2015年7月18日土曜日

ロバート・グレーヴス著「この私、クラウディウス」みすず書房刊pp.113-115より抜粋

ウィンストン・チャーチルの戦争についての記述と併せて読むと面白いかもしれません。

『リウィウスは言った。
「ポッリオの問題は、歴史を記述する際に洗練された詩的な感情をおさえねばならんと思い込んでいるところにある。作中人物を動かすときも意識して生気がないようにしてしまうし、その人物に語らせるときにも、わざとかれらの口から能弁を奪ってしまうのだ。」
ポッリオは言った。
「そうとも。詩は詩、弁論術は弁論術、そして歴史は歴史だ。これを混同はできぬ」
「混同できぬ?私にはできるよ」リウィウスは言った。
「叙事詩的主題は詩の占有物だから歴史に用いてはならぬとか、決戦前夜の将軍に、それが弁論術の占有物だという理由から、能弁な演説をさせてはならぬというのかね」
「それこそわしの言いたいところじゃ。
実際に何が起こったか、人々がいかに生きそして死んでいったか、その人々が何を言い何をしたか、それをありのままに記録することこそ真の歴史であって、叙事詩的主題はいたずらに記録を歪めるだけだ。貴殿の将軍の演説は、なるほど弁論術としては一級品かもしれんが、まったく歴史的ではない。どれをとっても真実のかけらもないばかりか、不適切ですらある。わしは他の誰よりも決戦前夜の将軍の演説をこの耳で聞いてきた人間だが、その当の将軍たち、殊にカエサルとアントニウスは弁論術の手本ともなる能弁家であったにも係らず、何よりもまず良き軍人であったから、軍団兵の前でそうした弁論術の手本を披露したりはしなかった。
将軍たちが兵士に向って語るときには、普通の会話のように話したのであって、決して演説をぶったわけではない。
そもそもカエサルがファルサリアの合戦の前にどのように話したか貴殿は御存知かな?かれは兵士に対して、妻子のことやローマの神殿のこと、はてはローマの過去の赫々たる戦歴を思い起こせなどと言ったか?断じて否である!カエサルは片手に例のばかでかい人参、片手には硬い兵営のパンを持って松の切株の上に立ち、もぐもぐ口を動かしながらその合間に冗談を飛ばしたのだ。冗談といっても婉曲なものではなく、そのものずばりの生々しい奴で、話題は自分の自堕落な生き方に比べれば、まだしもポンペイウスの暮らしはずっと清潔だというものだった。カエサルはあの人参を使って兵士たちの腹の皮がよじれるほど大笑いさせたものよ。今でも憶えておるよ、ポンペイウスが大ポンペイウスと呼ばれるようになった由来をあのばかでかい人参を使って説明するきわどい冗談があったなあ。カエサルがどうしてアレクサンドリアの市場(バザール)で髪の毛を失う羽目に陥ったかという話はもっときわどいものだった。まあこの少年の前では話せんが、たとえ聞かせてやっても君はカエサルの兵営で鍛えられた者ではないから話の要点は分かろうはずがない。いったいカエサルは翌日の戦さのことなど話の締めくくりにこう言っただけだ―「嗚呼哀れなるかな、ポンペイウス、カエサルの軍隊に刃向かうとは。運の尽きというものだ。」「貴殿は著作の中でこうしたことは一切記しておらないのではないか」
「もちろん一般公開した版にはな」とポッリオが言った。「わしとて馬鹿ではない。それでも知りたいというのなら、私家版の補足篇を貸してやろうか。ちょうど書き上げたばかりだからな。しかし改めてあれを読むまでもない、わしが直に話してやろうから。
知っての通り、カエサルには物真似の才があった。かれは今まさに剣の上に(あの人参を剣に見立てて―尤もかじりさしではあったが)わが身を投ぜんとするポンペイウスの臨終の言葉を披露してみせたのだ。何ゆえ悪が正義に勝利するのか、ポンペイウスの名において不死の神々を痛罵したのだ。兵士たちは腹を抱えて大笑いさ。それからカエサルは声の限りに叫んだ。「ポンペイウスはこういうが、これは本当ではなかろうか?できるものなら否定してみるがいい、ふしだらな餓鬼めら!」そしてかじりさしの人参を兵士たちの前で振り回したのだ。その時の兵の怒号たるや!カエサルの兵ほどのものは後にも先にもなかった。連中がガリア戦役勝利のときに歌っていた歌を憶えているかな。「俺たちと一緒に禿頭の助平どののお帰りだローマ人よ、女房を家に閉じ込めておけ」

「これこれ、わが友ポッリオよ、今議論しているのはカエサルの道徳についてではなく、いかなるものが正しい歴史記述かという問題であったはずですぞ」とリウィウスは言った。」
この私、クラウディウス
この私、クラウディウス
ロバート・グレーヴス






ベネデット・クローチェ著 「思考としての歴史と行動としての歴史 」フィロソフィア双書23 未来社 pp.40-44より抜粋

歴史とは歴史的な判断であると述べるだけでは充分ではなく、さらに付け加えてこう述べる必要がある、すなわち、あらゆる判断は歴史的な判断である、あるいは全くのところ歴史そのものなのだ、と。

判断とは主語と述語の関係のことであるとして、主語すなわち判断される事実は、それがどのような事実であれ、つねに歴史的な事実、生成しつつあるもの、進行中の過程なのであって、実在の世界においては不動の事実といったものは見出されもしなければ想像もできないのである。

たとえば、わたしがわたしの足の前に見ている物体は石ころであり、それはわたしの足音を聞いても小鳥のように自分から飛び去ることはないであろうから、足か杖で除けるのがよいであろう、というような一目瞭然の判断的知覚(もし判断が働いていないならば、それは知覚でもないのであって、盲目のもの言わぬ感覚であるにすぎない)にしてから、やはり歴史的な判断であることに変わりはない。なぜなら、この石ころも、本当を言えば、自分を解体させようとする諸力に対抗し、たとえ屈服するにしても易々とは屈服しまいとしている一個の進行中の過程なのであり、わたしの判断はそれの歴史の一局面にかかわっていることになるからである。

しかしまたここで停止してしまってもまだ駄目なのであって、さらにいま一歩を進めて、つぎのように結論しなければならない、すなわち、歴史的判断は単に種々ある認識のうちの一つの階級にとどまるものではなく、認識そのもの、認識の分野全体を隈なく満たし、それ以外の認識形式の存在する余地を残していない、そのような認識の形式なのである、と。実際、あらゆる具体的な認識は、歴史的判断と同等に、生すなわち行動に結びついたものであらざるをえない

それは行動の一時停止あるいは待機の契機なのであって、そもそも行動というものは、さきにも述べたように、状況から出立して、それに規定され特殊化された形態において生起せざるをえないわけであるが、その肝腎の状況をそれが明確に見通すことができないでいるとき、その自らの前に立ちはだかる障害を除去しようとして、認識の行為は生じてくるのである。

認識のための認識などといったものは、一部の者たちが想像するところとは異なって、なんら貴族的なものでもなければ高尚なものでもなく、実のところ、白痴の、またわれわれ各人のうちに潜む白痴的契機の、呆けた暇つぶしのようなものであるばかりか、そもそも、実践の刺激がなくなれば、認識の質量そのもの、そしてまた目的の失われてしまうのであるから、本質的に存在しえないのであり、それゆえ現実に起こることもない。そして芸術や思索の仕事にたずさわる者が自分を取り巻く世界から身を隔絶し、卑俗な実践的対立―実践的であるかぎりにおいて卑俗な対立―には慎重を持して参加しないことを救済の道であると考えて、そのような態度をとろうと意図している知識人たちは、こうしてほかでもなく、知性の死を意図する結果になっていることに気がついていないのである。

労働も苦悩もなく、なんら克服すべき障害に出会うこともない楽園の生活においては、およそ思考の動機そのものが消失してしまっているのであるから、人は思考することもないのであり、また、活動的にして制作的な直観は実践的な闘争と情念との世界を自らのうちに包み込んだところに成立するものであるから、厳密には、人は直観することすらないのである。

数学という補助手段をもついわゆる自然科学もまた、生きようとする実践的欲求にもとづいて成立しており、その欲求を充足することを目指していることについても、これを論証するのに労力は要さない。というのも、この信念は近代初頭におけるその偉大な鼓吹者フランシス・ベイコンその人によってすでに人々の頭の中に植えつけられていたからである。しかし、それにしても、自然科学が真の認識となってこの有益な任務を果たすのは、それの過程のどの時点においてなのであろうか。
抽象を行い、分類を作り、それが法則と呼ぶところの分類された諸事物間の関係を立て、これらの法則を数学的定式を与える、等々のことをしている時点においてでないことはたしかである。これらはすべて、既得の知識を保存したり新たに獲得し直したりすることを目指した接近の作業ではあるが、認識の行為ではない。
医学上の資料の一切、病気のあらゆる種類とそれぞれの特徴とを書物にまとめたり記憶したりして所有することはできても、これだけでは、たしかにモンテーニュの言葉であったと思うが、「なるほどガレノスはいるが、しかし患者がいない」わけであって、数多く編纂されてきている世界史のうちのどれか一冊を所蔵していたり、その内容を洩らさず記憶していても、もろもろの事件の刺激の下でそれらの知識がその静止した硬直状態を破って躍動し始め、思考力が政治的その他の状況を思考するようになる瞬間が到来するまでは、歴史についてほとんど何一つ認識していることにはならないのと同様、たとえ医学の専門家といえども、直接に患者を臨床し、まさしくその患者が、そしてただ一人の患者のみが、かくかくしかじかにして、またまくかくしかじかの状態の下で患っている病気を、そしてそのとき、それはもはや一般化された定式としての病気ではなくて、或る一つの病気の具体的にして個的な現実なのであるがそのような病気の具体的にして個的な現実を直観し理解するときが到来するまでは、知性がまだ理解していないか充分には理解していない個々の事例から出発する。
そして、長い複雑な一連の作業を遂行し、こうして準備のできたところで知性をそれら個々の事例の前にふたたび連れてゆき、それらと直接に交わらせて、それらについての正しい判断を形成させるのである。
小林秀雄「科学する心」

Kenneth J. Anusavice 著 「Phillips Science of Dental Materials」Eleventh Edition  Saunders刊  pp.608-609より抜粋

Soldering of Dental Alloys

Substrate Metal for Soldering

Metal-joining operations are usually divided into three categories: brazing, soldering, and welding. The definitions seem remarkably similar. The primary difference between soldering and brazing requires a heating temperature above 450 °C (840 °F) but below the solidus temperature of the substrate metal(s) the difference between these two processes and welding is that welding may no require a filler metal and the metal surfaces to joined will fuse locally.

For dental applications the term soldering is commonly used to describe the build-up of contact area of joining of two metal parts such as components of a fixed partial denture or an intraoral appliance.
The soldering process involves the substrate metal(s) to be joined, a filler metal (usually called solder), a flux, and a heat source.
All are equally important, and the role of each must be taken into consideration to solder metal components successfully.

Some of the terms and definitions listed in the key term section are modified versions of those provided in the Metals Handbook, Desk Edition (1992). The terms and definitions that follow serve as a reference to differentiate among brazing, soldering, and welding. Because the liquidus temperature of the filler metal is the only difference between the terms brazing and soldering, the term soldering is used subsequently as a general term to describe both processes.
The substrate metal, sometimes known as the basis metal, is the original pure metal or alloy that is prepared for joining to another substrate metal or alloy.
Before casting became the popular method of producing metal prosthetic structures, many appliances were constructed by forming shapes from wrought plate and wire and then soldering these pieces together to produce the required configuration.

Dental casting alloys that can be soldered or welded include gold-based, silver-based, palladium-based, nickel-based, cobalt-based, and titanium-based alloys, as well as commercially pure titanium. Note that principles for soldering or welding are the same for any any substrate metal. Thus the individual who performs the soldering or welding procedure for cleaning the surfaces to allow intimate contact with molten filler metal, the most compatible filler metal to be used, and the heating temperature that will ensure adequate flow of filler metal or fusion of adjacent surfaces if weldering is performed. The composition of the substrate metal determines its melting range. As previously noted, the the soldering should take place below the solidus temperature of the substrate metal(s). The composition of the substrate metal determines the oxide that forms on surface during heating, and, if used, a flux must be able to reduce this oxide, inhibit further oxidation, or facilitate its removal. The composition and cleanliness of the substrate metal and the temperature to which it is heated determine the wettability of the substrate by the molten solder alloy. The solder chosen must wet the metal at as low a contact angle as possible to ensure wetting of the joint area. To prevent flow onto adjacent areas, an antiflux such as rouge mixed with chloroform can be painted on the areas before heating the assembly.
The manufacture or supplier is responsible for providing explicit instruction for eliminating the oxide layer during the joining process. The instructions for every alloy should also include a recommendation for the appropriate filler metal (solder) and flux. For alloys that will be bonded to porcelain, this recommendation should include filler metals for both prefiring (presolder) and postfiring (postsolder), and appropriate flux for the substrate alloy. As stated earlier in this chapter, the technical term for joining metals before firing of the veneering ceramic layers is presoldering (or prebrazing), and the technical term for joining metals after the veneering process is postsoldering (or postbrazing).

Phillips' Science of Dental Materials
ISBN-10: 0721693873
ISBN-13: 978-0721693873

Paul Kennedy著 「The rise and fall of the great powers」 Vintage Books刊 近代日本に関しての記述抜粋

Japan

Italy was a marginal member of the great power system in 1890, but Japan wasn’t even in the club. For centuries it had been ruled by a decentralized feudal oligarchy consisting of territorial lords (daimyo) and an aristocratic caste of warriors (samurai). Hampered by the absence of natural resources and by a mountainous terrain that left only 20percent of its land suitable for cultivation, Japan lacked all of the customary prerequisites for economic development. Isolated from the rest of the world by a complex language with no close relatives and an intense consciousness of cultural uniqueness, the Japanese people remained inward-looking and resistant to foreign influences well into the second half of the nineteenth century. For all these reasons, Japan seemed destined to remain politically immature, economically back-ward, and militarily important in world power terms. Yet within two generations it had become a major player in the international politics of Far East.


 The cause of this transformation, effected by the Meiji Restoration from 1868 onward, was the determination of influential members of the Japanese elite to avoid being dominated and colonized by the west, as seemed to be happening elsewhere in Asia, even if the reform measures to be taken involved the scrapping of the feudal order and the bitter opposition on the samurai clans. Japan had to be modernized not because individual entrepreneurs wished it, but because the state needed it. After the early opposition had been crushed, modernization proceeded with a dirigisme and commitment which makes the efforts of Colbert or Frederick the Great pale by comparison. A new constitution, based upon the Prusso-German model, was established. The legal system was reformed. The educational system was vastly expanded, so that the country achieved an exceptionally high literacy rate. The calendar was changed. Dress was changed. A modern banking system was evolved. Experts were brought in from Britain’s Royal Navy to advise upon the creation of an up-to-date Japanese fleet, and from the Prussian general staff to assist in the modernization of the army. Japanese officers were sent to western military and naval academies; modern weapons were purchased from abroad, although a native armaments industry was also established. The state encouraged the creation of a railway network, telegraphs, and shipping lines; it worked in conjunction with emerging Japanese entrepreneurs to develop heavy industry, iron, steel, and shipbuilding, as well as to modernize textile production. Government subsidies were employed to benefit exporters, to especially of silk and textiles, soared. Behind all this lay the impressive political commitment to realize the national slogan Fukoku kyohei (rich country, with strong army). For the Japanese economic power and military/naval power went hand in hand.

 But all this took time and the handicaps remained severe. Although the urban population more than doubled between 1890 and 1913, numbers engaged on the land remained about the same. Even on the eve of the First World War, over three-fifth of the Japanese population was engaged in agriculture, forestry, and fishing; and despite all the many improvements in farming techniques, the mountainous countryside and the small size of most holdings prevented an agricultural revolution on say, the British model. With such a bottom heavy agricultural base, all comparisons of Japan’s industrial potential or of per capita levels of industrialization were bound to show it at or close to the lower end of the Great Power lists (see Tables 14 and 17 above). While its pre-1914 industrial spurt can clearly be detected in the large rise of its energy consumption from modern fuels and in the increase in its share of world manufacturing production, it was still deficient in many other areas. Its iron and steel output was small, and it relied heavily upon imports. In the same way, although its shipbuilding industry was greatly expanded, it still some ordered some warship elsewhere. It also was very short of capital, needing to borrow increasing amounts from abroad but never having enough to invest in industry, in infrastructure, and in the armed services. Economically, it had performed miracles to become the only nonwestern state to go through an industrial revolution in the age of high imperialism; yet still remained, compared to Britain, the United States, and Germany, a industrial and financial lightweight.

 Two further factors, however, aided Japan’s rise to Great Power status and help to explain why it surpassed, for example, Italy. The first was geographical isolation. The nearby continental shore was held by nothing more threatening than the decaying Chinese Empire. And while China, Manchuria, and (even more alarming) Korea might fall into the hands of another Great Power, geography had placed Japan far closer to those lands than any one of the other imperialists states-as Russia was to find to its discomfort when it tried to supply an army along six thousand miles of railway in 1904-1905, and as the British and American navies were to discover several decades later as they wrestled with logistical problems involved in the relief of the Philippines, Hong Kong, and Malaya. Assuming a steady Japanese growth in East Asia, it would only be by the most extreme endeavors that any other major state could prevent Japan from becoming the predominant power there in the course of time.

 The second factor was moral. It seems indisputable that the strong Japanese sense of cultural uniqueness, the traditions of emperor worship and veneration of the state, the samurai ethos of military honor and valor, the emphasis upon discipline and fortitude, produced a political culture at once fiercely patriotic an unlikely to be deterred by sacrifices and reinforced the Japanese impulses to expand into Greater Asia, for strategical security as well as market and raw materials. This was reflected in the successful military and naval campaigning against China in 1894, when those two countries quarreled over their claims in Korea. On land and sea, the better-equipped Japanese forces seemed driven by a will to succeed. At the end of that war, the threats of the triple intervention by Russia, France, and Germany compelled an embittered Japanese government to withdraw its claims to Port Arthur and Liaotung Peninsula, but that merely increased Tokyo’s determination to try again later. Few, if any, in the government dissented from Baron Hayashi’s grim conclusion.


If new warships are considered necessary we must, at any cost, build them: if the organization of our army is inadequate we must start rectifying it from now; if need be, our entire military system must be changed…

 At present Japan must keep calm and sit tight, so as to lull suspicious nurtured against her; during this time the foundations of national power must be consolidated; and we must watch and wait for the opportunity in the Orient that will surely come one day. When this day arrives, Japan will decide her own fate…


  Its time for revenge came ten years later, when its Korean and Manchurian ambitions clashed with those of czarist Russia. While naval experts were impressed by Admiral Togo’s fleet when it destroyed the Russian ships at the decisive battle of Tsushima, it was the general bearing of Japanese society which struck other observers. The surprise strike at Port Arthur (a habit begun in the 1894 China conflict, and revived in 1941) was applauded in the West, as was enthusiasm of Japanese nationalist opinion for an outright victory, whatever the cost. More remarkable still seemed the performance of Japan’s officers and men in the land battles around Port Arthur and Mukden, where ten of thousands of soldiers were lost as they charged across minefields, over barbed wire, and through a hail of machine-gun fire before conquering the Russian trenches. The samurai spirit, it seemed, could secure battlefield victories with the bayonet even in the age of mass industrialized warfare. If, as all the contemporary military experts concluded, morale and discipline were still vital prerequisites of national power, Japan was rich in those resources.

 Even then, however, Japan was not a full-fledged Great Power. Japan had been fortunate to have fought an even more backward China and czarist Russia which was military top-heavy and disadvantaged by the immense distance between St. Petersburg and the Far East. Further more, the Anglo-Japanese Alliance of 1902 had allowed it to fight on its home ground without interference from third powers. Its navy had relied upon British-built battleships, its army upon Krupp guns. Most important of all, it had found the immense costs of the war impossible to finance from its own resources and yet had been able to rely upon loans floated in the United states and Britain. As it turned out, Japan was close to bankruptcy by the end of 1905, when the peace negotiations with Russia got under way. That may not have been able to rely upon loans floated in the United States and Britain. As it turned out, Japan was close to bankruptcy by the end of 1905, when the peace negotiations with Russia got under way. The may not have been obvious to the Tokyo public, Japan’s armed forces glorified and admired, its economy able to recover, and its status as a Great Power(albeit a regional one) admitted in the Far East without considering its response; but whether it could expand further without provoking reaction from the more established Great Powers was not all clear.

The Rise and Fall of the Great Powers 

ISBN-10: 0679720197
ISBN-13: 978-0679720195

2012年撮影

2015年7月15日水曜日

野矢茂樹著「ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 (ちくま学芸文庫)より抜粋


1-1「論理哲学論考」はまちがっているのか
「論理哲学論考」―この著作をわれわれは以下、単に「論考」と呼ぶ。
その序文の終わり近く、ウィトゲンシュタインは次のように記している。

問題はその本質において最終的に解決された。

問題とは、哲学問題であり、哲学問題のすべてである。

まともなひとであれば、こんな結論をもつというだけで、この本のどこかにまちがいがあるに違いないと判断するだろう。しかもこの直前にはこう述べてもいる。

本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。

「論考」の出版は1922年であるが、序文には1918年とある。夏である。ウィトゲンシュタインは1889年の春に生まれているから、この序文を書いたときは29歳だったいうことになる。

若きウィトゲンシュタインには失礼だが、侵しがたく決定的に真であり、かつ重要であるような思想が存在すると信じるほど私はもう若くない。
他方、この著作は侵しがたく決定的に重要であると私は信じている。ということは、この著作はどこかでまちがっているということだ。

実際、ウィトゲンシュタイン自身が後に「論考」を自己批判するに至っている。
そこで、ウィトゲンシュタインの哲学は大きく分けて前期と後期の二つに区分される。あるいはもう少し細く、その間に中期ないし移行期がはさまれて三つに区分される。
いずれにせよ、「論考」は前期ウィトゲンシュタインの著作であり、それを批判し、乗り越えて後期ウィトゲンシュタインの思索が展開されることになる。
現実から可能性へ

2-1「世界」と「論理空間」
別にこれから「論考」の「本文を一行ずつ読んでいこうというわけではないが、何はともあれ、やはり冒頭の一文から見ておこう。「論考」は次の文から始められる。
一 世界は成立していることがらの総体である。
「成立していることがら」というのは、たとえばウィトゲンシュタインはウィーン生まれであるとか、ウィトゲンシュタインは四人の兄と三人の姉をもつ末っ子であるといった、この現実世界の事実のことである。これに対して、「可能性としては成立することもありえたのに、現実には成立しなかったこと」というのもある。たとえば、ウィトゲンシュタインは結婚したことがあるとか、ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士であったといったことである。どちらも、可能性としては考えられるが、現実には事実ではない。
そこで、「世界は成立していることがらの総体である」と言われる。ということは、ここにおいてウィトゲンシュタインは、「世界」という語をあくまでも「現実世界」を意味するようなものとして導入しているのである。この点をまず抑えておかねばならない。想像の世界、たんに思考されただけの世界は「世界」ではない。
そうすると気になるのは、思考された世界である。つまり、あくまでも現実的なものとしての「世界」は「成立している事柄の総体」であるが、それに対して、現実には成立しなかったことも合わせ、それら成立したこと・しなかったことをともにもつような「成立しうることがらの総体」、すなわち、「世界をその一部として含み、世界よりも大きい何ものか。
ウィトゲンシュタインは、それを「論理空間」と呼ぶ。「論理空間」なるものがいったいどのようなものなのかは、まだここで明確に論じることはできない。後でゆっくり主題的に検討することにして、今のところは、現実性を受け持つものとしての「世界」と、それに対して可能性を受け持つものとしての「論理空間」とを、次のように漠然と対置させて据えておくことにしよう。

世界・・・現実に成立していることの総体

論理空間・可能性として成立しうることの総体

「論理空間」は、「論考」において最上級の重要概念である。前章の話を思い出してほしい。「論考」の目指すところは思考の限界を画定することであった。我々にはどれほどのことが考えられるのか。それが「論考」の根本問題である。

他方、論理空間とは、可能性として成立しうることの総体、つまり、世界のあり方の可能性として我々が考えられるかぎりのすべてである。

とすれば、まさに論理空間のあり方を明らかにすることは、思考の限界を画定することに直接結びつくものとなるだろう。もっと単刀直入に言うならばその分少しラフな言い方になるが、論理空間の限界こそ、思考の限界にほかならない。

かくして、まずめざされるべきは「論理空間」のあり方を明確にすることである。
つまり、可能性の総体とはどのようにあるのか。
そして、そこにたどりつくためにわれわれが立っている、その出発点のここ、それが現実のこの「世界」にほかならない。つまり、「成立していることがらの総体」としての現実世界。我々はそこにいる。そして、そこから可能性へと歩み出ようとしている。

ここで「論考」が、徹底的に現実に立ちつつ可能性を捉えようとしているという点は強調しておくべきだろう。
ここには、我々が可能性について哲学的に考察するときに不可欠の感受性がある。
あたりまえの物言いになってしまうが、現実化していない可能性など、現実には何一つ存在しない。そしてわれわれはこの現実世界を生きるしかない。
しかし、それでもわれわれは現象を取り巻く広大な可能性を了解している。
こんなこともありえた、あんなこともありうる。そんな無数の可能性の中のひとつが、この現実なのである。しかし、可能性が現実を「取り巻く」とは、どういうことなのだろうか。もちろん「取り巻く」という言い方は比喩にほかならない。そして、日常的なこの何気ない比喩の実質を見定めるのは、哲学の仕事である。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
ISBN-10: 4480089810
ISBN-13: 978-4480089816

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著 丘沢静也訳 青土社刊 「反哲学的断章―文化と価値」pp.65-66より抜粋

「哲学ってぜんぜん進歩しないんですね」とか、「哲学って、その昔、ギリシャ人が頭を悩ませていたのと同じ問題で、今も頭を悩ませてるんでしょう」とか。
何度も何度も聞かされてきたセリフである。
ところで、そういうセリフを口にする人は、なぜそうなのか、理由がわかっていないのだ。その理由とは、われわれの言語が相変わらず同じであり続けているからであり、われわれの言語が何度も何度もわれわれを同じ問題へと誘惑するからである。
「sein(存在する、・・・である)」という動詞は「食べる」とか「飲む」と似た働きをするようだが、この「存在する、・・である」という動詞がある限り、また「同一の」とか「真の」とか「偽の」とか「可能な」という形容詞がある限り、また、時間の流れとか、空間のひろがりとかが語られるかぎり・・・、何度も何度も、同じような謎めいた困難にぶつかることになるだろう。そして、どんな説明によっても解決できない問題を、見つめることになるだろう。ちなみに、こういう堂々めぐりは、この世ならざるものへの望みを満足させてくれる。というのも、「人間の知性の限界」を見ているのだと思うことによって、当然、限界のむこうまで見えているのだと思うからである。
「哲学者たちは、プラトンが近づいた以上には「実在」の意味に近づいてはいない・・。」という英語を読む。
なんと奇妙な事態だろう。
それでは、プラトンがずいぶん遠くまで行けた、ということになってしまう。
あるいは、私たちがプラトンより遠くに行けなかった、ということになってしまう。
どちらにしても、なんと奇妙な話だろう。
プラトンがそんなに利口だったから、ということだろうか。
MS111 133:24.8.1931
反哲学的断章―文化と価値
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
ISBN-10: 4791757327
ISBN-13: 978-4791757329







2015年7月14日火曜日

20150714 角山榮著「新しい歴史像を探し求めて」ミネルヴァ書房刊pp.103-108より抜粋

ちなみに戦国時代末期、堺より南の和歌山(紀伊)にて、おそらく堺にて製造された大量の火縄銃を装備した国人、土豪連合組織(雑賀衆)が存在し、この地を統治していたことは大変興味深く、同じく当時商人連合組織(堺衆、会合衆)が統治していた堺と何らかの共通性があるのではないかと考えさせられます。そして、その共通性とは大阪湾沿岸南部地域だけに限定されるものなのか?

あるいは、瀬戸内東部地域あたりまで延長可能であるのか?は同じく大変興味深く、同時代の九州、山陽、山陰、四国、近畿、そして戦国の群雄を数多く輩出した東海地域と比較した場合、何らかの特徴の存在が示唆されます。

そして、さらに同上地域の古代における銅鐸の意匠、古墳造営における傾向などとも何らかの相関を見出すことが可能かもしれません。また、それは現代において見出すことができる地域性においても同様であるかもしれません。

以上を踏まえ、以下、書籍からの抜粋となります。

「アジア経済の問題は、中国と日本がアジア特産品である生糸と茶の世界市場の販売競争においてどちらが勝利を占めるかという問題ではない。むしろ世界市場に組み込まれた中国・日本その他アジア各国・各地域に西洋諸国から激流のごとく流入してくる近代文明の製品に対して、中国・日本はどう対応したか、という問題こそ、その後のアジアの未来像と深く関わる点において重要な課題ではないだろうか。

それでは人々の欲望をかきたて近代文明の製品とは、どんなものであり、どんな特徴を持っていたか。それはひと口でいえば産業革命以降、旧文明にはなかった日常生活便宜品がつぎつぎと開発され生産普及したことである。例えば日常生活のなかに入ってきたものとして、マッチや石鹸、洋傘、懐中時計、石油ランプ、ミシンなどが挙げられるが、これらはその使用が制限されていた明治維新前の身分制の制約から解放された商品であるだけに人々の欲望をかきたてた。これら近代文明の製品に共通している特徴は、第一に機能性、効率性、便利性である。第二には脱身分制、脱宗教制、脱階級性、脱民族性、第三には資本主義的「商品」であるという特徴を持っていた。従って現代に至るまでなお続いているのである

例えば、火打石に代わるマッチは、火打石よりも早くしかもかんたんに火を起こすことができるし、石鹸は、糠袋や軽石よりも手軽に身体が洗えるし、便利で効率がよい。だからマッチや石鹸などは身分や宗教、民族を越えて金さえあれば誰でも購入しその恩恵に与ることのできる「商品」として提供され、すべてのものにとって憧れの的になったのである。西洋式生活便宜品革命が開国とともに日本・中国・東南アジアへもたらされたのである。

そのとき日本と中国とではまったく異なった対応をとったことは注目すべきである。例えばマッチは開国・明治維新とともにスウェーデンマッチを中心とする欧州のマッチが日本に入ってきた。中国では日本より少し早く欧州マッチの輸入が始まった。従って上海、香港といった都市はたちまち欧州製マッチが充ち溢れる状態になった。ところが日本では洋式マッチを自分自身で開発・製造する方策をとった。明治九年(1876)四月、清水誠が東京に新火遂社を設立して早速製造を開始した。これを先頭にマッチ製造業がぱっと関西や中部地方にも拡大し、数年のうちに国内市場はほぼ完全に日本製マッチによって掌握された。そして明治十三年以降には、輸出が本格的になる一方、輸入マッチは数量、金額ともに急激に減少した。この点が中国と日本の技術力・経済力における大きな相違点であることに注目すべきである。この差が生まれたのはいつ頃であったかはのちほど述べる。

こうして日本は国内市場から西洋製マッチを駆逐した上に、輸出をつうじて釜山・仁川といった朝鮮、それに上海、香港を中心とする中国市場に進出、そこでオーストリア、ドイツ、スウェーデンのマッチと激しい競争を演じることになった。市場競争のポイントは値段であった。

当時の日本の労働力は、ヨーロッパ諸国と比べてはるかに安かった。また当時の朝鮮や中国の消費者の生活水準も低かったので、商品の品質がいくら良質であっても値段の高い西洋のマッチは敬遠された。少々粗悪であっても値段が安い日本のマッチの方に引かれた。西洋のマッチはマッチ一箱でないと買えない。それを敢えてマッチの軸、一本、二本いくらで買っていたのが中国の貧しい消費者であった。それに対して安い日本製マッチなら、欧州マッチ軸一本、二本の値で一箱分買えたのである。こうして日本のマッチは西洋のマッチとの競争に打ち勝ち、どんどんシェアを伸ばしていき、明治二十年には香港の市場は日本マッチによって占められるまでに到ったのである。

そうしたなかで中国マッチ工業が日本より約十年ほど遅れて台頭してくるのであるが、製造技術および材料の一部は日本からの伝授あるいは購入というかたちで、しかも日本以下的賃金労働者による製造で中国マッチは日本マッチを独占市場から退出させてゆくのである。

いま見てきたマッチのケースは、他の石鹸、洋傘、石油ランプなどいわゆる洋式雑貨工業や近代的紡績業などについてもいえることであって、アジアの近代化、工業化の展開のなかで、日本が辿った道、あるいは果たした役割は、ヨーロッパ諸国が産業革命(テイク・オフ=工業化)の発電所であったとすれば、強い電流が直接アジアへ配電されても落差が余りにも大きくて、ときと場所によっては危険な状態であった。そこで日本が果たした役割は変電所的役割というか、いったんは日本においてアジアの人たちがより買い易い、使い易い商品に転化して提供する役割を果たしたのである。日本はこうしてアジアの工業化の先頭に立ち、中国およびASEAN諸国はマッチ工業において日本からの技術と材料の提供、模倣をつうじて発展したように、日本はアジアの変電所的役割をつうじてリーダーシップをとることになる。

日本はいつ中国文明から脱出して独自の文化を開拓したのか。

それでは日本が西洋物質文明の製品をいとも簡単にとはいわないまでも、たちどころにその模造品を製作する才能はいつどのようにして修得したのか。日本は長い間、中国文明の影響下にあって中国文明のフレームワークから脱出することができなかったが、福沢諭吉のいう日本の脱亜入欧は明治維新後のことといわれている。しかし果たしてそうかというと、少なくとも堺の火縄銃の大量生産に関しては十六世紀中頃まで遡ることができる。堺の刀鍛冶が火縄銃を見ただけで、数年のちにそれが欧州製か東南アジア製かについては未解決ではあるかれども製作に成功したことは事実である。それも全国の武将から堺に集まってきた大量の火縄銃注文に対し、現代でいうところの部品互換方式によって大量生産で対応したことには驚かされる。

十六世紀のヨーロッパでは、鉄砲・大砲の生産はふつう一品注文生産といって、一人の鍛冶工が部品のすべてを作って組み立てたといわれるが、堺においては、鉄砲鍛冶が社会的分業によって部品を生産に、それを組み立てたのである。因みに、社会的分業とは具体的にいうと、火縄銃の銃身をつくる鉄砲鍛冶と、台座をつくる台師、および引き金をつくる金具師の三つの社会的分業から構成されていた。といっても、正確なサイズによる規制の徹底したシステムの存在がなければできるはずがない。まして鉄砲が武器として機能するためには銃身にこめられる弾丸のサイズと銃身の口径に狂いがあってはならない。

経営史の教科書では部品互換方式による大量生産方式は、十九世紀中頃、アメリカがコルトのピストル、マコーミックの刈取機、シンガーのミシンの生産に採用されたのが世界で最初と記されている。それが十六世紀堺で鉄砲生産に採用されていたのであれば、アメリカより三百年も早いということになる。鉄砲の生産において十六世紀日本は中国より進んでいただけでなく、天下をわがものにした秀吉に到っては、朝鮮から明までその支配下に置こうとして兵を朝鮮半島に進めたことは、結果として失敗であったにしても、日本の脱中華文明、とくに中国王朝への朝貢貿易はまさに十六世紀中頃には消えていたのであって、その日本台頭の動きは中華的アジアの歴史に大きな転機をもたらすことになった。

その中心的地位を占め、独自の技術、技術創造の役割を果たしたのが、実は堺であった。大阪はまだ存在しなかったから、本来なら京都が中心的役割を果たすべき地位にあったはずである。
しかしフランシスコ・ザビエルが1550年に堺に来て、都の有力者に布教の許可を得る目的で逢うべく、折角上京したにもかかわらず、応仁の乱以後の戦火で荒れ果てた姿に絶望して、在京数日にして帰退したように、京都の現状はとても文化的活動に主導的役割を演じる状況にはなかった。」
角山榮





ウィンストン・チャーチルの戦争についての記述 (これは現代日本にとって興味深い記述であると思います。)

『戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレクサンダーやシーザーやナポレオンが軍隊を勝利に導き、兵士たちと危険を分かち合いながら馬で戦場をかけめぐり、緊張したわずか数時間の中で彼等の決断と行動が帝国の運命を決するというようなことは、もうなくなったのだ。これからは彼等は政府省庁のような安全で静かでものうい事務室に書記官たちに取り囲まれてすわり、一方何千という兵士たちが電話一本で機械の力で殺され息の根を止められるのだ。我々は既に最後の偉大なる総指揮官たちを見てしまった。おそらく彼等は国際的な大決戦が始まる前に絶滅してしまったのだろう。そして勝利の女神は、その様な殺戮を大規模な形で組織した勤勉な英雄と不本意な結婚をすることだろう。

 自己の生存が危うくなっていると信じた諸国は、その生存を確保する為にあらゆる手段を使うことになんの制約を受けなくなる、ということは確かである。そしておそらく、いや確かに、やがてそれら諸国が自由に使えるようになる手段の中に、大規模な限界のない、そして多分一度発動されたら制御不可能となるような破壊のための機関と工程が含まれるだろう。


 人類がこのような立場に置かれたことは以前にはなかった。美徳をいくぶんか高めたり、より賢明な導きを受けたりするようなこともなしに、人類はそれによって彼等自身の絶滅を確実に達成できるような道具を、初めてその手にしたのである。これこそが人類の過去の栄光と苦労の全てが彼等を導き最後に到達させた人類の運命の特質なのである。人類は彼等の新しい責任について思い巡らし熟考するが良い。死が気をつけをして立っている。彼はまさに働こうとして従順に待ち受けている。まさに諸国民をそっくり消し去ってしまおうとして、そしてもし呼ばれれば文明の残したものを再建の望みなきまでに粉砕しようとして待ち受けている。死は、誘惑に弱く当惑しきった存在であり、長いことその犠牲者であったが今この時期だけその主人になっている人間からの命令を待っているのである。』




2015年7月4日土曜日

銅鐸について 4 和歌山県における出土銅鐸の分布および傾向


和歌山県を主とした紀伊半島西部地域は我が国有数の銅鐸出土地域の一つであり、これまでに伝和歌山出土を含めると、およそ30の遺跡から40個程の出土例がある。また、他の多くの銅鐸出土例を持つ他府県として島根、兵庫、徳島、大阪、愛知などが挙げられる。

これら地域から出土する銅鐸には、各々地域間にて共通性・相違性が存在し、それは製作地、製作時期等により生じたものと考えられる。

一例として1996年に島根県大原郡加茂町(加茂岩倉遺跡)にて39個の銅鐸が出土したが、その内の4個が1970年に和歌山県和歌山市大田黒田遺跡にて出土した旧式小型の「聞く銅鐸」と同じ鋳型にて作製された物であることが判明したことが挙げられる。

銅鐸の鋳造に用いられる鋳型は旧式小型の「聞く銅鐸」の場合、石製であり数回の複製は技術的に可能である。一方、新式大型の「見る銅鐸」の場合、鋳型は土砂製となり、土砂製の鋳型を用いて鋳造する場合、溶湯合金を鋳込み、鋳造体を得る際に鋳型を破砕することから同一の鋳型にて複製することは不可能であると云える。

紀伊半島西部地域における銅鐸の出土分布の様相は、紀ノ川から富田川までの県内主要河川流域の周辺丘陵地からの出土例が大半であると云える。

また今日の海浜地域・内陸山間地域からの出土例がなく、また、その新旧別の出土傾向は、紀北地域に旧式小型の「聞く銅鐸」の出土例の割合が多く、南下に随い新式大型の「見る銅鐸」の出土例の割合が増加する傾向が認められる。

紀ノ川流域にて出土した銅鐸は、和歌山市周辺を中心に7個であり、そのうち新式大型の「見る銅鐸」は破砕状態にて1個のみである。前述の地域内での出土銅鐸総数が40個程のうちの7個が地域内最大の水稲耕作可耕地を含む紀ノ川流域にて出土していることは銅鐸が水稲耕作社会における祭器であったことを併せて考えると、その全体に占める割合が過分に小さく、また同時に大変興味深い現象であるといえる。

日高川流域にて出土した銅鐸は、御坊市を中心に計7個であり、その内訳は旧式小型の「聞く銅鐸」が4個、新式大型の「見る銅鐸」が3個であることから、この地域は、南下に随い新式大型の占める割合が増加する紀伊半島西部地域内における新旧様式が均衡並存していると云える。
また、特徴的なこととして、18世紀に道成寺境内(現日高川町)から新式大型の「見る銅鐸」が出土したこと、さらに1999年御坊市にて発掘された堅田遺跡において現在日本最古である紀元前200年頃の青銅を溶かした溶炉遺構、ヤリガンナの鋳型等が瀬戸内をはじめとする西日本各地、朝鮮半島系の様式を持つ土器、遺物を伴い出土したことが挙げられる。

これらのことから伝承、物語等の地域における根が深いこと、現在の都鄙感覚を用いてこの様な現象を検討、考察することの困難さを示し、同時にこれは我が国における水稲耕作の伝来、伝播経路と矛盾しないものであるともいえる。
南部川流域にて出土した銅鐸は計6個であり、これらは概ね新式大型の「見る銅鐸」に分類される。この地域にておいて特徴的なことは、前述の紀ノ川、日高川流域における新旧銅鐸の出土傾向からさらに変化、逆転していることである。

また、みなべ町西本庄の通称雨乞い山頂上付近にて新式大型の「見る銅鐸」の出土例があり、その出土地は隣接する須賀神社のかつての社叢に含まれており、これは地域の歴史を考える上で極めて示唆に富むことであると考える。