pp.314‐315より抜粋
ISBN-10 : 4560094896
ISBN-10 : 4560094896
ISBN-13 : 978-4560094891
イギリス産産革命とフランス革命がおこった十八世紀後半から第一次世界大戦が勃発した一九一四年までを、しばしば「長期の十九世紀」と呼ぶ。この時代は、いわば「ヨーロッパの時代」であり、近代社会の特徴が最もよく現れた時代であった。その特徴とは、特に西ヨーロッパを中心に、工業化と、民主化を伴いながらの国民国家形成が進んだということであり、グローバルに見れば、世界全体がヨーロッパで生み出された体制の中に包摂されていったということであった。たとえば新しい技術学伸について言えば、一八〇七年汽走船(蒸気船)が発明され、一八一七年には汽走船による大西洋横断が成功した。当初外輪船であったが三〇年代後半にはスクリュー船が登場している。一八三〇年には鉄道がイギリスで最初の営業運転を開始した。こうした運輸手段の発達などは、交通革命と呼ばれる状況をもたらした。ナポレオン戦争後、ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる復古体制が支配したが、フランスでは一八三〇年に七月革命がおこって、復古ブルボン朝は倒れ、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」となった。この七月革命の影響で、ベルギーが独立する一方、フランスでは二月革命がおこって王政が倒れ第二共和制となった。二月革命は、ヨーロッパ各地に波及してウィーン体制を終わらせる一八四八年革命と総称される大きな歴史的事件へと発展した。一八四八年革命の時には、「諸国民の春」と呼ばれる国民主権運動や国家を持たない中東欧の新たな運動も生起した。他方、十九世紀半ばにかけてのグローバルな状況を東アジアについて見ると、一八二〇年代には中国・インド・イギリスを結ぶアヘン・茶・イギリス綿製品のアジア三角貿易が成立し、これはやがてアヘン戦争(一八四〇~四二年)を引き起こした。欧米のアジア進出は、清朝と同様に鎖国体制に会った日本にも及んだ。ペリーが四隻の艦隊(うち二隻は汽走軍艦)で浦賀に来航したのはまさにクリミア戦争勃発の年、一八五三年である。一八五四年初めにはロシアのプチャーチンとの交渉が、長崎で行われている。
クリミア戦争が勃発したのは、「長期の十九世紀」のちょうど中ごろ、右のような大きな歴史のうねりが世界を覆いつつあった時代であった。したがって、この戦争は「古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争」(本書二二頁)であった一方、最新の工業技術が、とりわけ英仏側において、動員された近代的な戦争であった。たとえば、英仏軍が使用したミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃よりもはるかに長い射程距離を持っていた(第7章)。ロシアはいまだ国内にすら十分な鉄道網を持っておらず(首都ペテルブルグとモスクワの間に鉄道が開通したのは一八五一年)、そのことがロシアの軍事的補給を困難にしていたことはわが国の概説書などにおいても指摘されてきたことであるが、本書では、イギリスが一八五五年に入って突貫工事でバラクラヴァ港とイギリス軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長一〇キロの鉄道を完成させ、セヴァストポリ要塞攻撃のための物資補給体制を整えたことが描かれている。これは世界の世界史上初の戦場鉄道であった(第10章)。新技術の採用と並んで、イギリスやフランスにおいては、国民形成の進展とジャーナリズムの発展によって(戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった)、ファイジズがいたるところで強調しているように、国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった。このこともまた歴史上初めてのことであった(第5章、第9章)。
イギリス産産革命とフランス革命がおこった十八世紀後半から第一次世界大戦が勃発した一九一四年までを、しばしば「長期の十九世紀」と呼ぶ。この時代は、いわば「ヨーロッパの時代」であり、近代社会の特徴が最もよく現れた時代であった。その特徴とは、特に西ヨーロッパを中心に、工業化と、民主化を伴いながらの国民国家形成が進んだということであり、グローバルに見れば、世界全体がヨーロッパで生み出された体制の中に包摂されていったということであった。たとえば新しい技術学伸について言えば、一八〇七年汽走船(蒸気船)が発明され、一八一七年には汽走船による大西洋横断が成功した。当初外輪船であったが三〇年代後半にはスクリュー船が登場している。一八三〇年には鉄道がイギリスで最初の営業運転を開始した。こうした運輸手段の発達などは、交通革命と呼ばれる状況をもたらした。ナポレオン戦争後、ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる復古体制が支配したが、フランスでは一八三〇年に七月革命がおこって、復古ブルボン朝は倒れ、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」となった。この七月革命の影響で、ベルギーが独立する一方、フランスでは二月革命がおこって王政が倒れ第二共和制となった。二月革命は、ヨーロッパ各地に波及してウィーン体制を終わらせる一八四八年革命と総称される大きな歴史的事件へと発展した。一八四八年革命の時には、「諸国民の春」と呼ばれる国民主権運動や国家を持たない中東欧の新たな運動も生起した。他方、十九世紀半ばにかけてのグローバルな状況を東アジアについて見ると、一八二〇年代には中国・インド・イギリスを結ぶアヘン・茶・イギリス綿製品のアジア三角貿易が成立し、これはやがてアヘン戦争(一八四〇~四二年)を引き起こした。欧米のアジア進出は、清朝と同様に鎖国体制に会った日本にも及んだ。ペリーが四隻の艦隊(うち二隻は汽走軍艦)で浦賀に来航したのはまさにクリミア戦争勃発の年、一八五三年である。一八五四年初めにはロシアのプチャーチンとの交渉が、長崎で行われている。
クリミア戦争が勃発したのは、「長期の十九世紀」のちょうど中ごろ、右のような大きな歴史のうねりが世界を覆いつつあった時代であった。したがって、この戦争は「古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争」(本書二二頁)であった一方、最新の工業技術が、とりわけ英仏側において、動員された近代的な戦争であった。たとえば、英仏軍が使用したミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃よりもはるかに長い射程距離を持っていた(第7章)。ロシアはいまだ国内にすら十分な鉄道網を持っておらず(首都ペテルブルグとモスクワの間に鉄道が開通したのは一八五一年)、そのことがロシアの軍事的補給を困難にしていたことはわが国の概説書などにおいても指摘されてきたことであるが、本書では、イギリスが一八五五年に入って突貫工事でバラクラヴァ港とイギリス軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長一〇キロの鉄道を完成させ、セヴァストポリ要塞攻撃のための物資補給体制を整えたことが描かれている。これは世界の世界史上初の戦場鉄道であった(第10章)。新技術の採用と並んで、イギリスやフランスにおいては、国民形成の進展とジャーナリズムの発展によって(戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった)、ファイジズがいたるところで強調しているように、国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった。このこともまた歴史上初めてのことであった(第5章、第9章)。
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