2023年11月30日木曜日

20231130 中央公論新社刊 竹内洋著「丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム」 pp.51-53より抜粋

中央公論新社刊 竹内洋著「丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム」
pp.51-53より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121018206
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121018205

いま本書を手にしている多くの読者、とくに若い読者はおそらく、蓑田の名前を耳にしたこともない人が多いだろう。まして蓑田が生涯にわたって、四〇冊以上もの本(編著も含む)を刊行し、蓑田が主宰した「原理日本」という月刊誌が、一九二五(大正一四)年一一月号から一九四四(昭和一九)年一月号まで一八年余にもわたり、通巻一八五号も発行されていたこと、何十冊という紙製凶器である人物攻撃パンフレットを作成し、各界要人に配布していたことを知る人は少ないであろう。

 しかし、戦後のある時期までの知識人、つまり戦前の高等教育を受けた者にとっては、リベラルな大学教授をつぎつぎに糾弾し、著書を発禁にさせ、大学から放逐する「大学教授思想検察官」として蓑田と原理日本社の名は記憶に深く刻まれていた。だから、戦後になっても一九六〇年代までは、「○○は現代の蓑田胸喜だ」とか「蓑田胸喜式」と、左右をとわずファナティックで攻撃的な人物の見立てに蓑田胸喜がつかわれていた。

 たとえば、山田宗睦が「危険な思想家」(一九六五)というベストセラーの中で、林房雄や、三島由紀夫、石原慎太郎などの保守派知識人を戦後民主主義を否定する思想家として槍玉にあげたときに、桶谷繁雄や竹山道雄は、「斬る」などの過激な用語で攻撃するやり口から山田のことを「現代の蓑田胸喜」(「座談会 危険な思想家」「自由」一九六五年五月号、「巻頭言」同誌同年六月号)といっている。左派の評論家松浦総三は、山本七平を反共主義者として「現代の蓑田胸喜かもしれない」といっている(「タカ派文化人の牙城「諸君!」の危険な構造」『「文芸春秋」の研究)。このころまでは、そういう見立てが知識人読者になるほどというリアリティをもたらす共通知識と共通感情があったことになる。

 蓑田は、日本版ジョセフ・マッカーシー(一九〇九ー五七)だった。といったらわかりやすいだろう。一九五〇年代初期のアメリカで、多くの学者を反米活動のかどで追放するという一大旋風を巻き起こしたヒステリー的反共運動の仕掛け人がマッカーシー上院議員である。とくにハーヴァード大学が狙い打ちにされた。蓑田胸喜も「赤化ないし容共」教授を「反日活動」(国体違反)として、糾弾と追放のキャンペーンをはり、東京帝国大学を攻撃した。蓑田はマッカーシーのように議員ではなく、民間の右翼思想家だったが、蓑田の背後には議員が控えていた。貴族院議員の三室戸敬光子爵(一八七三ー一九五六)、維新の志士の末裔井田磐楠男爵、軍人出身の菊池武夫男爵、衆議院議員の宮沢裕(宮沢喜一元総理大臣は長男)や江藤源九郎などである。平沼騏一郎小川平吉荒木貞夫などともつながっていた。

 いま名前を挙げた議員連は蓑田などの情報源によって、議会で帝国大学教授を「赤化教授」や「容共教授」はては「学匪」や「逆賊」という激しい言葉で糾弾した。瀧川幸辰事件も衆議院予算委員会での宮沢裕、貴族院本会議での菊池武夫などの「赤化教授問題」からはじまった。美濃部達吉の天皇機関説も一九三五(昭和一〇)年二月の第六七回帝国議会貴族院本会議での菊池武夫の弾劾演説から議会で連続的に槍玉にあがり、美濃部は貴族院議員辞職に追いやられる。攻撃材料と理屈を提供したのが蓑田だった。蓑田たちといまふれた貴族院議員などどの非公式のネットワークが公式圧力団体になったのものが帝大粛正期成同盟(一九三八年九月四日設立)である。会員は百数十人。貴族院議員のほかに右翼思想家、ジャーナリスト、もと帝大教授などをあつめていた。

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