2023年6月29日木曜日
20230628 和歌山大学の学生・教職員による書評『Ritornello (リトルネロ)Books & Media Review』第45号 阿部秀二郎著「いま、考えておきたいこと」pp.10‐11より抜粋
カサルスは、バイオリニストのティボー、ピアニストのコルトーとともにトリオを組み数々の名演を残して来たとされる。個性豊かで好みも異なる世界的演奏家たちがトリオを組み、長く活動を行うことができた理由は、それぞれの音楽性に対する尊敬の念があったからである。しかし信条において、カサルスはティボーやコルトーとは一線を画していた。のみならず信条を誓約するために、カサルスは画した一線を隠そうとはせずに、実際に行動したのである。
カサルスは家庭でも、カタロニアの地域的特質という面でも共和制に共感を抱いていた。カサルスは10代のころ、精神の危機に落ちる。感性の成長が著しく妨げられることにより危機に陥ったJ.S.ミルとは異なり、カサルスの場合には様々な書物を読み漁ることで、音楽のもたらず「美」や「善」ばかりではなく、世の中には貧困や本性的に問題のある人間などの「悪」が存在することに気づく。「悪」が存在する悲しき社会において生きるべき価値や意味は何か問ううちに、音楽が続けられない状態になってしまう。カサルスは宗教や共産主義思想にも救いを求めるのであるが、前者は何も回答を与えず、後者は欺瞞に満ちたものと感じられた。結局、カサルスは自らの良心に立ち返ることになる。そしてその経験により、信条への誓約はより強固なものとなった。
ヒトラーが勢力を伸ばした時に、ワーグナーなどの楽曲が利用されたのは有名である。共産主義思想のみならず、ナチス労働党の思想もカサルスにとっては人間的価値を尊重するものには到底思えなかった。そうすると、ナチスに利用されるワーグナーの楽曲も、またその楽曲を当時ベルリンなどで演奏する演奏家もすべて、尊重されるべき人間的価値とは一致しないものになる。受け入れるわけにはいかないのである。ティボーやコルトーはこの点でカサルスよりも柔軟であった。ティボーはヒトラーの前での高額な待遇の演奏を受け入れることはなかったが、コルトーはフルトベングラーとナチス支配下のドイツで共演することもあった。
そしてティボーやコルトーはカサルスとは異なるチェリスト(フルニエ)とトリオを組み活躍している中で、カサルスは活動を停止したのである。
経済学において利己心が経済活動の中心であるとする考え方はアダム・スミスが提示したが、スミスが提示した当時は、道徳哲学がテーマになっており、人間は利己的存在か利他的かという問題に対する議論が展開されていた。スミスは、両面が存在するが、利己的側面が社会的利益をもたらす可能性もあると指摘する文脈において、便宜の理論を説明し、市場経済の利益にも言及したのである。こうして当時は社会生活において、利己は消極的に容認し得るものであった。しかし長い時を経て、利己が幅を利かせる時代になってきた。利己を前進させるための制度やインセンティブの研究が進み、それを妨害する存在は効率性を損なうという理由で排除されるようになっていく。
カサルスたちが生きる時代もその途上に存在した。報酬がどの程度であったかは調査していないが、自己顕示欲を掻き立てるインセンティブという点で、コルトーにとってフルトベングラーとともに、ナチスを鼓舞する演奏会での拍手喝采は魅力的であったのかもしれない。
そのような中で、コルトーはカサルスの態度をどう見ていたのか。コルトーは第二次大戦終了前にパリがナチスから解放されたときに、フランス軍に拘束されることになる。そして今度はコルトーが活動を停止することになる。そしてコルトーは良心の呵責を感じていたのである。
ではカサルスの時代からさらに進んだ現代においても良心は存在するか。このことはサミュエル・ボウルズらのラディカル・エコノミストによる分析(「モラル・エコノミー」)によって明らかにされている。彼らは利己的な金銭的インセンティブと良心などのモラルが本来不可分なもの(スミスもミルも分かっていた)なのに、現代の経済学では可分とされてきたこと、しかし実験に基づく人間行動は良心を有し、インセンティブが適切に利用されないと、良心の作用が弱まり、結果的にマクロ的に社会に不利益をもたらすこと、を説明する。
旧キエフ公国で起こっていることに対して、その戦争や破壊が日本にもたらすコスト・ベネフィットを分析し、対策を論じることは重要なことであろうが、その考え方だけでは狭隘であろう。ケインズが感覚的に良心に従い、世論または既存の経済思想とは異なる考え方を展開したように、ひとまずじっくりと、内に存在する声と向き合い、そこから何を考えるべきか探りたい。
2023年6月28日水曜日
20230627 8年間のブログ継続と「理解についての感覚の変化」
ともあれ、これまで8年間ブログを(どうにか)継続してきましたが、開始当初の記事を読んでみますと、これまでの間に変化したもの、しないものが理解出来るような感覚を覚えます。私見として、この「理解出来るような感覚」の先にいくつかの段階があるのでしょうが、おそらく、本当の理解があるのではないかと考えています。そして、これまた感覚的ではあるのですが、私にとって、これまで当ブログを継続したこことの一つの大きな意味は、この「理解についての感覚が変化」したことです。これまで8年間、自分の興味や、専攻分野およびその周辺について、いくらかは専門知識を反映させたブログ記事を作成してきましたが、こうした行為の継続は、全くの自主性・内発性に依拠していることから、さきに述べたような「理解についての感覚の変化」が感じられたのではないかと思われるのです。
そしてまた、この「理解についての感覚の変化」に付随して嗜好の変化もまたごく自然に生じると思われます。それは食べ物であったり、あるいは読む書籍であったりします。私の場合、いくつかの地域・時代区分の歴史について扱った書籍は、比較的長期間にわたり継続的に読んでいると云えますが、その他の時事問題およびその背景について扱った著作は、これまで継続してきた読書と、何らかのカタチで結び付けることにより、大抵は読了にまで至ることが出来ます。このようにして、これまで未知であった異分野の書籍を読むことは、やはり年を追うごとに困難になってはきていますが、他方で、軸となる、ある程度勝手知ったる分野があれば、それに結び付けて、また新たな分野を学び、知ることは、その行為が自主性・内発性に依拠していれば、そこまで困難なことではないようにも思われます。
そして、こうした気付きの基層にあるものも、当ブログの継続であったと考えます。おそらく、口語においてもそうした傾向があるとは思われますが、ある程度の期間継続して文章を作成していますと、作成文章の中から、自らの文章のクセあるいは個性のようなものが観念的ではあるのですが、対自的なものとして認識出来るようになり、そしてその蓄積によって、さきの「理解についての感覚の変化」へと至るのではないかと思われるのです。
とはいえ、そのある程度の期間は人によって異なると思われますが、おそらく、短くとも1年以上は要するのではないかと思われます。そして、1年以上にわたりブログ記事作成を継続するためには、先述のように継続出来る、いわば軸となる分野を見出すことが重要と云えます。私にとってそれは、さきの「いくつかの地域・時代区分の歴史」であったと云えます。そして、それら分野にて、これまでに作成してきた文章などを切り取り、改編などをして、当初はブログ記事として投稿してきましたが、この手法に拠りますと、読書を続けていれば、自らによる文章だけでなく、引用記事の作成なども可能となり具合が良かったのだと云えます。そして、その継続のさきに、さきの「理解についての感覚が変化」が生じるのだとすれば、それはやはり、今しばらく継続した方が、「より面白い変化が生じるのではないか・・」と考えるのは妥当であると私には思われます。それでも、今しばらくは休みますが・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2023年6月26日月曜日
20230625 19世紀後半から続く我が国の「文明開化」・「開化」について①
そこで、はじめに一般的な「開化」の概念を検討します。この検討に際しては、対象となる事物の要素に定義を付与する必要がありますが、この「定義を与える」という行為には注意が必要です。なぜならば、定義は事物を制約してしまうからです。その意味において我々は、複雑な事物に定義を付与して明解な説明を可能にする研究者の方々の知見と能力には敬意を払いつつも、その付与する定義には注意を払い、慎重になる必要があります。なぜなら、定義は先述のように、対象となる事物に不要あるいは不自然な制約を加えることがあるからです。
たとえば、幾何学では円は「中心から円周上の任意の点までの距離が等しい図形」といった定義が付与されますが、これはあくまでも理想的な円を想定したものであり、現実にある円を完全に説明し得るものではありません。また、現実にある物体やその形は絶えず変化しています。それ故、さまざまな事物を説明する際に用いる定義は、現実の変化に対して柔軟に対応出来るものが望ましいと云えます。
あるいは、これを説明するための具体例として、化石化した樹脂である琥珀が挙げられます。しばしば、こうした琥珀の中に蠅などが閉じ込められていることが見受けられます。これを透かして見ますと、たしかに蠅の姿が確認できますが、それは実在はするものの、死んでいる蠅です。それゆえ研究者の方々がくだす定義には、この琥珀の中の蠅のように実際には生物ではなく、死んでいると評価され得るものもあります。そして、こうした事例からも分かるように、現実での運用においては、厳密な定義よりも、変化に対応可能な柔軟な定義が有用であると云い得ます。
そして次に、先述しました「文明開化」そして「開化」の要点について考えてみますと、それは端的に、我々の活力の発現の仕方であると云えます。これを詳述して、活力の発現の仕方について考えてみますと、それは大きく積極的なものと消極的なものに分類出来ます。
我々の存在は解釈の仕方によって多様な意味を持ち得ますが、それらの意味を検討するためには、活力の発現の仕方、そしてその持続や進化などが大事な要素となります。
もう少し具体的に述べますと、外部からの刺激に対する我々の反応の仕方は多岐に渡り、刺激があるたびに活力の発現を制限して、できるだけ活力の節約を好むといった性質や、反対に刺激を求めて活力を消耗させることを好むような性質もまたあります。
こうした外部からの刺戟に対する反応の仕方は、活力節約と、その逆の活力消耗の二つの性質として認識されます。活力節約の性質は、概ね義務を果たすための刺激に対して起こります。我々の社会では一般的に義務を果たすことが好ましいとされていますが、これは人間の活力発現の様子を観察して、さらなる組織の発展を促進するうえで重要な役割を持っています。一方、活力を自由に発現する方の意欲は、趣味や娯楽などの活動においてきわめて重要なものであると云えます。具体的には釣り、読書、運動、など多様な活動がこれに当たります。そしてまた、文学、科学、哲学なども、本質的にはこの意欲の発現と云えます。つまり、開化においては、活力の発現やその進化、持続といった要素以外には適切な説明は存在しないと云えます。そして我々の生活状態とは、外部の刺激によって活力が、どのように反応するかを観察することによってほぼ理解できるものと考えます。
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2023年6月24日土曜日
20230623 これまでのブログ記事作成の基層にあるもの②
先日投稿のブログにて書きました通り、やはり移動をしていますと、ブログ記事の題材となる、さまざまな想念などが、比較的よく生じるようであり、今回の記事作成に関しても、身体的に少し疲れ気味でありつつも、何かしら書いておこうと、先ほどから作成を始めた次第です。また、当記事の作成後に、いくつかのメッセージや文章を作成する必要がありますが、本日に関しては、どうしたわけか、この夜半を過ぎた時刻であっても、あまり気落ちせずに記事作成が出来ています。
あるいは、昨日からの和歌山への訪問によって多少活力が戻ったのかもしれません・・。そういえば2012年以来、概ね半年毎に和歌山市を訪問させて頂いていますが、市内の閑散とした様子は、総じて年を追う毎に強くなり、今回の短い滞在であっても、やはりそれを感じました。
しかし他方で、和歌山市は、その南の紀三井寺・海南方面や、東の紀ノ川上流(吉野川)方面からの自然豊かな環境の大気が流入する地域であるためか、何と云いますか、大気に自然の薫りが濃厚であり、まさしく「空気が美味しい」と感じられる場所であると私見ながら思います。
そして、その大気の薫りは、南紀のそれとも相通じるものがありますが、南紀の方がより野性的で、自然の薫りが濃厚であるように思われます。そして、そうした環境の中でしばらく在住していますと、コンラッドの「闇の奥」にもあったように、こちらの内面の方に何か変化が生じるのではないかと思われるのです。
私の場合、そうした環境にて、読書や勉強の延長のような活動を何となく続けていたことが、その後に意外と大きな影響を及ぼしたのではないかと思われるのです。そして、その後の和歌山市に在住した人文系の院生時代では、それまでではないほどに書籍を読み、それは、たしかに面倒なこともあり、また辛いと感じることも度々ありはしましたが、それでも全体としての和歌山市での人文系の院生生活は、読書や議論など体感を通じて学ぶことが出来た、大変有益で充実した期間であったと云えます。
あまり人から聞くことはありませんが、人文系での大学院修士課程で自分が扱ったテーマ、およびその周辺領域については、かなり強く記憶に残るものであると思われます。
実際に私も、当ブログ開始当初の頃「何をテーマにブログ記事を作成すれば良いか・・。」と考えて、修士論文の一部に加筆した文章を幾つかに分けて複数のブログ記事として投稿していました。
これは、以前に書籍や資料をあたって調べた情報を、脈絡とまとまりのある文章(修士論文)にしたものに、あらためて加筆をしてブログ記事にしたということになりますが、ここで大事であると思われるのは、以前に、自らの手で、ある程度精魂を込めて作成した文章がデジタル情報として、比較的気軽に読むことが出来るようになっていたことであると思われます。
そして、そうした気軽に閲覧可能な自らのの作成した文字情報(ブログ記事)が、ある程度蓄積しますと、それらの蓄積したブログ記事が、自らの記憶を参照する際の補助機能(データベース?)を持つようになるのではないかと思われるのです。これは先日の2000記事到達以前から度々思っていたことですが、これについては未だ明文化出来る状態ではありませんが、また以降、こうしたことも考えて、ブログ記事を作成出来ればと考えています。
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2023年6月21日水曜日
20230620 これまでのブログ記事作成の基層にあるもの
その間、やはり「自らの文章によるブログ記事を作成したい・・。」と思うことは度々ありましたが、特に強いものではなく、またそれは、徒歩や電車での移動時に訪れることが多かったです。
以前、当ブログ開始当初の頃(2015~2016前半)であれば、そうした折に訪れた想念・考えを、手持ちのメモにペンで記録しておき、帰宅後にメモ帳を開き、乱暴に書かれた文章をなかば解読するように思い出し、そして、キーボードでPC上の文章として入力していましたが、この、しばらくの期間継続した習慣は、ブログ記事の作成を強く促す内的衝動の結果、いわば苦肉の策としてはじめられたものでした。
またこれは、それ以前のホテル勤務であった頃から身に着いたものでもあり、再び何らかの目的を設けて実施することはあまり苦にはなりませんでした。やがて、この習慣をしばらく続けた2016年の半ば頃、どうしたものか、昼間に書いたメモを読み返すことなしに、それに該当する昼間の記憶がよみがえり、そして、それをどうにか文章化することができるようになり、他方でブログ記事作成のためにメモとペンを用いることは少なくなりました。
以来、こうした独白形式のブログ記事の文章は、PC前に座り、しばらくしますと、何となく作成し始めて、やがて徐々に興に乗り、集中することが出来るようになりました。
この、ある程度身体化された習慣もまた、さきのメモとペンと同様、それ以前の人文系・歯系の院生時に身に着いた習慣と云え、オンライン辞書を用いてPC前で英論文を翻訳しつつ読み進めたり、さらに以前の経験であれば、映画作品を英語字幕にして観つつ、興味深い、あるいは仕事で使えそうなセリフの場面で一時停止をして、その口語文章を構成している単語を手持ちの辞書や電子辞書を用いて調べつつ(チンタラ)勉強らしきことを遊び半分で行っていた南紀白浜のホテル勤務時の経験もあったのではないかとも思われます。
そして、これらの経験全てが噛み合いつつ駆動して、どうにか総投稿2000記事まで(どうにか)8年近く継続することが出来たのではないかとも思われます。またおそらく、来る6月22日までは当ブログは継続すると思われますが、その後、新規で目標を設定して、さらに当ブログを継続するのかは、考えてもいませんし、また現時点ではあまり考えたくありません・・(苦笑)。
とはいえ、以前の1000記事到達後も、いつのまにか当ブログを再開していましたので、あるいは我がことながら、今回もまた、そのようになってしまうのではないかという危惧があります・・。
また、さきに少し出ましたが1000・2000記事到達後の違いを思い返してみますと、1000記事到達と比べ、2000記事への到達は、私にとってかなり大きな負担となりました。そしてまたこの先、3000記事・・と考えてみますと、さきにも述べましたが現時点では、少なくとも、あまり前向きな気持ちにはなれません・・(苦笑)。
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2023年6月19日月曜日
20230618 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」pp.560‐562より抜粋
ISBN-13 : 978-4120023040
日本の古墳時代は、大きくとらえるならば、中国の華北と華中の分裂、対立の時代に存続し、髄から唐による統一の時代には、終末期をむかえ、やがて終わりを告げる。日本の古墳時代の成立や存続について、中国の国家からの政治的影響を強くみようとする説もあるが、私は基本的にはその見方は、こと古墳時代については、まったく逆であるとみている。
ところで「海と陸のあいだの前方後円墳」において、大和や山城と海への交通路について一つの見通しを立てた。それは、簡単にいえば、日本海の要港敦賀津から近江、山城、摂津(北河内も)への交通路を中心にした淀川水系と越にまたがる一つの政治的まとまりで、文献的には”継体勢力の南下”といってもよいし、古墳としては、今城塚や宇治二子塚を重視した。また水運にたずさわる集団として、紀伊勢力と隼人を重視した。このうち紀伊勢力については、紀ノ川の水運と淀川の水運とが類似したものであることが、さらに注目される。
また短期間とはいえ、淀川水系と越の中継地として宇治の勢力についても改めて注目した。この時期、いいかえれば、紀ノ川の河口地帯に、左岸では岩橋千塚、とくに井辺八幡山古墳、右岸では大谷古墳などが造営されていて、大きな勢力をほこっているが、「日本書紀」では紀直の遠祖を菟道彦(うじひこ)としていて、その女影媛(むすめかげひめ)と大王家との婚姻関係も伝えている(景行三年条)。時代はともかくとして、宇治を根拠地とした淀川水系と紀伊勢力とのつながりを示すものとして注目される。
継体勢力に象徴される淀川水系と越との地ーさらに日本海沿岸の各地ーが五世紀後半ごろから急速に発展し、とくに六世紀前半の古墳にはその時期として注目すべきものが造営されだすが、その背景には、東アジアでの高句麗勢力の強大化があるだろう。
2023年6月18日日曜日
20230618 中央公論新社刊 今井むつみ・秋田喜美著「言語の本質」 -ことばはどう生まれ、進化したかー pp.164‐165より抜粋
-ことばはどう生まれ、進化したかー
pp.164‐165より抜粋
ISBN-10 : 4121027566
ISBN-13 : 978-4121027566
実は、オノマトペの持つアイコン性には、二つの種類がある。一つは、ことばを覚える前の赤ちゃんでも感じることのできる、脳が自然と感じる音と対象の間の類似性である。もう一つは、解釈によって生まれる類似性である。前者が「似ているから似ている」なら、後者は「似ていると思うから似ている」と言ってもよい。
「似ていると思ってしまう」原因は多数あるが、その中でも注目すべきは言語と文化の習慣で、とりわけ強力なのは、「同じことば」が適応されることである。ある言語で○と△が同じことば(単語)で表現される場合に、別の言語では異なることばで区別されることは頻繁にある。
たとえば、日本語では「水」と「湯」は別のことばで区別される。英語ではどちらもwaterである。逆に、英語ではwatchとclockは区別されるが、日本語ではどちらも「時計」である。このように、ほぼ同じ意味を持つが、日本語では別のことばで言い分け、英語では区別しない概念のペアをたくさん用意して、それぞれのペアの類似度を日本語話者、英語話者に評価してもらった研究がある。予想どおり、日本語話者も英語話者も、自分の言語で区別しないペアのほうを、区別するペアより類似性が高いと評価した。つまり、日本語話者なら〈腕時計〉ー〈壁時計〉のペアを〈水〉ー〈湯〉よりも「似ている」と判断したのである。
私たち人間は多様な基準で類似性を感じる。とくに二つのモノ(あるいはことば)が同じ概念領域に属していたり、あるシステムの中で同じ要素を持っていたり、接辞を共有していたりすると、それだけで「似ている」感覚は強くなることが実験的にも示されている。たとえば、〈イヌ〉と〈首輪〉、〈イヌ〉と〈犬小屋〉、〈懐中電灯〉と〈寝袋〉、はては〈サル〉と〈バナナ〉などは、非常に類似性が高いと評価される。
つまり人が感じる類似性は、見た目が似ている、内部構造や関係が似ているなどのいわゆる規範的な類似性だけではないのである。いつもいっしょに現れる(使われる)もの同士にも類似性を感じるし、同じ接辞がつく、同じ重複の形で現れるなど、同じ形の言語パターンを見つけると、それだけで類似性を感じる。このような文化や言語によって作られた「類似性」は、音と意味の間の類似性(アイコン性)の感じ方にも影響を与える。
2023年6月14日水曜日
20230614 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.202-205より抜粋
pp.202-205より抜粋
ISBN-10 : 4121025539
ISBN-13 : 978-4121025531
本来、ナチスの防衛団であるSAを、その母体から生まれたSSが、どうして襲撃したのか?それについてはSAの成り立ち、以後の発展、指導者をたどらなくてはわからない。1919年のワイマール共和国誕生とともに、さまざまな政党が誕生した。共産党、社会民主党、国家人民党、中央党、国権党・・・。ひところは30にあまる政党が林立していた。絶えず離合集散し、多数派をつくって政権についても、たがいに足を引っぱり合って何ごとも決まらない。短命の政府があわただしく入れ替わる間に、天文学的インフレが進行し、一時はドイツ通貨が用をなさなくなった。
当時の主要な政治的メディアはホールや広場での演説である。ラジオは始まっていたが、受信機が高価で、一般の人には手が出ない。党首が演台、あるいはベランダに立ち、長々と演説をする。それを支持者が取り巻いて、要所ごとに熱烈な拍手を送った。
当然、反対党が妨害にくる。支持者が撃退に打って出る。政治集会がしばしば乱闘の場になった。そのころの写真は、広場を埋めた大群衆の一方で、つかみ合い、殴り合う山高帽や鳥打帽のむれを伝えている。
おのずとどの政党も防衛団をそなえていた。極右団体にかぎらず、リベラルな党も屈強な若者をよりすぐって演説防衛隊をつくり、演台の周りに配置した。ワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法といわれたが、各政党はいずれも、前近代的な暴力組織に頼っていた。
1921年7月、ナチスの臨時大会でヒトラーは党首に選ばれ、直ちに組織の改変に取りくんだ。これまで「整理隊」「秩序隊」「警備隊」などと呼んでいたのを「体育・スポーツ隊」に統一した。会場防衛が任務で、具体的には共産主義者の妨害を排除する狙いがった。「体育・スポーツ」の名称は無害化して目的をくらますためだったが、意味不明で意気が上がらないといった声が隊員から出てきたのだろう。二か月後の9月、「突撃隊(SA)」と改め、11月の党大会で正式に発表した。弱小政党ながら、それまでに何度か、集会場の乱闘で勝利を得ており、勇ましくて格好いい名称に昇格したわけだ。ヒトラーの古くからの盟友エルンスト・れーむが突撃隊指揮官についた。
レームは1887年、ミュンヘンの生まれ。ヒトラーより2歳年長。第一次世界大戦では陸軍大尉であって、この点で伍長どまりのヒトラーのはるかな上官にあたる。軍事組織をつくる才能の持ち主だったのだろう。ミュンヘン一揆失敗のあと、党首ヒトラーが入獄中に「戦線団(フロントバン)」という3万人の組織をつくり、それをそっくり再建されたナチスの突撃隊として採用した。
ヒトラーにとってはSAはナチスの下部団体だが、育ての親レームには、自立した軍事部門であり、いずれナチスが政権につくときには、国防軍を補助する予定だった。そんな両者が折り合うはずはなく、1925年4月、対立が激化してレームは突撃隊指揮官を辞任した。ヒトラーは党員ザロモンを後任に任命、レームはボリビアより軍事顧問に招かれ、ミュンヘンを去った。
やがてナチスは国内の政情不安のなかで着々と勢力をのばし、1930年の国会選挙で第二党に躍進。この間、突撃隊は着実に増加したが、その一方で不満が高まってきた。薄給に据えおかれ、党員でありながら国会議員選挙の名簿にも加えられない。
1930年8月には、ベルリンの東部SA副司令官が部下を率いて、ナチス・ベルリン大管区長ゲッペルスの選挙演説を妨害する事態になった。守るべき者が逆に妨害を引きおこした。ザロモンが辞任したが、責任をとったというより、いっこうに改善されない待遇を党本部に抗議するためだった。さしあたりヒトラー自身が指揮官を兼務しつつ、急遽ボリビアのレームに帰国を促し、あわせて突撃隊員の報酬増額を約束した。
11月、レーム、帰国。ナチスの要請に答えたもので、SAの指揮官はSSに命令する権限を持たない。独立を強調するため、SS独自の黒い制服を定めた。
以上が「長いナイフの夜」の前史にあたる。この間の三年間にレームの育成のもと、突撃隊は300万を数えるまでに増大した。国防軍をはるかに凌駕する勢力である。ヒトラーが権力を掌握し、全権委任を取りつけて二年目。1934年の初頭から、出所不明の不穏な風評がひろまっていた。SAが武装蜂起するというのだ。
2023年6月12日月曜日
20230612 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋
ISBN-10 : 4480084886
ISBN-13 : 978-4480084880
日本の18世紀において絶えず進んだ過程は、学校教育の普及である。幕府は教育を奨励し地方政府もその経営する学校(藩校)を新設した。この傾向は、ことに18世紀後半に著しい(創立年代のあきらかな278校のうち、18世紀中葉以前の創立は、40校にすぎず、18世紀後半の創立は80校に及ぶ。すなわち18世紀後半の50年間は、それ以前の150年間の2倍に相当する速さで、藩校を新設したということになる。笠井助治「近世藩校に於ける学統学派の研究」上、吉川弘文館、1969、72頁、参照)。藩校は武士の子弟の教育を目的とし、その教育の内容は次第に実用的なものになろうとしていた。
ただし地方政府も有能な官僚の必要を自覚しはじめたからであろう。その結果、後述するように、武士知識層に専門分化の傾向を生じたのである。他方幕府は、武家ばかりでなく、一般町人にも官立学校の一部を開放し(昌平坂学問所の一般人向け講座開設、1718)、町人のための私塾を援助して、官立に準じるものとした(江戸の会輔堂、1723、大阪の懐徳堂、1725)。また京都の町人を対象として開かれたいわゆる「心学」の塾(1729)は、18世紀後半に至ると多数の人を集めて、全国的な支部をもつようになった。「寺子屋」の初等教育を除いて、武家・僧侶による教育の独占は、18世紀に破られたのである。もしこの世紀を町人の時代と称び得るとすれば、その背景は、上層・中層の町人(および)一部の農家)にとって、高等教育が手のとどくものになったということにほかならない。町家出身の学者は輩出したばかりでなく、その思想の独創性において、武家出身の知識人を圧倒するようになった。
この時代を通じて絶えず繰り返された現象は、農民大衆の蜂起である。18世紀を通じて、「一揆」・「とりこわし」の有名なものだけでも35件以上、「強訴」・「越訴」の類を加えると、70件に及ぶ。動員された農民は、しばしば数千人、稀には数カ国にわたって数十万人の参加したことさえある(たとえば「伝馬騒動」、1764年12月~65年1月、には、武蔵・上野・下野・信濃の中山道沿いの村民、20万人以上が加ったといわれる)。原因は多くの場合に、飢餓と絡んで年貢米や米の買溜めに係っていた。その背景には、商品経済の発達と全国市場における米価の著しい動揺があり(幕府は米価が下落すると、商家に米を買支えさせ、価格が上がると、買溜めの商家を罰し、数年毎にそれを繰り返していた)、また年貢米に依存する武家の財政難とそれに伴う取立ての強化があったろうと察せられる(徳川時代に幕府が繰返した「改革」は、いずれも「倹約」を主要な「プログラム」の一つとしていた。また徂徠の「政談」以来、儒者の献策として今なお残るもののなかに、中央または地方政府の財政難の対策を説かぬものは少ない)。一揆の結果は、支配者側が農民の要求(年貢米の軽減、代官の交替など)を容れた場合にも、容れなかった場合にも、武力弾圧と農民指導者の処刑であった。徳川時代の全体を通じて知られている百姓一揆は、3000件に近いというが(2967件、年平均10.6件、青木虹二「百姓一揆の年次的研究」)、そのいずれも武家独裁の体制の変革をもとめたのではなく、その体制を前提として局地的な政策をもとめていたということは、この国の事情の中国や欧州とのちがいを示している。太平天国の乱や農民戦争はおこらなかった。しかし一揆とは性質のちがう大衆運動に、18世紀以後数度繰返された「おかげ参り」(または「抜け参り」)もある。町家および農家の妻女子弟や下男下女などが、夫や親にも告げず、領主の「往来手形」も持たず、しばしば旅費さえも調えずに、集団的に伊勢神宮の旅へ出かけた現象である。その数およそ数百万(1705年と1771年の「おかげ参り」では、2・300万とされ、1830年には、500万人ほどが参加したといわれる)。ここにも抑圧された大衆感情の発作的な表現があった。
2023年6月11日日曜日
20230611 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.242-244より抜粋
pp.242-244より抜粋
ISBN-10 : 4309231144
ISBN-13 : 978-4309231143
対馬の島影は、古代からこの海を渡った人々にとって、きわめて印象的だったにちがいない。「万葉集」巻一に入唐使節団を送る春日蔵首老の歌が一首のっている。
ありねよし対馬の渡りわた中に幣とり向けて早かへり来ね
「ありねよし」は対馬の枕言葉とされているが、これは海上から対馬に近づく人々の実感をきわめてよくあらわした言葉である。海上十里くらいのところから見た全島の姿(もっとも、上島の方は霞んで見えないのが普通だろう)の中心をなしているのが「有嶺よし」と歌われた有明嶽(558メートル)である。その左手にやや遠く対馬第一の高峰矢立山(649メートル)がそびえているが、これは島の左手に偏っており、稜線が有明ほどに流麗ではないので、船人の眼にひきつけるポイントになりにくい。対馬の国府厳原は、ちょうどこの有明の真下にいだかれている。
船は、壱岐の勝本に20分ばかり寄港したのち、針路をやや北に向けて、いよいよ厳原に向かって直行する。かつて、バルチック艦隊が二列縦陣を作って北上した東水道である。壱岐海峡では明るいブルーに輝いていた海流が、ここではほとんど黒く見えるほどの紺色にかわる。
後方には壱岐の島影がしだいに霞みはじめたのに、行手の対馬の島影はなお模糊として遠いというあたりでは、「夫木和歌抄」にあるという古歌の心がそのままに現代人にも了解されるであろう。
漕出る対馬の渡り程遠み跡こそかすめゆき(壱岐)の島松
たしかにこの海上では、古代の人々の心がまざまざと想像される。先史時代から日本と大陸とを結ぶ海上交通の要路に当たっていたために、「百船の泊つる」津の島と万葉にも歌われたこの島への道を、古来、幾千幾万の人々が渡って行ったかもしれない。三世紀に書かれた「魏志倭人伝」に、この島に夷守とよばれる国防官庁の支所がおかれていたことが記されているが、その後の遣外使節団の人々も、兵団の将兵たちも、多くはこの海を渡って対馬に着き、浅茅湾の船待ちして、やがて外洋へと船出して行ったのである。
こうした海上の往来の途上、おそらくは幾つもの大事件がもち上がったはずである。そしてそれらの事件の記憶は、幾つもの神話や伝説にその姿を変え、それらはさらに複雑に習合しあって、今もこの「神々の島」とよばれる対馬各地の津々浦々にあるおびただしい神社の縁起として伝えられている。また、そのあるものは、歌に詠まれ、たまたま歌集に収められることによって、今もなお私たちの想像力に強い刺激を与えることになった。「万葉集」巻十六に収められた「筑前国志賀白水郎歌十首」なども、海上に起こった無数の人間の冒険や悲劇のほんの一端を示すものにほかなるまい。
大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る
荒雄らは妻子のなりをば潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
万葉の註記によれば、神亀年間(724-728、聖武天皇の代)大和朝廷が朝鮮半島に対する国防前線として、また兵站基地として重視していた対馬に、糧食を送る官吏の役目を自らすすんで代行した志賀島の海人荒雄の遭難を悼んで作られた歌である。作者は筑前国守山上憶良とも伝えられているが、こうした海上の悲劇の実感は、現実にこの海を渡るとき、いっそう生々しくよみがえってくる。最後の歌など、この海の澄みきった海中をのぞくとき、むしろ悲痛な凄味をさえ感じさせるであろう。
ともかく、現在考古学的に確認されているところでは、対馬にはおよそ四千年前から人々が住んでいたといわれる。そして、それら先史時代の人々の遺品は、対馬が縄文式文化圏の西の辺境をなしていたこと、つまり、対馬原住民が、早くから日本列島の文化圏に生きていたことを示している。この島に「高御魂神社を始めとして、別天神、神代七代、橘水門、三貴子、綿津見宮、出雲国作り、大八島最初の県直以下の神々が揃いも揃って鎮座せられている。この事実は、実に古事記から見た日本建国の縮図である」(「新対馬島誌」)といわれるのも、いかにもありうべきことと思われる。
2023年6月10日土曜日
20230610 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.24-27より抜粋引用
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182
20230609 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.14‐15より抜粋
ISBN-10 : 4003224817
ISBN-13 : 978-4003224816
「君らも知っているはずだ。その頃僕は、だいぶ印度洋や、太平洋、支那海などをうろつきまわったあげく、ロンドンへ帰って来たばかりだった―六年余りだったかな、―といえば、まず東洋も一通りは味わってしまったわけだが。ところで、僕は毎日ブラブラしながら、よく君らの仕事を邪魔したり、君らの家庭を襲ったりしたものだったっけ、まるで君らを啓蒙することが、僕の天職だと言わんばかりにね。それも一時は愉快だった。だが、暫くすると、じっとしているのにも倦いて来た。そこでまたしても船を探しはじめた、―ところが、こいつがおよそ難しい仕事でね。今度は船の方で見向いてもくれないのだ。船探しにも倦いちまった。
「ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指をおいては、大きくなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。今考えると、北極などもその一つだったと思う。なに、もちろんまだ行ったこともないし、今ではもう行ってみる気もないがね。つまり、魅力が消えてしまったのだ。だが、まだそうした場所は、いくらでも赤道付近にころがっていたし、他にも両半球あらゆる緯度にわたって残されていた。中にはその後本当に行ってみたところも幾つかある。それに・・いや、こんな話はもうよそう。だが、一つ、いわばもっとも広大な、しかももっとも空白な奴が一つあったのだ。そして僕は、それに対して疼くような憧憬を感じていた。
「なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかったし、―恣に少年時代の輝かしい夢を追った真白い地球でもなかった。すでに闇黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。で、僕はふと思い出した、そういえばこの河で商売をやっている、大きな貿易会社があったはず。畜生、そうだ!これだけの河といえば、船―それも蒸気船を使わなければ、商売のできるはずがない。それなら、そいつに一つ乗りこめばいいではないか!と、僕はひとり肯いた。そしてあのフリート街を歩きながら、どうしてもこの考えを振り捨てることができなかった。蛇の魅力だったのだな。
2023年6月4日日曜日
20230604 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.273-275より抜粋
pp.273-275より抜粋
ISBN-10 : 4003313313
ISBN-13 : 978-4003313312
およそ社会の進歩を認めないところに、すぐれた歴史が現れようはずはない。せいぜい史実を克明に描写した宋の司馬光の「資治通鑑」ぐらいが関の山である、「資治通鑑」は確かに有用な、すぐれた史書であるが、そこには社会が進歩したとも退歩したとも書いてない。史観のないのが彼の史観である。この書は元来は「通志」という名であったが、「資治通鑑」、即ち政治の参考になる歴史の鑑という名を時の天子、神宗から賜った。誠に鑑のように、史実だけを列べようとした年代記である。ただそこには、先の歴史事実と後にくる歴史事実との間の因果関係を理解させようという努力が認められる。そしてそれから以後、「資治通鑑」に匹敵するほどの歴史さえ書かれなくまってしまった。
中国には司馬遷の「史記」、班固の「前漢書」以下、「後漢書」、「三国志」から「明史」に至るまで、各代の史実がすべてで二十四史あり、正史と称せられるが、この中で歴史的意識をもって書かれていたのは「史記」と「漢書」だけだといっていい。「史記」は太古に五帝三代の黄金時代を設定するが、これを除けば周が衰微してから以後、春秋・戦国・秦を経て、いかにして漢の統一王朝が出現したかを説明しようと努めている。
「漢書」は古代史の頂点をなす漢王朝の繁栄とその一時的衰退期たる王莽時代までを区切って、いわゆる断代史の模範を垂れた。漢代の歴史はその前に更に長い歴史をもつことを示すために、前代に活躍した人物の名前を年代順に列べた「人物表」なるものを造って付け加えた。以上の両著はいずれも創意に基づく創作である。ところがそれは以後の各代の正史は、単に雛型に従って事件を記述するだけで、せいぜい一王朝の興隆と衰亡を記すのが関の山で、歴史上における位置付けを試みる意図をもたない。ただ歴史は繰り返すものという見方しか持ち合わせないので、前王朝の衰微が後王朝興隆の原因という簡単な因果関係が理解されるわけである。
だから人によっては、中国には史料はあるが歴史は書かれていないという。たしかにその通りで、骨を折って中国の正史を読んでみても、ただそれだけでは中国社会の発達は分からない。そこで漢代から清朝までをひっくるめて封建時代とするような時代区分論が出てくるのも、已むを得ない結果だと言って言えぬことはない。
2023年6月3日土曜日
20230603 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.265-267より抜粋
ISBN-10 : 4480084886
ISBN-13 : 978-4480084880
「三酔人経綸問答」は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実的な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むことを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制ー一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由などーについても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍縮を強調する豪傑君の話を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。
この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代後れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりにも常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくとも、公然と表明されなければならない。というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。
鶏声暁を報じて、二客が去り、「三酔人経綸問答」は終る。その末尾の文句は次のようでようである。「二客竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べりと。而して南海先生は依然として唯酒を飲むのみ」。
「三酔人経綸問答」は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係解釈のし方にいたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見ーすなわち価値と現実との関係の具体的な定義ーのこのような相対化は、十九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値ー自由平等と民権ーを相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。
2023年6月1日木曜日
20230601金関丈夫著「日本民族の起源」法政大学出版局刊」pp.189-191より抜粋
ISBN-10 : 4588270559
ISBN-13 : 978-4588270550
弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。
縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。
それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。
さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。