2017年11月28日火曜日

犠牲獣を伴う雨乞い祭祀について

水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う」という雨乞い祭祀とは現代の我々から見て、その血生臭さ故に嫌悪感を覚え、自身の祖先達がその様な祭祀を行ったことを認めたくない気持ちが働くのではないかと考える。

しかし、現代の我々から見て過去に為された忌まわしいと感じるものの内部にこそ、我々が意識、無意識を問わず継承され続けている観念の重要な構成要素が存在するものと考える。

また、上記のような犠牲獣を伴う祭祀とは、田畑から収穫される作物を供物とする場合と同様、世界的に見て一般的であり、特に驚くに値しない。ただ、それが現代の我が国日常において見受けることがないという理由に因り嫌悪感を覚えるのではないだろうか?

そして逆説的ではあるが、それ故にこそ、犠牲獣を伴う雨乞い祭祀の背景観念、それが為された理由とは、その地域性を映すものとして検討・考察に値すると考える。
我が国における犠牲獣を伴う祭祀全般は、概ねその血生臭さ故に発達した血穢、道徳観念と折り合いが悪くなり、あるいは家畜の有用性に基づく観念が、神、神々に対する畏怖の観念を凌駕する様になった結果、形骸化もしくは廃された。
そしてそれに伴い原初よりその祭祀が保持していた可逆性・相補性の遂行と云う劇的な性格をも喪失したと云える。ここで、犠牲獣を伴う祭祀が本来保持していた可逆性・相補性の遂行の内容を以下の引用を以って説明する。

浄と不浄とは、可逆性・相補性を本質とする。もっとも穢れた不浄なものがときにもっとも強い神秘力(浄)を有する、と信じられている。月経または分娩のさいの血や、人肝・人肝が、不治の「業病」とされたハンセン病や疱瘡などに効くという信仰などは、日本をはじめ世界の諸民族にみいだせる。ことに、身体の内/外にまたがる分泌物としての血は汚染するものであると同時に清潔にするものであり、穢すものであると同時に浄めるものである、という両義性のよくしられたメタファーである(赤坂(2004)・p.92)。

以上引用部に示される観念とは、おそらく我が国において古来より存在し、縄文、弥生時代の人骨から多く見出される抜歯などの通過儀礼的風習なども、この観念が発露、顕現されたものであると考えられている。
苦痛、被害など人間に対し負の効果をもたらすものを不浄の要素であると考えると、逆に快楽、利益などは正の効果をもたらす浄の要素であると考えることができる。そしてこれらは分離、独立したものではなく、可逆・相補性を持つ、あるいは繋がったものであると古来より認識されていた。

そして以上の様な可逆・相補性に基づく観念に拠って犠牲獣を伴う祭祀は為されていたと考えられる。我が国におけるこの種の祭祀とは、遺跡等から縄文時代より行われていたと考えられているが、これらは主に猪、鹿等の野生動物であり、家畜でないと云う点において前述雨乞い祭祀の背景観念と異なると考えられる。

野生動物、家畜を犠牲獣として供する祭祀をそれぞれ検討した場合、野生動物とは、本来神に近い領域である自然からの恩恵として感謝を捧げ、また、その恩恵の継続を祈願する意味合いが強く、それ故、狩猟採集社会的色彩が強いと考えられる。また、一般的に野生動物を狩猟にて獲得する為には、その対象が何であれ闘争的要素を介さなければならない。
闘争を介することにより、その獲得の成功とは不可知の要素に大きく依存する。加えて、その獲得に払った犠牲等が多い程、多くの価値をそこに見出すことを可能にする。その結果、不可知の要素に感謝する意味で、神に対する感謝の念を惹起させる傾向が強くなる。

それに対し、水稲耕作を含む定住的な農耕社会における家畜としての性質が強い動物である牛を犠牲獣とする場合、神に対して感謝の念を示すと共に、その出自が神に近い自然でなく、人間に近い領域であることから、より神に対して祈願する為の人間側からの供物という意味合いが強くなり、その上で前述の可逆性・相補性の遂行と云う要素は継続、保持し続けた。

以上のことから、牛などの家畜を犠牲獣として供する祭祀とは、古来よりの可逆性・相補性の遂行という要素は継続、保持しながらも、同時に神に対する感謝よりも祈願の方により重点を置いたものであったと考えられる。

また、犠牲獣を伴う祈願とは、それが家畜である場合、単に犠牲獣を物質的に無化することではなく、そこに認識される有用性のみを破壊することであり、同時にそれは、祭祀に係る全ての人間が犠牲獣に感情移入することにより、自らを束縛する現状での有用性の絆をも一時的にではあるが断ち切り、新たな生まれ変わりを意味するものであった。

それ故、この祈願が日照り、旱魃といった現状の打破を強く望む状況において為されることはきわめて自然であり、また、これと類似した一連の作用機序(メカニズム)とは、現代社会においても多く見受けることが可能であると考える。



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