昨日投稿記事の最後にて「「文学」の持つ意味あいや価値」と述べましたが、私のこれまでの経験からは、認識の仕方、つまり、それまでの考え方を変えるような作品は、いくつかありました。
その一つがポーランドを出自とする英国の作家ジョゼフ・コンラッドによる「闇の奥」であり、そのハナシの筋は、全体的に暗く、また、その作中人物に託された筆者の思想や含蓄、あるいは当時の世界情勢、西欧社会一般での人々の考え方なども描かれていることから、現在であるからこそ、読み直すと面白い作品であるとも云えます。
ともあれ、私が当作品に惹かれたのは、主にその「書きぶり」であり、過日投稿のブログ記事にて、いくつか、その書きぶりを真似て作成したこともあります。
では、その「書きぶり」の「何に」惹かれたのかと考えてみますと、それは、著者の視座が、さまざまな時代や地域を行き来しながらハナシを進める「書きぶり」であり、具体的な箇所を挙げますと、当ブログでの引用記事にもある「僕は大昔のこと、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ―ついこの間のことのようにね。」からの記述です。
こうした、作中にて語り手がいる場所から、二千年近く遡った、大昔とも云える時代にて、あり得たであろう様相を、想像と史実とを織り交ぜて語り、そこから、本題とも云える語り手自身の経験・記憶に結び付け、さきに述べた時代や地域を行き来語りつつハナシを進めるといった、その「書きぶり」に、何かしらの「深み」を感じたと云えます。
そして、その「書きぶり」に「深み」を感じるように背景には、南紀での在住経験があると思われます。つまり、その在住期間に日常的であった場所に、古墳など大昔の遺構がありますと、次第に、そして自然と、それ(遺構)に付随する「深み」や、その背景についても興味を持つようになり、さらに、その次には、その興味に基づいて知った背景などを絡めて、その地域のことを語りたくなっていくのではないかと思われるのです。
これは、私の場合はそうであったと云えますが、こうした何と云いますか、自身の経験と、作中に描かれている様相が「あれ、この状況は**に似ているのでは・・?」と何らかのきっかけで不図、思い付くようなことが、意外と重要であると思われるのです。
また、南紀での在住経験からハナシを進めてきたことから追記しますと、こうした、いわば「自分の境遇との何らかの類似性」を認識することによって感情移入が可能となり、それは歌の歌詞などに対しても同様であり、それを契機として、その歌に対して「自然な感動」をおぼえることが出来るようになるのではないかと思われるのです・・。
これは南紀白浜在住時、退勤後、一人、夜の白良浜に出てみますと聞こえてくるのは波音ばかりであり、あとは海と星空と月と円月島が視界に入るといった状況にて、不図、童謡の「椰子の実」が思い出されて、そのメロディーを口笛でしばし吹いてみますと、その歌詞も思い出され「ああ、これは現在の私のことかもしれないな・・。」と思い、そして、ある種の感傷に浸るといったことがありましたが、おそらく、それ以前には、自分の境遇との類似性から、ある特定の歌に共感をおぼえるといったことはなかったと思われますので、現在考えてみますと、あれはあれでエポック・メイキングであったように思われるのです・・。
また、そうした視座は、歌詞と同様、小説、あるいは論文などに対しても有効であると思われ、あるいは、こうしたいわば情緒的とも云える要素とは、論理的に記述された文章を読み解く際においても重要であるのではないかと思われ、そして、それが昨日の投稿記事、および当記事冒頭にて述べました「「文学」の持つ意味あいや価値」の一面であるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
その一つがポーランドを出自とする英国の作家ジョゼフ・コンラッドによる「闇の奥」であり、そのハナシの筋は、全体的に暗く、また、その作中人物に託された筆者の思想や含蓄、あるいは当時の世界情勢、西欧社会一般での人々の考え方なども描かれていることから、現在であるからこそ、読み直すと面白い作品であるとも云えます。
ともあれ、私が当作品に惹かれたのは、主にその「書きぶり」であり、過日投稿のブログ記事にて、いくつか、その書きぶりを真似て作成したこともあります。
では、その「書きぶり」の「何に」惹かれたのかと考えてみますと、それは、著者の視座が、さまざまな時代や地域を行き来しながらハナシを進める「書きぶり」であり、具体的な箇所を挙げますと、当ブログでの引用記事にもある「僕は大昔のこと、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ―ついこの間のことのようにね。」からの記述です。
こうした、作中にて語り手がいる場所から、二千年近く遡った、大昔とも云える時代にて、あり得たであろう様相を、想像と史実とを織り交ぜて語り、そこから、本題とも云える語り手自身の経験・記憶に結び付け、さきに述べた時代や地域を行き来語りつつハナシを進めるといった、その「書きぶり」に、何かしらの「深み」を感じたと云えます。
そして、その「書きぶり」に「深み」を感じるように背景には、南紀での在住経験があると思われます。つまり、その在住期間に日常的であった場所に、古墳など大昔の遺構がありますと、次第に、そして自然と、それ(遺構)に付随する「深み」や、その背景についても興味を持つようになり、さらに、その次には、その興味に基づいて知った背景などを絡めて、その地域のことを語りたくなっていくのではないかと思われるのです。
これは、私の場合はそうであったと云えますが、こうした何と云いますか、自身の経験と、作中に描かれている様相が「あれ、この状況は**に似ているのでは・・?」と何らかのきっかけで不図、思い付くようなことが、意外と重要であると思われるのです。
また、南紀での在住経験からハナシを進めてきたことから追記しますと、こうした、いわば「自分の境遇との何らかの類似性」を認識することによって感情移入が可能となり、それは歌の歌詞などに対しても同様であり、それを契機として、その歌に対して「自然な感動」をおぼえることが出来るようになるのではないかと思われるのです・・。
これは南紀白浜在住時、退勤後、一人、夜の白良浜に出てみますと聞こえてくるのは波音ばかりであり、あとは海と星空と月と円月島が視界に入るといった状況にて、不図、童謡の「椰子の実」が思い出されて、そのメロディーを口笛でしばし吹いてみますと、その歌詞も思い出され「ああ、これは現在の私のことかもしれないな・・。」と思い、そして、ある種の感傷に浸るといったことがありましたが、おそらく、それ以前には、自分の境遇との類似性から、ある特定の歌に共感をおぼえるといったことはなかったと思われますので、現在考えてみますと、あれはあれでエポック・メイキングであったように思われるのです・・。
また、そうした視座は、歌詞と同様、小説、あるいは論文などに対しても有効であると思われ、あるいは、こうしたいわば情緒的とも云える要素とは、論理的に記述された文章を読み解く際においても重要であるのではないかと思われ、そして、それが昨日の投稿記事、および当記事冒頭にて述べました「「文学」の持つ意味あいや価値」の一面であるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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