「さらば古きものよ」上巻 pp.15-17より抜粋
ISBN-13 : 978-4003228616
パスポートの国籍欄には「イギリス国民」と書かれている。ここで私は、「黄金の書」の冒頭にローマ皇帝にふさわしい美徳を授かった先祖や親戚の名前を挙げたマルクス・アウレリウス王にならい、私がローマ皇帝はおろか、ときどきを除いてイギリス紳士でさえない理由を説明したいと思う。母の父方は苗字をフォン・ランケといい、代々ザクセン地方の牧師で、家柄の旧い貴族ではない。貴族を示す「フォン」がつくようになったのは最初の現代史家だった大伯父、レオポルド・フォン・ランケからで、私はある程度彼のおかげを被っている。彼は、「私はキリスト教徒であるまえに歴史家である。要するに私の目的はものごとが実際どのようにして起こったかを発見することに尽きる」と述べて同時代の歴史家の顰蹙を買った。彼らを怒らせたのはそれだけではない。フランスの歴史家ミシュレを論じたさいに、「彼は真実が語れない文体で歴史を書いた」と言ったこともそれに油を注いだ。トーマス・カーライルが彼を「無味乾燥」だと非難したのは決して不名誉なことではなかった。不体裁なまでに大柄な私の体、我慢強さ、エネルギー、生真面目さ、それにふさふさした髪、などは祖父のハインリッヒ・フォン・ランケ譲りである。彼は若い時分には反抗的で、無神論者でさえあった。プロイセンの大学で医学生であった彼は、大逆罪に問われたカール・マルクスを支持して学生デモが行われた1848年には反政府活動に参加した。マルクス同様、彼らは国外退去を余儀なくされた。祖父はロンドンに逃れ、そこで医学の修行を終えた。1854年、彼はイギリス陸軍の連隊所属軍医としてクリミア戦争に従軍した。祖父に関するこうした知識は、子供のころにたまたま彼が言った言葉に端を発していれる。彼はそのとき、「大男が丈夫だとはかぎらないものだよ。セバストポールの塹壕では、小さな工兵が平気な顔をしているのに雲を衝くような体をしたイギリス軍の近衛師団兵がやられて死んでいく、こういうのを何十人も見たもんじゃ」と言った。しかし、堂々として押し出しのいい祖父は長生きした。
彼はロンドンで祖母と結婚した。祖母はシュレスヴィヒ生まれのデンマーク人でグリニッジ天文台の天文学者だったティアルクスの娘で、信心深く、おどおどした小柄な女だった。彼女の父親が天文学を専攻するまえには、ティアルクス一族はデンマークの田舎の習慣に従って父親と息子が交互に別の職業に就いた。偶数の世代は板金職になり、奇数世代は牧師になったわけだが、これはあながち悪い習慣ではない。穏やかな私の性格は祖母から受け継いだものだ。彼女には十人の子供がいたが、一番上の母はロンドンで生まれている。祖父の無神論と急進主義は年を経るにつれ穏健なものになった。彼は結局ドイツに帰ってミュンヘンで有名な小児科医になったが、子供の患者に新鮮な牛乳を飲ませるべきだと主張したヨーロッパで最初の医師はおそらく彼である。通常の手段では新鮮な牛乳を病院に確保することはできない、とみた祖父は模範的な酪農場を自ら開いた。彼の不可知論はルターの敬虔な信奉者だった祖母を悲しませた。彼女は祖父のために祈ることを決してやめなかった。けれども、彼女の祈りはとりわけ子供たちの魂の救済に注がれた。祖父は考え方をまったく改めずにこの世を去ったのではなかった。
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