pp.150‐153より抜粋
ISBN-10 : 4003812824
ISBN-13 : 978-4003812822
この奈良盆地の諸集落のすべてが、かつての盆地内の二、三の前期初頭集落からの分岐集団であったか、あるいはその一部は周辺地域からの移住によるものであったかは、必ずしも明らかでないが、中・後期の土器は共通の大和としての地域色をそなえているといわれるので、集団移住が中南河内など盆地外からもおこなわれたとしても、親縁な部族的結合にあった氏族からのそれであろう。すなわち盆地内諸集団のほとんどは、かつての少数の集団が示す氏族から分岐したものか、あるいは部族的結合にあった中南河内の諸集団などの分岐・移住がそれに加わったかのいずれかであろう。その分岐の過程で部族もまた分岐し、それぞれのうちにいくつかの氏族を包括していったと考えられる。これをさらに広く畿内全般について推していくと、摂津・北河内・山城を含む北部畿内と、中南河内・和泉・大和から成る南部畿内との関係、その共通性と相違性は、この地方における弥生社会誕生の時点において存在あるいは形成されていた、南北二者の部族あるいは部族群が、その後の農業生産の発達➡人口増大➡集団分岐をへて形成されていったものであり、全体として畿内的共通性をもつとともに、北と南の違い、さらに各々における小地域の特色を現象させたということになる。
銅鐸に示される共同体祭祀の範囲については、その機能とともになお不明な点が多いが、その実際の保有主体は部族内の特定氏族にあったとしても、その祭祀はこのようにして形成された部族を単位としておこなわれたものと思われる。田中琢は、銅鐸祭祀集団の範囲を大和・河内・和泉において指摘し、その集団範囲の不均等性を農業生産力の差に基づく集団差に帰している。この指摘を参考にして紀伊中部の銅鐸出土を検討してみると、山または海に画され、小河川が貫流する狭小な平野を単位に、二ないし四の銅鐸出土が知られている。これらの狭小な地域は、のちに前方後円墳が築造されなかったほどの地域であることが多いが、それらの地域における銅鐸出土地点の分散傾向は、各地域が一個の氏族というより、いくつかの氏族から成っていたことを想定させる。同じことは、徳島県における銅鐸分布状況からも想像できる。しかしすべての氏族がこれを保有していたわけでないらしいことは、畿内の銅鐸発見状況から推定できるのであって、部族内の特定氏族による保有ないし保管の下にあったと考えてよいであろう。
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