弥生時代の社会において銅鐸は重要な意味を持ち、そしてまた、かなりの労力を注いで製作されていた。その様子は現代の我々からすると、ある種「カルト的」な情熱に基づいていたようにも考えられる。しかしながら同時に、銅鐸を製作し、それを祀っていた弥生時代の我が国社会の様相が、どのようなものであったかという問いに対して、古代史や考古学の分野においても、いまだ明確な見解は得られていない。
しかし、こうした状況それ自体は、とくに各学問分野の限界を示すものではなく、それよりも、性急に見解や結論を出さない慎重な態度こそが重視されるべきものと考える。他方で、不明瞭な視座から断定的な見解や知見を述べることは、どの学問分野においても慎むべきと考える。
銅鐸は、我が国に文字文化が(ほぼ)存在しなかったとされる弥生時代の文化事物であることから、当然ながら、同時代の文字資料を通じて、その詳細を知り得ることは不可能であり、銅鐸実物や出土した環境のみが手がかりであり、そこから当時の社会の様相などを推測するほかにない。そのため、当時の具体的な銅鐸祭祀の様相や、行っていた社会の全体の様相を明らかにすることは容易ではない。しかし他方で後世に編纂された歴史書の中には銅鐸に関する記述が散見される。我が国最古の歴史書である『古事記』や、それをもとに編纂された『日本書紀』には、銅鐸に関しての記述はない。そして、これらが記述対象とした時代に銅鐸が用いられていたのであれば、何も触れられないのは不自然である。したがって、銅鐸は、記紀が記述した時代以前の社会において用いられていたと考えるのが妥当と云える。
また、『古事記』においては多くの文量が割かれている出雲神話が『日本書紀』では、記述が大幅に削られている点も、記紀に銅鐸の記述がないことと関係があると考えられる。いうまでもなく、こうしたことは、当時の支配者が自らの統治方針に基づいて歴史や神話を編集した結果であり、そこで前時代の祭器である銅鐸の存在を匂わせる記述が削除されたと考えることは自然であると云える。
他方で、平安時代初期の八世紀に編纂された『続日本紀』には、銅鐸に関しての具体的な記述が見られる。以下、その該当部分を引用する。
「和銅六(713)年、丁卯。大倭国宇太郡波坂郷の人、大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之れを献ず。高さ三尺、口径一尺、其の制、常に異にして、音、律呂に協ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。」
(『続日本紀』巻六)
この記述によれば、和銅六年(713年)、大倭国宇太郡波坂郷の住民が銅鐸を発見し、それを朝廷に献上したとされる。銅鐸は高さ三尺(約90センチ)、口径一尺(約30センチ)の大きさであり、その音が音律に調和していたという。また、「その制、常に異にして」という表現からは、この銅鐸が大和朝廷の文化の系譜上にあるものではなく、異質な文化的背景を持つものであったことが示唆される。そして、この記述から銅鐸は、大和朝廷の成立以前の社会において祭祀や儀礼で用いられたものであり、その社会の制度と密接に関わっていたことを、当記録の筆者は知っていたものと考える。
さらに、『扶桑略記』にも銅鐸に関する興味深い記述があり、以下にそれを示す。
「天智七(668)年正月十七日。近江国志賀郡にて崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口を掘り出す。高さ五尺五寸、又奇好の白石を掘り出す。長さ五寸。夜、光明を放つ。」
(『扶桑略記』天智天皇の条)
この記述は、天智天皇七年(668年)の出来事として、近江国志賀郡で崇福寺の建立に際して発見された銅鐸について述べている。銅鐸の高さは五尺五寸(約167センチ!)とされ、さらにその近くから奇妙な白石も掘り出されたという。これらの物品は夜になると光を放ったとされ、銅鐸がただの青銅器ではなく、特別な意味を持つ存在であったことが示唆されている。この記述が11世紀末に編纂されたものであることから、必ずしも史実をそのまま伝えているとは限らないが、少なくとも当時の僧侶や官人たちが銅鐸を大和朝廷以前の異質な文化に属するものと認識していたことは明らかである。
これらの記録から、銅鐸は弥生時代の文化事物でありヤマト(大和)朝廷成立以前の社会で用いられた祭器であったと云える。それでは、なぜ銅鐸は他の弥生時代からの青銅製祭器である鏡や、あるいは勾玉のように三種の神器とされなかったのだろうか。鏡は三種の神器の一つとして天皇の権威を象徴する存在であり、勾玉もまた、朝廷儀礼のなかで重要な役割を果たした。それらに対し、銅鐸は朝廷の文化体系には取り込まれずに歴史の表舞台から姿を消していったのである…。
この謎を解く手がかりは、出雲の国譲りや神武東征といった神話にあると考える。これらの神話は、大和朝廷が日本列島の支配の過程を象徴するものであり、朝廷の文化体系に組み込まれたものは、その支配を正当化するといった意味あいを持っていた。しかし、銅鐸はこうした神話の枠組みの中で位置づけられず、異質なものとして排除された。そして、この解釈は、銅鐸の出土状況とも合致するのである。
以上の考察から、銅鐸はヤマト朝廷の成立以前の弥生時代の社会にて祭器として用いられた。しかし、朝廷成立により、その役割を終え「奇異なもの」として歴史の片隅に追いやられていった。銅鐸は、鏡や勾玉のように権力の象徴としての地位を得ることはなかったが、我が国の弥生時代での社会の様相を知るための重要な手がかりとなり、また我が国で弥生時代から古墳時代へと変遷する過程を理解する上で欠かせないものと云える。そして、今後もさらなる研究が積み重ねられ、この時代の謎が少しでも解明されることが期待される。
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