2020年9月13日日曜日

20200913【架空の話】・其の39

英国に長く留学していた指導教員が、そのカレーそばのレシピに驚くのは、おそらく、私よりも深い何かしらの感慨や、その基層にある経験があるのだろうと思われたが、とりあえずは楽しみに待つことにした。また、その時に不図、以前に読んだ吉村昭の「東京の下町」というエッセイが思い出されたが、そこにもたしかカレーそばの記述があった。

やがて、わずかではあるが、調理場の方からカレーの香りが感じられるようになると、指導教員はおもむろに「私も向うではカレーをよく食べましたが、あれはあれでとても美味しいものでした。」と話しをはじめた。それに対して私は「それは日本のカレーと比べてどのようなものでしたか?」と訊ねてみると「うん、日本みたいにお米にかけて食べることもありますけれど、そうではない、もっと本場のインドに近いものが多かったと思いますよ。あちらには歴史的な経緯から類推出来るようにインドから移り住んだ方々が結構いらっしゃいますからね・・。」とのことであった。ちなみに指導教員によると本場インドのカレーは我が国と同様、家庭料理ではあるものの、その用いるスパイスの種類・量が家々で独自とも云えるようなレシピが存在し、その点において英国のカレーの多くは、このスパイスについて、工業製品のように規格化したものと云えるとのことであった・・。また、この英国のカレーからの派生型と云える我が国のカレーは、スパイスについては、さらに規格化されたものと云え、また、そのおかげで広く社会に普及することが出来た。とのことであったが、この普及の過程において、在来の相性の良い料理と結合させるセンスについては、手放しで褒めるつもりはないが、何かしら優れたものがあるのではないかとのことであった。

ともあれ、そのような会話をしていると、さきほど来のカレーの香りが強く感じられ、そして期せずして、食欲も先ほどより亢進してきたように思われた。そうした状況にてお膳に乗せられたカレーそばが二つ調理場からこちらに運ばれてきた。器は多少ボッテリとした作りの黒色の丼ぶりであり、そこに盛り付けられたカレーそばの色は、これまで私が知るカレーに比べ若干色が薄く、ウコンのそれに近いように感じられた。そして、傍らの小皿には薄く輪切りにした長ネギが「ご自由にどうぞ」と云った感じで置かれていた。

指導教員は「さあ、来た来た・・食べようか。」と早速、割り箸に手を掛けて「いただきます。」と小さい声で独り言のように唱えてから食べ始めた。英国での生活の影響からか、研究室で紅茶やコーヒーを飲む時でも、指導教員は背筋を伸ばし、何やら自分の首を一番長く見せるような姿勢で飲んでいるようにも感じられたが、この蕎麦屋さんでは、そうしたスタイルなどすっかり忘れてしまったかのように、心持ち控えめではあるものの、音を立てて、まさしく日本人らしくそばを食べておられた。

また、その姿に私も安心し、いつも通りに目の前をカレーそばを食べたわけであるが、たしかに、ここのカレーそばは、これまで食べたそれとは微妙にカレー自体の香りが異なるように感じられ、またそれは紅茶などのように薫り高いと思われた。してみると、英国人の食物に対する嗜好の一つとして、こうした「鼻に抜ける薫りの良さ」があるのではないかと不図思われたが、しかし他方で、それが我が国独特の香りといえる出汁と、挽きぐるみに近い強いそばの香りとが混淆すると、これまた何とも上品にして土俗的とも云える味になるものだと、多少の驚きを禁じえなかった。

指導教員の方は、こちらに構うことなくカレーそばを味わっているようであり、私もそれに倣い、食べ終わるまでそのようにしたが、年齢によるものか、わずかに私の方が先に食べ終えた。そして、いつの間にか置かれていたグラスの冷水を飲んで、周囲を眺めていると、食べ終えたようであり、先方もグラスの水を一口飲み、ポケットから紺地のハンカチを取り出して額を拭った後「どうですか。なかなかの味だと思いませんか?」と訊ねて来た。「ええ、たしかに、これは今までのカレーそばとは少し違いますね。味はとても美味しいと思いました。たとえてみますと、カレーから感じる舶来っぽさと出汁による純和風の味わいが止揚されたもの、あるいは味のイースト・ミーツ・ウエストといったところでしょうか?」と思い付くままに答えると「ははは、そりゃ面白い。でも、分からなくもないですね。」と笑いながら返事をされてから、またグラスの水を一口飲まれた。

そしてまた、この時に不図思ったことは「こうした味覚を通じた嬉しい驚きを与えてくれるようなお店は、この先私が赴くK県にはあるのだろうか?」ということであり、そのように考えてみると、何やら少し空恐ろしく思えて来た・・。

ともあれ、その後しばらくして店を出たが、お会計の際に指導教員が「まあ、こんなことあまりありませんから。」と、ご馳走してくれた。そして「代わりに駅前の喫茶店のコーヒーは私がご馳走になりましょう。これが所謂「配分的正義」というものです。」と宣われた。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

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