身体の外傷は八ヶ月すれば有機化されるが、心の外傷は恒久的に治癒しないことがありえる。」ということもできるであろう。
なお、覚醒剤を使ったことのある者が長年経ってから起こす覚醒剤を使った時の異常体験のフラッシュバックも、古型の記憶の装置となんらかの関係にあるものであろう。
いっぽう、新型の記憶は極限状況においては麻痺する。これら侵入症候群と対をなすとされている麻痺・狭窄症状numbing or constrictionであると私は思う。そして、一般に考えられているように両者は交代して現れるのではなく、古型の記憶の賦活が目立つが、新型の記憶の麻痺が目立つかの相対的な違いにすぎないと私は思う。おそらく、古型の記憶はヒト以前に遡るであろう。ゾウがかつて苛めた相手を何十年か後に攻撃したという話がある。これに対して新型の記憶は成人言語性の成立以後である。
つまり、言語と結びついていてヒトだけである可能性がある。では人類史上いつごろのことであろうか。その歴史的時期は不明であって、ある人は非常に古い時期にこれを措定するであろうが、無文字社会における成人文法性のあり方、そこにおける個人史の形と意味についての研究があまりに不足していること、無文字社会への共感が得にくいことのために、私はこれ以上深入りすることは避けたい。
ただ無文字言語と有文字言語との差には注目しなければならない。無文字言語は語彙が数千を越えることができないようである。無文字言語に近い現代の方言の語彙もその範囲である。また、文脈を形成し維持して、文を文脈から遊離させないために、反復や常套句を盛んに使用し、複合的な文章形成を避けるという点も特徴的である。方言が成人言語でないということはできないが、もっとも発達している日本方言である関西弁でも、それを使って今書いているような議論文を私は書けない。無文字言語の世界をわれわれは方言によってかいまみることができそうである。古型の静止型記憶が成人期までどんどん積み重なっていったとすれば、それはちょうど未整理の写真が何年、何十年分も溜まったようなもので、そういう不精をしてしまえばアルバムに仕立てることが大仕事になる。新式の記憶が立ち現れる必要があったのは、ヒトの記憶容量の増大に促されてのことではあるまいか。ここで晩年のロラン・バルトが「(一枚一枚の)写真は未来を持っていない」といったのが思い合わされる。古型の記憶は絶対音階の世界、新型の記憶は相対音階の世界にたとえられるかもしれない。絶対音階を持つことは音楽家には非常に重要な前提条件といわれるけれども、絶対音階を持った人の不幸もある。駅や百貨店で鳴っている音楽を私が聞き流せるのは相対音階しか持っていないからである。絶対音階を持ってしまった人にはすべて音程の狂った音に聞こえて苦しくてたまらないであろう。実際そういう少女のそういう訴えを聞いたことがある。ここで自閉症児が特定のサイクルの音に反応して落ち着かなくなることが思い合わされる。たとえば冷蔵庫を止めるとそれだけで問題が解消する。彼ら彼女らはひょっとすると絶対的音階優位の世界から脱皮できなかった人ではあるまいか。電話帳一冊をまるごと覚えられるという異能も「絶対音階」的な世界に属するものではなかろうか。最後に夢の記憶について。夢の記憶は独特である。生理学的には毎晩夢を見ているはずなのに、長期間にわたって、「夢をみたことがない」という人が少なくない。これは、夢作業がめでたく完遂できた場合には覚醒時に記憶痕跡を残さないからだとも考えられる。そうだとすれば想起夢つまり目ざめた後に残っている夢とは夢作業の不消化物であるとも考えられる。この見方をすれば、夢のわかりにくさは当然のことである、また、夢作業が、昼間の論理では解決消化できなかったものを消化するという使命を持っている以上、夢の論理は飛躍に富んでいて当然で、これもわかりにくさを大きくしているのであろう。実際には、私の臨床経験によれば、夢は覚醒後一分以内に急速に細部を失い、言語化しえないものは消失し、要するに非常に単純になる。この過程を筆記して行う夢分析は、夢をそれ自体よりもその言語化方式―何に注目し何を無視するか―によるところが大であり、したがってフロイト派がフロイト派の、ユング派がユング派の夢をみるのも当然である。夢の内容がどうであるかを別として、私が夢から精神健康度を評価してみると次のようなものになる。目ざめてから言葉に置き換えることが順調にやれ、そのことも手伝って一分以内にストーリーが単純化し、二時間以後にイメージの記憶が生々しさを失い、正午以後になると夢のテーマが何だったかぐらいが残るだけになる。これが健康な夢の忘れ方である。また夢の型式からみれば、夢の精神分析の大家であったシュルツ=ヘンケがいう「ツェズール(Caesur(休止符))すなわち夢の流れに「ジャンプ」「お話かわって」があればあるほど夢作業は盛んであり健康であると私は考えている。ツェズールがなければ夢はほとんどすべて破局に向って進行するのではないか。なお、私個人にかんしていえば、残り滓としての想起夢は五十歳以後に非常に多くなった。これは夢作業の老化と断定することはできないが、その可能性はあるだろう。PTSDの侵入症候群の一部に外傷性記憶が悪夢となって現れるというのがある。しかし、この悪夢は、普通の悪夢とちがって、現実そのままである。それも凍りついた感覚像(主に視覚映像)である。ジャネが外傷性記憶を「記憶以前」といったように、外傷性の悪夢も「夢以前」ということができる。それは、夢につきものの「加工」たとえばずらしや置き換えやストーリーの変形や飛躍がないからである。PTSDの総説を書きつつある山口直彦氏によれば、通常の夢は睡眠のREM期にみていると考えられているけれども、外傷性悪夢はノンREM期に生じるという研究があるそうである。
・ISBN-10: 4622046199