきですよね。

養老 僕は「平和」ではなく「日常」と言っていますが、いちばん重要なのは日常だということが、この国では昔から通じていない気がします。

2023年11月23日木曜日

20231122 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から ー「現代政治の思想と行動」追補ー pp.120‐123より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」 pp.120‐123より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

これに関連して戦後に造語され、今日まで流通している「進歩的文化人」という言葉について注釈しておく必要があるのかもしれません。というのは、革命的知識人という言葉は世界中にありますが、「進歩的文化人」という呼称は日本独特だからです。本稿のはじめに「文化人」という範疇の登場にことに触れましたが、「進歩的」という形容詞は「文化人」のなかの小分けを示すものではないのです。その証拠に、「反動的文化人」とか「中道的文化人」という表現は一般に流通しないで、「進歩的文化人」という単一の呼称だけが存在するからです。「進歩的文化人」はもっぱら他称であり、しかも必ず罵倒や嘲笑の調子と結びついております。そこで対象とされているのは、主として護憲運動・反戦平和運動・アメリカ軍の基地問題・被差別部落問題、そうして最近は企業公害問題などで活潑に発言し、歴代の保守党政府を批判する論調を展開している知識人たちです。けれどもそれほどはっきりした特定グループを指示する言葉ではなくて、むしろヨリ大きく、彼等を攻撃する側のイメージの問題のように思われます。ここではただ、そうした「進歩的文化人」なるものへの攻撃ーそれはほとんどステロタイプ化しているのですがーにまつわる皮肉に言及するにとどめます。

 第一に進歩的文化人は、事実上そうであると否とにかかわりなく、社会党・共産党・総評等の現実の政治勢力と結びつき、こうした政府反対勢力をイデオロギー的に支援している者とみなされています。ところが現実の日本は、とくに1955年の保守合同の成立以来、引き続いて保守的(その一部は明確に反動的な)勢力が、政界・実業界・官界、そうして教育界にまで支配的位置を占め、その政治配置はほとんど固定しております。にもかかわらず、進歩的文化人は「時代の支配的潮流」に調子を合せ阿っている、といって告発されてきました。これは現実の政治的社会的な支配勢力が時代に逆行しているのか、そうでなければ、その告発がまったく実状から遊離しているか、どちらかでなければ辻褄の合わぬ論理です。

 第二の皮肉は、進歩的文化人に対する嘲弄が、ほとんどの場合、彼等の民主主義・平和主義についての言説が空虚な観念を弄んでいるだけで、現実を動かすのにまったく無力だということに向けられている点です。滑稽なことは、そうした嘲弄業者ー実際にそれはある種のテレビ番組や新聞雑誌で「職業化」しておりますーは、革新的知識人がヨリ有力になり、ヨリ現実への影響力を増すことを何より恐れているにもかかわらず、まさにその無力性と空虚性をあざけっているのです。それほど「進歩的文化人」に言説が無力なら放置しておいたらよさそうなものなのに、これら批判業者はまるで日本社会にはほかに批判の対象がないかのように、飽きもしないで今日まで「進歩的文化人」の攻撃をつづけております。ですから「進歩的文化人」の側はそうした攻撃をあまり気にせず、むしろ攻撃のヒステリックな激しさ自体が、攻撃者の論拠と反対のことーつまり自分たちが現実の状況になにがしかの影響を与えていることの証拠と受けとってもよいでしょう。

 第三に、「進歩的文化人」への非難は、戦時中は軍部・右翼勢力に迎合し、敗戦後にわかに「民主主義者」に鞍がえした、信用のおけないオポチュニストだというイメージと多かれ少かれ結びついております。もし「悔恨」をいうのなら、彼等の悔恨はにせものであり、自分の時局便乗を隠蔽するジェスチュアだ、ということになります。こういう非難や告発に値する知識人が、社会主義者やリベラルのなかに実際に存在することは、到底否定できません。私がここにも皮肉がある、というのは次の理由なのです。果してそういう思想的一貫性について非難されるに値するのは、いわゆる「進歩的文化人」だけでしょうか。そうでないことは、戦時中の記録を一べつしただけで分ります。戦後アメリカや「自由陣営」を守護神と仰ぐ政治家・実業家はいうに及ばず、反共主義者や保守的知識人のなかには、かつて大東亜共栄圏を祝福し、「鬼畜米英」を呼号した顔触れを見出すのに事欠きません。また現在「進歩的文化人」攻撃の斉唱に和している自称民主社会主義者のなかにも、かつてナチズムの組織力に讃嘆し、アングロサクソン的自由主義から訣別して全体主義への途を歩むのが、世界史的な必然を代表する我我の道程だとーいくらかマルクス主義的口調でー力説した知識人もおります。それなのに、どうして反戦平和運動や護憲運動に熱心な知識人だけが戦中の経歴を暴露されるのでしょうか。この点でも「進歩的文化人」たちは、自分たちへの非難の不正なことをこぼすよりむしろ、「中道的文化人」や「反動的文化人」―現実存在があるのにそういう言葉がないこと自体が象徴的なのですがーの場合よりは、自分たちに、思想的知的な整合性について、ヨリ道徳的に高い基準が適用さてていることを誇って然るべきではないでしょうか。

 イデオロギーの一貫性についての議論は、「一貫性」と「馬鹿の一つ覚え」との間に明瞭なけじめをつけることが困難であるかぎり、不毛な論争に堕しやすい。それよりは敗戦直後の悔恨や自己批判の原点を精神の内部に持続させている人々と、それを見事に忘却して変貌する今日の状況に適応している人々とを区別した方が、知識人の生き方の分岐としては、一層リアルな認識に導くように思われます。もちろん、まったく敗戦経験を持たない純粋に戦後派の知識人の場合は、また別の問題として論ずべき事柄です。

2023年11月21日火曜日

20231121 株式会社光文社刊 阪本浩著「古代ローマ帝国の謎」 pp.102‐105より抜粋

株式会社光文社刊 阪本浩著「古代ローマ帝国の謎」
pp.102‐105より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334706363
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334706364

共和政期も末、ポンペイウスという男は「予がどこであろうとイタリアの土地を一踏み踏めば、たちどころに歩兵、騎兵の軍勢が躍り出るであろう」(プルタルコス)「ポンペイウス伝」57吉村忠典訳)と豪語したという。共和国の中でなぜこんなことがいえたのだろうか。ローマの共和政は一体どうなってしまったのだろう。

 第一にクリエンテラについて考えねばなるまい。ローマでは、古くから社会的に有力な者と非力な者の間を「信義」(フィデス)で結ぶ一種の親分・古文関係が存在していた。これが「庇護関係」(クリエンテラ)とよばれるものであり、親分はパトロヌス、子分たちはクリエンテスと呼ばれた。親分は経済的、政治的に子分たちを助け、保護してやる。一方子分たちはその見返りに選挙のときなど、民会で親分のために組織票を投じたりするのである。有力政治家とこれから世に出ようとする若手政治家の間でならば、親分は選挙の時子分をバック・アップするなどして政界での出世を助け、一方子分は親分の手先となって働く。子分が政務官にでもなれば、親分にとって役に立つような法案を民会に出したりするわけである。ローマ社会にはこのような関係が上から下まで網の目のように張り巡らされていた。とくに共和制後期にそうなる「帝国」の拡大とともに有力な政治家たちはこの関係をローマの外にも拡大していく。例えば、ある軍指揮官がどこかの町を落としたとする。彼にはその住民を殺すか奴隷にする権限がある。しかしまたそうせずに、命を救ってやる代わりに自分の子分にしてしまうこともできたといわれる。むろん住民たちは喜んで忠誠を尽くすわけである。戦争で負けたわけでなくとも、地中海世界での自己の立場を考えて、ローマの有力者に私的に従属し、子分となる独立国の王侯も少なくなかった。

 共和政後期にはこれらの網の目が統合されていき、いわば親分たちの上に立つ大親分、クリエンテラのピラミッドの頂点に立つ大パトロヌスが出現した。民会には彼の子分たちが群を成して出席し、元老院では彼の手先が活躍し、政務官の中にも彼の息のかかかった何人もいる。海外にも、彼のためなら一肌脱いでやろうという王侯たちがいる。共和制末期の内乱には、こうした大親分同士の戦いという側面があるのである。そしていわゆる「三頭政治」というのはこうした大親分たちの取り決めともいえるのである。例のポンペイウスはその大ボスの一人だった。

 第二に、これは第一のクリエンテラと直結するのだが、ローマ正規軍が半ば私兵化した点にも注目しなければならない。「帝国」の拡大はローマ市民共同体の分解をもたらし、一部の有力者が広大な土地を「占有」し、そこに戦争によってもたらされた安価な奴隷の労働力を大量に投下し、大規模な商品生産を展開するに至る。一方ローマ国家の、そして国軍の中核であったはずの土地所有農民はその圧迫や、長びく従軍などによって没落し、土地を失っていった。彼らは従軍能力のない貧困市民となってしまうのである。これでは正規軍が維持できない。それに対処するために取られた処置が有名なマリウスの兵制改革であった。すなわち、武装自弁の原則を捨て、土地所有農民をあてにするのをやめて、貧困市民の中から将軍が自らの判断と出費によって志願兵を集め、軍団を編成するという方式である。当然その将軍が兵士たちを養うのであり、さらに退役後はどこかにその将軍が自分の出費でもって植民市を建設して、退役兵たちに土地と家を与えてやるという約束もされた。マイホームの夢、いやそれどころか忠勤すれば一文無しから生産手段を所有する自作農にしてもらえるかもしれないのである。したがって彼らは「愛国心」や「国防意識」をもって戦う市民軍の兵士などではなく、自分を金持ちにしてくれる有能で頼りがいのある親分のために戦う、半ば私兵的存在であった。こうしてローマの軍隊は、将軍である、頼りがいのある親分たちの軍隊になってしまったのである。先に述べた大親分たちは、これによって正規のローマ軍をも自分のために動員できるようになったわけである。それに外国の王侯たちも地中海世界各地から手勢を率いて馳せ参じてくれるかもしれない。そして元老院や民会では、子分たちがなんとかやりくりして、この軍隊を指揮するための「法的権限」を引き出し、自分に正当性を与えてくれるだろう。こうした大親分の最大の者が例のポンペイウスであり、そしてユリウス・カエサルだった。親分同士の流血の闘い、それが共和制末期の「内乱」の一側面だったのである。

2023年11月19日日曜日

20231119 「自分が比較的得意なこと」から思ったこと・・

昨日はオリジナルの文章によるブログ記事を投稿したため、本日は引用記事を作成しようと考えていましたが、昨日の投稿記事の閲覧者数が思いのほかに伸びていたため、少し気が大きくなったものか、さきほどから、本日分の投稿記事をオリジナルにて作成し始めました・・。

以前の投稿記事で述べたことではありますが、ここ最近は引用記事の作成が多かったものの、同時にオリジナルの文章作成自体も行っていたことから、昨日そして本日と、あまりブログ記事の作成に逡巡することはありません。しかし、肝心の記事テーマは未だ決まっておらず、先日来より「このことを書いてみたいな・・」とボンヤリ考えていたことをブログ記事にしてみたいと思います。

その「考えていたこと」は「自分が比較的得意なこと」です。私は幼い頃より兄弟と比較して成績全体としては多少低く、また科目毎での成績のバラツキも大きく、そして歴史系や現代文などは科目としてはとても好きでしたが、決して注目されるほどの良い成績でもなく、むしろ「好きではあるものの凡庸である」という評価が適切であったと云えます。

そしてまたおそらく、そうした性質とは、多くの場合、放置しておけば、そのまま自然に埋没していくのでしょうが、その時に「自分はその科目が得意である。」といった肯定的な認識があれば、自分なりに考えて自然に埋もれさせないように、意識した行動をとるのしょうが、私の場合、2013年に歯学分野(歯科生体材料学)にて、どうにか博士の学位取得にまで至りましたが、その後、その専門性はあまり活かされることなく、他方で、色々と生きるために活動をしていますと、次第にメッキが剥げて地金が出てくるものであるのか、歯学分野のことよりも、それまでの人生で、より長く興味を持ち続けてきたと云える人文社会科学分野の方に能動的な興味を憶えるようになり、そして現在に至っては、書店などで手に取って読む書籍の多くは、歴史や人文社会科学分野での書籍となりました・・(苦笑)。

こうした状況から「専門分野を忘れてしまったのか?」と思われ、あるいは非難される方々もいらっしゃるかもしれませんが、私の場合、指導教員不在の中でまさに薄氷を踏むような状況を経て(どうにか)学位取得に至り、またその後も学位を頂いた分野にて就職する機会は結果的になかったことから、おそらく学位取得から1~2年ほどで、先述のように人文系の地金が徐々にあらわれて、そしてまた、それによりブログ記事の文章も(どうにか)作成することが出来るようにもなり、2013年から2年後の2015年より当ブログが始まったのだと云えます・・。

しかしまた面白いもので、2015年から現在に至るまで、ブログ記事の作成を継続してはきましたが、それによって文章作成が上手になったかという自覚は皆無と云え、ただ、何かしらの文章を作成することは、以前と比べて出来るようになった実感はあるものの、それが自信などに結び付くといったことは残念ながらありません・・。

そのため、未だに当ブログのテーマなどを設けるようなことはなく、暗中模索の状況が続いているのですが、それでも8年間ほど続けていますと、当ブログに対して、ある種の思い入れも生じるものであり、現在となっては、当ブログそして、それを連携投稿するエックス(旧ツイッター)こそが、現時点での、私の主要な発信の場であるのではないかと考えるようになりました。しかし、それで「何かが変る」ということはなく、ただ、今しばらく続けようといった感じになります・・(苦笑)。年内での投稿記事数の目標は2100と以前に書きましたので、師走の来月になるまでに2080記事を越えるところまでは作成したいと願うところですが、さてどうなるでしょうか・・?

また、さきに述べた「自分が比較的得意なこと」につきましては、まだ書きたいことがありますので、本日はこのくらいで一端書き止めて、次に繋ぎたいと思います。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年11月18日土曜日

20231118 「必ずしも好転が見込めるとは云えない現実」について思ったこと・・・内憂外患のさきにあるもの

書籍からの引用記事でなく、自らの文章によるブログ記事の投稿は、大体2週間ぶりとなりますが、特に気負うことも、気圧されることもなく、さきほどから書き進めている次第です。これはたしかに、久しぶりと云えば久しぶりであるのですが、しかし同時に、ブログ記事以外の文章を作成する機会は度々あったことから、ここでも比較的スムーズに書き進めることが出来ているのだと思われます。

また、さる10月7日の地中海東岸、中東のパレスチナ・ガザ地区のイスラム教スンニ派の民族・原理主義組織ハマースによる隣接するイスラエルへの越境・奇襲攻撃に端を発する現今の世界情勢の緊張は変わらず、そして「また世界の何処かで新たな大規模な戦闘が始まってしまうのではないか・・?」という危惧を抱きつつ報道動画を視聴する日々が続いています。

そういえば先日、おそらくは急な陽気の変化により、風邪をひいてしまいましたが、その時はさすがに体調が悪く、PCもスマホを見ませんでしたが、その際に報道動画を見ない方が気分が軽くなることに気付き、風邪が治りかけてきた先日、久しぶりにウクライナ・中東関連の報道動画を視聴しますと「必ずしも好転が見込めるとは云えない現実」に引き戻されるような感覚を憶えました。

しかしこの「必ずしも好転が見込めるとは云えない現実」は国際情勢のみならず、国内においてもまた同様であり、たとえば昨今の芸能界でのスキャンダルは、今なお解決の糸口をも見出すことが困難であり、そして、それだけに、この問題の我が国社会での根の深さを示しているのではないかと思われるのです・・。

その意味において、以前にも当ブログにて述べたことがありますが、近年は「内憂外患」というコトバが、すぐには思いつかないほどにまで日常的になってきたように感じられます・・。おそらく、我が国が平和の中で経済的繁栄を誇っていた記憶は既に過去のものとなり、そして、今後の我が国は、その記憶を傍らに置きつつ、国際・国内共に、それまでの過加工によって、新たに改変することが難しくなってしまった社会や各種制度に対して、対症療法的に、騙し騙し、少しづつ手を加えて、どうにか機能して延命をはかるようになっていくのではないかと思われますが、おそらく、そうしたフェーズもあまり長くは続かず、その先にさらに大きな東アジア全体をも巻き込むような出来事が生じるのではないかと思われるのです・・。北朝鮮のミサイルによる威嚇、韓国による継続的な実効支配下にある竹島の領土問題、西太平洋南部にて中国との領土問題を抱える台湾、フィリピン、ベトナムそして我が国といった事情は、おそらく、すべての当事国が納得するカタチで解決に至ることは、きわめて少ないと思われますので、これらが全てではないにしても、流血の事態、すなわち国際間の紛争が生じてしまう蓋然性をも念頭に置きつつ、より流血の事態を避けた施策を検討するのが良いのではないかと思われます。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2023年11月16日木曜日

20231115 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」pp.128‐131より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」pp.128‐131より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

「サイクス=ピコ協定」がここまで人口に膾炙しているのも、実は世界史の教科書よりも、映画「アラビアのロレンス」で描かれたことが大きいのではないか。この映画が終盤に差し掛かる頃、ロレンスはカイロ駐在のドライデンという役名のイギリス植民地行政官から、サイクス=ピコ協定の存在を知らされる。ドライデンは、「サイクス=ピコ協定はイギリスの行政官であるサイクス氏と、フランスの行政官であるピコ氏が、イギリスとフランスが戦後にオスマン帝国の領土を分け合うことで合意した。そこにはアラビア半島も含まれる。二人は合意に署名した「協定」であって「条約」ではない」と嘯く。もちろん結果として戦後の現実はそのようなものになると分かっていながら、それは決して船中に結んだ正式な条約ではないのだから、それ以前にハーシム家のフサインに与えていた約束を破ったことにはならないのだ・・という帝国主義の詭弁を、この映画は実にいやらしく再現している。

 ドライデンは架空の人物だが、ケンブリッジ出の植民地行政官でアフリカや中東で要職を歴任したロナルド・ストーズや、フサイン=マクマホン書簡でハーシム家のフサインにアラブ人の独立王国を約束したエジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホン、ロレンスと同様にオックスフォード大学の中東学者・考古学者で戦時にカイロで諜報部門を率いた、ロレンスの上司・先輩格であるデイヴィッド・G・ホガースなどがモデルになっていると言われる。

2 メディアと国際政治

 脚本の作り込みの精緻さに賛嘆させられるのは、主人公のロレンスを決して高潔な英雄として描かず、むしろ虚像を纏った人物としていることだ。時にはロレンス自身がその虚像を演じることを楽しんだ面があったとも示唆している。そのようなロレンスの心の揺れはそれ自体興味深いが、しかしより重要なのは「アラビアのロレンス」は当時の国際政治の中で求められた虚像であって、ロレンスはそれを演じるしかなかった、というところである。そのこともこの映画では描いている。

 第一次世界大戦では総力戦が戦われ、一般市民の士気を高め、内外の世論を味方につけることがより重要になった。世論を方向づけるメディアの役割は高まった。大戦中にロシアでは革命が生じ、新世界でアメリカが台頭し、英・仏の政府間の合意だけでは物事が決められなくなっていた。大戦中の報道で、「アラブの反乱」とその背後で暗躍したイギリス人連絡将校ロレンスに関心が高まったのも、イギリス市民の士気を維持し、アメリカ参戦を支持する世論を喚起する、格好の素材となったからといえよう。このことも映画「アラビアのロレンス」は冷静に見つめている。

 映画のハイライトはアラビア半島やシリアでの戦闘の場面である。しかし同時に、「アラブの反乱」はまさに「幕間の余興」に過ぎなかった、とイギリスの植民地行政官が語る。これは客観的には正しい。第一次世界大戦の主戦場はドイツとフランスの間の西部戦線であり、ドイツとロシアの間の東部戦線だった。イギリスは主戦場から敵の勢力を分散させるために、ドイツと同盟したオスマン帝国のアラブ地域を攪乱する戦法を採った。そしてアラブ地域での戦線も、より重要なのは、インド植民地から派遣されたイギリス軍がバスラからバグダードに攻め上がったイラクでの戦闘だった。アラビア半島の紅海沿岸での「アラブの反乱」は、作戦上それほど大きな意味を持たなかっただろう。

 アラブの世界のその後を決定づけたのは、アラビア半島やシリアでの戦闘よりもむしろ、カイロの植民地統治の指導部の密室の協議であり、ロンドンやパリの列強の首都の閣議や会議であった。

 ロレンスには、そのような重要な会議で決定を行う権限はなかった。しかしロレンスは「アラビアのロレンス」として、別の重要な役割を負わされることになった。ロレンスそのものよりも、そしてアラビア半島での戦闘そのものよりも重要だったのは、「アラビアのロレンス」というイメージであり、それによって喚起された国際世論である。民族の独立が大国間の秘密外交に左右されざるを得ない状況への批判や、しかしその現実を受け入れざるを得ない諦めなど、複雑な、相互に矛盾する多くのものを集約したシンボルとして、「アラビアのロレンス」が、当時の主要媒体である新聞やニュース映画といったメディア上で作られていった。ロレンスの性格の「複雑さ」とは、彼個人に由来するよりも、ロレンスが体現した国際社会の複雑さを読み込んで、反映した部分が大きいのではないだろうか。

2023年11月15日水曜日

20231114 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」 pp.438-441より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」
pp.438-441より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

イギリスは可能な範囲内で最良の意図と動機をもって、第一次世界大戦中に一連の約束をした。しかし戦争が終わってみると、これらの約束は互いに矛盾し、現実と折り合いをつけることが困難であることが露呈した。約束した当時、イギリスは極端な苦難のなかにあり、ドイツの潜水艦作戦によって国民を飢餓に陥れるリスクさえあった、と言えば多少は大目に見てもらえるだろうか。

 イギリスの約束は三つあった。第一は1915年のマクマホン=フセイン書簡のかたちをとった、アラブ人に対するものだ。これはイギリスの在エジプト高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンからのハシミテ家のフセイン王へのかなり迎合的な一連の書簡である。フセインは、預言者ムハンマドの直系を自任する家柄に属する、あごひげを生やした老いた名士だった。両者間の書簡の内容の大筋は、イギリス政府は、パレスチナからイラク、そしてペルシャとの境界までを擁する新しい大アラブ国家を全面的に支持する。そしてその国の王座にはフセインと彼の一族が就くというものだった。イギリスの望みは、この約束によってアラブ人に、当時ドイツと同盟関係にあったトルコへの反抗をけしかけることだった。実際に反トルコ暴動が起こったという意味では、これらの書簡には効果があった。映画「アラビアのロレンス」で伝説化され、その重要性がむやみに誇張された出来事だが、戦略的としては無意味に等しかった。

 第二の約束は、西部戦線でおびただしい数の犠牲者に苦しんでいたフランスに対するものだった。これは、戦争が終わった暁にフランスが手にするであろう栄光の土地をニンジンとしてぶらさげるという作戦だった。こうして1916年の密約、サイクス・ピコ協定に基づき、フランスはシリアからイラク北部まで伸び、バグダッドを含む地域を勢力圏として得ることになった。ついでながら、この細長い地域は2014年、イラクとシリアのイスラム国(ISIS)の狂信者が宣言したカリフが統治する帝国とも多少重なるところがある。フランスに対するこの秘密の約束がアラブ人に対するより公の約束とどうやって折り合いをつけたのかはまったくはっきりしない。率直に言えば、そもそも折り合いがついたのかどうかもわからない。

 第三の、そして最も悲喜劇的で支離滅裂な約束が、いわゆるバルフォア宣言である。これは実際には、外相A・J・バルフォアからのユダヤ系貴族院議員ロスチャイルド卿宛ての1917年11月2日付の書簡で、次のような官僚的技巧を駆使した傑作ともいえるくだりを含んでいる。
 
 イギリス政府は、パレスチナに現存する非ユダヤ人の市民的、宗教的権利、あるいはパレスチナ以外の国に暮らすユダヤ人が享受する権利や政治的地位が侵害されないことを明確に了解したうえで、パレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の設立について好意的見解を有し、その目的の実現を促進するために最大限の努力をする。

 別の言い方をすれば、イギリス政府はユダヤ人が一つのケーキを食べることを好意的に眺めるが、それは非ユダヤ人がその同じケーキを同時に食べる権利を損なわないことえお条件としてということだった。

 この奇怪な宣言の後押しをしたのは何だったのだろうか? 一つには理想主義だった。19世紀のロシアにおける卑劣なユダヤ人虐殺以来、ユダヤ人に安住の地を与えようという運動が起りつつあった。イギリス政府は、ウガンダに土地を見つけることさえ考えたこともあったが、最も有力な候補地は旧約聖書の地であるパレスチナだった。パレスチナはまだ比較的に人口が希薄だった。バルフォアは「人のいない土地を土地の無い人に与えよう」という合唱にイギリスの公式のお墨付きを与えただけの話なのである。

 バルフォアはより実利的な考えに動かされていたのかもしれない。第一次世界大戦中、ユダヤ人の心情はドイツに傾きかねないという不安が強かった。戦争前のロシアにおける反ユダヤ主義に報復するにはそれが一番効果的だったからだ。チャーチルがのちに認めたように、バルフォア宣言には部分的にはユダヤ人、とくにアメリカのユダヤ人の支援を得ようとする意図もあった。その一方で、イギリス帝国部隊が大きく依存していた数百万人のイスラム教徒(とくにインドの)をつなぎとめておくという、矛盾した狙いがあり、この宣言の明白な混乱はそこから引き起こされたのである。
 これら三つの約束を同時に目てみると明らかなことがある。イギリスは一頭のラクダを三度売ったのだ。
 これこそチャーチルが処理しなければならない混乱だった。そして1921年3月、彼は重要な関係者全員をカイロの豪華ホテル、セミラミスに呼び寄せた。ここももちろん当時の大英帝国の非公式な一部だった。

2023年11月13日月曜日

20231113 中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.220-223より抜粋

中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.220-223より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120039153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120039157

リデルハートの大きな功績の一つは、核兵器を用いたアメリカとソ連の冷戦構造の下で、誰よりも早く非通常戦争、そしてゲリラ戦争の可能性に気付いていた事実である。これは、彼が第一次世界大戦でのイギリスの国民的ヒーロー、「アラビアのロレンス」と親交が深かったこととも関係している。リデルハートは、「戦略論」のなかでゲリラ戦争について次のように述べている。

 戦争とは組織化された行為であり、混乱状態のなかで継続することは不可能である。しかしながら、核抑止力は巧妙なタイプの侵略に対して抑止力として機能し得ないし、それゆえ、抑止力を発揮できない。核抑止力がこのような目的に対して不適切であるため、巧妙なタイプの侵略の生起を刺激し、助長する傾向にある。筆者の金言「平和を欲すれば戦争に備えよ」のリデルハート自身の修正である「平和を欲すれば戦争を理解せよ」に必要な敷衍を加えると、「平和を欲すれば戦争を理解せよ。とりわけゲリラ方式と内部攪乱方式の戦争を理解せよ」となろう。

 この問題をさらに広範かつ深遠に取り扱った著作が、クラウゼヴィッツより一世紀後に登場したが、それがT・E・ロレンスの「知恵の七柱」である。同書は、ゲリラ戦理論に関する名著であるが、ゲリラ戦の攻防上の価値に焦点を当てたものである。

「アラビアのロレンス」として知られるトマス・エドワード・ロレンスは、オクスフォード大学で考古学や中世の十字軍史を学んだ後、大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加したが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校、そして同外務省「アラブ局」の一員として、ドイツの同盟国であるトルコの後方を攪乱する目的で、トルコの支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に献身した人物である。

 第一次世界大戦におけるロレンスの活動については、当時、イギリス国民の士気を高めるためのヒーローの存在を求めていたイギリス政府の思惑のため、そして、その後のロレンスに対するリデルハートの過度な思い入れのため、過大に評価されているのが実情であろう。周知のように、ロレンスを主人公としる映画「アラビアのロレンス」は今日にいたるまで戦争映画の傑作の一つとして高く評価されている。実際、2007年末にイギリスで放映されたテレビ番組「アメリカ映画の名選100点」では第7位にランクされていた。また、ロレンスの著書「知恵の七柱」やその要約版ともいえる「砂漠の反乱」は邦訳されており、そのほかにも彼の評伝が日本語で多数出版されている。著者は個人的に戦車の発展や機甲戦理論に興味があるため、イギリス南部の町ボーヴィントンをしばしば訪問する。ここには「戦車博物館」があるからであるが、この博物館の近郊にロレンスのコテージ「クラウズ・ヒル」があり、ここには今日でも多くの観光客が訪れている。

「アラビアのロレンス」
ロレンスはその著「砂漠の反乱」のなかで、「アラブ人たちがなぜファイサルとともに戦いを続けているかと考えてみれば、彼らの目的はただ一つ、アラビア語を話す人間の住む土地からトルコ人を立ち去らせることにあるのだ。平和な自由を求める理想を彼らをして銃をとらせているのだ。トルコ軍が穏やかにアラビアから立ち去れば、戦いは終わり、血を見る必要もない。立ち去らなければさらに説得の試み、それが無駄なら戦わねばならぬ。その時において初めて、血を見ることになるのだが、人命の損失は最小限に留めねばならぬ。なぜなら、アラブ人は自由を得るために戦うのであり、死んでしまったのではせっかく得た自由を楽しむことができないからだ」と述べている。

 またゲリラ戦争の戦略としてロレンスは、例えば「メディナをおとしいれてはならぬ。あそこをあのままにしておいてやること、本当にかろうじてという程度にである」と述べているが、こうした記述から、なぜリデルハートがロレンスの示した戦略概念に共感を抱いたかが理解できるはずである。 
 リデルハートが高く評価したロレンスの活動であるが、そもそも「アラブの反乱」の目的は、当時のオスマン・トルコ帝国内のアラビア語地域と呼ばれていたところからトルコ人を追い出すことであり、彼らの殺害そのものはまったく無意味なことであった。ロレンスにとっては、犠牲は小さければ小さいほど都合がよいのである。そして、こうしたゲリラ戦争では「重心」を作らないことが重要となってくる。ロレンスが的確に表現したように、砂漠におけるゲリラ戦争はあたかも海上での戦いに類似したものであり、そこでは兵力の温存で損害の最小化が重要とされ、いわゆる「ヒット・エンド・ラン」といった方策が用いられたのである。

2023年11月7日火曜日

20231107 中央公論新社刊 池内恵著「アラブ政治の今を読む」pp.151‐153より抜粋

中央公論新社刊 池内恵著「アラブ政治の今を読む」pp.151‐153より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120034917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120034916

陰謀論の背景は錯綜しているのだが、ここで大まかな整理を試みてみたい。まず、アラブ世界の場合には固有の歴史的経緯からもたらされた一つのパターンがある。重要なのはアラブ近現代史において情報の発信地として有力なエジプトでの展開である。エジプトがナセル大統領の指導のもと、民族主義を旗印にアラブ世界全体をイデオロギー的に主導した時代(1950~60年代)、しばしば政権の失政を外部勢力の陰謀に帰する形で責任を外部に転嫁する議論が国家の側から流された。このことが現在に至る陰謀論による国際政治解釈の一つの根源となっていると見られる。陰謀説が有効に機能する背景には、実際にある種の「陰謀」による脅威をアラブ世界が受けてきたことがある。1956年の第二次中東戦争でイギリス・フランス・イスラエルが共謀してエジプトを侵略した。これは「外部の陰謀勢力に迫害されるエジプト」という心境を醸成し定着させた(しかしその時、侵略行為を激しく非難して撤退に追い込んだのはアメリカだった)。

 現在のムバーラク政権(1981年ー)になってからはプラグマティックな政治手法が重視され、国家の側が積極的に陰謀論を主張することは少ない。むしろ社会から自発的に陰謀論が産出される場合が多い。陰謀論が宗教的な終末論やオカルト思想と合体するのも、この時期から始まった現象である。

 しかし社会の側からの陰謀論の発生は、国家によるメディア統制によって間接的に支えられているともいえよう。エジプトを含め大部分のアラブ諸国では新聞やテレビは検閲や厳しい規制の対象となり、国民に伝えられる政治情報は限定されている。そこから情報の伝達は透明なものではなく、なんらかの意図がその背後にある、と考える心性が国民に根強く定着している。「嘘の情報の背後から真実を読み取る」ことがごく当たり前の習慣になっているのである。しかし限られた情報を限られた視野から解釈してその裏を探る以上、常に真実に到達できるとは限らない。むしろ願望や固定観念によって一面的な解釈をしてしまいがちである、

 そして、自国の批判が許されないがゆえに、「外部」勢力を「敵」として特定する類の陰謀慧遠のみが表出を許されることになる。陰謀論が外部勢力に責を帰している限りにおいて、国家の側は意に介さない。国家によって用意された情報環境の中で、特定の種類の陰謀論が野放しにされて増殖を果たすというメカニズムがある。

しかし陰謀論はアラブ世界に限られたものではない。アメリカのポピュラー・カルチャーは多くの陰謀論の発祥の地であり、西欧は反ユダヤ主義的陰謀論を生み出しただけでなく、最近では反米的な陰謀論も現れている。

 アメリカの場合、冷戦状況が陰謀論の流布を促進したと見られよう。ソ連との間の軍拡競争、特に核・ミサイル開発や航空宇宙技術の競争は、常に敵と味方の双方に対する疑心暗鬼を生んだ。冷戦期の軍拡競争というのは、兵器の実際の使用ではなく、兵器の性能と配備状況に関する情報によって一進一退を繰り返す神経戦である。「相手はより進んでいるのでは」という恐怖は常に拭い去ることができず、「少なくとも同等以上の開発を」という焦りがつきまとう。

 開発の進み具合を誇示して相手を威嚇する一方で、開発していながら隠匿することも、敵に先んじるための有効な手段となる。すると「相手は隠している」ことを前提として、よりいっそうの開発が急がれるだけでなく、自分の側も隠す必要が感じられてくる。アメリカ国民にとってソ連の脅威だけでなく、自国政府に対しても不信感を抱く素地がここにある。また肥大化した官僚機構への不信、近代的国家機構に対するカフカ的な恐怖心が軍・諜報機関に向けられるという事情もある。

 ここから「CIA」や「軍中枢部」の「陰謀」を措定する心性が胚胎したといえよう。「自国政府は何かを隠しているのではないか」という発想は、極端な例では「UFO」「宇宙人」が到来したにもかかわらず「軍がそれを隠蔽している」というオカルト的陰謀論に結実している。

2023年11月6日月曜日

20231106 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.303-306より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.303-306より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

 西欧における政治革命と相並んでの産業革命こそは、ヨーロッパの世界覇権を確立せしめる決定的要素となった。西欧の侵略に対し、辛うじて自ら支持し来った、東亜の清朝、西亜のトルコ二大国も幾度かの反抗の後、ついに戟を投じて敵の軍門に投降せざるを得なくなったのである。オスマン・トルコの衰頽とともに西アジアの没落が始まった。西アジア社会の没落は、それが最古の文明を有し、最も進み過ぎたる社会の没落であるが故に、必然の結果としてその苦悶が最も深刻であった。オスマン帝国領土の分割は、まず北方におけるバルカン半島小民族、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャの独立に始まり、次いで南方におけるエジプトの独立で、一段落となった。

 エジプトは先に十字軍の勇将大サラジンを開祖とするアユビド王朝衰えて、奴隷的傭兵の有力者代る代る立ちてマメルウク王朝と称せられ、やがてオスマン・トルコの領土となったが、傭兵軍閥の勢力盛んにして、トルコ皇帝は総督を派遣したるも政令始めより徹底し能わなかった。その後ナポレオンのエジプト遠征あり、フランス軍の撤退に乗じてエジプトを実力をもって征服統一したのが、バルカン生れの傭兵出身マホメット・アリその人である。当時先住の傭兵軍閥の勢いなお盛んにて、アリも最初はこれを利用して自己の勢力伸長に資したが、ようやくにしてその制御し難きを思い、強豪480名をカイロ城内に招いて饗宴の後、一網打尽にこれを誅殺した。アリ王朝の基礎ここにおいて確立し、オスマン・トルコ朝廷より世襲の総督たることを認められたのであるが、その土地の重要性はやがて英国の食指を動かさずにはおかなかった。スエズ運河の工事は最初フランス人の手によって着手成功したのであるが、英人は国王イスマイルの財政困難に乗じて運河会社を買取し、さらに金銭を国王に貸しつけて、エジプト国家を破産に導いたのである。国家の破産、そは本質上乞食の破産以上にむつかしいことであるが、破産を宣告し得る敵国があって始めて可能である。エジプトは破産の結果国家を競売に付す代りに、英仏の保護下に準禁治産者の宣告を受けることになった。エジプト人はかかる謀略の進行に対して不満やる方なく、ついに「エジプト人のエジプト」なるスローガンを掲げて暴動を起こしたが、英国軍隊によって鎮圧され、この時以来英国のエジプト占領は第一次世界大戦の勃発まで引き続き、大戦中に英国は完全にこれを保護国と化して現在に至っているのである。

 スエズ運河の開鑿は、東西洋間の歴史的交通路を一変せしめ、インド洋、紅海、地中海を経由する航路が世界最大の交通動脈幹線となった。エジプトは英国にとって本国とインドを連結する連鎖の最も重要なる一環となっている。この南方海上交通路に対して北方にはロシアが建設したる北方シベリア鉄道があって、東西洋の一連絡路となっている。ただしこの鉄道の敷設せられたのは既に過去の時代に属する。新時代の要求する交通路は、やはり古代のいわゆる「絹の路」すなわち中国の開封、中国より蘭州、敦煌を経て天山南路に入り、パミール高原を越えてロシア領トルキスタンの河間地方、サマルカンドの付近に出で、これより裏海、黒海の南岸もしくは北岸を通過して地中海に到達する路線ではあるまいか。はたして然らば、シリア地方は再び東西交通の孔道を扼して昔日のごとく世界を動かす支点となり得る望みがある。

 シリア地方はオスマン朝トルコの支配下において、帝国内交通の重心であり、アレッポに駐在するトルコ総督の支配を受けた。第一次世界大戦に際して、英仏連合軍の占領するところとなり、戦後北方シリア本部はフランスの委任統治に、南方パレスチナは英国の委任統治となった。シリアは後に土着民の反抗あって叛乱起り、ダマスカスの包囲という大事件も起ったが、結局フランスは名目上の独立を与うるに決し、シリア、レバノン両共和国の成立を見た。が、ただし実権は言うまでもなくベイルート駐在のフランス総督の手中にある。パレスチナは英国の斡旋により、全世界に散在するユダヤ人をここに集めて、流浪の民に故郷を与えんとし、ユダヤ人の移住続々開始せられたるところ、先住のアラビア人は既得の権利を失わんことを虞れて反抗運動を始め、幾度か両民族の間に流血の惨事を引き起した。英国は両者の調停につとめ、トランスヨルダンを分離して純然たるアラビア地域とし、海岸に近きパレスチナをもって両民族共住の地域と定めんとしたが、アラビア人の不満はこれによって緩和されず、英国にとりては両民族の衝突、敵愾心の激化は思う壺なれど、それがやがて反英運動に転向することも容易に起り得べきをもって、自らの謀略のためにかえって痛し痒しで困しみつつある。

 メソポタミア、すなわちチグリス、ユーフラテス両河の灌漑する平野には現今イラク王国をある。この地方は第一次世界大戦中に、英将モードが主としてインド兵を率いてバスラに上陸し、トルコ兵を取り、北上して平定したる地方であって、戦後英国の委任統治となったが、間もなく反英暴動の蜂起を見、英国も已むなく実力者現王朝の始祖ファイサル一世を迎えてその主権を承認し、ただ財政上の実権を掌握して政治外交を指導するにて満足せねばならなかった。

2023年11月5日日曜日

20231105 東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.13-17より抜粋

東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 橋本勝雄訳「プラハの墓地」pp.13-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488010512
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488010515

ユダヤ人について私が知っているのは、祖父が教えてくれたことだけだ。「奴らはとびきりの無神論者だ」というのがその教えだった。「奴らがまっさきに考えるのは、幸福はあの世じゃなくこの世で実現するべきだということだ。だからこの世界を征服することだけを考えて行動するんだ」

 ユダヤ人の亡霊のせいで、私の子供時代は暗かった。祖父が語ってくれたのは、人を欺こうとこちらをうかがうぞっとするような彼らの目つきだとか、媚びるようなにやにや笑い、ハイエナのように歯をむき出しにした唇、ねちっこく腐りきった醜い視線、鼻と唇とのあいだの皺は憎しみが刻み込まれていつも落ち着かないとか、南国の鳥の奇怪な嘴のような鼻とかだった・・・そして、彼らの目、その目は・・。興奮すると、焦げたパンののような色の虹彩をぎょろつかせるが、その目は、18世紀にわたる憎悪による分泌物で肝臓が腐っている病状を示し、歳とともに深く刻まれるたくさんの細い皺の上でゆがんでいる。ユダヤ人は20歳ですでに老人のように衰弱して見える。微笑むと目は腫れぼったい瞼でふさがって細い線になってしまうが、それは抜け目なさのしるしとも、好色のしるしとも言われると祖父は詳しく説明した。話がわかるくらいに私が大きくなると、祖父は教えてくれた。ユダヤ人はスペイン人のようにうぬぼれが強く、クロアチア人のように無知蒙昧、レバント人のように強欲で、マルタ人のように恩知らず、ジプシーのように図々しく、イギリス人のように不潔で、カルムイク族のように脂ぎっていて、プロイセン人のように傲慢で、アスティ人のように口が悪い。おまけに、抑えがたい情欲に駆られて不義密通に走るのだと。その原因は割礼にある。一部切除された突起物の海綿体と矮小な体型との釣り合いが取れなくなって、勃起しやすくなる。

 何年も何年も毎晩のように私はユダヤ人を夢に見てきた。
幸運にも彼らに出会ったことはない。子供の時にトリノのゲットーで出会った売女(しかし、二言三言、言葉を交わしたにすぎない)と、あのオーストリアの医師(あるいはドイツの医師、だがそれは同じことだ)を別にすれば。

 私はドイツ人をよく知っているし、彼らのために働いたことさえある。思いつくかぎり、最低の人種だ。平均してドイツ人はフランス人の二倍の糞をひり出す。腸が脳髄の分まで過剰に活動しているからで、彼らの肉体の劣等ぶりを表している。蛮族侵入の時代、ゲルマンの諸部族が進んだ道には、考えられぬほど大量の人糞があちこちに残っていた。何世紀ものあいだ、フランス人旅行者は、道端に残された異様に大きな糞を見ると自分がアルザス国境を超えたのだとすぐに察しがついた。それだけではない。臭汗症つまり汗の嫌なにおいはドイツ人特有のものであり、ほかの人種の尿には15パーセントしか含まれていない窒素がドイツ人の尿には20パーセント含まれていることが証明されている。

 ドイツ人はビールとあの豚肉ソーセージをがつがつ飲み食いするせいで、いつも腸を詰まらせて生活している。ある晩私は、一度だけ行ったミュンヘンに滞在中、かつては大聖堂だったらしい場所でイギリスの港のように煙が充満し、脂身とラードの悪臭が漂う光景を目撃した。男女のカップルさえ、一杯で象の群れの渇きを癒せるほど巨大なビール・ジョッキを両手で握りしめていた。鼻を突き合わせて獣じみた愛の言葉を交わす様子はにおいを嗅ぎ合う二頭の犬のようで、けたたましく下品に笑い、濁っただみ声で大はしゃぎをし、
体に油を塗っていた古代の円形闘技場の格闘家のように顔と四肢はいつも脂で光っていた。

 奴らはいわゆる「ガイスト」をがぶ飲みする。それは酒のことだが、この麦の酒のせいで、若い頃から頭が鈍ってしまう。だからライン川の向う側では、ぞっとするほど凶悪な人相を描いた絵画と死ぬほど退屈な詩しか芸術作品が生れなかったのだ。音楽については言うまでもない。今ではフランス人まで夢中になっている騒々しくて陰気なあのワグナーの話ではない。少し聴いただけだが、バッハの作品にはまったくハーモニーがなくて冬の夜のように冷たいし、ベートーベンの交響曲は無作法な馬鹿騒ぎだ。
 ビールを暴飲するせいで、奴らは自分の柄の悪さにまったく気がつかないのだが、その極みはドイツ人であることを恥じていない点だ。ルターのような大食漢で好色な修道士(修道女と結婚するだと?)を、聖書を母語に翻訳して台無しにしたというだけで真面目に受け止めたのだ。誰が言ったのか、ドイツ人はヨーロッパの二大麻薬、アルコールとキリスト教を濫用している。

20231104 当初に対話形式記事を多く作成した背景について

本日もまたこの時季としては陽気が良くなり、日中は上着はいらず、半袖でも十分でした。とはいえ世界に目を転じますと、さる10月7日イスラム教スンニ派の民族・原理主義組織ハマースが実効支配するガザ地区と隣接したイスラエル側への奇襲攻撃を契機としてはじまった新たなパレスチナ・イスラエル戦争、そして昨年2月24日から今なお続く宇露戦争も、その帰趨が明らかにならないままであり、さらに、その他にも世界各地で、いや端的に、世界規模で暗雲が立ち込めているのが現状であると思われます。

そしてまた、この先も予断を許さない状況であると云え、わたしとしては自分なりに現在の国際情勢を精確に理解したいと考え、また偶然にも神田古本まつりが開催されたこともあり、出来るだけ関連書籍を読むことに努めてはいますが、理解が深まり、そして次の進展についての自分なりの見解といったものはまだ出て来ません・・。とはいえ、こうしたことは知識が乏しい方が、色々な想像が出来るためであるのか、さまざまな考えが浮かんではくるようですが、その分野に関する新書や専門書を読んでみますと、そう簡単には、ある程度、精確と云い得る知見・見解を述べることは出来ないことが分かってきます・・。しかしそれでもなお読み進めて行きますと、次第に、それまで培ってきた異なった分野での知見や学識の全てと化合して、ようやく、満たされた容器の縁から滴が垂れるようにして自らの知見・見解と云えるものが、わずかながら生じてくるのではないかと思われるのです。

その視座から、さきに挙げた中東・東欧地域双方共に私は専門分野としたことがないため、先述のように、いまだに精確な理解に基づく自らの見解や知見を述べることは出来ませんが、それでも以前と比べますと、それぞれの背景は理解出来るようになってきたとも云えます。

そういえば、2015年7月に亡くなった親戚(伯父)は中東地域を専門の一つとしていましたが、日常的な会話で、それが話題に挙がったことは、あまりありませんでした。それでも、この親戚は好物であったお酒を飲むと時折、イスラエル在住の頃の思い出話をされ、それはそれで面白く興味深いものでした・・。

また、この親戚は「学者や研究者で酔っ払った時に自分の専門分野に関連した面白いことを云えるのはホンモノである可能性が高い」といった主旨のことも、まさにご自身が酔った状態の時に話されていましたが、これはその時には半ば眉唾モノとして聞いていましたが「これは案外本当であるのかもしれない・・」と最近思うようになりました。

さらに、この親戚は私が和歌山在住の折にも関西方面での学会出席の機会を利用して訪ねて来てくださり、その後、修士号を取得してご自宅まで報告に行きますと、近くの飲み屋に連れ出て祝ってくださり、そしてまた、その後もどうしたわけか機会がある毎に呼んでくださるようになりました。

そうした機会で大変印象に残っているのは2007年頃、主であった祖父母が亡くなり、無人となっていた伊豆の家に休日を利用して掃除や手入れに行っていたこの親戚から、庭掃除の手助けとして呼ばれて電車で訪問した時のことです。この時は丁度盛夏であり、日中は汗だくになり、あまり食事も摂らないままで雑草の刈取りや枝の伐採などを行い、その後夕方になり、近くのスーパーまで夕食や飲み物を買い出しに出かけ、戻ってきますと冷房をきかせた室内で夕食(ほぼ刺身)を摂りつつお酒を飲みながら、色々な話をされるのですが、あれは現在になって考えてみますと興味深く面白いものであり、そこから、当ブログ初期での対話形式記事の題材となっているものも複数あります。

また、そのように考えてみますと、私が当ブログ初期の頃に対話形式を多用したことは、それなりに理に適っており、それまでの、この親戚を含めた、さまざまな方々との対話の記憶がなければ、あるいは異言しますと、書籍などによる知識や見識、たとえそれらが身体化(インカーネーション)されていても、それだけでは私の場合、当ブログを8年以上継続することは出来なかったと云い得ます。

しかし面白いもので、ではまた初心に返って対話形式のブログ記事を作成してみようかと思うことは今のところありません、しかし今後またしばらく継続していますと、何かしらの内面での変化が生じてくるようにも思われますので、今しばらく、具体的には2100記事程度までは継続してみようと考えています。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2023年11月3日金曜日

20231102 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.28-30より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.28-30より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

前近代のすべての文明のなかで最も進んでおり、優位を誇っていたのが中国である。15世紀の人口は1億から1億3000万人で、ヨーロッパの5000万から5500万人にくらべて圧倒的に多く、すぐれた文化をもち、灌漑のほどこされた豊かな耕地はすでに11世紀からりっぱな運河で結ばれており、教育程度の高い儒者の役人が職階制度の整備された行政機構を動かしていた。その洗練された統一国家ぶりに、訪れる外国人は羨望の目を見張ったのである。たしかに、中国文化はモンゴル部族の激しい攻撃にさらされた経験があり、フビライ・ハーンに侵略されてその支配下にあったこともある。だが中国は、征服者によって変化するよりも。征服者のほうを変えてきた実績をもつ。1368年に明王朝が成立してモンゴルを追い払い、中国の統一をはたしたとき、かつての秩序や学問の多くは温存されていたのである。「西欧」の科学を尊重する教育を受けてきた読者がいちばん驚くのは、中国文明における技術水準の高さであろう。中国えは昔から大きな図書館が存在した。可動活字による印刷は早くも11世紀に登場しており、まもなく大量の書物が印刷されている。運河建設と人口の増加に触発されて、貿易や産業も発展した。中国の都市は、同時代の中世ヨーロッパの都市よりもずっと大きく、交易路も遠くまで延びていた。早くから紙幣が利用されて、商業の発展と市場の成長に大きな役割をはたしている。11世紀末には、中国北部には巨大な製鉄産業が起こり、主として軍事用および支配者の用に供するため、毎年12万5000トンの鉄を産出していた。たとえば、100万人を超える軍隊だけでも巨大な鉄製品市場を形成していたのである。この産出量が産業革命期のイギリスのそれよりもはるかに多いことに注目すべきであろう。産業革命はなんと7世紀もあとのことなのだ。さらに中国人は最初に火薬を発明したともいわれ、明が14世紀末にはモンゴルの支配者を打倒したときには大砲が使われている。

 こうした文化的・技術的水準の高さを考えれば、中国が海外遠征や貿易に乗り出したのも当然であろう。磁気羅針盤も中国人の発明品の一つで、中国の平底帆船(ジャンク)は、スペインのガレー船に匹敵する大きさがあり、インドや太平洋の島々との交易で、陸路を行く隊商と同じくらいの利益をあげていたと思われる。それより何十年も前から揚子江流域では海戦が繰り広げられー1260年代に宋を制圧するため、フビライ・ハーンがやむなくつくりあげた大艦隊には弾丸発射装置が備えつけられていたーその流域では14世紀初めに穀物取引が栄えている。1420年に明の海軍は1350隻の軍艦を保有し、そのうち400隻は巨大な海上要塞で、250隻は長距離航海のために設計されていたという記録がある。この艦隊にはくらべるべくもないが、ほかにも民間の船団があって、すぐ朝鮮、日本、東南アジア、さらには遠く東アジアまで航海して、海上貿易に課税した中国に巨大な収入をもたらしていた。

 最も有名な公式の海外遠征は、三保(宝)太監として知られる宦官の提督、鄭和が1405年から1433年にかけて七回にわたって行なった航海である。その船団はときには何百隻もの船と何万人もの乗組員を擁し、マラッカからセイロンを経て紅海の入口、さらにはザンジバルまで航行した。そして、各地の支配者に贈り物をする一方で、意に従わない相手には北京の力を誇示している。ある船は東アフリカからキリンを持ちかえって皇帝に献上したし、またある船は中国の天子の威光を認めなかったセイロンの愚かな地方領主を連れかえった。(念のために指摘しておけば、中国はポルトガルやオランダをはじめ、インド洋を侵略したヨーロッパ諸国とちがって、掠奪したり住民を殺戮したりはしなかったらしい。)歴史学者や考古学者が明らかにしている鄭和の船団の規模や力量、航海能力ーなかでも最大級の船は長さ600フィート、排水量1500トンにおよんだーからして、エンリケ航海王子がセウタの南へ遠征する数十年前に、彼らはアフリカを回航してポルトガルを「発見」することもできただろう。

 だが、中国の遠征は1433年の航海が最後となり、3年後には皇帝の勅令で遠洋航海用の船舶の建造が禁止された。さらにその後、2本以上のマストをもつ船そのものを禁止する特別命令が出される。以後、船乗りは天津と杭州を結ぶ大運河を往来する小さな船に傭われるしかなくなり、鄭和が使った巨船は陸に引き上げられて朽ち果てた。海の向こうにはさまざまな機会がひろがっていたにもかかわらず、中国は世界に背を向けるほうを選んだのである。

2023年11月1日水曜日

20231031株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「中東 危機の震源を読む」pp.322-325より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「中東 危機の震源を読む」pp.322-325より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106036436
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106036439

イスラエルのガザ・ハマース攻撃は、中東と国際政治に権力の空白が重なった時期に勃発した。イスラエルではオルメルト首相が2008年9月に辞任を表明しながら新政権設立が進んでいない。オルメルトはそもそもシャロン元首相の代役だった。2005年に新党カディーマを設立したシャロンが06年1月に脳梗塞で倒れて職務遂行不能となったため、イスラエル政治では例外的に、職業軍人のキャリアを背景としないオルメルトが首相となった。しかし06年夏にレバノンのヒズブッラーへの軍事作戦の挫折で力を失い、汚職疑惑で責めたてられて辞任表明を余儀なくされた。

 カディーマ党の後継党首に選ばれたリブニ外相は、少数政党が乱立するイスラエル国家で多数派形成に失敗し組閣できず、オルメルト政権が暫定的に続いている。09年2月に予定される総選挙の結果、新たな議会多数派が形成されてはじめてイスラエル政治の空白が埋まるが、野党リクードとその党首ネタニヤフ元首相の支持率が上昇してリブニをしのぐようになっていた。今回のガザ攻撃決断の背景には、政権与党とリブニの野心があるというのが大方の推測である。

 一方、05年1月にパレスチナ自治政府大統領に当選したアッバースの任期は、厳密には09年1月9日に切れたはずである。選挙法改正で10年1月まで任期が続くというのがイスラエルと和平を進める主流派閥のファタハの苦しい説明だ。06年1月の総選挙で過半数を獲得し、07年6月にファタハとの市街戦を経てガザの支配権を掌握。イスラエルに軍事的に対峙するハマースは、自分たちこそがパレスチナ民族を正統に代表するという自信を深めている。

 ハマースが08年6月にエジプトの仲介で発効した半年間の停戦の期間を延長を拒否し、ロケット弾攻撃を再開して衝突の道を選んだのは、軍事+オプションを捨て過去の和平プロセスでの合意に縛られるファタハとの差を際立たせる狙いもある。さらに。退任するブッシュ米大統領に追い打ちをかけ体面を失わせることになったのは、反ブッシュで結束するイスラーム世界への宣伝効果が大きく、ハマースにとってこの上ない政治的成果である。

 オバマ米次期政権の中東政策は未知数で、イランとの対話を再開し、場合によってはハマースとも接触してイスラエルに厳しい対応をするという予測もあり、イスラエルとしてはブッシュ政権中にハマースの軍事能力を削いでおきたかった。

 そもそも米国の政権末期には中東情勢が流動化しやすい。2000年夏には、政権末期のクリントン大統領が和平仲介を推し進めて挫折し、直後に第二次インティファーダ(民衆蜂起)が勃発した。以来、現在に至る激しい対立が続いている。

 イスラエルとハマースの双方が、06年夏のレバノンでのイスラエル・ヒズブッラー間の戦闘を念頭に置いている。ハマースから見れば、イスラエルとの戦闘を耐え抜いてその後のレバノン政治での地位を高めたヒズブッラーに続きたい。わずかでもイスラエル側に打撃を与えられれば「戦果」として誇示できる一方、どれだけ大きな犠牲をハマースと一般市民が受けても、イスラエルの邪悪さの証明として宣伝できる。全面対決はハマースにとって政治的に最適の選択である。逆に、停戦を続ければ、イスラエルによるガザ封鎖で社会経済を崩壊させるばかりで、何ら情勢改善がなかった、という非難を受ける可能性があった。

 イスラエルとしては、対ヒズブッラー作戦の二の舞にはならない、という点を強く強調している。国際非難を避けるため報道陣の立ち入りを拒み、通信も制限し、空爆だけでなく地上部隊も導入してハマースの拠点を一つ一つ潰していく作戦を遂行している模様だ。しかし地上部隊の派遣がガザの長期的占領につながることこそが、イスラエル世論が最も忌諱する選択であり、エジプトにガザを再占領させる、といったおよそありえない選択肢までリークして世論の動揺を避けようとしている。 

 オルメルトとリブニにとっては、ガザからのロケット弾の発射を一時的にでもほとんどゼロにすることが内政上の不可欠の課題である。ガザ・エジプト国境のトンネルを介したハマースへの武器供給が止まるという説明を国民にできるような枠組みを国際社会が用意するまでは停戦を引き延ばすだろう。

 短期的にハマースの軍事力を大幅に削ぐことは可能だが、同時にハマースのパレスチナ内部やアラブ世界での政治的な威信はさらに増大する結果を伴うとみられ、中・長期的にはより深刻な問題に直面することになるかもしれない。もしハマースを根絶することができたとしても、多大な人道的被害を伴い、ハマース不在の空白にさらに過激な勢力が拠点を築くことになりかねない。