中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」ー西欧ヒューマニズムの限界ー
pp.136‐138より抜粋
ISBN-10 : 4121800036
ISBN-13 : 978-412180003
外貌を気にするのはどの人種でも同じである。しかし私たちの気にしかたにはどこか異常なところがある。「外見だけにとらわれるな」という意見が説教的によく話されるが、私の知りえたかぎり、ヨーロッパではこのような教えは日本ほど強く切実ではない。顔は悪いが身体がいいとか、背は低いが金髪であるとかいった言い方はされるが、要するに外貌だけを問題にして論じている。美人は、それが悪人であろうが何であろうが美人であって、それ自体一つの絶対的な価値だということは、近代のヨーロッパの基本的な観念なのである。美の独立性の主張はこのような感情を基調としているのだ。
しかし日本ではそのような考え方を排撃することに非常に熱心である。しかもその反面、どこよりも審美的な国民である。たとえば「きたない」ということばが、あるいは卑怯、あるいは悪辣という意味を端的に表現するぐらい、すべての価値を美醜に還元する傾向がある。外来文化の摂取でも、文化自体よりも、その美に憧れたというようなところがある。たとえば仏教の教義よりもその仏像の美しさにひかれて信奉し、戦国時代のキリスト教の急速な伝播もマリア像のエキゾチックな美しさにひかれてのためだという説を私は読んだことがある。もちろんそれだけではなかろうが、反対に社会条件や教義だけで説明し切るのも無理なようである。
日本人のこのような態度は、自覚しているといないとにかかわらず、自分たちの容姿の醜さに劣等感を持ち、しかも過度にそれに敏感になっていることと関係していると思う。容姿を気にするなという説教が多すぎることは、気にしすぎていることの証明ではないだろうか。日本文化の粋というものが、古代や織豊政権器を例外として、いずれも正面きってのものでなく、それこそ奥の細道的なところに自分の存在理由を発見しているのは、そういうことと関係しているのではないだろうか。
国土が辺境にあるからこういう精神が成長したのだと説明できないこともない。しかしギリシャはどうだろう。古代ペルシャにくらべれば正に辺境である。しかしその文化の正統性、豊かさ、巨大さは日本と比較にならない。そこには暗さ、卑屈さ、ひがみ、いじけといったものがまったくない。その理由をギリシャが独裁制でなく民主制であったからだなどと説くのはヨーロッパ人の俗説である。最近私はあるギリシャ史家から、その理由はギリシャ人が容姿、とくに肉体の立派さ美しさに絶対の自信をもっていたからで、そういう自信を示す文献があると教えられた。たしかにそうでもあろう。こうなると日本人特有の見栄も何かそれと関係するように思われる。
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