2021年5月31日月曜日

20210531 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.149‐150より抜粋

 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.149‐150より抜粋

ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

 三人は無言で待っていた。この時間は異常に長く感じられたが、せいぜい20分ぐらいで、それ以上のはずはない。遠くで何か笛の音がした。聞いたことのない音であった。私は窓からその方をながめた。青い戦闘服の一将校が、駆け足でこちらへ向かってくる。その周辺を5、6人のフィリピン人が、跳ねるような踊るような足つきで、同じように駈けて来る。一団はずんずん近づき、笑いさざめく声がきこえる。その将校は手に水牛の角で作った手製らしい角笛をもち、面白そうにそれをプーッと吹く。間の抜けたような音がし、周囲のフィリピン人はキャッキャッと笑っていた。一同は窓の下で止まった。将校は皆を制し、手に水牛の角笛をもったまま、一人の日本兵をつれて、身軽に梯子を駆けあがり、ずかずかと部屋に入ると、いきなり私の前の椅子にかけ、傍らの村長をどかせて日本兵を座らせた。この日本兵は三井アパリ造船所の社員で、現地召集され、旅団司令部にいたIさんで、英語がうまかった。以前から知っていたが、人相が変わり果てていたのでわからなかった。彼も私がわからなかったらしい。

 すべては一切の儀礼なしに、全く事務的にテキパキと進められた。「私は軍医だ」と彼は自己紹介し、いきなり「歩けない病人と負傷者は何名いるか」と言った。私には返事ができない。地区隊が全員で何名かも知らないのに、歩行不能者の数などわかるわけがない。「50名ぐらいだと思う」、出まかせを言った。「米軍の戦車道の端までその50名を担送するのに何日かかるか」「約二週間」「では九月十日正午までに担送を終えるように。そこからは米軍の水陸両用兵員輸送車で運ぶ」「わかった」「歩行不能者の兵器弾薬も同時にそこに運ぶように。絶対フィリピン人に交付したり放置したりしないように」「わかった」「東海岸へ行った者と連絡はとれないか」「とれない」「方法はないか」「ない」「よろしい、では観測機でビラをまく、何名ぐらいそこにいるか」「生存者は皆無と思う」「よろしい、では歩ける者は、担送の終わり次第、九月十日二時までに、このダラヤに集結するように」「わかった」「では・・」と言って彼は立ち上がった。私も立ち上がって敬礼をした。彼は答礼をするとすぐ梯子を下り、また面白そうに水牛の角笛をふくと、半ば駆け足で去って行った。言葉つきは軍隊的で事務的だが、非常に落ち着いた温厚な感じの人であった。これが戦後、私がはじめて目にしたアメリカ人であった。

 私はしばらく茫然と腰を下していた。一切の緊張感が一気に去って、全身の力が抜けて行くような気がした。村長の姿はいつの間にか消えていた。A上等兵も黙然と座っている。「これが負けたということか・・行こう」私は立ち上がって彼をうながした。完全武装で決死の覚悟で私たちは来た。一方彼は、全くの丸腰でただ一人、笛をふきながらやって来た。その対照はあまりにはげしかった。二人は逃げるようにダラヤを離れ、後も見ずに歩度を速めた。しかし、少し離れると、異常な疲労感と脱力感が二人を襲い、目がたえずくらくらして歩けなくなった。極端な弛緩と紫外線の中毒だったのだろう。しかし雨季はもう目前に迫り、夕方のスコールも次第に早く、また長くなっており、空はすでに雲が出はじめていた。二人は全く無言で、雨の降りだす前に分哨までつこうと、ただそれだけを考えて、足をひきずるようにして歩きつづけた。もう何も考えず、何も用心せず、何も目に入らなかった。「戦場の定め」も「ジャングルの常識」も、かき消すように私たちから消えて行った。

2021年5月30日日曜日

20210530 中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」 ー西欧ヒューマニズムの限界ー pp.7‐11より抜粋

中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」
ー西欧ヒューマニズムの限界ー
pp.7‐11より抜粋

ISBN-10 : 4121800036
ISBN-13 : 978-412180003

この「安」師団の兵力は、昭和19年夏に内地から補充をうけたころは総数2万にちかかったようである。それが終戦時には3千たらずに減っていた。とくに歩兵は全滅に近く、たとえば、3百人以上いた私たちの中隊は、終戦時14、5名、後になってタイなどから帰って来た者を合わせても17名ぐらいにしかならなかった。比較的生存者が多かったのは、野戦病院や経理・防疫給水隊などの、まったくの第二線部隊だけであった。

 こういう状態では、戦争が終わると聞いてやれやれと思ったのも仕方がなかったろう。全面降伏なら私たちも英軍に投降することになるが、いわゆる捕虜の汚名をきないですむだろう。殺されるかもしれないが、生きられる可能性の方がやはり大きそうである。そうすると、もう完全に近いほど諦めていた日本の土がふたたびふめるかもしれない。父や母や家族と会えるかもしれない。日本全体は焼土と化しているかもしれないが、家族のものは何だか昔のままの姿で生きて待っていてくれるような気がする。

 私たちは急に狂ったように激しい郷愁にとらわれた。寺の床に寝ながら、みな昂奮していた。家の思い出が口々に語られる。ふと誰かが、もうすぐ大文字の送火だ、今年などはとてもやれないだろうがと口にした。それを聞いたとたん、私の脳裏に家族一同二階からそれを見たときのこと、それも幼いときの思い出が突然目にしみるような鮮烈さで浮かびあがってきた。涙がどっとあふれてきて、ポタポタと床の上に流れ落ちた。 

 おなじ気持ちであったろう。兵隊たちはいつか小声で軍歌に口をそろえていた。

霜は軍営に満ち満ちて

秋気清しと詠じける

昔のことのしのばるる

今宵の月のしずけさよ

台場を屠り城を抜き

千辛意万苦へたる身の

不思議にいのちながらえて

我が父母や同胞は

我を案じて暮すらむ・・

題は忘れてしまったが、この頃よく仮小屋のなかでうたう歌である。この哀調にみちた軍歌は、あまりに頽廃的で士気を沮喪するものとしてうたうことを禁じられていたように思う、しかし、このごろは絶望的になった戦場の気分によく合い、兵隊に好まれてひそかにうたいつづけられていた。何度もうたい合ってみな、なかなか眠れなかった。ながいその文句をふと忘れて合唱がとぎれると、誰が覚えているものがやや声を大きくしてつづけ、みなが思い出してまた合唱となるのである。

 翌日、食料の塩干魚や砂糖やせっけんなどを受け取って夜おそく私たちはふたたびこの寺へ辿り着いた。8月15日の夜である。気がつくとあたりは死のような静けさである。きのうまでのドカンドカン、バリバリと狂気のような大砲の咆哮も、ドッドッドッドという絶え間のない重機の唸りも嘘のように聞こえない。雨季の最中だから、雨の音がやかましかったはずで、現に下帯までぐっしょりと濡れ、それを焚き木でかわかしながら砲声をつかもうとして耳をかたむけた記憶ははっきりある。しかし雨の音はまったく聞こえず、静まりかえっていたという思い出しかない。おそらく、私たちにとって雨の音は安全の印であり、ないに等しいものだったからかもしれない。銃砲声の聞こえぬ夜というものは何とこのように静かなものだったのか。情報は本当だったのだ。戦争はたしかに終わったのだ。

 しかし私たちの心は昨日よりも急に重くなった。無条件降伏という意味が重くのしかかってきたのだ。私たちは降伏する。武装解除、捕虜、収容所、それまではたしかだ。それからどうする。敵兵の復讐や私刑にあうかもしれない。強制労働は間違いない。私たちがビルマへ輸送されるとき見たやつれはてた英軍捕虜の姿が目に浮かぶ。おとろえきったこの身体で、銃剣で追いまわされる労働にたえることができるだろうか。うまくゆけば日本へ帰れるかもしれないが、帰れる日本があるだろうか。

 私はこの春見たマンダレー市の廃墟を思い出していた。京都に似たこの市は王城の城壁が残り、堀の水は青く澄んでいて、私たちはそこで飯盒炊さんをやった。しかしもと人口数十万といわれた町は文字どおり潰滅し、見わたすかぎり瓦礫の原野と化していた。日本のように焼夷弾による破壊でなく、爆弾によるものだから、煉瓦建てもコンクリートのビルも何一つ残っていない。焼けただれたタイプライターが瓦礫のなかに残っていたのを見て、この堀ばたの商社に毎日通ったであろう若いビルマ女性の姿を思い浮かべたりしたのだが、日本もあのとおりだとしたら、木と紙でできた日本の都市などあとかたもないだろう。そう思うと、いままでのような絶望そのものの暗さではないが、こうしてはいられないという焦燥感の加わったなんともいえぬ不快な不安が新しく心をしめはじめた。

いまから考えると、このとき芽生えた、こんなことしていられないという焦りは、捕虜生活中ますます激しくなっていったようである。

2021年5月29日土曜日

20210529 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」 pp.403-408より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」
pp.403-408より抜粋
ASIN : B00J861M36

予感があった。私は中央道路に出て一散に門に向って駈けた。50米あった。門のあたりは反射燈に明るく照らし出され、番兵が一人立っている。門外の暗闇から一人の米兵が何かを叫びながら、こちらに駈けてくる。彼は忽ち門に着き、番兵と肩を叩き合い、抱き合って踊った。

 第一次大戦を取材したアメリカ映画をいくつか見ていた私は、この光景が何を意味するかを知っている。訊かなくてもわかっている。

 私は止った。この間に道路左側の大体本部から大隊長イマモロと副長のオラが駈け出して来ていた。いざとなると、さすがに職業軍人は足が速い。私が止る頃には門に着き、番兵と二言・三言交わすと、さらに外の収容所事務所の方へ駈けて行った。有刺鉄線を隔てた台湾人地区から大隊長の李も門に着き、すぐ両手をあげて、何か叫びながら引き返して行った。事態はいよいよ明白であった。

 私は廻れ右をした。歩むにつれて、柵を隔てた台湾人地区の中で音が起って行った。木を叩く音、ブリキを叩く音に、歓声が混った。他の中隊の幹部が駈けて来るのに遭う。

「何だ、一体」と聞かれた。

「イマモロが事務所へ行ってますよ。戦争は終わったらしい」と答えると「え」といってそのまま摺り抜けていった。

中隊本部の前には不安な人々が群れていた。中隊長は大隊本部へ行っていた。探照燈は依然として北東の空に動き、汽笛の音が続いていた。

「大岡さん、どうしたんですか」

「さあね、どうも戦争が終わったらしいですよ。樋渡さんが戻ればわかるでしょう」

「日本負けたんやろうか・・」

「まあ、そんなところだね」と暗闇から声がする。

「誰だ、おかしなこという奴は。出て来い!」と第四小隊長の上村がいう。群は曖昧に揺れるが、犯人は出て来ない。こっちも踏み込んで引きずり出す勢いもない。

「ちぇっやけに騒ぎやがるな」

と上村は喧騒が次第に高くなって行く台湾地区を見やりながらいう。何を焚いているのであろうか、方々に火の手が上がって高い椰子の梢を照らし出している。中隊長が帰って来た。小隊長の前に立ってぶつけるようにいう。

「日本が手を挙げたんだね。ラジオでやってたんだそうだ」

どよめきが起った。上村は「え、ほんとか、けっ、イマモロによく聞いて来なくちゃ」といって駈け出して行った。

「ふっ、何度聞いたって同じことさ」と中隊長は、呟いた。本部前の人影は音もなく散った。間もなく四つの小隊小屋にどよめきが起り、中に号泣の声が響き渡った。音は次第に各中隊に拡がり、収容所全体が一つの声となって挙がって行くように思われた。

一人の若い俘虜が泣きながら飛び込んで来て、中隊長にかじりついた。「樋渡さん、ほんとですか。嘘だといって下さい。嘘だと。まだ負けたんじゃないでしょう。負けるはずないです。ねえ、樋渡さん」

「さあね。まだ詳しいことはわからねえ。とにかくそう泣いたってしょうがねえよ。」中隊長は私の方をちらと見た。

「哭き叫ぶ言葉も尽きてますらおは土に打ち伏し崩れつつ止む」と俘虜の中の歌人が歌った。誇張されているが、多くの泣く人影が小屋の内外で抱き合い、もつれたのは事実である。

 空に上がった探照燈の光はいつか数が減り、汽笛の音も止んでいたが、収容所の騒ぎはいつ果てるとも見えなかった。台湾人地区のブリキを叩く音は続き、何か歌の合唱になって行った。

 第三小隊長の広田が飛び込んで来た。彼は俘虜の中の過激派である。

「樋渡さん、どうにもならん。みんな台湾子んとこ斬り込むちゅうて、外に集まっとる。野郎うれしそうに騒ぎやがって」といって台湾人地区を睨んだ。

「集まったのか。お前さんが集めたんじゃないのか」と中隊長は怒鳴った。

「そんなことない。みんな柵を乗り越して殴り込むというとる。ありたけの蛮刀集めとる」

「蛮刀?」といって中隊長は立ち上がった。

蛮刀は凶器であるから、俘虜は保管を許されず、朝倉庫から受領して夕方返納することになっている。しかし永い間にいつとはなく、所謂「員数外」が出来て、各棟不時の用に二本ぐらいずつは隠しているのである。

「お前さんの棟はもう出したのか」

「いや、まだだ。まだある」

「そいつを持って来て貰おう」

と中隊長はいい放った。広田は何か口ごもった。中隊長は重ねて、「とにかくそれを持って来てくれ。連中は私が引き受けた。おい、小隊長集合」と小屋の後部にかたまっていた炊事飲の一人に命じておいて、台湾人地区襲撃隊の集まっているという中庭の方で出て行った。

 成程、中庭中央の暗闇に二十人ばかりの人影が動いているのが見える。中隊長の後姿が近づいて行く。私は随いて行かない。結果は明瞭だったからである。柵を越えるなんてそう簡単に出来ない上に、米兵に射たれる。台湾人が空騒ぎしたぐらいで、本気で命を賭けに行く者は、俘虜の中には一人もいないはずだ。 

 中隊長の演説している声が暫く聞えていたが、やがて笑いながら帰って来た。

「広田のおっちょこちょいには困ったもんだ。三小隊の奴等ばかりさ、やめるなら、最初からやるなんていわないもんだ」

四人の小隊長が集まった。彼等はみな眼を赤くしていた。

「木村は全く可愛い奴や、泣きながら飛びついて来やがって、ええところあるで、彼奴は」と人情家の第一小隊長の吉岡が興奮していった。木村というのは、さっき中隊長にも飛びついた若い俘虜である。彼は方々幹部に飛びついて歩いているらしい。

2021年5月28日金曜日

20210528 左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」 pp.29-30より抜粋

左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」
pp.29-30より抜粋

ISBN-10 : 4865281029
ISBN-13 : 978-4865281026

新聞は、内務班にはなかったけれども、中隊事務室に行けば割合読めたな。ラジオは内務班に置いてあった。さっき言ったように対馬は火力発電だったが、昼間はもちろん送電停止なわけだ。終戦の1945(昭和20)年は、陸軍官舎かの仕事で、寺田軍曹に引率されて、三人だったか四人連れだったかで営外に出ていた。鶏知川から高浜演習砲台のほうへ行ったら、向うでラジオの音がするんだよ。そして、誰か寝そべって聞いているんだ。「おかしいなぁ、送電停止のはずなのに今日はラジオが鳴っているが・・?」と思っていたよ。

 それで用を済まして帰ってきたら、もうラジオも聞こえなくなっていた。その時間だけ、玉音放送のため、特別に電気が通じていたのだな。営門を入ったら、林という屈強な上等兵が「日本は負けたぞ」と言うんだよ。何か冗談言っていると思ったね。私も、だんだん情勢が押し詰まってきて、「ああこりゃ、この対馬も玉砕だ、もう助からん」とは思っていたがね。「冗談言うな」と応えたら、「いや、今、玉音放送があったんだから間違いない」と言う。それでもまだ半信半疑だったが、晩になって、ラジオで再放送を聞いて、「あー、やっぱりポツダム宣言を受けたんだな」と判った。・・・・いや、昼間の玉音放送から夜までの間に、正式な訓示とかは何もなかったよ。

 それから、翌日の16日だったか次ぎの17日だったか、聯隊本部にあるいわゆる「御真影」を焼いて、それから、菊の御紋章を連隊長が力作のハンマーで割ろうとするんだが、連隊長も四十幾つで若くはないから、なかなか割れないんだ。そのときは、みんな巻脚絆・帯剣の軍装で並んでいた、こういう”式”があったなあ。

 戦争が終わったら、みんな腹の中じゃ喜んでいたようだったねぇ。ある曹長が町から帰ってきて憤慨していたよ。曹長は長い剣を吊っているんだが、それまでは言わば"軍人さん、軍人さん”ってへいこらしていた鶏知町の女たちから、「あんた、こんなもんぶら下げて何してんの」と軍刀を持ってからかわれたって。そういうものなんだよ。戦争中は戦争サマサマのようにしていたのに、終わった途端、軍籍にある者を馬鹿にする人間も現れる。

2021年5月27日木曜日

20210527 記事作成の止め時の設定と作成前の葛藤について・・

 さすがにブログ記事を1500以上作成してきますと、時折「もう十分かもしれない・・。」と思うこともあるのですが、他方において「ある程度区切りの良いところまでは・・。」とも思い、そして、現在にまで至っているというのが、一面における、1000記事到達以降の当ブログ作成についての経緯であると云えます。

そうしますと「1500記事に到達した時点で、記事作成を止めることを宣言しておけば・・」とも思われるのですが、しかしながら、1500記事に到達した時点では、自らではあまり自覚することがなくとも、やはり、それなりに昂っているものであり、そして、そうした状態にて、文章を作成していますと、やはり「次の目標は1600記事への到達」といったことを書いてしまうようです・・(苦笑)。

そして、それに引き摺られて、その後も今に至るまでどうにか書き続けていますが、しかし、そうした無鉄砲、無計画振りの割には案外と当ブログは続いており、現時点で、当面の目標の三分の一以上までは到達しています。そしてまた、来月の出来るだけ早い段階にて、さきの目標の半分にまで到達したいとも考えています・・。

そういえば、当ブログでの記事作成と併行して、またいくつかの書籍を読み進めていますが、昨日からは、これまでの疲れが溜まったものか、これまでより、いくらか読書に身が入らなくなっていました。あるいは、読み進めている書籍の内容が頭に入ってくる割合が低くなったとも云えます。

ともあれ、こうしたことは、これまでにも数多く、数えきれないほどありましたが、こうした読書の際の読み手である自身のコンディションとは、なかなか大事な要素であり、これにより、理解して読むことが出来る書籍の多寡も決まってくると云えます。そしてまた、そのことは、インプットである読書と同様、アウトプットと云える当ブログにおいてもまた云えることであり、そうした事情を通して、作成した記事内容に優劣のようなものが生じるのだと思われるのです・・。

しかしながら、そうであっても面白く思うのは、良い状態にて作成したはずの記事が、必ずしも多くの閲覧者を得ているわけでもなく、何度か寝落ちしつつ作成した記事にて、多くの方々に読んで頂いているものも、少なからずあるということです・・。

そこから、やはり、こうしたブログ記事は「出来るだけ数多く作成した方が良い」となるわけですが、他方で、ある程度の期間、ある程度の記事数を、どうにか継続して作成した現在においては、まさに、この時点で「休むべきか書くべきか」の(いわばしょうもない)葛藤が生じるのです・・。

こうした葛藤は、蓄積した記事数に比例して大きくなるようであり、かつて、1000記事まで到達していなかった頃は、記事作成に至るまでの葛藤などは殆どなかったと記憶しています。そこから、現在のこの葛藤は、なかなか面倒と云えるのですが、実際に書き始めて、少し入り込んでみますと、何やら面白いもので、このあたりまで書き進めることが出来ているのです・・。しかし、そうであっても、こうした状態とは、その場ではあまり実感がないものの、それなりに体力も消耗しているようであり、書籍からの引用記事を作成した日と比べますと、疲れ具合が全く違うと云えます。そのため、先日、しばらくは書籍からの引用記事を中心として当ブログを進めていこうと考えたわけですが、しかし、それも5記事程度続きますと、何らかの反動によるものか、自らの文章による記事が無性に作成したくなるのです・・(苦笑)。そしてまた、しばらく書いて疲れるのです・・(苦笑)。

しかし、こうした作成方針?にて、どうにか今に至るまで続き、また、その進め方にて、記事題材については、そこまで深刻に困ることもなかったことから、今しばらく、このままで続けて行こうと思います。そして、次回からはまた、書籍からの引用記事にて、しばらく続けようと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

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2021年5月24日月曜日

20210524 センサーの劣化と諺「転石苔むさず」について・・

 おかげさまで一昨日投稿の「特徴的な地域の歴史背景について」は、投稿後二日目にしては比較的多くの方々(50人以上)に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

地域の古くからの伝統には、それぞれ固有の価値があると考えていますが、鹿児島と同様、和歌山のそれも首都圏出身の私からしますと、大変興味を惹くものであり、また、そうしたことを在住期間の中で強く感じたことから、それまでの興味の方向性から変化していったのだと云えます。

あるいは異言しますと、当時の生活の中で感じ得る和歌山の文化全般とは、驚きに満ち、興味を惹くに足るものであり、さらに、それらの歴史的背景を書籍などを通じて、どうにか知るうちに、徐々にそれら(実体験と書籍からの知識)が化合し、新たな、その地域、さらには我が国に対する価値観・感覚のようなものが形成されていったということになります。

それまでの私の自国の歴史に対する興味は、概ね16・17そして19・20世紀に集中していましたが、和歌山での生活によって、紀元前後あたりの弥生時代から古墳そして飛鳥時代の7世紀末頃までについても、地域の歴史を基軸として興味を持つに至りました。

そして、その端緒を明らかにすべく、記憶を辿りますと、それは一つではなく、たとえば、勤務していた白良荘グランドホテル近くの熊野三所神社境内にある火雨塚古墳、あるいは、休日の一人サイクリングにて迷い込んだ場所にあった古くからの祭祀遺構、そして、その付近にて銅鐸が出土していることを書籍から知ったこと、などであったと云えます。

当時は、そうしたことに対して自然に好奇心が刺激され、驚異の念を抱くことが出来ていましたが、現在の私は、以前にも書きました通り、そうした感性のセンサーはいくらか有意に劣化しているように感じられます・・(苦笑)。

つまり、ある程度大きな感動や驚きを惹起させるような出来事に遭遇することが少なくなったと云えるのですが、これは自分次第で再度、センサーの感度を高めることは出来るものなのでしょうか・・。

おそらく、これが現在の私にくすぶっている問題であると云えますが、これをどうにか解決するためには、能動的に遮二無二動く必要性があるように思われますが、この「能動的に遮二無二動く」こそが「若さ」が為し得る特権であり、これをある種の諦念のようなもので止めてしまうと「落着き」は得られるのかもしれませんが、他方で、若さに因る感性の瑞々しさは、減衰していってしまうのではないかと思われます。諺に云う「転石苔むさず」といったところです。

そういえば、この「転石苔むさず」は「A rolling stone gathers no moss.」の和訳ですが、それが意味するところは、同じ英語圏でも英国と米国にて異なるようであり、そこから、それぞれのお国柄のようなものが察せられます。私としては、活発に動くことを佳しとする意味の方に共感を覚えるところですが、同時に、さきに述べた事情から、そうも云い辛くなってきているのが現状と云えるのかもしれません・・(苦笑)。

また、そうしたことを考えてみますと、現在の我が国においても、この「転石苔むさず」の諺は、何やら感慨深いものであり、あるいは、1945年から現在に至るまでの戦後社会において解釈される、その意味合いの変遷を、さまざまな出版物等を通して検討してみるのも、なかなか面白いのではないかとも思われます・・。くわえて、現在の我が国においては、さきに述べたような「活発さ」そして「感性の瑞々しさ」が求められている状況であると思われますが、しかしながら同時に、国全体が収縮しているとも云える現状においては、それもまたキビしく、さらにそこから、全体的に安心や安全を求める方向性にて諸事進むようになりますと、負のスパイラルのようなものが発動してしまうのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか。

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2021年5月22日土曜日

20210522 特徴的な地域の歴史背景について

 古墳時代、ヤマト朝廷が近畿を基盤として西へ東へ、その版図を拡大させていた頃より、九州南部は、継続的な征服、統治が困難な地域とされたいた。くわえて、朝廷側からすると、この地域の人々は言語、文化などの点から異なる民族として見ていたようである。

記録によると、随分後の平安時代になっても、朝廷側は当地域の人々との意思疎通には通訳官を用いていたとのことである。

また、自身の経験からしても、これは全くの間違いではないように思われる。そして、平安時代末期の源平合戦の頃、同地域の多くは、平家方所領であったが、平家が壇ノ浦にて滅びると、それらは平家没官領となり、幕府によって新たに任じられた鎌倉御家人達が、13世紀半ばの三浦氏の乱(宝治の乱)の頃まで継続的に、この地に入植してきた。はるか後年、日露戦争での日本海海戦の勝利により高名となった東郷平八郎の祖先の出自もまた、こうして東国から入植した鎌倉御家人であった。

こうした先祖の出自を持つ家は、現在の鹿児島においても特に珍しいわけではなく普通に私の周りにもおられた。また同時に、そうした背景を現在においても見出せることには、九州南部の旧島津領は、全国的に見て、人口に対して占める士族の割合が顕著に高かったといった事情もあると思われる。

他国がおよそ二十人に一人程度が士族(約5%)であるとすると、旧島津領は、領内にて若干の濃淡はあるものの、およそ四人に一人が士族(約25%)であったとされている。これは、主に織田信長に始まり、豊臣、徳川両氏によって引き継がれた兵農分離政策があまり為されなかったことに由来しているとのことである。

さらに、島津氏は、これら時代の覇者達から、その存立を脅かされ続けたことから、特に国境(くにざかい)地域においては領土防衛の観点から、動員可能兵力の保持が要求されたのだとも云える。

そのため、旧島津領では、明治期の屯田兵の和式祖型モデルともいうべき、半士半農の所謂、郷士が多くいた。彼等は領内各要地に置かれた出城(外城)の周囲(麓)に集落を築き住んでいた。薩摩半島南部にある知覧の武家屋敷街並みも、こうした郷士集落の一つである。

少し極端に述べると、鹿児島をはじめとした旧島津領では、鎌倉時代以来の「機能する軍事組織」が、あまり姿を変えることなく、近代に至るまで生き永らえたのだとも云えるのである。

そしてまた以上のことから、この地域が維新回天期の戦に多くの兵力を動員出来、さらには我が国近代以降最大の内乱である西南戦争の震源地であったことは、ある意味、必然的なことであったとも云えるのである・・。

ともあれ国内各地域は、それぞれに歴史的背景があり、現在に至っていると云えるが、こと旧島津領の南九州地域のそれは、やはりなかなか特徴的であるように思われる。

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2021年5月21日金曜日

20210520 神保町~秋葉原の書店を訪ねて思ったこと

 本日は休日であったため、JRにて御茶ノ水まで行き、そこから徒歩にて明大通りを下り、駿河台下から神保町界隈に出て、何軒か書店を廻りました。とはいえ現在、都内は緊急事態宣言下であり、その中で書店は営業をしていましたが、古書店については、休業要請の対象となっていることから、界隈の古書店の大半はシャッターが下りていました。

緊急事態宣言下での書店と古書店の扱いは、発出自治体毎で異なるとのことですが、私としては、この扱いの違いが何に由来しているのか分かりかねるところです・・。

さて、そうした状況はともかく、いざ書店入ってみますと、当ブログと連携しているツイッターの投稿にて見た記憶のある書籍が少なからず並んでいることに気付かされ、それらの中で興味深いと思われたいくつかの著作を手に取って、それぞれ頁を開いてみますと、やはり面白く感じられ、以前購入した書籍が未だ読了に至っていないにも関わらず「さて、これは購入すべきであろうか?」と考えてしまうのです・・(苦笑)。

斯様に書店内にてしばし葛藤をした後、本日は新たな著作を購入することなく店を出て、近くの店でコーヒーを飲み、その後は靖国通り沿いに秋葉原まで歩きました。

そして、丁度、秋葉原駅前南通りに至り、高架下の先にあるBOOKOFFの看板が見えた頃に雨が強くなってきました。そこで、少し先を急ぎ高架下を過ぎると、先日訪れた時は店を閉めていたBOOKOFFが営業していたことから店内に入り、しばらく書籍コーナーにて物色していたところ、またいくつか興味深いと思われる書籍を見つけました。さきの神保町での書店と比べると、古書店にて安価であることから財布の紐も緩くなり、ここで新書を二冊購入しました。

さきに述べました通り、未だ現在、読み進めている書籍がいくつかある状況ではありますが、そうであっても、ある程度興味が持続すると思しきテーマの古書は、状態が良く、比較的安価である場合には、とりあえず購入しておいた方が良いと私は考えていますが、こと、こうした偶然にて出会う古書に関しては、やはり、私の知る限りでは、東京が最も充実しているように思われます・・。

また、上記のように徒歩にて興味を惹く書籍を見つける行為は、小学生の頃から続いていますが、私の場合、そうした中において「大きな影響を受けた」と云える著作に出会うことが多いように思われるのです。こうしたことは、他者による客観的な視座からは「単なる偶然」と評されるのでしょうが、そうした著作を読んでいて、何かしら強く感応する記述を見つけた際の(主観的な)感動とは、さきの評価では済まされない「何か」があるように思われるのです。

とはいえ、残念ながら、ここ最近はこうした「強く感応する記述がある書籍」に出会うことは稀となり、あるいは私のこうした感性のセンサーが経年劣化をしているようにも感じられるのです。しかし他方で、こうしたことをあまり恥じることなく文章化することについては、以前では為し得なかったことですので、あるいは、こうしたセンサー的な感性と、こうした文章での表現が出来ることの間には、何やら相殺し合うような関係性があるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか。

そういえば、おかげさまにて、今回の記事投稿にて、総投稿記事数が1535に到達します。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます!



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2021年5月20日木曜日

20210519 株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

ISBN-10 : 4582767338
ISBN-13 : 978-4582767339


梅原(猛)それから先生、孔子と孟子とは人間も思想も大分違うんでしょうか。

白川(静)うん、大分違う。これは時代環境が違うんですね。僕はやはり「思想」というものはね、社会的なものであって、それぞれの社会の中で理想を求めていく訳ですね。だから同じ「国家」というものを考えても、ギリシャの都市国家で考える「国家」と、中国のような広大な地域で、多民族でしかも分割されずに一緒くたに、ごった煮ですわな、そういう状態になっている、その中で「国家」を考えると、一品料理で考えるのと、料理の仕方が違うんですな。だから孔子なんかの場合、そういう歴史的伝統の中で考えている。しかし戦国期の思想家は、「天下」という。彼等は「国家」という言い方をしないんです。複数の国家を含んだ天下なんです。そういう中での秩序を考える訳ですから、全然基盤が違うんです。

梅原 私は孟子が「後車数十乗」を連ねて諸国を廻ったと、先生の本で初めて知りましたが、孔子みたいに失敗したのと大分違いますね。

白川 あれは一種の政治運動なんです。もし適当な待遇をしなければ、別の国へ行ってこっちの国の不利なところをみんなばらすとか何とか言ってね、策動するんです。だから一種の政治集団みたいなものですよ。そして諸国を巡遊するんです。戦国時代ですから。

梅原 あの時代はそういうのが多かった訳ですね。

白川 あの時代はまた国家にしてもね、すぐれた思想家を集めて文化力でやろうとか。例えば斉の国は都を臨淄(りんし)というんですが、鄒衍(すうえん)とか、荀子、韓非子など、当時の思想家は斉の都へ集まったんです。都城の西方に稷門という門があって、斉の学堂があった。その付近に高級な住宅を与えて、学問研究をさせるため良い待遇をした。そこで、この稷門に栄えた学問を「稷下学」という。その時代が、斉の国が文化的に天下を支配する力を持った時代なんです。だから当時の学者というのは、単なる研究者じゃない、学問は同時に政治力であり、文化力であった。そういう形で学者も研究するし、政治家も利用する、そういう時代であった。

孔子と墨子ー職能集団、葬送と技術

白川 ところが孔子の時代は思想はまだ萌芽的な状態でね、教団としての組織を持ったものは孔子がかろうじて作った儒教と、墨子集団と、この二つしかない。両方とも一種の社会階級的な性格を持った集団です。儒家というのは、葬式からお祭までを含めた、宗教的な行事を担当する伝統を持った階層であった。墨子の方は、「墨」というのは入れ墨という意味ですがね、入れ墨を入れた受刑者がね、当時は罪というのは神に対する穢れであるという考え方であって、受刑者は神の徒隷として、神をお祀りする場所に奉仕させた。そこで色んな仕事をさせる訳ですね。だから墨子というのはね、あなたの言う、「ものつくり」として、兵器も造るし、城壁も造る。中国の城は大きな城壁を持っていますから、城を攻撃する雲梯という何段階にもなる梯子が要る。今の起重機みたいに、するすると伸びて城壁を越したり潰したりする機械を造る。

梅原 技術屋ですね。

白川 技術集団です。それが周王朝が滅びると雇ってくれる人がいませんから、独立して諸国を廻る訳です。「我々はこの城を潰すことが出来ますよ」とやる訳やね。だから彼等は初めから結束していなければ、力を発揮出来ない。儒家のようにね、個人の人格形成が基本であるというのとは、全然違う。

2021年5月18日火曜日

20210518 株式会社平凡社刊 宮崎市定著「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」pp172-176より抜粋

株式会社平凡社刊 宮崎市定著「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」pp172-176より抜粋

ISBN-10 : 4582805086
ISBN-13 : 978-4582805086

 欧州にて最初に科学文明の花の咲きたるは、かつてのイスラム帝国の遺址たるスペイン、ポルトガルの二国である。彼等はイベリア半島北部に残存せるキリスト教国にして、やがて南下してサラセン人をアフリカに追い、彼等の科学知識を取って自ら利用することによりて繁栄を来し、西は大西洋を越えて新大陸を発見し、東は喜望峰を廻りて旧大陸に渡来した。

 明末ポルトガル人がその船に科学を載せて、古き東洋の文明国に訪れたることは、さすがに甚深の影響を中原の文明社会に及ぼした。もしも明廷が十分に西洋科学の価値を認識してこれを中原に移植せしむるに努めたならば、恐らく社稷を滅ぼさずしてすんだことだろう。しかも余りに古き文明社会は彼等の眼を曇らせていた。彼等は僅かに紅毛砲の威力や、世界図の正確さを認識したるに過ぎなかった。むしろ西洋宣教師の異常なる努力にも拘らず科学は単に輸入せられるのみにて、移植せられずに終わった。清朝の康熙帝はさすがに科学に対して正確なる認識を有していたらしい。素朴民族出身の帝の眼に曇りはなかった。しかも帝は中原の経営だけにて手いっぱいであった。凡てが明朝滅亡後の後始末を前提として割り出されていた。帝の英邁をもってして、結局、西域の科学文明に接しこれを打擲したる蒙古人の態度に比して、満州人は何程の優越さも表し得ざる結果となりたるは惜しむべき極みである。これも亦。数千年来積り来れる中原文明社会の迷信的なる因習が作用せる当然の帰結と考うべきであろう。

 中原の文明社会に対して、幸いに東洋には一個の素朴主義社会が存在した。そは日本である。世人或いは日本の文明の古きことをもって誇とするも、単に古きのみにて何等の価値もない。幸いにして日本は古き文明を有しつつも、一方において素朴主義を捨てざりしことが世界に向って誇るに足る事実である。日本精神とは建築や文学に表れる文飾ではない。むしろ言わず語らずして行動する素朴主義精神でなければならぬ。その他のものは飾りでこそあれ、むしろ本質とは縁遠き存在に属する。

 日本人の素朴にして謙虚なる、正を正とし邪を邪とし、一点の曇なき明鏡のごとき天真は、西洋の科学文明に対して驚くべき判断の正確さを示した。吾人は便宜上、西洋の科学というが、実は科学には西洋もなく、東洋もない。ただ人類の科学あるのみた。いわゆる西洋の科学も、その源を尋ぬれば西アジアではないか。子が親に学び、後輩が先輩に学ぶことが自然なれば、後進国が先進国に学ぶのもまた自然すぎるほど自然である。これをもし嫌忌する者があれば、それこそ夜郎自大なる文明主義の弊害であり、貴族主義の悪徳である。後進国たるは些かも恥辱でなく、後進にして先進を学ばず、学んで出藍の誉を得ざるこそ大なる恥辱である。

 江戸時代の日本には一人の西洋宣教師もなく、欧州学は動もすれば国法に抵触するの虞れさえあった。この時に当って、前野良沢、杉田玄白等を中心とする蘭学社中が、医書の翻訳を企て、「譬へば眉といふものは、目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句、彷彿として長き春の一日には諦められず、日暮る迄考へ詰め、互ににらみ合って、僅か一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬことにてはあり、鼻は面中にありて推しの一句を訳し得たる時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり」という。言々句々辛苦の状察すべきである。かくして解体新書の成りたるは後桃園天皇の御代安永三年、清では乾隆帝の三十九年、西暦一七七四年にしてアメリカ独立戦争の前年であった。

 科学に対する日本と清との態度の相違が、その後の両国の運命を決定した。余は科学そのものとは言わない。科学に対して何等の偏見なき素朴なる態度を取り得たことが、取りも直さず、わが国の社会が素朴主義の根底に立ちたるものなるを立証し得た。そしてその素朴主義たるや、満州人、蒙古人のそれと異なって、発展性を有しおることも同時に知り得たることえを言うのである。かくしてわが国民は、科学の移植に成功し、文明生活と素朴主義とを如何にして調和せしむべきかの鍵を握るに至ったのだ。

 前野、杉田無かりしも、わが素朴主義社会は必ずやこれに代る者を出したことであろう。しかもかかる推測によって先覚者の功労は毫も光輝を減ずるものでない。もしも世人が日本精神発揚の偉人として国学者を顕彰するならば、吾人は同時にいわゆる洋学者をも忘れざらんことを切望する。

 東方における清朝衰微は、吾人をして西方におけるトルコ帝国の頽廃を想起せしむる。西暦十五、六世紀、トルコ帝国が西アジアの旧文明の廃墟に、溌剌たる新興の意気に燃え、東ローマ帝国を滅ぼしてバルカンを席捲し、ドイツ帝国を震撼せしめたる頃、その科学、その技術においてもまた優秀なるものがあった。彼等は戦勝によっても慢心せず、オランダにオルテリウスの地図書現るれば、直ちにこれを翻訳するを忘れなかったのである。その末葉に至っては、安逸を貪って徒らに自大、他に向って国境を鎖して目を塞げば、自己と共に外界もまたその進歩を停止すると考えた、極東のトルコは正に清朝であり、かつては満州八旗六万の健児が内には厖大なる中原の社会を整頓し、外には天山の北に準噶爾の強豪を圧倒してなお余裕ありしものが、長髪賊の叛乱以来、一掬の数に満たざる英仏、欧州諸国の暴兵の前に叩頭して和を乞わざるべからざるに立ち至った。

 然りと雖も日本の社会もまた常に順風の舟路のみを辿ったのではない。せっかく民間に溌剌たる素朴主義の躍動を示しつつも、その指導階級はいつの間にか、文明化しおおせていた。僅か四杯の蒸気船にても夜も寝られぬ醜態を演じたるは、吾人たるも正に心肝に銘記すべきた。幸いにして王政復古成就し、日本は本来の面目に立ち返り、これと共に指導層の入り替りも行われて、後ればせながらも素朴主義国家の力強き一歩を踏み出したのである。

2021年5月17日月曜日

20210517 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 梶田昭著「医学の歴史」 pp.123-126より抜粋

株式会社講談社刊 講談社学術文庫 梶田昭著「医学の歴史」

pp.123-126より抜粋

ISBN-10 : 4061596144
ISBN-13 : 978-4061596146

 周王朝は、前八世紀の中頃から名目の存在になり、前三世紀中頃、秦に滅ぼされるまで群雄が割拠する春秋戦国時代が続いた。諸侯の間を遊説して歩く諸子百家が現れたのがこの時代で、孔子も孟子もその中に姿を見せるし、扁鵲のような遍歴医もいた。この時代の文献に鍼灸治療が現れる(山田慶児)。いくつか例を拾ってみよう。

「孟子」離婁上篇に「今の王たらんと欲する者は、なお七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むるがごときなり」。七年越しの病に、たった三年した乾かしていない艾を使うとは何事、「仁」は即効薬ではないぞ、というのである。孟子は前三七二~前二八九年の人。「荘子」雑篇の盗跖篇では孔子が、「病い無くして自ら灸するものなり」、この自分は余計なことをして痛い目にあう愚か者だった、こういって嘆く。孔子は孟子と同時代人であった。しかし、「荘子」の外篇、雑篇は後世に加えられたものらしい。

 この二つから見ると、孟子も孔子も灸を知っていたのである。もっともこのどちらも、実際に灸を据えた話ではない。

鍼療法については「春秋左氏伝」(「左伝」)に記載がある。

「左伝」成公十年(前五八一)に、病膏盲に入る話がある。晋公の病床に招かれた医師が、「この病気は治療できない。膏の上、盲の下は灸も使えず、鍼も届かず、薬も効きません」と診断する。膏は心臓の下、盲は横隔膜の上と解釈されており、つまり「体のいちばん奥深いところ」である。

 山田慶児によると、中国医学の特徴は、「第一に、鍼灸という特異な治療法が発達したこと、第二に、この鍼灸療法と結びついて医学理論が形成されていったこと、第三に、鍼灸医学とともに生まれた理論が薬物療法を中心とする医学の全体系の基礎理論へと発展していった」(中国医学の起源)岩波書店、1999)ことである。そうして「鍼灸を推力とする中国医学の形成過程は、戦国時代(前四○三~前二二一)から後漢(二五~二二〇)にかけて進行」した。

鍼灸医学は最初の理論体系として「黄帝内経」(「素問」と「霊枢」)と黄帝八十一難経」(「難経」を持っている。いずれも後漢末(二〇〇年前後)に成立した。「黄帝内経」のうち、「素問」が医学の基礎理論、つまり生理学乃至一般病理学であり、「霊枢」に鍼灸の理論がある。

 薬物療法(湯液)の古典は「傷寒雑病論」(「傷寒論」と「金匱要略」である。これらは張仲景(二世紀の人)の著である。

 ほかに「神農本草経」がある。これは「本草」といって、薬用植物学の書物であり、神仙思想、つまり道教の色彩が強い。 

 これらも「黄帝内経」とほぼ同じ時期に成立した。漢代は戦国の百花斉放が実を結び、中国文明の基礎があらゆる方面で作り上げられた時期である。医学もその一つであった。

 小川鼎三「医学の歴史」(中公新書、一九六四)はおおよそ次のようにいう。-「内経」の医学(つまり鍼灸医学)は黄河流域の北方民族のものであった。中国北部は不毛の地が多くて薬用とすべき植物は少ないので、鍼灸のような物理的な刺激療法が用いられたのであろう。これに対して、張仲景の「傷寒論」は南方の揚子江(長江)付近に発達した医学なのである。

 中国の地理的風土と文明・思想については、岡倉天心(「茶の本」第三章、岩波文庫、一九六一)の興味深い解釈を聞こう。

 道教は、・・・南方シナ精神の個人的傾向を表していて、儒教という姿で現れている北方シナの社会思想とは対比的に相違があるということである。中国はその広漠たることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江と黄河はそれぞれ地中海とバルト海である。幾世紀かの統一を経た今日でも南方シナはその思想、信仰が北方の同胞と異なること、ラテン民族がチュートン民族とこれを異にすると同様である。

 北方黄河の流域と南方揚子江流域が、前者は「内経」医学、後者は「傷寒論」医学を生んだ。それがバルト海と地中海の沿岸に相当する、と考えると、私たちの想像は大いに刺激され、イメージがふくらむ。


2021年5月15日土曜日

20210515 昨日の続き「誤配」・「セレンディピィティ」への見解の微妙な変化

昨日の投稿記事はまた、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。さて、この記事では「誤配」および「セレンディピィティ」について書きましたが、私自身のこれまでを省みますと「セレンディピィティ」はともかく「誤配」については少なくなかったように思われます・・。

とりわけ、2010年の指導教員(師匠)の退職は、これまでにも何度か書きましたが、まさに私にとっては「誤配」としてしか認識出来ないものであり、これにより、その後の私の生き方は大きく変化したと云えます。いや、私のみならず、当時の研究室におられた方々皆の人生も大きく変わったと云えます。

当時、同じ研究室におられた先輩院生で、その後、首都圏にて開業された先生がいますが、この方と話していますと、毎度ではありませんが、度々「あれで人生変わったなぁ・・。」といったハナシになります。しかし、ここ直近の数年においては、それ以前とくらべ、その後に、あまり後悔や恨み言とはならずに「まあ、考えてみると、納得は出来ないにしても、あれはあれで仕方がなくて、また、そうしたことがあったからこそ、お互いに色々な経験が出来たとも云えるのかもしれないな・・。」といった方向にハナシが流れていくことが多くなったと云えます・・。(案外、こうした経緯については、同業である大学などの教育研究機関さまよりも、関連会社さま、専門書出版社さまなどの方が、深いところから御存知であることが多いように思われます・・。)

ともあれ、師匠が退職された後は、以前にも少しだけ触れましたが、さまざまな出来事があり、くわえて、歯科医師ではない私などは、学位取得後も、生きるために、色々なことを行うことになりましたが、そうした時に助けてくださったのは、同じ研究室におられた先生方、また、変わらずに勉強会に誘ってくださり、(ほぼ)夜通しの議論をした文系院時代の先生、友人の方々でした・・。

そして、そうした紆余曲折の経緯があり、どうにか現在に至っていると云えますが、これはその期間全体を通じ眺めてみますと、幸運を基調とした「セレンディピィティ」と認識出来るものではなく、未だに全体としては幸運ではなく、凹みの要素の方が強いと云えるのですが、それでも、さきに述べましたように、以前と比べますと、いくらかは前向きになりつつあるようにも感じられるのです・・。他方で、私が前向きになることに対して、否定的な見解を持たれる方々もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、能動的(前向き)な活動と云えるブログ記事の作成、投稿は、どうにか5年以上続けることができていますので、今しばらく6年間の更新、そして当面の目標である1600記事への到達までは、そうした見解を保留して頂ければと願うところです。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2021年5月14日金曜日

20210514 あってもなくても問題ないブログで意味があること・・「誤配」と「セレンディピィティ」

 今回の記事投稿によって総投稿記事が1530に到達します。また、さきの1525記事の投稿からは書籍からの引用部を記事として充ててきましたが、おかげさまで、これらの閲覧者数も思いのほかに伸びています。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、それらの中で、一つでも興味を惹かれるものがありましたら幸いと云えます。

そして、本日もまたさきほどまで書籍からの引用を記事としようと考えていましたが、ある程度は自身の文章での記事作成を行わないと、文章作成の腕が鈍るのではないかと思い、また、今回の記事投稿によって、1530に到達し、多少は区切りが良いと思われることから、自身の文章にて記事を作成することにした次第です・・。

さて「自身の文章にて」と書いてはみましたが、実際、このように書き進めてみても、今現在に至るまで特に記事の主題は思い浮かばず、ここにきて、キーボード上の両手は、何やら突如として動きが鈍くなりましたが、それでも、この辺りまで書き進めることが出来たのであれば、とりあえず、どうにか先も書き進めることが出来るように思われます・・。

ここ数日間は、主に新書からの引用にて、中国、そして同国の伝統的な特産品のひとつである茶について扱いましたが、そこから本日は、この茶から敷衍して、中国地域内で特産品に相違があるのと同様、伝統的な医療についても、地域的な相違があることを言及した記述を充てようと考えていました。さらには、それとも関連して、地域における鉱工業や、それを基盤とした軍事組織の相違などについても、いくらか関連した記述を見出すことが出来るのではないかと考えていましたが、そうしたなかで、こうした自身の手による記事を挟むことにより、計画通りの記事作成とはならずに、ある種の「誤配」のようなものが生じ、さらに違った面白い方向に進んで行くのではないかとも思われるのです。

あるいは、こうしたことを事後的には「セレンディピィティ」と云うのかもしれませんが、ともあれ、こうしたブログのような、いわば「あってもなくても特に問題がない営み」においては、まさに、そうした「誤配」を敢えて忍ばせることに「問題がない」なりの意味が認められるのではないかと思われるのです・・。

もしくは、少し大きく見ますと、当ブログがいくつかの偶然によって2015年に始まり、現在、この文章の作成にまで至っていることも、まさに「誤配」や「セレンディピィティ」の賜物であり、またさらに、そこが今現在において当ブログの「問題がない」なりの意味であり、そして、さらに続けることにより、その後において、あるいはその意味や重さも変わってくることもあるのではないかと思われるのです・・。

ともあれ、ここまで書いてみますと、昨日までの「茶」の記事との時代背景の近似(16世紀半ば~17世紀初頭)、あるいは同じ嗜好品であるといった関連からか、芥川龍之介による「煙草と悪魔」という短編が思い出されてきました。あの短編もまた、解釈によれば「誤配」と「セレンディピィティ」について扱った話とも云えますので・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。そして、今後もまた、どうぞよろしくお願いいたします!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設


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20210513 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

イギリス人が最初に茶に言及しているのは。日本の平戸へ来航したイギリス東インド会社の駐在員R・ウィッカムが、ミヤコの同会社駐在員に宛てた1615年6月27日付の手紙であって、そのなかで彼は、ミヤコから良質の茶を一壺送って欲しいと述べている。

 オランダ人についで、イギリス人も日本を通じて茶を知るようになったということは興味深い。だから当時は、今日のように福建語系の「ティ」と発音せずに、「チャ」または「チャ」に近い「チョオ」と発音していた。しかも彼らにとって「チャ」といえば、日本の抹茶つまり茶葉を粉末にしたものに熱湯を注いで飲むことを意味したようである。このことはさきに述べたマンデルスロが「東インド旅行記」の中でものべていたことである。それでは、いつごろからイギリス人は茶のことを「ティ」と呼ぶようになったのか。だいたいそれは1644年以後のことではないかと思われる。というのは、この年イギリス商人が厦門(アモイ)に拠点を築き、ここで中国人から直接福建語の「テー」を知りtoe→teaになってゆくのである。だから1671年に出版された「英語用語解」(グロサリ)にはまだchaという綴りで表されていた。

 ところで、いつから茶がイギリスに入ってきたか。正確なところはわからない。しかしオランダ、フランス、ドイツへ入ったのとほぼ同じころ、すなわち1630年代中頃にオランダをつうじてイギリスへも入ったと考えておいてよいだろう。ただイギリスで茶が一般的に市販されたのはかなり後の1657年、トーマス・ギャラウェイというロンドンのタバコ商でコーヒー・ハウス店主が、茶の葉を売り出し、店で茶を飲ませたのが最初であるといわれる。買ったのは上流階級であったから、値段もベラ棒に高く、一ポンド(重量)で6~10ポンドという高価な値がついていた。コーヒー・ハウスで茶が売られたといえば、ちょっと奇妙にきこえるかもしれないが、じつはコーヒーの方が茶よりも数年早く販売されていたからで、舶来の珍奇な飲み物としては、コーヒーも茶も大したちがいはなかったから、一足さきにできていたコーヒー・ハウスで茶が売り出されたのである。

 コーヒー・ハウスはいまのクラブの前身で、商人や貴族の社交場であり、海外貿易にたずさわる商人をはじめあらゆる階層の人たちが、入場料一ペンス、一杯二ペンスのコーヒーや茶を飲みながら論じあい語りあった情報交換センターであった。それは17世紀後半から18世紀はじめが最盛期であった。コーヒー・ハウスから新聞・週刊誌などのジャーナリズムや、文筆によって生計をたてる人びと、また文壇なるものも生まれたし、さらにはかの王立科学院もここから生まれた。

 このことからも知られるように、コーヒー・ハウスはイギリスの知的生産力の発展にきわめて大きな役割を果たした。最初のコーヒー・ハウスが1650年オクスフォードにできて以来、その数は急速に増加し、1683年のロンドンには、コーヒー・ハウスが約300軒もあったといわれている。コーヒー・ハウスのすべてが茶を扱っていたわけではないことはいうまでもないが、茶に関してはとくに有名であったのが「ギャラウェイ」である。「ギャラウェイ」はシティのロンバード街とコーンヒル通りに挟まれた裏通りエクスチェイジ・アレイの一角、今日バークレー銀行になっている場所であった。

 「ギャラウェイ」で売られた茶は、病気の予防と治療にとくに効くというので有名であったが、店主は1660年、片面刷りのポスターに茶の効用を記して茶の宣伝広告をはじめた。このポスターは近世イギリス広告史の草分けを飾る意味においても、重要な意味をもつものである。同時に茶に関する最初のポスターである意味でも注目すべきものである。

 現在のポスターは、簡単明瞭、一目瞭然を旨としているが、当時のものは紙面いっぱいにくどくどと効能を書き並べているのが特徴で、いまここに全文を翻訳するのはいたずらに紙面をとるだけでわずらわしい。だから要点だけの紹介にとどめるが、広告文は茶に関する一般的紹介にあたる前半と、茶の特効を記した後半の二つの部分から成っている。

 まず前半において、「茶は、古い歴史とすぐれた知能で有名な諸国民(注・・中国及び日本を指す)の間では、しばしばその重さの二倍の銀と交換されている。茶からつくられる飲み物は高い評価をうけており、これら東洋諸国へ旅行した各国の知識人の間で、茶の性質に関する調査が行われてきた。あらゆる方法で厳密に検査した結果、茶を飲めば完全に健康を保って驚くほど長生きができると、識者たちは茶の利用を勧めているのである」とした。

 後半の部分では、茶の適応症として、精力増進、頭痛、不眠、胆石、倦怠、胃弱、食欲不振、健忘症、壊血病、肺炎、下痢、風邪など十四の症状をあげている。今日のわれわれからみれば、誇大広告もいいところであるが、当時のイギリス人にとって中国や日本はすぐれた文化をもった神秘的な先進国で、茶はまさにその代表的な文化にほかならなかった。だから金持連中はもとより、誰もがいくら高い代価を支払っても、東洋の霊験あらたかな神秘的飲み物を手に入れたいと思ったであろう。当時イギリスをはじめヨーロッパ各国にほぼ同時に入ってきた舶来の飲み物として、チョコレート、コーヒー、茶の三種があるが、くすりとしての効果からいえば、カフェインの含有量の多いコーヒーの方がナルコティックスの作用が大きく、覚醒剤としての効果では茶に決してヒケをとらなかったであろうにもかかわらず、茶だけがこんなにヨーロッパ人にもてはやされたのは、彼等の東洋文化に対するコンプレックスからきているのである。茶には760年頃に書かれた陸羽の「茶経」から、日本の「茶の湯」を中心とする芸能文化、さらに茶碗、茶器などの美術工芸品から茶の入れ方、飲み方、マナーにいたるまで、長い歴史的伝統文化の輝きがある。これに対してチョコレートやコーヒーにはこうした文化の背景がない。少なくとも彼らのコンプレックスをかきたてる文化の重みに欠けていたという点が、茶と根本的に異なる点である。ついでにいえば、イギリス近代史はまさにこのコンプレックスから出発し、東洋のすぐれた文化・物産の模倣、製造、ついには東洋への攻撃的進出というかたちで展開してゆくのである。

2021年5月12日水曜日

20210512 中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」pp.374-378より抜粋

中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」

pp.374-378より抜粋

ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

 広東に近いマカオは明代、ポルトガルの海上勢力のはなやかなころ建設された植民地であり、はじめ地方官との了解の下に借地して商館を設けたのであったが、いつの間にか、それがポルトガルの領土のように変化した。オランダがかつてこの地を奪おうとして成功せず、最後までポルトガルの植民地として残り、清朝に入っても中国沿岸における唯一のヨーロッパ人居留地であった。ヨーロッパ人は広東にきて貿易することを認められたが、家族をともなって定住することは許されなかったので、貿易が終わるとマカオへ引き上げなければならなかった。

 広東における貿易は厳重な政府の統制の下に置かれた。西洋人の貿易の相手は、行商とよぶ特許商人に限られ、十三行の名があったが、この十三行商は同時に西洋人の広東滞在間の宿舎を提供した。広東の外国貿易が隆盛になるにつて行商は巨富を積み、その宿舎は豪壮な西洋式に建築されて、中国人に驚異の眼をみはらせた。

 イギリスの東インド会社がインドで覇権を獲得すると、マカオを通じてイギリスの対中国貿易が盛大になった。もっともイギリスは浙江省寧波付近に独自の根拠地を獲得しようとしたが、清朝の弾圧にあって果さず、やむなくその貿易を広東に限らなければならなくなったのである。そしてイギリスが海上を制圧し、本国の工業と植民地の資源をあわせて大産業国となると、ポルトガルが絶好の位置にマカオをもっているにもかかわらず、広東貿易でイギリスが首位を占めるようになった。そしてイギリスが中国にたいするヨーロッパ貿易の指導権を掌握するようになると、それとともに、ヨーロッパ人全体に代わって貿易方法改善の責任を負わねばならなくなった。

 中国政府の厳重な外国貿易統制、ことに行商の独占権はもっとも外国商人に不便さを感じさせた。貿易の利益は行商の独占するところとなり、さらに中国官憲にも多大の贈与を行わなければならなかった。事実、行商の一人である伍氏などは、十九世紀初頭において世界最大の富豪といわれたほどである。西洋商人と行商との間に紛争が起きても、マカオ駐在の外国官吏は中国官憲と対等の交渉を行う権利はなく、中国人民と同じ立場でわずかに歎願書を提出することが認められているにすぎなかった。

 イギリスがインドでフランスを圧倒して覇権を握った後十年、イギリス国王の特派使節マカートニーは乾隆帝のもとに派遣されて、貿易方法の改善を提議しようとした。ところが乾隆帝はこれを、イギリス王が新しく朝貢国の列に加わろうと申し込んだものと解し、その忠誠をたたえる褒詞を与えて引きさがらせた。中国の皇帝が夷狄の臣下にたいし、朝儀において寛容な措置をとってまで拝謁したのは、莫大な恩恵を施したものと思っていた。ついでナポレオン戦争の終了後、イギリスはアマーストを嘉慶帝のもとに派遣して交渉を開こうとしたが、この時清朝は謁見の際にあくまでも朝貢使として三跪九叩頭の礼を行うことを強要したので、アマーストは北京に入りながら、謁見も行わず憤然として退去したのであった。

 いろいろの不便や屈辱をこうむりながら、イギリスその他のヨーロッパ諸国が広東貿易を見切ることができなかったのは、中国には独自の特産品があったからである。なかでも中国茶は急激にヨーロッパおよび植民地に普及し、日常飲料として欠くことのできない商品となっており、貿易上の利益だけでなくこれに課する消費税が政府収入の中で巨額を占めていたことは、それがアメリカ合衆国の独立戦争の一原因になったことによって知られよう。

 イギリスの東インド会社は対中貿易においては、つねに輸入超過であり、中国の茶、絹等を購うために莫大な現銀を支払わなければならなかった。この現銀が清朝乾隆時代の全盛を現出させた原動力となって働いたことは注意すべき事実である。そこでイギリスはインドに産する綿花をもって中国貿易に対する見返り品としたが、勤勉な中国労働者はこの綿花をもって綿布を織って再輸出し、かえって大きな利益をあげることができた。これが十九世紀初頭における広東貿易の大勢であったが、まもなくヨーロッパ産業革命の波は東アジアにおし寄せて、この形勢を逆転させる時がきた。

アヘン戦争と南京条約

 広東を中心とする中国の紡績工業は、手工業的なものにすぎなかったので、イギリスのランカシャ機業が発達するとたちまちこれに圧倒されてしまった。これとともに、イギリス東インド会社が対中国貿易品として新しく輸出しはじめたアヘンは、中国人の嗜好になって急激に需要が増大した。アヘンは健康に害があるので、嘉慶年間に中国政府はしばしば禁令を出してアヘン販売を禁止したが、沿海の人民はイギリス商人と密貿易を行い、これを内地に転売するための秘密結社が勢力勢力をのばし、政府はさらにこれを取り締まるために苦心を払わなければならなかった。やがてアヘンの盛行は従来の貿易関係を逆転させ、銀塊は年々多量にアヘン購入のために流出し、中国内部には深刻な不況がおとずれ、多数の失業者を出し、このことはますます密貿易者の活躍をうながす結果を招いた。

 道光年間、政府はふたたびアヘンの禁令を厳重にしたが、中国人民を取り締まるだけでは実効をあげにくいことを悟り、広東に渡来する外国人にも禁令を及ぼそうとした。ここに林則徐の強硬手段によるアヘン商人弾圧となったが、その結果、不幸にしてイギリスとの戦争に発展し、清朝は破れて和を請わねばならなくなった。

 これまで清朝は中国だけでなく、全世界の皇帝であると自任し、中国の外国貿易は、物資が貧弱でひとりだちできない夷狄朝貢国にたいする恩恵であると自負していた。ところがこの政策を実施するにあたって乾隆帝の時には優になしえたことであっても、道光帝の時にはすでにとうていできなくなっていた世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は清朝側における実力衰微のためばかりでなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命とがあいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことからきているのであった。蒸気機関によって航行するイギリス軍艦はたやすく中国沿岸に集結され、その大砲は中国の砲台を沈黙させ、イギリス艦隊は揚子江を遮断して、中国南部より中国北部へ送る穀物輸送の途を断つことができた。半身不随となった清朝は、イギリスの提出する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである。(1842年)

 南京条約は香港をイギリスに割譲することを約したが、ここにおいて広東湾外には、西方のマカオにたいして東方に香港が自由港として開かれ、イギリスの努力・経営によって、しだいにマカオの繁栄を奪い、イギリスの商権を極東に推進する根拠地となった。日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商条約を締結して開国したのは、これより十年後であり、アヘン戦争の結果を考慮することがあってのことであった。

2021年5月11日火曜日

20210511 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.119-124より抜粋

 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」

pp.119-124より抜粋

ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018


革命は過去との激しい断絶を伴うから、革命を正当化したり、否定することは自然な反応であるだろう。しかし、そうすることによって革命は道義的賞賛と道義的非難のもやのなかに包まれてしまうのだ。だから、われわれは革命のイデオロギー的判断、とくに道義的色彩の濃い判断を、避けなくてはならない。そうすれば、革命がその国の力を飛躍的に増大させるという、単純な事実が浮かび上がってくるだろう。フランス革命はフランスの力を、ロシア革命はロシアの力を、飛躍的に増大させたのであった。中国革命も同じような視点から見なくてはならない。

 もちろん、近代の革命は普遍的な原理の上に立っているから、革命の原理が国際政治に強い衝撃を与えるという面もたしかに存在する。しかし、われわれは普遍的な原理そのものが与える衝撃と、その普遍的原理を現実の政治・経済的体制として具体化した国家が与える衝撃とを混同してはならないのだ。革命の衝撃と普通考えられているものはこの二つの混合物なのであり、それを混同することかた、革命に対する誤った対応が生まれてくるのである。

 共産主義革命の場合にも、普遍的原理であるマルクス主義が与える衝撃と、それを体現した国家、ソ連が与える衝撃とは、質的にも量的にも異なっている。前者の場合には、思想は思想の論理で動いている。しかし、思想が力の組織である国家の原理となるや否や、思想の論理に加えて、権力の論理が作用し始め、それが次第に支配的になっていくのである。革命の衝撃がこのような構造を持つものである場合、外交の扱うべき側面は疑いもなく後者である。外交の基本的な任務は、力の組織としての国家間の関係を調整することだからである。したがって、ソ連革命についても、資本主義と社会主義が対立している間は真の平和はないと、そのイデオロギーが考えていることよりも、そのイデオロギーを体現した国家ソ連が、巨大な重工業を作り上げ、ロケット部門においてアメリカと激しく競争しているという事実、中東欧諸国をその支配下に置き、その経済統合にかなり成功してきたという事実、そして、重工業の発達と対照的に、消費財部門は貧弱で、とくに農業部門は完全に行詰っているという事実の方が、ソ連の対外政策を現実に動かすより重要な要因となっているのである。

 中国の場合も、この事情は基本的に同様である。したがって、われわれの視点は、力の組織としての国家、中共が中国共産革命によってどのように変わったかということに集められなくてはならないのである。

 そのように考えた場合、中共革命のもっとも重要な意義は、中国が民族革命を行うための組織的な基礎を、何回かの失敗のあとに与えたことにある。中国における民族国家の形成と産業革命、すなわち、一般に近代化と言われている現象が軌道にのるまでは、きわめて困難な、そして長期間にわたる過程が必要であった。その理由は中国の広大さと中国の伝統的な政治構造のゆるやかさにある。

 すなわち、中国には文明圏はあったが、近代的な意味での民族国家は存在しなかった。中国の一般民衆の政治に対する意識は、「日出デテ耕シ、日入リテヤスム、井ヲ鑿ッテ飲ミ、田ヲ耕シテ食ウ、帝力、我ニ於テ何カアランヤ」という有名な言葉に現れている通り、無関心の一語に尽きた。その無関心の上に皇帝を頂点とする官僚機構が表面的に乗っかっていたのであり、その最下端は県吏であって、村落まで及んでいなかった。そして、官僚制と村落の一般民衆とを結んでいたのは、土紳と呼ばれる富農階級であって、彼らが地方の実権を握っていたのである。この地方分権が清朝末に至って、皇帝の権力が弱まるとともにますます強まり、ついに軍閥の時代においてその極に達したことは周知の通りである。

 このように権力構造をそのままにしておいてなされた近代化の試みが失敗したのは不思議ではない。それは西洋文明の輸入のはやい海岸線沿いと揚子江沿岸に、外国資本を借り入れ作られた工場などを生み出したにとどまった。新しく作られた工場は中国の家族制度と結び付いて閥族化していったし、どちらにしても、海岸地帯の工業化は内陸の大多数の中国国民と密接に結びついてはいなかった。国民党の指導者としての蒋介石の業績を評価することはむつかしいし、とくに彼がこの地方の権力構造に手を触れようとしたかどうかについては意見が分かれている。しかし、いずれにしても、日本が中国に侵略を開始したときには、地方の権力構造は変わっていなかったのである。

 しかし、日本軍とのゲリラ戦を通じて、毛沢東の率いる中国共産党は農村に基礎を置く軍隊を作ることに成功した。毛沢東は日本が降伏したときには、百万の軍隊を指揮していたが、それは中国の歴史上最初の、村落に根を下した権力の組織であったのである。それが、いわば根なし草の蒋介石の軍隊を破ったのは当然であった。第二次世界大戦終了当時、中共が世界第四位の軍隊を持っていたことは見逃しえない事実である。こうして、中国の北部において生まれた権力の組織的な基礎は内戦における中共の勝利によって、全中国に拡大された。それによってはじめて、中国は近代的な意味における民族国家となったのであり、産業革命を強力に推進することができるようになったのである。

 この事実は、力の闘争である国際政治における中国の位置を理解する上にきわめて重要である。国家の力を構成するものは、表面的には軍事力や経済力に見える。しかし、その基礎をなすものは民族国家という形の、組織的な基礎なのである。近代の国際関係の歴史をきわめて巨視的に見るならば、権力に、広範で強力な組織的な基礎を与えることに成功した国が強大化して行ったことが理解されるであろう。その意味で、近代史は民族主義の勝利の歴史なのである。

 近代初頭のヨーロッパにおける強国、スペイン、フランス、イギリスはすべて、その地理的・歴史的条件から、民族国家の形成にいち早く成功した国であった。そして、この三つの国が十七世紀かた十八世紀にかけて権力闘争の主役となり、やがてスペインは脱落し、イギリスとフランスがその他の王朝国家をまじえて、長期にわたる権力闘争を展開したのであった。この権力闘争は一八一五年のウィーン会議において均衡を見出したが、それはある意味で民族主義と王政との均衡であった。フランスとイギリスそれ自身が、民族主義の原則によって貫かれたものはなかったのである。

 しかし、やがて民族主義の第二の波が、産業革命と結びついて起こってくる。そして、きわめて多数の国民を参加させながら、民族主義的感情と、進歩したテクノロジーによって国家の統一を保つことが可能になったのであった。それは国家権力を飛躍的に増大させることになった。そして、その結果として力の不均衡が起ってきたのである。

 まず、民族主義と産業主義を結びつけることに成功した国と、それを行っていない国との間にいちじるしい力の不均衡が生ずる。それは、帝国主義を生む基本的原因となった。そのころ福沢諭吉は、西洋文明をとり入れなければ国の独立を保つことはできないと主張し、古い伝統を固守する中国と朝鮮については、「我国は隣国の開明を持て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」として「脱亜論」を唱えた。それは福沢を批判する材料とされてきたが、しかし、福沢が当時の世界における力の不均衡とその原因を正しく捉えており、いわばやむをえない方法として「脱亜論」を主張したことに注目するとき、明治の日本が置かれていた立場の困難性と悲劇性を示すものと考えるべきではないだろうか。

2021年5月10日月曜日

20210510 左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」pp.190-192より抜粋

 左右社刊 大西巨人著「日本人論争 大西巨人回想」

pp.190-192より抜粋

ISBN-10 : 4865281029
ISBN-13 : 978-4865281026

小作小説「神聖喜劇」の中で、私は、日本軍隊について(延いては日本国家一般について)、「累々たる無責任な体系、膨大な責任不在の機構」というようなことを書いた。また、小作エッセイ「俗情との結託」の中で、私は、日本軍隊について、「その真意においては、決して「特殊の境涯」でも「別世界」でもなく、最も濃密かつ圧縮的に日本の半封建的絶対主義性・帝国主義反動性を実現せる典型的な国家の部分であって、しかも爾余の社会と密接な内面的連関性を持てる「地帯」であった。」と書いた。すなわち、それは、「日本軍隊が、掛けても「真空地帯」などではなく、日本の国家および社会の圧縮典型である。」という意味である。「俗情との結託」なり「神聖喜劇」なりの「新日本文学」誌上発表時、私は全然知らなかったが、丸山眞男著「超国家主義の論理と心理」(岩波書店1946年「世界」所収)の中に、やはり日本軍隊に関する「累々たる無責任の体型、膨大な責任不存在の機構」を読んでいなかったこと、その類の言表の存在を知らなかったことを、言語表現公表者として、たいそう不行き届きにかえりみ思った。日本国家一般を「累々たつ無責任の体系、膨大な責任不存在の機構」と把握することは、君主制否定ならびに共和制樹立の具現を切望することにほかならぬ。戦後の一時期、この「切望」は適えられるかにみえた。しかし、それは、事実として適えられなかった。それどころか、なかんずくここ数年来、日本国家一般は、戦争前・戦争中なみの「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」に堕しつつある。

 ところで、原水爆開発後の今日、人類の存続的・繁栄的な未来は、「国家の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使と」を「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことの上にしかあり得ない。日本国家・社会が戦争前・戦争中なみの「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」に堕することは、人類の滅亡的・衰退的な成り行きを用意することになる。いま言われている「グローバリゼーション」のいかがわしい正体は、これであり、先述「切望」の成就こそが、真正の「グローバリゼーション」なのである。

「丸山眞男 自由について/七つの問答(聞き手、鶴見俊輔/北沢恒彦/塩沢由典)」は、昨年(2005年)7月、編集グループSUREから刊行せられた。その中で、丸山眞男は、「セクトなんかだって、二つしか言葉を知らない。「異議なし」と「ナンセンス」ですよ。悲しいかな、これもやっぱり満場一致制です。「異議なし」のはずないんですよ。ほんとうなら、人間が集まれば異議があるほうが当り前でしょ。だから、ぼくは日本の無責任体制ってのを自分が論じたもの(「超国家主義の論理と心理」)について、あらためて近ごろ、自己批判してるの。あそこでは、これを戦争中の病理現象と見たけれども、実際はそうじゃなくて、もっと根が深い。」と語っている。

 決して「真空地帯」ではない日本軍隊の日常生活現実(「知りません」禁止。「忘れました」強制)から演繹した私の「累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構」は、むろん毛ほども「これを戦争中の病理現象」と見立ててはいなかった。そこに、丸山眞男と私との異同が、実存する。

 いずれにせよ、日本国家一般に関する「君主制否定ならびに共和政樹立の切望」は、依然として日本平民の絶大な課題・当為である。


2021年5月9日日曜日

20210509 1525記事への到達:今後しばらくの期間の記事作成方針について

今回の記事投稿により、総投稿記事が1525に到達します。そうしますと、去る3月後半に達成した1500記事から、次の目標として定めた1600記事までの道程の四分の一もしくは25%にまで至ったということになりますが、ここまでの道程は、どちらかというと順調であったように思われます。そして、次の四分の一もしくは25%の到達は、来る6月中のなるべく早い日に出来ればと考えています。

また、さきほど、ここ一、二カ月に投稿した記事毎の閲覧者数を見ていますと、ある程度コンスタントに閲覧者数を集めているのは、どうしものかオリジナルの記事が多く、他方で、書籍内記述を引用した記事は、閲覧者数に関しては当たり外れが大きい傾向があるように見受けられました。

とはいえ、先日まで、しばらくの期間、書籍からの引用部を記事として投稿してきましたが、その期間における閲覧者数は特に少ないということもなく、また、私としても、それなりに充実していたことから、あるいは、今後もまた、こうした期間を設けてみても良いのではないかとも思われるところです。

そういえば、以前、しばらくの期間100~200記事程度を書籍内記述の引用にて作成、投稿してみるのも興味深いといったことを述べたことがありましたが、これは自分の文章作成に対して悪影響がない限りにおいては、くわえて、今現在、ある程度の期間、記事作成を継続した後の試みとしては、そこまで悪くないのではないかと、あらためて思われました。

そのため、今後は、しばらくの期間は、この方針のもとで記事作成を行っていきたいと思います。また、そこまでの厳密さは求めませんが、投稿記事の三分の一か四分の一程度は、オリジナルの記事としたいとも考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。そして、今後もまた、どうぞよろしくお願いいたします!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設


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2021年5月8日土曜日

20210508 既知の領域から未知の領域への分岐点としての「歴史」(人文社会科学)

あまり集中していない読書の際も、その文章の字面を目で追っていますと、脳裏に不図、何か考えが浮かんできたり、あるいは、他の書籍記述が想起されることが度々あります。いや、ある程度の年齢になってきてからの読書とは、大体のところ、読み進めるのと同時進行にて、こうした活動を半ば無意識でありながらも、行っているのではないでしょうか?

そのため、現在となっては、他の考えが浮かんできたり、他の記述などを思い出さない方が純粋に読書を楽しんでいるようにすら感じられます。そして、そうした読書の仕方が可能であるのは、おそらく、全く見知らぬ領域・分野での読書の時であろうと思われますが、これはこれで、言葉や用語、言い回しなどに慣れるまで読み込むのが大変であり、また、どうにかそれらに慣れてきた頃になりますと、今度は、そのある程度慣れてきた言語、言い回しの世界から生じてくる考え、他の記述などが想起されるようになり、その時点で既に純粋な楽しみとしての読書は出来なくなっているようにも思われるのです・・(苦笑)。

いや、しかし、そもそも読書というものは、純粋に現在読んでいる書籍だけを楽しむというよりも、読者の過去の、さまざまな読書経験と、現在、生じつつある読書経験が内面にて化合し、反応することにより、何か新たなものが生まれることに、その「楽しみ」といったものがあるのではないかとも思われるのです。

そこから、やはり、冒頭に述べた、半ば無意識ながらの参照的とも云える活動こそが、読書をより楽しく、また、深みのあるものにしてくれているのだと思われてくるわけですが、他方で、そこからの分野的な広がり、展開がないというもまた、面白くありませんので、時には全く知らない分野の書籍を読んでみたくなるところですが、まさに、この時点においての読む書籍の選択が、かなり重要であるのではないかと私は考えます。

つまり、自分がそれまである程度慣れ親しんだ要素がないと、徐々に読み続けるのが苦しくなり、他方で、未知の領域としての記述が文中にある程度ないと、それは既定の読書路線からの展開や広がりといった新たな要素はなく、その意味においては「つまらない」と云えます・・。

そして、そうした状況において比較的選択し易いと思われるのが、何であれ「歴史」を扱ったものであると思われます。如何なるものであれ、そこに至るまでには歴史的経緯があり、そして、それを土台として現在の状況が成立していると云えますので、既知の分野から未知の分野への、読書のはじめの分岐点あるいは乗換え場所として適当であるのは「歴史」ではないでしょうか?

また、当初、既知と思われていた「歴史」についてを扱った書籍を読み進めていますと次第に、あまり知らない領域に入っていることが度々ありますが、しかし、そうであっても、当初の既知の要素との比較により、相対的な理解は一応担保されていることから「全く知らない」という状態とは異なることから、多くの場合、そこを基点として、どうにか読み進めることが出来ると云えます。そして、そこから、なおも読み進めて行きますと、次第に当初の「あまり知らない」という状態が多少変化していることに気が付くということもあるのではないでしょうか・・。

そして、そうしたところにも、歴史のみならず、さまざまな人文社会科学系諸学問のナマモノである人間の精神に対する価値といったものがあるように思われますが、さて如何でしょうか?

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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20210507 インプットとアウトプットの均衡について・・

 このGWは毎日、割と長い距離を歩いたように思います。そしてまた、読書の方も普段と比べて進んだように思われます。他方、ブログ記事作成の方は、毎日の更新とは行かずに、また、書籍からの引用部を記事としたものもあり、あまり熱心には行わなかったと云えます・・。

これに特に理由はありませんが、ただ、私の場合、読書が好調に進んでいる時は、あまり進んで記事作成は行わないようであり、これが、さきに述べました記事の更新頻度と関連があると思われるところです。

たしかに以前、鹿児島在住時の頃は、わずかに残っていた「若さ」の勢いにまかせて、現在よりも多く読書をしていた記憶がありますが、他方、アウトプットに関しては、その読書量と比べますと、相対的に乏しく、今現在よりも少なかったと云えます・・。

そして、そうしたインプットの方に偏る読書は、若い頃は特に問題ないのかもしれませんが、ある程度の年齢に差し掛かってきますと、どうしたものか、アウトプットの方もある程度行っていないと、それらのバランスが悪くなり、どこかしら体に不調が生じてくるように思われるのです。

また、当ブログを始めたきっかけも、こうした不均衡の状態を脱するためであったと云え、くわえて、同時期に複数の方々からブログの作成を勧められたのも、そうした状況を察したためであったのではないかと思われるところです。あるいはそれが「若さ」を使い果たして、なおもインプットのみに偏っていると陥る状態であるのかもしれません・・。

もしも、現在の私が、かつての私のような状態の方と出会った場合、そうしたことを察することが出来るのかとは、正直なところ、なかなか難しいのではないかと思われるところです・・。

ともあれ、私の場合については、やはり幸運であったのだと思います。あの時点でブログ記事の作成を勧められず、思い付いていなければ、間違いなく、現在の私はいなくて、あるいは、生きてすらいないのではないかとも思われます・・。

そして、2015年から今現在に至るまで、どうにか書き続けていますが、一体どの程度まで書き続けますと、記事作成・アウトプットなしでも体に不調は生じなくなるのでしょうか?(ここまできますと、おそらく精神的な要因も何かあるのではないでしょうか?)あるいは、次の目標は1600記事と先日設定しましたが、そのあたりまで書き続けますと、何かまた、心境よりも大きな「精神」に変化は生じてくるのでしょうか?

とはいえ、それでも、2015年の頃と比べますと、当時感じていた、また、ブログ作成の「原動力」ともなっていた焦燥感や強迫観念は、明らかに減衰したと云えますが、その次には、それらが減衰した後においても記事作成を続けることが出来る「原動力」の方が現在においては、より重要となり、そして、それを試しているのが1000記事到達以降から今に至るまでの期間であると云えます。

また今後、あまり想定はしていませんが、当ブログが1600記事から、さらに2000記事まで継続することが出来ましたら、何かしら面白い、自分の新たな特徴を見出すことが出来るのではないかとも思われます・・(笑)。

ともあれ、今のところは次の1600記事に向けて、黙々と投稿を続けることが大事ではあるのですが・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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