2024年10月28日月曜日

20241028 銅鐸についての考察

 銅鐸は、我が国の弥生時代での特徴的な青銅製祭器であり、その姿は多くの教科書や歴史書に掲載されていることから、当時、この特徴的な青銅器が盛んに製作されていたことを疑う者はほとんどいない。

 弥生時代の社会において銅鐸は重要な意味を持ち、そしてまた、かなりの労力を注いで製作されていた。その様子は現代の我々からすると、ある種「カルト的」な情熱に基づいていたようにも考えられる。しかしながら同時に、銅鐸を製作し、それを祀っていた弥生時代の我が国社会の様相が、どのようなものであったかという問いに対して、古代史や考古学の分野においても、いまだ明確な見解は得られていない。

 しかし、こうした状況それ自体は、とくに各学問分野の限界を示すものではなく、それよりも、性急に見解や結論を出さない慎重な態度こそが重視されるべきものと考える。他方で、不明瞭な視座から断定的な見解や知見を述べることは、どの学問分野においても慎むべきと考える。

 銅鐸は、我が国に文字文化が(ほぼ)存在しなかったとされる弥生時代の文化事物であることから、当然ながら、同時代の文字資料を通じて、その詳細を知り得ることは不可能であり、銅鐸実物や出土した環境のみが手がかりであり、そこから当時の社会の様相などを推測するほかにない。そのため、当時の具体的な銅鐸祭祀の様相や、行っていた社会の全体の様相を明らかにすることは容易ではない。しかし他方で後世に編纂された歴史書の中には銅鐸に関する記述が散見される。我が国最古の歴史書である『古事記』や、それをもとに編纂された『日本書紀』には、銅鐸に関しての記述はない。そして、これらが記述対象とした時代に銅鐸が用いられていたのであれば、何も触れられないのは不自然である。したがって、銅鐸は、記紀が記述した時代以前の社会において用いられていたと考えるのが妥当と云える。

 また、『古事記』においては多くの文量が割かれている出雲神話が『日本書紀』では、記述が大幅に削られている点も、記紀に銅鐸の記述がないことと関係があると考えられる。いうまでもなく、こうしたことは、当時の支配者が自らの統治方針に基づいて歴史や神話を編集した結果であり、そこで前時代の祭器である銅鐸の存在を匂わせる記述が削除されたと考えることは自然であると云える。

 他方で、平安時代初期の八世紀に編纂された『続日本紀』には、銅鐸に関しての具体的な記述が見られる。以下、その該当部分を引用する。

「和銅六(713)年、丁卯。大倭国宇太郡波坂郷の人、大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之れを献ず。高さ三尺、口径一尺、其の制、常に異にして、音、律呂に協ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。」
(『続日本紀』巻六)

この記述によれば、和銅六年(713年)、大倭国宇太郡波坂郷の住民が銅鐸を発見し、それを朝廷に献上したとされる。銅鐸は高さ三尺(約90センチ)、口径一尺(約30センチ)の大きさであり、その音が音律に調和していたという。また、「その制、常に異にして」という表現からは、この銅鐸が大和朝廷の文化の系譜上にあるものではなく、異質な文化的背景を持つものであったことが示唆される。そして、この記述から銅鐸は、大和朝廷の成立以前の社会において祭祀や儀礼で用いられたものであり、その社会の制度と密接に関わっていたことを、当記録の筆者は知っていたものと考える。

さらに、『扶桑略記』にも銅鐸に関する興味深い記述があり、以下にそれを示す。

「天智七(668)年正月十七日。近江国志賀郡にて崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口を掘り出す。高さ五尺五寸、又奇好の白石を掘り出す。長さ五寸。夜、光明を放つ。」
(『扶桑略記』天智天皇の条)

この記述は、天智天皇七年(668年)の出来事として、近江国志賀郡で崇福寺の建立に際して発見された銅鐸について述べている。銅鐸の高さは五尺五寸(約167センチ!)とされ、さらにその近くから奇妙な白石も掘り出されたという。これらの物品は夜になると光を放ったとされ、銅鐸がただの青銅器ではなく、特別な意味を持つ存在であったことが示唆されている。この記述が11世紀末に編纂されたものであることから、必ずしも史実をそのまま伝えているとは限らないが、少なくとも当時の僧侶や官人たちが銅鐸を大和朝廷以前の異質な文化に属するものと認識していたことは明らかである。

 これらの記録から、銅鐸は弥生時代の文化事物でありヤマト(大和)朝廷成立以前の社会で用いられた祭器であったと云える。それでは、なぜ銅鐸は他の弥生時代からの青銅製祭器である鏡や、あるいは勾玉のように三種の神器とされなかったのだろうか。鏡は三種の神器の一つとして天皇の権威を象徴する存在であり、勾玉もまた、朝廷儀礼のなかで重要な役割を果たした。それらに対し、銅鐸は朝廷の文化体系には取り込まれずに歴史の表舞台から姿を消していったのである…。

 この謎を解く手がかりは、出雲の国譲りや神武東征といった神話にあると考える。これらの神話は、大和朝廷が日本列島の支配の過程を象徴するものであり、朝廷の文化体系に組み込まれたものは、その支配を正当化するといった意味あいを持っていた。しかし、銅鐸はこうした神話の枠組みの中で位置づけられず、異質なものとして排除された。そして、この解釈は、銅鐸の出土状況とも合致するのである。

以上の考察から、銅鐸はヤマト朝廷の成立以前の弥生時代の社会にて祭器として用いられた。しかし、朝廷成立により、その役割を終え「奇異なもの」として歴史の片隅に追いやられていった。銅鐸は、鏡や勾玉のように権力の象徴としての地位を得ることはなかったが、我が国の弥生時代での社会の様相を知るための重要な手がかりとなり、また我が国で弥生時代から古墳時代へと変遷する過程を理解する上で欠かせないものと云える。そして、今後もさらなる研究が積み重ねられ、この時代の謎が少しでも解明されることが期待される。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年10月27日日曜日

20241026 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」 pp.18-20より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188552
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188559

 ユーゴスラヴィアの戦争は一九九一年から二〇〇一年まで、衝突勢力と地域を変えながら断続的に続いた。その展開はかなり複雑なので、詳しくは専門書を読んでほしい。それでも最低限の知識だけ確認するとすれば、紛争の軸はまずはセルビア民族と他民族の葛藤にあった。
 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の中心は、名実ともにセルビア社会主義きょうわこくだった。連邦の首都はセルビアの首都であるベオグラードにあったし、面積も人口も最大だった。歴史を遡っても、一九世紀にこの地域の統合で大きな役割を果たしたのはセルビア王国だった。
 それゆえ連邦の解体にもっとも強く抵抗したのもセルビアだった。とくにクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの二共和国、そしてセルビア共和国内の自治州だったコソヴォには多くのセルビア人が住んでおり、ミロシェヴィッチ政権はそれらの地域が支配から離れることを警戒した。むろんそれは他民族からすれば時代錯誤な「大セルビア主義」の押しつけにほかならない。しかしそれはセルビアからは民族の危機に見えたのだ。
 というわけで、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ユーゴスラヴィア人民軍は、彼らの独立を阻止すべく介入を始めた。スロヴェニアにはあまりセルビア人がいなかったので、戦闘は一〇日で終わった。けれどもクロアチアでの戦闘は、いま記した理由でたいへん長引くことになる。
 翌年の一九九二年には隣のボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を宣言し、連邦はそちらにも介入し始めた。人民軍は両国でセルビア人が結成した民兵組織を支援し、大規模な戦闘を展開した。その過程でのちに紹介する「サラェヴォ包囲」も行われた。クロアチアでの戦争は一九九五年一一月まで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争は一九九五年一二月まで続き、多くの歴史ある町が廃墟になり、あちこちで「民族浄化」が行われた。
 民族浄化は、虐殺や迫害や強姦などの手段を用い、特定の地域から特定の民族以外を排除して民族構成を純粋化すなわち「浄化」することを意味する言葉である。この言葉そのものがユーゴスラヴィア紛争のなかで生まれた。民族浄化の展開は当時の欧米メディアで積極的に報道され、二〇世紀も末になってヨーロッパでまだこんな残酷なことが行われているのかと驚きをもって受け止められた。それは、二〇二二年二月にロシアがウクライナに侵攻したとき、二一世紀にもなってヨーロッパでまだこんな大規模な戦争が起こるのかと驚かれたこととよく似ている。
 クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争が終わったあと、一九九八年から九九年にかけては、こんどは南セルビアのコソヴォが紛争の舞台となった。コソヴォも一九九一年に独立を宣言していたが、ミロシェヴィッチ政権はそれを抑え込み続けていた。しかしアルバニア人の民兵組織が力をつけ、一九九八年についに政府軍と本格的に衝突し始めたのである。こちらでも凄惨な民族浄化が展開され、セルビア人とアルバニア人双方で多数の難民が発生した。NATOがその戦争を止めるために空爆に踏み切ったのは、さきほども記したとおりだ。
 空爆の結果、ミロシェヴィッチ政権はコソヴォから軍を引き上げ、かわりにNATO主導の治安維持部隊が進駐した。とはいえ、紛争の余波はセルビアとコソヴォの境界付近や隣のマケドニアで続き、二〇〇一年になってようやく事態は安定することになる。
 ユーゴスラヴィア紛争とはこのようなできごとだった。この一連の戦争は、当時、第二次大戦後のヨーロッパで展開されたもっとも大規模な紛争だった。死者と行方不明者は一〇万人にのぼり、難民と国内避難民をあわせて二〇〇万人を越えた[★3]。その傷跡はいまもあちこちに残っている

2024年10月25日金曜日

20241024 株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」 pp.38-43より抜粋

株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.38-43より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480434828
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480434821

 慶長(一六〇〇)年九月十五日午前四時、島津義弘率いる島津隊が関ケ原に到着した。第十六代島津宗家当主・義久は彼の兄、その後継者で次期島津家当主・忠恒(のちの家久)は彼の息子にあたる。

 すでに六十六歳となっていた義弘は、当時としては相当な老人であるが、戦場を駆けまわることで鍛え上げた足腰はいまだに衰えを感じさせなかった。

 小西行長、宇喜多秀家隊も相次いで顔を揃え、西軍(豊臣方)の陣容はほぼ整った。夜が明けるにつれ昨日から降り続いた雨はほぼ上がったが足下はぬかるみ、霧のために見通しがきわめて悪かった。

 午前七時過ぎ、東軍(徳川方)の徳川家康四男・松平忠吉隊と井伊直正隊が宇喜多秀家隊に向い攻撃を仕掛け、いよいよ合戦の火ぶたが落とされた。濃い霧の中、鬨の声や銃声が響き渡り、敵か味方がの区別がつかないまま無数の足音が地面を揺らした。

 やがて霧が晴れ、周囲の状況がはっきりとしてきた。

 この時、空から関ケ原を見下ろせば、色とりどりの軍旗、指物、馬印が風になびき、華やかな祭りの会場さながらの光景が広がっていたはずだ。

 明治初期に陸軍大学校教官として来日したドイツ人のヤーコプ・メッケル少佐が、関ケ原の陣営配置図を見せられると即座に「西軍勝利」の判定を下したという逸話はあまりにも有名である。それほど西軍の布陣は有利であったし、武力においても勝っていた。が、多くの武将の裏切りにより、西軍は敗北を喫した。死闘の裏でひそかに取り交わされるさまざまな駆け引き、関ケ原の戦いは武力と武力の衝突というよりも、知力と謀略に彩られた人間ドラマそのものであった。その多くの登場人物の中でも、最も知力に溢れていたのは、勝者・徳川家康であったことは今さらいうまでもあるまい。

 さて、この戦いにおいて、西軍島津義弘隊はまるで傍観者のように孤立していた。史料によりばらつきはあるが、この日義弘に従った兵員は、千人から千五百人の間。薩摩から日向一帯を治め厖大な数の家臣団を抱えていた島津家にしてはいささか寂しい陣容であるが、一騎当千の彼らはこの大混戦の中、一歩も前へ出ることなく、ひたすら何事か待っているかのようであった。そして、陣容に近づく者は西軍であれ東軍であれ、構わず撃退していた。

 いったいなぜ、彼らはこのような不思議な戦い方をしていたのだろうか。

 そもそも島津隊の政治方針は中央政権とは一線を画し、自分たちだけの楽園・薩摩のみを守り抜くという独特なものである。織田や豊臣などのような、天下統一といった途方もない夢などは彼らには興味がない。この戦乱を利用して自領を増やしたいという企画はあったが、それも九州内の話であり、それ以上の領土欲はない。

 なのに、こうして天下分け目の戦いに参加する仕儀に相成ったのは、たまたま義弘が伏見に滞在中であったためである。そして、行きがかり上、西軍に引き込まれることになったが、本音をいえばこの合戦自体に参加したくなかった。島津は豊臣家再興だのといった御大層な大義にはとんと興味がない。大事なのはわが所領のみ。

 とはいえ戦場でこのような振る舞い方はまことに紛らわしい。 

 島津隊を味方だと信じて逃げてきた宇喜多秀家、小西隊までもが斬り払われ、宇喜多隊の多くは池寺池に落ちて溺死した。

 慶長五年九月十五日午後三時ー開戦からおよそ八時間経過した今も、島津隊は関ケ原にいた。すでに西軍は総崩れしつつあり、戦場にはぽつんと彼らのみ取り残される結果となった。東軍はジリジリと迫り来て、ついに彼らは敵方に取り囲まれてしまう。

 いかにもやる気のない戦いぶりから想像がつくように、彼らは西軍に殉じて全員討ち死にするつもりなどなかったが、さりとて、おめおめと白旗をあげて東軍に投降するつもりもなかった。

 そこで彼らは「名誉ある撤退」を決意する。西軍への義理はすでに果たした。ここにとどまる理由はない。よって撤退するというわけである。

 だが、それを見越した東軍は予想される二つの退路にすでに兵を終結している。このまま進めば袋の鼠となることは確実だった。義弘は目をつぶり耳をすませ、自らの進むべき方向を考えた。 

 そこで彼の得た結論はー敵中突破。

雲霞のごとく満ちている敵の真っ只中に突っ込んで、戦場を離脱するなど通常の感覚ではありえない選択肢だった。だが百戦錬磨の義弘の直感は「どの退路をとっても敵が待ち構えているのならば、いっそ相手の意表を突いて、戦場の中央を突破せよ」と告げていた。

 義弘は周囲の者たちを一団にまとめると、

「突き進め!」

 と叫ぶや否や馬を走らせ、たちまち一団は立ち上る砂の塊となり猛然と敵陣中へと前進したのである。

 何が起きたのだろうー東軍の誰もが呆然と島津隊の動きを見つめていた。それは島津隊に相対していた福島正則も同じである。

「敵ならば斬り通れ、さもなくば自らの腹を切れ!」

 義弘の言葉に応じて島津隊は一斉に刀を抜き、福島隊の方向へと殺到した。島津隊は福島隊との斬り合いを覚悟していた。

 だが、福島隊は思わず身を引き、島津隊の前に自然と道が開かれた。それはまさに海が割れ、道が現われたという「出エジプト記」モーゼの話を地でゆく光景だった。

 ちなみにこの時、福島正則の息子で、十七歳の正之が島津隊に立ち向おうとして、家臣から諫められたという逸話が遺されている。

 すでに勝敗は決している。死を覚悟し、目を血走らせて猛進する島津隊と戦っても何の意味もない。福島隊の家臣は若様に「犬死してはなりませぬ」と教えたのだ。これは現在に生きる私たちにもうなずける、合理的な判断である。

 しかし薩摩武士の考え方はまったく違っていた。彼らの内部には、合理的な思考では説明のできない、野生の血がたぎっていた。自分の死が有益なのか無益なのか、どう生きるのが得なのか、そのような小ざかしい線引きは彼らにとってはどうでもよい。

 「薩摩の男はここぞと決めた時、ここぞと決めた場所で、自らの意志に従い死んでゆくのみ」

 猛獣の群れと化した島津隊。気を呑まれて彼らを通過させた東軍は、ふと我に立ちかえり追撃を開始するが、後の祭り。義弘は主要な武将を次々と失いながらも、大垣から伊勢路を越え大阪へ落ち延びた。途中、大阪に留め置かれていた人質の妻子らを連れ戻し、九月の末に薩摩へと帰還した。

2024年10月22日火曜日

20241022 岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」 pp.414‐416より抜粋

岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」
pp.414‐416より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003812824
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003812822

 横穴式石室は、すでにふれたように遺骸を石室の側面から搬入する墓室で、単に遺骸を納めた棺を囲う竪穴式石室と違い、石室自身がひろい空間をもち、そこに何人かの追葬を可能としたものである。もっとも朝鮮から日本に伝わった当初は、たとえば福岡県老司古墳にみるように、一墳に小形の数石室がつくられ、石室自体も小さく、一室一遺体、せいぜい二、三遺体の埋葬という状況にあった。この種の竪穴系横口式石室とよばれるものは、五世紀に北部九州を中心にひろがったが、なお畿内や瀬戸内沿岸においては普及をみず、一部の中・小墳の墓室として採用されたにすぎなかった。朝鮮との交流が深かったと考えられる北部九州にまず定着し、ついで、瀬戸内、畿内へとひろがっていったものである。

 この横穴式石室が玄室と羨道と前庭部とを整え、普遍的な墓室型式として全国各地に採用されてくるのは、六世紀中葉以降である。その直前には畿内および西日本における一部の首長層の間にひろがったが、六世紀中葉以降は、一部の地域や集団を除いて東北南部から九州南部にまで、それ以前の竪穴式石槨・粘土槨・各種石棺・箱式石棺・木棺直葬など多様な埋葬施設のほとんどにとってかわるかのように普及していった。中には横穴式石室の影響によって同じ思想をもって営まれた横穴という型式をとる地域や集団も、出雲・豊前京都郡・肥後・能登・東海・東国など各地にあったし、南九州では地下式横穴という型式をとった。

 横穴式石室の羨道部は埋葬のたびに閉塞がなされるのが普通であった。その玄室には、組み合わせまたは釘どめの木棺、組み合わせ式箱式石棺、また吉備東部・北部などでは陶棺などに納められた遺骸が安置されるが、首長墳とみなされる大形石室の場合には、しばしば刳抜造りの家形石棺が置かれる。羨道部は玄室と現世とをつなぐ通路の役を果たすものであったが、やや新しい段階となると、そこへ追葬がおこなわれる場合もある。羨道部のちにはその入り口をもって閉塞する行為の過程で祭祀がおこなわれたらしく、石塊にまいって土器類が発見されることがある。前庭部もまた遺骸搬入の一種の通路でもあるが、そこに大甕が掘り据えられていたり、破砕した土器類が発見されることなどから、祭祀がおこなわれたことが考えられる。これらのことからみて、この石室の普及に伴って、墳頂を中心とする祭祀から羨道前面ないし前庭部を中心とする祭祀への移行が進みつつあったことは確実である。このことは墳丘の高さや大きさとの関係を薄め、やがて墳丘の強大性の意味を漸次失わせることになる。

2024年10月21日月曜日

20241020 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.38-40より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.38-40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 ポーランド人とハンガリー人の間では、ジェントリーー非常に大人数で、他の民族においてはこれに相当するものがほとんどなかったーが、中産階級にとって代った。彼らは民族主義的革命勢力として、中産階級よりもはるかに効果的であった。というのは、彼らは何世代にもわたって軍人教育を受けており、戦士の精神と伝統を持っていた。貴顕の有力者とともに、国政において権力を独占していたジェントリーは、民族主義思想の唯一の主唱者となった。さらに、ポーランド人のジェントリー国家は、リトアニア、白ロシアの地主階級と、ウクライナの地主階級の大部分を同化し、ポーランド農民の住む地域のおよそ三倍を覆ったことがあったので、ポーランドの偉大さは、ジェントリーによる階級支配と密接な関係を持っていた。多少異なっていたものの、ハンガリーでも同じことが言えた。しかし、ポーランド人ジェントリーと農民との間の隔たりは格段に大きかったので、ポーランド語を話す農民たちは大体において、自分たちが自分たちの主人と同じ民族に属すとは見なさなかった。一八四八年とその後半世紀近く、オーストリア系ポーランド人の主たる指導者の一人であったジェミャウコフスキは、ずっと後の一八六五年三月にこう書いた。「・・・ガリシアにおいては、農民はポーランドのことを考えもしないし、ポーランドを欲してもいない。一方で、都市の住民は、その眠りからやっと覚め始めたばかりである」。事態はむしろ悪化していた。というのは、大土地所有者と農民との関係は、重い賦役と世襲の領主裁判権によって未だに毒されていたし、敵対的なオーストリア官僚は、両者の悪化する関係を利用し続けていた。

 一八四五年、ポーランド民主協会員は、多くは西ヨーロッパにある亡命者組織の指令によって、ポーランドを分割する三カ国すべてにたいし民族蜂起を準備していた。この蜂起は、必要があって陰謀的な方法で計画されたが、そのために、財源が全く不足していたことと計画が夢のようなもので実際に役に立たないことは、指導者たちにさえも、隠されてしまった。一八三〇年と三一年には、貴族あるいはジェントリーといったポーランドの指導者たちは、農民の完全な解放を宣言して、彼らに訴えかけるような気持ちにはなれなかった。一八四五年から四六年に活躍した人びとは、自らジェントリー階級であったが、誤りに気づいた。つまり、ポーランド人の努力の持つ弱点とその失敗を、勝ち誇ったフランス革命軍(当時、彼らもまた不利な状況に直面し、見たところ勝ち目はなかったが)の勢いと比べてみて、社会的革命勢力を蜂起させることによってのみ、彼らもその敵や抑圧者の組織された勢力を打ち負かすことができる、と結論したのである。一方で、彼らは世界的な革命と戦争を夢想し、世界政治システムはポーランドによって決定され、ポーランドを中心に展開し、その復活によって完成し、最終的には新たな偉大なポーランドとして結実する。と絵空事を描いていた。このような空想とうぬぼれが、ポーランド人の運動を鼓舞し続けたのであるー当時も、そしてそれ以来ずっと。このようにして本質的に貴族的かつ好戦的な民族で、ジェントリーの剣の伝説が深く染みつき、不在地主とその広大な所有地に基づいた偉大さを備え、今もって愛国的動機から社会革命的行動へと身を投じる民族という、異常な類型が現われたのだった。ポーランド人は、代わるがわる、自由の主唱者として賞賛されたり、反動勢力として非難されたりしてきた。実際、彼らはそのどちらでもなかった。むしろ、どの民族もそうであるように特殊な事例の一つにすぎなかったのだ。だが、彼らの場合は、その立場の複雑さ故に、他よりももっと複雑であったのだが。

2024年10月20日日曜日

20241019 中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋

中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122026180
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122026186

 薩摩藩には、郷中制度というものがあった。青少年団といってよく、藩士の部屋住みの子弟はみなこれに入る。「十八交リヲ結ブ健児ノ社」と頼山陽が謳った組織である。古くからあった。町内ごとに組織されていた。私見だが、南方習俗の若衆組の組織がなまのままで薩摩藩のなかに組み入れられたのが郷中制度でないかと思える。

 私は、一時期、若衆組に関心をもったことがあり、いまもそうである。西日本の現象で、とくに黒潮の洗う鹿児島県、高知県、和歌山県熊野地方には、大正初年うまれの人々の少年期までは濃厚に残っていた。要するに十八交リヲ結ブで、適齢になると入り、若衆組(薩摩藩では郷中頭)の支配に属し、若衆組織の中で、おとなになるための教育をすべてうける。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆宿へいく、そこで雑談したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。

 「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若衆が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」ときいてみたことがある。故老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです。」といった。故老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が根底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意的に指名すればよい。

 話が外れるが、こういうことーとくにたねに対する不厳密性ーは、たとえば北方アジアの遊牧民族には決してありえないことである。かれらには骨の信仰があった。男のたねが子供の骨をつくると信じ、骨が子々孫々へ相続してゆくと信じていた。朝鮮語では、この象徴的な(あるいはなまなましいといっていいかもわからないが)骨のことをポンという。朝鮮は中国の儒教社会システムごと取り入れながら、ポンについては北方遊牧民の信仰を相続していた。この点でいえば、若衆組があるかぎり、日本の(私は西日本しか知らないが)農村漁村は南方的であるといっていい。

 薩摩藩の郷中制度にもどる。ふつうの庶民の若衆組の場合とはちがい、山火事や海難への処し方は教わらないが、武芸や角力はやる。夜這いはない。西南戦争のとき西郷が可愛岳から深夜脱出したが、坂を這いのぼりながら「夜這が如たる」といってみなを笑わせた。しかしさすがに武士社会だけに「ヨベ」はなかった。胆だめしはある。自分の胆だめしどころか、他人の胆までとる。刑場では打首の刑があるときけば競って駆けつけ、まっさきに到着した者はまだ絶命してほどもない罪人の体にとりつき、短刀で腹を割いて胆をとるのである。その胆を蔭干しにして薬にするとも言い、あるいは単に度胸の競いあいだけだともいい、あるいはそれをその場で食ってしまうという凄い事例もあったらしい。南方の未開人は、敵の勇者の肉を食う。薩摩ではこれを「ひえもんとり」というが、あるいは遠い時代の食人の風の名残りかもしれない。

 薩摩の郷中制度では、妙円寺参りという強行軍の行事もあり、曾我どんの傘焼きという勇壮なものもあり、また関ケ原の日には故老の屋敷へその話をききにゆく。

 こういう郷中制度という、南方島嶼の若衆組の風習がそのまま藩体制の中に居すわり、その青少年教育を一手にひっつかまえたという重要な組織をもつのは、三百諸侯の中で薩摩藩しかない。会津藩にも、青少年に相互に教育させるという組織があって、他藩に類を見ないものだが、薩摩藩の郷中制度のように、ごく自然に発生して歴史のなかで無理なく生長を遂げたいわば習俗的なものではなく、人工的な制度である。

 薩摩藩の郷中制度が、西日本とくに南海道(紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐)や瀬戸内の島々、さらには薩摩とその西南諸島の農村漁村に濃厚にのこってきた若衆組の士族社会での形態であるということの証拠のひとつは、村落体制における郷中頭(若衆組では若衆頭)の権威が高いことである。

 その前に、若者の権威、もしくは発言権の高さ、あるいは若いというだけで当人も威張り、村の年寄りも遠慮し、ときにおもねる、というのは、中国や朝鮮の儒教社会では絶無である。この絶無ということをどう強調してもまちがいはない。なぜならば若いということで威張るというだけで、儒教の基本思想として悖徳的なことで、悖徳的という以上に儒教とはまったく相容れないものといっていい。長幼の序を人倫の基本的な秩序とする儒教にあっては、老ほど尊敬される。若い者は、木の端のように遇されて、発言権もほとんどなく、全体に価値のうすき存在といっていい。たとえば韓国社会では若い者が近眼鏡をかけて祖父もしくはそれに準ずる血族の長老に会うことすら、不倫とされる。めがねというのは近視、遠視を問わず、倫理的イメージとしてのそれは、すべて大久保彦左衛門がかけているような「老眼鏡」とされる。若い者が、老大人ぶってめがねをかけて老人の前に出ることほど無礼なものはない。要するに儒教社会においては若い者は木の端のようなものである。

2024年10月17日木曜日

20241017 株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」 pp.64-67より抜粋 

株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」
pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

 歴史的には、ナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古の時代のヨーロッパには一八世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現われたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族意識に積極的な理論的基礎づけを与え、その意味において民族主義(principle of nationality: nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは、民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで、以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合わせねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基礎を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的には後進的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を担った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮圧された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディーニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿してした。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存在自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのでないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭をしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸の続く限りこれ(革命)と戦うことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生れたブリトン人」(freedom Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勝となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

20241016 慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋

慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766425197
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766425192

 アダム・スミスが一八世紀末に執筆活動を行っていたとき、西ヨーロッパと東ヨーロッパの繁栄の違いはすでに顕著だった。東に向かうほど繁栄は少なく、封建制は強力になった。封建制は東ヨーロッパで最も遅くまで残ったが、この地域はヨーロッパ大陸で最も経済の発展が遅れた。近代初期に最も勢いのあった二つの経済大国、すなわちオランダとイギリスとは対照的だ。おそらくオランダは農奴制など封建制の影響が最も小さな社会で、ギルドの力は弱く、絶対主義の脅威は一五七〇年代のオランダ革命によって取り除かれた。一方、イギリスではどこよりも早くアンシャンレジームの制度が崩壊した。農奴制は一五〇〇年までに廃止され、ギルドは一六世紀から一七世紀にかけて影響力を失った。教会は、一五三〇年代にヘンリー八世によって土地を没収・売却され、イングランド内戦と名誉革命によって独占状態や絶対王政に終止符が打たれた。そして少なくとも一八世紀はじめには、法の前の平等という概念が定着したのである。

 アンシャンレジームや封建制が早くから崩壊した場所で資本主義市場経済が台頭したことが証拠で裏付けられるなら、実際に古い制度が経済の発展を妨害して甦らせたと判断してよいのだろうか。このような結論を導き出しためには、少なくともふたつの問題が立ちはだかる。まず、アンシャンレジームの衰退と経済的成果の改善は時期が同じかもしれないが、この相関関係は逆の因果関係の結果だったとも考えられる。すなわち、資本主義の発達が封建主義制度衰退の原因であって、その逆ではなかったかもしれないのだ。たとえばアンリ・ピレンヌなど早い世代の学者は、貿易の拡大と商業社会の発達ーマイケル・M・ポスタンによれば「貨幣介在の台頭」-によって封建制の解体は説明できると論じている。

 二番目に考えるのが欠落変数バイアスで、その場合には、アンシャンレジームの衰退も経済成長のはじまりも、ほかの出来事や社会的プロセスの結果とみなされる。経済の制度を変更すべきか否かは社会の集団的決断であり、それはほかの諸要因に左右される。たとえば、イギリスの地理的立地や文化が中世後期に大きな経済的潜在力を生み出し、ひいいてはそれが封建制の深化を決定づけたが、近代に入ると封建制度は社会にそぐわなくなり、重要な因果的役割を果たせず衰退したのかもしれない。

 まさにこのような状況で欠落変数バイアスがどのような影響を生み出すか、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで興味深く論じている。近代初期、イギリスではヨーロッパで最もダイナミックな経済と、最も自由で絶対主義からかけ離れた政治制度が同時に発達した。たとえばダグラス・ノースやバリー・ワインガストらは、経済的成果は政治のイノベーションの直接的結果だと論じているが、ヴェーバーによると、つぎのように反論されることになる。「モンテスキューは「法の精神」のなかでイギリスに関してこう述べている。「イギリス人は三つの重要な事柄ー信仰と商業と自由ーを世界のどの国民よりも進歩させた」。そうなると、イギリスが商業で優位に立ち、自由な政治制度に適応したのは、モンテスキューが指摘している信仰と何らかの関わりがあったと考えられないだろうか」。このようにしてマックス・ヴェーバーは、宗教という欠落変数によってイギリスでの民主主義と資本主義の発達を説明できることを明言している。 

 したがって、アンシャンレジームの崩壊と資本主義の台頭の関係を調べる際には、逆の院が関数と欠落変数バイアスの二つが発生している可能性を認識しなければならない。自然科学では、このような問題を解決するために実験を行う。たとえば、似たような国の集団ーどの国も制度の発達が遅れているなどーを編成したうえで、無作為に選んだ一部の国(「処置」群)ではアンシャンレジームを廃止して、残りの国(「比較」一群)では制度を残して結果を確認できれば理想的だろう。二つの集団の相対的な繁栄に何が生じたか観察することも可能だ。もちろん、実際にそのような実験を行えるわけではない。しかし歴史家や社会科学者は、歴史が時として提供してくれる「自然実験」を利用することができる。

 自然実験においては、何らかの歴史上の偶然や出来事をきっかけに経済・政治・社会的な要因が働いた結果、一部の地域には変化がもたらされるが、一部の地域では条件が同じでも変化が生じなかったと考える。もしも、変化の程度が異なる地域同市の比較が可能だとすれば、変化を経験した地域は実験の処置群、経験しなかった地域は対照群とみなしてよいだろう。

 アンシャンレジームの衰退に関しては、一七八九年のフランス革命後にフランス軍がヨーロッパの大半に侵略した出来事に注目し、それが制度にバリエーションを生み出した原因だったと仮定すれば、自然実験を行うことができる。フランス軍はアンシャンレジームの中心的な制度を廃止した。年貢や特権など、封建制度の遺産の数々を取り除き、ギルドを解散させ、法の前の平等を採用した結果、ユダヤ人にも自由が与えられ、教会の土地は再分配された。この経験に注目すれば、アンシャンレジームを支えてきた重要な制度の一部が経済成長におよぼした影響を推測することができる。ヨーロッパのなかでもフランス軍に侵略されて制度が改革された地域を「処置」群、侵略されなかった地域を「対照」群として分類すればよい。これならば、処置群の制度が改革される前後のふたつのグループの経済的成果を比較したうえで、改革が行われたグループのほうが豊かになっているかどうか調べることができる。それが確認されれば、制度の改革がその後の繁栄に貢献した証拠が提供されるだろう。

2024年10月16日水曜日

20241016 集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻pp.11-13(日本語版への序文)より抜粋

集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻pp.11-13(日本語版への序文)より抜粋
ISBN-10: 4087607372
ISBN-13: 978-4087607376 

 文明の衝突というテーゼは、日本にとって重要な二つの意味がある。第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである。オズワルド・シュペングラーを含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろだったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世期に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にはならなかったのだ。

 第二に、世界のすべての主要な文明には、二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない。さらに、日本のディアスポラ(移住者集団)はアメリカ、ブラジル、ペルーなどいくつかの国に存在するが、いずれも少数で、移住先の社会に同化する傾向がある。文化が提携をうながす世界にあって、日本は、現在アメリカとイギリス、フランスとドイツ、ロシアとギリシャ、中国とシンガポールのあいだに存在するような、緊密な文化的パートナーシップを結べないのである。そのために、日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。その意味で、日本は他の国々がもちえない行動の自由をほしいままにできる。そして、もちろん、本書で指摘したように、国際的な存在になって以来、日本は世界の問題に支配的な力をもつと思われる国と手を結ぶのが自国の利益にかなうと考えてきた。第一次世界大戦以前のイギリス、大戦間の時代におけるファシスト国家、第二次世界大戦後のアメリカである。中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつからざるをえない。これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持するうえで決定的な要因になるだろう。したがって、本書が日本で刊行されることから、日本の人びとのあいだに文明としての日本の性格、多極的で多文明の世界における日本の地位などをめぐって真剣な議論がうながされることを、著者として希望するものである。

                    一九九八年五月

20241015 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138
ISBN-10 ‏ : ‎ 4532176794
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4532176792

 日本は非ヨーロッパの国でありながら、ヨーロッパおよびネオ・ヨーロッパ(アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド)社会と比肩する生活水準、工業化、科学技術を実現した最初の近代国家である。今日の日本は、経済や科学技術の分野のみならず、政治や社会でもヨーロッパやネオ・ヨーロッパと多くの共通点がある。議会制民主主義国家で、識字率が高く、みな洋装である。音楽も、日本の伝統音楽以外に、西洋音楽が楽しまれている。しかし、日本にはいまだにヨーロッパ諸国と違う点が、とくに社会生活や文化で顕著にみられ、その違いはヨーロッパ諸国間でみられる差異よりもはるかに大きい。日本社会に非ヨーロッパ的な面があるのは、驚くべきことではない。日本は西ヨーロッパから一万二〇〇〇キロも離れており、古代から交流のあった近隣のアジア大陸の国々(とくに中国と朝鮮半島)から多大な影響を受けていたのだから、それも当然である。

 一五四二年以前には、ヨーロッパからの影響はまったく日本にもたらされていない。それ以後、一五四二年から一六三九年までのあいだ、ヨーロッパの海外進出にともなう影響がつづいた。(とはいえ、あまりにも遠いせいで、その影響はごく小さくなっていた。現代の日本社会のヨーロッパ的側面は、ほとんどが一八五三年以降に日本にやってきたものだ。もちろん、昔からの日本的なものをすべて西洋的なものに置き換えてしまったわけではない。伝統的な要素は、今も数多く残っている。日本は、ココナッツグローブ大火の被害者や、第二次世界大戦後のイギリスのように、古い自己と新しい自己が混在するモザイクなのだ。本書で取り上げた他の六カ国と比べても、日本のモザイク性は際立っている。

 明治維新以前、日本の実質的支配者は、征夷大将軍と呼ばれる世襲制の軍事独裁者であり、天皇には実権がなかった。一六三九年から一八五三年までのあいだ、江戸幕府は日本人と外国人との接触を制限していた。島国であるという地理的条件の影響もあり、孤立の歴史がつづくことになる。だが、世界地図をざったみて日本とイギリス諸島の地理的条件を比較すると、この孤立の歴史に驚くかもしれない。

 ユーラシア大陸の東西の果てに海に浮かぶふたつの島国は、一見すると地理的条件がそっくりに思える(ちょっと地図をみて確かめてもらいたい)日本とイギリスは面積もほぼ同じようだし、どちらもユーラシア大陸のすぐそばに位置しているから、大陸との関係も当然似たようなものだろうと思われがちだ。だがイギリスがキリスト生誕の頃から大陸勢力に計四回も侵略されているのに対し、日本の一度も大陸勢力に侵略されたことがない。逆に、イギリスは西暦一〇六六年のノルマン・コンクエスト以後、一世紀に一度の割合で大陸に軍を派遣して戦っているが、日本は一九世紀末頃まで、ごく短期間の二度の出兵以外、一度も大陸に軍を派遣したことがない。また、三〇〇〇年前の青銅器時代から、ブリテン島とヨーロッパ大陸のあいだでは活発に交易がおこなわれていた。ヨーロッパ大陸で生産される青銅の原料となる錫は、コーンウォール地方の鉱山が主要輸出元となっていた。一、二世紀前のイギリスは世界でも屈指の貿易大国だった一方で、日本の貿易規模は非常に小さかった。地理的条件から単純に予測されることと明らかに矛盾する。この日英の差はなぜ生じたのだろう?

 この矛盾を説明するためには、もっと詳細に地理的条件をみるのが重要だ。一見、日本とイギリスの面積と隔絶度は似ているが、実際は日本のほうが大陸から五倍遠い(一八〇キロと三五キロ)。また日本はイギリスの一・五倍の面積があり、土地もはるかに肥沃だ。したがって、現在の日本の人口はイギリスの二倍以上で、農作物や木材の生産量と沿岸漁業の漁獲高も日本のほうが多い。近代工業が発展し、石油や鉄鉱石などの金属鉱物の輸入が必要となるまで、日本は必要不可欠な天然資源をほぼ自給でき、外国貿易の必要性は低かったーだが、イギリスはそうではなかった。日本史の特色ともいえる孤立には、以上のような地理的背景があった。一六三九年以降の鎖国は、その傾向を強めたにすぎない。

2024年10月15日火曜日

20241014 2022年2月から身に付いた習慣について

 2020年初頭から本格的に感染が広まった新型コロナ禍以来、2022年2月のロシアによる侵攻で始まった第二次宇露戦争、そして2023年10月からパレスチナのイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの越境攻撃によって勃発した紛争はいまだ収束の兆しを見せていません。そこから、ここ直近の2年間は、1945年の第二次世界大戦終結以降、最も世界情勢が不安定で緊張している期間であると云い得ます。

私自身、こうした状況をできるだけ広く精確に理解したいと考え、2022年の第二次宇露戦争勃発以降、海外報道機関の動画を視聴するようになりました。現在も十分に聴き取れてはいませんが、字幕機能を使ったり、同報道機関によるウェブ記事を読むことで、以前と比べ多少理解できるようにはなってきました。また、それ以前は(わざわざ)海外の報道動画を視聴することはなかったため、ある意味では、学びの機会を得たとも云えます。

とはいえ、これらの動画視聴や記事閲覧は「学び」というよりも、精確な情報収集のために行っているといった感覚です。また「情報を収集してどうなるのか?」と思われるかもしれませんが、情報を集め、自分なりにではあれ、理解が深化してきますと、これまでの経験や読書経験を参照して歴史上の類似あるいは共通する出来事が不図、想起されることが度々あるのです。そして、こうした経緯から、最近「1848年の欧州」に関する引用記事やオリジナル記事をいくつか作成したわけですが、これらは、前述の現在の戦争や紛争に関連する歴史上の出来事として検討してきた結果であると云えます。

そして、上記のように歴史と現在の出来事を関連付ける中で得られた感覚や考えは、当ブログや会話などを通じて発信する機会もありますので、面倒に感じることも多々ありますが、ここ2年半ほどは、世界情勢に即した書籍を読み、海外報道の動画を視聴し続けています。またそれらの具体的な内容につきましては、これまで当ブログにて、いくつか記事を作成しました。

ともあれ、現在の世界情勢は、2020年のコロナ禍以降、急速に悪化しているように見受けられます。また、この悪化は放置すれば自然に改善するものではなく、いずれ大きな国際間の衝突が起こり、関係諸国に甚大な被害が及んだ後、ようやく安定に向かうのではないかと危惧しています。もちろん、こうした予測が杞憂であってほしいと願ってはいますが、東欧や中東での事態の推移を見ていますと、ある程度悲観的に見ておいた方が、この先、どのような展開となっても「まだマシ」であるように思われるのです…。しかし、いずれにしましても今後、事態はどのように進展するのでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2024年10月13日日曜日

20241012 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

 共産主義を理解する上で忘れてはならないのは、それが近代合理主義的な楽観論の極致であることです。しかも、その裏には終末論的楽観論があります。キリスト教の黙示録に典型的に現われていますが、既存の体制が瓦解した後、素晴らしい世の中がやってくるという終末論の世界観は、段階的に経済や社会が改善されていくという普通の楽観論とは異なります。

 その萌芽はマルクスの著書にあります。「経済学・哲学草稿」「経済学批判」「資本論」などの著作があり、近代経済学を批判的に捉え直したマルクスの思想を簡単に紹介するのは不可能ですが、骨子はこれから申し上げるようなことになります。

 資本主義生産の元では、労働者が過剰になり失業が増える。その原因は機械制生産であるのが第一点。次に、失業が生じる状況下では、労働力は買い手市場となり、労働者はますます貧しくなっていく。この「絶対窮乏化」理論がマルクスの思想の根底にあります。そして、生産力は伸びているので、少数の資本家がますます豊かになり、生産力は彼らの経営するところに集中していくと指摘します。

 ところが、労働者は貧しくなっているのですから、購買力は増えず、商品は過剰気味になる。また生産力は向上するが、労働者に対して十分な賃金が払われないので、資本も過剰気味になる。この矛盾を解決するため、具体的には、余剰商品と余剰資本を売り捌くために、列強は帝国主義的に海外進出しますが、問題の解決にはならず、やがて過剰商品により恐慌が起こり資本主義が崩壊する。簡単に言えば、こういうことです。

 先ほどの「終末論的楽観論」がこの図式に存在することを皆さんお気づきでしょう。人間の矛盾した二つの気持ちを満足させる説明のし方がそこにあるのです。一方では、文明が進歩し生産力が上昇する。他方、都市においては貧困がなくならないどころか一層、悲惨さを増している。マルクスが生きた十九世紀はまさにそんな時代でした。

 産業革命後、なぜ都市労働者は苛酷さを強いられたのか、その理由はわかりませんが、一方で、我々が農村労働を長閑なものだと偶像化しがちであるという面はあろうかと思います。実際にやったことがないから、漠然と、自然の中で働くのは楽やろなという気持ちがあるのでしょう。しかし、実際のところ、それを値引きしても、産業革命初期の労働が田園における農業労働よりも苛酷であったことは間違いないでしょう。中世の農業は天気が悪いと休みになりますし、他にもやたらと休日がある。ヨーロッパであれば、キリスト教関連の祝日は一年中ありました。それに比べて、都市では労働時間が増え、工場の劣悪な環境で汚染された空気を吸って働かなければならなかった。当時の記録をみると、一八五〇年代のロンドンなどは言葉で言い表すことができないくらいすごかったようです。十軒長屋がずらっと並び、便所は一つ。衛生状態が悪いので、結核、コレラ、チフスなどの伝染病が時々流行したのもわかります。

 ところが十九世紀のイギリス人も何もしなかったわけではなく、人道主義的にいろいろな工場法を制定しています。それでも、一八七〇年に至るまで平均寿命は五〇歳以下で、ほとんど延びてない。人びとはひどい環境の中で生きていたことがわかります。しかし、そういう状況でも、近代人の頭には「進歩」という理念があり、彼らは「人間は進歩するはずだ」と思っているわけです。

 生産力も伸びているが、世の中に悲惨さも溢れている。それを見たとき、二、三〇〇年前なら、「人間の生活には悲惨さがつきものだ」「しかたがない」と自分を納得させたのだと思います。しかし、近代人は「しかたがない」とは言えない、そう考えられない頭の構造になっていまっている。そうすると、人間がもっと幸せになれるはずだし、世の中が進歩するはずなのに、この現状はなんだという暗澹たる気分になり、それなら、現状の体制を潰して伸びつつある生産力を使い、理想的な社会を作ればいいと考えるのは当然の帰結でしょう。

 マルクス主義者が「科学」と呼んでいる「人間は進歩するはずだ」、「こうすれば世の中は変えることができる」という信念に普通の人間的な共感が結びつくと、それが共産主義になるわけです。そして、そのブロセスの青写真を描くことができる少数者が社会を指導すべきなのだという思考回路を、レイモン・アロンは「終末論的楽観論の極致である」と指摘しています。

 世の中は複雑かつ不思議なもので、いいことが悪くなったり、悪いものがよくなったりすると柔軟に物事を考える立場だと、なかなかこういう発想にはなりません。しかし(人間は進歩すべきで、必ずその方法はある。その青写真は共産主義になる」という固い信念がある人間は、他人の意見には聞く耳を持たず、強引な形で政治を進めることになります。周囲もまた彼の批判ができなくなり、処刑する人も処刑される人も、正しい主義主張と一体のまま死にたいと思うでしょう。

2024年10月11日金曜日

20241010 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 十九世紀の世界の力関係の変化をみると、「西側の人間のもたらした衝撃」がありとあらゆる面に影を落としていることがわかる。この衝撃は、多くの経済関係ー沿岸貿易業者への「非公式な影響」から海運業者、植民者を直接に管理する総督、鉄道建設業者、鉱山会社などーを通じてあらわれたばかりでなく、開拓者、冒険家、宣教師の侵出にも、西側の疾病の伝染にも、西側社会の思想の伝播にもみられるのである。西側の衝撃はーミズーリから西へ、アラル海から南へー大陸の中心部にまで波及し、さらにはアフリカの河口から上流へさかのぼり、太平洋の島づたいに広がっていった。この衝撃の置き土産の一つが、(たとえば)イギリスがインドに残した道路や鉄道網、電信、港湾、都市建築などがあるとするなら、この時代の植民地戦争につきものの流血、暴行、掠奪といった悲劇もその一面である。事実、力と征服にはコルテスの昔からつねにこうした両面があったが、それに拍車がかかったのがこの時代だった。一八〇〇年にヨーロッパが占領し、あるいは支配していた地域は世界の陸地の三五パーセントだったが、一八七八年にはそれが六七パーセントに増え、一九一四年には八四パーセントを超える。

 蒸気エンジンと機械でつくられた道具に代表されるテクノロジーの発達によって、ヨーロッパは経済的にも軍事的にも圧倒的な優位をかちえた。先込め式の銃が銃(撃発雷管、銃身の施条など)の改善は、まさに不吉な前兆であり、元込め式の銃が出現して発射速度が大幅に高まったことは大きな前進となる。そして、ガトリング機関銃、マキシム銃、軽量の野砲が最後の仕上げとなって新たな「火器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべがなくなってしまった。そのうえ、蒸気エンジンを搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、ニジェールやインダス、揚子江などの大きな河川づたいに内陸部にまで入り込むようになる。こうして、移動性と火力とすぐれた甲鉄艦「ネメシス」は一八四一年と四二年のアヘン戦争で活躍し、中国防衛軍を惨憺たる目にあわせて、蹴散らしてしまった。もちろん、物理的に進出の難しい地域(たとえばアフガニスタン)では、西側の軍事帝国主義の侵略が阻まれるし、非ヨーロッパ軍のなかにもーシーク教徒や一八四〇年代のアルジェリア人などのように―新しい兵器や戦術を採用して戦い、激しく抵抗したものもあった。だが、ひらけた地形の国で戦闘が行われれば、西側は機関銃や重火器を配備することができるから、結果は考えるまでもなかった。この戦力の差を最も如実にみせつけることになったのは、十九世紀のオムドゥルマンの戦いだったろう。この戦争ではマキシム銃とリーエンフィールド・ライフル銃を装備したキッチナー軍が、夜が明けてわずか数時間のうちに一万一〇〇〇人のデルウィーシュを倒し、味方はわずか四八人の損害しか出さなかった。この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって、先進国は最も遅れた国々にくらべて五〇倍から一〇〇倍の力を手に入れたことになる。西側諸国の世界支配は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、ここにいたって、その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。

2024年10月9日水曜日

20241009 株式会社講談社刊 (講談社現代新書 1168) 千田 善著「ユーゴ紛争: 多民族・モザイク国家の悲劇」pp.70-71より抜粋

株式会社講談社刊 (講談社現代新書 1168) 千田 善著「ユーゴ紛争: 多民族・モザイク国家の悲劇」pp.70-71より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061491687
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061491687

 長い間ユーゴに暮らしていた私の実感として、警官も軍人も庶民にとっては同じ国家機関であり、一枚岩の協力・連携をしているように見えるものだ。しかしこの朝、(ユーゴ)連邦軍兵士とスロベニア警察官の表情は対照的だった。

 トルジン村の民家の前で、軍人は「事故」を恥と感じ、アジア人の新聞記者をにらみつけ、やり場のない怒りを持て余している。一方、警官は明らかに戸惑いながらも、素手同様で戦車を止め「してやったり」という表情でニヤリとしている。昨日まで同じ国の権力機関に属していたものたちが「独立宣言」境に敵味方に分かれる。「独立」とはそういうものなのかと、不思議な感じがした。

 しばらくするうちに、ただ驚いたり、ニヤニヤしていた警官や村人、つまりスロベニア人たちも、「こういう場合には、怒るものだ」ということを思い出してきたようだ。

 警官には「マスコミ取材には許可なく応じるな」との命令がでれいたが、ある警官は小声で「これはヒトラーの軍隊と同じだ。まったくひどい」と話しかけてきた。まわりのやじ馬からも「どうか、ユーゴ連邦軍のこのひどいやり方を、世界中にしらせてくれ」という声が聞こえてくる。

 何の変哲もない農村、ふだんは退屈で眠たげであろうこの村に、ある朝早く、突然、戦車がやって来た。五〇年前のヒトラーと同じだと感じるのも無理はない。

 しかし、この時点で、トルジン村の住民たちも、わたしたちマスコミ関係者、そしておそらく連邦軍の兵士たちも、「戦争」というものを実感しかねていた、われわれの目の前にあるのは、「事故」を起こした戦車三両と大破した乗用車、トラック、観光バス。取り囲むやじ馬。これが戦争というものなのだろうか?

 わたしたちは空港行きをあきらめ、トルジン村を出発したのだが、これが結果的に命拾いになった。あちこちで封鎖された道を何ヵ所も迂回しながら、なんとかリュブリャナまでたどりつくと、トルジン村で本格的な戦闘が起きたという知らせが入った。

 わたしたちが出発した直後、立ち往生する戦車と兵士を救出するため、連邦軍ヘリコプターが降下作戦を決行した。スロベニア軍との間で銃撃戦となり、連邦軍兵士四人、スロベニア軍兵士二人、巻き添えになった民間人一人が死亡した。連邦軍兵士二〇人余りが捕虜となり、負傷者(スロベニア軍兵士八人、民間人二人、連邦軍兵士四人)は、リュブリャナ大学付属病院に収容された。

 危ういところで戦闘の巻き添えにならずにすんだわたしたちがトルジン村で見たものはやはり本物の戦争、正確にはその序盤だったのだ。

2024年10月7日月曜日

20241007 女性のSTEM分野進出のための方策:専門職大学

*醫療系專門職大學新設の意義
 現代社會において、科學・技術・工學・數學(STEM)分野は、技術革新と經濟成長を支ふる根幹にして、此の分野に於ける女子の參與は、社會の持續的發展および多樣性の確保に必要不可欠なるものといへん。然るに、我が國にては、女子のSTEM分野進出遲々として進まず、かねてより問題とされ來れり。斯くのごとき問題を創意工夫を以て克服せん爲の一方策として「醫療系專門職大學」の設立が考へらるるなり。此の大學は、女子がSTEM分野にてキャリアを進めん爲の基盤を成すのみならず、地域社會の活性化とジェンダー平等の實現にも資すること疑ひなし。

*醫療分野とSTEMの結びつき
 醫療および齒科醫療の分野は、科學・技術と密接に關聯せるものにして、此の領域に於いては、生命科學を基礎としつつ、技術の革新が常に求められ、科學的知識および工學的な手法の導入は必須なり。此の背景に鑑み、前述の醫療系專門職大學は、STEM分野への自然なる導入路となり得るものなり。學生らは、各々の職に應じた學科にて必要なる技能を修めるのみならず、科學的探究心を涵養し、將來に於いてSTEM分野にて活躍する爲の基礎を築くこと得るべし。また、臨床に即した實踐的カリキュラムは、科學・技術に對する具體的理解を深め、女子にとりてはキャリアの選択肢を大いに廣ぐる有益なる學びと經驗を提供す。斯の如くして、醫療分野に於ける普遍的なる知識を修めることにより、多くの女子は、STEM分野への道を拓き、その能力を充分に發揮し得るに至らん。

*地域醫療の發展と社會貢獻
 醫療系專門職大學の設置は、女子のSTEM分野進出を促進するのみならず、地域醫療の充實にも資す。今、我が國の多くの地域に於いて、醫療從事者の缺乏は深刻なる問題と化し、地域醫療を擔ふ人材の育成は急務と謂ふべきなり。此の情勢において、地元出身の學生が地元にて學び、その後地域の醫療に貢獻せば、醫療の質の向上はもとより、地域社會全體の發展および活性化にも寄與すべきものなり。此の仕組により、女子にとりては、家庭と職務を兩立し易き職場環境の整備および柔軟なる勞働形態が進み、安定したキャリア形成も可能となりぬべし。

*STEM分野に於ける婦女子のキャリア形成支援
 醫療系專門職大學は、婦女子がSTEM分野にて活躍せんための環境を整ふるものなり。また、醫療分野にて成功を収めし既卒女子は、次代女子に對するロールモデルとなり、後発の女子にもSTEM分野への挑戰を促す役割を果たすべし。それゆえ、かかる女子の存在は、社會全體にSTEM教育の重要性を知らしめ、女子の進出を支援する文化を醸成するに資すること疑ひなし。先行事例が増すことにより、次代の女子は、更に自信を以てSTEM分野に挑戰することを得るべく、環境整備も進むべし。

*STEM分野への多樣なる參入を支ふるインフラ
 醫療系專門職大學は、STEM分野にて、多樣なる背景を持つ者の參入を支援するインフラとしても重要なり。實踐的なる敎育を施すことにより、理論のみに留まらず、實際に役立つ技能を修め得るため、従來STEM分野に興味を抱かざりし女子や他分野からの轉向を望む者にも、新たなるキャリアの選択肢を提供するものなり。醫療分野の知識や技術は、他の工學や技術職にも應用することが可能にして、幅廣きキャリアの可能性を開くべし。

*醫療系專門職大學の設置がもたらす未來
 醫療系專門職大學の新設は、女子がSTEM分野に進出せんための重要なる一歩とならん。此の大學を通じ、女子は高度なる技術と知識を修め、地域社會や醫療分野など多分野にてリーダーシップの發揮が期待される。また、ジェンダー平等の推進にも資すること疑ひなく、女子が職業選択の自由を享受し得る社會の構築に寄與するべし。更に、醫療從事者としての技能および科学的知識を持ちたる女子の増加により、地域醫療の拡充強化のみならず、地域經濟の發展をも期すること可也。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。










2024年10月4日金曜日

20241003 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.110‐112より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.110‐112より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 産業革命は、30年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それを加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。そして統治する階級、とくにその先頭に立っている人びとは考え違いにおちいっていた。この考え違いは非常にたかまり、根強くなっていて、打倒されることになった権力の維持に、最も利益をもっていた人びとの抵抗をも無力化させるほどのものであった。中央集権化は、すべての革命行動えおパリを制覇するということに、また政府のよく整った機構を掌握するということに追いこんでしまった。そしてすべての事物が変動しやすくなっていて、変動する社会のなかでの諸制度や諸理念、習俗や人びとは、副次的な多数の小変動は別としても、少なくともここ60年の間で起こった七つの大きな革命で、揺れ動いたのである。こうしたことどもが、それらのことがなければ二月革命はありえなかったような、この革命の一般的原因なのである。革命を導き出すことになった主要な偶発事は、王朝的反対派の不手際な激情であり、彼らは選挙改革を実現しようとして、反乱を育ててしまったのである。この反乱をまずはじめに過剰に抑圧し、ついでに放置してしまう。突然に権力の糸を断ち切ってしまった旧大臣たちが姿を消してしまい、後を継いだ新たな大臣は混乱におちいって、権力を一時的にとりもどすことも、やぶれ目を結び直すこともできなかった。動揺するとはとても考えられなかったほど強力であった。かつての彼らの立場をとりもどすことに、全く力およぼなかったこれらの大臣たちの失策と精神の動揺、将軍たちのためらい、人望あり精力に満ちた王族がいなかったこと、だが何より国王ルイ=フィリップの老いの愚かさとでもいうべきもの、たぶん何をもってしても予想できなかったと思われるその気弱さ、この点は事件によって誰の目にも明らかになってからは、ほとんど信じ難いものとして、人びとの印象に残ったことである。

 私は時々、国王の心のなかに急に生み出された、そして前代未聞ともいうべき意気阻喪が、一体どうして起こったのかと考えてみる。ルイ・フィリップはその生涯を革命のただ中で過したのだから、経験がなかったわけでも、勇気や気力に欠けていたわけでもなかった。しかしあの日だけは、これらのことが完全に欠けていたのである。私は彼の弱体ぶりは、彼の驚愕があまりにもひどかったことに起因すると考える。彼は起ったことが何かを知る前に仰天してしまったのだ。二月革命はすべての人にとって予知しえなかったことであるが、誰よりもまずルイ・フィリップにとってそうだったのだ。外部から何の忠告も受けなかった彼は、革命に対し無防備のままだった。というのも数年前から彼の精神は独善的なある種の孤立のなかに立てこもってしまっていて、こうなるとだいたいそんな場合でも、長い間の幸せになれた王族の知性が生命を保つことになってしまうのだ。そうした生活のなかで、王族たちは財産を才能と思い違え、誰からも学ぶことはなくなったと信じてしまうため、どんなことにも耳をかそうとしなくなるのである。とくにルイ・フィリップは、すでに指摘したように、彼の大臣たちもそうだったのだが、これまでの歴史の事実が現在になげかけるまやかしの閃光に、目をくらまされていたのだ。

2024年10月1日火曜日

20240930 一般社団法人 東京大学出版会刊行 鈴木啓之編「ガザ紛争 (U.P.plus)」pp.19-20より抜粋

一般社団法人 東京大学出版会刊行 鈴木啓之編「ガザ紛争 (U.P.plus)」pp.19-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333089
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333085

 中・長期的に、「10月7日」はどのような影響を中東地域に残すのだろうか。ガザ紛争の「終わり方」、あるいは中東地域の主要国を中心とした国際社会の主体の関与によるガザ紛争の「終わり方」によって、長期的な帰結とそこへの経路は変わってくるだろう。

 もしイスラエル軍が短期間にハマースを、掲げた目標の通り、二度と組織的な対イスラエル攻撃を行うことがありえないほどの打撃を与えて壊滅させる、すなわち文字通り「根絶」することに成功した場合、パレスチナ問題の回帰という「10月7日」が初期にもたらした影響は、一時的なものにとどまることになることになるかもしれない。

 ただし、ハマースの「根絶」を宣言できるほどの打撃を加えるためには、一般市民の大規模な殺害や大量難民の発生といった人道的危機を伴う、ガザの政治・政治インフラを恒久的に破壊するような規模の攻撃を行うことになりかねない。その場合には、パレスチナ問題が「終了」したと国際社会にみなされるどころか、より拡大し深刻さを増したものとして認識されることになる。そしてむしろ攻撃を加える側の「イスラエル問題」として、国際社会の焦点が当たることになる。イスラエルは圧倒的な軍事力の優位によってパレスチナ問題を一方的に自国に有利に終結させることで、結果として国際政治における「パレスチナ問題」を「イスラエル問題」に転化させ、かえって問題を自らに不利な形で大きくしてしまう可能性がある。それは、イスラエルの国家としての長期的な存続にとって、「パレスチナ問題」以上に深刻な脅威とすらいえるだろう。

 またイスラエルがハマースの軍事力だけでなく、その政治的な組織や社会的な基盤に至るまで根こそぎ大規模に破壊した場合、そこで犠牲になるガザ市民や、破壊と殺害を目撃するパレスチナ人に、あるいは広くアラブ世界やイスラーム世界を中心により広範な国際社会の人々に、イスラエルに対する嫌悪感や敵意や憎悪を募らせることが確実である。イスラエルのガザ攻撃は、宗教的・政治的な過激化を中東やより広く国際社会にもたらす危険性は高く、それが生じるか否かではなく、どこで、どのような形で生じるかが問題である。ハマースを一時的に「根絶「したとしても、それによって、近い将来により大きな形で「パレスチナ問題」も戻ってくることは確実である。

 パレスチナ問題の拡大・過激化を伴う回帰や、国際社会における「イスラエル問題」への転化は、イランを中心とした「抵抗の枢軸」勢力を勢いづけることが予想される。これに対して、イラン側に同調する国内勢力への警戒からも、湾岸アラブ産油国は一方で米国とイスラエルの関係を維持し利用しつつ、他方で対イランでは、対峙と敵対だけでなく、宥和や接近を併用する、均衡政策を採用せざるを得なくなる。

 これらの不利な展開に対して、イスラエルは一方ではイランの影響下にあるヒズブッラーとの大規模な戦闘を定期的に行って北部国境の脅威を除去・制圧しつつ、ヒズブッラーだけでなくイエメンのフーシー派や、イラクの反米諸勢力などとの軍事的な衝突の頻度と烈度を高めていく可能性がある。その過程で、イランとの正面からの戦闘に踏み切る危険も増すだろう。イスラエルとイランの直接対決は、より強固な米国の支援をもたらすと考えられることから、イスラエル側から積極的に対立を激化させる、エスカレーションを進めるインセンティブが存在する。

 しかしイスラエルとイランの直接対決は、中東地域の不安定化を劇的に高めるため、世界経済への影響も大きい。何よりも、もしイスラエルとイランの全面戦争に巻き込まれることになれば、米国の軍事的負担や犠牲は大きく、国民の支持を長期間得られるとは限らない。そのため、全面衝突が本当に差し迫ったと認識されたときに、実際に米国の全面的な支持と関与を得られるかどうかは未知数である。イスラエルが中東での多正面の戦争を長期間にわたって続けることは、国際関係からも、そして内政・経済構造からも、困難を伴う。

 結局のところ焦点となるのは米・イスラエル関係である。