「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」
古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281
この記述では「奈良盆地の東南部に位置する三輪山周辺一帯を根拠地とした物部氏は、侵入してきたヤマト朝廷勢力に屈服したが、その支配下に入ることを佳しとしない物部氏の勢力も存在し、そうした集団が東へと移住して土着した。」といった概要になりますが、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行っていた集団が、自らの勢力の敗北により、当時、未だ確たる支配権が確立されていなかった遠江や駿河、伊豆などの地域へと移住したことは十分に考えられることであり、あるいは、この沼津市から出土した、破砕された近畿式銅鐸の鰭飾部を装身具に加工したものは、かつて近畿圏にて銅鐸祭祀を行い、そしてヤマト朝廷側の侵入により東遷をした人々の末裔が所持していたのではないかとも思われるのです。
そして、こうしたことを述べていますと、想起されるのが記紀での出雲の国譲り神話です。その際も、先述と同様に、ヤマト朝廷側への屈服を佳しとせず、国を出て戦いを続けた土着の神々(地祇)の話がありますが、おそらく、こうした現象は当時、西日本の各地であったのではないかと思われます。そして、それらを総称した歴史での名称を「倭国大乱」であると考えます。
また、奈良県での銅鐸の出土状況概要を述べると、出土総数は20個ほどであり、それらの傾向は、古式・小型で、後代の銅鐸と比べ装飾性が乏しいものが大半であり、大型で高装飾の近畿式銅鐸の確かな出土例は、これまでに存在しません。
このことから、奈良県での銅鐸祭祀は「銅鐸について①」にて述べた九州北部と同様、大型化・高装飾化する以前に、銅鐸を用いた祭祀は廃れていったものと考えられます。そして、これと類似する銅鐸の出土傾向を持つ地域が島根、香川県であると云えます。
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祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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