2024年6月30日日曜日

20240630 株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」 pp.73‐77より抜粋

株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」pp.73‐77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003262026
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003262023

 ブラスクーヒンは、ミハイロフと肩を並べて進みながら、カルーギンと別れていくらか危険の少ない場所へ近づき、やっとやや元気を恢復しかけた時、背後に明るく輝く雷光を見、「臼砲!」と叫ぶ哨兵の声を聞き、うしろからくる兵の一人のー「まっすぐ稜堡へ飛んでくる!」という言葉を耳にした。

 ミハイロフは振返った。爆弾の光る點は、さながらその頂點に、どうにもその方向を見定めることのできないような位置に静止しているように思われた。しかし、それはほんの一瞬間のことであったー爆弾はますます早く、ますます近く飛来して、忽ちのうちに導火線の火元が見え、運命的なうなりが聞えて、まともに大隊の中心へ落ちてきた。

「伏せッ!」と誰かの声が叫んだ。

 ミハイロフとブラスクーヒンは地面へひれ伏した。ブラスクーヒンは眼を閉じながら、ただ爆弾がどこか非常に近いところで音高く堅い地面に打突かるのを聞いただけであった。一時間にも思われた一秒が過ぎた、-爆弾は破裂しなかった。ブラスクーヒンははっと思ったー自分は徒に臆病な態度を見せたのではなかったろうか?ひょっとすると、爆弾は遠くの方へ落ちたので、ただ彼にだけ、導火線がすくそこでしゅうしゅういっているように思われたのかも知れない。彼は眼をあけ、ミハイロフが自分の足もとに身動きもせず地面にへばりついているのを見て、満足を覚えた。けれどもその瞬間に彼の眼は、わが身から三尺とはなれないところでくるくる廻っている爆弾の光る導火線とばったり出会った。

 恐怖、他の一切の思想・感情を押退けてしまうような冷たい恐怖が、彼の全存在をひっつかんだ。彼は両手で顔を蔽った。

 また一秒が経過した、-一秒ではあるがそのあいだに、感情・思想・希望・回想の一大世界が、彼の脳裡をひらめき通った。

 《誰がやられるだろうーおれかミハイロフか、それとも二人一しょか?もしおれだとしたら、どこをやられるだろう?もし頭だったら、万事休すだ。が、もし足だったら、切断される、その時は、ぜひ、クロロホルムをかけてもらおう、そうすれば、おれはまだ生きていられる。が、ひょっとすると、ミハイロフだけがやられるかも知れん-その時はおれが話してやるんだ、二人並んで歩いていたこと、彼がやられて、その血がおれにはねかかったこと。いや、おれの方が近い・・・おれだ!》

 そこで彼は、ミハイロフから借りている二十ルーブリのことを思い出し、さらにまた、もう疾くに拂っていなければならなかった。ペテルブルグでの或る借金のことを思い出した。昨夜自分がうたったジプシイの唄が頭に浮んだ。嘗て愛していた女が、藤色リボンの室内帽をかぶった姿で、彼の想像に現れた。五年前に侮辱を受けたまま、まだその復讐をすましていない男のことが思い出された。尤も同時に、この回想及びその他数十の回想と不可分に、現在の感情ー死の期待ーは、一瞬の間も彼を見棄てないのだった。《だが、ひょっとすると、破裂しないかもしれんぞ。》彼はこう考えて、絶望的決心をもって眼を開こうとした。が、その瞬間早くも、閉じた瞼を通して、真紅な火が彼の眼を打った。そして凄まじい爆音とともに、何かが彼の胸のまんなかをどしんと突いた。彼はいきなり駈け出したが、足にからまる佩剣につまづいて、横倒しに倒れてしまった。

 《ああ有難い!打撲傷だけだ。》これが彼の最初の考えであった。彼は両手で胸にさわってみようとした。が、その手はしばりつけられているようだし、頭は搾木にでもかけられているようであった。頭の中では兵士達がちらちらしたので、彼は無意識にそれを数えたー《一人、二人、三人の兵、それから外套の裾をまいた将校が一人。》と彼は考えるのだった。やがてまた電光が眼に光ったので、彼は、一たい何を射ったのだろうと考えたー臼砲か大砲か?きっと大砲に違いない。ほ、また射ったぞ。ほらまた兵隊がやって来たー五人、六人、七人だ、みんなそばを通っていく。彼は急に。兵士達が自分を踏み潰しはしまいかと、恐ろしくなってきた。彼は自分が打撲傷を受けていることを叫ぼうと思ったが、口がかさかさに乾いて、舌が上顎にねばりついてしまった、そして恐ろしい渇きが彼を苦しめるのであった。彼は胸の辺がいやにじめじめしているのを感じていたがーこの湿った感じが水を思い出させたので、彼はその湿っているものでもいいから飲みたいと思った。《きっと、倒れた時に傷をして出血したんだ。》と彼は考えた。そしていくらかでも続いてそばをかすめ通る兵隊たちが自分を踏み潰しはしまいかという恐怖をますます強く感じ出したので、彼はありたけの力を絞って「連れてってくれ!」と叫ぼうとした。が、叫ぶ代りに、自分で聞くさえ恐ろしくなるような声を出して、うなり出してしまった。やがて、何やら赤い火が眼の中でおどり出して、兵隊どもが自分の上へ石を積み上げているような気がし出した。火のおどりは次第にまばらになったが、からだの上に積まれる石は、ますます強く彼を壓迫した。彼は石をはらいのけるために懸命に身をのばした。途端にもう何ひとつ、見えず、聞こえず、考えず、感じなくなってしまった。彼は弾片を胸のただ中に受けて、その場で即死したのであった。

2024年6月29日土曜日

20240629 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.151-154より抜粋

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』
pp.151-154より抜粋
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

 一八八六年に森有礼によって設計された帝国大学は、それまで西洋からの知の移植をばらばらに進めてきたエリート養成諸機関が「天皇」のまなざしの下に統合されることで誕生し、やがて東京のみならず京都、仙台、福岡、札幌m、ソウル、台北などの帝国日本を覆う広がりをもったシステムに発達していった。天野郁夫が詳論したように、この帝大のシステムには、多数の官立専門学校による専門職養成システム、それから予科ないし旧制高校という教養教育システムが並立しており、これら高等教育の三つのシステムの間には葛藤や緊張、補完と連携の関係が生じていった(天野郁夫、前掲書)。しかし、官立専門学校や予科・旧制高校は、基本的には帝国大学を補完するもので、これと根本的に対立するものではなかった。

 これに対し、すでに述べたように、一九世紀半ばに列島各地で勃興するナショナリズムを基盤とした西洋の知に対する貪欲な関心、それを導入しながら新時代の知の基盤を形成していこうという草莽の動きのなかでは、帝国大学のシステムとは位相的に異なるネットワークが形成されてもいた。すなわちそれは、福沢諭吉の慶應義塾や大隈重信の東京専門学校をはじめとする私塾から私学への流れのことである。なかでも福沢諭吉は、慶應義塾という実践において、森有礼が帝国大学の設計で示したのとは異なる「西洋知の移植」を志していた。

 森有礼と福沢諭吉の関係はしかし、実際にははるかに複雑である。実をいえば、彼ら二人をはじめ明治日本の大学知の世界をづくる人物の多くは、明治初期にある同じ雑誌、一八七三年に結成された明六社の同人であった。明六社結成の中心になったのは、同年にアメリカから帰国したばかりの森有礼で、彼の誘いに福沢諭吉、加藤弘之、西周、津田真道、箕作麟祥、中村正直などが応じて参加した。森有礼の頭にあったのは、アメリカの「学会」(AssociationないしはSociety)であったが、明六社同人の共通項は啓蒙主義で、特定分野を対象としていなかったから、今日ならば個別学会よりも日本学術会議のようなアカデミーに近い。実際、明六社解散後の八〇年、この結社に集った人々を母体に東京学士院が設立されているから、明六社は日本最初の学術アカデミーであったともいえる。ともあれ、ここに結社化した維新期の啓蒙家たちは、日本初の西洋レストラン築地精養軒で頻繁に演説会(研究会)を開催し、その成果を自らのジャーナル「明六雑誌」に収録していった。「スピーチ=演説」にしても、「ジャーナル=雑誌」にしても、欧米の学術コミュニケーションの方式を直輸入する発想では、森と福沢は多くを共有していた。しかも「明六雑誌」は、様々な問題を提起し、アカデミックな議論の俎上に載せること自体を目的にしていたから、ここを舞台に民選議院論争や妻妾論争、国語国字論争など、政治からジェンダー、言語まで日本初の多様な学問論争が展開された。加えて雑誌には、ベーコン、ホッブス、スペンサーなどの西欧近代思想も紹介されており、森から福沢までの知識人を連携させた明六社は、たしかに近代日本の学知の原点だった。

 しかし、森と福沢の共通点はここまでである。「啓蒙=国民の主体化」を「国家=天皇」のまなざしを通じてなそうとする森と、あくまで「実学」を国民一人ひとりが身につけるところから出発しようとする福沢の間には、近代に対する把握に大きな違いがあった。やがて「明六雑誌」は讒謗律と新聞紙条例による薩長政権の統制が強まるなかで廃刊に追い込まれるが、すでに廃刊以前から、あくまで「官」主導の西洋化を構想する森や加藤、津田、西などの間には厳しい思想的対立が存在した。この対立を最も明瞭にしたのは、福沢が明六社のセミナーで発表し、その後「学問のすゝめ」の第四編として収録した「学者の職分を論ず」をめぐる個人間の論争である。

 この講演で福沢は、「固より政の字に限りたる事をなすは政府の任なれども、人間(じんかん)の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し」と、「政府=官」と「人民=民」の二元論から出発する。明治日本の現状を見ると、維新で「お上」中心の時代は終わったはずなのに、「官」ばかり肥大し、「民」がちっとも強くなっていない。現状は、「政府が依然たる専制の政府、人民は依然たる無気力の愚民のみ」である。しかも、「一国の文明は、独り政府の力をもって進むべきものに非ざる」もので、「人々自ら一個の働きを逞しうすること」を欠けば、その進歩はない。ところが日本では、本来、そうした内発的な啓蒙の任に当たるべき洋学者=啓蒙知識人たちが、「皆官あるを知って私あるを知らず、政府の上に立つの術を知って、政府の下に居るの道を知らざる」傾向を強めている。これらの人士は、「生来の教育に先入して只管政府に眼を着し、政府に非ざれば決して事をなすべからざるものと思う、これに依願して宿昔星雲の志を遂げんと欲するのみ」である。結果的に、今日では「青年の書生僅かに数巻の書を読めば乃ち官途に志し、有志の町人僅に数百の元金あれば乃ち官の名を仮りて商売を行わんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心益々その風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なく」なってしまった(「学問のすゝめ」)。

 

2024年6月28日金曜日

20240627 株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」pp.156-158より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」pp.156-158より抜粋
ISBN-10 : 448086329X
ISBN-13 : 978-4480863294


 たとえば僕は、この間「アメリカン・ヒストリーX」という映画を見ましたけれども、この映画には「表現」と「「動機づけ」の関係をめぐて大きな弱点がありましたよね。「NIGHT HEAD」とよく似ていて、能動的な兄と、受動的な弟という黄金パターンですが、父親を黒人に殺されたのがきっかけでネオナチのリーダーになった兄の影響で、弟もネオナチにかぶれているという設定です。ところが兄は三年間刑務所に行ってシャバに出てくると、既に転向していてネオナチを捨てている。誰もがいぶかしむわけですが、ある日、弟を読んで「自分は刑務所で白人からも黒人からも疎外されて殺されかけたが、それを一人の黒人に助けられた。彼がいなかったら自分は死んでいた」という物語を語って聞かせます。するとわずか三十分で弟がオルタネーション(翻身)するんですね。弟は「わかった」とか言って、兄貴と一緒に部屋のネオナチ、ヒットラー、鍵十字のポスターをビリビリ破くわけです。

 それを見て、僕は頭を抱えました。「兄が語る程度の物語で、弟が翻身することなどありえない」と思ったわけです。少なくとも僕はまったく説得されなかった。もし説得された観客がいるとすれば、欧米の近代社会に生れ育ってヒューマニズムの確固たる信念ー物語への信奉ーを予め抱いているような連中に限られるでしょう。僕たち日本人はそういうヒューマニズムという信念を持っていませんから、多くの人は兄の語る陳腐な物語程度で説得されることはありえず、当然のことながら違和感が残るわけです。

 つまり、「表現」の中身に納得して、弟が翻身したという話になっている点が、僕たち的には無理があるんです。僕だったら、演出の仕方を全く変えるでしょう。具体的には、弟から見て、兄の語る物語はよく分からないけれど、翻身する前の兄より翻身後の兄貴のほうが「何だかすごく」見え、その理由の分からない「すごさ」に感染して翻身する。という具合に演出するはずです。言い換えれば、「表現」ではなく「表出」のレベルで共振するという描き方になるはずなんです。

速水 私も見ましたたが、兄は負け犬に見えましたね。

宮台 ムショから出てきた後の兄の外見はみじめに見えましたよね。でもそれはOKなんです。というか、そのほうがいい、兄が単にみじめに落ちぶれたのだと思ったら、兄が「本当のこと」を喋りだした途端に、「いや、違う。兄貴の言うことは分からないけど、今の兄貴のほうが全然すごい」というふうに「すごいものに感染する」「聖性にうたれる」体験が弟を訪れる。落ちぶれたように見えたほうが、突如降臨した聖性を際だたせるには都合がいいんです。

「すごいものに感染する」ということ

 それは近代表現が覆い隠しがちな、アジアの民族に限らず人間が誰しも持っている感受性の次元に対応しているわけですよ。逆に言えば、僕たち日本人だってもちろん物語や意味に動かされることがあるわけで、「表現」次元で動機づけを獲得することはありえます。しかし、どうもここ数十人の短い間に、僕たちは「表出」次元で感応することのー「名状しがたいすごいものにうたれる」経験のー限りないエクスタシーを、変な話、忘れはじめているようなんですね。

2024年6月26日水曜日

20240625 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.253-256より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.253-256より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121507150
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121507150

 欧米は感染拡大を抑えるために罰則を伴う外出制限など日本より厳しい措置を講じました。しかし被害は日本よりも甚大です。

 感染状況を人口一〇〇万人あたりの死者数で見ると日本は一二人、米国は六二三人。欧州で際立った取り組みをしたドイツは一一四人。日本との差は桁違いです。

 日本の被害の「少なさ」を巡り、日本人の清潔好きを理由に挙げる向きもありますが、疑わしい。アジアを見れば、中国は三人強、韓国は八人弱、台湾は〇.三人で日本より少ない。いずれも日本以上に清潔好きだとは思えません。

 人種の違いも説明にならない。米国でアジア系住民の死亡率は白人と同程度です。

 世界はこの疾病にかかりやすい群とかかりにくい群に大別できる。その差は経済や社会、文化や思想の観点では説明できない。単に運不運に左右されたとした言いようがない。それが私の感想です。

 米国の人類生態学者ジャレド・ダイアモンド氏の著書「銃・病原菌・鉄」を想起します。欧州人が米大陸の先住民を容易に征服できたのは、非常に広大なユーラシア大陸にいたからだと主張している。同大陸には多種多様な家畜がいて、人間は家畜由来の多くの感染症に対する免疫を備えるに至った。家畜の種類の少ない米大陸の先住民は免疫が乏しく、欧州から持ち込まれた疫病お犠牲になったー。地理の差が免疫の強弱に結びつき、世界史を大きく変えたのです。

 中国人はいろいろな野生動物を食し、薬として服用している。今回も発生源は野生動物と見られています。日本は地理的に中国に近い。その結果、日本人は中国発の疫病に対し、免疫を備えていたのかもしれません。あるいは交差免疫を作るBCGを接種していたからかもしれません。

 ただ運の良い群の中では日本の対策は遅れ、被害は相対的に大きかったことは確かです。

 米中対立の時代です。私はコロナ禍を通じて歴史的と言える意識の変化が起きていると見ます。

 まず米ソ対立の二〇世紀を振り返ります。一九一七年のロシア革命を経て社会主義・全体主義のソ連が出現した。一方で米国は第二次大戦後、資本主義・自由主義陣営の盟主に。米ソは冷戦に突入し、二つのイデオロギー、二つの政治経済体制が優劣を競い合った。

 米ソは共に人間の可能性を希求する国家でした。二つの希望の星でもあった。二〇世紀は二つのユートピア(理想郷)の争いでした。

 八九年にベルリンの壁が崩壊し、九一年にソ連が解体して、社会主義は敗北します。米国の政治哲学者フランシス・フクヤマ氏は有名な著書「歴史の終わり」でイデオロギーの争いとしての歴史は終わり、世界は自由民主主義体制に収束すると予想したものです。

 冷戦後、米国流の市場任せの資本主義が世界標準になり、日本もその圧力をかなり受けました。

 人間の利己心の追求を放任すれば市場がうまく調整を果たして経済成長をもたらし、貧困層にも恩恵が波及するという思想です。

 しかし米国流は二〇〇〇年のITバブル崩壊の頃から怪しくなり、〇八年の米国発のリーマン・ショックは金融危機を招きます。フランスの経済学者トマ・ピケてぃ氏が著書「21世紀の資本」で指摘したように、米国は〇〇年時点っで人口の一%の高所得者層が全国民所得の二〇%近くを得る、世界で群を抜いた不平等国になっていたのです。

 さて目下の米中対立です。

 中国は発展途上国にとり成長モデルを提示する希望の星でした。コロナ禍で当初は発生源として非難を浴びましたが、強権的な仕組みを発動して感染を抑え込むと成功物語の主人公になる。しかし混乱に乗じて地政学的拡張や香港の締め付けなどの動きをとるに及んで、ディストピア(反理想郷)と見られるようになりました。

 一方の米国は疫病にかかりやすい群に属したことに加えて、対処を誤り、感染者数も死者数も世界最多になってしまった。しかもトランプ大統領の下で国が南北戦争時代のように分断されてしまいました。米国もディストピアとして見られるようになったのです。


2024年6月24日月曜日

20240624 株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」 pp.116-120より抜粋

株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490209924
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490209921

 スズという金属をごぞんじだろうか。漢字では「錫」、金属元素記号ではSnで示される。原子番号というのは何のことかは知らないが、50と表示されている。

 銀色、あるいは水銀色といわれるのにあたるが、よく見ると、ほんの少し青みがかかって色合いに深みがある。性質はよくのびるので、箔にしたりチューブにもできる。使いやすいので金ヘンに容易の「易」があてられたのだろうか。ドイツ語ではZinn、英語のtinと対応している。

 現在ではマレーシアやボリヴィアが主な産地だが、かつてはドイツとチェコの国境の山地でも産出した。そのためドイツでは早くから知られていた。性質が鉛と似ているので、両者を区別して、錫を「白い鉛」、本来の鉛を「黒い鉛」と言ったりした。箔にもチューブにもできるので、鉄や鉛にかぶせられる。黒かったものが、とたんに神々しい白銀色になる。

 そんなところから宗教の儀式のための用具に好んで錫が使われた。聖遺物入れ、水差し、燭台、儀式皿、ロザリオ、メダル・・・。金銀のように注目はひかないが、優れた錫の工芸品が数多く残されている。

 おのずとこの道の名工といわれた人がいた。ドイツ工芸の歴史を述べた本には、十六世紀のころのN・ホルヒハイマーやA・プレイセンジンといった名があげてある。「ドイツ・バロック美術展」などには、きっとまとめて代表作が並んでいるはずだが、その辺りはおおかたの人が素通りして、たいていひとけがない。

 マイセン市のフーゴー・レーマン氏は現代の名工である。つつましい人だから当人はそんなふうには言わないが、マイセンの錫工レーマンといえば、この世界でひろく知られている。レーマン工房の創業は1792年、現当主は七代目。共産党政権下にあっては安価な大量生産が原理であって、一つ一つ丹念につくる手仕事は白い目で見られた。それでもねばり強く工房をつづけてきた。

 創業200年とドイツ統一が、ほぼ一致したのは、我慢してきたゴホービかもしれない。以来、レーマン工房のガラス窓を、晴れやかな「マイセン錫200年」の銀色の文字が飾っている。

 わざわざ「マイセン錫」と断っているのは、知られるようにご当地マイセンは焼き物で有名だからだ。交叉した細い剣がマイセン磁器のマークであって、白く、なめらかな硬質の肌に青で染めつけてある。その世界中に知られたマイセン窯の本場で、200年にわたり錫工芸の伝統を守ってきたわけである。フーゴー・レーマンの先祖たちが、とびきりのガンコ者たちだったことがわかるだろう。

 この分野の名工が十六世紀以後あまり伝わらないのは、錫の効用が変化したからである。技術が進み、宗教や儀式用だけではなく生活具にも使われてきた。錫の性質からして利用しやすく、錆びないし、品のいい銀色をしている。安くつくれるとなると、ひっぱりだこだ。生活に余裕ができてくると、人々はそれまでの鉄器や銅器を錫製品に買い代える。

 古書ではたいてい甲冑師や蹄鉄師のあと、鉢づくりや鈴づくりにまじって錫工が出てくる。手前にズラリと並べてあるのは仕上がりの品だろう。錫の鉢や瓶や水差しや壺は、版画ではわからないが、壺からの明かりを受け、仄かな銀色の輝きを見せていたにちがいない。

火入れして鋳型をつくる

錫職人とはわしがことよ

ビール、ブドー酒には

瓶とコップがつきもの

鉢、盆、皿なんでもござれ

銚子、壺台、水差しときて

燭台、皿受け、ほかにも色々

家庭の入り用、何でもつくる

 名工による工芸品ではなく、職人仕事による生活用具がつくられていたことがわかるのだ。さぞかし注文がひきも切らない状態だったのだろう。こころなしか図に見る三人の職人は、とびきり忙しげだ。並べられた仕上がり品も、すぐさまとぶようにはけていったのではなかろうか。

 錫工の景気のよさを見込んでだろう、十八世紀末に、初代レーマンがマイセンの小山の麓に工房を開いた。町はエルベ川に面しており、船運が通っていた。チェコ国境の山地は同じザクセン王国の領土であって採掘された錫が船で運ばれてくる。たしかにいいところに目をつけた。ただ一つの不運は、同じ小山の上で、べつの技術の開発が進んでいたことである。

 マイセン磁器の誕生は、「剛胆王」とよばれるザクセン国王アウグストが、力づくで錬金術師ヨハーン・ベトガーを山上の工房に閉じこの、磁器の発明を命じたことにはじまる。十八世紀の初め、最初の赤い磁器、つまり赤器が陽の目をみた。ついで白磁に成功。

ベトガーの死後、J・ヘロルトやヨハーン・与アヒム・ケンドラーといった陶工があとを継ぎ、マイセン磁器の声価を高めた。フーゴー・レーマン氏の工房のすぐわきに小山へ登る石段があり、登りつめたところの建物に記念の銘板がつけられていて、そこがかつて名工ケンドラーの住居であったことがわかるのだ。

「どうして磁器のお膝元で錫の仕事場を開いたのでしょう?」

当主にたずねたことがある。マイセンといえば焼き物の町と同義語だ。錫の仕事は場所をずらして初めてもよかったのではなるまいか。

 フーゴー・レーマンさんの意見は明快だった。磁器と錫とは用途がちがう。買い手がかさなることがない。とりわけマイセン磁器は国王の肝入りでつくられ、とびきりの高級品とされてきた、金器銀器と同じく宮殿や邸宅に飾られ、貴族やブルジョアに求められてきた。一方、錫の産物は生活用具であって、人々の暮らしに欠かせない。宮殿の壁よりも居酒屋の棚に合っている。ブルジョアの宴よりも、庶民のお祝いごとに似つかわしい。だからこそ「マイセン錫200年」は、なおのこと意義があるー。

 現フーゴー・レーマンがこんなふうに述べ立てたわけではない。奥の椅子にすわり、風格のある鼻ひげの下にパイプをくわえ、ほんのふたこと、みこと口にしただけである。言外を私が捕捉したまでのこと。

 

2024年6月23日日曜日

20240622 株式会社筑摩書房刊 宮台真司著「終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」 pp.65‐68より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司著「終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480033769
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480033765

私たちの社会には、もともと一神教的な神はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人に指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もあり得ない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という、排他的な二つの類型に分割できる。
 しかし、一九五〇年代後半からの団地ブームと並行して急速に進んだ郊外化と人口流動化の高まりは、伝統的なムラの共同性を急速に踏み散らかす。大型家電ブームと米国製テレビドラマブームに沸いたこの時代は、週刊誌では「団地売春」ネタが定番になり、六〇年代に入ると秘密を抱えて生きる人妻が昼メロやピンク映画に登場しはじめる。団地化によってかつての共同性が踏み破られていくにつれて、道徳の母体もまた消えていくことを象徴するシンボリズムである。もちろん売春した主婦は一部に過ぎない。「やさしいママと頼りがいのあるパパと皆から好かれる良い子」からなる団地家族の幻想を生き得たことが、失われた村落的共同体をしばらくの間は埋め合わせ、「母や父を思うととてもできない」「子供を思うととてもできない」という類のしばりを有効に機能させたのである。
 しかし、このような不自然な「家族への内閉化」は長続きするはずもない。実際、八〇年代の高度情報化を通じて、テレビも電話も個室化し、互いがどのようなメディア環境を生きているのかさえ不透明化した。「友だち家族=表面的には平穏無事のバラバラ家族」の中で、主婦や子供たちは、家にも地域にも帰属しない「都市的現実」へと漂い出し、テレクラ主婦として、ブルセラ女子校生として、適応しはじめる。文学者ではなく、私たち自身がかつての良心の「基礎」が消えたことに気づく。私たちは「自由」になったのである。実際そのような自由こそ、私たちが戦後一貫して求めてきたものだった。八〇年代にいたり、パラダイスは実現した。かくして、「倫理なき社会」で「道徳の母体」が消失するとき、「私たちが良心的存在たりうるのはいかにしてか」という問題だけが残った。

2024年6月20日木曜日

20240619 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.105‐108より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.105‐108より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

東 新興宗教の犯罪性が問題になるとすぐに「宗教がダメだ」という論調になるのは、逆に宗教についての考えが貧しいことの表れだと思います。日本では人の心を安定させるシステムがうまく機能していないので、「娯楽産業」という名のもとに変な商売が大量に作り出されている。だれも知らないアイドルに何百万もつぎ込むのがよしとされているような文化は、ふつうに考えて異様です。そういった歪んだ部分が「クールジャパン」と呼ばれる面白い部分を作り出しているのも事実なのでしょうけど、長続きはしないと思います。

茂木 いわゆる自己肯定感が低いことも共通の基盤があるんでしょうね。本当の意味で自分の個性を受け入れることができないから、表層的な文化で右往左往する。それが日本の魅力であると同時に、本質的な限界になっています。

養老 宗教の問題は前から気になっていました。学生運動が落ち着いた後も、学生たちはしょっちゅうケンカをしていて、大体全共闘、創価学会、統一教会(原理研究会)の三つのグループが対立する。どうしたもんかと思って、当時、駒場にあった統一教会の寮に行ってみたことがあります。信者の女性が食事の世話なんかをしていました。どういう子が集まっているのかと思ってみてみると、公に相談ができにくい事情を持っている子たちなんです。親がゲリラ組織にいるとか、ごく一般の学生とはうまく話ができないような複雑な背景をもった子たちが集まっていた。

 オウムの問題なんかもあって、ずっと「古い宗教が安心だ」と言ってきたけど、そのわりにお坊さんがサボってししないか。コンビニより寺の数が多いと言われるのに、ぜんぜん機能しているように見えない。

東 そもそも「人の悩みを聞く人」が少ないという問題かな、と思います。人が人に真面目に悩みを話す、それを聞く、というまともなコミュニケーションの場があまりに少なく、表面的な社交ばかりしている気がする。

茂木 八百万の神はいい部分も多いけど、神の敷居が低いということでもあって、いろんなことが「神化」しやすいという問題もありますよね。

東 そうかもしれません。「プチ神」みたいなのが多いですよね。

茂木 「ひろゆき」を神化してしまうような脆弱なメンタリティは何だろうと思います。ひろゆきさん本人は、むしろ謙虚だし、自分の限界もわかっている。もちろん卓越している点もあるわけですが。

東 彼ら自身はむしろ強いと思っているのでしょう。ひろゆきさんと同一化することで心の穴が満たされ、現実の悩みをやり過ごすことができる。それは若さゆえの強がりであったことに、四〇代、五〇代になって気付くのかもしれない。

 日本では悩み相談みたいなものもコンビニ化していて、ちょっと寂しいときに時間を潰せる「元気をくれるサプリメント」みたいなコンテンツがたくさんある。僕自身、かつてポストモダン社会ではそういうものが機能するはずだと考えていたこともあるのですが、現実はそうではなかったですね。

養老 戦争後の脳天気な転換もそうですね。うまくいくだろう、という感じでやってきたけど、歪みがいろいろ出てきた。こっちはそれをずっと抱えてこの歳まで生きてきたけど、それでも何ができたわけでもなくて、満州からの引き揚げ者が同級生に三人もいたことすら今になって知りました。彼らはどうやって戦争のトラウマを片付けてきたのだろうと思いますが、今更、何も言わないでしょうね。この社会はそういう問題に蓋をしたまま、コンビニ的なサービスで間に合わせてきたんですから。

東 戦争については、九〇年代くらいまでは社会の中に戦争経験者が現役でいたので、いまとはまったく語り方が違っていたと思います。でも彼らが死んでしまうと、戦争の記憶がバーチャル化してしまって、戦争の話は生々しい人間の話ではなく、データを組みあわせて作る物語になってしまう。

茂木 その話はまさに歴史実証主義の限界を示していると思います。残った記憶だけでその人がどういう人だったか、この事件が何だったかなんてわかるわけない。たまたまそれが残っているだけかもしれないし、立場によって見えるものは違うわけです。歴史実証主義の「ドキュメンテーションがないものは信じない」という態度は、まさに東さんの言った、人の経験はそれ自体が本来は重要なのに、死んでしまうと残された「データ」だけが参照されて、経験への想像力がなくなるという問題とつながっているように思います。

2024年6月18日火曜日

20240618 岩波書店刊 岩波現代文庫ウンベルト・エーコ 著 和田忠彦 訳「永遠のファシズム」pp.50-52より抜粋

岩波書店刊 岩波現代文庫ウンベルト・エーコ 著 和田忠彦 訳「永遠のファシズム」pp.50-52より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006003889
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006003883

2 伝統主義は〈モダニズムの拒絶〉を意味の内にふくんでいます。ファシストもナチスもテクノロジーを賛美しましたが。伝統主義思想家は、テクノロジーを伝統的精神価値の否定であるとして拒否するのがふつうです。いずれにせよ、ナチズムが産業振興を誇っていたとしても、その近代性賛美は、〈「血」と「土」Blut und Boden〉に根ざしたイデオロギーの表面的要素でしかありませんでした。近代世界の拒絶が、資本主義的生活形態の断罪というかたちで擬装されていたわけですが、その主眼は一七八九年(もしくは明らかに一七七六年)精神の拒絶にあったのです。啓蒙主義や理性の時代は、近代の堕落のはじまりとみなされるのです。この意味において、原ファシズムは「非合理主義」であると規定することができます。

3 非合理主義は〈行動のための行動〉を崇拝するか否かによっても決まります。行動はそれ自体すばらしいものであり、それゆえ事前にいかなる反省もなしに実行されなければならないというわけです。思考は去勢の一形態とされるのです。したがって〈文化〉は、批判的態度と同一視される〈いかがわしい〉ものとされます。ゲッペルスの言葉としてつたえられる「〈文化〉と聞いたとたん、わたしは拳銃を抜く」という発言から、「インテリの豚野郎」「ラディカル・スノッブ」「大学はコミュニストの巣窟だ」といった頻繁に使われる言い回しにいたるまで、知的世界に対する猜疑心は、いつも原ファシズム特有の兆候です。ファシスト幹部知識人たちは、伝統的諸価値を廃棄した自由主義インテリゲンツィアと近代文化を告発することに、ことさら精力を傾けてきました。

4 いかなる形態であれ、混合主義というものは、批判を受け入れることができません。批判精神は区別を生じさせるものです。そして区別するということは近代性のしるしなのです。近代の文化において、科学的共同体は、知識の発展の手段として、対立する意見に耳を貸すものです。原ファシズムにとって、意見の対立は裏切り行為です。

5 意見の対立はさらに、異質性のしるしでもあります。原ファシズムは、ひとが生まれつきもつ〈差異の恐怖〉を巧みに利用し増幅することによって、合意をもとめ拡充するのです。ファシズム運動もしくはその前段階的運動が最初に掲げるスローガンは「余所者排斥」です。ですから原ファシズムは、明確に人種差別主義なのです。

6 原ファシズムは、個人もしくは社会の欲求不満から発生します。このことから、歴史的ファシズムの典型的特徴のひとつが、なんらかの経済危機や政治的屈辱に不快を覚え、下層社会集団の圧力に脅かされた結果、〈欲求不満に陥った中間階級へのよびかけ〉であったことの理由が説明できます。かつての「プロレタリアート」が小市民になりつつある(しかも「ルンペンプロレタリアート」がみずから政治の舞台から身を退いた)現代にあって、ファシズムが聴衆としてたのむのは、このあたらしい多数派なのです。

7 いかなる社会的アイデンティティももたない人びとに対し、原ファシズムは、諸君にとって唯一の特権は、全員にとって最大の共通項、つまりわれわれが同じ国に生れたという事実だ、と語りかけます。これが「ナショナリズム」の起源です。さらに、国家にアイデンティティを提供しうる比類なき者たちは、敵と目されることになります。こうして原ファシズムは、その心性の根源に〈陰謀の妄想〉(それも国際的な陰謀であることが望ましいわけですけれど)を抱え込んでいるのです。この妄想に、信奉者たちが取り憑かれないわけがありません。この陰謀を明るみに出すいちばん手っ取り早い方法は、〈外国人ぎらい〉の感情に訴えることです。ですが陰謀は内部からもめぐらされているはずです。そこで、内部にも外部にも同時に存在することの利点をもっているからという理由で、しばしばユダヤ人最高の標的とされるのです。
 

2024年6月17日月曜日

20240617 株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 上巻 pp.163-166より抜粋

株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 上巻 pp.163-166より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480087370
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480087379

 初期の社会においては、しばしば王や祭司が、超自然的な力を与えられている、もしくは神の化身であると考えられていた。その結果、自然の成り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあるとみなされ、そのため王や祭司は、悪天候や穀物の不作やその他同類の惨禍の責任を負わされる。ここまでのところでは、王の自然に対する力は、臣民や奴隷たちに対する力と同じように、明確な意志によって行使される、と仮定されているように見える。それゆえ、旱魃や疫病や嵐が起これば、人々はこの災いを、彼らの王の怠慢もしくは罪であるとし、王にしかるべき罰を下す。鞭打ちや縛めという罰の場合もあれば、改悛の兆しが見られないと、廃位や死の罰が下される場合もある。だがときには、自然の成り行きが、なるほど王に依存しているとはみなされても、部分的には王の意志から独立していると考えられる場合もある。王の人格は、こう言ってよければ、宇宙のダイナミックな力の中心と考えられており、そこから放たれる力の放物線は、天空のあらゆる方角へと伸び広がってゆくものである。このため彼の動きはいかなるものであれーたとえば掌を返したり、片手を上げたりという動きはー即座に、自然の一部に影響を及ぼし、これに深刻な被害をもたらすかもしれない。王は、世界のバランスがその上で保たれている、支柱の先端なのであり、彼の側にわずかな歪みが生じれば、微妙に保たれている均衡は崩れてしまう。それゆえ王は最大の注意を払い、また王に対しても最大の注意が払われなければならない。王の全生命は、もっとも微細な部分に至るまで統制の取れたものでなければならず、そのため彼の振る舞いは、それが自発的なものであれ不本意なものであれ、確立されている自然の秩序を、乱しあるいは転覆させる可能性がある。この類に属する君主の典型が、日本の霊的な皇帝「ミカド」もしくは「ダイリ」である。これは神々や人間を含んだ全宇宙を支配する、太陽の女神の化身である。一年に一度、すべての神々はこの皇帝に表敬訪問し、その宮廷で一カ月を費やす。その一カ月は「神無し」という意味の名で呼ばれ(もちろん神無月のことである)、どの寺院にも神々は不在と考えられるので、だれも寺院(神社)に詣でることはない。

 以下は「ミカド」の生活様式についておよそ二百年前に記述されたものである。

 「今日でさえ、この一族の血を引く皇子たちは、生きながらにしてもっとも神聖な人間とみなされ、また生まれながらの法皇とみなされる。これが玉座につく皇子である場合はなおさらそうである。また、このような有利な概念を臣民の心に抱かせておくために、この聖なる人間たちに対しては尋常ならざる配慮がなされねばならず、他国の慣習に照らして考えてみるならば、愚かで見当違いとも思われるほどのことを行うのが義務づけられている。二、三の例を挙げておくのがよいだろう。彼は、自分の足を地面につけることが、自分の権威と聖性を大いに侵害するものであると考えている。このため、どこへ外出するにも、男たちの肩に乗せて運ばれなければならない。ましてや、戸外の空気にこの聖なる人間を曝すなどもってのほかであり、日の光はその頭に降り注ぐ価値などないと考えられている。身体のあらゆる部分に聖性が宿ると考えられているため、あえて髪を切ることも髭を剃ることも爪を切ることもしない。しかしながら、あまりに不潔にならないよう、彼は夜眠っている間に体を洗われる。なぜなら、眠っている間に身体から取り去られたものは、盗まれたものであって、そのような盗みは、その聖性や権威を害することにはならないからである。太古の時代には、彼は毎朝数時間玉座についていなければならなかった。皇帝の冠をかぶり、ただ像のようにじっと座っている。手足も頭も目も、それどころか身体のいかなる部分も動かすことはない。これは、自らの領土の平和と安定を保つことができるのは彼自身と考えられたからで、不運にも体の向きをどちらかに向けたりすれば、あるいはまた領地のいずこかの方角を長時間眺めていれば、国を滅ぼすほどの不作や大火もしくはなんらかの大きな災いが間近に迫っている、と解釈されたからである。しかしその後、守護神は皇帝の冠であり、その不動性が領土の平和を保つという新たな解釈がなされたため、皇帝の身体のほうは煩わしい義務から解放し、怠惰と快楽のみに捧げられるのが得策である、と考えられるようになった。それゆえ現在では、冠が毎朝数時間、玉座の上に置かれる。食物は毎回新しい鍋で調理され、新しい皿で食卓に並べられる。鍋も皿もこざっぱりとした清潔なものだが、平凡な陶器に過ぎない。これは、一度使われただけで捨てられ、あるいは割られるからで、さほどの出費にならないようにである。俗人の手に渡ることを恐れるので、大概は割られる。というのも、万一俗人がこの聖なる皿で食事をしようものなら、食物はその俗人の口と喉を腫れ上がらせてしまうと、本気で信じられているからである。ダイリの神聖な衣服についても、同様の悪しき力が宿ると恐れられている。皇帝がはっきりと許可や命令を下していないときに俗人がこれを身につければ、俗人は体のあらゆるところが腫れ上がり、痛みだす」。ミカドに関するさらに古い記述も、同様の趣旨で以下のように述べている。「彼が地面に足をつけることは、不面目きわまる零落と考えられた。太陽と月は彼の頭上を照らすことさえ許されなかった。身体から出る余分なものも、彼の場合は一切取り除かれることなく、髪も髭も爪も切られることはなかった。彼が食べるものは何でも、新しい器で調理された」。

2024年6月12日水曜日

20240612 株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」 pp.90-92より抜粋

株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」
pp.90-92より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490209924
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490209921

書店とのかかわりからレクトゥーア(Lektor)のこともお伝えしておく。辞書には「(出版社において主として原稿審査を担当する)編集者」といった訳語がついているのではなかろうか。「原稿審査員」などとも出ている。わが国の出版界には見ない職種であって、それは彼らの特権からも見てとれる。

毎日、出社する義務がない。

刊行本に自分の名前を明示できる。

なかなかの高給取りである。

新しい才能の登場には陰に陽にレクトゥーアの存在があずかっている。文学や思想の産婆役であって、才能発掘の請負人、ときにはセンセーションの仕掛け人ともなる。だからといって、ベストセラーばかりねらっている人ではない。

トーマス・マンもレクトゥーアの返事には一喜一憂した。注意を受けた個所は書き直した。ブレヒトは人間関係でいろいろ問題を起こした人だが、レクトゥーアとの関係は終始おだやかに維持していた。ノーベル賞作家ギュンター・グラスは、若年期の経歴を自伝で公表するにあたり、誰よりもまずレクトゥーアに相談しただろう。問題の箇所の叙述にしても、大いに相談役のアドバイスを参考にしたにちがいない。

 たしかトーマス・ベッカーマンといったが、むかし、私が勤めていた大学に外国人講師としてやってきた。私はたまたま、彼がレクトゥーアとしてつくった本を読んでいて、そのことを言うと、目を丸くした。あの作家は今、どうしているとたずねると、伸び悩んでいると遠回しに答えた。

 30代半ばで、童顔で、背広よりもジャンパーが似合った。当人も背広にネクタイは苦手のようだった。大学で教えるかたわら、学会で新しいドイツの文学をめぐって講演をした。しかし、さして日本の大学に関心がなく、感銘もなかったのだろう。2年ばかりして、さっさとドイツに帰ってしまった。

 何年かして、ドイツの老舗の出版社のレクトゥーアになった。由緒ある文芸誌の編集長をつとめ、「ベッカーマン編集」と扉にうたったシリーズが出はじめた。

 世の中には、こういう人もいる。鋭い文学センスをもっているが、自分では書かない。自分の本ではなく、他人の本をつくる。才能を見つけ出すのもまた才能である。

2024年6月11日火曜日

20240610 中央公論新社刊 鈴木和男著「法歯学の出番です」ー事件捜査の最前線ーpp.32-34より抜粋

中央公論新社刊 鈴木和男著「法歯学の出番です」ー事件捜査の最前線ー
pp.32-34より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122013321
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122013322

「目は、口ほどに物を言い」と昔から言われる。しかし、歯もまた「口ほどに物を言う」のである。もっとも「明眸皓歯」と美人の要素として、歯もまた目と同列に扱われてはきた。だから、歯もまた「目ほどに」物を言っても不思議ではない。

 いや、それどころか「歯」は「目」以上にその人の生きざまのすべてを語る履歴書でもある。歯は生まれる前から母の胎内で形造られつつあり”オギャー”と産声をあげて数カ月たつと可愛い顔をのぞかせる。でもよほどの注意を払わないとムシ歯にやられる。この頃の歯は、歯そのものも決して強く丈夫なものではなく、われわれをとりまく外界そのものの厳しさがムシ歯になる大きな原因となっている。

 ムシ歯になると当然”痛み”が襲ってくる。そして歯科医の門を叩く。歯科医では治療のために「除去」と「充填」が行われる。つまり、悪いところを取り除き、金、銀、合金、アマルガム、セメントレジンなどで穴をふさいで補充するなどの作業が加えられるのだ。そのうちに、この歯は自然に抜け落ちる運命をたどり、交代して真珠のような美しさと体内随一の硬さ、強さをもった大人の歯が与えられることになる。

 美しく、硬い強い歯になってからも、歯の受難の歴史は続く。いわばその人の「履歴書」が、歯に刻み込まれていくのである。

 ほとんどの女性は口紅をつける。あわてんぼうや粗忽な人は、唇を通りこして歯の表面までピンク色にしたりする。その口紅も千差万別の物質から成っている。そのうちに結婚する。異性との交渉や出産などもあって、体質も変わってくることだろう。また、環境の変化にともなって、食物や好みも変わり、行動範囲も広がることによって、ゴミあり、寄生虫あり、化学物質ありーというわけで、歯は迫害を受けながらも、健気な頑張りを続けていく。と同時に、その人の履歴書も克明に印していくわけだ。

 ときには、入れ歯の支えがゆるんで、涙を流すこともある。歯医者に行ったら、歯槽膿漏だと言われた。もう年かな、あるいは手入れが悪かったのかな・・などと思っていたら歯が抜けた。やれやれ、また入れ歯がふえた。こうして人体の暦は、まず歯から現れてくる。さて、私はこの歯からの年齢、性別、血液型、職業、容姿、生活態度、出身地、教養程度などまでわかりはしないか、たとえ真っ黒こげになった人間の体からでも、こうしたことがつかめないか、というわけで、法歯学(歯科法医学)の研究を続けている。いまのところその考えは、だいたい間違っていないようだ。

 もっとも、こうした歯からその人間の生きざまを読もうという考えは、何も私が考え出したことではない。

 古くは、旧約聖書でもみられるといわれるし、一八六五年のリンカーン大統領暗殺事件や、後述する一八七九年のナポレオン皇子事件にも応用されている。また、日本でも歯が法医学的に用いられた歴史は江戸時代からみられる。

 といっても「歯科法医学」と銘打って、学問的にとりあげられたのは、明治二十八年(一八九五)、広瀬武次郎高山歯科医学院講師によってであり、そう古いことではない。また、明治三十三年(一九〇〇)、東京歯科医学院と改称された高山歯科医学院で、野口英世博士が「歯科法医学」の名で講義し、それが講義録として出版されている。

 この東京歯科医学院は、現在の東京歯科大学であって、日本でいちばん古い伝統を持ち、当時では唯一の歯科医学校だった。

2024年6月9日日曜日

20240609 和歌山県での銅鐸出土傾向からの仮説

銅鐸は中国大陸、朝鮮半島での鐘(鐸)や鈴、あるいはそれらの系譜を引く、我が国の弥生時代中期から末期(紀元前5世紀頃~紀元2世紀末)まで主に西日本で用いられた青銅製の祭器である。

これまでに銅鐸は我が国全土で500点(口)ほど出土しており、それらの出土地域や状況などから、銅鐸は主として農耕に関連する祭祀に用いられていたと考えられており、出土状況の傾向としては、集落に近い里山の山頂近くの比較的平坦な斜面での出土例が相対的に多いと云える。

銅鐸は鐘身を吊り下げるための通し穴がある部位の「紐」、そして鐘本体である「身」、そして鐘身に装飾として洗練された鋳バリとも云える「鰭」により構成される。また、前述「紐」部位の矢状断での形状によって様式分類がされることもあり、様式の古い順から述べると、断面の形状が菱形に近い「菱環紐式」、その次に、この「菱環紐式」の外縁が平坦に延長された紐断面の「外縁紐式」、次いで、通し穴を用いて吊るし、鳴らす用途が乏しくなったためであるのか、「紐」部の強度を考慮せずに「紐」が大型化して、その断面が平坦になった「扁平紐式」、そして次に大型化した「紐」や「鰭」部に、立体の区分け線がある「突線紐式」へ、といった様式の変化が看取される。

また「紐」部でなく「身」についても時代毎での様式の変化があり、ごく当初は、装飾が乏しく祖型である大陸や半島での鐘や鈴に近いものであったのが、経時的に大型化して、そして鐸身面積も広くなり、そこに縄文時代以来の流水文や蕨手文などの装飾が施され、さらに鐸身全体には縦横の線が走り、それにより区分けされた区画に、人や動物などを題材とした装飾も描かることもあり、概して銅鐸は、その祖型から時代を経る毎に、大型化、高装飾化していったと云える。ともあれ、こうした装飾や線による文様の様式からも、さきの「紐」同様に様式分類される。さらに、そうした分類から、銅鐸祭祀集団や、それら銅鐸の作製集団の時代毎での変化の様相なども看取され得る。

さて、上記のような銅鐸の様式分類を視座として和歌山県での出土銅鐸の様相を検討すると、先ず第一に和歌山県は全国的に銅鐸の出土数が多く、前述の全国で500点のうち、伝聞を含めると40点以上が和歌山県での出土である。そして県内での銅鐸出土の様相は、県北部には最古段階ではないものの、比較的簡素で、大型とは云えない「外縁紐式」や「扁平紐式」の様式を持つ銅鐸の出土が相対的に多く、対して県南部では、そこから時代が下り大型化・高装飾化した「突線紐式」銅鐸の出土が相対的に多いと云える。こうした県内での銅鐸出土状況から、県南部では、新式とも云える「突線紐式」銅鐸が作製される時代になってから銅鐸祭祀が受容されたと考えられているが、そのほかには和歌山県を含む西日本で、弥生時代中・後期を通じて多く見受けられる高地性集落の動向と銅鐸出土の分布が関連するといった見解もある。それは、先述の県北部では、比較的古段階と云える「外縁紐式」や「扁平紐式」の銅鐸の出土が主であるが、それらの多くは丘陵部からの出土であり、対して県北部での新式の「突線紐式」は、河川の近くなどの平野部からの出土が多い。そして、この傾向は中紀の日高川流域にまで共通する。

そして、さらに銅鐸出土地を求めて南下すると、南高梅で有名なみなべに至り、ここでは、さきの傾向から一変して、新式の「突線紐式」を主とする銅鐸全てが丘陵地からの出土となり、そして、この傾向は、南紀の富田川流域にまで共通する。そこから、さらに南下すると紀伊半島最南端を経て半島東側の新宮市の経塚遺跡にて破砕された新式「突線紐式」様式銅鐸の破片20点ほどが出土しているが、これは名前(経塚)が示すとおり、後代の遺跡と混交しており、その埋納の来歴は、他の県内出土銅鐸のそれとは異なるものと考える。

ともあれ、そこから、紀ノ川流域の紀北から日高川流域の中紀までの地域と、南下した南部川流域のみなべ町から富田川流域の南紀までの地域では、新式である「突線紐式」銅鐸の出土地の傾向が異なり、前の県北部地域では、河川近くなどの平野部からの出土であり、後の南部地域では、丘陵地での出土となる。そして、この県南北での「突線紐式」銅鐸の出土傾向の相違は、弥生時代中・後期に出現する高地性集落が営まれた時期と関連し、端的に県北部では、高地性集落を営む必要性が比較的早くに失われ、住民は水稲耕作に適した平地に戻り、そして、それに伴い銅鐸も平地に戻され、その後、何らかの理由により銅鐸祭祀自体が廃されて、そして埋納されたといった推移の様相が考えられる。それに対して県南部では、銅鐸祭祀が廃されるまでのより長い期間、高地性集落が営まれ、そのため、その埋納も集落に近い丘陵地や山頂付近の山腹といった立地になったと考えられる。

しかし、これらもまた現時点ではあくまでも仮説であり、今後、何らかの新たな発見、出土などにより、当仮説もまた変化する可能性がある。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!





一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2024年6月4日火曜日

20240603 以前に作成した文章の中にあるものについて

先月5月末に当ブログの総投稿記事数が目標としていた2200に到達したことから、現在、当ブログは休止中ではありますが、ブログ自体は止めたわけではありませんので、時々はこのように新規での記事作成・更新は行います。

また、今月の22日には当ブログ開設から丸9年となりますので、それまでには、また、ある程度は引用記事も含めて更新したいと考えています。引用記事のネタに関しては、まだストックは十分にあり、当ブログ作成に用いているPCの周囲に、平置きで20~30㎝の高さに積まれたものが5つほどあります。これらは、手に取り、しばらく頁を繰ってみますと、大抵は自分なりに興味深いと思われる記述に当たりますので、この偶然による書籍の選択もまた、それなりに面白いものがあると云えます。

書籍と云えば、先日アレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読了し、現在はまた、新たな著作を何冊か読み進めていますが、これらも読了に至るまでには、それなりに期間を要することが見込まれます。そして、そのうちの一つがまたトクヴィルによる著作なのですが、こちらもさきに読了したものと同様に興味深いものがあり、おそらく、多少難儀するでしょうが、どうにか読了にまで至ることが出来ると考えています。

そうしたこともあり、引用記事のネタは、更に増えていくわけですが、これに基本となる自らによる更新記事分(予定)を追加しますと、前述の来る6月22日に迎える当ブログ開設丸9年以降も、さらに1年間ほどは、ブログを継続することが可能であると考えます。そうしますと、未だ先のハナシではありますが、10年の継続も、そこまで困難ではないようにも思われてきます。

ネット情報によると、ブログ継続期間の割合は3年間で3%ほどとのことであり、現在の9年近くであっても長期間であり、さらに桁が異なる10年間となりますと、それなりに「頑張った」と云えるのではないかとも思われます・・。

そこから、当ブログ開設当初の頃を思い返してみますと、何人かの周囲の方々に勧められ、そのうちの一人の方から「修士論文で書いたことを整理して加筆修正や関連する文章を作成すれば、しばらくは継続出来ますよ。」とのアドバイスを頂き、実施したところ、たしかに当初の数カ月はそれでどうにかなり、さらに、それらを作成する過程で、また関連する題材が思い出されて、なかば備忘録としてブログにて引用記事を作成したところ、徐々に興に乗ったてきたのか、さらに、さきの方々との会話の様子などを対話記事として作成出来るようになり、今度は2016年のある時に、助走の後の離陸のように独白形式の文章を作成出来るようになっていました。そして、その後は紆余曲折やスランプを経て、どうにか現在に至っているのですが、そこから考えますと、2015年に頂いたアドバイスはかなり的確であったのだと云えます。このアドバイスをされた方とは、その後、現在に至るまで、年二回、お目に掛かる機会がありますが、直近のそうした機会に「あのアドバイスは良かったと思います。どうもありがとうございます。しかし、なぜ、そのようなアドバイスをされたのですか?」との主旨の質問をしたところ「いや、修士論文で書いたことは、その後の研究の基礎になりますからね。それに、修士論文は何といいますか、子供の頃からのその人の興味のエネルギーが詰っているものですから、その後、色々と迷った時に見返してみると、そこから色々なアイデアの種が見つかるのだと思います。」といったお返事を頂きました。

たしかに、このお返事には刺さるものがあり、当時、作成した修士論文は、稚拙ながらも私としては、それなりに努力を積み重ねたものであり、また、その題材のうちの一つであった銅鐸については、当ブログ当初での加筆修正などで思い出されたのか、現在に至るまで断続的にではあれ、これを題材として記事や引用記事の作成をしていますので、こちらも的確であったと云えます。そして、その記憶からはじまって次の鹿児島での記憶も励起され、それを題材として、ブログ記事を作成することが出来るようになったことは、当ブログのみならず、それを作成した自分にとっても、それなりに良い効果を持っていたのではないかと思われるのです。とはいえ、今しばらくは基本的に作成は休みますが、来る22日に当ブログ開始から丸9年になるまで、時々は更新したいと考えていますので、引続き、どうぞよろしくお願いいたします。そして、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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