2023年1月30日月曜日

20230130 昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】

先日、奈良県奈良市の富雄丸山古墳より新たに出土した長大な蛇行剣、そして大型の楯型銅鏡から、古墳時代に関する蔵書を何冊かあたり、興味深いと思われた記述をいくつか引用記事として作成しました。また、これらについては、さらに、いくつかの引用記事を作成出来るストックも得ました。そして本日も、同題材にて引用記事を作成しようと考えていましたが、昨日、ツイッターでのリツイート、連携投稿へ頂いた反応にて興味深いと思われたことがあったため、本日は、さきに予定していた引用記事の作成を控え、こちらを題材として記事作成をしたいと思います。

かねてより関与させて頂いている共同研究で、月一回、恒例にて開催の共同研究の打合せがあり、これに参加させて頂いております。そこには歯学・工学の研究者と工学系大学院生、そして臨床歯科医師、企業の担当者さま等が参加されています。打合せの後は、これまた恒例で研究者の先生方と大学院生と私とで、共同研究の現状についての見解や、今後の希望や展望などを打ち解けた雰囲気で話し合うのですが、以前に、その中で工学系院生の方と、読んでいる小説の話題となり、私が増田俊也著「七帝柔道記」を紹介させて頂いたところ、前回の打合せ後の話し合いで、彼がこの著作を入手されたことを聞かされました・・。

他方で、以前に私はこの著作から引用記事を作成・投稿していました。そして、さきの出来事を契機として、この引用記事をあらためてツイッターに連携投稿し、さらに、これと関連する興味深いネット記事を返信、引用リツイートしたところ、しばらく経って「何と!」著者ご本人である増田俊也先生から引用リツイートをして頂きました。

これまで、ツイッターやSNSなどで、これに類する出来事は数少ないながらも何度かはありましたが、今回のことについては、やはり驚くに値することであり、また、それは、さきに述べた院生の方とのやり取りや、以前に投稿した引用記事が起点となっていると云えます。

これをさらに遡りますと、以前、2017年の5月に、当著作を少し取り上げたブログ記事を作成・投稿していました。そこから、私が当著作を知ったのは6年ほど前であったことが思い出されました。そして、当著作を知ったきっかけを思い起こしてみますと、これもまた、文系院生時代からの友人との会話であったことが思い出されました。

この友人は、修士課程修了後、「七帝柔道記」の舞台となった大学の大学院博士課程に進み、さらに、研究と同時に柔道ではありませんが、体育会運動部に入部して、部活動にも積極的に参加していました。

そして、この友人との、おそらくは電話での会話にて「この作品が面白いよ!」と聞かされて購入した経緯となりますが、こうした書籍を巡る「縁」のようなものが、SNSなどの進化したネット環境よって生じたということは、以前ではなかったと思われることから、何やら、良い意味での「不思議さ」のようなものが感じられた次第です。

とはいえ、同時にそこから、ここ最近では、こうした書籍を話題とした会話があまり出来ないでいる現実をも思い出され、おそらく、そうしたことは、当ブログ記事作成などに対しても何らかの影響があるのではないかと思われます。しかし一方で、おかげさまにて当記事の投稿により、総投稿記事数は1942に至り、先日投稿のブログ記事にて述べた「1月中に1940記事までの到達を目指す」は達成していました。そして、さらに58記事の投稿により、当面の目標である2000記事に到達することが出来るわけですが、引続き、引用記事、独白形式の記事、そして【架空の話】等の形式を問わず、今しばらく記事作成を続けたいと考えています。なかでも【架空の話】については、さらに続きを作成したいため、しばらく経ちましたら、また自然に作成することが出来るのではないかと思っていますが、さてどうなるでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













20230129 株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋

株式会社文藝春秋刊 白石太一郎著「古墳とヤマト王権」pp.113-114より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4166600362
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4166600366

奈良盆地は、地形的・地理的には大きく三つの地域に分けられる。それは周囲の山地から流出した河川が北から南へ流れる盆地北半の「曾布」の地と、川が南から北へ流れる南半分のうち、最も低地部を流れる飛鳥川ないし曾我川を境にその東方の「やまと:の地と、その西方の「葛城」の地である(図14)。これら「やまと」、葛城、曾布の地域にはそれぞれ大規模な古墳がみられるが、少なくとも古墳時代前初期の出現期古墳は「やまと」の地にしかみられず、この時期にはさらに河内を含む大和川水系では「やまと」の覇権が確立していたことを示すものであろうことは、すでに前章で述べたとおりである。

 このうち曾布の地域やその周辺では、「やまと」との境に近い天理市北部の和邇の地の南に、後漢の中平(184~189)の年号銘をもつ鉄剣を出した東大寺古墳(墳丘長140メートル)を盟主とする東大寺古墳群がある。また奈良市西部の富雄には、三面以上の鏡やさまざまな石製品を出した大円墳の富雄丸山古墳(径86メートル)がある。これらはいずれも前期でも新しい段階のもので、しかも地域的には曾布の周辺地域であって、これらを佐紀古墳群の前進勢力と考えるのはむつかしい。

 このように佐紀古墳群へのヤマトの王墓の移動は、まさに突然の出来事であり、その歴史的意味を解くことは容易ではない。この問題にちては、このあと中期になるとヤマトの王墓はさらに大阪平野の古市古墳群や百舌鳥古墳群に移動するが、そうした王墓の移動の問題全体のなかで検討することにしたい。

2023年1月29日日曜日

20230129 株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」 pp101-102より抜粋

株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006001665
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006001667

前方後円墳の形式を「楯」の意匠として考えた最初の人は、誰あろう浜田耕作博士であった。昭和11年8月のことである。博士は、前方後円墳の形式の発達を概観した上で、一種の宗教的意義を有し、九州などの古墳の表飾にしばしば現れてくる楯の形がここに移入されたのではないかと推定し、その論拠として大和生駒郡にある成務天皇・神功皇后の二陵の陵号が狭城盾列池後陵、狭城盾列池上陵とあることから、この盾列という地名が、両陵はじめそのほかの前方後円墳の群列する状態が宛然楯を並べた様に見えるところから名づけられたものとしたのである。実際にこの地名は、盾列里・盾列池とも関連して決して新しいものではなく、「延喜式」はもとより「日本書紀」にも成務天皇・神功皇后については「狭城盾列陵」に葬ると見え、「古事記」もまた成務天皇の陵は「沙紀之多他也那美」にありと記しているのである。この盾列という地名は、さきの久米歌についてみても、

盾並めて 伊那佐の山の

木の間ゆも い行き目守らひ

戦へば 我は飢ぬ

島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね

とあって、「楯並めて」は原文に「多多那米弖」とよんでいる。これは「戦へば」が「楯交ふ」に由来していて、やはり多多加閇婆」とよんでいることに相応じているのである。楯は射に対応するきわめて重要な武器であったのであった。浜田博士は、さらに古代の宗教的儀礼の表飾となった各種の楯を図示して、その形状を説明し、とくに筑前桂川古墳の表飾のそれが、上部は円く彎曲し、両側が中央においてややすぼまり、前方後円墳と相似することも指摘している。

 この説は、しかし浜田博士以後、これを正しくうけつぐ人がなく、小林行雄博士がその著「古墳の話」に、それも諸説の一つとして列挙された程度で、ほとんど30年余かえりみられることがなかった。しかしこの「楯」の背景にこれからのべるような服属儀礼を考慮するとき、単なる形状の相似ということだけではなく、その形状の意味がより積極的なものとなるであろう。

20230128 株式会社東京堂出版刊 大塚初重 小林三郎 熊野正也 編著「日本古墳大辞典」 p.544より抜粋

株式会社東京堂出版刊 大塚初重 小林三郎 熊野正也 編著「日本古墳大辞典」
p.544より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490102607
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490102604

富雄丸山古墳

奈良県奈良市大和田町丸山の丘陵頂上に立地する径86m、高さ10.5m(東側)を測る円墳で、墳裾には葺石が施され、墳頂より埴輪片(円筒・家形・盾等)が出土している。内部主体は割竹型木棺を安置した粘土槨で、2段に掘られた土壙(南北10.6m、東西約6.4m、深さ1.35mの段目の壙内に、南北8.45m、東西3.9m、深さ2.1mの2段目の墓壙がある)の底面は溝がめぐり、円礫が敷かれ、灰白色粘土を敷きつめている。この粘土床は厚さ0.4mあり、まわりは円礫を詰めている。木棺は粘土床の痕跡から、長さ6.9m以下の規模と推定された。一部盗掘を受けていたが、副葬品の埋置状態を知ることができた。副葬品としては碧玉製管玉5・鍬形石片・鍬形石製品1・鉄剣片・鉄刀片・鉄鏃・棒状鉄製品・鉄鑓、鉄製農・工具(斧1・鉇1・鍬先2・鎌1・刀子3・鋸形製品1・鑿・錐状製品・ヤス)、短甲片1・巴形銅器1・筒型銅製品1・銅鏃9・不明銅製品があり、鍬形石片は京都国立博物館蔵の重要文化財「伝富雄丸山古墳出土品」の鍬形石と一致し、これらの一括試料は本古墳出土品として確認された。伝富雄丸山古墳出土品を列挙してみると、鏡3(四神四獣鏡・神獣獣帯鏡・盤龍画像鏡)・有鉤銅釧1・銅板2・玉類(碧玉製勾玉・棗玉・管玉・滑石製臼玉)・碧玉製盒子4・鍬形石2・琴柱形石製品12・石製模造品(刀子6・斧頭9・鑿1・鉇1)がある。副葬品の石製品、鉄製品に特色があり、また有鉤釧は弥生時代に多い。内部主体の粘土槨の構造等、古式の要素をもつ本古墳は前方後円形を採らずに円形を用いた点に、今後の研究課題を残すものである。築造年代は4世紀末葉と考えられている。

〔文献〕久野久雄・泉森皎「富雄丸山古墳ー奈良県大和田町富雄丸山古墳群発掘調査報告」奈良県文化財調査報告書19、1973、奈良県教育委員会。

2023年1月23日月曜日

20230123 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」pp.144-147より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

ゲームやネットは、物語の伝達に適さないかわりに、コミュニケーションの拡張に適している。

 ゲームの特徴について参考になるのは、メディア・プロデュ―サーの桝山寛の議論である。彼は2001年の「テレビゲーム文化論」において、コンピュータ・ゲームの本質を、コンピュータがプレイヤーの「相手をしてくれる」こと、すなわちユーザーとシステムのコミュニケーションに求めている。桝山によれば、ゲームの魅力において、コンテンツ(物語や世界観)の役割は実は相対的に小さい。彼は、その象徴的な例を、1999年に発売され、社会現象になったペットロボットに見ている。ペットロボットはなにもコンテンツを伝えないが、「遊び相手」になることでユーザーに喜びを与えてくれる。桝山はこの喜びこそがゲームの本質だと主張し、コミュニケーション・ロボットにゲームの未来を見た。

 同型の指摘はネットに対しても行われている。たとえば、社会学者の北田暁大は、2005年の「嗤う日本の「ナショナリズム」」やそのほかの著作においては、コミュニケーションの内容より、むしろコミュニケーションの事実そのものが大きな役割を果たすと分析している。

 北田によれば、その特徴がもっとも強く現れたのが、2000年代に隆盛を迎えた匿名掲示板「2ちゃんねる」である。よく知られるように、2ちゃんねるでは多くのユーザーが情報を交換するのではなく、だれかと繋がりたいために、すなわちコミュニケーションそのもののために投稿を繰り返している。北田はそれを「(繋がり)の社会性」と呼び、従来の社会性と区別している。北田自身は触れていないが、2000年代半ばのSNSの成功は、「(繋がり)の社会性」の強さをあらためて証明した事例と言えるだろう。ペットロボットのユーザーと同じく、2ちゃんねるやSNSを前にしたユーザーは、自分の行為(書きこみ)に対してだれかが反応を返してくれる、その喜びだけで十分に満足してしまう。

 出版やテレビは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくては、メディアとして成立しない。しかし、ゲームやネットは、送信者側に伝えるべきコンテンツがなくても、コミュニケーションのプラットフォームさえ整備すれば、メディアとして大きく成長することができるのだ。

コミュニケーション志向メディアの生みだす物語

 ところでここで興味深いのは、コミュニケーション志向メディアは、それそのものは物語の伝達に適さないにもかかわらず、コミュニケーションの副産物として実に多くの物語を生み出すことである。前述のように、「ゲームのような小説」の台頭は、テーブルトーク・ロールプレイングゲームのシステムが、無数の物語を、しかも効率よく生みだすからこそ可能になった。

 ネットも同じように多くの物語を生みだしている。現在の読者にとってもっともわかりやすい例は、2004年に出版され、ベストセラーとなった「電車男」だろう。よく知られるように、この小説は特定の作家をもたない。「電車男」の「コンテンツ」は、2004年の3月から5月まで、2ちゃんねるのあるスレッドに集まった書きこみの集積でしかない。「電車男」という「物語」は、匿名のコミュニケーションの副産物として、たまたま生み落とされたものである。

20230122 以前書けなかったことが書けるようになる変化について「文体の獲得?」

南紀白浜在住であった頃の地理感覚を思い出してみますと、在住している西牟婁郡白浜町から、北隣の紀伊田辺市の中心街までは、自動車で20分程度の距離であり、ホテル勤務の日勤後や夜勤明けなどに度々行っていました。他方、南の方の椿温泉や上富田町については、当時、月に何度か出向いていたダム湖への釣行の際に通っていましたが、そこを目的として訪れたことは、あまりありませんでした。

また、隣接する紀伊田辺市から、さらに北方に位置するのが日高郡みなべ町であり、南紀白浜から北へ10㎞行くと紀伊田辺市、そして、そこからさらに10㎞北へ行くとみなべ町といった感覚でした。このみなべ町は、私がこれまで度々ブログ記事題材として扱った「銅鐸」の出土が目立つ地域でもあり、紀伊半島西南部を東から西に流れる南部川流域河口域の、決して広いとはいえない平野部から少し離れた里山の周辺にて、これまでに計6個の大型、高装飾の近畿式銅鐸が出土しています。

これら6個のみなべ町で出土した銅鐸のうちの一つで、出土した地域の名を冠した「雨乞い山銅鐸」と云うものがありますが、その名称から、その出土地域は、後代においても雨乞い祭祀を行っていた場所であると考えるのが妥当と思われますが、他方で、銅鐸がそこに埋納された、おそらくは西暦200年頃でしょうか、そこから1700年近く経った同じ場所においても、雨乞いなどの祭祀が行われていたことには、その間を貫く、土着の価値観、観念のようなものがあったのではないかとも思われるのです・・。

ともあれ、みなべ町は、現在では南高梅の産地として知られ、現在からもう少し経った2月半ばの頃に、町を南北に走る国道42号線を自動車で通り、窓を開けますと、何とも芳しい大気の薫りがするのです。和歌山県の大気の薫りは、季節や場所によって異なりますが、全てに共通していることは、私見ですが「自然の薫りが濃厚」であることです。県庁所在地の和歌山市も、他地域から訪問して翌朝起床して外に出ますと、南紀白浜とは異なるものの、後背の山々から運ばれた薫りであるのか、そこから「濃厚な自然」を感じさせられ、目が覚めるような感覚があると思われます。

さて、さきの、みなべ町の銅鐸の出土地が、後代に至っても(雨乞いなどの)祭祀を執り行う場所であったこととを貫通する、ある種の観念があるとすれば、それは文章化出来るはずであると思われるのですが、残念ながら、そうしたことは現在の私では困難と云えます・・。

しかし、私としては、そうしたことこそ、当ブログのような文章作成を通じて自然と出来る様になっていくのではないかと思われるのです・・。

これは、最近になって実感することですが、以前は文章化出来なかったものの重要と思われる、さまざまな様相を文章として著すことが出来た時は、やはり、それなりに嬉しいものがあり、あるいは、これを続けることにより、さらに文章化することが可能な様相といったものが徐々に増えていくのではないかとも思われるのです。

また、そのように考えていますと、これまでに当ブログにて何度か扱った「文体の獲得」は、もう少し具体的に考えてみますと、前述のような大抵の様相を自分なりに記すことが出来る様になった状態を指すのではないかとも思われるのです・・。

そしてまた、そうした変化を引き起こす一つの要素が、前述の「地域の濃厚な自然」ではないかと思われるのですが、しかし、実際のところ、そこには何らかの科学的根拠といったものはあるのでしょうか・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2023年1月22日日曜日

20230121 知識体系の身体性から思ったこと

おかげさまで、直近の記事投稿により、総投稿記事数が1935まで到達しました。そしてまた、今月内にて1940記事まで投稿出来れば、とりあえずは良いと考えています。ともあれ、現時点にて当記事も含めて残り65記事の新規投稿にて当面の目標としている2000記事まで辿り着くことが出来ますが、今後も何らかの理由により、記事作成が叶わない日も度々あると思いますので、引続き、引用記事であっても、可能である時は出来るだけ作成していこうと思います。

さて、ここ数日間は、以前に作成したブログ記事を下敷きとした銅鐸に関する記事、そして引用記事を作成、投稿してきました。これらも当初思っていたより伸びました。また、あらためて、以前に自分が作成した銅鐸を題材とした記事を新たな記事作成のために読んでみますと、面白いもので、また新たな刺激として感じられるのです。これをもう少し具体的に述べますと、これまで、あまり用いることがなかったことから、忘れて、干乾びていた銅鐸に関する知識が、以前に作成記事を読むことにより、生気を取り戻し、またあらためて、興味を持ちつつ読むことが出来るようになっていました。

これが以前であれば、さらに興味が亢進されて「新たな書籍を・・」となっていたのでしょうが、最近では、そこまでの気力、精神力は励起されないようです。とはいえ、書籍自体は現在も何冊か読み進めており、また、ここ一週間ほどは、歯科材料学の英論文や、原書の英語小説なども読み始めました・・。これらについては三日坊主にならない様、意識した方が良いのでしょうが、他方で、これらを読み進めていても、さきに述べた銅鐸に関する記事と同じような現象が生じ、読み進めているうちに、あまり用いることがなかったため、干乾びていた英語を用いる感覚が徐々に生気を取り戻し、これまで、どうにか読み進めることが出来ています。

トレーニングなどでも、以前に時間を掛けて培った筋肉に関しては、比較的容易に取り戻すことが出来ると度々聞くことがありましたが、読書なども、それと同様、身体性の一種であると云えますので、あるいは通底するものがあるのかもしれません・・。

それ故、やはり若い時分には、後になり比較的容易に甦らすことが可能な、知識の体系を学んで身に着けることが意外に重要ではないかと思われるのです。その意味において、現在のような刺戟に満ちた様々な娯楽が溢れている社会とは、そこまで良いものではないように思われるのです。そして、これは自分の経験からの意見ですが、高等教育の期間については特に、そうした刺激的な娯楽から縁遠い場所にいて、そして、その期間のうちに、さきのような一種の身体性を得ることに努めた方が良いのではないかと思われるのです。

そして、その観点からも「孟母三遷の教え」のコトバに集約されるのでしょうが、大学などの高等教育機関は、その学生さんへの影響を考慮して、あまり都市部歓楽街などの近隣に設置することは避けた方が良いのではないかと思われるのです・・。

しかし同時に、こうしたことは学問分野によっても異なり、人文社会科学などに関しては、最新の生きた情報をいち早く入手するため、また、その他様々な文化施設がある大都市圏に立地していた方が良いのではないかと思われます。たとえ、その場所の近隣に歓楽街があったとしても・・。

他方で医療介護、工業系分野などに関しては、それぞれ分野での研究へのアプローチの仕方が、さきの人文社会科学系とは異なることから、敢えて大都市圏での立地に拘らず、むしろあまり大きくはない地方都市に設置した方が学生さんの勉強や実習などは捗るのではないかと思われます。

また、そうした視座から国内各地・地域に設置されている大学の学部・学科構成や、その由来を調べ、比較することにより、それら大学の設置当初の時代精神や設置者側の思惑なども、ボンヤリと浮かびあがってくるのではないかとも思われました。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2023年1月20日金曜日

20230119 銅鐸について②

先日投稿の「銅鐸について①」末尾にて「大変興味深い例外として、近畿式銅鐸出土の東端である遠江から、さらに東に位置する、かつての概ね駿河国に属する静岡県沼津市にて、近畿式銅鐸の破砕された一部、鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘された事例があるが、その背景には、どのような事情があったのか気になるところである。」と述べましたが、この近畿地方にて作られた銅鐸が、何故破砕され、そして、その一部が何故、東に離れた沼津市にて出土したのかと考えた時に、興味深いと思われた記述を以下に示します。

「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」
古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281

この記述では「奈良盆地の東南部に位置する三輪山周辺一帯を根拠地とした物部氏は、侵入してきたヤマト朝廷勢力に屈服したが、その支配下に入ることを佳しとしない物部氏の勢力も存在し、そうした集団が東へと移住して土着した。」といった概要になりますが、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行っていた集団が、自らの勢力の敗北により、当時、未だ確たる支配権が確立されていなかった遠江や駿河、伊豆などの地域へと移住したことは十分に考えられることであり、あるいは、この沼津市から出土した、破砕された近畿式銅鐸の鰭飾部を装身具に加工したものは、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行い、そしてヤマト朝廷側の侵入により東遷をした人々の末裔が所持していたのではないかとも思われるのです。

そして、こうしたことを述べていますと、想起されるのが記紀での出雲の国譲り神話です。その際も、先述と同様に、ヤマト朝廷側への屈服を佳しとせず、国を出て戦いを続けた土着の神々(地祇)の話がありますが、おそらく、こうした現象は当時、西日本の各地であったのではないかと思われます。そして、それらを総称した歴史での名称を「倭国大乱」であると考えます。

また、奈良県での銅鐸の出土状況概要を述べると、出土総数は20個ほどであり、それらの傾向は、古式・小型で、後代の銅鐸と比べ装飾性が乏しいものが大半であり、大型で高装飾の近畿式銅鐸の確かな出土例は、これまでに存在しません。

このことから、奈良県での銅鐸祭祀は「銅鐸について①」にて述べた九州北部と同様、大型化・高装飾化する以前に、銅鐸を用いた祭祀は廃れていったものと考えられます。そして、これと類似する銅鐸の出土傾向を持つ地域が島根、香川県であると云えます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



2023年1月19日木曜日

20230118 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.28-30より抜粋

一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.28-30より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130820915
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130820912

銅鐸と銅鏡
銅に錫をまぜた青銅器は、中国大陸において殷・周時代に大量に製作された。銅鐸などの祭器のほか剣や矛などの武器もあり、弥生人はこれも祭器としてあがめるようになった。弥生人が予想より早く青銅器の倣製を行ったことも知られている。銅鐸は弥生時代を代表する祭器で、筒型の本体(身)の上に吊り手(紐)をつけ、中に青銅の棒(舌)を吊るす。身を叩くと美しい音を出す楽器である。銅鐸のもとは、中国で銅鈴といって、家畜の首につける小さな鈴であった。朝鮮半島にこれが渡って、シャーマンが身につける呪術の祭器となり、さらに日本に渡って祭器としてのデザインを発達させた。

 前期の銅鐸は、高さ20~30センチの小型で、装飾は少ない。中期にこれが40~50センチと大型化され、鰭をつけ装飾化が進む。流水文をつけた中期の銅鐸は、兵庫県気比神社の境内から見つかったもので、これの鋳型の破片が大阪府の遺跡から出土している。昭和39年(1964)、神戸市の六甲山の尾根の下から、銅鐸14個、銅戈(ほこ)7本が見つかった。[図8]図9はその銅鐸の一つで、袈裟襷文といわれる帯状の区画のなかに、人間の農作業(脱穀)や狩猟のさま、サギ、カメ、カマキリ、トンボ、トカゲ、カエル、魚などが浮線で(鋳型では線刻で)あらわしてある。真上向き、真横向きの、児童画のような多視点による記号的表現で、人間の頭は丸が男、三角が女だと見る説がある。

 平成8年(1996)には、島根県の山中から銅鐸36個が埋められているのが発見された。これらは、神が顕現する場所を選んで祭りのあと奉納されたのではないかといわれる。後期になると、さらに大型化され飾り耳をつける。舌のないもの、高さ134センチのものもある。「楽器としての機能を失った。この平和なフィクションの青銅美術は、古墳文化のはじまえるや、現実の攻撃に耐えず、文字どおり葬り去れられる。伝統としてなにが残ったか、おそらく青銅器鋳造に習熟するという技術が貴重な遺産として伝えられたのであろう」。吉川逸治はこう評する。

 銅鐸は2世紀の終わりになくなり、倭国の乱を統一した卑弥呼の配布する銅鏡がそれにかわった。卑弥呼の支配した邪馬台国の所在については、従来から九州説、近畿説に分かれて議論が行われている。1986年発掘が始められた先出の吉野ケ里遺跡からは宮殿の跡ではないかと話題になった。一方1997年、天理市黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)[図10]が出土して、これこそ卑弥呼が魏王から賜った鏡ではないかと注目された。この問題については次節でのべる。銅鏡は、すでに弥生中期に前漢、後漢の王から北九州の倭王に与えられており、細微な幾何学文を背面に刻んだ韓国製の多紐文鏡も大阪府から出土している。

 いずれにせよこのように、弥生時代、倭国が小国の分立状態から卑弥呼によって統一されるまでの過程で、中国、韓国との国交を通じて銅鐸、銅鏡、銅剣、銅戈などさまざまな青銅製品が日本にもたらされた。それらは呪術愚、あるいは王の権威の象徴として用いられ、あるものは倣製品として模造された。銅鐸のように日本で独自の意匠に発達したものもある。弥生土器という新しい形式の土器の出現も、大陸のそれの影響なしに考えられない。大陸美術の本格的移入の前触れは、すでに弥生時代にあった。

2023年1月17日火曜日

20230117 銅鐸について①

我が国の銅鐸の直接的起源とされるものは朝鮮式銅鐸といわれる装飾性の乏しい10~20㎝程度の小型のものである。

この朝鮮式銅鐸は、これらまでに朝鮮半島中西部の忠清道より4個、半島北西部の平壌より6個、そして半島南東部の慶尚道より4個出土している。

そして玄界灘を挟んだ九州北部地域においても、朝鮮式銅鐸と同様、比較的小型(20~50㎝)で装飾性の乏しい銅鐸が複数出土している。

また、九州北部における銅鐸祭祀は1世紀頃には廃れて、それに代わり武器型の銅矛が祭器として用いられるようになった。

こうして九州北部を起点とした我が国の銅鐸を用いた祭祀は東漸し、その過程において、意匠や寸法に変化が生じ、伝播の先端に近づくほど、装飾が華美なものとなり、寸法が大型化していった。

とはいえ、銅鐸の起源は朝鮮半島、中国での家畜につける鐘鈴であった。そのため、本来は、内部に舌を垂らし、揺らして鳴らし、音を出すためのものであったが、東漸の過程で、さきに述べたように寸法が大型化(100㎝以上)し、装飾も華美なものとなり、揺らして鳴らすという本来の目的から離れていった。

この大型化した銅鐸は近畿、四国の東南部と東海地方から多く出土しており、西側の近畿・四国東南部から出土したものの多くは、前述のように華美な装飾で、その意匠は、縄文土器に多く見られる繁縟さをいくらか継承しているようにも見受けられるが、これらを総称して近畿式銅鐸と云う。

対して、東側の東海地方にて主に出土する独特の意匠を持った大型の銅鐸は、さきの近畿式銅鐸と比較すると、その形状が、より縦長気味であり、その意匠は直線的で模様が明確であるといった特徴があると云えるが、これらを総称して三遠式銅鐸と云う。

これまでの流れを要約すると、朝鮮半島から齎された、元来、家畜の首につける鐘鈴が起源であった銅鐸は、伝播当初の地である北部九州地域において祭器として用いられ、そして東漸する過程において、徐々に土着的要素が加味され、大型化、高装飾化し、それぞれ独特な意匠を持つ近畿式銅鐸、三遠式銅鐸となっていく。

これら二種の大型銅鐸について、近畿式はおそらく大和、河内、摂津地域にて作られ、三遠式は濃尾平野にて作製されたものと考えられている。

また、それぞれの出土分布について、近畿式は近畿圏一帯を中心として、東は遠江、西は四国東部、山陰地域において出土している。三遠式は、東は信濃、遠江、西は濃尾平野一帯を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部、琵琶湖東岸、京都府北部において出土している。

くわえて、大変興味深い例外として、近畿式銅鐸出土の東端である遠江から、さらに東に位置する、かつての概ね駿河国に属する静岡県沼津市にて、近畿式銅鐸の破砕された一部、鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘された事例があるが、その背景には、どのような事情があったのか気になるところである。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2023年1月16日月曜日

20230115 国際的な歯科の見本市から思ったこと

我が国においても歯科用機器・材料の見本市である「デンタル・ショー」は各地にて度々開催されていますが、世界規模にて有名であるのが、ドイツのケルンにて開催される「国際デンタルショー」(IDS)とアメリカのシカゴにて開催される「ミッドウィンター・ミーティング」とされています。双方共に私はこれまで参加したことはありませんが、師匠をはじめ研究室の先輩である開業医、大学勤務の先生方は度々参加されています。そして、その土産話を夕方過ぎに診療を終えた先輩から聞くのですが「日本のそれ(デンタルショー)とは桁が違うよ!」というのが話の基調であり、そこから、さまざまな新しい歯科用機器や材料の具体的なハナシへと移行し、それらもまた大変興味深いのですが、聞いていますと、やはり我が国の歯科用機器や材料の開発は、近年では全般的に西欧諸国、そして最近に至っては中国や韓国に対しても後れを取っているようであり、それは私が歯系大学院生であった頃と比較しても、さらに進行しているように思われます・・。

私が歯系院生であった頃(2009~2013)は、中国製の歯科用セラミックス・ブロックは品質にブレがあり、補綴装置に加工された場合、機械的強度などが問題となり、口腔内で用いる材料として適切であるか疑問視されていましたが、現在においては明らかに品質は向上して、そして市場でも広く流通しているとのことです。そしてこれは、分析機器を用いた実験から明らかになった事実であり、その意味からも、著名な経済学や社会学の研究者の先生方が度々指摘するように、我が国の平成時代は「足踏み」をしていたと云えるのではないかと思われるのです・・。

また、さらにこの題材にて遡りますと、2003年、南紀白浜のホテルにフロント係として勤務していた頃、同僚から「このサイトが最高に面白い!」といわれ、夜勤の休憩時にバックヤードのPCで見たのが中国の開発したロボットである「先行者」について書かれたブログでした。そういえば、このサイトは私が初めてまともに読んだブログであったのかもしれません・・。ともかく、それは、あまり精巧とは云えない造りの中国製ロボットをイジる内容のものでしたが、たとえ当時であっても、私は素直にそれを笑う(嗤う)ことは出来ませんでした。しかし、その後の経験も加味してみますと、我々日本人は、情感が繊細であるためなのか、こういった遠回しな、悪意のあるイジりを、ことのほか好んでいるようにも見受けられます。

ともあれ、その頃から20年程経った現在から考えてみますと、少なくとも歯科用セラミックスに関しては「その間の中国の工業力の進化は目覚ましいものがあった」と考えるのが妥当であると思われます。

私としても今後、出来れば「国際デンタルショー」(IDS)や「ミッドウィンター・ミーティング」のような最先端の技術の粋を集めた見本市に参加して、自分なりに実地で見聞して確かめたいと思いますが、師匠や先輩の先生方から云わせると

「いや、あれに参加するのは決して観光ではないのだ。あの見本市で見た材料や機械の中から、今後の世界標準になるものが出て来るのだ。だから「これはスゴイ」と思った技術や材料の会社のブースには積極的に話し掛けて情報を引き出すのだ。それに、彼等も出展している企業だけに、話し掛けると色々と鷹揚に答えてくれるのだ。それで実験の試料として材料を頂けることもあるから、あそこで拾ったさまざまなネタは、その後の実験や講義や講演などのネタになるから、まあ、あれは半分以上は仕事で行っている感じだな・・。」

となります。また、そう考えますと、私はそこまで実務的な意味合いを、これらの見本市に見出すことは出来ません・・。しかし、ここ最近、コロナ禍ということもあり、長らく遠出をせずに、さらに外国に行き度肝を抜かれることもなかったため、これはまさに今後の私のブログや連携するSNSのためにも出来れば行った方が良いのではないかと思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年1月15日日曜日

20230114 活性が低下した冬季でのブログ記事作成について思ったこと

当記事を含めて、あと70記事の新規投稿により、当面の目標としている2000記事に(ようやく)到達することが出来ます。これは今後、毎日1記事の投稿を続けることにより、おおよそ2カ月と10日あまりでの達成の目途が立つと云え、あるいは4月に入る前での到達も見込まれます。しかし、昨日の投稿記事にて述べましたが、現在、ブログ記事作成に対する熱意は1000記事到達以前と比べると明らかに減衰しており、可能であるならば、2000記事到達まで引用記事のみで進めたいと考えることもあります・・(苦笑)。

そのため、ブログ記事作成の段になりますと、本棚やPCのあるテーブル上に積まれた書籍を代わる代わる何冊か手に取り頁を繰ってみて、その中の以前に赤線を引いた記述や、折り目を付けた頁を読んでみて、今日の引用記事として面白そうであるか検討する次第ですが、この際、予め何らかの規則があれば多少は楽になるのかもしれませんが、そういったものはないため、この段階も実際の手作業ではないものの、それなりに時間を要することがあります。また、以前から「この記述、箇所は後日の引用記事に充てよう・・」と考え、栞を挟んだ書籍をPC近くに置いておくことも度々ありますが、ここ数日はそうした書籍はなく、また本日も同様の状況であると云えます・・。

こうして期せずして、ここ最近のブログ記事作成に至るまでの流れを述べましたが、この流れは、これまで7年以上ブログ記事の作成を行ってきた私からしますと、低迷気味であると云え、おそらくは、冬季のために活性が多少落ちていることから、このような状態にあるのだと思われます。しかし、こうした状態であってもあまり落ち込まないで済んでいるのは、これまでにも、こうした経験を経てきたという記憶や自覚があるからであると云えます・・。

つまり、季節が巡り暖かくなってきますと、活性が上がり、また記事作成をあまり苦と感じなくなるように思われるのです。

しかし、そこで面白いと思われることは、冬季の活性が低下した状態で作成した記事と、そうではない、比較的活性が高い状態にて作成した記事との間で、特に大きな閲覧者数の違いがないことです・・。

もちろん、これまでの作成記事では、継続的に閲覧者数が伸びているものもあれば、逆にあまり伸びていないものもあります。しかし、それは作成、投稿した季節によるものではなく、やはりその内容にあると思われます。そして、その内容に関しては、投稿した季節との明らかな相関は見られないと思われるのです・・。

こうしたことも、あるいはまた、今後しばらく継続することにより、何かが分かってくるのかもしれませんが、記事作成が苦である冬季であっても、その閲覧者数は、春や夏のそれとあまり変わりがないことは、果たして、記事を作成している私にとってはどのような意味があるのでしょうか・・。分からないなりに、考え続けて行きますと、そのうちに霧が晴れるように判然とすることがあるのでしょうか・・。あまり期待をしても仕方がないのかもしれませんが、こうしたいわば漠然とした疑問も、現在となっては、記事作成のための一つのインセンティブとして機能しているようにも思われます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2023年1月14日土曜日

20230113 着想を言語化する力と言語を感覚化する力は同じ?

おかげさまで、今回の記事投稿により、総投稿記事数が1930に到達します。そして今後は、来る6月22日までに70記事の作成、投稿することにより、当面の目標である2000記事まで到達出来る目途が立ちますが、それまでに一定期間、記事作成を休む可能性もあることから、今後も出来る限り、ブログ記事を作成していきたいと思います。

さて、今年に入ってから既に10記事を作成しましたが、そのうちの4記事は引用記事でした。そのため、以前にも少し触れたことではありますが、引用記事を作成していますと、その中で生じた思いや疑問などが、日常の中で生じるそれらとの反応によって、新しいオリジナルのブログ記事の作成にまで至ることが多いようです。

これを異言しますと、私の場合、オリジナルでのブログ記事作成に苦慮すると、引用記事をしばらく作成し、それを助走としてオリジナルでの記事作成に至るというたところが多々あるということになります。

以前は記事作成に対する勢い、活力が現在よりも旺盛であったことから、連続してしばらくの間、オリジナルでの記事作成が出来ていましたが、2000記事まであと100記事を切った現在においては、それは少なくとも旺盛ではなく、さきに述べたような、何らかの助走が重要なものとなってくるのです。

このオリジナルの記事作成への助走となるものは、前述の引用記事の作成だけでなく、日常の会話や頂いたメールなどであったりもします。

そして、それら刺戟の中から、ブログ記事の題材が浮かぶことが多いと云えます。とはいえ、こうした着想は、たとえば午前中に得たとしますと、その後、夕刻においては明瞭ではなくなってくることも多いのですが、このことを思い返してみますと、2017・2018年頃では日中に受けた着想を、概ね夜半過ぎでのブログ記事作成にて文章化、展開することが出来ていました。その点からも、やはり現在は、以前の1000記事到達以前の頃と比較しますと、得られた着想を言語化するという、ある種の「凝集力」のようなものが減衰しており、またそこから、オリジナルでの記事作成までの助走としての引用記事の作成を必要とするのかもしれません・・。

とはいえ、やはり、さきに述べた着想を言語化するための凝集力は、強いに越したことはないことから、また何らかの工夫により、あらためて強化してゆきたいと考えています。

「着想を言語化する凝集力」と書きますと「着想自体が言語で出来ているのではないか?」と思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、着想の時点では、それはあくまでも感覚的なものであり、これを言語、文章化するために、さきの述べた「凝集力」のようなものが必要になるのです。そして、ここまで引掛りをおぼえつつ書き進めてきましたが、この「凝集力」は、感覚を言語に変換する力であると同時に、その逆、言語を感覚に引き戻す力であるのではないかと思われました。

過日投稿の「科学技術の進化発展により生じることについて・・」は、以前に投稿した、いくつかの引用記事を組み合わせて作成した記事ですが、そこで、各引用記事の大意、概要を掴みつつ、それらを再構成する作業の中で不図思ったことを、つい先ほどの「引掛り」の中で想起されたのです・・。

そして、そうしたことが想起せられ、結節したところから、さきの「凝集力」が知覚され、そしてまた、あらためて、その強化をはかることも可能ではないかと思われるのです。

そこから、歴史などを題材としたブログ記事の作成も興味深いものではありますが、こうした抽象的とも云える独白形式のブログ記事もまた、多少は意味があるのではないかと思われました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2023年1月12日木曜日

20230111 紀州鉈(ヒツ鉈)と筑紫薙刀について

これまで作成したいくつかのブログ記事にて「紀州鉈」を題材として扱い、そこで述べたことではありますが、この紀州鉈は形状が特徴的であり、まずは、刃と柄木の接続が、刃の部分に対してオフセットで鍛着された帯状の「ヒツ」と呼ばれる部位の中空部に柄木を差し込み固定する点と、つぎに刃部の先端に「ハナ」と呼ばれる鋭利な突起がある点と云えます。

また、この様式にて刃と柄木とを接続する鉈全般を指して「ヒツ鉈」と称します。それ故、紀州鉈はヒツ鉈の一分類と云うことになります。しかし一分類とはいっても、現代においては、その使用分布は「紀州」のみにとどまらず、土佐と日向といった、紀州和歌山とも気候風土が近く、且つ、その用途である林業が盛んな(であった)地域においても用いられ、あるいは地元にて製造されています。

そして、これら紀州、土佐そして日向といった地域を結びますと、そこからは自然と「黒潮文化圏」と云うコトバが想起されてきますが、たしかに、これら地域間では、古来より交流が盛んに為されていたことから、それによって伝播されたとも考えられます。

そうしますと「では紀州鉈の始原・オリジナルは何所であるのか?」といった疑問が生じます。これは未だに真相は分かりませんが、ただ、この「紀州鉈」そして「ヒツ鉈」自体、紀伊半島から東側に離れると次第に見られなくなります。

そこから紀伊半島は、この「ヒツ鉈」・「紀州鉈」の伝播の東端であり、逆端である九州の日向が始原であるのではないかと考え、当地域の特徴的な刃物を図鑑や文献などで調べていると、鎌倉時代より大友氏が支配していた九州北東部を中心に戦国期に至るまで盛んに用いられたという「筑紫薙刀」という武器の刃部の柄木への接続の仕方が、ヒツ鉈・紀州鉈と同じであり、そこから、武器である筑紫薙刀、あるいは山林での作業のためのヒツ鉈の何れが先であったのかは、わかりませんが、何れにしても、この「ヒツ」に柄木を固定する様式は、九州北部には室町期には既に存在していたことが分かります。

しかし、そこからさらに「この筑紫薙刀(ヒツ鉈)のさらに始原は何所であるのか?」と考えてみますと「九州からさらに南下した琉球であるのか、あるいは古くから北部九州地域との交流が盛んであった朝鮮半島であるのか・・」と思われるところですが、それについては未だ何も情報がありませんので、また機会があれば、調べてみたいと考えています。

しかし、さきほどの「筑紫薙刀は、かつて大友氏の支配地域にて盛んに用いられた」からもう少し想像してみますと、まず前提として、鎌倉幕府の地頭職から守護大名となり、九州での覇権を争った大友氏と、古代の軍事部族であった大伴氏は全く異なります。しかし、他方で、江戸時代後期から明治期まで刊行された伝記集である「前賢故実」に記載のある大伴金村は、記紀にある、百済による任那四県割譲問題や、その後の筑紫君磐井の反乱の鎮圧などで知られていますが、この「前賢故実」での大伴金村のイラストで得物として描かれているのが、おそらくは、この筑紫薙刀・ヒツ鉈とも称し得るものなのです。

元来、大伴氏は神武東征以来、天皇家の軍事活動に参画し、その起源の地は、神武天皇と同様、筑紫国(九州)であると考えられていますが、そうすると、後世(?)の筑紫薙刀・ヒツ鉈の発祥地の候補として挙げた、大友氏の支配地域である九州北部とも被るのです。しかし、そうしますと、さきの「前賢故実」での大伴金村のイラストが、どの程度まで考証されて描かれたのかと疑問に思われますが、こうした方面は現時点では、未だよく分からないことから、とりあえず棚上げをして留めておきます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2023年1月10日火曜日

20230110 科学技術の進化発展により生じることについて・・

日露戦争にて我が国とロシア帝国間の調停を申し出たアメリカが戦争により我が国が権益を得た南満州鉄道の共同経営を申し出たが、我が国はその申し出を一蹴し、その後から急に日米関係が冷却・悪化していった。
とはいえ、当時の我が国もまた、多大なる犠牲によって獲得した南満州の権益を少しでも減ずるような行為とは出来かねる状況であったこともまた理解出来、当時としては無理からぬことであったようにも思われる・・。

また、明治近代化以降、軍備、とりわけ海軍力の増強とは大英帝国に依存するものであり、日露戦争期における我が国海軍の主要な艦船とは、概ね英国製であった。つまり、一面において、日露戦争における我が国海軍の勝利とは、大英帝国重工業の勝利をも意味するものであったとも云える。そしてその後、我が国においても重工業が興ると、国産の軍艦を建造し用いるようになった結果、英国に発注しなくなり、これが英国を怒らせる結果となった。

その後1914年に欧州にて第一次世界大戦が勃発すると、我が国は日露戦争前に締結された日英同盟に基づき、ドイツ帝国に対し宣戦布告し、極東におけるその根拠地であった青島半島南側の膠州湾ドイツ租借地を攻略した。また地中海の機雷除去のため、我が国海軍艦船が派遣されるということもあった。

ともあれ、こうした富国強兵の流れとは、新興国家が一度は通過しなければならない民族主義の一つの現れであると云え、我が国の場合、それは明治・大正期に概ね為されたのであるが、同時にそれは危険な後遺症をも伴った。

それは軍事優先・他民族の蔑視・絶対不敗の信念の普遍化などであるが、これらもまた戦争勝利の後に生じる現象ではあるのだが、こうした考え、否、信仰とは、一度成立すると、現実に国家が戦争で敗北するまで続くことから厄介なものであると云える・・。

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』
下巻pp.70-72より抜粋引用
ISBN-10: 4309226728
ISBN-13: 978-4309226729

『何世紀もの間に、科学は数多くの新しいツールを提供してきた。死亡率や経済成長を予想するのに使われるもののような、知的作業を助けるツールもある。それ以上に重要なのがテクノロジーのツールだ。科学とテクノロジーの間に結ばれた絆は非常に強固なので、今日の人は両者を混同することが多い。私たちは科学研究がなければ新しいテクノロジーを開発するのは不可能であり、新しいテクノロジーとして結実しない研究にはほとんど意味がないと思うことが多い。
 じつは、科学とテクノロジーの関係は、ごく最近の現象だ。西暦1500年以前は、科学とテクノロジーはまったく別の領域だった。17世紀初期にベーコンが両者を結びつけたとき、それは革命的な発想だった。17世紀と18世紀にこの関係は強まったが、両者がようやく結ばれたのは19世紀になってからだった。1800年にさえ、強力な軍隊を望む支配者の大半や、事業を成功させたい経営者の大半は、物理学や生物学、経済学の研究にわざわざお金を出そうとはしなかった。
 私はなにも、例外がまったくなかったと言っているわけではない。優れた歴史学者なら、どんなものにも先例を見つけられるだろう。だが、さらに優れた歴史学者なら、そうした先例が全体像を曇らせる珍しい例であるときには、そうとわかる。一般的に言って、近代以前の支配者や事業者のほとんどは、新しいテクノロジーを開発するために森羅万象の性質についての研究に資金を出すことはなかったし、ほとんどの思想家は、自らの所見をテクノロジーを利用した装置に変えようとはしなかった。支配者は、既存の秩序を強化する目的で伝統的な知識を広めるのが使命の教育機関に出資した。
 現にあちらこちらで人々は新しいテクノロジーを開発したが、それは通常、学者が体系的な科学研究を行うのではなく、無学な職人が試行錯誤を繰り返すことで生み出したものだった。荷車の製造業者は、来る年も来る年も同じ材料を使って同じ荷車を組み立てた。年間収益の一部を取っておいて、新しい荷車のモデルを研究開発するのに回すことはなかった。荷車のデザインはときおり向上したが、それはたいてい、大学には足を踏み入れたことがなく、字さえ読めない地元の大工の創意工夫のおかげだった。
 これは民間部門ばかりでなく公的部門にも当てはまった。現代国家が、エネルギーから健康、ゴミ処理まで国家政策のほぼすべての領域で科学者の助言を仰いで解決策を提供してもらうのに対して、古代の王国はめったにそうしなかった。当時と今の違いが最も顕著なのが兵器の開発・製造だ。1961年、退任間近のドワイト・アイゼンハワー大統領が、しだいに増していく軍産複合体の力について警告を発したとき、その体制の一部を抜かしてしまった。彼は、軍事・産業・科学複合体について、アメリカの注意を促すべきだったのだ。なぜなら、今日の戦争は科学の所産だからだ。世界各国の軍隊は、人類の科学研究とテクノロジー開発のかなり大きな部分を創始し、それに資金を注ぎ込み、その方向性を決める。第一次世界大戦がいつ果てるとも知れない塹壕戦の泥沼に陥ったとき、両陣営は科学者たちの援助を仰ぎ、膠着状態を打ち破って自国を救おうとした。科学者たちはその呼びかけに応え、戦闘機や毒ガス、戦車、潜水艦、際限なく性能を上げる機関銃や大砲、小銃、爆弾など、新しい驚異の新兵器が各地の研究所から絶え間なく送り出された。』

この記述によると、おおよそ16世紀以降から科学と技術の結びつきがヨーロッパを中心としてはじまり、さらには、それが時代を経るごとに加速・進展し、帝国主義の萌芽となり、またそれが世界の他地域にも影響を及ぼした結果、現代の国際社会の枠組み・基礎が形成されたとも云える。そして、その具体的な様相を述べたものが以下の記述であると思われる。

株式会社 草思社刊 ジャレド・ダイアモンド倉骨 彰訳『銃・病原菌・鉄
下巻pp.84-86より抜粋引用
ISBN-10: 4794218796
ISBN-13: 978-4794218797

『有用な発明は、一つの社会から別の社会に二つの方法で伝播する傾向がある。一つは、その発明を実際に目撃したり教わったりした社会が、それを受容し、取り入れる方法である。もう一つは、その発明を持たない社会が、自分たちが不利な立場にたたされることを認識し、その発明を取り入れる方法である。後者の例は、ニュージーランドのマオリ族のあいだでマスケット銃がどのように普及したかを考えるとわかりやい。ニュージーランドでは、1818年頃に、マオリ族の一部族であるナプヒ族がヨーロッパの貿易商からマスケット銃を手に入れてから、マスケット戦争とよばれる戦いが15年間続いた、その結果、マスケット銃を持たなかった部族は、銃を手にした部族によって征服されてしまうか、あるいは自分たちも銃を持つようになり、1833年になると生き残ったすべての部族がマスケット銃を持つようになっていた。
新しい技術は、発祥地から別の社会にさまざまな方法で伝播する。トランジスタ(半導体)が1954年に合衆国から日本へ伝わったのは、平和的な交易を通じての例である。蚕が西暦552年に東南アジアから中東へ密輸されたように、技術がスパイ行為もどきに伝播することもある。1685年に、20万人のユグノー教徒がフランスから追放されて、フランスのガラス製造技術や衣服製造技術がヨーロッパじゅうにひろまったように、技術を持った人びとが移住することによって伝播することもある。そして戦争によって技術が広まった例が、中国の製紙技術のイスラム圏への伝播である。イスラムの製紙技術は、中国人の製紙職人が、西暦751年の中央アジアのタラス川の戦いでアラブ側の捕虜になり、サマルカンドに連れてこられたのがきっかけではじまった。第12章において、われわれは、文化が「実体の模倣」や「アイデアの模倣」で伝播することを考察し、実際に文字システムがどのように伝播したかに言及した。そしてわれわれは、この章のここまでの考察において、技術の伝播にも「実体の模倣」や「アイデアの模倣」があることを示す例をとりあげてきた。前の段落で紹介した事例はどれも「実体の模倣」によって技術が伝播している。ヨーロッパ人は、中国で発明された陶磁器技術を、長い時間をかけて自分たちで独自に考えだしたが、これは「アイデアの模倣」によって技術が伝播した例である。硬質の半透明な陶磁器は、7世紀頃に中国で誕生し、14世紀になると、シルクロード経由でヨーロッパに伝わり、非常に珍重された。だが、その製造方法はまったく知られていなかった。そして、それを模倣しようといろいろ試みられたものの、すべて失敗に終わっていた。今日のマイセン磁器が登場するには、1707年になってからのことである。これは、ドイツの錬金術師(アルケミスト)ヨハン・ベトガーが、長い時間かけてさまざまな実験を繰り返し、各種の鉱物と粘土の混合割合を編み出した結果である。その後、フランスやイギリスでも多かれ少なかれ独自の研究成果を踏まえて、セーブル磁器、ウェッジウッド磁器、そしてスポード磁器が誕生している。このように、ヨーロッパの職人たちは、中国で発明された製造法を自分たちで独自に考え出した。しかし、彼らが陶磁器の製造を思いついたのは、目標とするお手本が目の前にあったからである。』

また、他方で、そうした原初的(14世紀初頭)な科学と技術の結びつきの様子をミステリー作品の中に落とし込んで描いた作品がウンベルト・エーコによる『薔薇の名前』であると云える。

株式会社東京創元社刊 ウンベルト・エーコ著 河島 英昭 翻訳 上巻pp.30-33より抜粋引用
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488013511
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488013516

『私たち主従が行動を共にしていたあいだは、規則的な生活を送る機会があまりなかった。とりわけあの僧院に着いてからは、真夜中に目を覚ましたり昼間から疲れて眠りこんでしまったり、規則的に聖務日課に加わることはなかった。けれどもまだ旅から旅を続けていたころには、終課の後にまで師が目を覚ましていたためしは滅多になく、つねに節度ある習慣を保っていた。それが、あの僧院に入ってからは、しばしば生じたように、一日中薬草園を歩きまわって、緑玉や翠玉を探すみたいに、植物を調べていることがあった。あるいは地下聖堂の宝物庫を歩きまわって、朝顔の茂みを除きこむみたいに、緑玉や翠玉の鏤められた手箱に見とれていることもあった。あるいはまた、一日中文書館の写字室に籠って、自分の楽しみ以外の何ものも求めていないといわんばかりに、写本をめくっていることがあった。(私たちのまわりでは、日一日と、身の毛よだつばかりの殺され方をした修道僧の死体が殖えていったというのに)。ある日など、師は自分の没頭している仕事のために神さまへの務めなど気にかけていられないと言わんばかりに、やたらに僧院の中庭を歩きまわっていた。私が学んだ修道会ではこういう師の行動とはまったく違ったやり方で日課が定められていたから、思いきってそう言ってみた。すると師は、宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりでなく、統一性のうつの多様性にもあるのだ、と答えた。そういう返事は無教養な経験論に基づくもののように思えてなっらなかったが、後になってから、理性の働きはあまり重要な働きはしないという言い方で、師と同郷の人士たちが事物を規定することを知った。 あの僧院では共に日夜を過ごしていたあいだ、師のほうは書物に積もった塵や、仕上がったばかりの細密画の金粉や、セヴェリーノの施療院で触れた黄色い物質などで、いつも両手を汚していた。それはまるで両手を使わなければ考えは進まない、と言わんばかりの態度であり、当時の私の目に師はときおり機械職人そのもののように映った(そして私がそれまでに受けてきた教育では、機械職人とは〈不倫ナ者〉であり、本来は貞節な結婚で知的生活と結ばれるべきなのに、いわば不倫を犯している者なのであった。)師の手が非常に壊れやすいものを、たとえば細密画を施し終わったばかりの手写本や、古くなって無酵母パンのようにもろくなり、崩れかけたページなどを取り扱うときには、少なくとも私の目には、師が並はずれて繊細な触角の持主であり、職人が自分の機械仕掛けに触れるときとまったく同じ手つきをしているように見えた。じじつ、いずれ述べることになろうが、このように風変りな人物であった師は、旅行用の袋のなかに、当時は私などが見たことも聞いたこともなかった道具類を所持していて、これを大切な機械類と称していた。機械とは技工の現れであり自然の模倣である、と師はいつでも言っていた。また、機械によって再生されるのは自然の形態ではなくて、作用そのものであるとも。こうして師は、時計の仕組みや天体観測器や磁石の秘密などを、私に説き明かしてくれた。しかし初めのうち、私はそれらを魔術のように恐れていたので、晴れた夜に師が(奇妙な三角形の道具を手にして)しきりに星座の観測を繰り返していたときなどには、眠っているふりをした。私がイタリアの各地や自分の故郷で知りあったフランチェスコ会修道士はみな素朴で単純な人たちばかりで、なかには文盲の人も少なくなかったから、師があまりにも博学の士であることに驚いてしまった。けれども師は微笑みながら、彼の故郷の島に住むフランチェスコ会修道士たちも自分とはまったく別種の人間だ、と私に言った。「ただしロジャー・ベーコン、この方を私は師とも仰いでいるのだが、この巨匠の説かれた言葉によれば、神の意図はやがて聖なる自然の魔術すなわち機械の科学となって実現されていくであろうという。また、人はやがて自然の力を用いて航海のための装置を造りあげ、船舶は〈人ノ力ノ支配ニヨッテノミ〉進むことができるようになるであろう、帆や櫂で進むよりはるかに迅速に航行できるようになり、さらには地上を走る車も別種のものになるであろうという。〈動物ニ牽カレナクトモ猛烈ナ勢イデ動ク車、サラニハ空飛ブ機械。人ハソノ機械ノ真中にスワリ、何ラカノ装置ヲマワスト、巧ミニ作ラレタ翼ガハバタイテ、鳥ミタイニ空ヲ飛ブデアロウ〉そしてごく小さな装置で非常に重いものを持ち上げるようにようになり、海底を進む乗物さえ造りだされるときが来るであろう」
 どこへ行けばそのような機械にお目にかかれるのかとたずねると、師はすでに古代において造られた例がある、そして私たちの同時代にはいくつか造られている、と答えた。「ただし、例外は空飛ぶ機械だ。これだけはわたしもまだ見たことがないし、見たという話を聞いたこともない。だが、その装置の考案にたずさわっている博学の士ならば、私は知っている。また、支柱を立てなくとも支点がなくても河川に橋梁を架けることができたり、それ以外にも、まだ聞いたことのない機械装置さえ造られているという。いままで存在しなかったからといって、疑いを抱くには当たらない、将来にも存在しないとは限らないからだ。そこで、おまえに言っておくが、神はなによりもそのような事物の存在を望んでおられるのだ。それが神慮のうちにすでにあることは疑いを入れない、たとえオッカムのわたしの親友〔ウィリアム〕がそのような形での思念の存在を否定しようとしても。なぜなら、わたしたちには神の性格が決定できるからではなく、そこに何らかの限界をも設けることができないからだ」このように矛盾する命題を師の口から聞いたのは、そのときに限らなかった。それにしても、すっかり年老いてあの当時よりはるかに賢明になったはずの私に、いまなお完全に理解しがたいのは、どうして師がオッカムの親友にあれほどまでの信頼を寄せていたのかという点であり、と同時にまた口癖の一つでもあったベーコンの言葉に、師があれほどまでに全幅の信頼を寄せていたのかという点だ。ともあれ、確かに言えるのは、あれが暗い時代の渦中の出来事であり、いかに賢明な人物であっても矛盾のうちに思索を進めなければならなかったということである。』

さらに、そこからもう少し考えると、以前に読んだポール・ケネディー著『大国の興亡』もの著作内にある歴史の流れが1500年代・16世紀以降から始まっていたため、おそらく、さきの見解(おおよそ16世紀以降から科学と技術の結びつきが主にヨーロッパにてはじまった。)は、国際的な見地においても、ある程度妥当と云えるのかもしれない。

しかし、16世紀以降顕著になった、この世界史的潮流は20世紀に至ると、戦場にて用いられる各種兵器の殺傷能力の著しい増大となった。そして、そうした状況をいささか悲観的な視座から述べた記述が以下のものであると思われる。

法政大学出版局刊 R.ペイン佐藤 亮一
ISBN-10 ‏ : ‎ 458802146X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4588021466

『戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレクサンダーやシーザーやナポレオンが軍隊を勝利に導き、兵士たちと危険を分かち合いながら馬で戦場をかけめぐり、緊張したわずか数時間の中で彼等の決断と行動が帝国の運命を決するというようなことは、もうなくなったのだ。これからは彼等は政府省庁のような安全で静かでものうい事務室に書記官たちに取り囲まれてすわり、一方何千という兵士たちが電話一本で機械の力で殺され息の根を止められるのだ。我々は既に最後の偉大なる総指揮官たちを見てしまった。おそらく彼等は国際的な大決戦が始まる前に絶滅してしまったのだろう。そして勝利の女神は、その様な殺戮を大規模な形で組織した勤勉な英雄と不本意な結婚をすることだろう。

 自己の生存が危うくなっていると信じた諸国は、その生存を確保する為にあらゆる手段を使うことになんの制約を受けなくなる、ということは確かである。そしておそらく、いや確かに、やがてそれら諸国が自由に使えるようになる手段の中に、大規模な限界のない、そして多分一度発動されたら制御不可能となるような破壊のための機関と工程が含まれるだろう。

 人類がこのような立場に置かれたことは以前にはなかった。美徳をいくぶんか高めたり、より賢明な導きを受けたりするようなこともなしに、人類はそれによって彼等自身の絶滅を確実に達成できるような道具を、初めてその手にしたのである。これこそが人類の過去の栄光と苦労の全てが彼等を導き最後に到達させた人類の運命の特質なのである。人類は彼等の新しい責任について思い巡らし熟考するが良い。死が気をつけをして立っている。彼はまさに働こうとして従順に待ち受けている。まさに諸国民をそっくり消し去ってしまおうとして、そしてもし呼ばれれば文明の残したものを再建の望みなきまでに粉砕しようとして待ち受けている。死は、誘惑に弱く当惑しきった存在であり、長いことその犠牲者であったが今この時期だけその主人になっている人間からの命令を待っているのである。』

この記述は、まさに現在の世界情勢において、あらためて考えされらるものがあると思われるが、しかし、考えることは至極結構であるが、そこから実質的に進化して、上述のような事態に対して賢明に処することが出来るようになったのかと考えてみますと、そこにはかなり疑問があるように思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




20230109 中央公論新社刊 石光真清著 石光真人編 望郷の歌 - 新編・石光真清の手記(三)日露戦争 (中公文庫)pp.94-98より抜粋

中央公論新社刊 石光真清著 石光真人編 望郷の歌 - 新編・石光真清の手記(三)日露戦争 (中公文庫)pp.94-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122065275
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122065277

凱旋祝いや挨拶廻りに数日過ごした後のこと、老母が遠慮がちに私の考えを質した。「どうお考えかい」

「まだ、頭がまとまらないのです。もう暫く保養してからにします」

「そうだね、それがいい、もう当分は戦争もないだろうからね」

「はい・・・」

 これだけの問答で終わったが、私の胸には覚悟を促す強い言葉として響いた。その頃すでに軍を退いて貴族院議員になっていた叔父の野田豁通を訪うと、

「あせるなよ、いいか、ゆっくりやるんだよ」

と言い、参謀本部の田中義一大佐は、

「僕に考えがあるから待っとれ」

と言った。

 凱旋後の一カ月余は、御陪食とか歓迎会とか送別会が続いて気がまぎれた。弟の真臣を始めとして出征した親族も幸い無事に帰って来た。だが落ち着いて周囲を見廻すと、遊んでいるのは私だけであった。自分が職を持っていないと、ひがみではないが、とかく職場の人々を訪ねずらくなる。遠慮がちになるのである。すると自然に世間から孤立していくような淋しさを感じた。戦前にハルピンの写真館で生死を共にした人々には、満州に残して来た写真館を始め視点の類一切を無償で提供するほかに、何一つ与えるものがなかった。それ以上には頼りにならない境遇の私を諦めて、ちりぢりに去って消息を断ってしまった。

 こうして三カ月余り、なすことなく過ごしているうちに、花の季節がめぐって来た。その頃の私には、家からほど近い青山墓地の静かな桜並木の散歩が楽しみになっていた。香煙のただよっている新しい墓に立ち寄ると、きまったように陸軍歩兵上等兵何々の墓というように、ほとんどが戦死者の墓であって、例外なしに新しいお花が供えられていた。勝ったとはいっても、この大戦争の傷痕は深く広くえぐられていて容易に消えることはないであろう。ある時は幼い長女の手を引いて赤坂見附、三宅坂、九段、上野と・・・永年の間楽しめなかった桜の下を、たんのうするまで歩き廻った。明け暮れ家族と遊び暮らしているうちに、いつの間にか心の中に大きな穴があいているのに気がついた。埋めようとしても埋めきれないほど空虚な深い穴が、ポッカリと口をあけているように感じたのである。それはいけないぞ・・と気がついた頃、三月二十八日のことであった。参謀本部の田中義一大佐から招かれた。

 「君の苦労に酬いるためにな、実は接収した満州鉄道の会社が出来たら、長春に勤めてもらおうと思ってね、関係方面とも協議の上で名簿の中に加えてあるんだが、どうも会社の設立が思うように進まん」

と、南満州鉄道株式会社設立が、戦後の資金難と米国の鉄道王ハリマンの協同経営申し入れなどの国際問題がからんで、本格的に発足できないでいる事情を説明した。

「いつまでもぶらぶらしとるのは苦しかろう。どんなもんだろうな、もう一度満州に行ってみる気はないかね」

「・・・・」

 満州と聞いて私はぐっと言葉が詰った。田中義一大佐も敏感に私の心の動きを感じたらしい。声を落として言った。

「家庭の方はどうかな、そう永いことは要らん、まあ二年か三年かな・・・」

「どこですか」

「蒙古だ」

「仕事はなんでしょう」

「ゆっくり調査でもしとればいいさ、そのうち鉄道の方も片付くだろうからね」

私はこの話が田中義一大佐の非常な好意によるものであることを覚った。

「やりましょう、どうせぶらぶらするんなら蒙古の方が遠慮がなくていいです。内地ではどうも遊んでいるわけにはいきませんし・・」

と私が答えると、今度は田中義一大佐が心配の色を眼に湛えた。

「いいかな、そんなに簡単に承諾して」

「いいです。ほかにやることはありませんし・・そろそろ、やり切れなくなってきましたから」

 田中義一大佐は笑い出した。

「先方に落着いたら、どうだね、今度は奥さんたちを呼びよせたら。もう危険はないしな」

「いつからですか」

「正式に参謀本部の所管になるのは遅れると思う。気の毒だが、とりあえず陸軍通訳の名義で関東都督府陸軍付になって待機してもらえんかな」

「名義はなんでも結構です」

私はこう言って田中義一大佐の好意を受けたのである。誰にも先々の鉄道のことは話さなかった。老母は「御奉公ならいいさ」と言い、妻は「お気の毒ですね・・」と言葉を濁した。母や妻が喜ぶはずはなかった。それが判らないほど鈍感ではなかったが、私は当時何かしら追いつめられた気持でいたし、また一方では、これを機会に未来が開かれるような気もしていたのである。

 叔父の野田豁通に話すと「ほう、また行くかい、お前は馴れとるからな」と言って、これもあまり多くを語らなかった。

 このような次第で、またも私は家族と別れて、ただ一人船中の人となり、船橋(デッキ)から新緑の山々を眺めて、過去幾たびかの船出を偲んだのである。明治三十九年五月十日であった。

2023年1月9日月曜日

20230108 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.86-89より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.86-89より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

ここでわれわれが注目しなければならないことは、このことではない。このような国際政治の初等的論理が、全くわが国の指導者や国民に理解されていなかったことである。

 なんという外交オンチであろうか。歴史オンチであろうか。そして、このことこそ最も強調されるべきことであるが、社会科学オンチであろうか。

 しかしこのことは、昭和十四年になって、忽然として現れてきたことではない。禍根はさらにさかのぼる。第一次世界大戦終結によって、日本は五大国にのしあがった。海軍については三大国である。が、不幸にして日本人はこのことを理解しえなかった。ヴェルサイユ会議をはじめとする戦後における主要国際会議で、日本代表は「沈黙の全権」といいわれた。何も発音しなかったからである。これらの会議においては、いうまでもなく、戦後の世界の動向を決定するような多くの議題が論じられた。しかし、それらの大部分は、日本と直接関係のないものであった。ゆえに、日本代表の関心の的とはなりえなかった。彼らはどうしても、「直接日本に関係のないことであっても、めぐりめぐって日本にとって重大なことになる」という国際社会の論理を理解しえなかったのである。

 吉田茂は、外務次官のとき田中(義一)首相の通訳をつとめたことがあった。そのとき、バルカンの代表がやってきて、自国がおかれた立場について詳細に説明し日本の了解を求めた。これを聞いた田中首相は、(こんな日本になんのかかわりもないことについて日本の了解を求めることについてあきれて)日本語で「こいつ、ばっかじゃなかろうか」と大声をあげたので、吉田茂は訳すのに困ったといわれる。

 国際政治の定石からいえば「ばっかじゃなかろうか」否「正真正銘の馬鹿」であるのは、田中首相のほうなのである。重要事項に関しての列強の了解を求めておき、その後にはじめて行動の自由が得られるということは、国際政治の定石である。こんな定石すら、戦前日本の指導者は理解しえなかった。そしてこの無理解はきわめて高いものについた。つまり、このことを理解しえなかったことこそ、日本の致命傷となったのである。

 今日ではだれしも「支那事変」が日本の命取りになったことを知っている。その理由については多くのことが語られているから、ここでそれらの大部分を繰り返す必要はないが、右に述べたことの連関において注目すべきことは、日本の指導者が、「中国への鍵はアメリカにある」ことを理解しえなかったことである。つまり、国際政治においては、すべてが依存しあっているから、中国問題は中国問題にとどまりうるものではない。その影響は全世界に及ぶであろう。なかでも大きな利害を有するのは、米英仏であるが、当時において、実力によって日本の行動を制約しうるのはアメリカ以外にない。

 この意味において、「中国の鍵はアメリカにある」のである。これは国際政治の連関メカニズムの理解の問題であって、日本がアメリカに隷属するかどうかという問題とは全く別の問題であり、カヴールが、イタリア統一の鍵はパリにあり、といったようなものにすぎない。そして、このことに関する日本の指導者および国民の理解の程度の低さは、まさに戦慄すべきほど幼稚なものであった。

 まして彼らには、バルカン問題や独ソ関係が、めぐりめぐって日本の進路にいかなる意味を持ってくるか、ということについて、教科書的知識すらどうしても理解することができなかったのである。そして、このことによって日本は破局を迎えるのであるが、現在日本人の行動様式、思考様式は、当時の日本人のそれらと、少しも変化していない。つまり、われわれは、あの大戦争とその結果を、科学的に学び取ることをまだしていないのである。

 ニクソン・ショックや石油危機を全く予知も分析もしえなかった日本の政治家や外交官は、なんと当時の平沼首相や外交官と似ていることであろう。遠いイスラエルとアラブとの戦争がめぐりめぐって日本に致命的影響を及ぼしうることを夢想もしえなかった田中角栄前首相は、遠いバルカン問題は日本とは全く無関係であると思っていた時の田中義一首相と、なんとよく似ていることであろう。

2023年1月8日日曜日

20230107 中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」ー西欧ヒューマニズムの限界ー pp.136‐138より抜粋

中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」ー西欧ヒューマニズムの限界ー
pp.136‐138より抜粋
ISBN-10 : 4121800036
ISBN-13 : 978-412180003

外貌を気にするのはどの人種でも同じである。しかし私たちの気にしかたにはどこか異常なところがある。「外見だけにとらわれるな」という意見が説教的によく話されるが、私の知りえたかぎり、ヨーロッパではこのような教えは日本ほど強く切実ではない。顔は悪いが身体がいいとか、背は低いが金髪であるとかいった言い方はされるが、要するに外貌だけを問題にして論じている。美人は、それが悪人であろうが何であろうが美人であって、それ自体一つの絶対的な価値だということは、近代のヨーロッパの基本的な観念なのである。美の独立性の主張はこのような感情を基調としているのだ。

 しかし日本ではそのような考え方を排撃することに非常に熱心である。しかもその反面、どこよりも審美的な国民である。たとえば「きたない」ということばが、あるいは卑怯、あるいは悪辣という意味を端的に表現するぐらい、すべての価値を美醜に還元する傾向がある。外来文化の摂取でも、文化自体よりも、その美に憧れたというようなところがある。たとえば仏教の教義よりもその仏像の美しさにひかれて信奉し、戦国時代のキリスト教の急速な伝播もマリア像のエキゾチックな美しさにひかれてのためだという説を私は読んだことがある。もちろんそれだけではなかろうが、反対に社会条件や教義だけで説明し切るのも無理なようである。

 日本人のこのような態度は、自覚しているといないとにかかわらず、自分たちの容姿の醜さに劣等感を持ち、しかも過度にそれに敏感になっていることと関係していると思う。容姿を気にするなという説教が多すぎることは、気にしすぎていることの証明ではないだろうか。日本文化の粋というものが、古代や織豊政権器を例外として、いずれも正面きってのものでなく、それこそ奥の細道的なところに自分の存在理由を発見しているのは、そういうことと関係しているのではないだろうか。

 国土が辺境にあるからこういう精神が成長したのだと説明できないこともない。しかしギリシャはどうだろう。古代ペルシャにくらべれば正に辺境である。しかしその文化の正統性、豊かさ、巨大さは日本と比較にならない。そこには暗さ、卑屈さ、ひがみ、いじけといったものがまったくない。その理由をギリシャが独裁制でなく民主制であったからだなどと説くのはヨーロッパ人の俗説である。最近私はあるギリシャ史家から、その理由はギリシャ人が容姿、とくに肉体の立派さ美しさに絶対の自信をもっていたからで、そういう自信を示す文献があると教えられた。たしかにそうでもあろう。こうなると日本人特有の見栄も何かそれと関係するように思われる。

2023年1月7日土曜日

20230106 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.82-85より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.82-85より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

中国の古代社会の頂点をなす漢時代において、塩鉄の専売が重大な事件として論議されたことは今更ら申すまでもない。しかるに三国以後、この塩鉄問題が決して重要性を喪失したはずはないのに、それが漢代のように喧しく論議されなくなったのは何故であろうか。私はこれを荘園経済との関係において説明したい。
 
 荘園経済は原則として自給自足が強化される。ただし普通には自給しえないのが塩と鉄とである。塩と鉄とは最も封鎖性の強い中世においても、代表的な商品であった。しかるにこの重要商品を廻って塩鉄商人の活動が大して中央政府当事者の眼に映らなかったのは、この商業が荘園経済の中に包摂されてしまったためではなかろうか。即ち荘園経済は単に生産面に特色を有するのみならず、流通面にまで食い込んでいたのではないか。というのは荘園所有者はその剰余生産物を売却し、必要物資を購入する時、これを特別の商人に依存せず、自らがその衝に当ったと思われるふしがあるからである。当時の商業は、相当の遠距離商業までも、荘園主によって営まれ、従って純粋の商人の活躍舞台が狭く、商業資本の問題は広義の荘園問題として取り扱われていたのであろう。
 
 しかるに唐末以来、荘園経済が崩壊し、隷民たる部曲が解放されて佃戸となり、佃戸は自家の経済に全責任をもつ。塩鉄の如き商品も彼ら自身の貨幣をもって購入する。そこに貨幣経済が盛行し、商人の活躍舞台が広まり、商業資本の横行する原因があった。
 独裁君主は自己の人民を商人に横取りされないためにまず塩の専売を実施した。以来千有余年にわたって塩法は中国社会を特色づける重要な一素因として作用した。
 
 鉄の問題は塩と違った行き方をした。簡便なコークスによる精錬法が発明され、それが潜在生産力として存在するため、政府は鉄に重税を加えて専売を行うことが不可能にとなった。もし政府が専売によって鉄の価格を高くすれば民間の潜在生産力は忽ち活動を始め、闇生産が蜂起するに違いないからである。従って鉄は概ね自由商品として放任され、その価格が安価であったことは、他種の生産に対して有効な助力を与えることになった、それは塩は中国社会のその後の停滞性を代表するが、鉄は中国社会の進歩性を象徴するものと言うことができる。
 
 それにしても日本の学者は、そろそろ中国の後進性論を清算してもよかりそうに思う。私の考えでは、世界史は各地域、各国民の文化それ自身の発展の経過とともに、その相互間の水準の差を明らかにしなければならぬと思う。そこに世界史の意義があるのである。私の目下の結論としては中国の文化はその開始の時期において、西アジアに比較してずっと遅れている。しかしその後次第にその後進性を取り戻して追いつき、宋代に至って、西アジアを凌駕して世界の最先端に立った。しかるにこの宋文化の刺戟によってヨーロッパ文化が進歩し、そのルネッサンスによってヨーロッパは中国よりも先行するに至った。しかし始めの中は祖の差は極くわずかなまおであり、十八世紀までは雁行の状態であったが、ヨーロッパに産業革命が起こると、中国は遥か後方に置きざりにされ、年とともにその間隔がいよいよ大となり、やがて中国はその半植民地と化したが、今度は植民地化する間に次第にその後進性を取り戻して、ヨーロッパ文化に追いつきはじめた、というのが相も変わらぬ私の見解なのである。

2023年1月6日金曜日

20230105 違和感やギャップを感じるものへの興味と転機について・・

去る12月11日の投稿記事「【空想】新たな医療介護系専門職大学の立地について」は、その後も継続的に読んで頂き、また、それと関連があるのか、昨年末から何人かの在和歌山の先生、あるいは和歌山ご出身の先生方からご連絡を頂きました。しかしながら、その何れも当ブログについての言及はありませんでしたので、これもまた「不思議な巡り合わせ」と云うものであるのかもしれません・・。

こちらの投稿記事以前から、南紀や紀伊田辺を記事題材としてきましたが、現在考えてみても、南紀・紀伊田辺での生活の中に私にとっての「転機」があったと思われます。そして、それがどのようにして「転機」として作用したのかと考えてみますと、やはり、異文化に放り込まれたことから生じる違和感やギャップのようなものが、少なからず作用したのではないかと思われるのです。

では、その「違和感やギャップ」とはどのようなものであったのかと思い返してみますと、それは以前の投稿記事において何度か述べてきたことではありますが「自分の国の古い時代のことをほとんど知らない・・」と痛感したからであると云えます・・。

他方で、これと丁度同じ頃、人文系の師匠から、ご自身による記事が載った別刷りやクラシック楽曲のCDなどを送ってくださることが多く、それらに書かれている、主に西欧文化に関しての記述は大変興味深かったのですが、しかし、それは私が住んでいた南紀にいて学び、深めることは困難であると思い「では、それに対して私も身近な興味を持っているものを・・」と考えていたところ、古墳などの遺跡に対してがそうであることを知り、近在の古墳をいくつか訪ね、そして、それらについて書かれた著作を入手して読んでみたところ、比較的身を入れて読むことが出来て、これまで知らなかった分野の知見を少しずつではあれ、深めるようになっていきました。

このときに多く参照した著作が保育社刊行で森浩一監修による「日本の古代遺跡」シリーズの和歌山編でしたが、その中で面白いことに、著作内での地図には記載がある古墳で、その近くと思しき場所にまで行っても実際に存在するか分からない古墳がありました・・。

現在ではネット上に、この古墳についての説明や画像なども掲載されていますが、当時はそうした情報はありませんでしたので、一人で休日に自動車を走らせて、その古墳を探しに出たところ、海に少し突き出た半島状の鬱蒼とした林の中にそれは実際にありました。石室正面の玄門には、動かされて出入りは出来るようにはなっているものの、往時に用いられたであろう閉塞石が未だ残り、何だか天岩戸神話を彷彿とさせました・・。

この時は蒸し暑く、そしてあちこち蚊に刺されつつ見つけるに至ったと記憶していますが、同時に古墳を自分で見つけることが出来た喜びで、かなり昂奮していました・・(笑)。

しかし、こうした発見は、地域自治体が古墳などの文化財整備に注力するようになると、かえって少なくなってしまい、さきのような昂奮や感動などは減衰してしまうように思われるのです・・。そうした意味から、文化財の保護などは、その対象が持つ性質から、どのように保存するのが適切であるのかを考えることもまた重要であるように思われました。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。