2023年10月31日火曜日

20231030 興味の方向の分岐器としての小説・・?

ここ最近は、朝晩は「涼しい」というよりも「寒い」と感じることが多くなってきましたが、世界情勢の方は去る10月7日以降、予断を許さない状況が続いていると云えます。私としては、この世界情勢を出来るだけ精確に認識したいということもあり、以前に読んだ書籍を随時取り出し読み、それらのなかで興味深いと思われる記述を引用記事として作成してきましたが、これらの多くは、当初思っていたよりも多くの方々に読まれました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

とはいえ、これら引用記事は、現在進行形である東欧・中東での戦争がなければ作成も投稿もしておらず、端的には、自分が認識する世界情勢と関連していると思われる記述を引用記事としてきましたが、これまで当ブログを継続していて、そうした意図に基づき、引用記事を連続的の作成・投稿したことはなかったと思われますので、これはこれで新たな試みであるのかもしれません。しかし、その背景にあったのは、冒頭で述べた世界各地での危険な情勢や、あるいは既に生じた戦争の衝撃の強さであったのだと云えます・・。

これまでに何度か述べてきたことではありますが、私は幼い頃からどうしたわけか「歴史もの」が好きであり、その時々で好きな時代や地域が変遷していったと云えます。そして、その興味の変遷の原動力となっていたのが司馬遼太郎のさまざまな作品であったと云えます。また、そこから派生するカタチで、他の作家や研究者による一般向け著作などにも手を伸ばして読むようになったとも云えます。

このことを具体的に述べますと、司馬遼太郎は戦国時代や幕末といった比較的人気が集中し易い傾向がある時代だけでなく、弥生、古墳時代などの古代史・考古学などついても博識であり、そのなかで同志社大学の著名な考古学者である森浩一との対談があって読み、それを通じて森浩一の著作も読むようになり、そこから徐々に幅が広がって、我が国の古代史についての自分なりの「見取り図」を得ることが出来たのだと思われます。異言しますと、司馬遼太郎の案内、紹介により、考古学者の森浩一の著作を読むことが出来るようになり、そこからまた、他著者によるものも読むことが出来るようになり、徐々に幅が広がったのだと云えます。そこから、私にとって司馬遼太郎の諸作品には、これまでとは異なる何かへ興味を向けさせるターニング・ポイントのような作用があったのだと思われましたが、他の作家についても、おそらくは、その記述文章の背景には、程度の差はあれ、これまでとは異なった何かへ興味を惹く契機といったものが含まれているものであり、そして、そうした背景が「教養」と云われるものとも結節しているのではないかと思われるのです・・。あるいはそうしますと、さまざまな興味の変化や、新たに興味を惹起させる、文章の背景にあるものが教養と関係があるとすれば、それはまた南方熊楠が述べていた、さまざまな物ごとの理(ことわり)が通過・交差する「萃点」とも関連があるのではないかとも思われてくるのです・・。

とはいえ、現在は、それとは異なった分野の著作を読み進めており、さらにその次は、つい先日購入した近現代史もしくは国際関係論に関する著作を読み進める予定であるため、こちらもなかなか先が見えてきません・・。それでも、この世界情勢を自分なりに整理して理解するためにも、さきに述べた引用記事の作成と投稿はもう少し継続した方が良いのではないかと思われました。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2023年10月29日日曜日

20231028 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著【中東大混迷を解く】「シーア派とスンニ派」pp.27‐29より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著【中東大混迷を解く】「シーア派とスンニ派」pp.27‐29より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038250
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038259

レバノンでは、2005年から2006年にかけて、政治体制に大きな変化が進んでいった。米国がイラクでフセイン政権を短期間で崩壊させ、兎にも角にも民主化プロセスを推進して、選挙で選ばれた新政権と新体制を成立させたことは、アラブ世界に波紋を及ぼした。この波紋は、レバノンでは、フセイン政権と同様にバアス党のアラブ民主主義を掲げて強権的な独裁体制を敷くシリア・アサド政権によるレバノン進駐への反対運動、シリアの支配下で勢力を伸ばすシーア派政治・軍事組織のヒズブッラー(日本の報道ではヒズボラ」と表記されることが多い)への逆風という形で、まずは表面化した。2005年2月14日に、親西欧派で、サウジアラビアに支援された、スンニ派の最有力政治家ラフィーク・ハリーリー元首相が、首都ベイルートの海岸大通りで何者かによって爆殺されたことを契機に、シリアのレバノン進駐に反対する大規模な抗議行動が組織され、シリア軍を撤退に追い込んでいく。イランとシリアの支援によって台頭したヒズブッラーにとって、これは大打撃だった。しかしヒズブッラーはここから巻き返していく。ヒズブッラーは自らも大規模な抗議行動を組織して対抗し、国政を膠着状態に追い込んでいった。

 レバノン政治は、この本のテーマとなる宗派対立の元祖・家元とも言えるような存在である。中東の政治や紛争と「宗派」との関わりを理解するために、レバノン政治を見ておくことは欠かせない。レバノンは、中東の宗教と政治の関係が集約されている場所と言っていい。レバノンの国家の構成そのものが、宗派による社会の分裂を前提としており、宗派単位で議員が選出され国民が代表される制度が導入されている。宗派ごとに権力や権益が配分され、宗派間のバランスによって平和と安定が保たれる「宗派主義の政治」が、国家の成立の当初より制度化されてきた。

 2005年から2006年にかけて、このレバノンの宗派主義の政治が目まぐるしく展開し、バランスが崩れた。決定的だったのは、「2006年レバノン戦争」あるいは「イスラエル・ヒズブッラー戦争」である。2006年7月から8月にかけて、ヒズブッラーがイスラエル軍から激しい空爆を受け、多大な損害を蒙りながらも、凌ぎ切った。これにより、レバノン政治の中でシーア派のヒズブッラーが優位に立つと共に、アラブ世界全体での威信も高めた。イラクでのシーア派主導の政権の誕生に続き、レバノン政治でも、シーア派が主導権を握った、あるいは少なくとも決定的な拒否権を握ったことが、明瞭に示された。

 レバノンの内政や内戦が、国内で完結することはない。レバノンを歴史的に自国の領土とみなす隣国シリアや、シーア派勢力を支援するイラン・スンニ派勢力を支援するサウジアラビアが、国際法上は独立した主権国家であるレバノンの内政に、当然のように関与し介入する。そのことをレバノンの諸勢力も当然と考えており、むしろ積極的に外部の支援者・支援勢力を呼び込む。レバノン国内に、権利を奪われたまま居住するパレスチナ難民もまた、外部と必然的につながった内政の一要因である。パレスチナ問題は、現在は中東の紛争の主な要因とは言えないものの、アラブ世界で、あるいは中東・イスラーム世界全体で象徴的な関心を惹く問題であり、ここに関与することで、様々な勢力が存在感を示そうとする。かつてはリビアなどが、最近はカタールなどが、支援の手を差し伸べてかき乱す。レバノンはまた、西欧諸国や米国やロシアなどが中東に関与する際の入り口となる場所でもあった。特にフランスは、旧宗主国として、またカソリックが多数を占める国としてレバノンに深く関与し続けている。フランスは、カソリックの傘下にある中東固有のキリスト教マロン派(レバノンの人口の約21%を占める)と、経済的・文化的結びつきを依然として深く持っている。旧宗主国でカソリックを支援するフランスを背後にしたキリスト教マロン派が建国以来特別な地位を占め、サウジアラビアに支援されたスンニ派がマロン派と共に主導していたレバノン政治の既存の体制を、イランやシリアによって支援されたヒズブッラーが台頭して脅かした。それによって、中東はいっそう「宗派対立」の雰囲気が立ち込めていくことになる。

2023年10月28日土曜日

20231027 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳 『オーウェル評論集』pp.264-267より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳
『オーウェル評論集』pp.264-267より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

だがここで、前にふれた点にもどってみたいーすなわち世間一般にユダヤ人差別があることは誰もが認めるくせに、自分もその一人だということは認めたがらないという事実である。教養のある人びとは、ユダヤ人差別は許すべからざる罪であり、ほかの人種差別とは別格のものだと考えている。自分がユダヤ人を差別していないことを証明するためなら、誰もが広告をふるう。というわけで1943年には、ポーランドのユダヤ人のために神の救いを祈る礼拝式が、セント・ジョンズ・ウッドのシナゴーグで催されたのだった。ロンドン市当局はぜひ出席したいという意向を明らかにして、当日は官服に鎖をさげたロンドン市長、各地区の教会代表、英国空軍、国防市民軍、看護婦、ボーイスカウトなどの代表が出席した。表面だけ見れば、これは不幸なユダヤ人との連帯をしめす感動的な催しであった。

だが本質的には、これは正しいことをしようという意識的な努力だったのであって、出席者それぞれの本音は、まずほとんどが別物だったのである。この地区はロンドン市内でもなかばユダヤ人地区であって、ユダヤ人差別のつよい所である。シナゴーグでわたしのまわりにいた人びとの中にも、この傾向のある人があきらかにまじっていた。それどころか、国防市民軍でわたしの小隊の隊長だった人物など、集会の前から「りっぱに成功させねば」ととくに熱心だったけれども、この人物は以前はオズワルド・モズリー(357頁の訳者注参照)の黒シャツ隊の一員だったのである。こういう感情的矛盾があるかぎり、英国でユダヤ人に対する集団的暴行が容認されたり、ユダヤ人差別が立法化されるといった、さらに重大な結果になることはありえない。それどころか、今のところでは、ユダヤ人差別が世の中の眉をひそめさせないようになることさえ考えられない。だが、これは大いに安心してよいことのようでいて、実はあまり頼りにならないのである。

 ドイツのユダヤ人迫害は、むしろユダヤ人差別の問題が真剣に検討されなくなるという弊害を生んだ。英国では1、2年前に世論調査機関が短期間の不充分な調査をおこなっているが、ほかにもこの問題に関する調査はおこなわれていると考えられるのに、その結果は極秘のままで公表されていない。

また思慮のある人びとも、ユダヤ人がうさんくさいようなことは意識して言わないようにしている。1934年以後は、絵葉書からも、新聞雑誌からも、ミュージック・ホールからも、「ユダヤ人を種としたジョーク」はまるで魔法のように消えてしまったし、小説などにかんばしからぬユダヤ人を登場させたりするのも、ユダヤ人差別だと見なされるにいたった。パレスチナ問題のときにも、進歩的文化人のあいだでは、ユダヤ人の主張が当然だとして、アラブ側の主張にはいっさい耳を貸さないことが当然の礼儀だった。この態度は、それなりに理由の正しいものだったかもしれない。だが問題はその態度の根本が、ユダヤ人は苦しんでいるいるのだから彼らを批判してはならないという感情だった点にある。つまりヒットラーのおかげで、ジャーナリズムはいっさいユダヤ人を批判しないという事実上の自己規制に入り、反面個人の心にひそむユダヤ人差別は上向きとなって、感受性も知性もある人びとのあいだにさえ、かなりひろまるという不幸な状況に陥ったのである。この現象は、1940年に亡命者たちが拘留されたときにとくに目についた。当然のこととして、心ある人びとはすべて、不幸な外国人を見境なく留置したりすることには抗議しなければならないと思ったのだ。こうした外国人の大部分は、ヒットラーに反対だから英国へ来たにすぎない人びとなのである。だが個人的な話になると、その感想はまるで違っていた。亡命者のなかには少数ながらきわめて無分別なまねをするものもいて反感を買ったのだが、この反感の底には、彼らの多くがユダヤ人だというので、やはりユダヤ人差別の意識がひそんでいたのだった。労働党のある大立者ー名前はあげないが、英国ではもっとも尊敬されている人物の一人であるーが、わたしに向かってきわめて乱暴に言ったことがある。「あの連中にはこっちから頼んで来てもらったわけじゃないんだからね。英国へ来たいんなら、その責任は自分でとってもらおうじゃないか」。だがこの人物といえども、外国人の拘留に反対する請願や声明を出すとなれば、むろん参加するにちがいない。こういう、ユダヤ人差別というのは罪悪であり恥辱であって文明人ならそんなことは考えないという気持、それがこの問題をふかく追求するのがこわいという人さえいくらでもいるのだ。つまり世間にユダヤ人差別があるというだけではすまず、自分も同じ意識をもっていることを認識するのがこわいのである。

2023年10月25日水曜日

20231024 記憶発現の流路および引用記事作成の効用について

おかげさまで、昨日分の投稿により総投稿記事数が2060に到達しました。今月中も引続き、出来るだけ多くの記事を投稿出来ればと考えています。とはいえ、以前に述べた今月内の目標である2060は既に達成され、くわえて本日は、昨日午前に鹿児島から帰ったばかりということもあり、記事作成を休止しようと考えていましたが、さきほどから動画サイトにて報道動画をいくつか視聴していたところ、どうも落ち着かなくなり、こうして新規での記事作成を始めた次第です。

さて、さきに述べた鹿児島訪問ですが、これは久しぶりであり以前の訪問は4年前でした。その訪問時と比較しますと、鹿児島の中心市街地は、さらに新たな要素が追加され、変化もまた数多く見受けられました。そして繁華街である天文館界隈は相変わらず活気があり、到着当日の天文館ではアーケード入口にてジャズ・コンサートが開催されており、関東・首都圏とはまた異なった様相の賑わいを見せていました。そして、おそらく、この「異なった様相」をさらに精査することにより、その街、都市、そして地域の一側面を理解することが出来るのだと考えますが、それについては、ここでは扱わず、今回の記憶を加上して引続き考えていきたいと思います。

また、面白いもので、久々に「勝手知ったる」と勝手に思っている街を一人で歩いていますと、周囲の景色、あるいは呼吸する大気からも、これまでとは異なる在住期間での記憶が想起されるのですが、これらの記憶は捏造したものではありません。おそらく、我々は記憶の捏造を行うことにより、肝心の「記憶」本来の機能が徐々に損なわれていってしまうのではないかと思われます・・。

この「記憶の捏造」は、異言しますと「自己欺瞞」とも云えますが、こうしたことは、おそらく私を含めて大半の人々が半ば日常的に、あるいはごく自然に行っているとも云えます。また、これには自分の精神を守る機能もあるのだと思われますが、この「記憶の捏造」の仕方、傾向にも地域毎に特色のようなものがあり、そうしたことはその土地に住みつつ、そこでの神話や口碑などをある程度読み込むことにより、何となく理解することが出来るようになると考えます。

そして、そうしたことを述べますと「記憶の捏造」や「自己欺瞞」を行って損なわれる「記憶」も、そこまで重大でものではないとも思われるかもしれませんが、それらが日常化して自然な行為になってしまいますと、それが徐々に蓄積して、精神にある記憶を発現するための流路のようなものを塞いでしまい、そこから、これまでに得た経験や知見などを活用することが出来なくなってしまうのではないかと思われるのです。故に、露悪的にまで正直になる必要はないとは考えますが、それでも自己が外界、あるいは内面にて認識した内容は、出来るだけ精確に言語化・文章化しようと試みることが思いのほかに重要であり、そして、この出来るだけ精確な言語化、文章化のための有効な習慣として、以前にも述べましたが、能動的に活字を読むことがあると考えます。そして、この場合の活字について、それは電子書籍などのモニターを通じて読まれるものであるか、あるいは実際の書籍から読まれるものかによって精神に与える影響は異なるのかと考えてみますと、あるいはこうしたことは、PCやスマホを扱い始めた時期、年代によっても異なるのかもしれませんが、あくまでも私見としては、書籍を通じて知った文章は、比較的記憶に残り易く、またその記憶が必要である時にも、比較的容易に参照することが出来るのではないかと思われるのです。そしてまた、そうした文章を引用記事とすることにより、また一層認識は深まり、時宜に応じ、その記述を想起することが出来るようになるのではないかと考えます。それ故、公表の是非は別として、書籍にある興味深い記述を手作業にてPCに移し替える作業は、一つ一つでは意味が乏しいようにも思われるかもしれませんが、数年継続していますと、あくまでも自らの経験に依拠するものではありますが、それら記述を時宜に応じて想起することも多少は出来るようになるのではないかと思われます・・。そして、これは自分としてはここ数年で新たに憶えた感覚であることから、私にも、もう少しは「伸びしろ」があるのではないかと思われましたが、さて、これもまた実際のところはどうなのでしょうか?いずれにしても、今しばらくの継続と注視、検討が必要であると思われます・・。

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2023年10月24日火曜日

20231023 慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.215-217より抜粋

慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.215-217より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766425197
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766425192

インド各地を対象にした比較分析からは、どんな結論を導き出せるだろうか。最も重要な結論は、イギリスの植民地統治下で採用された地税徴収制度の違いによって、その後の発展の軌跡が大きく異なったことだろう。なかでも、地主ベースの地税徴収制度が採用された地域は、工作農民が地税を直接徴収された地域に比べ、学校や道路など公共財の普及が遅れた点には注目すべきだ。植民地支配が幕を閉じて40年、地主ベースの地税徴収制度が正式に廃止されてから30年が経過しても、これらの違いは確認できる。違いを引き起こしたのは地理や人口に関する条件の違いによる影響だけではないことを本章では立証した。さらに植民地時代のほかの制度の影響は考えられない。グラフのうえで発展の軌跡は、土地改革の変遷をたどるかのように非線形の曲線を描いているからだ。(図6・4)。今回の分析ではひとつ、イギリスが植民地インドに導入した制度全体の影響ではなく、特定の制度の影響が確認されたことが大きな成果として挙げられる。インドのどの県もかつては同じ宗主国の支配下にあり、今日では政治の面でも行政の面でも同じ制度が採用されているのだから、地税徴収制度がいかに長いあいだ強い影響力を発揮してきたかわかる。

 今回発見されたような結果がもたらされた理由は、経済的不平等と政治参加の二つの面から説明できると私たちは考えた。しかし、地主ベースの地税徴収制度が採用された地域とそうでなかった地域の二つのタイプのあいだで、経済的不平等はそれほど大きくなかった。大きな理由としては、地主の支配下だった地域が経済的不平等を減らすための手段として、土地改革に積極的に取り組んだ可能性が考えられる。一方、地主の支配下だった地域では政治への参加率と識字率が低く、これら数字とインフラ普及率の低さのあいだには相関関係が見られる。ただし、二つのタイプの地域での公共財の普及率の違いを、これらの変数だけで十分に説明することはできない。

 歴史が長期的におよぼす影響を解明すりためには、二つの目立つ要因以外にも目を向けなければならないことが、今回の結果からは重要な教訓として得られた。政治的影響を説明する手段はほかにもたくさんあるが、今回は取りあげることができなかった。以下に一部を紹介しよう。たとえば、地主に支配されなかった地域は識字率も住民の政治意識も高く、優秀な政治家が選出される可能性が高いことは考えられる。有権者が博識ならば、選挙の地元に多くの公共財を供給するだろう。二番目の可能性としては、エリートによる支配の歴史が長いと政治制度への関心が冷めて、十分な知識のないまま一票を投じてしまうことが考えられる。あるいは三番目の可能性として、地主ベースの地税徴収制度が採用された地域にとって、公共財の普及の遅れは自然の結果だったのかもしれない。これらの地域では当初、過去を消し去る作業に専念したので、かつての地税徴収制度は解体されて土地への平等なアクセスで促されたのかもしれない(これに関する証拠は、注22に記されている)。このように優先すべき課題があったため、発展を目的とするほかの政策に費やす資源も政治的資本もほとんど残らなかったとも考えられる。あるいは、エリートによる支配の歴史が長い地域では有権者の二極化が進み、選ばれた議員が公共財普及に協力しづらい環境が創造されたのかもしれない。

 長期的な発展の結果に特定の歴史的制度がおよぼす影響について、今回は比較分析という手段を用いて注目した。そして、地税徴収に関する制度が異なると、その後の発展の軌跡にどのような影響がおよぶのか、そのメカニズムに関して二つの考えられる仮説を紹介した。ただしいずれも、私たちの結論の正しさを経験によって裏付けるだけの説得力に欠けている。本章ではほかにも可能性のある複数の仮説を紹介した。今後、新たに比較歴史分析の研究があ進めば、これらについての理解はさらに進むだろう。これから詳しい研究が行われれば、歴史的制度が長期にわたっておよぼす影響について新たな仮説を生み出すことも可能だ。

2023年10月20日金曜日

20231020 株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」 pp.11-13より抜粋

株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」
pp.11-13より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 448042993X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480429933

私たちは、初対面のひとに、何気なく、「ご出身はどちらですか」と聞くことがある。たいして深い理由はないのだが、出身県がわかるとなぜか納得することもある。

 日本はいうまでもなく小さな島国であるが。たしかに沖縄と北海道の自然環境には大きな違いがあるが、これだけ交通網が整備されマスメディアが発達した現代にあって、出身県がどれだけの意味を持つのか、考えてみれば不思議なことである。

 にもかかわらず、私たちは相手の出身県がわかると、なにかそれまで見えなかったものが見えたような気になることがある。

 たとえば東北地方の出身と聞いただけで、「無口」「保守的」「内向的」あるいは「我慢強い」などのイメージを持ってしまう。九州出身と聞くと「情熱的」「陽気」「外向的」「質実剛健」といったイメージを浮かべる。

 そんな場合、当然、大きな疑問が湧いてくる。「はたしてイメージ通りの性格なのか」という疑問だ。県民性というものを、どこまで信じていいのかという疑問である。

 これは突きつめて考えれば「県民性は実在するか」という疑問である。青森県出身なら、誰でも無口で内向的とはかぎらない。おしゃべりで外向的な人もいるだろう。鹿児島県出身の人でも、陰気でクヨクヨ悩むタイプの人がいるだろう。したがって、固定観念に当てはめて相手の性格を決め付けるのは、はなはだ危険なのである。

濃淡はあっても県民性は実在する

 誤解のないように最初に断っておくと、県民性とは多分にイメージであることが多い。いま述べたように、東北人といえば暗くて内向的と思われ、九州人といえば明るくて情熱的に思われるのもイメージのせいである。東北と九州の風土的なイメージを、そのまま性格に反映させている。

 そのイメージに当てはめて他県人を解釈すると、相手の性格を一部しか見ていないことになる。青森県人を無口だと思い込んでしまうと、初対面の人が青森出身と聞いただけで、「この人は無口な人だな」と決め付けかねない。

 けれども、いろいろなデータにあらわれた数字や、その地域の人だけの集まりを見ていると、なるほどたしかに県民性は実在するなと思うことが多い。

 事実、ほとんどの県には最大公約数的な特徴が実在する。それがはっきりあらえあれる県と、ばくぜんとしたままの県に分かれることはあっても、県民性が実在するとしかいいようのないケースが多いのだ。 

 ではいったい、この狭い日本のなかで、なぜ県民性が生れてきたのだろうか。

 

 

20231019 光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」 pp.73-76より抜粋

光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」
pp.73-76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334785204
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334785208

いいご指摘をしてくださいました。いずれにしても、転換期社会で、社会経済史的に大きく変わろうとしている。具体的には奈良から京都への遷都ということをいわれましたけれども、そういうふうにみていきますと、1970年代、一挙に現代にもどりますけれども(笑)、わたしがなぜ先生にこういうことをお聞きしたかと申しますと、歴史的に現代から過去の教訓、あるいは知識というものを若干考慮に入れようとしているわけなんです。現在のような異常な世界史的な、危機的状況といいましょうか、混乱を目の前にして感じますことは、20世紀の後半から21世紀にかけて、大創造をする人間が、可能性としては多発する社会経済史的条件があるのじゃないかということ・・・。

湯川 そうでありそうに、ぼくにも思えますね。あなたのおっしゃられるように、いままでいろんな時代がありまして、ひじょうに独創的な人、あるいは天才といわれるような人がわりあいかたまって出た時代と、そうでない時代と、明らかにあるわけですね。方面によって多少時期がずれておりますけれどね。そういう点からみると、この20世紀の最後の30年というのは、やはり大きな転換期にならなければ困るわけでしょうね。

―ということは、同時に大きな才能をもった人物が・・。

湯川 出てこないと困るのじゃないか。しかし、それを出す力を人類は喪失しつつあるのかどうか、これはたいへんむつかしい問題で、たとえば管理社会とかなんとかいわれて、先進国からはなかなか出にくい。先進国でない国からは、また別の理由でなかなか出てこないということであれば、それも困るわけです。待望論というものはありうるわけですけれども、待望どおりほんとうにそういうふうになるかどうか、わたしにはまだちょっと見通しがつかないんですね。なぜかというと、一口に情報化社会とか管理社会とかいわれる新しい形態にだんだんなってくる。これはひじょうにむつかしい社会でして、そのなかでたとえば創造的なマイノリティ、少数者というものを生み出すことは、ひじょうに困難な状況があるわけでしょう。ものを考えんでもよい、考えたければコンピューターに考えさせろという式の風潮が盛んになっている。

たとえばお月さんに行こうといったら、大きなお金を使って、何万人がそのなかに組み込まれ、無事にお月さんへ行けたという状況で、そこで創造者というものはどこにいつのか、そこにも何人かの創造者がいるかもしれませんよ。しかし、それはわれわれが真の創造者といっているものとは違うわけでしょう。計画どおりお月さんへ行けるようになったということであって、なにか思いがけないものを生み出したという状況とは違いますし・・・。

―ただ、問題意識としては、いま先生がおっしゃったようなトータルな、真の意味における大創造者が、どうしても生まれてこなければならないような条件のもとにある・・。

湯川 それは認めますね。狭く日本だけの状況をみましても、市川さんやわたしが、ずっと昔から創造性ということをいつもいっていても、世間はいっこう相手にしなかった。それがこのごろは創造性の開発というようなことをしきりにいっている。まだ、こっちのいうていることばがほんとにわかっていないと思うけれども、みながそういうことを口にするようになってきたということは、たしかに変化であり、またそうなる必然性があったのでしょうな。したがって、そこから何かを期待していいのじゃないかなという感じもするわけですね。
(1971年4月21日)

2023年10月18日水曜日

20231018 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」 pp.134‐136より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」
pp.134‐136より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188501
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188504

2023年のいま、日本では人文学の評判は落ちるところまで落ちている。言論人や批評家にかつての存在感はない。有名な学者もほとんどいない。世に出てくる文系学者といえば、活動家まがいの極端な政治的主張を投げつける目立ちたがりの人々ばかりだ。SNSを開けば、文系はバカだ、非科学的だ、役に立たない、他人の仕事にケチをつけているだけだといった罵詈雑言が溢れている。ばくは文系学部の出身だが、もしいま10代の高校生だったら進学先に文系を選ぶことはありえなかっただろうと、そのような言葉に接するたびに真剣に思う。

 人文学は信頼を回復しなければならない。人文学には自然科学や社会科学とは異なった役割があることを、きちんと論理的に伝えなければならない。じつは本論はそのよう意図でも書かれてる。

 前述のように、人文学は過去のアイデアの組合せで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこう言った、ヘーゲルはこう言った、ハイデガーはこう言った、ハイデガーはこう言った・・・といった蓄積を活用し、過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。すべての人文学がそうではないと反論されるかもしれないが、少なくともその中心を担ってきた大陸系哲学はそのようなスタイルを採る。

 人文学のこのようなスタイルは、現在では否定的に評価されることが多い。それは非化学的で権威主義的で、ときにカルト的にすらみえるからだ。そのとおりのこともある。

 けれどもぼくの考えでは、人間はけっしてそんな怪しげな営みを破棄できない。なぜならば、その「カルト的」なスタイルは、じつは人間が言語を用いて思考するかぎり避けることができない、ある条件を凝縮して反映したものにすぎないからである。その条件が、まさに本論で「訂正可能性」と呼んできたものである。

 ぼくたちは単純な加法ですら完全には定義できない。クリプキの懐疑論者を排除できない。だとすれば、真理や善や正義といった厄介で繊細な概念について、同じようにすべてをひっくり返す懐疑論者の出現をどのようにして排除することができるだろうか。人文学者はそのことをよく知っている。それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。それは結果的に、先行者の業績を無批判に尊重する、非科学的で権威主義的なふるまいにみえる。しかしけっしてそれが目的なわけではない。

 だからぼくは本論で、訂正可能性について理論的に語るとともに、またその訂正の行為を「実践」しなければならないと考えた。ぼくはこの第一部で、家族や訂正可能性について「正しい」理解を提案したのではない。ぼくが行ったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・といった訂正の連鎖の実践である。だから本論の結論も、いつかまた読者のみなさんによって訂正されるかもしれない。その可能性は排除できない。むしろその排除の不可能性こそが人文学の持続性を保証するのだ。

 人文学がこのようなスタイルをとるのは、けっして人文学者が愚かだからではない。人間はそもそもそのようにしてしか思考できないのだ。人文学が消滅するときがあるとすれば、それは人間が人間でなくなり、ウィトゲンシュタインとクリプキの指摘が無効化されるときなのではないかと思う。

2023年10月17日火曜日

20231017 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.74-76より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.74-76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

最近、また日本人論が盛んである。再び日本が国際社会の檜舞台に登場することによって、日本人固有の欠点がしだいに露呈されてきたからである、と思われる。日本人論といえば、明治20年代の国粋主義鼓吹、同40年代の東西文明の統一を唱えたもの、さらに、昭和10年代に近代の超克を唱えた日本文化論、そして同30年代の日本を再評価するもの、同40年代後半の外国人などによる日本人論と続く(「中央公論」47年9月号)系譜があった。しかし、このような日本人論の類型は、要するに、「日本人は、これこれの欠点があるから反省せよ」というに尽きる。でも、これではほとんど意味はあるまい。「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、個人の場合にもあるけれど、社会全体に関していえば、問題点がいくら指摘されても、それだけではどうしようもないという場合が多い。その理由は、社会全体の作動洋式は、それを構成する各個人の単なる心構えだけによって左右しううるほど単純なものではなく、システム全体における諸要因の連関洋式とそれらの構造によってもまた規定されるからである。

 たとえば、戦時中、増産と科学の振興が叫ばれた。そして、全国民もそのために努力したつもりではいた。しかし、生産は思うように向上せずヤミははびこり、人びとは何か自然の法則に逆らってもがいているの感を避けえなかった。また、科学も振興せず、科学戦においても日本は敗北してしまった。このように、社会構造に対する科学的分析を欠いた単なる思いつきは、現実の制御のために全く無力である。

 この[社会現象に対する科学的分析能力の欠如]こそ、日本人の思考の盲点であり、これによって、かつて日本は破局を迎え、そして現在もまた迎えようとしているのである。ゆえに、このことは、強調されすぎることはない。日本人が、現在においても、いかに社会科学的分析能力を欠いているかは、最近の物価上昇に際して、火がついたように政府の「統制」を叫んだことだけをみても明らかだろう。経済とは、そんなに簡単なものだろうか。政(幕)府の命令一本で物価が統制できるくらいなら、天保の改革だって失敗しなかったにちがいない。経済学が今日ほど普及した時代においてすら、多くの日本人の思考様式は、水野忠邦のそれと本質的に異なるものではない。一億が一心となって火の玉のように突進すれば、科学も振興し、生産の向上し日本は勝利する、という単細胞的思考法と、現代の日本人の思考法とは、その論理において、一体どれほど異なるのであろう。

2023年10月15日日曜日

20231015 季節の変化で思ったこと:議論について

ここ二週間ほどで急激に夏から秋に変わったように感じられます。そうしたなかで私は就寝時に夏用の厚手のタオルケットのみを掛けていたためか風邪をひいてしまいました。これは数日間休むことによって概ね治りましたが、今度は、先週、地中海東岸の中東の国で発生した出来事に驚いて落着かなくなってしまいました。他方、昨年2月に勃発した第二次宇露戦争はその後、一進一退を繰り返しつつ、西側の兵器が供給されている宇軍が、侵攻してきた露軍を徐々に押し戻しつつあるといった状況の認識であり、おそらく今後、露の全面的な勝利は困難であろうと思い始めた頃でしたので、この出来事には大変驚かされました・・。とはいえ、この出来事以外で世界に目を転じてみますと、数千人規模の死傷者が出た中東内陸部での大地震、世界各地での異常気象や攻撃的な海洋進出を続ける隣国といった出来事や状況が続き、そこから、こうした「世の中の乱れ」ともいえる様相は、今後数年は続くものと思われます。そして、それらに我が国が絶対に巻き込まれることはないとは云えませんので、当然のように対策や防衛力の強化は行った方が良いと考えます。

しかし、国内に目を向けてみますと、さきと同様、多くの「世の中の乱れ」を示す出来事が続き、そのため、それらの必要と思われる施策は簡単には推し進めることは出来ないのではないかと思われるのです。これが平時であるならば、議会制の民主主義国家として当然の営みと云えるのでしょうが、現今はさきに述べたように世が乱れ、端的には、コロナ禍以来の非常事態が続き、そして、それが半ば日常化しているようにすら思われるのです。

こうした事態が続きますと、おそらく私自身も含めて大多数の人々はストレスを感じ、そこからまた人心が荒れて、さらに良からぬ出来事が生じるといった、ある種、負の連鎖のようなものが惹起されてしまうのではないかと思われるのです。そして、こうした負の連鎖から脱するためには、各段階において中身のある議論が必要であると思われるのです。しかし、ここでも、これまでに何度か当ブログにて扱ってきたように、我が国は議論がとても苦手であるのです。

しかしながら、こうしたことは訓練によって改善されるとは思われるのですが、おそらく、我が国の最大公約数的的な性質とも云える国民性の根底では「議論が嫌い」であると思われます。そしてこの性質故に、こうした世界規模の良くない状況にあっても、内政・外交ともに有効な改善策を提示して実施することが困難になってしまうのではないかと思われます。

たしかに国全体が経済的にも躍進を遂げている時期であれば、議論などは、ただ面倒臭いだけのものであるのかもしれませんが、しかし、そうした時期においても社会に議論の習慣が根付いているのでなければ、転じて混乱しつつある状況になってから、それを活かすことはきわめて困難であるのではないかと思われるのです・・。

では、議論の文化をごく自然なカタチで社会に根付かせるための方法はあるのかと考えてみますと、それはより多くの人々が口語だけでなく、文語にも親しむ習慣を持つことであると思われます。そして、その方法として効果的であり、且つ簡便であるのは、私見となりますが、各々にとって少し硬いと感じられる小説や、興味のある分野での新書や専門書を読む習慣を身に着けることであると考えます。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

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どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年10月14日土曜日

20231014 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.225-228より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.225-228より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

過去数十年は、人間の歴史上最も平和な時代だった。暴力的行為は、初期の農耕社会では人間の死因の最大15%、20世紀には5%を占めていたのに対して、今日では1%にすぎない。とはいえ、2008年のグローバルな金融危機以降、国際情勢は急速に悪化しており、戦争挑発が再び流行し、軍事支出が増大している。1914年にオーストリア皇太子の暗殺がきっかけで第一次世界大戦が勃発したのとちょうど同じように、2018年にはシリアの砂漠で何か事件が起こったり、朝鮮半島で誰かが無分別な行動を取ったりしてグローバルな争いが引き起こされはしないかと、素人も専門家も恐れている。

 世界の緊張の高まりと、ワシントンや平壌、その他数か所の指導者の性格を考えると、心配の種は間違いなくある。とはいえ、2018年と1914年の間には、重要な違いがいくつかある。具体的には1914年には世界中のエリート層は大きな戦争に魅力を感じていた、なぜなら、戦争で勝利を収めれば経済が繁栄し、政治権力を伸ばせることを示す具体例に事欠かなかったからだ。それに対して2018年には、戦争による成功は絶滅危惧種のように珍しいものに見える。

 アッシリアや秦の時代から、大帝国はたいてい力づくの征服によって築かれた。1914年にも、主要国はみな、戦争での勝利によってその地位を得ていた。たとえば大日本帝国は中国とロシアに対する勝利でアジアの大国になり、ドイツはオーストリア=ハンガリーとフランスに勝ってヨーロッパの最強国の座に就き、イギリスは各地で次々に小さな戦争を見事に勝ち抜いて世界で最も大きく裕福な帝国を築いた。

 たとえば1882年、イギリスはエジプトに侵攻し、わずか57人の兵を失っただけでテル・エル・ケビールの決戦に勝利し、エジプトを占領した。今ではイスラム教国を占領するというのは西洋人にとっては悪夢の材料だが、テル・エル・ケビールの戦いの後、イギリスではほとんど武力での抵抗に遭わず、70年以上にわたってナイル川流域とスエズ運河という要衝を支配し続けた。他のヨーロッパの大国もイギリスを手本とし、パリやローマやブリュッセルの政府がヴェトナムやリビアやコンゴへの出兵をもくろむときにはいつも、恐れていたのはよその国に出し抜かれることだけだった。

 アメリカでさえ、ビジネスだけではなく軍事行動のおかげもあって、大国としての地位を確立した。同国は1846年にメキシコを侵略し、カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコに加えて、コロラドとカンザスとワイオミングとオクラホマの一部も占領した。その後に結んだ平和条約で、すでに行っていたテキサスの併合も承認された。この戦争でアメリカ兵約13000人が亡くなったが、国土は230万平方キロメートル増えた(これはフランス、イギリス、ドイツ、スペイン、イタリアを合わせたよりも広い)。2000年紀(西暦1001~2000年)でこれ以上ないほど有利な取引だった。

 したがって1914年、ワシントンやロンドンやベルリンのエリートたちは、戦争に勝利を収めるとはどういうことか、そしてそこからどれほど多く手に入れられるかを知り尽くしていた。それに対して2018年には、世界のエリートは、これほど旨みのある戦争はもうなくなったのではないかと考えている。もっともなことだ。第三世界の独裁者や非国家主体の一部は、依然として戦争でうまく栄えているものの主要国にはそれはもう無理のようだ。

 現在生きている人々の記憶にあるうちで最大の勝利である、ソ連に対するアメリカの勝利は、大きな軍事衝突が一度もないまま達成された。それからアメリカは第一次湾岸戦争でつかの間、昔ながらの軍事的勝利の栄誉に浴したが、それに味を占めてイラクとアフガニスタンでの軍事作戦に何兆ドルも浪費した挙句、屈辱的な大失敗を経験する羽目になった。21世紀初頭の新興大国である中国は、1979年にヴェトナム侵攻が不首尾に終わって以来、武力紛争はひたすら避けてきた。したがってその台頭は、もっぱら経済的要因のおかげだ。この点では中国は1914年以前の日本やドイツやイタリアの帝国ではなく、1945年以後の日本とドイツとイタリアの経済の奇跡を見習ったわけだ。こうしたケースのどれでも、経済の繁栄と地政学的な影響力は、一発の銃弾も発射することなく獲得された。

 世界の格闘場とも言える中東においてさえ、地域大国はみな、戦争を起こして勝つ方法を知らない。イランは長く血なまぐさいイラン・イラク戦争からまったく得るものがなかった。だから、その後直接の軍事衝突はすべて避けてきた。イランはイラクからイエメンまで、各地の地元の運動に資金や武器を提供し、革命防衛隊を送り込んでシリアとレバノンの味方を助けてきたが、これまでのところ慎重な態度を保って、どの国も侵略していない。イランは最近、地域の覇権国になったが、それは戦場での見事な勝利によってではなく、戦わないことによってだった。二つの主要な敵国であるアメリカとイラクが戦争を始めた挙句、両国とも中東の泥沼に足を踏み入れるのはもう懲り懲りという気になったため、イランは旨い汁を吸うことができたのだ。

 ほとんど同じことがイスラエルにも言える。イスラエルが最後に戦争で勝利したのは1967年だった。それ以降、多くの戦争をしたが、そのおかげではなく、そうした戦争があったにもかかわらず繁栄した。占領した地域の大半は、イスラエルに多大な経済的重荷と政治的責任を負わせた。イランとよく似て、イスラエルは最近、戦争を起こして勝利することではなく、軍事的な冒険を避けることで、地政学的な地位を改善してきた。仇敵であるイラクやシリアやリビアが戦争によって荒廃するなか、イスラエルは距離を保ち続けた。(2018年3月現在まで)シリアの内戦に巻き込まれなかったのは、ネタニヤフ首相の最大の政治的業績だろう。イスラエル国防軍は、やろうと思えば1週間以内にシリアの首都ダマスカスを陥落させただろうが、そこからイスラエルが得るものなど何があっただろうか?イスラエルは繰り返しそれを思いとどまってきた。イスラエルは、あれほどの軍事力を持ち、政治家は好戦的な発言をしているが、戦争から得るものなどはほとんどないことを承知している。イスラエルも、アメリカや中国、ドイツ、日本、イランと同じで、21世紀には、中立の立場を守り、他の人々に代わりに戦ってもらうのが最善の策であることを理解しているようだ。

2023年10月11日水曜日

20231011 株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻 pp.145-148より抜粋

株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻
pp.145-148より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4087607380
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087607383

 コミューン紛争やフォルト・ライン戦争は、人間の歴史に数かぎりない。ある調査によれば、冷戦中には32件の異民族間紛争が起きている。そのなかには、アラブ人とイスラエル人、インド人とパキスタン人、スーダンのイスラム教徒とキリスト教徒、スリランカの仏教徒とタミル人、レバノンのシーア派とマロン派などの戦争がある。1940年代から1950年代に起こった内戦のうち、アイデンティティのための戦争が約半分を占めたが、1960年代にはそれが四分の三になり、1950年代の初めから1980年代末にかけては、異民族集団がかかわる反乱の数は三倍になっている。しかし、超大国の対立が世界に広まっていたので、いくつかの特別な例外をのぞいては、これらの紛争はあまり人目をひかず、冷戦の一部としてとらえられた。冷戦が終結に近づくにつれ、コミューン紛争はそれ以前よりも注目されるようになり、これには異論もあるが、かつてよりも頻発するようになった。民族問題での紛争を「急増」させる状況が実際に生まれたのである。

 これら異民族の紛争やフォルト・ライン戦争は、世界のさまざまな文明圏に同じ割合で起こっているわけではない。フォルト・ライン戦争の主要な戦闘は、旧ユーゴスラヴィアのセルビア人とクロアチア人や、スリランカの仏教徒とヒンドゥー教徒のあいだで起こり、それほど暴力的でない紛争が、他のいくつかの地域で非イスラム教徒のあいだに起こった。しかし、フォルト・ライン戦争の圧倒的多数は、ユーラシアとアフリカを三日月状に横切り、イスラム教徒と非イスラム教徒を分離する境界線にそって起こっている。世界政治のマクロ・レベル、すなわちグローバルなレベルで見れば、文明間の中心的対立は西欧とその他になるがミクロのレベルで、つまり地域レベルで見れば、イスラム教徒とその他の紛争が中心である。

 激しい対立と暴力的紛争は、地域のイスラム教徒と非イスラム教徒のあいだに多発している。ボスニアでは、イスラム教徒が血なまぐさい絶望的な戦闘をセルビア人と戦い、カトリックのクロアチア人とも暴力闘争を展開している。コソボでは、アルバニアのイスラム教徒はセルビア人の支配下にあって苦しんでおり、自分たちの秘密政府をもっていて、この両集団のあいだに暴力抗争が起こる可能性は高い。アルバニアとギリシャ政府は、相手側の国の少数民族の権利について争っている。トルコとギリシャは歴史的に仲が悪い。キプロスでは、イスラム教徒のトルコ人と正教会のギリシャ人が、相接した国で敵対している。カフカ―スでは、トルコとアルメニアは長年の敵同士であり、アゼルバイジャン人とアルメニア人は、ナゴルノ=カラバフの領有権をめぐって戦っている。北カフカ―スでは、200年にわたって、チェチェン人、イングーシ人、その他のイスラム教徒がロシアからの独立を勝ちとるべく、繰り返し戦っており、1994年には血なまぐさい戦争がロシアとチェチェンのあいだで始まった。イングーシ人と正教会派のオセット人のあいだでも戦闘が起った。ヴォルガ川流域では、イスラム教徒のタタール族が過去にロシア人と戦っており、1990年代初めにロシアと妥協して、限定的な主権を勝ち取ったが、その勝利も安定したものとは言えない。

 19世紀を通じて、ロシアは中央アジアのイスラム教徒にたいする支配を力ずくで徐々に広げていった。1980年代には、アフガニスタンとロシアは大きな戦争をした。ロシアが撤退すると、同じような事件がタジキスタンでも起こり、ロシア軍は現政権を援助して、イスラム教徒を主体とする反乱軍と戦っている。新疆では、ウイグル人や他のイスラム教徒集団が、中国化に反抗して戦っており旧ソ連の民族的、宗教的な同族である共和国との関係を強めている。インド亜大陸ではパキスタンとインドのあいだに三度の戦争があり、イスラム教徒の反乱軍がカシミールにたいするインドの支配権に反対し、イスラム教徒の移民がアッサムの部族民と戦闘し、イスラム教徒ろヒンドゥー教徒は、インド全土で暴力的抗争を繰り返している。しかも両方の宗教コミュニティで原理主義運動がさかんになり、これらの紛争をあおっている。バングラデシュでは、仏教徒が多数派のイスラム教徒に差別されているとして抗議し、ミャンマーではイスラム教徒が多数派の仏教徒からの差別待遇にたいして抗議している。マレーシアとインドネシアでは、イスラム教徒が再三にわたって中国人にたいする暴動を起こし、中国人が経済を牛耳っていると非難している。タイの南部では、仏教徒の政府にたいしてイスラム教徒の集団が執拗に反乱をくわだて、フィリピン南部ではイスラム教徒の反乱軍が、カトリックの国と政府からの独立を求めて戦っている。またインドネシアでは、カトリックの東ティモール人がイスラム政府の抑圧に反抗している。

 中東では、パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の抗争は、ユダヤ人の故国を建設する問題にさかのぼる。イスラエルとアラブ諸国のあいだでは四度戦争があり、パレスチナ人はイスラエルの統治に抵抗して戦っている。

2023年10月10日火曜日

20231009 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.115‐117より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.115‐117より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

トルコ人とアラブ人、ギリシャ人とアルメニア人と並んで、オスマン帝国の崩壊の後に国家を成立した民族に、ユダヤ人がいる。イスラエル建国とユダヤ人の移住もまた、難民問題に大きく関係した問題である。イスラエルの建国は難民問題への解決策だった。ナチスドイツによる強制収容と虐殺を逃れ、さらに各地の迫害や差別を逃れて、ユダヤ難民が西欧や東欧諸国からイスラエルに向かった。イスラエルはこれらヨーロッパ系ユダヤ人(アシュケナージあるいはアシュケナジーム)が主導して、その欧米での政治力に依拠して成立した国である。しかし、イスラエルにはオスマン帝国各地のユダヤ人も多く移民・難民として移り住んだ。オスマン帝国には、エジプトやイラクなどに古代から住み続けてきた中東系ユダヤ人(ミズラヒーム)や、スペインでの異端審問を逃れてオスマン帝国に渡来したスペイン系のユダヤ人(セファルディーム)など多くのユダヤ教徒がいた。これらのユダヤ教徒は、東欧でのシオニズム(パレスチナへのユダヤ国家樹立運動)の発展や、第一次世界大戦中のバルフォア宣言を必ずしも歓迎していたわけではない。バクダートは旧約聖書に描かれるユダヤ人虜囚が解放された土地であり、エルサレムよりも宗教上の価値が高いとする見方もある。サロニカやエジプトのアレクサンドリアのように、東地中海の交易路で重要な位置を占める都市で、ユダヤ商人は確固とした地位を築いており、パレスチナにユダヤ人の民族主義に基づく国家を創設することは、中東のユダヤ人にとって必ずしも歓迎すべきことではなかった。

 1948年イスラエルの建国によるアラブ・イスラエル紛争の開始は、中東系ユダヤ人の一部にとっても災厄となった。アラブ諸国では、反イスラエルをイデオロギーの支えの一つとする民族主義が勃興した。アラブ世界に代々住んできた、アラビア語を話すユダヤ人は、アラビア語を話すという意味で「アラブ人」でもある。このアラブ系ユダヤ人が、故郷を追われ、イスラエル、あるいは米国などに居を移すことになった。もちろん、イスラエルの建国と戦争は、新たにパレスチナ人難民を大規模に発生させた。

 イスラエルの建国は、ヨーロッパのユダヤ人の間にシオニズムの民族主義思想が広まったのを受けて、第一次世界大戦中にイギリスがユダヤ人指導者に対して与えた、パレスチナの地に「民族の故郷」の建設を支援するという約束によって促進された。フランスもまた「民族の故郷」をある「民族」に与えている。フランスは1920年に、サイクス=ピコ協定で統治領・勢力圏としたエリアから、アラビア語を話すキリスト教マロン派が主体となり、ギリシャ正教やローマ・カソリック、プロテスタントなどここでは少数派のキリスト教諸派と合わせてスンナ派やシーア派のイスラーム教徒に対して支配的になるように、レバノンの領土を切り分けた。フランス委任統治領シリアでは、ラタキア近辺のアラウィ―派や、シリア南部のドルーズ派など、イスラーム派など、イスラーム教シーア派の中のさらに少数派の諸派に独立の国家を与えようとする計画もあったが、実現しなかった。

 オスマン帝国支配化の諸集団には「民族」という概念はまだ未分化だった。それが西欧列強の介入が及び、社会の近代化が進むにつれて、言語の相違や、宗教・宗派による共同体のつながりが、国民国家を構成する民族という観念の核になった。民族意識の高まりには地域や集団によって差がある。また、ギリシャやアルメニア、イスラエルやレバノンのように拠点となる領域・国家を確保できた場合と、そうでない場合との相違は、外部の大国の支援を取り付けられるかどうかに大きく依存していた。

 オスマン帝国の崩壊はいくつもの「民族の故郷」を実現したが、クルド人のように国家を得られず、独立への希求を後世に託した民族もあった。ギリシャやアルメニアのように、獲得を望んだ領土のほんの一部しか独立国家の領土とし得ない場合も多かった。それらは「民族の故郷」への大量の難民を生み出すとともに、独立した領土の中で少数民族と化した人々を逆に難民として放逐することになった。

 イスラエルの建国は、ヨーロッパの難民・移民を受け入れることで成り立ち、それがまた、もともとそこに住んでいた人々を押し出して、パレスチナ問題を生み出した。

 オスマン帝国の崩壊は、ある少数民族の国家としての独立が、領域内の別の少数民族を生じさせる「入れ子状の紛争」の口火を切った。これは多民族を支配する帝国の崩壊に共通して生じた現象とも言える。ハプスブルグ帝国や、ロシア帝国あるいはその後継者となったソ連の崩壊は、同様の問題を各地で生じさせ、今でも完全に解決はしていない。

2023年10月9日月曜日

20231008 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.133‐136より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.133‐136より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

日本語は事実確認に向いていない

養老 言葉は社会を規定できるか、というのが憲法問題の根底にあるという話をしてきましたが、言葉の問題についてもう少し掘り下げて話してみたいと思います。

 昆虫の分類をやっていると、ここがどうなっているとか、いちいち言葉で書かなくてはいけません。いまだったら高精細の写真で見せればいいだろと思いますが、分類学では必ず言語化しなくてはいけない。解剖学もそうです。解剖して見ればいいじゃんかと思いますが、そうはいかない。解剖学でも分類学でも、根本的な問題はどう言語化するかです。

 なぜかといえば、ヨーロッパの学問は、物と言語の結び付きが強いからです。裁判でも欧米は証言主義で、何を言ったかが証拠になるから、弁護士は余計なことを喋るなと言う。逆に日本は心情主義で、その人がどう思っているかが重要になる。

 「事実」「言葉」「言葉を使う人」の三つがあるとしたら、日本の場合は「言葉」と「言葉を使う人」の関節が硬いけど、欧米では「事実」と「言葉」の関節が硬い。「事実」と「言葉」の関節が硬いからこそ、法律にも公文書にも意味があるわけです。でもそこがずるずるな日本では、公文書もクソもないから、そんなものはどっかいってもおかしくない。

 そういう違いは、オーストラリアにいたときに日常でしみじみ感じました。ドライで良いなと思う半面、ズレを感じつつ、それを無視して暮らすのに疲れてしまって嫌でした。俺はやっぱり日本人だなと思いました。

東 今のお話を哲学的な言葉にひきつけて言うと、言葉には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」があると言われます。そこで日本語では「行為遂行的機能」がとても強い、だから事実確認の言葉として使いにくい、ということだと思います。

 言葉と現実がどう結びつくかというさきほどまでの話とも関係しますが、日本語で言文一致もあまりうまくいっていません。外国の学会では講演原稿を作って読み上げることがあります。でも日本語でそれをやると「原稿を読み上げている講演」になってしまって、聞き手の理解を阻害してしまう。これは話し手の技術の問題ではなく、じつは言葉そのものの問題なんですよ。

 多くの人はあまり意識していないのですが、日本語は、書く言語と話す言語にかなり明確な違いがあります。「だ・である」「です・ます」の違いもその一例ですが、それ以上に語彙も違う。耳で聞いても理解できないけれど、読んだらわかるという言葉がたくさんある。プレゼンやスピーチが苦手な人が多いのはそれが理由だと思います。明治以降の日本語の標準化プロセスで、何か失敗したように思います。

養老 日本は昔から「読み書きそろばん」ですから。つまり、「読み書き」が日本語であって、お喋りは入っていない。ところが古代ギリシャでは、ソフィストという弁論術を教えることを仕事にしている人たちがいた。そのくらい話すことに対する考え方が違いますね。日本でそんなことをしようとしたら、「お前、落語家にでもなるのか」で終わってしまう。

東 たしかに「話す」のを職業にするというと、落語をやるくらいの受け取られ方をしますよね。いまは弁論術イコール論破みたいに受け取られてしまっていますが、本来は話す技術とは、聞く技術でもあります。だから、話す技術が教えられていない日本人は必然的に聞く技術もなくて、インタビューもすごく苦手なように思います。

 僕はゲンロン・カフェを10年以上やって、たくさんの人の話を聞いてきましたが、そこで気付いたのは、日本のアカデミシャンは聞く力が弱いということです。自分の主張ばかりする。話し相手がいつも生徒や同輩なので、自分の研究の内容を「教える」という関係性しかもったことがなく、対等な対話の訓練を受けていないように思います。このことと養老さんのお話はすごくかかわっている。

2023年10月8日日曜日

20231007 株式会社藤原書店 杉原志啓・富岡幸一郎 編集「稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰 1863-1957」pp.206‐207より抜粋

株式会社藤原書店 杉原志啓・富岡幸一郎 編集「稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰 1863-1957」pp.206‐207より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4894349515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4894349513

かくて蘇峰は、こんな「禍根」をもたらした背景として、学校と学校秀才重視の教育問題も執拗に論じることになる。蘇峰によれば、明治以来の近代的教育制度が整えられてきた結果、文武両官のエリートがすべからく官僚化してしまい、これがまた、日本を惨憺たる敗北に導いたからであった。  

 たとえばかれは、その病根につき、こんなことをいっている。「予は敢えて言う。帝国大学あって、日本の腐敗せる官僚政治は出て来り。士官学校、兵学校あって、陸海軍の腐敗せる幹部は出て来った。しからばこれ等の機関なければ、日本文武の百官将士は、何れも注文どおりに行ったかといえば、それも保証の限りではない。唯だこの場合に於て、如何に帝国大学なるものが、我があらゆる文官の各方面に害を流し、士官学校・兵学校なるものが、また陸海両軍に大なる禍を胎したかという事」を指摘しておかなければならない。つまりこうした「禍」の根本には教育問題があった。より直截にいえば、ひたすらな「形式教育」にあったということである。

 では「形式教育」とは、具体的にいったい何を意味していたか。というとそれは、ある意味現代でも一日とて耳にしない日はないといってよい「点取り教育」であった。つまり、まさに官僚に適合的とされる学校秀才の問題なのである。蘇峰はいう。今やあらゆる学校は、文武いずれも「点取り教育」であって、およそ学生はただ点数さえ取ればよいと心得ている。結果ペーパーテストの成績のよい「人間学」ならぬ「要領学」をマスターした学校秀才が幅をきかせてくる。ために学問の目的は、勢い「立身出世」となり、個人功利主義となる。しかもこの目的を達成する道筋は、「定められたる型通り筋を践んで行く事である。所謂る秀才とは、その定められたる型に最もよく嵌りたる者をいう訳であり、成功者とは、その型に適まって、立身出世委をした者という事であり、かくて世の支配階級なる者は、文武何れの方面も、軽佻浮薄、無責任、無節操の徒輩」ばかりになってしまったというのである。

 むろんこうした学校秀才も平時における日常業務ならば「相当間に合わぬ事もなかった」。しかるに「一旦緩急」の非常時となるや、かれらがたちまちその本性を暴露して、ほとんどまったく役に立たなかったことは、さきの大戦の帰結が実証しているではないかと。

 蘇峰によれば、そんなわけで、こんな事例をみただけでも、わが国はとてもアメリカに伍していく「総力戦」などなしうるはずがなかったのであり、事実さきの戦争は国民からまったく遊離し去っていた。換言すれば、日米戦争は「米人が勝ったのではない。日本人が負けたのである」。

軽佻浮薄な日本人の急変ぶり

 蘇峰はまた、敗戦直後からみられた「日本人の急変」ぶりにも、火炎放射器のごとき烈しい舌鋒を浴びせている。すなわち、当初からの自由主義者や共産主義者が、このさい「時を得顔」に顎をだしてくるは当然だろう。ただ、昨日まで熱心な「米英撃滅の仲間」であり、その急先鋒であった人びとが一夜にして豹変、たちまち「米英礼賛者となり、古事記一点張の人々が、民主主義の説法者」となった者が多いことには、さすがにその「機敏快速なる豹変ぶり」に一驚せざるをえなかったという。

 蘇峰にとって「時勢の変化によって、その態度を変化する」人びとや事象は、悉くまことに浅ましき戦後日本の「醜態」にほかならなかった。蘇峰はつまり、日本人の「この軽佻浮薄なる態度を見て、憤慨するどころか、むしろ泣きたくなる」と叫び、これでは「日本人を辞職したい」気持ちになるとさえいうのである。

2023年10月6日金曜日

20231005 中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.85‐88より抜粋

中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.85‐88より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122024889
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122024885

私は戯曲の文章を論ずるに先だって、小説中の会話の文章と、戯曲の文章とが、いかにちがうか申し上げなければなりません。小説のなかでは会話の沢山のあるもののあります。たとえば谷崎氏の『細雪』は、アメリカで翻訳されて、会話小説(カンヴァセイション・ノヴェル)というふうに言われました。戯曲と小説との中間形態はいろいろあって、たとえばゲーテの「ファウスト」は戯曲jと言うには、あまりにも奔放な会話の羅列であり、第二部のごときは上演も不可能なものでありますし、また会話体で書かれた戯曲でないものも沢山あるので、ゴビノオ伯爵の「ルネッサンス」のごときは、その一例であり、またフランスの18世紀の小説にも会話体の小説があり、戯曲と小説との間には多くの中間形態があります。

 われわれは会話の出てこない小説はよく退屈だと申します。地の文ばかり続いていうと、いかにも固い、窮屈な感じがして、一般読者は会話を要求します。それならば会話が好きかというと、会話ばかり続いた戯曲を、一般読者はほとんど読みづらいと言って敬遠します。この矛盾はなんでありましょうか。私はあるアメリカの作家から、これに関するある評論家の言葉というものを聞いたことを覚えています。その評論家の名は忘れてしまいましたが、それは小説の会話に関するこうした説でありました。

「小説の会話というものは、大きな波が崩れるときに白いしぶきが泡立つ、そのしぶきのようなものでなければならない。地の文はつまり波であって、沖からゆるやかにうねってきて、その波が岸で崩れるときに、もうもちこたえられなくなるまで高くもち上げられ、それからさっと崩れるときのように会話が入れられるべきだ」

 私はこの比喩を大変美しい比喩だと思っています。小説の中での会話はそうあるべきであって、そういう風に挿入された会話は美しい。

 しかし小説作法は絶対的ではないので、それぞれの国の伝統があって、ドイツの小説は長々とした議論を会話に乱用する傾きがあり、また過去の物語もドイツの小説では、多く会話の物語ですまされています。これはドイツの小説に特殊な味わいを与えているものですが、ロシアの小説でもドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のように、むずかしい神学的議論にまで及ぶ長い長い会話がつづられて、それが小説の主要なテーマを劇的に盛り上げております。事実、ドストエフスキーの小説中の会話は、会話としては特殊なものであって、それ自身が独立した劇的な効果をもっており、以前、パリで「カラマーゾフの兄弟」の中の会話の部分だけ抜萃して、一切手を加えずに上演したことがあります。これは相当な成功をみたようですが、それだけでもドストエフスキーの会話が、弁証法的構成をもち、一般の小説の会話とちがって劇的な緊張と対立の上に成り立った、奇聳な、小説におけるドラマ的効果を形造った会話であるということが言えるのであります。その意味では「カラマーゾフの兄弟」は小説的であると同時に、非常に劇的な作品であります。日本の読者には後半の法廷シーンにおける、長い裁判の弁論ごときは小説のなかでの会話的部分として、もっとも耳慣れないものでありましょう。

 日本の小説にはこのような会話の伝統はありません。多くは写実的会話で、小説の中における会話は小説の重要な筋に肉迫するような、劇的会話は避けられて、ちょうど地の文の辛さに、会話という甘味を一滴二滴落すような具合に挿入されて来ました。新聞小説の会話のごときはその代表的なものでありまして、新聞小説の読者は長い地の文や叙述の描写に耐えられないので、「あら、ほんと」とか「まあ、そんなことおっしゃっちゃいやだわ」という無意味な会話を挿入することによって、読者の日常平凡な現実的感覚を刺激しなければならないのであります。なぜならば地の文の描写は、いちおう知的な理解を経なければ、現実感覚としてせまってこないが、そこらで普段聞かれる日常会話は、小説の世界を、急に手先に引き寄せるように感じさせるからであります。ですから日本の小説に関するかぎり、会話は文学の重要な部分を受持っているとは言えません。

2023年10月3日火曜日

20231003 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.91-94より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.91-94より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520

当然ながら、没個性化した世界は、前衛主義のこの挑発に、キッチュをとおしてたちむかうことしかできない。キッチュとはすなわち、見せかけの芸術である。こうしてわたしたちは、童話的キッチュ、聖なるキッチュのほか、ファシズム期に出現した、キッチュと前衛芸術の合いの子が残された。

 キッチュは多種多様だ。キッチュを悪趣味ととらえることもできる。小人の庭飾りや、なかでオロパの聖母像に雪が降る、半円状のガラスの置物などがいい例だ。だが、グイド・ゴッツァーノの、悪趣味のいいものもまたキッチュである(「スペランツァばあさんの友達」、1911)。

オウムの剥製と、アルフィエーリとナポレオンの胸像

額縁に入った花々(悪趣味のいいもの!)

陰気な暖炉、砂糖菓子の入っていない空箱、

ガラスの覆いに守られた、大理石の果実、

ダゲレオタイプのなかの、おぼつかない夢想家、

(・・・)

ダマスク織の布を張った椅子

えんじ色(・・・)

 しかし、効果の追究としてのキッチュもある。つまり、「わたしたちがひとりの女を表現するならば、それは、わたしに一緒に寝たいと思わせるようあ女でなくてはならない」というような。キッチュの真髄は、倫理的カテゴリーと美学的カテゴリーの取り違えにあるのである。

 ヘルマン・ブロッホ(『キッチュ』1933)が言うように、キッチュは、「芸術家に「よい」仕事を課すのではなく、「美しい」仕事をするよう課す。キッチュにとっての重要なのは、美しい効果である」。

 舞台芸術では、効果は必要不可欠な構成要素、すなわち美的要素にまで格上げされる。他方で、芸術的ジャンル、ある明確なブルジョアジーのジャンルが存在する。つまりオペラのことだが、そこでは、効果がもっとも基礎的な構成要素となっている。

 だが、芸術をつくり上げる条件のひとつであるふりをして、実際には芸術レベルに到達しないものとしてのキッチュがありうる。キッチュという言葉が意味をもつとすれば、それは効果を生みだす傾向のある芸術だけを指すからではない。なぜなら多くの場合、偉大な芸術も同じ目的を志したからだ。キッチュはまた、フォルムの均衡がくずれた作品そのものを指すわけではない。それならば、その作品はただの醜い作品ということになるはずだ。ほかのコンテクストで登場したスタイルを踏襲している作品、という特徴をもっているわけでもない。それだけなら、なにも悪趣味に陥らなくともできることだ。キッチュは効果を促進するみずからの機能を正当化させるために、他人の経験という抜け殻を着て気取って歩き、それを芸術として売る作品を指すのだ。

2023年10月1日日曜日

20231001 中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.17‐20より抜粋

中央公論新社刊 三島由紀夫著「文章読本」pp.17‐20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122024889
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122024885

 しかし日本語の特質に帰ると、日本人は奇妙なことに男性的特質、論理および理知の特質をすべて外来の思想にまったのであります。平安朝時代の漢語および支那文学の教養は、武家時代になると、禅宗の影響下に、また儒教の影響下につぎつぎと新たに入ってくる外来文化の影響にすり替えられました。日本の男性的文化はほとんどすべて外から来たものであり、まだ外来文化に浴さないうちの日本の男性は、「古事記」時代のような原始的男性の素朴さを持ち、まだ感情を発見することなくひたすらに素朴な官能に生きていました。男性が感情を発見する前に、女性が感情を発見したのであります。そして男性はますます自分の感情を発見することよりも、古代の外来文化のもたらした諸概念に身を縛ることの方に、むしろ積極的な喜びを見出しました。男性はまずます頑なに感情から離反し、種々の哲学概念や宗教的概念でもって感情を殺そうと試みました。儒教の影響下にあった武士道のあの頑なさについては、皆さんはよくご存じであります。

 この影響は明治維新以後にもあいかわらず払拭されませんでした。ドイツ観念論哲学の用語が嵐のごとく日本の知識階級の用語になって流入し、あらゆる抽象概念はドイツ観念論の用語で代用されました。そうした日本には、日本独特の抽象概念というものがなかったので、平安朝の昔から男性は抽象概念を、すべて外来語によって処理してしまう習慣になっていました。そして日本語独特の抽象概念にあたるものは、いつも情緒の霧にまといつかれ、感情の湿度に浸潤されて、決して抽象概念すら自立性、独立性、明晰性を持つことはできませんでした。むしろこのような言葉の曖昧さへの性質は、男女の別なしに民衆のなかに浸透して、民衆の文学が生れる素地を作ることにはなったが、これはまたあとの問題であります。

 このように考えてくると日本の文学はというよりも、日本の根生(ねおい)の文学は、抽象概念の欠如からはじまったと言っていいのであります。そこで日本文学には抽象概念の有効な作用である構成力だとか、登場人物の精神的な形成とか、そういうものに対する配慮が長らく見失われていました。男性的な世界、つまり男性独特の理知と論理と抽象概念との精神的世界は、長らく見捨てられて来たのであります。平安朝がすぎて戦記物に時代になりますと、そこでは叙事詩的な語りものの文学、「平家物語」とか「太平記」が生れましたが、そこで描写される男性は、まったくただ行動的な戦士、人を斬ったり斬られたり、馬に乗って疾駆したり、敵陣におどり込んだり、扇の的を矢で射たりするような、ただ行動的な男性の一面が伝えられるにすぎませんでした。

 一方、平安朝の女流作家が開拓した男性描写、それはいわば女性の感情と情念から見た男性の姿であります。男性はひたすら恋愛のみに献身し、男性の関心はすべて女性を愛することに向けられました。そこでは男性すらが女性的理念に犯されて、すべて男女の情念の世界に生き、光源氏のような、絶妙な美男子ではあるが、ただ女から女へと渡って行く官能的人間を、理想的な姿として描いています。これはまた戦記物の行動的な男子と同様、男子の一面を描写するにすぎません。しかしこのほうの男性描写の伝統こそ、日本文学の最も長い最も深い伝統をなしもので、元禄時代の西鶴の「好色一代男」も「源氏物語」の影響を受けたものでありますが、これにもまた好色一辺倒に生きた男の生涯が語られて、それが武士道徳に対する民衆的理念を代表するものであったとしても、やはり男性の精神的世界は閑却され、この伝統はわれわれの意識しないところで、明治以後の近代文学にまで続いているのであります。

20230930 ブログ記事作成の当面の目標(伸びしろはあるのでしょうか・・?)

日中はまだ暑い日が続いていますが、明日から10月になり、早くも今年の残りは3カ月となります。他方、当ブログは前回の投稿により総投稿記事数が2045となりました。そして今年の残りを3カ月≒90日程度と考えますと、2日間に1記事強の投稿頻度にて今年中に2100記事に到達することが出来ます。

しかしながら、以前にも何度か述べましたように、現在は去る5・6月の2000記事到達および8年間のブログ継続後の休息期間であり、記事作成に本腰を入れる必要はないと考えています。そこで、さきに述べた2日に1記事強の投稿頻度を検討しますと、それは「ほぼ本腰を入れている状態」と云えます・・。

このように状況を考えてみますと、悩ましいものがあり『いっそ棚上げしてまおうか・・』とも思われるところですが、当ブログを今後さらに3000記事まで継続するかどうかは別として、どのような投稿頻度であれ、おそらく今後、2100記事程度までは継続すると思われますので、そこに至るまでの投稿頻度は「出来るだけ早く済ませてしまう」ために、さきの2日に1記事強の投稿頻度でも良いと思われるのです・・。

また、実際にそれを行うに際しては、これまでも度々用いているChatGPTをさらに多用してみたいとも考えています。しかし、このChatGPTを用いたブログ記事作成は、このようなオリジナルでの文章作成と比較しますと、明らかに文章作成の「楽しみ」が少なく、かえって続けることが困難になってしまうではないかとも思われましたが、しかし、こうした独白形式の文章でのブログ記事作成も当初は難しく毎回辛吟しつつ作成していましたが、そこから8年程度(どうにか)継続していますと、当初ほど辛吟することはなくなり、どうにか自分の文章を作成することが出来るようにはなりましたが、他方で自分としては、もう少しは伸びしろのようなものがあるのではないかとも考えています・・。

そして、その伸びしろを活かすためにも、たとえ当初は楽しくなくともChatGPTを用いて記事作成を行うことにより、また何か良い変化が生じるのではないかと思われますが、いずれにせよ、今年残りの当ブログの目的は、年内に総投稿記事数が2100に到達すること、またその内容はオリジナルの記事、ChatGPTを用いて作成した記事、そして書籍からの引用記事のいずれであっても良いこととします。また、年末近くになってあわてて1日に3記事投稿などということにならないように、手近な目標として10月中に総投稿記事数が2060以上になるようにまた進めていきたいと思います。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。