2024年9月20日金曜日

20240919 トクヴィルと19世紀半ばの欧州への興味とブログ記事作成手法について

 先日読了した岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著「フランス二月革命の日々」も含め、昨年末頃から比較的集中してトクヴィルによる著作または関連著作を読んできましたが、その発端は、東浩紀による「訂正可能性の哲学」を読み、その中でトクヴィルへの言及があったことであり、くわえて2022年2月から今なお続いている第二次宇露戦争について、より深く知るために、以前に読んだミネルヴァ書房刊 岩間陽子・君塚直隆・細井雄一による「ハンドブックヨーロッパ外交史」内のクリミア戦争の解説項目にて参考文献として挙げられていた白水社刊 オーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上下巻を読み、トクヴィルの生きた時代と「クリミア戦争」が被っていたことを知り、さらに、それら著作を読んだことにより、これまた以前に読み、数年前に興味深いと思い引用記事を作成した岩波書店刊 トーマス・マン著「魔の山」の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏の背景についての記述や、20年以上前に読んだ同じく岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著「さらば古きものよ」内の著者自身の来歴についての記述とも関連性が認められたことから、トクヴィルとクリミア戦争を軸として徐々に19世紀半ばの欧州に深入りしていったのだと云えます。

 正直なところ、これまで私はナポレオン戦争以降のフランスでの政権や政体の変遷や欧州全体での同時代の様相をあまり知らなかったことから、さきに挙げた新たに読んだ著作(トクヴィルおよび「クリミア戦争」)について比較的熱心に読むことが出来たのだと思われます。そして、そこからまた興味は亢進して、ここ最近19世紀半ばの欧州について扱ったオリジナルのブログ記事をいくつか作成・投稿してきましたが、それらの記事作成では昨今流行りの人工知能(ChatGPT)を援用しました。私にとってこの記事作成手法は、それまでの記事作成手法と異なることから、未だに慣れませんが、同時に以前と比べますと、多少は感覚あるいはコツを掴んできたのではないかとも思われます。さらに感覚ついでに述べますと、あくまでも私見ではありますが、これまでの記事作成手法は、金属や合金を赤熱させて叩いて成形をする所謂鍛造に近い感覚があり、他方の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成は、溶湯状態の金属・合金を鋳型に流し込む鋳造に近い感覚があると思われるのです。これを言い換えますと、現在作成している当記事は、前者の鍛造に近い感覚があり、意識する限りでは、手本や型となっている文章はありません。他方の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成では、既存の複数ブログ記事から、関連すると思われる文章・記述を素材として抜粋して、それらをブロガーの記事作成欄に並べ、それら全体をコピーしてChatGPTにペーストをして、そこから指示を出して、それら複数の記事抜粋部が溶け合い統合され、そこから重複する内容の記述を削除したり、さらに文章を整えて、どうにか、それらしい文章にしていくのですが、素材とした文章・記述の内容については、事前に、それぞれが統合可能と見込まれた関連のあるものとして認識していることから、ChatGPTによってはじめに統合された文章を眺め、読んでみても、私としては、そこまでおかしな文章ではなく、何となくではあるものの帳尻を合わせることは、そこまで困難ではないと云えます。しかし、作成者側からしますと、やはり現時点では、前者の、あるいは現在用いている鍛造的な記事作成手法の方が乗ってきますと面白くなり、没頭する感覚があり、あるいはそこに私なりの創造が働いているように思われるのです。そして後者の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成手法では、現時点では、抜粋した文章(素材)を並べて人工知能に指示を出して記事を作成していても、面白く、没頭できるといった感覚は希薄であり、あるいは、これもまた徐々に変化していくのかもしれませんが、しかし、今現在にて既に、鋳造で云えば溶湯を流し込み、そして鋳型から掘り出したばかりの研削すらしてしていない未整形状態とも云えるブログ記事の下書き・ドラフトのようなものが150近くあり、これらを時々はぬか漬けのぬか床のように、かき混ぜて、それぞれの概要を想起させるのが億劫に感じられます。とはいえ、それら下書き・ドラフトも、しばらく経ちますと、何かの機会に、その中からインスピレーションを得ることもあると考えますので、現在では人工知能を援用して作成した下書き・ドラフトも出来るだけ作成しておいた方が良いと考えています。ともあれ、このように、読んだ著作についてから歴史への興味、そして、ブログ記事の作成手法へと、自然ではあるものの、脈絡や論理性のないブログ記事になってしまいましたが、これもまた、後で何かの役に立つのではないかといった可能性を信じて当ブログを終えようと思います。
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2024年9月15日日曜日

20240918 1848年のヨーロッパについて③

 1848年は欧州にとって激動の年でした。「諸国民の春」として知られるこの年に始まった一連の革命や動乱では、自由主義や民族主義の思想の拡がりによって、欧州各地で新たな秩序を求める運動が活発化しました。これら19世紀半ばの出来事によって、欧州ではナポレオン戦争後以来のウィーン体制に大きな変革が生じ、続く同世紀後半、そして次なる20世紀へと至ります。

 1848年2月、フランスのパリで革命が起こり、1830年以来、所謂7月王政によって統治していたオルレアン朝のルイ=フィリップ王が退位しました。この2月革命では、労働者や市民が蜂起をして、7月王政に反発した結果、第二共和政が樹立されます。この革命は、労働者階級と市民階級(ブルジョワジー)とが協力して政治的変革を求めたものであり、自由主義的な政府が誕生しました。しかし、第二共和政が成立してもフランス国内の治安は安定せずに同年6月には労働者階級と政府間の対立が表面化して、労働者階級側が反乱・暴動を起こしました(6月蜂起)。この反乱は政府軍により鎮圧されましたが、結果的にフランス社会にさらなる分断が生じて、そうした状況を背景として、後にナポレオン三世がクーデターを起こし、1852年に自らを皇帝とする第2帝政が誕生する要因の一つとなりました。

 フランスの2月革命は、ヨーロッパ全体に波及し、欧州各国で同様の革命が勃発しました。特に、ドイツ諸邦、オーストリア、イタリアでの蜂起は、フランスの影響を受けたものでした。これら地域では、長年にわたる社会的不満や経済的苦境があり、そこに自由主義や民族主義の台頭が化合して勃発の要因を形成していました。ドイツにおいては、自由主義者と民族主義者が連携して、統一ドイツを目指した運動が活発化しました。この運動の結果、フランクフルト国民議会が開催され、統一憲法の草案が作成されましたが、最終的にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝の称号を拒否して、この運動は頓挫しました。この時点でドイツ統一は実現されなかったものの、後のプロイセン主導による統一ドイツへの布石となりました。他方、イタリアでは、ジュゼッペ・マッツィーニをはじめとする革命家たちが、イタリア統一を目指してサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト王が主導する形で対オーストリア戦争が始まりました。しかし、当時のイタリアは分裂状態のままであったことから、オーストリア軍に敗北して、イタリア統一は頓挫しました。しかし、さきのドイツと同様、これも後にイタリアが統一国家を形成するための礎となりました。

 先述のウィーン体制はナポレオン戦争後1815年に成立したものであり、ヨーロッパの保守的秩序を維持するためのものでした。この体制下では、オーストリア帝国がヨーロッパの安定を担う中心的な存在でしたが、1848年の革命の波は、このウィーン体制を大きく揺るがしました。特に、オーストリアの首都ウィーンでの蜂起は象徴的であり、市民や学生、労働者達が蜂起し、これにより首相メッテルニヒが失脚しました。さらに隣のハンガリーでも独立を求める民族主義運動が激化して、ハンガリー人はオーストリアからの分離を求めて戦いました。しかし、オーストリア帝国はロシアの支援を得てこのハンガリーでの蜂起を鎮圧して一時的にではあれ秩序を回復させました。

 くわえて、1848年の欧州での革命や動乱の背景には、1845年からの深刻な飢饉がありました。特に、アイルランドではジャガイモ胴枯れ病によって壊滅的な打撃を受け、100万人以上の死者が出ました。この影響は、アイルランドにとどまらず、ヨーロッパ各地に広がり、フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が社会不安を招きました。南ドイツ地域では物価高騰により暴動が頻発して、またベルギーでは飢饉が疫病蔓延を引き起こしました。そしてそこからの経済的困窮も民衆による暴動や蜂起を引き起こす一つの要因となりました。

 1848年の革命は一時的には成功をおさめたものの、多くの場合は、保守的勢力の反動によって失敗に終わりました。先述のとおり、ドイツでは統一運動が内部の分裂によって頓挫し、フランスでは労働者と市民階級との対立が深まり、最終的にナポレオン三世による第二帝政の樹立となりました。イタリアではオーストリア帝国との戦争に敗北して、統一されることはありませんでした。

 オーストリア帝国やハンガリーでは、民族主義運動がロシア帝国の軍事介入によって鎮圧され、保守的な君主制が復権しました。こうした革命失敗の背景には、革命勢力の内部分裂や組織の欠如、外部からの軍事的圧力などが複合的に作用していました。特に、革命勢力間の連携の欠如が致命的であり、後の革命運動への重要な教訓となりました。

 こうした一連の動きから、欧州の情勢はさらに緊張度を増して、その後、1853年に勃発したナポレオン戦争以来の大戦争と云えるクリミア戦争では、オーストリアとロシアがバルカン半島への支配・影響力をめぐって対立を深めて、ウィーン体制は崩壊に向かいます。クリミア戦争では、フランスとイギリスがオスマン帝国側に立ってロシア帝国と戦い、ロシアのバルカン半島における影響力を削減しようとしました。オーストリアは直接的な武力行使を避けたものの、ロシアとの対立を深めて、後の国際関係に大きな影響を与えました。また、クリミア戦争の後、オーストリアとプロイセンとの関係も悪化して、これが1866年の普墺戦争へと繋がります。この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ドイツ統一実現への道を開き、そしてまた後の1870年の普仏戦争によってナポレオン3世による第二帝政崩壊も招くことになります。

 先述のとおり、1848年の一連の革命や動乱の多くは失敗に終わりましたが、それでも欧州の政治構造に大きな影響を与え、自由主義と民族主義の思想は欧州各地に広がり、特にドイツやイタリアの統一運動においては重要な役割を果たし、ドイツはプロイセンを中心として1871年に統一が為され、イタリアも1861年に統一国家として成立しました。また、1848年の革命は、後の民主主義の発展にも大きく寄与しました。自由主義的な政治思想は、その後のヨーロッパ各国での政治改革に大きな影響を与え、最終的には多くの国で議会制民主主義が定着しました。そこから、一連の1848年の欧州での革命は、それまでの保守的秩序の終焉を告げて、新たな国民国家の形成と民主主義の発展を促した重要な出来事であり、これにより、ヨーロッパ全体が近代化の道を進み、今日の国際政治の基盤が築かれることになりました。

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20240914 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.407‐410より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.407‐410より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 六月十三日の事件はヨーロッパ大陸のすみずみに、苦悩と歓喜の叫びを生じさせた。この事件は突如として運命を決定することになった、それはライン河の側から急速に展開することになる。

 すでにプファルツとライン河流域を支配したプロイセン軍はバーデン大公国にすぐさま侵入し反乱者をけちらし、数週間もちこたえたラスタットを除く全国土を占領した。

 大公国の革命派はスイスに亡命した、このスイスにはイタリアやフランスからも、そして実際のところヨーロッパのあらゆるところから亡命者がやってきた。ロシアを除くヨーロッパ全体が革命を経験するが、まだそのさなかにあったからである。亡命者の数は一万あるいは一万二〇〇〇に達しようとしていた。それはスイスの隣国にいつでも敗走してなだれ込んでこようとしている一つの軍隊であった。これは、すべての政府の心配の種になっていた。

 すぐにこのようなスイス連邦には不満をもらす理由のあったオーストリアや、とくにプロイセン、また全くスイスとの関係のなかったロシアまでもが、軍隊によってスイス国境に侵入すると言い出しており、革命の脅威にさらされているすべての政府の名において、そこで警察の役割を果たそうとまで言っていたのである。われわれにとってたえ難かったのは、このような諸国の態度であった。

 私はまずスイスを説得し、脅かしに耳をかさないようにと言ってきかせ、しかし当然の権利として、隣接する諸国民の平安を公然とおびやかす煽動者を、国境の外にスイス自身の手で追い出してしまうように説得しようと試みた。私はパリのスイス連邦代表にたえずくり返して次のように述べた、「正当なこととしてあなたがたに要求してくる前に、このように先手をうっておかれるならば、諸国の宮廷からの不当な、あるいは過大な要求のすべてに抗してあなたがたが自己の立場を守るにあたっては、フランスをたよりにして下さい。われわれは、あなたがたが諸国王によっておしつぶされ、屈辱を受けるままになってしまうよりは、むしろ危険をおかしてでも戦争に訴えるでしょう。しかしもしあなたがたが、あなたがた自身のための道理をまずはっきりさせないのであれば、たよりとなるのはあなたがただけとなり、全ヨーロッパに対して唯一人で身を守ることになります」と。

 しかしこのような言葉は効果のないものだった。スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものなのだと信じている。私はそこで別の手段をとったが、これはより効果のあるものだった。それは外国の諸政府、なかんずくスイスに軍隊を侵入させようという気になっている政府に対して、しばらくの間、スイスに亡命したその国の者たちにいかなる恩赦も与えず、どんな罪の者にも祖国に帰ることを許さないようにと、勧告することであった。われわれの側としても、いったんスイスに亡命した後に、イギリスやアメリカに渡って行こうとしてフランスを通過したいと望む者に対して、それが煽動家である場合は勿論、害を与えることのない多勢の亡命者の場合でも、わが国の国境を通過することを認めないことになした。すべての国境がこのようにして厳重に閉鎖されたので、スイスは、ヨーロッパにいた要注意人物のうちの、もっとも煽動的で反抗的な分子であった者一万人ないし一万二〇〇〇人で、あふれ返ることになった、彼らに食料を与え住いを与え、また彼らがスイスに何かと相談ごとをしたりしないように、金銭をも与えておかなければならなかった。このことは亡命の権利が具合の悪いものだということを、スイス人にいっきょに気づかせることになった。彼らは、自分たちの中に幾人かの有名な革命の指導者をいつまでもかかえ込んでおくことを、これによって隣接の諸国に危険を及ぼすということがあったにしても、そんなに苦にしないなかった。しかし一軍団もの革命派が存在することは、大変困ったことだった。スイスのなかのもっとも急進的な諸州が最初に、この不都合で金のかかる客を早急に追い払うように、声高に要求しはじめた。そしてスイスに在留することが都合がよいと思っていた革命の指導者をあらかじめ追放しなければ、スイスを離れることができ、またそれを希望している、あまり害のない亡命者の大群に対して、諸外国がその国境を開くようにさせることが不可能だったので、ついにスイスは革命の指導者を追放するいことにした。これらの人物を領土内から遠ざけることをせず、すべてのヨーロッパの敵意を、危ういところで招き込んでしまうことになるところだったスイス人たちは、こうして当面の困難を回避し、多少の出費を避けるために、自分たちで自主的に、彼ら領土の外に追い払った。スイス人のデモクラシーの性格を人はよく理解していなかった。そのデモクラシーは、きわめてしばしば、外交問題について非常に混乱した理念しかもっておらず、国外の問題を国内的な問題が起った時にしか解決しようとしないものであった。

 スイスでこのように事態が展開していたとき、ドイツの全体的な情勢は、様相が変化しつつあった。諸政府に対する民衆の闘いに続いて、諸君主相互の間の争いが起った。私は革命のこの新しい局面を注意深く、困惑した気持で観察していた。

2024年9月14日土曜日

20240913 1848年のヨーロッパについて②

 1845年から1848年にかけて、ヨーロッパ全土は深刻な飢饉に見舞われました。当時の主要な食糧であったジャガイモが胴枯れ病の被害を受け、多くの地域で大飢饉が発生しました。特にアイルランドでは被害が甚大で、政府の不十分な対応も重なり、100万人以上が命を落としました。この影響で多くのアイルランド人がアメリカ合衆国へ移住し、その中には第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの先祖も含まれていました。

 飢饉の影響は他のヨーロッパ諸国にも広がり、フランスではジャガイモと小麦の価格が急騰し、市民生活を圧迫しました。南ドイツのバーデン地方でも食糧不足による価格高騰が起こり、ベルギーではチフスなどの疫病が蔓延し、多くの命が失われました。このような飢饉に端を発する社会不安と経済的困窮は、ヨーロッパ全土に深刻な影響を与え、各地で民衆の暴動が頻発するようになりました。

 こうした状況を背景として、1848年にはヨーロッパ各地で大規模な政治変革が発生しました。まず、1月にシチリアのパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定を求める革命が勃発。これによりシチリアは自治と憲法を獲得し、革命の波はイタリア全土、さらにはヨーロッパ全体に広がっていきました。

 続いて2月にはフランスで革命が勃発し、オルレアン朝のルイ・フィリップ王が退位して1830年以来続いた七月王政が崩壊、第二共和制が樹立されました。労働者階級と中産階級が協力し、工業化による社会的不平等の是正を求めたこの革命は、フランス社会に大きな変革をもたらしました。しかし、第二共和制は国内外の圧力に直面し、同年6月には労働者による反乱が起こり、「六月事件」として知られる武力鎮圧へと発展して、この反乱により、フランス社会の分断はさらに深まりました。

 混乱の続くフランスでは、1851年にルイ=ナポレオン(後のナポレオン三世)がクーデターを起こし、翌年には自ら皇帝となり第二帝政を樹立しました。ナポレオン三世治世下でのフランスは、内政の安定を図り、また積極的な対外政策を展開しました。1853年にはクリミア戦争に参戦し、黒海沿岸への侵出をはかるロシア帝国に対抗して英仏連合軍の一翼を担いました。この戦争はナポレオン戦争以来最大規模となり、1848年からの社会変革によって崩れかけていたウィーン体制をさらに揺るがしました。

 一方、フランスの2月革命を契機に、オーストリア、ドイツ諸邦、イタリア各地でも民衆蜂起や自由主義運動が相次ぎ、政治的・社会的な変革が求められるようになりました。ドイツでは自由主義と民族主義の高揚により、プロイセンとデンマーク間でシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン公国を巡る対立が激化しました。イタリアではサルディニア王国がイタリア統一を目指し、オーストリア・ハプスブルク帝国に宣戦するなど、民族統一運動が激しさを増しました。こうした一連の動きは、ヨーロッパ全体に緊張をもたらし、その後の戦争の原因となりました。

 19世紀半ばの飢饉による社会不安と、それに続く一連の革命や動乱は、19世紀後半のヨーロッパの状況を大きく変えました。伝統的な社会秩序が崩壊し、新たな国民国家が次々と誕生する中、ヨーロッパ全体が変革と再編の時代を迎えました。この時期に築かれた国際秩序や政治体制は現代の国際社会の基盤となり、その影響は今日に至るまで続いています。

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2024年9月10日火曜日

20240909 一連の当ブログ記事は自らに対する証であるのか…

 近年、新規でのブログ記事作成に際しては、作成当初から、前のめりであるということは稀であり、ほぼ毎回、半ば習慣化した義務のようなものとして、どちらかと云えば愉快な気分ではなく、作成に取り掛かっているわけですが、今回に関しては、記事主題の基軸となる記憶が想起されたため比較的軽快にここまでの文章は作成出来ました。

 さて、その「想起された記憶」は、既投稿記事にある、以前、鹿児島在住時に取り組んでいた実験に関するものであり、当時、実験にのめり込んでいく過程で、実験各条件に用いる試料のN(数)が増加して、また、それら試料を用いた実験から抽出されたデータの値は、当時、最新であり、且つ信頼出来る海外論文や学会報告のそれと近似するものであったことから、ある程度は信頼できるものと見做されたのか、当時、医歯薬出版株式会社さま刊行の歯科専門雑誌おそらく「補綴臨床」あるいは「歯界展望」に掲載の某大学歯学部口腔保健学科口腔保健工学専攻分野教授による記事に「***大学鶴木等の報告によると...」といった記述があり、それが小躍りするほどに嬉しかった記憶があります。
 
 おそらく、それが公刊され書店に並び、販売される書籍に私の名前が載った初めてのことであったと云えます。そして、そこから紆余曲折を経て現在に至っているわけですが、その過程は、2010年に指導教員が退職されて以来は、いわば野良の大学院生、そして学位取得をしてからは、晴れて野良の博士となったわけですが、そこに、それ以前(2009年)の兄の死なども勘案しますと、最善であったとは云えないにしても、それなりに頑張ってきたとは云えるのではないかと考えます。

 しかし、その後、つまり2013年に学位取得をしてからが、色々と大変であり、それまで実社会の中で積まなかった経験を集約して積まされたようにも思われ、それらの経験から端的に「疲れてしまった」ようにも感じられます。
 
 この「疲れ」はあくまでも体感的なものですが、しかし、鹿児島在住期での、前述の兄の死や、指導教員の退職と云った(シャレにならない)危機による反動として生じたものであったのか、当時の気力や敢闘精神のようなものは、現在となっては、かなり減衰していると云えます。そこから、おそらく、2013年の学位取得以降の何れかの時点で、私の気力は降伏点にまで達し破断をして、現在はそこから徐々に立ち直ろうとしているのだと云えます。

 そして、その意味において、当ブログは私にとって重要なものと云え、また、そこからエックスとの連携により新たな反応が生じることにも、現在となっては、ある種の「やりがい」が感じられます。そうしたことから、2015年6月から現在に至るまで9年以上にわたり、さきと同様、紆余曲折を経ながらも(どうにか)当ブログを継続してきたこと、出来たこと自体が、ある種、自らに対する証(あかし)であるようにも思われます。

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2024年9月9日月曜日

20240908 株式会社講談社刊 谷川健一著「沖縄 その危機と神々」 pp.64-66より抜粋

株式会社講談社刊 谷川健一著「沖縄 その危機と神々」
pp.64-66より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061592238
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061592230

 私は日本に対するさまざまな起伏をもった体験のはてに、日本の彼方にヤポネシアという歴史空間の幻をみるようになったようである。しかし私にとってヤポネシアとは、日本人に特有な水平願望を意味するものではない。昨日も今日も、飲み食い、騒ぎ、そしてそれ以上にかくべつ野心をもたない人びとの渦まく日本列島社会そのものである。島尾敏雄の造ったヤポネシアという言葉に私がひかれるようになったその裏がわには、日本列島社会を「日本」と同じものと考えたくない心情がある。私にとって日本というイメージは手垢によごれすぎた。そのイメージを洗うものは、日本よりももっと古い歴史空間か、日本よりもっと生きのびる、つまり若い歴史空間のどちらかでしかない。日本よりも古くかつ新しい歴史空間、それが私にとってのヤポネシアだ。

「日本」は、単系列の時間につながる歴史空間であるけれども、ヤポネシアは、多系列の時間を総合的に所有する空間概念である。つまり、日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとは、けっして矛盾しない。なぜなら、ヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。

 私たちは、ナショナリズムを脱しインターナショナルな視点えおもとうとすれば、単系列の時間につながる歴史空間であるところの「日本」を否定するしかなく、「日本」を肯定するとなれば、単系列の時間の中に組みこまれるほかない道を歩まされてきた。「日本」に埋められるか、「脱日本」のどちらかしかない二者択一の道をえらばされた。けれどもヤポネシアは、日本脱出も日本埋没をも拒否する第三の道として登場する。日本にあって、しかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中に、ナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。

 それはどうして可能か。日本列島に対する認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることにyっれ、つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。

 ヤポネシアの成立する理由のひとつとして、日本列島社会が、世界の国ぐにの中でも面積の割にはもっとも長い緯度のあいだに散在していることがあげられる。チリのように陸続きでなく、島嶼として存在することで、いっそう文化の同質均等化から免れているところに特徴がある。

 ヤポネシアの概念が成立する理由の第二は、日本列島社会に古いものと新しいものとの混在が幾重層にもみられることだ。いちいち例証をあげることははぶくが、日本の近代に中世や古代が雑居している現象wpみることは、けっしてめずらしいことではない。そしてこうした現象は、儒教やキリスト教でローラーをかけられた国では例外に属する事柄なのである。支配者の統一原理としての文化概念が極度に不寛容な形で貫徹されるということは、日本列島社会には存在しなかった。すなわち、支配者の統一原理がときには神道であり、仏教であり、儒教でありして、しかもそれらが他を全面否定することはなかった。

 以上の理由からして、多系列で異質の歴史空間が日本列島社会では展開可能であるという事実が、ヤポネシアという概念を成立させる根拠なのだ。

2024年9月6日金曜日

20240905 株式会社新潮社刊 新潮選書 君塚直隆著「貴族とは何か: ノブレス・オブリージュの光と影」 pp.178-181より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 君塚直隆著「貴族とは何か: ノブレス・オブリージュの光と影」
pp.178-181より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038943
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038945

 そしてイギリスで貴族たちのたそがれを決定づけたのが、ヨーロッパ大陸と同様に第一次世界大戦(1914~18年)であった。第二章でも解説したが、この大戦は19世紀までヨーロッパで主に見られていたような、貴族たちを中心にした戦争とはまったく様相を異にしていた。端的に言ってしまえば、それまでの戦争は貴族出身者が多くを占める陸海軍の将校と義勇兵とが直接的に戦闘に加わるものであり、短期的な戦闘の後にこれまた貴族が大半を占める外交官によって講和が結ばれるという性質のものであった。

 ところがナポレオン戦争以後の100年間で殺戮平気の殺傷力は急激に上昇し、貴族や一部の国民だけでは兵力として足りない状況となっていた。「総力戦(total war)」の時代の到来である。イギリスでも開戦とともに「高貴なるものの責務(Nobless oblige)」を信じて、貴族やその子弟が大勢戦場へと駆けつけたが、彼らを持ち受けていたのはナポレオン時代の騎士道ではなく、瞬時に何十人も殺せる機関銃であり、性能が大幅に上昇していた砲弾の嵐であった。大戦が始まった1914年のわずか4カ月のあいだに、爵位貴族が6人、貴族の子弟が95人、準男爵の子弟も82人も命を落としていた。それは戦場に赴いた地主貴族階級男子の実に18.95%に相当する数字であった。

 4年に及んだ戦争はさらに多くの貴族たちの命を奪った。もちろん兵役を終えて無事に帰還した貴族たちもいた。しかし貴族やその子弟ともなると士官学校の出身者も多数いたため、従軍事に就くのは年齢等に応じて陸軍中佐以下の将校クラスであり、前線で自ら隊を率いて突撃する場合が多かったので、その死亡率は高かった。1914年には一般兵卒の死亡率が17人に1人(5.8%)であったのに対し、貴族出身の将校の死亡率は7人に1人(14%)という割合となった。4年にわたる戦争で、イギリスはなんとか勝利は手にしたが、貴族とその子弟は5人に1人が命を失った(全体の平均では戦死者は8人に1人の割合であった)。イギリス貴族たちはまさに自らの命と引き換えに「高貴なるものの責務」を果たしたのである。

 さらに究極の責務を果たした彼らを待ち受けていたのは、相続税の洗礼であった。爵位貴族家の当主で後継者が相次いで戦死したとき、100万ポンド以上の価値を有する土地財産を持っている場合には、いまや40%にも膨れ上がっていた莫大な相続税を支払わなければならなかった。さらに土地そのものに対する課税も上昇しており、戦場から無事に帰還できたとしても、貴族たちはそれまでのような広大な土地を保有できなくなっていた。

 1910年から22年にかけては、大戦後の土地価格の高騰とも相まって、イギリスでは大量の土地取引が見られている。それは一説には国土の半分近くにも及ぶ所有者の交代をもたらし、先にも紹介したノルマン征服(1066~71年)や修道院解散(1536~39年)にも匹敵する事態であったといわれる。地主貴族はもはやイギリスにおける百万長者の代名詞ではなくなってしまった。19世紀半ば(1809~79年)までは、百万長者に占める地主貴族の割合は実に88%にのぼっていたが、20世紀前半(1880~1914)までにその数字は33%にも減少してしまっていた。

 さらに土地を買い増そうなどという地主階級は姿を消し、売るべき土地がない貴族は家宝を売って糊口をしのぐ有様となった。先祖代々受け継がれてきた金額の食器はもとより、ラファエロやルーベンスなどの名画も次々とオークションで売られていった。さらに1920年代までには、かつては栄華を誇った貴族たちが所有する倫敦の屋敷も売られ、取り壊されていった。不動産に莫大な税金がかけられていったため、土地を売った貴族たちは海外の金融・証券市場への投資に転じ、地主貴族がますます減少し、証券・金融貴族が主流派を占めていく。

 第一次世界大戦が決定打となり、イギリスでも「貴族政治(aristocracy)」は「大衆民主政治(mass democracy)」へと大きく変容を遂げていった。1918年には男子普通選挙権(21歳以上)と女子選挙権(30歳以上)とが国政選挙において実現し、さらに1928年からは男女普通選挙権の時代へ突入していった。中央では庶民院に占める地主階級出身者の数が激減し、地方ではそれまで政府の裁量によって在地貴族が任命されることの多かった州統監が、州議会によって選出されるように変わった。州議会議員の構成にしても、地主貴族ではなく、実業界出身の中産階級が大半を占める状況へと変化していたのである。

 先に紹介したスタール夫人の言葉にあるような、貴族ネットワークで結ばれたヨーロッパ世界は完全に消滅してしまった。それはまた、フランス映画界の巨匠ジャン・ルノワール(1894~1979)によって1937年に発表された傑作「大いなる幻影」のなかで描かれたような、「貴族世界」の終焉をも意味していたのかもしてない。貴族階級出身のドイツ人将校とフランス人将校が、敵味方に分かれながらも階級的な友情で結ばれるなどというのは、古き良きおとぎ話の世界になってしまったのである。

2024年9月4日水曜日

20240903 知らぬ間に2250記事を過ぎていて思ったこと:繰りかえしによって生じる変化、上達?

 先ほど、新たに記事作成をしようと、当ブロガーを開き、これまでの投稿記事を眺めていますと、総投稿記事数が2252となっており、既に2250記事へ到達していたことが分かりました。面白いもので、この投稿記事数は、気になる時期と、全く気にならない時期とが私にはあるようです。とはいえ、それがどのような原因あるいはサイクルによるのであるかは分かりませんが、しかし、作成者の実感として、比較的ノッテいる時期には記事数を気にしなくなり、反対に、落ち込み気味で元気がない時などは「これまでにどのくらい作成したのか?」と気になり何度も確認してしまう傾向があるように感じられます。そうしますと、自然「ここ最近の私は調子が良くノッテいたのか?」と自問することとなり、そこで「たしかにそこまで落ち込んではいないが、他方で、そこまで調子は良いわけではないのだが...?」といった認識に至るわけですが、また同時に、ここ直近数ヵ月は、何かと話題の生成AIをブログ記事作成に援用しており、実際、最近の投稿記事には、そのようにして作成したものがいくつかあります。くわえて、同手法による作成途中の(下書き)記事もまた150近くあります。この手法による記事作成は、既投稿のオリジナル、引用の記事から、関連があると思しき記述の部分をコピペして並べて、そこに指示をして、新たな文章の生成を行い、それをドラフト・下書きとして、そこから色々と手を加えますと、それらしい文章にはなると云えます。とはいえ、この作成方法では、未だ慣れないために多少難儀しており、また、現在作成している当記事のように、はじめからの書下ろしにて文章作成をしている方が、何と云いますか、作成している際の集中もしくは没入の感覚が、さきの生成AIを援用して作成した下書きに手を加えて記事作成を行う方法での集中・没入感と比べて、有意に強いと感じられるのです。しかし、であるからといって、集中・没入感に重きを置いて、書下ろしでの記事作成に拘ることはないと考えます。その理由は、当ブログ開始当初当初の頃を思い出しますと、まずノートに手書きでブログ記事の下書きを作成し、それをPCに入力してブログ記事を作成をしていましたが、この手法を数カ月程度続けていますと、どうしたわけか、やがてノートへの手書きの工程を省略しても記事作成が出来る様になり、やがて文体もまた、当初の対話形式から独白形式にて文章の作成が出来るようになりました。とはいえ、それ以前の頃であってもミクシィなどで時々は文章を作成し、公表してきましたので、おそらく、こうした手法の修得あるいは身体化とは、何度かの繰返される経験の中で徐々に為されて、そして、より深化されるのではないかと思われるのです。そして、その背景にある通底する要素があると思われる私的な経験は、これまでに何度か当ブログにて述べてきました「英語の勉強について」です。おそらく我々の多くは、私的あるいは公的な目的でメール文章を作成する機会が少なからずあると思われますが、しかし、そうしたメールで作成する文面と、斯様な公表を前提とした文面では性質が異なると云えます。そしてまた、そうした感覚を認識するようになりますと、突然文章の作成が恐ろしくなり、そして、身構えるようになり、先ずは手慣れた手書きでの作成法から初めて、自分なりに堅牢な文章の作成を意識するようになるのだと云えますが、そうした段階も、思い返してみますと、私はそれまでの人文系・歯系の大学院においてもあまり強くは意識することはなかったものの経験したことであったと云えます。つまり、あくまでも私見ではありますが、文章作成や口語と文語などについて、自分なりに思い悩みつつ作成していた時期を何度か経ることによって、人はその人なりの文体といったものを獲得するのではないかと思われるのです。とはいえ、そのように述べる私も、未だ文体の獲得には至っていないとも思われますので、先日2250記事に到達していたとしても、今しばらく引用記事も含めつつ、当ブログを継続してみたいと考えています。ちなみに来年2025年6月で当ブログ開始から丸10年となりますが、出来ればそこまでは、いかなる投稿頻度であれ、否、出来るだけ高頻度にて新規投稿を継続して、2400~2500記事程度にまでは至ることが出来ればと考えてはいますが、他方で、まだ先が長いハナシであることから、今現在その実感といったものは皆目ありません…。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2024年9月3日火曜日

20240902 株式会社平凡社刊 平野雅章 監修「別冊太陽 日本のこころ41 北大路魯山人」 pp.117‐118より抜粋

株式会社平凡社刊 平野雅章 監修「別冊太陽 日本のこころ41 北大路魯山人」
pp.117‐118より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582920411
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582920413

 一九五四年四月、ニューヨーク近代美術館で開かれたレセプションにおいてーまさに魯山人の作品が初めて西洋人の眼に触れようとしていた時―彼はこう語った。

「私の作品は放縦であるとか尊大であるとして批判されることがよくある。だが私には脆弱なところがあるため、ピカソほど放縦にはなっていない。フランスにピカソを訪ね、語り合いと思っている。もっとも私は彼のように活気にあふれているというわけではないから、恐らく圧倒されてしまうだろうが・・・。」

 二人は会合したが、余りうまくはいかなかったようだ。極めて著名なこの西洋の芸術家のもとへ、魯山人は自分の作品を持参した。言うまでもなくそれは桐でできた見事な箱に収められていた。表面に手を触れたピカソは木肌のなめらかさに魅了され、歓喜に上気した。それを見ていた魯山人は耐えがたくなり、怒鳴った。

「箱じゃない、箱じゃない、この間抜け。私の作品は箱の中だ。」

 二人の個性は激しく衝突したのであった。一体どちらがどちらに圧倒されたのか、知る由もない。パリ滞在中、駐仏大使が招いたワケではない自前で行った魯山人は持ち前の粗野な気性をさらけ出すことになる。ラ・トゥール・ダルジャンを訪ねたときのこと。ラ・トゥール・ダルジャンは海外にも広くその名を知られた由緒あるレストランで、鴨料理が自慢であった。客の面前で料理中のコックを実際に見る機会を与えられ、例によって、イライラしながら数分間見た後、

「鴨料理はそんなやり方じゃだめだ。さぁ、俺が見せてやる」

 と言い、一日(*原文ママ)調理場へ下げようとする鴨をそのままにさせ、自分の舌に合う味に料理してしまったという。

 海外で開催された魯山人展について書かれた色々な批評を調べてみると、魯山人を評するのに使われた強烈な形容詞と、その多様性に目を見張らされる(それらの形容詞はピカソを評する際にも恐らく等しく有効だろう)。その形容詞群は、他の陶芸家に対するおとなしい関心に比べ、西洋での魯山人に対する関心がいかに強く、激しいものであるかを雄弁に物語っている。いくつかの例を記すと、「嵐のようだ」、「正統ではない」、「野蛮だ」、「火花を散らしている」、「男性的だ」、「雄々しい」、「精力的だ」、「すばらしい」、「芸術的天才だ」、「自由な感性がある」、「「ユニークだ」、「魅惑的だ」、等等。念のために断っておくが、どれ一つとして私自身の創作した言葉はない。いずれも西洋の展覧会で、魯山人の作品を初めて鑑賞した批評家や作家による表現である。

 魯山人と西洋人の感性を、橋渡ししたのがピカソの天才であった。では濱田庄司やバーナード・リーチと比較してみるとどういうことになるだろうか。この二人の陶芸家と魯山人とはいくつかの点で鋭い対照をなしている。濱田とリーチは、他の誰よりもまず工芸家であり、長く厳しい徒弟期間の効用を信じ 一方では謙虚で優しい魂を重視した。濱田さんは私の面前でこう語ったことがある。

「陶芸家が真に偉大な作品を生み出すには、謙虚さと優しさという魂の二つの特質が必要である。」

 と。魯山人は、私の知る限り、いずれの特質も持ち合わせていないようだ。

 日本の陶芸家である魯山人と濱田では、濱田の方がはるかに広く西洋で知られている。とは言え、二人が知られるようになった経路は、いくらか異なるということは留意しておいていい。濱田は工芸家として、魯山人は芸術家として、名声を獲得した。濱田を賞賛したのは工芸蒐集家及び工芸館であり、魯山人が広く人々の注目を集めるに至ったのは、美術館を通してであった。

 これは大事な点だが、西洋では美術と工芸とは厳密に区別されている。工芸は一般に絵画や彫刻とは同時出品されない。ニューヨークの近代美術館での魯山人展のときに、あるキュレーターが言ったそうだ。

「実際に使用できるものは芸術ではない。」

 また、ごく最近、中西部のアメリカン美術館館長がこう語ったという話を聞いた。

「上部が開いている陶磁器には興味がない」と。

一九五四年一月、イサム・ノグチは魯山人を評して次のように語った。

「今日見られるような日本の陶芸の影響力は、濱田やリーチのような専門家の手を通して拡大されたものである。彼等は技量、知識、情熱をもって、西洋の感性に合う要素を抽出した。私には民芸の理想が国際的(西洋的)なものの見方に基づいているように思われる。これは日本のであれ、イギリスのであれ、オランダのであれ、民衆芸術に固有な、ある種の普遍的特質を探求するものである。だが魯山人については、いくらか話が違ってくる。魯山人はディレッタントであり、しかも、飛び切り上等のディレッタントである。魯山人の成功は、古き良き日本の夢に完全に基づいているのである。」