2025年3月26日水曜日

20250325 日高川流域の歴史と文化について(3/27加筆)

【概要】 
 日高川は、紀伊半島中央部に位置し、紀伊山地に属する護摩壇山を水源とし、山々を縫うように西へ流れ、和歌山県御坊市にて紀伊水道へ注ぐ。上流には険しい山地が広がり、中流には河岸段丘や扇状地、そして下流には沖積平野と海岸段丘が展開する流域一帯は、多様な自然環境と豊富な資源に恵まれ、縄文時代から現代に至るまで、流域に住む人々の暮らしの基盤となってきた。
 縄文時代の流域では、早くから人々の活動が為され、狩猟・採集・漁労を中心とした生活が山間部から沿海部に至るまで広く展開されていた。時代が下るにつれて、定住化が進展していった。特に縄文後期以降は、河川周辺や河岸段丘などに集落が多く営まれるようになり、そして生活空間は広がっていった。
 弥生時代に入ると、水稲耕作の普及により定住化はさらに進み、集落の規模や構造にも変化が認められるようになる。そして、水稲耕作の進化により生産が増加する一方で、集落間での交流や競合も次第に活発となり、社会構造の複雑化や高地性集落といった防御の要素が地域に現れ始めるようになる。この時期の流域は、周辺地域との結びつきが強まり、また広域な文化圏にも組み込まれるようになった。
 古墳時代になると、特に下流域には多くの古墳が造営されるようになり、こうした古墳の分布から、流域を拠点とした政治・経済的中心の存在があったことが認められる。また、それら古墳の造営様式や副葬品などの文化的要素は、周辺地域との技術的・文化的交流により形成されたものであり、当流域が広域な文化ネットワークに属していたことが理解出来る。
 奈良時代には、律令国家の体制が地方へと及び、流域も行政区画に組み込まれていく。郡制の整備により、役所や官人の存在が地域に定着し、条里制による土地支配や神社祭祀の制度化も進展した。この時代、仏教も浸透し、寺院や火葬墓が営まれるようになり、政治と信仰が結びついた社会の枠組みが構築されていく。
 平安時代には、荘園制の展開とともに、流域の土地は貴族や寺社の支配下に置かれ、農業生産が経済の中核を占めるようになる。川と海を結ぶ地理的条件を活かして、物資の集積や輸送の要地として港町が形成され、日高川は内陸と外海を結ぶ重要な経済動脈としての役割を担うようになる。このように、地域社会は単なる農村にとどまらず、交易や流通、信仰を包摂した多機能な構造へと変容していった。
 鎌倉・室町時代には、武士階級の台頭により、地域支配のあり方が大きく変化する。土着の武士(国人)たちは、山間部や流域に拠点を築き、自立的な政治勢力を形成していく。一方、地域の寺院や城館は権力の象徴となった。こうして地域社会は、政治や信仰が融合した独自の秩序を形成していった。この間も川と港を基盤とした物資の流通は衰えることなく、地域の内と外をつなぐ重要な経路として存続していた。
 戦国時代には、流域も紀伊国をめぐる争乱の波に巻き込まれることになるが、そうした不安定な状況の中でも、地域の農業技術や治水の知恵は培われ、安定した生産基盤が維持された。流域での川港などの拠点は、軍事・経済的にも利用され、再び戦略的な要衝としてその存在感を示すようになる。
 江戸時代には、紀州藩による統治のもとで流域にも安定がもたらされ、農業とともに林業・海運がさらに発展する。山間部では木材生産が盛んになり、伐採された材は川を利用して筏として下流へと運ばれた。川と連携する港町では商業が発展して物流の要所として藩内外との経済的つながりを深めていった。
 明治以降の近代化のなかで、流域も行政制度や交通網の整備が進められた。こうして、従来の水運・海運に加えて陸路が加わることで、流域の中心地は新たな交通・経済の拠点としての性格を強めるようになる。やがて、戦後の高度経済成長期以降は、都市への人口流出や産業構造の変化により、地域は過疎化や経済的停滞といった現在にも続く課題を抱えるようになる。一方、近年では自然環境や歴史的資源を活かした地域振興や文化財保全への取り組みも進められ、持続可能な地域社会のあり方が模索されている。
 このように、日高川流域もまた、自然環境と人間活動が絶えず相互に影響し合いつつ、縄文時代から現代にいたるまでの歴史を紡いできた。河川と海の接点にあるという地理的特性のもとで、多様な文化が交錯し展開してきたこの地域は、今なお、その豊かな歴史文化を現代に伝えている。

【縄文時代】
 日高川流域における縄文時代の遺跡群は、当時の自然環境や人々の暮らしを考察するうえで重要な手がかりとなる。特に下流域・沿海部に位置する川辺町や御坊市には、縄文時代当時、深い入り江(潟湖)が形成されていたと推測され、その地形に沿って複数の縄文遺跡が分布している。
 上流域では、田辺市龍神村に所在する湯ノ又遺跡がある。これは日高川左岸(北岸)の河岸段丘上での宅地造成中に発見されたもので、縄文時代中期から後期にかけての土器片や、粘板岩製および砂岩製の磨製石斧などの石器類が出土している。
 中流域の日高川町では、三十木地区の下流に位置し、日高川が大きく蛇行する佐井地区の北側河岸段丘上に大芝遺跡が所在する。当遺跡は、1953年(昭和28年)の紀州大水害後の復旧作業中に石器や土器が発見されたことにより明らかとなり、その後発掘調査が実施された。これまでの調査により確認された主な遺構・遺物には、縄文時代後期(約4,400年前)の竪穴式住居跡、石斧・石鏃などの石器類、深鉢や浅鉢などの土器が含まれる。特筆すべきは、竪穴式住居が13棟確認されており、これは和歌山県内で発掘調査された縄文遺跡としては最多棟数である。また、住居跡については今後の調査によってさらに増加する可能性も指摘されている。加えて、食料や道具の廃棄に用いられたとみられるゴミ捨て穴や、木の実などを貯蔵していたと考えられる貯蔵穴も確認されている。出土した土器の中には、東海地方や関東地方に広く分布する型式のものも含まれており、広域的な文化交流を示唆する重要な資料と評価されている。
 下流域の川辺町には、三百瀬・松瀬・入野・和佐・石浦などの縄文遺跡が所在し、対岸の御坊市には上野口遺跡が存在する。これらの遺跡は河岸段丘上に立地していたが、1953年(昭和28年)の大水害によって破壊され、多くの遺物が流出したことで、遺跡の存在が明らかとなった。松瀬遺跡は標高約25メートルの段丘上に位置し、縄文前期末から晩期末にかけての多様な土器が出土している。石器類は主にグレーチャート製で、石鏃・石匙・石錘・石斧などが確認されている。和佐遺跡は標高約18メートルに位置し、勾玉をはじめとする装身具や、石器類・土器片が多数出土している。そのほか、美浜町田井地区の斉津呂遺跡からは磨製石斧や石鏃が、塩屋町北塩屋の東大人遺跡ではナイフ形石器が、また、名田町の野島・壁川崎・馬地遺跡からは多種の石器類が出土しており、これらも含めて日高川流域における縄文時代の人々の営みの広がりを物語っている。
 まとめとして、こうした多様な遺跡の存在は、縄文時代においてすでに日高川流域が人々の移動や他地域との交易・交流の拠点として機能していたことを示唆している。換言すれば、中山間地域から沿海部に至るまで、変化に富んだ自然環境を有する日高川流域は、縄文の人々に多様な生活資源と舞台を提供していたと云えよう。その意味で、流域に点在する縄文遺跡とその出土物は、紀伊半島における縄文文化の地域的特性と、列島規模で展開された文化的ネットワークの両側面を考察するうえでの重要な資料であると云える。

【弥生時代】
 縄文時代においては、上・中・下各流域にて集落が営まれていた日高川流域であるが、縄文後期からは定住化が進み、やがて弥生時代に至り水稲耕作を基盤とした社会が普及して主流になると、集落は下流域に集中するようになる。こうした時代の流れを象徴するのが1999年に発掘された御坊市湯川町財部に所在する堅田遺跡であると云える。当遺跡は、弥生時代前期にはじまる環濠集落であり、我が国最古級とされる青銅器「ヤリガンナ」の鋳型や、鋳造するための溶炉遺構が出土したことで注目を集めた。鋳型は砂岩製であり、鋳造時の高温の溶湯による黒変が認められる。溶炉は楕円形に掘られた基礎上にカマド状の炉を築いた構造であり、当時としては高度な技術が用いられていた。これらの発見から、堅田遺跡が単に水稲耕作を基盤とした集落ではなく、鋳銅による金属器の生産拠点でもあったことがわかる。従来、我が国の金属文化の伝播は、朝鮮半島から九州北部に齎され、そこを起点として山陽・山陰方面へと伝播・展開していったと考えられていたが、堅田遺跡での鋳銅遺構の発見はこの定説に再考を迫るものと云える。他の鋳銅遺構が発見されたものとして佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡が挙げられるが、当遺跡は伝播元である朝鮮半島からも近く、遺跡内の鋳銅遺構については、およそ紀元前100年と考えられているが、堅田遺跡のそれは紀元前200年ほどとされており、現在までに発見された鋳銅遺跡としては最古段階のものと云える。くわえて、当遺跡から紀北、大和、和泉、伊勢、三河西部など各地から齎されたと考えられる土器、土器片なども複数出土しており、そこから当時、列島東西にわたる広域な交易ネットワークの存在が示唆され、また、そのなかで堅田遺跡は鋳銅遺構の存在から、重要な位置を占めていたと推察される。また、こうした広域なネットワークは、同時代の墓制にも影響を与えたと考えられ、日高川下流域では弥生時代前期には海岸砂丘上の土壙墓が多かったが、中期以降からは、家族墓的な傾向が強い方形周溝墓が造営された。具体例として、美浜町の吉原遺跡からは、こうした弥生時代の墓制の変遷が土壙墓や周溝墓の分布や構造などから認められる。また、御坊市塩屋町の海に突き出た半島状に位置する尾ノ崎遺跡では、方形周溝墓が18基確認されており、その中には前方後方形のものが含まれる。これは古墳時代に特徴的な前方後円墳への発展の様相を考えさせるものであり、墓制の変遷とともに、被葬者の階層分化・明確化が示唆される。そして、吉原・尾ノ崎両遺跡に共通して見られるのは墓壙内への土器の副葬である。壷や甕が墓壙の壁際に配置される形式が主流であり、大型墓壙では、破砕された土器片が埋土に混在する例も見られる。こうした副葬品の存在は葬送儀礼への意識の変化・深化を示すものと考えられる。ともあれ、以上のことから、弥生時代当時の日高川下流域は、列島において先進的な地域であったとは云える。

【銅鐸について】
 弥生時代の日高川流域での遺跡は下流域に集中しており、特に御坊市域では、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての土器片が法徳寺遺跡および東郷遺跡から出土している。 
 また、日高川水系の斉川中流域、すなわちJR紀勢線御坊駅周辺に広がる標高約6メートルの沖積平野一帯には、複数の遺跡が所在しており、これらは弥生時代から古墳時代、さらに奈良時代にかけて継続して営まれていたと推定される。特に、亀山の東南斜面(標高約70メートル前後)では、土地の開墾に伴い、弥生式土器が広範囲に散布して出土している。この斜面の尾根北側からは、銅鐸3口が破砕された状態で出土しており、これらは「朝日谷銅鐸」と呼ばれている。出土は、1937(昭和12)年2月、亀山山頂から北東に延びる尾根の開墾作業中に3口の銅鐸は重なり合った状態で発見された。いずれも高さ20センチに満たず、装飾性に乏しい小型の素朴な様式を呈しており、「聞く銅鐸」に分類される。これは、紀伊半島西部における銅鐸出土例としては最も古い部類に含まれる。また、当銅鐸出土地周辺からは壺型・甕型の弥生土器が多数出土しており、これらの様相から、当該地は弥生中期から後期にかけての高地性集落の存在を裏付ける根拠となる。加えて、サヌカイト製の有柄石鏃や柱状片刃石斧などの出土もあり、当時の生活文化の様相が示唆される。しかしまた、当地域における銅鐸出土例はこれにとどまらず、1939(昭和14)年、御坊駅と道成寺の間にある小溝から小銅鐸が発見されている。これは上部を欠損した状態であったが、これも高さ20センチほどの小型のものであり、先述、3口の朝日谷銅鐸と同様、古段階のものと云える。 また、日高川町鐘巻の名刹・道成寺に伝来する「鐘巻銅鐸」は、1762(宝暦12)年に道成寺の三重塔建設工事中に出土したとされるものである。この銅鐸は高さ100センチを超え、近畿式に分類される「見る銅鐸」の代表例であり、和歌山県内出土の銅鐸としては最大級のものである。さらに、日高町荊木の里山北斜面(標高約40メートル)の地中約1メートル地点からも、2口の銅鐸が並置された状態で出土している。これらは「荊木銅鐸」と称され、いずれも高さ約80センチの大型銅鐸であり、近畿式「見る銅鐸」に分類される。注目すべきは、この斜面の上方約30メートル地点から、弥生中期から後期にかけての土器片および石器も発見されていることである。これらの事例は、亀山と同様に、荊木にも弥生時代の高地性集落が存在していた可能性を強く示唆している。特筆すべきは、これらの銅鐸出土と高地集落遺構の併存が、紀伊地方における弥生時代後期の政治的・宗教的動態、さらには葬送・祭祀のあり方を考察するうえで重要な資料を提供している点である。特に小型で装飾性に乏しい「聞く銅鐸」と、大型で装飾を伴う「見る銅鐸」の混在は、銅鐸祭祀の地域的変遷の様相について考えさせられる。

2025年3月19日水曜日

20250318 新たな記事作成での調べものをしていて思ったこと

 これまで何回かにわたり、紀伊和歌山の河川流域毎の歴史文化について述べたブログ記事を作成しており、紀ノ川、有田川については既投稿です。そして現在は、日高川流域についての記事作成のための資料をあたり、そして、断片的な文章もいくつか作成しましたが、それらをまとめて投稿に至るまでは、今しばらく時間を要します。また、直近の有田川の記事においてもそうでしたが、調べていますと、これまでの知識が更新されて大変面白いのですが、他方、キリがありません。くわえて、日高川流域には、我が国のある面の歴史や文化において重要な意味を持つと考えられる要素が思いのほかに多く、そしてまた、それらを関連付けた考えなどが思い付くこともあるため、これまでの紀ノ川、有田川での記事作成により暖機運転が為されたのか、時折、20年近く前に修士論文を作成していた時の感覚が甦ります。そして、この感覚とは、さらにそれ以前の、南紀白浜在住時の感覚が基層にあることが想起されました。このように書いていますと、当然と云えば当然であるのでしょうが、しかし、その感覚とは、身体性が伴うものであり、その大気の感じや、薫りなども不図、想起されるといったものであり、感覚としては比較的強いものであると云えます。そういえば、南紀白浜在住時は屋外での記憶が多く、当時、自転車で白浜から現在ブログ記事を作成している日高川流域の最も大きな街である御坊市まで行った時のことが、資料をあたっていて不図、想起されました。その距離は50㎞程度であり、それなりに辛かった記憶がありますが、往路にて御坊市に着くと、市街地をウロウロとしばらく自転車で徘徊して、印象的なものを見つけると、分からないなりに、しばらく見入っていましたが、そうしたものの一つが、前述の資料をあたっている時に不図、想起されたのです。そして、その背景をさらに調べていますと、これまた自分としては大変興味深い関連性を思いつきました。この関連性は、おそらく、さらに資料をあたると、既にどこかに記述があり、新奇性はないと思われるのですが、こうした、資料をあたることによる、自らの記憶の鮮明化からはじまり、新たな仮説を思いつくことは、ある程度知っていると自覚している分野・領域であれば、そこまで多く生じることはないのでしょうが、かなり久しぶりに、この思いつく感覚を覚えました。そして、このことは、おそらく現在作成しているブログ記事に組み込むと思われますが、ともあれ、以前、修士院生当時は、こうした感覚が、ごく普通にあり、またそうであったからこそ、当時、割合多くの文献資料をあたることが出来たのだと思われます。そして、こうした現象とは、周囲の他の院生においても同様であり、また、そうであったからこそ、意見交換や自主的な勉強会が楽しく、さらに自分の専攻とは異なる分野への越境も自然に出来たのではないかと思われるのです。そして、おそらく、そうしたことが出来る期間とは、そこまで長いものではなく、ある程度の年齢にまで至ると、感覚が硬化してしまい困難になってしまうのではないかと思われます。しかし、それでも身につくものは多くなくとも、分野の越境を試みること自体には、それなりの価値があるのだと思われますが、それが生業との兼ね合いにより、あまり価値を見出せなくなるのだと思われます。また、社会全体において、分野の越境に価値を見出すことが出来ない社会とは、あるいは創造的な破壊や進化もまた生じ難くなるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?

2025年3月13日木曜日

20250312 ブログ記事作成方法と記号接地について(最近のブログ記事作成から思ったこと)0313加筆

 ここ数回、紀伊・和歌山での河川流域の歴史文化を題材としたブログ記事を作成してきましたが、おかげさまで、これらは思いのほかに閲覧者数が伸びました。読んでいただいた皆さま、どうもありがとうございます。

 また直近では、有田川流域の歴史文化を題材とした記事を作成しましたが、こちらは、まだ書き足りないと感じる一方で、一段落ついたとも思われることから、このあたりでいったん区切りをつけ、次は日高川流域の歴史文化を主題として作成したいと考えています。とはいえ、日高川流域もまた、紀伊の他の河川と同様、興味深いトピックが多く、それらを記事に取り上げるかの取捨選択で悩んでいます…。

 かつて、修士院生時代に当地域の民俗を研究していたため、手元にはいくらかの資料がありますが、他方、現在ではネット上にも興味深い資料が少なからず存在するため、それらを参照しつつ、さらにChatGPTも援用して、また新たな記事のたたき台(下書き・試案)の作成を検討しています。この手法は近年始めたばかりであり、いまだ慣れていませんが、他方で、ようやく、この手法でも記事作成に集中できるようになってきた感覚もあります。また、そこでの集中の感覚とは、本記事のような独白形式での記事作成時の集中の感覚とは異なります。

 とはいえ、こうした感覚もまた双方の継続によって、いずれ融合し、より大きな集中の感覚へと至るのではないかと思われますが、さて、どうなるのでしょうか? また、こうした集中の感覚の相違とは、作成文章に含まれる知見の身体化の程度、あるいは記号接地の程度の違いに因るのではないかと考えます。

 つまり、自らが即座に運用可能な知見を適宜組み合わせつつ文章を作成するのが、独白形式での作成方法といえます。一方、書籍やネット上の資料を参照しつつ、あるいは短文の切り抜きを集めながら、さらにChatGPTを援用して作成する方法では、示された文章の内容と自分の持つ知見とが噛み合わないことが多々あります。そのため、あらためて自分の知見とするために、さらに別の著作や資料を読み、確認や裏取りを行うのですが、面白いことに、この過程で新たな発見を見出すことが多いため、こちらもまた、それなりに楽しい面もありますが、さきの記号接地の観点からしますと、こちらの作成方法でのほうが乏しいと云えます。しかし、継続して経験を蓄積することにより、いずれ身体化・記号接地に至るのではないかとも感覚的には思われるところです。そして、この過程が、一面において「学び」とも称し得ると考えます。

 さて、先ほどから「記号接地」という言葉をたびたび用いていますが、これは最近ようやく意味を理解して、口語でも比較的頻繁に使うようになったものです。興味深いことに、こうした言葉について、その意味を理解することにより、それまで明確に意識されず、宙ぶらりんであった問題や疑問が、オセロの勝ち筋の局面のように次々とひっくり返ることがあります。直近の例としては、この「記号接地」の概念が挙げられますが、こちらにつきましては、また後日改めて本記事に追記したいと考えています。

 センスのあるなしは別として、私は幼い頃から歴史に関する本、書籍を読み続け、現在また、それに分類される著作を読んでいます。そしてまた、先日、歴史に関しての記号接地について言及したブログ記事を投稿しました。こちらの記事で『歴史とは、新たな発見などにより解釈が変わる可変的なものであるが、他方で、フィクションのなかでの事実は基本的に変わることはない。この対比を通じて、我々の歴史理解とは、身体感覚を伴う直接経験ではなく、研究の積み重ねなどによるものであり、そこから歴史理解については「記号接地」の確実性に疑問が残ると指摘し、さらに我が国では、歴史的事実よりも、それが持つ象徴性の方が重視され、歴史を因果関係の体系ではなく、文化的な「記号」として捉える傾向があることから、象徴の記号としての歴史は、新たな学術的な発見に因らずとも再解釈され続ける。』といったことを述べましたが、そうした事情から歴史を題材としたアニメ、マンガや映画や各種演劇などは、それなりの活気を呈するのですが、しかし、それらの多くは、あくまでも歴史を象徴として扱っていることが多く、時代考証などを十分に行っていないように見受けられます。そして、歴史を題材とした諸作品の国際比較を行うことにより、それぞれの国の歴史に対する姿勢や傾向を看取することが出来るのではないかと考えます。ともあれ、その視座から、我が国は、所謂、先進諸国のなかでは特殊であると云え、端的に「若く・幼い」といった感じを受けます。そして、私見となりますが、この感覚は、さきに述べた歴史理解の記号接地とも結節するのではないかと考えるのです。つまり、歴史理解の記号接地とは、どこまで行っても不確実性を伴うものであるが故に、それをフィクション化することにより、物語として消費していると思われるのです。そして、そうしたフィクションの物語が多産されることにより、不確実性はありながらも実際には過去にあった本当の歴史もまた、そのなかに埋没してしまい、そこから、歴史理解の記号接地なども、たくさんのうちの一つとして、等閑視に近くなってしまったのではないかと思われるのです。そしてまた、おそらく、実際の歴史への記号接地などを試みない状態の方が落ち着く方々の方が、現在の我が国社会では(圧倒的)多数派であると考えます。つまり、本質的に歴史には不確実性が伴うことから、その記号接地などは放棄して、そして同時に探求をも放棄してしまい、曖昧なままの歴史を曖昧なままで娯楽の一要素、背景として歴史を楽しむのが、我が国社会にて主流を成すスタンスであると考えます。しかしながら、不確実性を伴いつつも、実際の歴史を再構築していこうとする努力のなかに、仮にタイムマシンが発明されて、実際の歴史を知ることが出来るようになった場合に生じる記号接地よりも、人間の思考、そして、その後の深化や進化においては重要な何かがあるのではないかと考えます。
 そうしたことを踏まえ、これまでに何度か当ブログにて述べたことではありますが、またあらためて自らの歴史に対する記号接地と思われる経験を以下に述べたいと思います。

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2025年3月2日日曜日

20250301 紀伊半島西部の河川流域の歴史文化についてのブログ記事を作成していて思ったこと

 先日来より、紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を主題としたブログ記事を幾つか作成しています。これは現在も進行中であり、ブログの新規投稿を行わない日も、何かしら文章を作成をしたり、調べものをしたり、あるいは既投稿記事の加筆などをしています。そして、何故、今になり修士課程での研究テーマをまた視座を変えて扱ってみるのかと思い出してみますと、それは過日投稿の『20250206 既投稿記事からの発見と、ブログ記事作成への影響について』にて、これまでの投稿記事は紀伊・和歌山を主題とした記事が多かったと述べ、また現在も、年に二回程度当地を訪問する機会があることから、継続的に当地域に関心があり、私としては比較的文章化し易いのだと思われます。くわえて、冒頭で述べた地域の歴史文化を主題とするブログ記事を作成したり、あるいは作成のための調べものをしていますと、突如として当時の記憶が想起されることが度々ありました。そして、それらの想起された記憶は、作成中の文章や、調べものをしている書籍の記述と関連があるものが多いのですが、それらの想起された記憶と作成する文章とを、さらに混淆させて加筆をしたり、あるいはまた、新たに作成することにより、読み易い、読み難いは関係ないものの、文章に個性あるいはオリジナリティ(独自性)が付与されるのではないかと考えます。また、こうした試みは、以前より試みているChatGPTを用いた文章の作成と組み合わせることにより、以前と異なる方法で、自らの文章を作成することが出来るようになりますので、現在進行中の冒頭テーマでのブログ記事作成は、ここ最近では珍しく、続きを作成するのが少し楽しみです。以前に用いた、さまざまな資料を振り返ることで、以前は見落としていた事柄に気が付いたり、あるいは異なる解釈が生まれることは文章作成の醍醐味と云えます。そして、こうした作業を通じて、単に自らの内面の動きを説明するだけに留まらず、それらを多少は深化させて、さらに、それらを発信できることは、これまで継続してきたことではありますが、やはり、それなりに楽しいものであると云えます…。

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