新思索社刊 ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 由良君美・富山太佳夫訳 「影の獄にて」pp.19-23より抜粋
ISBN-10 : 4783511934
ISBN-13 : 978-4783511939
むろん、ハラも拷問に加わることがあったが、それは彼の同国人の一団や群れの行うことにはすべて従うという、ほとんど神秘的な、深い必然の感覚が、否応なしに彼を、目の前の出来事と一体のものにさせるときにかぎられていた。まるで彼らは、個人のことは、何一つ経験することができない人間のようだった。まるで、ある人間の考えや行いが、たちまちにして他人に伝染し、黒死病や黄死病のように、残虐行為という悲運の疫病が、あっという間に彼等個人の抵抗心を抹殺してしまうかのようだった。
つまるところ、ハラは、彼等のなかでも最も日本人だったのだ。だから彼は拷問に加わらざるを得なかったが、しかし、彼は一度たりとも拷問の音頭をとったことはなかった。ハラという男は、長時間延々と人を拷問にかけるより、ひと思いに殺すことを好む人間だということが、ロレンスには何となくわかっていた。こういうことをすっかり念頭にしながら、彼はハラをもっと仔細にながめてみた。すると彼の目が常になく輝いており、頬も紅潮しているのに気づいた。
「奴さん飲んできたな」と彼は思った。というのは、ハラの頬には、隠そうにも色にでた赤らみがあった。飲むと日本人はすぐ赤くなる。「これで彼の目の輝きのことも説明がつく。これは用心したほうがいいぞ。」
しかし、頬の赤らみにかんしては彼の考えは正しかったが、目の輝きのほうにかんしては、違っていたことがわかった。というのは、突然、ハラがこう言ったからなのだ。出かかった笑いが押し殺されていたためであろう。唇をちょっとひきつらせて、「ろーれんすさん、ふぁーぜる・くりーすます。知っとるかな?」(さん)づけをして言われようとは予期していなかった。それだけに、ロレンスはほとんど全身の力が抜けてしまいそうになり、ハラの言ったふしぎな(ふぁーぜる・くりーすます)という言葉のことが本気に考えてみることができなかった。とうとうハラの短気な眉に、あまり返事がおそいための、無理解の雲がかかるのを彼はみた。この雲は、たいてい、激怒の前触れになる、そのとき、やっと彼には納得がいったのだ。「知ってますとも、ハラさん」と彼はゆっくり答えた。
「ファーザー・クリスマス(サンタクロースのこと)ですね、知ってますよ。」
「エヘーヘッ!」とハラは、かなり満足げに、歯の間からきしるような叫び声をあげた。一瞬、彼のながい唇の間で、金縁の歯がキラリと輝いた。それから椅子にふんぞり返ると、彼はこう申し渡すのだった。
「今夜、わたし、ふぁーぜる・くりーすます!」三・四回、ハラはこの驚くべき言葉を述べたのである。しかも大声で笑いながらなのだ。
ほんとうは何のかことかわからないままに、ロレンスも声を合わせた。あまりにも長い間、営倉でたった一人ぼっちで、死刑を宣告されたまま横たわっていたために、いつも夜の今頃になれば、恒例の拷問の時間だと思うのが精一杯で、ほかにはほとんど何も考えなかった。今日は何月何日かという観念をなくしてしまっていた。実際きょうがクリスマスだったとは、考えていなかったことだった。
おのれの言葉と、それを聞いた、ロレンスのあからさまな当惑の表情とですっかり悦に入ってしまったハラは、特権を一方的に楽しめるこの一瞬を、できればもっと引き延ばしたかったところだろう。あいにく、ちょうどそのとき、ひとりの衛兵が戸口に現れ、背の高い髯面のイギリス人を部屋の中に連行してきた。そのイギリス人は、英国空軍航空隊長の色あせた制服を着ていた。とっさに、ハラは笑いをぴたりと止め、戸口に立ったヒックス=エリスのひょろ長い姿に目を走らせるその表情には、ほとんど憎悪に似た、よそよそしさが宿った。このロレンスの話を聞いていると、わたしには、そのときのハラの姿が、ありありと目に見えるような気がした。
この空軍将校が入ってきた刹那、急に固くなったハラの姿がまのあたりに見えるように思ったのだ。われわれ捕虜のなかでも、ハラは、この背の高い呂律のまわらぬヒックス=エリスを、いちばん、にくんでいるように思えたものだ。「この空軍大佐はな」とハラはいかにも軽蔑しきったように、大佐に向かって手を振りながら、日本語でロレンスに言った。「この収容所の所長だ。さ、おまえはこの男と一緒にもう大部屋に帰ってよろしい。」わが耳を疑う思いで、ロレンスは一瞬ためらった。ロレンスの顔にわれ知らず浮かんだ信じかねるような表情を見て、自分のふるまいの寛大さを確認したのか、ハラはふんぞりかえると、ことさらに笑うのだった。ハラが大笑いしているのをもう一度たしかめてから、はじめて冗談ではなかったことがわかったロレンスは、歩いて大佐のところへ行った。一言もかわさずに二人がいっしょに扉のところまで行ったとき、突然、ハラは恐ろしく鋭い、観兵式の号令のような声で呼んだ。
「ろーれんす!」
絶望に目をつむる思いで、ロレンスはふりむいた。こうくるだろうと予期していてもよかった筈だ。拷問をうけるはずのことが、こんなにいきなり釈放されるなんて、あまり話がうますぎて、ほんとうにできない気が、どこかしていたからなのだ。これもまた、あるいは拷問の一部なのかもしれない。秘密警察の心理学者かなにかが、単純なハラに入れ知恵して、やらせたことかもしれない。しかし、ふりむいてハラの顔を見たとき、彼はホッと安堵の胸をなでおろした。ハラはあいかわらず、いつくしみぶかげに、ニコニコ顔をしたままだったから。謎のようなその顔の、短気そうなひねった唇と金縁をはめた黄色い歯とのあいだに、不可解なよじれたような微笑を浮かべたままだった。ロレンスの視線をとらえると、ハラは、ものすごく力んで、鋭くつんざくような声で呼びかけた。「ろーれんす、めりい・くりーすますぅ!」
(めりい・くりーすます)と(ふぁーぜる・くりーすます)という二つの言葉。これがロレンスにとって、ハラが口にするのを聞いたただ二つの英語だった。たぶんこれ以外には知らなかったのだろう。この言葉を言おうとして、ハラの顔面は、もう一度、ピンクの度を増した。それから、猫のように喉の奥をゴロゴロ鳴らし、司令官の椅子の上で、くつろいだ態度に返った。