2024年9月30日月曜日

20240929 1848年のヨーロッパについて④

 1848年は、欧州全土において革命の嵐が吹き荒れ、政治的・社会的な大変革の年となりました。この「諸国民の春」とも呼ばれる革命運動は、欧州各地で異なる動機や背景を持ちながらも自由主義と民族主義という共通の思想に基づいていました。これまでの保守的な秩序が動揺し、ウィーン体制の崩壊が進む中で欧州は新たな国民国家形成の時代に突入していきます。

『革命の背景とヨーロッパの社会状況』
 19世紀前半の欧州はナポレオン戦争後のウィーン体制の下で比較的安定した状態にありました。この体制は、1815年のウィーン会議で決定されたものであり、基本としては、各国の勢力均衡を維持して、強固に君主制を支えるものでした。しかし、18世紀以来の産業革命の進展に伴い、各国で社会的な変化が急速に進み、都市部の労働者階級や中産階級が力を増していきます。また、自由主義と民族主義の思想が欧州全土に広まり、王政による専制政治に対する反発や民族独立への要求が高まっていきました。さらに、1845年から欧州を襲った深刻な飢饉は、社会不安を一層悪化させました。特にアイルランドでは、ジャガイモ胴枯れ病による大飢饉が発生し、100万人以上が命を落とし、多くの人々がアメリカへ移住しました。フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が起こり、経済的困窮が市民の不満を高め、そして革命への道筋を作っていきました。

『フランスの二月革命とその影響』
 こうした状況を背景として、1848年2月にフランスのパリで2月革命が勃発しました。これは労働者や市民が蜂起してルイ=フィリップ王の七月王政を崩壊させて、前世紀末の革命のように共和政を再び樹立し、第二共和政を成立させました。この二月革命はフランス国内に大きな政治的変革をもたらし、やがて、欧州各地においても労働者と市民が協力して王政支配による不平等に立ち向かう運動が強まり、一方で自由主義や共和政への期待が高まり、欧州各地で市民や労働者による蜂起が続発しました。

『ドイツ諸邦での自由主義運動と統一の夢』
 フランスの2月革命に影響を受けたドイツ諸邦でも、自由主義と民族主義を掲げる運動が活発化しました。当時のドイツは、小さな王国や公国が分立する状態であり、統一された国家ではありませんでした。そのため、多くのドイツ人はこれらの諸邦を一つにまとめ、統一されたドイツを夢見ていました。そうしたことから、1848年5月、ドイツ各地から選ばれた代表者がフランクフルトに集まり、フランクフルト国民議会が開催されました。彼らはドイツ統一を目指し、新しい憲法を作成しようと試みましたが、統一に向けた道は困難であり、国民議会内では、大ドイツ主義(オーストリアを含む統一)と小ドイツ主義(プロイセンを中心とする統一)で意見が分かれ、また、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は国民議会から提案された皇帝の地位を拒否しました。そのため、このドイツ統一運動は失敗に終わりますが、後のドイツ統一への重要な布石となりました。

『イタリアにおける統一運動とオーストリアとの戦争』
 同じく分断された状態にあったイタリアでも、1848年の革命が統一運動を加速させました。当時、イタリア半島はサルデーニャ王国やナポリ王国、教皇領など複数の小国に分かれており、オーストリア帝国がイタリア北部の支配権を握っていました。革命の波がイタリアに及ぶと、サルデーニャ王カルロ・アルベルトがオーストリアに対して戦争を宣言し、北イタリアの支配を取り戻そうとしました。この戦争では、ジュゼッペ・マッツィーニやジュゼッペ・ガリバルディといった革命家たちがイタリア統一を目指して活動しましたが、オーストリア軍の強力な反撃により敗北します。それでも、この革命はイタリア統一運動の萌芽となり、1861年にイタリア王国が誕生する土壌を作りました。

『オーストリア帝国とハンガリーの独立運動』
 オーストリア帝国は、ナポレオン戦争後の欧州で最も強力な保守的勢力を誇っていましたが、1848年には内部からの民族独立運動と外部からの革命の波に直面しました。ウィーンでは市民と学生が蜂起し、首相メッテルニヒが辞任に追い込まれました。この出来事は、ウィーン体制の弱体化を象徴するものでした。また同時に、オーストリア帝国内のハンガリーでも独立運動が激化し、ハンガリー人は独自の政府を樹立しました。しかし、オーストリア帝国はロシア帝国の援助を受け、最終的にハンガリー革命を鎮圧しました。このように、オーストリア帝国は一時的に支配を維持できましたが、内部の民族問題が大きな問題として次の世紀まで引き継がれることになりました。

『クリミア戦争とウィーン体制の終焉』
 1848年の革命後の欧州は一時的には安定を取り戻しましたが、1853年に勃発したクリミア戦争が再び欧州の情勢を大きく動揺させました。この戦争は、ロシア帝国がオスマン帝国領に進出しようとしたことをきっかけに始まりましたが、イギリス、フランス、オスマン帝国が連合してロシアに対抗しました。オーストリアは中立を保ちましたが、ロシアとの関係が悪化してウィーン体制による勢力均衡がさらに崩れていきました。そしてクリミア戦争の結果、ロシアのバルカン半島への進出が抑えられ、ウィーン体制は完全に崩壊しました。これにより欧州は次なる大きな変革、つまり国民国家の形成へと向かっていくことになります。

『革命の失敗とその後の影響』
 1848年の革命は、多くの国で保守勢力によって鎮圧され、短期的には失敗に終わりました。しかし、この革命がもたらした自由主義や民族主義の思想は、ヨーロッパの政治や社会に深い影響を与え続けました。ドイツやイタリアの統一運動は、まさに、この時期に芽生えたものであり、その後の19世紀後半には、それぞれ統一国家が誕生します。また、革命によって明らかになったのは、社会構造の変化と階級間の対立でした。労働者階級と中産階級の対立は深まり、これが後にマルクス主義や社会主義の思想を広めるきっかけとなります。こうした思想は、19世紀後半から20世紀にかけてヨーロッパ各地での労働運動や革命運動に繋がり、現代の社会運動の基盤となりました。

『欧州の近代化への道』
 1848年の革命は、欧州にとって大きな転換点でした。自由主義と民族主義の台頭は、各国で新たな政治運動を生み、専制的な君主制から国民国家へと向かう動きを加速させました。これにより欧州諸国は次第に近代化されて、民主主義の考えが浸透していきました。くわえて、この時期に広がった飢饉や経済的困窮が社会での問題を顕在化させ、労働者や市民が政治に参加する動きが強まったことも、現代の民主政治の基盤を作り上げた要因の一つと云えます。1848年の革命は、その直接的な成功には至らなかったものの、欧州の歴史において重要な役割を果たし、現在の国際政治や社会の枠組みを形成する基礎になったと云えます。

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2024年9月29日日曜日

20240929 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.53-55より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.53-55より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 1848年における基本的な対立は、二つの原理、すなわち王朝による国土所有の原理と国民主権の原理との対立であった。前者は封建制に起源を持ち、歴史的に発展して残ったもので、深く根付いているが、議論においては弁護しがたいものだった。これにたいして後者は、理性と思想に基づいているが、議論においては弁護しがたいものだった。これにたいして後者は、理性と思想に基づいており、単純で説得力があったが、化学的に純粋な水のように生きた有機組織には向かないものだった。1848年の同時代人にとって、王朝による所有原理は専断と専制政治を意味し、主権在民主義は人権と国民自治を意味した。大雑把に非常に単純化して言えば、この対立は当時の人びとには、合理対不合理、自由対反自由の対立と映ったのだった。

 議会制度を通して維持される英国型の代議制内閣責任制政体は、当時の人びとには、現実的にフランス革命の基本原理を保障するものと思われた。彼らは、所有原理が英国民の生活にいかに深く浸透しているかを理解していなかった。この国では、悪弊までもが買い戻し価格付き価格付きの自由保有権となる傾向があり、今日に至るまで、世襲制度が議員の選任にも及び、私法と公法の基本的な明確な区別も存在しないのである。王朝の所有権は、土地所有を中心とし、それを通して機能する。これにたいして、主権在民主義は、主として土地とは別に考慮される人びとの権利である。「フランス王」という称号は、この領地に基づく原理を強調していたが、「フランス人の王」という称号は、力点を人的要素に移し、人民主権に敬意を払うものだった。都市集中の増大と都市文明の成長は、領地に基づかないイデオロギーの発表を刺激するが、遊牧民の状態へ完全に戻るのでなければ、領地という基本的要素は排除できないのである。人びとの集団と土地の広がりとの相互作用を回避するすべはなく、この相互作用が歴史の本質を成しているのである。

 中欧では、王朝による国土所有の原理は、ハプスブルグ王朝に最も顕著に現われ、ドイツ連邦の弱小領邦諸国においてはその下手な模倣が見られた。どちらの場合も、主権を有する国民国家の基礎を提供しはしなかった。ハプスブルグ王朝では、そのような国家の出現は、住民の多様性によって妨げられた。「仲間意識の欠如のために」、これらの住民は、「彼らの自由を維持したり、最高の権威を有する世論を形成したりするために団結すること」ができなかった。彼らの団結の絆は、主として王朝によるものであった。フランクフルト議会の左派指導者の一人であるシュセルカは、1847年、この絆について次のように詳しく述べた。「・・・オーストリアの人びとは、・・・彼らの幸福な土地で、ハプスブルグ=ローレイン王室の歴史的に有効な世襲権を通して、一級の大国にまとまった。これがオーストリアである」。ここでは、1848年以降も、70年間、純粋な王朝による所有原理が生き続けた。この原理は、時どき、特定の国家的利益によって支えられたが、その構成分子の間の共同体感覚によって強化されることは一度もなかった。最後まで、オーストリア諸州は、王領地という意味ありげな呼称を用い続けた。一方で、ドイツ連邦の弱小領邦諸国は、国民的有機組織としての実質を欠いていた。準備議会が、フランクフルト国民議会の標準選挙区を住民五万人で一選挙区と規定した際には、この大きさを満たすことができないどんな領邦でも、独立した選挙区を構成すべきであるという寛容な但し書きが付け加えられた。幾つかの領邦の場合、そのちっぽけな領地は、幾つもの断片から成り立っていた。これらの断片は、実は大きな封建的地所であり、逆説的だが、主権国家としての優遇的地位を賦与されていた。ハプスブルグ王朝を頂点に、最下層のドイツ連邦弱小領邦諸国まで、王朝による国土所有の原理は、ドイツ、イタリア全土と、ドイツ諸王朝の強大なシンジケートを通して、ヨーロッパ大陸の大部分に浸透したかに見えた。メッテルニッヒは、ハプスブルグ王朝のために、王朝による所有の原理を意図的に促進した。それ故に、国民主権の原理を求める闘争ードイツやイタリアの統一、中東欧における諸々の小民族の勃興ーは、最初にして最大のハプスブルグ王朝にたいする闘争となったのである。

2024年9月24日火曜日

20240923 ウイルスや細菌などの微生物と免疫システムについて

 2020年以来世界に広まった新型コロナウィルス感染症の推移からも分かるように、微生物と人間との関係は、常に変化し続ける複雑なものです。ウイルスや細菌などの微生物は、数が多く、世代交代も非常に早いため、短期間で急速に進化します。これにより病原体は人間の免疫システムをすり抜ける方法を見つけ、それに対して人間もまた対抗する方法を見つけるといった、いわば「イタチごっこ」が展開されてきました。

 そうした、もう一つの具体例として「梅毒」が挙げられます。梅毒の病原体であるスピロヘータは、約500年前にカリブ海の小さな島から世界に拡散しました。この病原体は当初、非常に強い毒性を持っていましたが、時間の経過とともに毒性が弱まりました。これは、梅毒の病原体が宿主と長期間共存することで、より多くの人に感染を広げることができるよう進化した結果と云えます。つまり、強い毒性を持つ病原体は宿主がすぐに死亡するため、感染拡大の機会が減ってしまいます。そのため、病原体は毒性を適度に保ちつつ感染を持続させる形へと進化したのだと云えます。

 一方、すべての病原体が同様な進化の過程を経るわけではありません。たとえば狂犬病ウイルスのように、感染すると、ほぼ致命的になるものもあります。狂犬病ウイルスはイタチ類などの動物を自然の宿主とし、これらの動物に対しては無害ですが、人間や犬に感染すると高い致死率を持ち得ます。こうした病原体は、宿主間の移動が限られているため、強い毒性を保ったまま進化することが多い特徴があります。

 また、インフルエンザウイルスも同様に興味深い事例です。このウイルスは、頻繁にその表面の抗原を変化させるため、毎年のように新しい型が現れます。これにより、前の年にかかった人も新しい型には免疫を持っていないため、再び感染する可能性があります。これに対して人間の免疫システムは、病原体に対する抗体を作り、次の感染に備えます。このメカニズムを利用したのがワクチンです。ワクチンは死んだ病原体や弱毒化された病原体を体に取り入れることで、実際に病気になることなく免疫を獲得させる方法です。

 病原体の進化は環境条件や宿主の免疫状態によっても大きく影響されます。例えば、アフリカの一部の地域では、鎌型赤血球貧血症という遺伝子を持つ人々がマラリアに対して抵抗力を持っています。この遺伝子は赤血球の形を変え、マラリア原虫が赤血球の中で増殖しにくくするため、結果的に感染者の生存率を高めます。このように、特定の病気に対して遺伝的に耐性を持つ人々が生き残ることで、その地域の集団全体の病気に対する抵抗力が強化されていきます。

 しかし、この進化的適応が個々の人間にとって常に有益であるとは限りません。むしろ、集団全体の生存率を高めるために機能しているのです。例えば、鎌型赤血球貧血症の遺伝子はマラリアに対する抵抗力を提供しますが、ホモ接合型の場合、健康に重大な影響を及ぼすことがあります。同様に、テイ・サックス病や嚢包性線維症の遺伝子も、それぞれ結核や細菌性下痢に対する耐性を持つものの、それ自体が健康に影響を与える場合があります。

 病原体と人間の関係は、自然環境や社会的な条件によっても変わります。たとえば、交通手段が発達していなかった時代には、疫病の流行は地域的なもので、その地域を超えて広がることは少なかったでしょう。しかし、現代のように人々が頻繁に移動する社会では、感染症の拡大がより迅速かつ広範囲に及ぶことがあります。これは、病原体が新たな宿主を見つける機会を増やし、より広く感染を広げるチャンスを持つことを意味します。

 このように、病原体と人間の関係は、単なる生物学的な問題を超え、歴史的、社会的、環境的な要因が複雑に絡み合っています。微生物が進化し続ける限り、人間と病原体の戦いも終わりません。病原体が新しい感染経路や宿主を見つける一方で、人間も免疫システムの進化や医療技術の発展を通じてこれに対抗しています。この終わりなき戦いは、進化の最前線で続いているのです。

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20240923 腸内フローラと口腔内フローラについて

 我々の体内には、約500~1,000種類、総数で500兆~1,000兆個もの細菌が存在し、その重さは約2kgに達すると言われています。これらの細菌の多くは「口腔内フローラ」と「腸内フローラ」として働き、私たちの健康に大きな影響を与えます。さて、体内の細菌は、善玉菌、悪玉菌、そして日和見菌の3つに分類されます。善玉菌は健康維持に貢献し、悪玉菌は身体に害を与える可能性があります。日和見菌は通常無害ですが、体調が悪化すると悪玉菌と同調し、健康に悪影響を与えることがあります。こうしたことは、何だか我々の社会にも相通じるものがあるようにも思われますが、ともあれ、こうした点で、体内の善玉菌が優勢なバランスを保持することは非常に重要と云えます。

 腸内フローラは、栄養吸収や免疫機能に密接に関与しており、免疫機能の約7割は腸が担っています。そのため、腸内フローラのバランスが崩れると、大腸がん、糖尿病、肥満、認知症、アレルギー、自己免疫疾患、さらにはうつ病などの精神疾患を引き起こす可能性があるとされています。腸内フローラの状態が悪化すれば、全身の健康に多大な影響を与えることが明らかです。

 また、口腔内フローラのバランスが崩れると、虫歯や歯周病のリスクが高まるだけでなく、口腔内の細菌が血流を通じて全身に広がり、心臓病、動脈硬化、脳梗塞、糖尿病などの病気を引き起こすリスクも上昇します。歯周病菌が気道に入れば肺炎を、胃に到達すれば胃潰瘍や胃がんを引き起こす可能性もあります。したがって、口腔内フローラのバランスを保つことは、全身の健康維持にもつながります。

 口と腸は一つの消化管でつながっており、口腔内フローラと腸内フローラは相互に影響し合っています。例えば、口腔内フローラが悪化し、歯周病菌が腸に流れ込むと、腸内フローラのバランスが崩れ、免疫力が低下します。逆に、腸内フローラが悪化すると腸の粘膜バリアが弱まり、結果的に有害物質が体内に入り込みやすくなり、口腔内フローラの悪化にもつながる可能性があります。このように、口腔と腸は密接に関連しており、両方のフローラを整えることが健康維持の鍵となります。

 現代社会では、食品添加物、抗生物質、環境汚染などによって細菌バランスが乱れやすくなっています。さらに、母乳育児の減少も腸内フローラのバランスを崩す要因となっています。母乳には善玉菌であるロイテリ菌が含まれており、これが赤ちゃんの免疫力を高め、腸内環境を整える役割を果たします。しかし、ミルクにはロイテリ菌が含まれていないため、免疫力向上の効果が得られにくいという課題があります。加えて、母乳にロイテリ菌が含まれていない母親も増えており、母乳育児をしていても赤ちゃんに十分な善玉菌が供給されない可能性もあります。

 これらの現代的な問題に対処するためには、日々の口腔衛生管理が非常に重要です。歯を磨き、定期的に歯科医院にてメンテナンスを受けることにより、口腔内フローラのバランスを整えられます。これにより、歯周病菌が全身に広がるリスクを低減し、腸内フローラのバランスも保てるようになります。したがって、口腔衛生管理は全身の健康維持にも大きく寄与する重要な習慣です。結論として、口腔内フローラと腸内フローラは密接に関連しており、どちらか一方のバランスが崩れると全身に悪影響を及ぼします。したがって、口腔衛生管理と腸内環境の改善が、現代の生活環境において全身の健康を守るために不可欠であり、これらのバランスを意識的に整えることが求められます。
 

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20240923 1848年についての書籍内での記述集① 資料として

1848年シリーズ
『六月の戦闘についてもうこれ以上語ることはしない。最後の二日間の記憶は、最初の日々の記憶のなかにまざり込んでしまって、はっきりしなくなっている。反乱の最後の拠点であるフォーブール・サン‐タントワーヌが降伏したのは月曜になってであること、つまり闘いが始まってから四日目であったということは、人の知るところである。マンシュ県の義勇兵がパリに着くことができたのは、この四日目の朝になってからのことだった。彼らは急ぎに急いでやって来たのだが、それは鉄道のない地方を通っての八十里以上の道のりであった。総員一五〇〇人。私は彼らのなかに、地主、弁護士、医師、農業家、私の友人、私の隣人を認めて感激した。私の郷里のほとんどすべての旧貴族たちが、この機会に武器をとり、部隊に加わった。フランスのほとんど全土でこうしたことがおこった。自分の郷里の草深いところで、もうすすけてしまっているような田舎貴族から、立派な家系の優雅で役立たずの相続人までの、すべての連中がこの時に、自分たちはかつて戦う階級、支配する階級に属しているのだということを思い起こした。そしていたるところで彼らはパリへの出発の先頭に立ち、力強さの模範を示したのだった。それほどにこの旧い貴族の集団の活力は大きいのである。彼らはすでに無価値なものになってしまったとみえる時に、自分自身の足跡は保持しているのであり、永遠に死の影のなかに憩いを求める前に、そのただなかからいく度も立ち上げるのである。シャトーブリアンが息を引き取ったのは、まさに六月事件のさなかであった。この人は今日でも旧い世代の精神をたぶんもっともよく保存していた人であった。私は家族の関係と子供時代の思い出とによって、この人のことは身近に感じていた。長いこと前からシャトーブリアンは茫然として言葉が出ないというような状態におちいっていた。そのことは時に人をして、彼の知性は消えうせたと思わせたものであった。しかしこうした状態のなかで、二月革命が発生したという噂が彼の耳にはいり、彼はその経緯を知ろうと思ったのだった。人が彼に七月王政が打倒されたと告げると、「よくやった」と言って沈黙した。四ヵ月の、六月の砲声がまた彼の耳にまでとどくと、彼は再びあれは何の音かと尋ねた。パリで戦闘が起こっており、あれは大砲の音だと人が答えると、「そこに行きたい」と言いながら、無理をして起き上がろうとした、そして今度は永遠に沈黙してしまった。その翌日に彼は死んだのである。これが六月事件であった。必然的で痛ましい事件であった。それはフランスから革命の火を消し去りはしなかった。しかし少なくとも一時の間、二月革命に固有の仕事と言いうるものに終止符をうった。六月事件はパリの労働者の圧政から国民を自由にし、国民を国民自身のものとした。』
株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.286‐287より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

『ここ最近は、数日間遠出していたこともあり、ブログ記事の更新は進んでいませんでしたが、後になり記事材料となる経験を意識的に持つことも記事作成と同様に重要であり、またそれら経験を整理しつつ、さらにそれを自然に文章化出来るようになるまでには、ある程度の期間を要すると思われますので、多少気の長い話ではあるかもしれませんが、こうした突発的な休止期間も時には必要であって欲しいと考える次第です・・(苦笑)。他方で読書の方は進み、先日の遠出の際にも、かねてより読み進めている白水社刊 オーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争」下巻を持参して、移動時や睡眠前に読み進め、残り数十頁となりました。また、その他にも書籍に関しては、立ち読みなどで興味深い著作をいくつか見つけましたが、現在メインで読み進めている前出の「クリミア戦争」下巻の読了後は、以前、購入したままで積読状態にあるアレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読み進めたいと考えています。考えてみますと、トクヴィルの生年はフランス革命の期間から数年経た1805年であり、そして没年は1859年であり、また、その生涯を通じた大きな興味の一つが「フランス革命」であったことから、トクヴィルは19世紀前半の思想家と見做されがちと云えますが、当記事前出、もう一つのトピックである「クリミア戦争」は1853~1856年の期間続き、また、その歴史的背景、基層には所謂「東方問題」として、数世紀にわたり懸念視され続けてきたものがあります。ともあれ、そこでトクヴィルとクリミア戦争との関わりについて考えてみますと、1848年の2月革命政権(第二共和制)時に官職に就いていたトクヴィルが、1851年のナポレオン三世によるクーデターによって辞職することとなり、それから2年後にクリミア戦争が勃発しましたが、この戦争についてトクヴィルがどのように考えていたのかは興味深いものがあり、トクヴィルのそれまでの履歴から考えてみますと、おそらくは、フランスにとっては犠牲が大きく、益の乏しい戦争であると考えていたのではないかと思われます。とはいえ、このクリミア戦争とは、主体となる国家や政体は変化しても、残念ながら今なお継続しており、そこから、まさに重層化したフォルト・ライン戦争の勃発地域、あるいは国際秩序が乱れた際に紛争・戦争といったカタチでの応力集中が生じ易い地域であるとも云えます。その視座からも、もしもあるとすれば、トクヴィルのクリミア戦争に対する見解は興味深く、そしてそれは、今後の世界情勢の展開を検討するうえで一つの参考になるのではないかと思われました。さらに、トクヴィルが興味を抱き続けた18世紀末の「フランス革命」即ち、大きな社会変化の様相や、その機序についての考察もまた、今後のさまざまな国や地域について考えるうえでの有効な参考になるのではないかと考えました。』

『しかし、このような中で1850年代末に入ると、反動の濃霧はようやくうすれ出し、19世紀前半以来の現状変革の諸運動は諸国において次第に復活して動きはじめるのである。その点で特に注目すべきものは、イタリアおよびドイツ地方における民族的統一運動の進展であった。前者はサルディニア王国の中心として、後者はプロイセン王国を中心として行われることになったが、しかも、両者はその過程において幾つかの民族解放戦争をひき起こしつつ、それらを通して進展することになった。そもそも、ウィーン会議以後19世紀前半期においては、バルカン半島を除くヨーロッパは久しきにわたって平和が保たれてきた。ヨーロッパにかくも長く平和が維持されたのは、1494年以来未だかつてなかったといわれている。それは一つには、ウィーン会議前後において将来の国際平和の永続が願望された既述の諸事情がその後維持したことに起因するといってよい。しかし、1848年にいたってプロイセンとデンマークがシュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)問題で戦火を交え、またサルディニアがイタリアの民族的統一を意図してオーストリアに宣戦するに及んで、久しきにわたって保たれてきたヨーロッパのこの平和も遂に破れたのであった。そして、その後1854年から56年にかけてクリミア戦争(Crimean War)が行われたが、それはヨーロッパ史上ナポレオン戦争以後で最大の戦争であった。ところで、このクリミア戦争の惨害は久しきにわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパの人心に深い印象を与えた。そして、この戦争に終止符をうつことになったパリ平和会議(1856年)は、このような人心を背景として、次のような言葉を含む議定書を採択したのであった、「各全権委員会は各自の政府の名において以下のごとき希望を表明することを躊躇しない。すなわち、重大な紛争に陥った国家は、武器をとるに先だち事情の許すかぎり友邦に斡旋を求めることが望ましい。各全権委員はこの会議に列していない諸国もまたこの議定書の精神に同意することを希望するものである」。しかし、その後の歴史の進行は、パリ会議の以上のような希望の表明も一片の空文にすぎないことを証拠だてるに終わった。すなわち、クリミア戦争の後、イタリアおよびドイツの民族的統一を目標とした民族解放戦争が次々に爆発することになった。』
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299


『パスポートの国籍欄には「イギリス国民」と書かれている。ここで私は、「黄金の書」の冒頭にローマ皇帝にふさわしい美徳を授かった先祖や親戚の名前を挙げたマルクス・アウレリウス王にならい、私がローマ皇帝はおろか、ときどきを除いてイギリス紳士でさえない理由を説明したいと思う。母の父方は苗字をフォン・ランケといい、代々ザクセン地方の牧師で、家柄の旧い貴族ではない。貴族を示す「フォン」がつくようになったのは最初の現代史家だった大伯父、レオポルド・フォン・ランケからで、私はある程度彼のおかげを被っている。彼は、「私はキリスト教徒であるまえに歴史家である。要するに私の目的はものごとが実際どのようにして起こったかを発見することに尽きる」と述べて同時代の歴史家の顰蹙を買った。彼らを怒らせたのはそれだけではない。フランスの歴史家ミシュレを論じたさいに、「彼は真実が語れない文体で歴史を書いた」と言ったこともそれに油を注いだ。トーマス・カーライルが彼を「無味乾燥」だと非難したのは決して不名誉なことではなかった。不体裁なまでに大柄な私の体、我慢強さ、エネルギー、生真面目さ、それにふさふさした髪、などは祖父のハインリッヒ・フォン・ランケ譲りである。彼は若い時分には反抗的で、無神論者でさえあった。プロイセンの大学で医学生であった彼は、大逆罪に問われたカール・マルクスを支持して学生デモが行われた1848年には反政府活動に参加した。マルクス同様、彼らは国外退去を余儀なくされた。祖父はロンドンに逃れ、そこで医学の修行を終えた。1854年、彼はイギリス陸軍の連隊所属軍医としてクリミア戦争に従軍した。祖父に関するこうした知識は、子供のころにたまたま彼が言った言葉に端を発していれる。彼はそのとき、「大男が丈夫だとはかぎらないものだよ。セバストポールの塹壕では、小さな工兵が平気な顔をしているのに雲を衝くような体をしたイギリス軍の近衛師団兵がやられて死んでいく、こういうのを何十人も見たもんじゃ」と言った。しかし、堂々として押し出しのいい祖父は長生きした。彼はロンドンで祖母と結婚した。祖母はシュレスヴィヒ生まれのデンマーク人でグリニッジ天文台の天文学者だったティアルクスの娘で、信心深く、おどおどした小柄な女だった。彼女の父親が天文学を専攻するまえには、ティアルクス一族はデンマークの田舎の習慣に従って父親と息子が交互に別の職業に就いた。偶数の世代は板金職になり、奇数世代は牧師になったわけだが、これはあながち悪い習慣ではない。穏やかな私の性格は祖母から受け継いだものだ。彼女には十人の子供がいたが、一番上の母はロンドンで生まれている。祖父の無神論と急進主義は年を経るにつれ穏健なものになった。彼は結局ドイツに帰ってミュンヘンで有名な小児科医になったが、子供の患者に新鮮な牛乳を飲ませるべきだと主張したヨーロッパで最初の医師はおそらく彼である。通常の手段では新鮮な牛乳を病院に確保することはできない、とみた祖父は模範的な酪農場を自ら開いた。彼の不可知論はルターの敬虔な信奉者だった祖母を悲しませた。彼女は祖父のために祈ることを決してやめなかった。けれども、彼女の祈りはとりわけ子供たちの魂の救済に注がれた。祖父は考え方をまったく改めずにこの世を去ったのではなかった。』
株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳
「さらば古きものよ」上巻 pp.15-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003228618
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003228616

『ハンス・カストルプは不思議な、まったく新しい世界をのぞかせてくれるイタリア人の話を、注意ぶかく吟味しながら、奇異な感じを受けながらも影響をあたえられようとして、傾聴した。
セテムブリーニは彼の祖父のことを語った。
ミラノで弁護士をしていたが、なによりも熱烈な愛国者であって、政治的扇動家、雄弁家、雑誌寄稿家ともいうべき人物であった。
祖父も孫のロドヴィコと同じように反抗家であったが、しかし、孫よりも大きい大胆なスケールで反抗したのだった。
孫のロドヴィコは、彼がくやしそうにいったように、国際サナトリウム「ベルクホーフ」の生活をこきおろし、それに嘲笑的な批評をこころみ、うるわしい行動的な人間性の名によってここの生活に抗議をするだけで満足していなくてはならなかったが、祖父は諸国の政府をてこずらせ、そのころ分割された祖国イタリアを無気力な奴隷状態におさえつけていたオーストリアと神聖同盟にたいして陰謀をはかり、イタリア全土に広がっていた秘密結社の熱烈な党員であった。
―セテムブリーニがふいに声をひそめて、いまもそれを口にするのが危険ででもあるように説明してくれたのによると、炭焼党員(Carbonaro)であった。
要するに、祖父のジュゼッペ・セテムブリーニは、孫の話から二人の聞き手が受けた印象によると、暗い熱情的な扇動家タイプ、首魁、謀反人らしかった。
従兄弟は礼儀として感心したふりをするようにしたが、警戒的な嫌悪、いや反撥の色を顔からぬぐいきれなかった。
もちろん事情が特異でもあった。
すなわち、従兄弟がきかされた話はむかしの話であって、ほとんど百年もまえの話、すでに歴史に属している話であったが、その歴史、古い歴史のなかから狂信的な自由の精神、暴政にたいする不屈な敵愾心の本質と現象とが、話の形式で、いままで二人が夢にも考えなかったほど身ぢかくせまってきたのであった。
さらに従兄弟は、祖父の扇動的、陰謀的な活動には、祖父が統一と独立とを祈願していた祖国イタリアへの強い愛情が結びついていたこともきかされた。
―いや、祖父の革命家的活動は、この尊敬すべき結合の産物であり発露であって、この扇動性と愛国心との結合は従兄弟のどちらにも奇異に感じられはしたが―二人は祖国愛を保守的な秩序と同一視していたから―、しかし二人は、当時の彼地の一般情勢からは叛逆は市民道徳を、健実な分別は公共団体に対する怠惰な無関心を意味したのだろう、と心のなかでみとめざるをえなかった。
祖父セテムブリーニは、イタリアの愛国者であったのみではなく、自由を渇望するあらゆる民族と国と志を一つにする人物であった。トゥーリンで計画された襲撃、クーデターの企てが失敗したとき、それに言動のどちらからも加担していた祖父は、メッテルニッヒ公の追手から身をもってのがれ、それから亡命の何年間を利用して、スペインでは憲法の制定に、ギリシャではギリシャ民族の自由獲得のためにたたかい、血を流した。
このギリシャでロドヴィコの父親が生まれたのであった。
―そのために父親はあのように偉大な人文主義者、古典古代の愛好者になったのであろう。
なお、父親はドイツ系の婦人の腹から生まれたのであって、祖父はその娘とスイスで結婚し、それからの波瀾に富む生活にいつもつれ歩いていたのであった。
祖父はのちに、十年の亡命生活のあと、ふたたび故国の土をふむことができ、ミラノで弁護士として活動したが、しかし自由の獲得、統一された共和国の建設のために筆と舌、詩と散文とによって国民を鼓舞し、熱情的、独裁者的な名文をもって革命的プログラムを起草し、解放された民族が人類の幸福の確立のために団結することを、流麗な文章で予言をすることを決してやめようとはしなかった。
孫のロドヴィコの話のなかで、ハンス・カストルプ青年にとくに印象をあたえた事項が一つあった。
それは祖父ジュゼッペが一生いつも黒い喪服姿で同国人のまえにあらわれたということであった。
祖父は常から自分をイタリアのために、悲惨と隷属に呻吟する祖国のために、喪に服する者であるといっていた。
ハンス・カストルプはそれをきいて、それまでにも数回くらべてみたように、彼自身の祖父のことを考えずにいられなかった。
ハンス・カストルプの祖父も、孫が知ってからは、いつも黒い服を着ていたが、しかし、それはイタリアの祖父とは全然ちがった意味からであった。ハンス・ローレンツ・カストルプのひととなり、過去の一時代にぞくしているひととなりが、死によって真実のぴったりした姿(スペインふうの皿形の頸かざりをした姿)へおごそかに戻るまでのあいだ、この世に順応するために、自分がこの世にぞくしていないことをほのめかしながらかりに着ていた古風な服装を、ハンス・カストルプは思いうかべた。
この二人の祖父はほんとうに驚くほどちがっている祖父であった!ハンス・カストルプはそれを考えながら、眼をこらし、用心ぶかく頭をふったが、これはジュゼッペ・セテムブリーニに感心する身ぶりともとれたし、怪訝に感じて賛同しかねる身ぶりともとれた。それに彼は、彼と異質的なものを排撃することをつつしみ、単にくらべたり、分類したりするだけにとどめた。
彼は、ハンス・ローレンツ老人のほっそりした顔が、広間で、とどまりながらしかも動いているあの伝来の器、洗礼盤のうす金色の内面をのぞきこんでいた瞑想的な顔つきを思いうかべ、うつろで敬虔な音の「おお」、私たちが爪だちしながらうやうやしくゆれるように足をすすめる聖所を連想させる「おお」という前綴を発音するためにまるめている唇を思いうかべた。
そしてまたハンス・カストルプは、ジュゼッペ・セテムブリーニが三色旗を小わきにして反りのある軍刀を片手、黒い眼を誓うように空へむけながら、自由の戦士のむれの先頭に立ち、専制政治の方陣へ突入するのを見た。
どちらの祖父にもそれぞれ美しいりっぱなところがあった、とハンス・カストルプは、個人的な、もしくは、なかば個人的な理由から、えこひいきを感じそうだったので、いっそう公平であろうとして考えた。
セテムブリーニの祖父は政治上の権利を獲得するためにたたかったのであったが、ハンス・カストルプの祖父、もしくは先祖たちは、もとからすべての権利をにぎっていたのを、賎民たちが四百年のあいだ暴力と弁舌によってうばいとってしまったのであった、とハンス・カストルプは考えがちだったからであった。
・・・そして、二人は、北方の祖父と南方の祖父とは、いつも黒服を着ていたのであるが、どちらの祖父も彼と堕落した同時代のあいだにはっきりと距離をおくための黒服であった。
しかし、一人の祖父は彼の本性の故郷である過去と死のために敬虔な気持から黒服をつけていたのであったし、それに反して、他の祖父は反抗から、およそ敬虔とは正反対の進歩のために黒服をつけていたのであった。
ほんとうにこの二人は、二つの正反対の世界、もしくは方位ともいえる、とハンス・カストルプは考え、セテムブリーニの話に耳を傾けながらいわば二つの世界と方位のあいだに立って、二つをかわるがわる吟味しながらながめていたが、まえにもいつか同じような気持を経験したことがあるように思った。』
株式会社岩波書店刊 トーマス・マン著 関泰祐望月市恵 訳『魔の山』上巻pp.264-268より抜粋
ISBN-10: 4003243366
ISBN-13: 978-4003243367

『ロシアの相対的な力は一八一五年から数十年間、国際的には平和がつづき、産業革命が進行するにつれて衰えていく運命にあった。だが、このことが明らかになるのはクリミア戦争『一八五四~五六年)が勃発してからである。一八一四年、ヨーロッパは西に進出してくるロシア軍に畏怖の念をおぼえ、パリの民衆は抜け目なく「アレクサンドル皇帝、ばんざい」と叫んで、コサック旅団を先に立てて入城してきたツァーリを迎えた。和平協定そのものは、徹底的に保守的な立場から今後の国境や政治体制を決めようというもので、八〇万の軍隊を擁するロシアも支持にまわっていた。ロシア軍はどの国の軍隊よりも強大で、海上で英国海軍が圧倒的な力をふるっていたのと同じく、陸地では行く手を阻むものがなかった。オーストリアもプロイセンもこの東の巨人の影をつねに感じ、王室同士で手を結びあっているときでも、ロシアの力に対する恐れが消えなかったのである。ヨーロッパの憲兵としてのロシアの役割は、救世主のようにあらわれたアレクサンドル一世から専制的なニコライ一世(在位一八二五~五五年)に代わったあとも、強まりこそすれ減ずるものではなかった。
ニコライ一世の姿勢は、一八四八年から四九年の革命の嵐によってさらに強硬になる。パーマストンが述べているように、このころはロシアとイギリスだけが「毅然として立つ」ゆるぎない大国だったのである。ハプスブルグ政権が必死の思いでハンガリーの反乱を鎮圧する助力を乞うたときには、ロシアは三個軍を派遣してこれに応えている。だが、逆にプロイセンのウィルヘルム四世が国内の改革派につきあげにられて動揺し、ドイツ連邦の変更を提案したときには、ロシアは断固たる圧力を加えて、ついてにベルリン政府に国内では反動的な姿勢を強化させ、オルミュッツでは譲歩を余儀なくさせた。「変化を求める勢力」は、ポーランドやハンガリーの民族主義者も、欲求不満をつのらせたブルジョア自由主義者も、マルクス主義者もこぞって、ヨーロッパの進歩の前に立ちはだかる最大の障害はツァーリの帝国だと考えていた。しかし、経済と技術の水準では、ロシアは一八一五年から八〇年までのあいだにみる影もなくなっていく。少なくとも他の大国にくらべて、その衰えは明らかだった。もちろん、だからといって経済がまったく発展しなかったわけではない。ニコライ一世のころでさえ、官僚の多くが市場経済やあらゆる近代化に敵意を燃やしていたが、経済は成長していた。人口は急速に増え(一八一六年には五一〇〇万人だったものが、六〇年には七六〇〇万人、八〇年には一億人)、とくに都市部での増加がいちじるしかった。鉄の生産も増大し、繊維産業も数倍の成長をとげた。一八〇四年から六〇年までに、工場や企業の数は二四〇〇から一万五〇〇〇に増えたといわれている。さらに蒸気エンジンや近代的な機械が西側から輸入された。一八三〇年代からは鉄道網の建設も始まる。歴史家がこの時期のロシアには「産業革命」があったのかなかったのかと議論していること自体、ロシアの発展を裏書きするものであろう。だが、肝腎なのは、それ以外のヨーロッパ諸国の発展のスピードの方が大きく、ロシアは取り残されてしまったことだった。人口がはるかに多かったから、十九世紀初めの国民総生産はロシアが最大だった。ところが、二世代あとには、第9表(265頁)に示されているように、国民総生産の総額でも追い越されてしまっている。しかし、この数字を国民総生産一人当たりの額に換算してみると、さらにはなはだしい差があらわれる。これらの数字が示しているのは、この期間のロシアの国民総生産の増大が圧倒的に人口の増加によるものであって、この人口増加が出生率の上昇のせいか、トルキスタンなど新たに征服した領土のおかげかはともかく、(とくに工業の)生産性の向上とはあまり関係がなかったということである。ロシアの一人当たり所得と一人当たり国民総生産はつねに西ヨーロッパに劣っていた。だが、いまやその差がいっそう開き、(たとえば)一八三〇年には一人当たり所得がイギリスの半分だったのが六〇年後には四分の一になっている。同じく、ロシアの鉄の生産は十九世紀初めに倍増したが、イギリスは三〇倍に増えており、比較にもならなかった。数十年のうちに、ロシアはヨーロッパ最大の鉄生産、輸出国から転落して、西側からの輸入に依存する度合がますます高まっていく。鉄道や蒸気船の発達による運輸通信手段の改善も、相対的な視点でみる必要がある。一八五〇年当時、ロシアには五〇〇マイルあまりの鉄道が敷かれていたが、アメリカでは八五〇〇マイルにおよんでいた。さらに蒸気船による貿易も大きな河川やバルト海、黒海の沿岸でさかんになったが、積み荷の多くは増えつづける国民を養うための穀物と製品輸入の代金としてイギリスに送られる小麦だった。またあらたな進歩がみられても。そのほとんど(とくに輸出業務)が外国の商人や企業家に握られていて、ロシアは先進国経済に一次産品の原材料を供給する国という性格を強くしていく。さらに詳細に検討すれば、新しい「工場」や「工業関係の事業」のほとんどは労働者数一六人以下で、機械化もろくに進んでゐないことがわかる。資本の不足と低い消費需要、そして専制君主の横暴と国の疑い深い姿勢、これらがあいまってロシアの工業の「離陸」はヨーロッパのどの国よりも困難だったのである。だが、しばらくのあいだは、経済の暗い見通しもロシア軍のいちじるしい弱体化にはつながらなかった。それどころか、一八一五年以降、大国がみせたアンシャン・レジーム擁護の姿勢がいちばんはっきりとあらわれたのが、軍隊の構成、武器、戦術面だった。フランス革命の余波が残っていたから、各国政府は政治的にも社会的にも軍事力に頼る傾向が強く、軍部の改革には乗り気でなかった。将軍たちも、大きな戦争によって力を試されることがなくなって階級や服従を重視し、慎重になった。この傾向を助長したのがニコライ一世の閲兵好き、大行進好きである。こんな状況であるから、徴兵によって維持される大規模なロシア軍は、外部から見るぶんにはいかにも力強い戦力にみえた。兵站や将校の教育水準といった問題は外部からはわかりにくかった。しかもロシア軍は活動的で、たびたびの軍事行動に勝利をおさめて、カフカスやトルキスタンに領土を広げていた。この動きをインドにいるイギリスが警戒しはじめたため、十九世紀のロシアとイギリスの関係は、十八世紀のそれとくらべてかなり緊張したものになる。』
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

『一八五四年から、一八五六年のあいだに、オーストリアとロシアの関係を友人から敵に、それもどう見ても永遠の敵に変えたのは、クリミア戦争であった。西側諸国対ロシアのこの戦争で、初めてバルカン半島のトルコの継承が問題となり、この危険をはらんだ地域は、その後、半世紀以上にわたってヨーロッパの政治を不穏におとしいれ、ついには第一次世界大戦の発火点となった。プロイセンとオーストリアは、クリミア戦争でともに中立を保った。とはいえ両国の中立は非常に異なる色合いをもち、プロイセンはいわばロシア側に、オーストリアは西側諸国の側に立った。オーストリアはドナウ諸国(今日の南および東ルーマニア)の獲得とバルカン半島からのロシアの追放のためのクリミア戦争を利用しようとした。そのわずかな五年前、ハンガリー戦争で負けかけていたオーストリアをロシアが助けてくれたにもかかわらず。「オーストリアはその恩知らずによって世間を驚かせるだろう。」シュヴァルツェンベルクはすでに早い時期にそう言っていたが、これは特徴を言いあてた名言である。オーストリアとロシアは、いまやバルカンにおいて致命的なライバルとなった。そしてプロイセンは、もはや彼らの同盟の中の第三者ではありえなかった。その同盟はもはや存在しなかった。今後プロイセンは、好むと好まざるとにかかわらず、両者間での選択を余儀なくされた。終わったのは「三羽の黒鷲」同盟だけではなかった。一八一五年にメッテルニッヒが設立し、プロイセンが進んでその中に憩ったきわめて巧妙なヨーロッパ体制が、革命と革命のもたらした結果とによって崩壊した。フランスはもはや関与していなかった。フランスではいま、ふたたびナポレオンという人物が支配していた。この「三代目」ナポレオンは、初代が抱いた帝国という野心こそもたなかったが、ヨーロッパ政治の中心をウィーンからパリに移すという野心を抱いていた。彼の手段はナショナリズムとの同盟であった。まず初めはイタリア・ナショナリズムとの同盟、そこでは彼は成功した。次はポーランド・ナショナリズムとの同盟、そこでは何の結果も出なかった。最後は、なんとドイツ・ナショナリズムとの同盟である。ここにいたってはナポレオン三世は自らの破滅を招いた。彼はいつものように、ヨーロッパに不穏・戦争・鬨の声をもたらした。革命後のヨーロッパは、もはや一八一五年から一八四八年までのような平和な国家共同体ではなかった。それぞれの国がいまはまた自立していた。良くも悪くも、プロイセンも例外ではなかった。』
pp.218‐219より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4887214278
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4887214279

『ちょうど1848年という、驚異の年を迎えていた。学生はひとりのこらず、教皇座に就いたマスタイ・フェレッティ枢機卿に熱狂していた。彼は二年前に教皇ピウス九世となり政治犯に恩赦を与えていた。この年初め、ミラノで最初の反オーストリア暴動が発生し、帝国政府の国庫を苦しめるためにミラノ市民は禁煙を始めた。(薫り高い葉巻の煙を挑発的に吹きかけてくる兵士と警察官の前で断固として抵抗していたミラノの学生は、私たちトリノの学生の目に英雄のように映った)。その同じ月に両シチリア王国で革命騒動が勃発し、フェルディナンド二世は憲法を約束した。しかし二月にパリで民衆蜂起によってルイ・フィリップが退位して(ふたたび、そして決定的に)共和国が宣言されー政治犯に対する死刑と奴隷制が廃止され、普通選挙が制定されたー三月には教皇は憲法だけでなく出版の自由も保証し。ゲットーのユダヤ人を多くの屈辱的な規則と奴隷状態から自由にした。そして同じ時期にトスカーナ大公も憲法を保証し、国王カルロ・アルベルトはサルディーニヤ王国に憲法を公布した。そしてウィーン、ボヘミア、ハンガリーで革命運動が起こり、ミラノの五日間蜂起によってオーストリア人は追い出され、解放されたミラノをピエモンテに併合するためにピエモンテ軍が戦いはじめた。共産主義者の宣言が出されたという噂さえ学生仲間のあいだで流れた。そのことには学生だけでなく工員や貧困層も熱狂し、最後の国王のはわらわたで最後の司祭を絞首刑にすることになると誰もが信じていた。すべてがよい知らせであったわけではない。カルロ・アルベルトは敗戦を重ねていて、ミラノの住民、そして一般的に愛国者全員から裏切り者とみなされた。ピウス九世は大臣が殺害されたことに怯えて、両シチリア王の領地であるガエタに避難した。身を隠して攻撃する教皇が当初思われたほど自由主義者ではないことが判明し、認められた憲法の多くは取りさげられた。しかしそのあいだに、ローマにはガリバルディとマッツィーニに率いられた愛国者が到着していて、翌年初めにローマ共和国が宣言された。父は三月には家にはまったく姿を見せなくなり、乳母のテレーザは、きっとミラノ蜂起に加わったのでしょうと言っていた。しかし十二月頃、家に出入りするイエズス会士のひとりが、ローマ共和国の防衛に駆けつけたマッツィーニ派に父が参加していたという知らせを受け取った。祖父は気落ちして、驚異の年が恐怖の年に変わるような恐ろしい予言を私に浴びせかけた。たしかにその頃、ピエモンテ政府はイエズス会の財産を没収して組織を攻撃し、その周囲を徹底的に破壊するためのサン・カルロ会やマリア・サンティッシマ会、レデンプトール会といったイエズス会を支持する修道会まで弾圧するようになった。「これは反キリストの到来だ」と祖父は嘆き、当然、あらゆる出来事をユダヤ人の陰謀だとみなして、モルデカイの陰惨な予言が実現するのを見ていた。』
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488010512
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488010515

『イギリス産産革命とフランス革命がおこった十八世紀後半から第一次世界大戦が勃発した一九一四年までを、しばしば「長期の十九世紀」と呼ぶ。この時代は、いわば「ヨーロッパの時代」であり、近代社会の特徴が最もよく現れた時代であった。その特徴とは、特に西ヨーロッパを中心に、工業化と、民主化を伴いながらの国民国家形成が進んだということであり、グローバルに見れば、世界全体がヨーロッパで生み出された体制の中に包摂されていったということであった。たとえば新しい技術学伸について言えば、一八〇七年汽走船(蒸気船)が発明され、一八一七年には汽走船による大西洋横断が成功した。当初外輪船であったが三〇年代後半にはスクリュー船が登場している。一八三〇年には鉄道がイギリスで最初の営業運転を開始した。こうした運輸手段の発達などは、交通革命と呼ばれる状況をもたらした。ナポレオン戦争後、ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる復古体制が支配したが、フランスでは一八三〇年に七月革命がおこって、復古ブルボン朝は倒れ、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」となった。この七月革命の影響で、ベルギーが独立する一方、イギリスでは二月革命がおこって王政が倒れ第二共和制となった。二月革命は、ヨーロッパ各地に波及してウィーン体制を終わらせる一八四八年革命と総称される大きな歴史的事件へと発展した。一八四八年革命の時には、「諸国民の春」と呼ばれる国民主権運動や国家を持たない中東欧の新たな運動も生起した。他方、十九世紀半ばにかけてのグローバルな状況を東アジアについて見ると、一八二〇年代には中国・インド・イギリスを結ぶアヘン・茶・イギリス綿製品のアジア三角貿易が成立し、これはやがてアヘン戦争(一八四〇~四二年)を引き起こした。欧米のアジア進出は、清朝と同様に鎖国体制に会った日本にも及んだ。ペリーが四隻の艦隊(うち二隻は汽走軍艦)で浦賀に来航したのはまさにクリミア戦争勃発の年、一八五三年である。一八五四年初めにはロシアのプチャーチンとの交渉が、長崎で行われている。クリミア戦争が勃発したのは、「長期の十九世紀」のちょうど中ごろ、右のような大きな歴史のうねりが世界を覆いつつあった時代であった。したがって、この戦争は「古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争」(本書二二頁)であった一方、最新の工業技術が、とりわけ英仏側において、動員された近代的な戦争であった。たとえば、英仏軍が使用したミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃よりもはるかに長い射程距離を持っていた(第7章)。ロシアはいまだ国内にすら十分な鉄道網を持っておらず(首都ペテルブルグとモスクワの間に鉄道が開通したのは一八五一年)、そのことがロシアの軍事的補給を困難にしていたことはわが国の概説書などにおいても指摘されてきたことであるが、本書では、イギリスが一八五五年に入って突貫工事でバラクラヴァ港とイギリス軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長一〇キロの鉄道を完成させ、セヴァストポリ要塞攻撃のための物資補給体制を整えたことが描かれている。これは世界の世界史上初の戦場鉄道であった(第10章)。新技術の採用と並んで、イギリスやフランスにおいては、国民形成の進展とジャーナリズムの発展によって(戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった)、ファイジズがいたるところで強調しているように、国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった。このこともまた歴史上初めてのことであった。』
pp.314‐315より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094896
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094891

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年9月22日日曜日

20240921 過日(0919)の記事投稿から思い出されたこと:学び方について

 はじめに、今回の石川県での豪雨による被害が出来るだけ軽微であり、また年初の震災からの復興も含めた当地の被害復興が速やかに進むことを願っております。

 一昨日の記事投稿後少し経って、そこで述べた19世紀半ばの欧州とトクヴィルとブログ記事作成とについて思い出すことがありました。その記事にて述べた一連の1848年の欧州を題材とした記事の作成背景には、自らの興味と、いくらかの読書経験があったと云えますが、それと類似した経緯を経たものとして、20年近く前に作成した修士論文があります。当時の私は、紀伊半島西部(和歌山県)の地域性について調べており、その地域性を検討する際の題材の一つとしたのが、弥生時代の青銅製祭器である銅鐸でした。銅鐸については当ブログにおいても何度か記事を作成してきましたが、この紀伊半島西部(和歌山)は全国でも相対的に銅鐸の出土数が多く、そうしたいわば古代における地域の特徴が、現代においても何かしら反映することがあるのか?と考えていましたが、そうしたことを具体的に考えるためには、さきの県内の銅鐸出土のある程度詳細な様相や傾向についての知見を得ることが重要と考え、我が国の古代史、考古学についての著作を大学図書館や書店などで、手当たり次第に読みました。とはいえ、当時の私は、古代史、弥生時代全般についての知識は、ほぼ皆無であったことから、当初はまさに雲を掴むような感じではありましたが、ある程度関連する著作を読み続け、さらに購入した国土地理院の20万分の1スケールの和歌山県の地図に書籍に記載のあった遺跡や銅鐸出土地のプロットや書き込みなどをしていますと、徐々にその様相が自分なりに理解出来るようになり、さらに、学食や当時よく行っていた国道26号線沿いのCoCo壱番屋にて友人等に得られた発見や知見などを話していますと、そのやり取りの中で、自分の考えも整理されて、自分なりに文語化されるようになっていったのだと云えます。しかし、当時はそうした興味深い記述を当ブログの引用記事のように抜粋することはしていませんでしたので、事後になりますが少し悔やまれます。とはいえ、かねてより私は頭脳明晰ではないと自覚していましたので、こうした身体を多く用いた調べ方や、駄弁りなどにより、得られた知識や知見を身体化・定着化させることは、それなりに理に適っていたのではないかと思われます。また、当ブログにおいてもしばしば題材としている所謂「思想」については、さきの友人方との駄弁りによる耳学問から、何となく勘所を掴み、そして重要と思われた著作については図書館で借りたり、あるいは書店で入手して読んで、自分なりに理解に努めていましたが、そうして得られた知識や知見から、自らの研究テーマであった地域性の考察において参考となるものが少なからずあったことから、こうした研究とは、特にその道に入りたてとも云える修士課程の時分には、周囲の研究テーマの異なる院生の方々と出来るだけ駄弁る機会を持った方が良いのではないかと考えます。また、私の場合、大学院に進むまでは、3年間、南紀白浜にてホテル勤務をしており、さらにその当初は、この地の大学院に進むとは全く考えていなかったことから、そこでの即自的とも云える日常経験を、大学院で地域学を専攻することにより、対自化することが出来たのではないかと思われるのです。また、こうした経緯・流路とは、おそらく医療系分野などにおいても効果的であると考えます。つまり、資格取得の後、ある程度の期間臨床経験を積み、その中で自分が興味深いと思った分野の大学院に進み研究をすることは、その方にとっても、その分野にとっても有益な効果があり、そして、そうした方々が増加することにより、その職種や医療全体にとって創造的な変化が自然にもたらされるのではないかと考えます。そして、そうした視座から、コメディカル・パラデンタル職種全般の養成は四年制大学にて行う方が良いと考えるのです。ともあれ、話を私の経験に戻しますと、この時の地域学の研究にて培った知識や知見は、その後、歯科技工士の免許を取得して歯科生体材料学の大学院に進んだ際にも役に立ち、おそらく、地域学での研究経験がなければ、色々とありましたが(どうにか)学位取得まで至らなかったのではないかと考えます。
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2024年9月20日金曜日

20240919 トクヴィルと19世紀半ばの欧州への興味とブログ記事作成手法について

 先日読了した岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著「フランス二月革命の日々」も含め、昨年末頃から比較的集中してトクヴィルによる著作または関連著作を読んできましたが、その発端は、東浩紀による「訂正可能性の哲学」を読み、その中でトクヴィルへの言及があったことであり、くわえて2022年2月から今なお続いている第二次宇露戦争について、より深く知るために、以前に読んだミネルヴァ書房刊 岩間陽子・君塚直隆・細井雄一による「ハンドブックヨーロッパ外交史」内のクリミア戦争の解説項目にて参考文献として挙げられていた白水社刊 オーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上下巻を読み、トクヴィルの生きた時代と「クリミア戦争」が被っていたことを知り、さらに、それら著作を読んだことから、これまた以前に読み、数年前に興味深いと思い引用記事を作成した岩波書店刊 トーマス・マン著「魔の山」の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏の背景についての記述や、20年以上前に読んだ同じく岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著「さらば古きものよ」内の著者自身の来歴の記述とも関連性が認められたことから、トクヴィルとクリミア戦争を軸として徐々に19世紀半ばの欧州に深入りしていったのだと云えます。

 正直なところ、これまで私はナポレオン戦争以降のフランスでの政権や政体の変遷や欧州全体での同時代の様相をあまり知らなかったことから、さきに挙げた新たに読んだ著作(トクヴィルおよび「クリミア戦争」)について比較的熱心に読むことが出来たのだと思われます。そして、そこからまた興味は亢進して、ここ最近19世紀半ばの欧州について扱ったオリジナルのブログ記事をいくつか作成・投稿してきましたが、それらの記事作成では昨今流行りの人工知能(ChatGPT)を援用しました。私にとってこの記事作成手法は、それまでの記事作成手法と異なることから、未だに慣れませんが、同時に以前と比べますと、多少は感覚あるいはコツを掴んできたのではないかとも思われます。さらに感覚ついでに述べますと、あくまでも私見ではありますが、これまでの記事作成手法は、金属や合金を赤熱させて叩いて成形をする所謂鍛造に近い感覚があり、他方の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成は、溶湯状態の金属・合金を鋳型に流し込む鋳造に近い感覚があると思われるのです。これを言い換えますと、現在作成している当記事は、前者の鍛造に近い感覚があり、意識する限りでは、手本や型となっている文章はありません。他方の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成では、既存の複数ブログ記事から、関連すると思われる文章・記述を素材として抜粋して、それらをブロガーの記事作成欄に並べ、それら全体をコピーしてChatGPTにペーストをして、そこから指示を出して、それら複数の記事抜粋部が溶け合い統合され、そこから重複する内容の記述を削除したり、さらに文章を整えて、どうにか、それらしい文章にしていくのですが、素材とした文章・記述の内容については、事前に、それぞれが統合可能と見込まれた関連のあるものとして認識していることから、ChatGPTによってはじめに統合された文章を眺め、読んでみても、私としては、そこまでおかしな文章ではなく、何となくではあるものの帳尻を合わせることは、そこまで困難ではないと云えます。しかし、作成者側からしますと、やはり現時点では、前者の、あるいは現在用いている鍛造的な記事作成手法の方が乗ってきますと面白くなり、没頭する感覚があり、あるいはそこに私なりの創造が働いているように思われるのです。そして後者の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成手法では、現時点では、抜粋した文章(素材)を並べて人工知能に指示を出して記事を作成していても、面白く、没頭できるといった感覚は希薄であり、あるいは、これもまた徐々に変化していくのかもしれませんが、しかし、今現在にて既に、鋳造で云えば溶湯を流し込み、そして鋳型から掘り出したばかりの研削すらしてしていない未整形状態とも云えるブログ記事の下書き・ドラフトのようなものが150近くあり、これらを時々はぬか漬けのぬか床のように、かき混ぜて、それぞれの概要を想起させるのが億劫に感じられます。とはいえ、それら下書き・ドラフトも、しばらく経ちますと、何かの機会に、その中からインスピレーションを得ることもあると考えますので、現在では人工知能を援用して作成した下書き・ドラフトも出来るだけ作成しておいた方が良いと考えています。ともあれ、このように、読んだ著作についてから歴史への興味、そして、ブログ記事の作成手法へと、自然ではあるものの、脈絡や論理性のないブログ記事になってしまいましたが、これもまた、後で何かの役に立つのではないかといった可能性を信じて当ブログを終えようと思います。
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2024年9月15日日曜日

20240918 1848年のヨーロッパについて③

 1848年は欧州にとって激動の年でした。「諸国民の春」として知られるこの年に始まった一連の革命や動乱では、自由主義や民族主義の思想の拡がりによって、欧州各地で新たな秩序を求める運動が活発化しました。これら19世紀半ばの出来事によって、欧州ではナポレオン戦争後以来のウィーン体制に大きな変革が生じ、続く同世紀後半、そして次なる20世紀へと至ります。

 1848年2月、フランスのパリで革命が起こり、1830年以来、所謂7月王政によって統治していたオルレアン朝のルイ=フィリップ王が退位しました。この2月革命では、労働者や市民が蜂起をして、7月王政に反発した結果、第二共和政が樹立されます。この革命は、労働者階級と市民階級(ブルジョワジー)とが協力して政治的変革を求めたものであり、自由主義的な政府が誕生しました。しかし、第二共和政が成立してもフランス国内の治安は安定せずに同年6月には労働者階級と政府間の対立が表面化して、労働者階級側が反乱・暴動を起こしました(6月蜂起)。この反乱は政府軍により鎮圧されましたが、結果的にフランス社会にさらなる分断が生じて、そうした状況を背景として、後にナポレオン三世がクーデターを起こし、1852年に自らを皇帝とする第2帝政が誕生する要因の一つとなりました。

 フランスの2月革命は、ヨーロッパ全体に波及し、欧州各国で同様の革命が勃発しました。特に、ドイツ諸邦、オーストリア、イタリアでの蜂起は、フランスの影響を受けたものでした。これら地域では、長年にわたる社会的不満や経済的苦境があり、そこに自由主義や民族主義の台頭が化合して勃発の要因を形成していました。ドイツにおいては、自由主義者と民族主義者が連携して、統一ドイツを目指した運動が活発化しました。この運動の結果、フランクフルト国民議会が開催され、統一憲法の草案が作成されましたが、最終的にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝の称号を拒否して、この運動は頓挫しました。この時点でドイツ統一は実現されなかったものの、後のプロイセン主導による統一ドイツへの布石となりました。他方、イタリアでは、ジュゼッペ・マッツィーニをはじめとする革命家たちが、イタリア統一を目指してサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト王が主導する形で対オーストリア戦争が始まりました。しかし、当時のイタリアは分裂状態のままであったことから、オーストリア軍に敗北して、イタリア統一は頓挫しました。しかし、さきのドイツと同様、これも後にイタリアが統一国家を形成するための礎となりました。

 先述のウィーン体制はナポレオン戦争後1815年に成立したものであり、ヨーロッパの保守的秩序を維持するためのものでした。この体制下では、オーストリア帝国がヨーロッパの安定を担う中心的な存在でしたが、1848年の革命の波は、このウィーン体制を大きく揺るがしました。特に、オーストリアの首都ウィーンでの蜂起は象徴的であり、市民や学生、労働者達が蜂起し、これにより首相メッテルニヒが失脚しました。さらに隣のハンガリーでも独立を求める民族主義運動が激化して、ハンガリー人はオーストリアからの分離を求めて戦いました。しかし、オーストリア帝国はロシアの支援を得てこのハンガリーでの蜂起を鎮圧して一時的にではあれ秩序を回復させました。

 くわえて、1848年の欧州での革命や動乱の背景には、1845年からの深刻な飢饉がありました。特に、アイルランドではジャガイモ胴枯れ病によって壊滅的な打撃を受け、100万人以上の死者が出ました。この影響は、アイルランドにとどまらず、ヨーロッパ各地に広がり、フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が社会不安を招きました。南ドイツ地域では物価高騰により暴動が頻発して、またベルギーでは飢饉が疫病蔓延を引き起こしました。そしてそこからの経済的困窮も民衆による暴動や蜂起を引き起こす一つの要因となりました。

 1848年の革命は一時的には成功をおさめたものの、多くの場合は、保守的勢力の反動によって失敗に終わりました。先述のとおり、ドイツでは統一運動が内部の分裂によって頓挫し、フランスでは労働者と市民階級との対立が深まり、最終的にナポレオン三世による第二帝政の樹立となりました。イタリアではオーストリア帝国との戦争に敗北して、統一されることはありませんでした。

 オーストリア帝国やハンガリーでは、民族主義運動がロシア帝国の軍事介入によって鎮圧され、保守的な君主制が復権しました。こうした革命失敗の背景には、革命勢力の内部分裂や組織の欠如、外部からの軍事的圧力などが複合的に作用していました。特に、革命勢力間の連携の欠如が致命的であり、後の革命運動への重要な教訓となりました。

 こうした一連の動きから、欧州の情勢はさらに緊張度を増して、その後、1853年に勃発したナポレオン戦争以来の大戦争と云えるクリミア戦争では、オーストリアとロシアがバルカン半島への支配・影響力をめぐって対立を深めて、ウィーン体制は崩壊に向かいます。クリミア戦争では、フランスとイギリスがオスマン帝国側に立ってロシア帝国と戦い、ロシアのバルカン半島における影響力を削減しようとしました。オーストリアは直接的な武力行使を避けたものの、ロシアとの対立を深めて、後の国際関係に大きな影響を与えました。また、クリミア戦争の後、オーストリアとプロイセンとの関係も悪化して、これが1866年の普墺戦争へと繋がります。この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ドイツ統一実現への道を開き、そしてまた後の1870年の普仏戦争によってナポレオン3世による第二帝政崩壊も招くことになります。

 先述のとおり、1848年の一連の革命や動乱の多くは失敗に終わりましたが、それでも欧州の政治構造に大きな影響を与え、自由主義と民族主義の思想は欧州各地に広がり、特にドイツやイタリアの統一運動においては重要な役割を果たし、ドイツはプロイセンを中心として1871年に統一が為され、イタリアも1861年に統一国家として成立しました。また、1848年の革命は、後の民主主義の発展にも大きく寄与しました。自由主義的な政治思想は、その後のヨーロッパ各国での政治改革に大きな影響を与え、最終的には多くの国で議会制民主主義が定着しました。そこから、一連の1848年の欧州での革命は、それまでの保守的秩序の終焉を告げて、新たな国民国家の形成と民主主義の発展を促した重要な出来事であり、これにより、ヨーロッパ全体が近代化の道を進み、今日の国際政治の基盤が築かれることになりました。

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20240914 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.407‐410より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.407‐410より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 六月十三日の事件はヨーロッパ大陸のすみずみに、苦悩と歓喜の叫びを生じさせた。この事件は突如として運命を決定することになった、それはライン河の側から急速に展開することになる。

 すでにプファルツとライン河流域を支配したプロイセン軍はバーデン大公国にすぐさま侵入し反乱者をけちらし、数週間もちこたえたラスタットを除く全国土を占領した。

 大公国の革命派はスイスに亡命した、このスイスにはイタリアやフランスからも、そして実際のところヨーロッパのあらゆるところから亡命者がやってきた。ロシアを除くヨーロッパ全体が革命を経験するが、まだそのさなかにあったからである。亡命者の数は一万あるいは一万二〇〇〇に達しようとしていた。それはスイスの隣国にいつでも敗走してなだれ込んでこようとしている一つの軍隊であった。これは、すべての政府の心配の種になっていた。

 すぐにこのようなスイス連邦には不満をもらす理由のあったオーストリアや、とくにプロイセン、また全くスイスとの関係のなかったロシアまでもが、軍隊によってスイス国境に侵入すると言い出しており、革命の脅威にさらされているすべての政府の名において、そこで警察の役割を果たそうとまで言っていたのである。われわれにとってたえ難かったのは、このような諸国の態度であった。

 私はまずスイスを説得し、脅かしに耳をかさないようにと言ってきかせ、しかし当然の権利として、隣接する諸国民の平安を公然とおびやかす煽動者を、国境の外にスイス自身の手で追い出してしまうように説得しようと試みた。私はパリのスイス連邦代表にたえずくり返して次のように述べた、「正当なこととしてあなたがたに要求してくる前に、このように先手をうっておかれるならば、諸国の宮廷からの不当な、あるいは過大な要求のすべてに抗してあなたがたが自己の立場を守るにあたっては、フランスをたよりにして下さい。われわれは、あなたがたが諸国王によっておしつぶされ、屈辱を受けるままになってしまうよりは、むしろ危険をおかしてでも戦争に訴えるでしょう。しかしもしあなたがたが、あなたがた自身のための道理をまずはっきりさせないのであれば、たよりとなるのはあなたがただけとなり、全ヨーロッパに対して唯一人で身を守ることになります」と。

 しかしこのような言葉は効果のないものだった。スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものなのだと信じている。私はそこで別の手段をとったが、これはより効果のあるものだった。それは外国の諸政府、なかんずくスイスに軍隊を侵入させようという気になっている政府に対して、しばらくの間、スイスに亡命したその国の者たちにいかなる恩赦も与えず、どんな罪の者にも祖国に帰ることを許さないようにと、勧告することであった。われわれの側としても、いったんスイスに亡命した後に、イギリスやアメリカに渡って行こうとしてフランスを通過したいと望む者に対して、それが煽動家である場合は勿論、害を与えることのない多勢の亡命者の場合でも、わが国の国境を通過することを認めないことになした。すべての国境がこのようにして厳重に閉鎖されたので、スイスは、ヨーロッパにいた要注意人物のうちの、もっとも煽動的で反抗的な分子であった者一万人ないし一万二〇〇〇人で、あふれ返ることになった、彼らに食料を与え住いを与え、また彼らがスイスに何かと相談ごとをしたりしないように、金銭をも与えておかなければならなかった。このことは亡命の権利が具合の悪いものだということを、スイス人にいっきょに気づかせることになった。彼らは、自分たちの中に幾人かの有名な革命の指導者をいつまでもかかえ込んでおくことを、これによって隣接の諸国に危険を及ぼすということがあったにしても、そんなに苦にしないなかった。しかし一軍団もの革命派が存在することは、大変困ったことだった。スイスのなかのもっとも急進的な諸州が最初に、この不都合で金のかかる客を早急に追い払うように、声高に要求しはじめた。そしてスイスに在留することが都合がよいと思っていた革命の指導者をあらかじめ追放しなければ、スイスを離れることができ、またそれを希望している、あまり害のない亡命者の大群に対して、諸外国がその国境を開くようにさせることが不可能だったので、ついにスイスは革命の指導者を追放するいことにした。これらの人物を領土内から遠ざけることをせず、すべてのヨーロッパの敵意を、危ういところで招き込んでしまうことになるところだったスイス人たちは、こうして当面の困難を回避し、多少の出費を避けるために、自分たちで自主的に、彼ら領土の外に追い払った。スイス人のデモクラシーの性格を人はよく理解していなかった。そのデモクラシーは、きわめてしばしば、外交問題について非常に混乱した理念しかもっておらず、国外の問題を国内的な問題が起った時にしか解決しようとしないものであった。

 スイスでこのように事態が展開していたとき、ドイツの全体的な情勢は、様相が変化しつつあった。諸政府に対する民衆の闘いに続いて、諸君主相互の間の争いが起った。私は革命のこの新しい局面を注意深く、困惑した気持で観察していた。

2024年9月14日土曜日

20240913 1848年のヨーロッパについて②

 1845年から1848年にかけて、ヨーロッパ全土は深刻な飢饉に見舞われました。当時の主要な食糧であったジャガイモが胴枯れ病の被害を受け、多くの地域で大飢饉が発生しました。特にアイルランドでは被害が甚大で、政府の不十分な対応も重なり、100万人以上が命を落としました。この影響で多くのアイルランド人がアメリカ合衆国へ移住し、その中には第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの先祖も含まれていました。

 飢饉の影響は他のヨーロッパ諸国にも広がり、フランスではジャガイモと小麦の価格が急騰し、市民生活を圧迫しました。南ドイツのバーデン地方でも食糧不足による価格高騰が起こり、ベルギーではチフスなどの疫病が蔓延し、多くの命が失われました。このような飢饉に端を発する社会不安と経済的困窮は、ヨーロッパ全土に深刻な影響を与え、各地で民衆の暴動が頻発するようになりました。

 こうした状況を背景として、1848年にはヨーロッパ各地で大規模な政治変革が発生しました。まず、1月にシチリアのパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定を求める革命が勃発。これによりシチリアは自治と憲法を獲得し、革命の波はイタリア全土、さらにはヨーロッパ全体に広がっていきました。

 続いて2月にはフランスで革命が勃発し、オルレアン朝のルイ・フィリップ王が退位して1830年以来続いた七月王政が崩壊、第二共和制が樹立されました。労働者階級と中産階級が協力し、工業化による社会的不平等の是正を求めたこの革命は、フランス社会に大きな変革をもたらしました。しかし、第二共和制は国内外の圧力に直面し、同年6月には労働者による反乱が起こり、「六月事件」として知られる武力鎮圧へと発展して、この反乱により、フランス社会の分断はさらに深まりました。

 混乱の続くフランスでは、1851年にルイ=ナポレオン(後のナポレオン三世)がクーデターを起こし、翌年には自ら皇帝となり第二帝政を樹立しました。ナポレオン三世治世下でのフランスは、内政の安定を図り、また積極的な対外政策を展開しました。1853年にはクリミア戦争に参戦し、黒海沿岸への侵出をはかるロシア帝国に対抗して英仏連合軍の一翼を担いました。この戦争はナポレオン戦争以来最大規模となり、1848年からの社会変革によって崩れかけていたウィーン体制をさらに揺るがしました。

 一方、フランスの2月革命を契機に、オーストリア、ドイツ諸邦、イタリア各地でも民衆蜂起や自由主義運動が相次ぎ、政治的・社会的な変革が求められるようになりました。ドイツでは自由主義と民族主義の高揚により、プロイセンとデンマーク間でシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン公国を巡る対立が激化しました。イタリアではサルディニア王国がイタリア統一を目指し、オーストリア・ハプスブルク帝国に宣戦するなど、民族統一運動が激しさを増しました。こうした一連の動きは、ヨーロッパ全体に緊張をもたらし、その後の戦争の原因となりました。

 19世紀半ばの飢饉による社会不安と、それに続く一連の革命や動乱は、19世紀後半のヨーロッパの状況を大きく変えました。伝統的な社会秩序が崩壊し、新たな国民国家が次々と誕生する中、ヨーロッパ全体が変革と再編の時代を迎えました。この時期に築かれた国際秩序や政治体制は現代の国際社会の基盤となり、その影響は今日に至るまで続いています。

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2024年9月10日火曜日

20240909 一連の当ブログ記事は自らに対する証であるのか…

 近年、新規でのブログ記事作成に際しては、作成当初から、前のめりであるということは稀であり、ほぼ毎回、半ば習慣化した義務のようなものとして、どちらかと云えば愉快な気分ではなく、作成に取り掛かっているわけですが、今回に関しては、記事主題の基軸となる記憶が想起されたため比較的軽快にここまでの文章は作成出来ました。

 さて、その「想起された記憶」は、既投稿記事にある、以前、鹿児島在住時に取り組んでいた実験に関するものであり、当時、実験にのめり込んでいく過程で、実験各条件に用いる試料のN(数)が増加して、また、それら試料を用いた実験から抽出されたデータの値は、当時、最新であり、且つ信頼出来る海外論文や学会報告のそれと近似するものであったことから、ある程度は信頼できるものと見做されたのか、当時、医歯薬出版株式会社さま刊行の歯科専門雑誌おそらく「補綴臨床」あるいは「歯界展望」に掲載の某大学歯学部口腔保健学科口腔保健工学専攻分野教授による記事に「***大学鶴木等の報告によると...」といった記述があり、それが小躍りするほどに嬉しかった記憶があります。
 
 おそらく、それが公刊され書店に並び、販売される書籍に私の名前が載った初めてのことであったと云えます。そして、そこから紆余曲折を経て現在に至っているわけですが、その過程は、2010年に指導教員が退職されて以来は、いわば野良の大学院生、そして学位取得をしてからは、晴れて野良の博士となったわけですが、そこに、それ以前(2009年)の兄の死なども勘案しますと、最善であったとは云えないにしても、それなりに頑張ってきたとは云えるのではないかと考えます。

 しかし、その後、つまり2013年に学位取得をしてからが、色々と大変であり、それまで実社会の中で積まなかった経験を集約して積まされたようにも思われ、それらの経験から端的に「疲れてしまった」ようにも感じられます。
 
 この「疲れ」はあくまでも体感的なものですが、しかし、鹿児島在住期での、前述の兄の死や、指導教員の退職と云った(シャレにならない)危機による反動として生じたものであったのか、当時の気力や敢闘精神のようなものは、現在となっては、かなり減衰していると云えます。そこから、おそらく、2013年の学位取得以降の何れかの時点で、私の気力は降伏点にまで達し破断をして、現在はそこから徐々に立ち直ろうとしているのだと云えます。

 そして、その意味において、当ブログは私にとって重要なものと云え、また、そこからエックスとの連携により新たな反応が生じることにも、現在となっては、ある種の「やりがい」が感じられます。そうしたことから、2015年6月から現在に至るまで9年以上にわたり、さきと同様、紆余曲折を経ながらも(どうにか)当ブログを継続してきたこと、出来たこと自体が、ある種、自らに対する証(あかし)であるようにも思われます。

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2024年9月9日月曜日

20240908 株式会社講談社刊 谷川健一著「沖縄 その危機と神々」 pp.64-66より抜粋

株式会社講談社刊 谷川健一著「沖縄 その危機と神々」
pp.64-66より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061592238
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061592230

 私は日本に対するさまざまな起伏をもった体験のはてに、日本の彼方にヤポネシアという歴史空間の幻をみるようになったようである。しかし私にとってヤポネシアとは、日本人に特有な水平願望を意味するものではない。昨日も今日も、飲み食い、騒ぎ、そしてそれ以上にかくべつ野心をもたない人びとの渦まく日本列島社会そのものである。島尾敏雄の造ったヤポネシアという言葉に私がひかれるようになったその裏がわには、日本列島社会を「日本」と同じものと考えたくない心情がある。私にとって日本というイメージは手垢によごれすぎた。そのイメージを洗うものは、日本よりももっと古い歴史空間か、日本よりもっと生きのびる、つまり若い歴史空間のどちらかでしかない。日本よりも古くかつ新しい歴史空間、それが私にとってのヤポネシアだ。

「日本」は、単系列の時間につながる歴史空間であるけれども、ヤポネシアは、多系列の時間を総合的に所有する空間概念である。つまり、日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとは、けっして矛盾しない。なぜなら、ヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。

 私たちは、ナショナリズムを脱しインターナショナルな視点をもとうとすれば、単系列の時間につながる歴史空間であるところの「日本」を否定するしかなく、「日本」を肯定するとなれば、単系列の時間の中に組みこまれるほかない道を歩まされてきた。「日本」に埋められるか、「脱日本」のどちらかしかない二者択一の道をえらばされた。けれどもヤポネシアは、日本脱出も日本埋没をも拒否する第三の道として登場する。日本にあって、しかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中に、ナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。

 それはどうして可能か。日本列島に対する認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることによって、つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。

 ヤポネシアの成立する理由のひとつとして、日本列島社会が、世界の国ぐにの中でも面積の割にはもっとも長い緯度のあいだに散在していることがあげられる。チリのように陸続きでなく、島嶼として存在することで、いっそう文化の同質均等化から免れているところに特徴がある。

 ヤポネシアの概念が成立する理由の第二は、日本列島社会に古いものと新しいものとの混在が幾重層にもみられることだ。いちいち例証をあげることははぶくが、日本の近代に中世や古代が雑居している現象をみることは、けっしてめずらしいことではない。そしてこうした現象は、儒教やキリスト教でローラーをかけられた国では例外に属する事柄なのである。支配者の統一原理としての文化概念が極度に不寛容な形で貫徹されるということは、日本列島社会には存在しなかった。すなわち、支配者の統一原理がときには神道であり、仏教であり、儒教でありして、しかもそれらが他を全面否定することはなかった。

 以上の理由からして、多系列で異質の歴史空間が日本列島社会では展開可能であるという事実が、ヤポネシアという概念を成立させる根拠なのだ。

2024年9月6日金曜日

20240905 株式会社新潮社刊 新潮選書 君塚直隆著「貴族とは何か: ノブレス・オブリージュの光と影」 pp.178-181より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 君塚直隆著「貴族とは何か: ノブレス・オブリージュの光と影」
pp.178-181より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038943
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038945

 そしてイギリスで貴族たちのたそがれを決定づけたのが、ヨーロッパ大陸と同様に第一次世界大戦(1914~18年)であった。第二章でも解説したが、この大戦は19世紀までヨーロッパで主に見られていたような、貴族たちを中心にした戦争とはまったく様相を異にしていた。端的に言ってしまえば、それまでの戦争は貴族出身者が多くを占める陸海軍の将校と義勇兵とが直接的に戦闘に加わるものであり、短期的な戦闘の後にこれまた貴族が大半を占める外交官によって講和が結ばれるという性質のものであった。

 ところがナポレオン戦争以後の100年間で殺戮平気の殺傷力は急激に上昇し、貴族や一部の国民だけでは兵力として足りない状況となっていた。「総力戦(total war)」の時代の到来である。イギリスでも開戦とともに「高貴なるものの責務(Nobless oblige)」を信じて、貴族やその子弟が大勢戦場へと駆けつけたが、彼らを持ち受けていたのはナポレオン時代の騎士道ではなく、瞬時に何十人も殺せる機関銃であり、性能が大幅に上昇していた砲弾の嵐であった。大戦が始まった1914年のわずか4カ月のあいだに、爵位貴族が6人、貴族の子弟が95人、準男爵の子弟も82人も命を落としていた。それは戦場に赴いた地主貴族階級男子の実に18.95%に相当する数字であった。

 4年に及んだ戦争はさらに多くの貴族たちの命を奪った。もちろん兵役を終えて無事に帰還した貴族たちもいた。しかし貴族やその子弟ともなると士官学校の出身者も多数いたため、従軍事に就くのは年齢等に応じて陸軍中佐以下の将校クラスであり、前線で自ら隊を率いて突撃する場合が多かったので、その死亡率は高かった。1914年には一般兵卒の死亡率が17人に1人(5.8%)であったのに対し、貴族出身の将校の死亡率は7人に1人(14%)という割合となった。4年にわたる戦争で、イギリスはなんとか勝利は手にしたが、貴族とその子弟は5人に1人が命を失った(全体の平均では戦死者は8人に1人の割合であった)。イギリス貴族たちはまさに自らの命と引き換えに「高貴なるものの責務」を果たしたのである。

 さらに究極の責務を果たした彼らを待ち受けていたのは、相続税の洗礼であった。爵位貴族家の当主で後継者が相次いで戦死したとき、100万ポンド以上の価値を有する土地財産を持っている場合には、いまや40%にも膨れ上がっていた莫大な相続税を支払わなければならなかった。さらに土地そのものに対する課税も上昇しており、戦場から無事に帰還できたとしても、貴族たちはそれまでのような広大な土地を保有できなくなっていた。

 1910年から22年にかけては、大戦後の土地価格の高騰とも相まって、イギリスでは大量の土地取引が見られている。それは一説には国土の半分近くにも及ぶ所有者の交代をもたらし、先にも紹介したノルマン征服(1066~71年)や修道院解散(1536~39年)にも匹敵する事態であったといわれる。地主貴族はもはやイギリスにおける百万長者の代名詞ではなくなってしまった。19世紀半ば(1809~79年)までは、百万長者に占める地主貴族の割合は実に88%にのぼっていたが、20世紀前半(1880~1914)までにその数字は33%にも減少してしまっていた。

 さらに土地を買い増そうなどという地主階級は姿を消し、売るべき土地がない貴族は家宝を売って糊口をしのぐ有様となった。先祖代々受け継がれてきた金額の食器はもとより、ラファエロやルーベンスなどの名画も次々とオークションで売られていった。さらに1920年代までには、かつては栄華を誇った貴族たちが所有する倫敦の屋敷も売られ、取り壊されていった。不動産に莫大な税金がかけられていったため、土地を売った貴族たちは海外の金融・証券市場への投資に転じ、地主貴族がますます減少し、証券・金融貴族が主流派を占めていく。

 第一次世界大戦が決定打となり、イギリスでも「貴族政治(aristocracy)」は「大衆民主政治(mass democracy)」へと大きく変容を遂げていった。1918年には男子普通選挙権(21歳以上)と女子選挙権(30歳以上)とが国政選挙において実現し、さらに1928年からは男女普通選挙権の時代へ突入していった。中央では庶民院に占める地主階級出身者の数が激減し、地方ではそれまで政府の裁量によって在地貴族が任命されることの多かった州統監が、州議会によって選出されるように変わった。州議会議員の構成にしても、地主貴族ではなく、実業界出身の中産階級が大半を占める状況へと変化していたのである。

 先に紹介したスタール夫人の言葉にあるような、貴族ネットワークで結ばれたヨーロッパ世界は完全に消滅してしまった。それはまた、フランス映画界の巨匠ジャン・ルノワール(1894~1979)によって1937年に発表された傑作「大いなる幻影」のなかで描かれたような、「貴族世界」の終焉をも意味していたのかもしてない。貴族階級出身のドイツ人将校とフランス人将校が、敵味方に分かれながらも階級的な友情で結ばれるなどというのは、古き良きおとぎ話の世界になってしまったのである。

2024年9月4日水曜日

20240903 知らぬ間に2250記事を過ぎていて思ったこと:繰りかえしによって生じる変化、上達?

 先ほど、新たに記事作成をしようと、当ブロガーを開き、これまでの投稿記事を眺めていますと、総投稿記事数が2252となっており、既に2250記事へ到達していたことが分かりました。面白いもので、この投稿記事数は、気になる時期と、全く気にならない時期とが私にはあるようです。とはいえ、それがどのような原因あるいはサイクルによるのであるかは分かりませんが、しかし、作成者の実感として、比較的ノッテいる時期には記事数を気にしなくなり、反対に、落ち込み気味で元気がない時などは「これまでにどのくらい作成したのか?」と気になり何度も確認してしまう傾向があるように感じられます。そうしますと、自然「ここ最近の私は調子が良くノッテいたのか?」と自問することとなり、そこで「たしかにそこまで落ち込んではいないが、他方で、そこまで調子は良いわけではないのだが...?」といった認識に至るわけですが、また同時に、ここ直近数ヵ月は、何かと話題の生成AIをブログ記事作成に援用しており、実際、最近の投稿記事には、そのようにして作成したものがいくつかあります。くわえて、同手法による作成途中の(下書き)記事もまた150近くあります。この手法による記事作成は、既投稿のオリジナル、引用の記事から、関連があると思しき記述の部分をコピペして並べて、そこに指示をして、新たな文章の生成を行い、それをドラフト・下書きとして、そこから色々と手を加えますと、それらしい文章にはなると云えます。とはいえ、この作成方法では、未だ慣れないために多少難儀しており、また、現在作成している当記事のように、はじめからの書下ろしにて文章作成をしている方が、何と云いますか、作成している際の集中もしくは没入の感覚が、さきの生成AIを援用して作成した下書きに手を加えて記事作成を行う方法での集中・没入感と比べて、有意に強いと感じられるのです。しかし、であるからといって、集中・没入感に重きを置いて、書下ろしでの記事作成に拘ることはないと考えます。その理由は、当ブログ開始当初当初の頃を思い出しますと、まずノートに手書きでブログ記事の下書きを作成し、それをPCに入力してブログ記事を作成をしていましたが、この手法を数カ月程度続けていますと、どうしたわけか、やがてノートへの手書きの工程を省略しても記事作成が出来る様になり、やがて文体もまた、当初の対話形式から独白形式にて文章の作成が出来るようになりました。とはいえ、それ以前の頃であってもミクシィなどで時々は文章を作成し、公表してきましたので、おそらく、こうした手法の修得あるいは身体化とは、何度かの繰返される経験の中で徐々に為されて、そして、より深化されるのではないかと思われるのです。そして、その背景にある通底する要素があると思われる私的な経験は、これまでに何度か当ブログにて述べてきました「英語の勉強について」です。おそらく我々の多くは、私的あるいは公的な目的でメール文章を作成する機会が少なからずあると思われますが、しかし、そうしたメールで作成する文面と、斯様な公表を前提とした文面では性質が異なると云えます。そしてまた、そうした感覚を認識するようになりますと、突然文章の作成が恐ろしくなり、そして、身構えるようになり、先ずは手慣れた手書きでの作成法から初めて、自分なりに堅牢な文章の作成を意識するようになるのだと云えますが、そうした段階も、思い返してみますと、私はそれまでの人文系・歯系の大学院においてもあまり強くは意識することはなかったものの経験したことであったと云えます。つまり、あくまでも私見ではありますが、文章作成や口語と文語などについて、自分なりに思い悩みつつ作成していた時期を何度か経ることによって、人はその人なりの文体といったものを獲得するのではないかと思われるのです。とはいえ、そのように述べる私も、未だ文体の獲得には至っていないとも思われますので、先日2250記事に到達していたとしても、今しばらく引用記事も含めつつ、当ブログを継続してみたいと考えています。ちなみに来年2025年6月で当ブログ開始から丸10年となりますが、出来ればそこまでは、いかなる投稿頻度であれ、否、出来るだけ高頻度にて新規投稿を継続して、2400~2500記事程度にまでは至ることが出来ればと考えてはいますが、他方で、まだ先が長いハナシであることから、今現在その実感といったものは皆目ありません…。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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