また、今月も残すところ僅かではありますが、昨日の時点にて月の閲覧者総数が20000人に到達しました。
また、これまで7月より月間総閲覧者数が20000人に到達しておりましたが、今月はそのペースが若干早いようであり、このままのペースで行きますと31日には2万数千人にまで到達するのではないかと思われます。
しかしながら、以前もブログ記事にて記しましたように、ここから月間総閲覧者数が30000人に到達するまでが一苦労を要するのではないかと思われます・・。
とはいえ、現今の状態まで、どうにかこうにかブログ記事の作成を継続することが出来た主な要因とは、閲覧してくださっている皆様に因っております。
また、昨今は「はてなブログ」においても、こちらで作成した記事をコピペして投稿しておりますが、もしかすると、これもまた、何かしらの影響があるのではないかと思われます。
しかし、何れにせよ、ここまで飽きずに興味を持ち閲覧してくださっている皆様、どうもありがとうございます。
今後もとりあえずキリのいい500記事までは継続的に記事を作成するつもりですので、どうぞよろしくお願いします。
また、閲覧して頂いて、興味深い、面白いと思われましたら「★」・「いいね」などを押して頂きますと、大きな励みになりますので、こちらもどうぞよろしくお願いします(笑)。
さて、先日仕事にて都内某所に行きますと(この地域に出向いたことはこれまでになかった。)商店街の中に鹿児島の物産を扱うお店があり、入ってみました。
比較的新しいそのお店に置いてある商品とは、やはり焼酎がメインであり、次いでお茶、さつま揚げといった感じでした。
また鹿児島ではよく見受けられたペットボトルの「高牧の森の水」が置かれており、これは迷わずに購入しました・・(笑)。
そういえば、現在、コンビニにて購入するペットボトルの水とは、大抵の場合ファミリーマートの「霧島の水」であり、これを飲むとおそらく偽薬効果のようなものであると思われますが、何となく元気になるような感じがします(笑)。
また、都内には各道府県の物産店が多く存在しますが、私はこうしたお店に入り、その物産、商品を見ることが好きであり、また、そこでは大抵、その土地の名水をペットボトルに詰めたもの(大抵のお店にはあります。)を購入します。
そして、それらを飲み、自身とその土地の相性らしきものを感じてみるのですが、これはおそらく首都圏であるからこそ気軽に出来る自身を用いた面白い実験?ではないかと思われます・・(笑)。
さて、ここまで記していて、不図思い起こした著作、養老孟司著「カミとヒトの解剖学」からの一節(pp.225ー228)を抜粋引用し、下に示そうと思います。
あるいはこの抜粋引用部もまた、さきに述べた内容と多少関連があるのかもしれません・・。
「山本七平氏は、歴史について言う。
歴史的に見るといいましても、例えば「方丈記」を見ますと、歴史を「流れ」という自然現象のように見ているわけで、どこから来て、どっかへ流れていってしまう。
ここには「創造・終末」という発想がないわけです。
さらに興味深いのはこのときの鴨長明の見方で、彼は岸辺に立ってその流れを見ているという見方をしているわけです。
いわばこの「流れ」と自分とは関係ない位置にいるわけで、歴史を荷っている自分の生涯は、その‘‘流れ”-というと語弊がありますが―の一部分だという見方はしていないわけです。
そして彼自身は、それを横目で見つつ、出生から死亡までこの世を通過するという形で、自分自身を把握しているわけです。
そして人間が流れと共に流れているなら、それは相対的な意味での動きではなくなりますから、共に流れている人間にとっては動いていないのと同じことで、そして時間の経過とともに生まれかつ世を去るという形で個々の人や事象が把握されれば、結局は、動かない中を通過しているのと同じ意識です。
山本七平氏もそうだし、丸山眞男もそうだが、日本人には「歴史」という観点がないという指摘がなされる。
キリスト教もマルクシズムも同根であるから、そこに「流れる」歴史観と、我々の歴史観は異なって当然である。
山本氏は、日本人は「まだ足りない」でやって来たと書かれる。
民主主義がまだ足りない、福祉がまだ足りない。
歴史観がないのも事実だし、「まだ足りない」も本当であろう。
しかし、山本氏の言われる「歴史観がない」も「まだ足りない」の一種かもしれないのである。
文化というものの中に閉じこもるかぎり、あっちの文化に飛んだり、こっちの文化に飛ぶことは可能だが、どちらにも共通し、どちらをも基礎づける、「普遍」を構築することはできない。しかし歴史とは、もともと普遍を構築しようとする努力ではないのか?
人間という存在が「生まれつき、自然に」持っている道具、つまり人体と、その中に位置する脳とは、どこの土地でも、どの時代でも、ほとんど変わりはしない。
それ以外に、人間の物差はあるか。
歴史観が「ない」文化と、「ある」文化とに共通する基盤とはなにか。
「ない文化」が「ある文化」に喧嘩を仕掛けても、「ある」文化が「ない」文化を尻に敷いても、答えにはならない。
文化の興亡があるばかり。
しかも、どちらもたかだか一・五キロの脳が考えることに過ぎないではないか。
この普遍という物差を、わが国では「人」と表現するのであろう。人間とはどういうものか。
「不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る」と、長明は無責任なことを言う。
しかし、この先を追求しなかった方が悪い。
鴨長明の責任ではない。長明自身は、「不知」と、問題を提起しているのである。
「方丈記」にこう書かれているのを見れば、長明が人間の歴史について、無関心だったはずがないとわかる。
この文章を、一言にして尽くす歴史の定義ととることすら、不可能ではない。
問題は歴史が「あるか、否か」ではない。
歴史とはなにか、である。
あるいは、歴史の前提はなにか、である。
それはそれぞれの社会の、政治的、文化的な存在基礎と、密接に関わっている。
天皇制は歴史ではないのか。
これは生物学で言えば、「生きた化石」であろう。
丸山氏の言うように、「永遠としての現在」がこの国の歴史観であるなら、歴史観が「ない」のではなく、それが歴史観なのである。
そこでは、視覚の関与する時が、瞬間と永遠に分別される。
そして、その間をすべてが「流れる」。
山本氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこでは、視覚の特徴が明瞭に出ているからである。
「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。
長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。
答えを言えば、それが長明の視覚であろう。「方丈記」の書き出しは、まさにそれを言っているのである。
ここでは、運動と水という質量、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。
形の背後には、視覚系がある。
長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚ー運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。
これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているのではないか。
人はあるいはこれを、深読みだと言うかもしれない。
しかし西行や長明の時代に、哲学や理学があるわけではない。「方丈記」に存在するのは、感覚的な表現だけに見えるかもしれぬ。
しかし、本当にそうか。
人間の脳は、西行の頃も、いまも、まったく変わりはしない。
当時存在したのは、具象的な表現法のみであり、その表現法にだまされて、思考の内容まで、具象的と即断しているだけではないのか。
それは歴史における進歩主義ではないか。
後の時代ほど、人間がものがわかっているとは限らない。
哲学的には、他人の思考内容を対象とする議論は、客観的証明を欠く点で悪名が高い。
しかしそれは、表現の具象性が、内容に抽象性がないことの証拠にもまたならないことを、同時に意味しているのである。」
今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震、そして昨今の山陰東部にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして復興を祈念しております。」
「カミとヒトの解剖学」
ISBN:4-480-08674-9
JANコード:9784480086747
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