ISBN-10 : 4003228626
ISBN-13 : 978-4003228623
T・E・ローレンス大佐(1888~1935。イギリスの考古学者・軍人・作家)に初めて会ったとき、彼はたまたま夜会服に正装していた。あれは1920年の2月か3月のことだったに違いない。オールソウルズ・カレッジでは賓客接待の夜で、そのさい彼は7年間の特別研究員に任命された。夜会服姿は目に注意が集中するが、ローレンスの目はたちまち私をとらえた。人工の光で見てみてもはっとするほど青い目で、彼は話し相手の目をけっして見ようとはせず、衣服や手足の目録をつくりでもするかのようにちらちらと上下に動かす。私は偶然の客にすぎず、居合わせた少数の人々は顔見知りだった。ローレンスは神学の欽定講座担当教授(オクスフォード・ケンブリッジ両大学、およびスコットランドの大学に設けられた講座。ヘンリー八世の創設。その後の同様な講座担当教授にもいう)とシリアのギリシャ哲学者が初期キリスト教に与えた影響、わけてもガリラヤ湖にほど近いガダラ大学の重要性について話し合っており、使徒ヤコブが書簡のなかでガダラの哲学者の一人(私はムナサルクスだと思う)を引用したと言った。彼はさらに、メレアグロス(紀元前一世紀ごろのシリア出身の詩人・哲学者)や、ギリシャの詞華集に寄稿したシリア系ギリシャ人について話し、彼らの詩の英訳を出版するつもりだと言った。私はここで話に加わり、メレアグロスが一度いささか非ギリシャ的な使い方をした明けの明星のイメージに触れた。ローレンスは私に顔を向け、「さては詩人のロバート・グレーヴスだな?君の本は1917年にエジプトで読んだけど、すごくいいと思ったよ」と言った。
私はどぎまぎしたが、悪い気はしなかった。彼はさっそく若い詩人について訊きはじめた。最近の詩の事情に疎いのでね、と言うので、私は知るかぎりのことを伝えた。
ローレンスはエミール・ファイサル(1906?~75)サウディアラビア国王〈1964-75〉の顧問を務めた平和会議を終えてまもないころで、「叡智の七つの柱」の第二稿に手を入れているところだった。特別研究員の地位は、アラビアの反乱の正規の歴史を書くことを条件に彼に与えられたのである。私は午前中の講義の合間に彼の部屋をよく訪れた。しかし彼は夜に仕事をして夜明けに寝るので、11時前や11時半という時間はさけた。彼自身は酒を飲まなかったが、用務員にオーディット・エールの入った銀製ゴブレットを持たせてよく使いによこした。オーディット・エールは大学で醸造されてオーディット・デイ(会計検査日)などに飲まれたところからその名がついた、大麦湯のような口当たりのビールだが強かった。シュレスヴィヒ‐ホルシュタインのアルバート王子が新築された博物館の開館式に招かれてオクスフォード大学に来たことがあり、式のまえにオールソウルズ・カレッジで食事をとったさいオーディット・エールの口当たりのよさに騙されてつい飲みすぎ、午後遅く帰るときにはブラインドを引いた車で駅まで送られるはめになった。ローレンスの戦時中の活動についてはっきりしたことは何も知らない。もっとも兄のフィリップが1915年にカイロの情報局で彼と一緒で、トルコの戦力の分析に当たっていたことはわかっている。反乱に関しては訊いたことがない。彼がその話題を好まないように見えたことが一つ‐ロウエル・トーマス(1892-1981。アメリカの著述家・ジャーナリスト・旅行家。第一次大戦で出会ったT・E・ローレンスについて書いた「アラビアのローレンスと共に」〈1924〉がベストセラーになった。その後長くラジオのニュースキャスターとして活躍〈1930-76〉が現在、「アラビアのローレンス」についてアメリカで講義している‐もう一つは私と彼の間に戦争のことは口にしないという申し合わせがあったためだ。何よりも私たちは戦争の後遺症に苦しんでおり、オクスフォード大学を現実とも思えぬほどの憩いの場として楽しんでいた。だから、フルスキャップにぎっしり書かれた「叡智の七つの柱」の長い原稿は居間のテーブルにいつも積んであったけれども、私は好奇心をおさえた。彼はときおり、戦前にメソポタミアで行った考古学の仕事について話した。しかし、私たちがいちばん論じ合ったのは詩、それも現代詩だった。彼は、詩人と聞けばだれかれの別なく会いたがり、私を通じて知りあった代表的な詩人の中には、シーグフリード・サスーン、エドマンド・ブランデン、メイスフィールド、それから後日のことになるが、トーマス・ハーディ(1840-1928。イギリスの詩人・小説家)らがいた。彼は素直に詩人を羨み、詩人にはなにか理解すれば得るところのある秘密のようなものがある。という思いこみがあった。彼はチャールズ・ダウディ(1843‐1926。イギリスの作家・旅行家。作品に「アラビア砂漠旅行記」など)を崇拝し、第二の父と慕っていたアシュモリアン博物館のホーガス館長を通じて紹介してもらった。彼には詩人を特殊な生き方や考え方の体現者というより、むしろ技術的な言葉の魔術師と考えているようなふしがあったが、私にはこれに反論するだけの知識がなかった。その後何年かたっていくらか分かってきたときには、説得するのは難しいと気がついた。彼にとっては、絵画、彫刻、音楽、詩などは類似した活動で、使われる媒体が違っているだけだ。