2017年4月2日日曜日

20170401 理想が社会、歴史に対し与える影響と世界的な動きについて・・

本日もまた特に確たる主題が決まらないままブログ記事作成を開始しました・・。
そこで、今週作成した記事について書いてみようと思います。
今週作成した記事の中で最も閲覧された記事は「スーパーに並んでいて不図思ったことから・・」であり、それはダントツといって良いと云えます。

そのため、この記事をあらためて読んでみたところ、その内容は、あくまでも自身が思ったところを述べたまでであり、特に新奇なことが書かれているわけでもありません・・。

とはいえ、そこに少し付け加えるならば一般的に我々は、各々の住んでいる場所、地域周辺に対して『のみ』何と言いますか『血の通った興味、関心』を持つことができると云えます・・。

しかし、それは特に悪いことでもなく、ただ我々の日常的な生活とは、概ね、そのような基盤の上に成り立っているものであると云えます。

もっとも、こうしたことにも地域性、国民性といったものはあり、それにより『血の通った興味、関心』を持ち得る範囲もまた幾分変化するのではないかと思われます。

そしてまた、世界で生じている、さまざまな出来事の報道などを見聞きしますと、その地域、国の人々が持ち得る『血の通った興味、関心を持ち得る範囲』といったものの一面が理解することが出来るのではないかとも思われます・・。

また、そうした考えとはベルクソンが述べた『閉じた、開いた社会』とも多少関係があるのではないかとも思われます・・。

とはいえ、このベルクソンの考えによる『開いた社会』は、あくまでも理想であり、現実にそのような社会とは、これまでに存在しないと云えます。

しかし、ここで重要なことは、そうした理想を広く社会にて『持つか、持たないか』であると考えます。

さらに、こうしたことは特に我が国をも含む世界の近現代史を考える上で示唆するものが大きいのではないでしょうか?

現在、世界各国にて排外的、求心、凝集的な動きが活性化していますが、こうした動きは20世紀以降の歴史を見ても周期的に生じていることであり、そして、そうした動きに乗る、便乗することは、一見安全策と見えて実は大変危険なことではないかとも思われるのです・・。

また、そうした動きに乗らずに(創造的に)乗り切りためには、先ほどのベルクソンが述べたような理想を『考え』として持つことが大事ではないかと思われるのです。

我が国が経験したさきの大戦においては大東亜共栄圏という理想がありましたが、それは実践の段階において、まさしく現実とのさまざまなギャップに苦しみ、またそこから野狐禅的に各々組織の自己利益が正当化され、後に敗戦によって、それは全て悪いものとされました・・。

とはいえ、その野狐禅的性質とは、現実において自身も含め、我が国の経済活動の実質的な指導原理となっているのではないかと思われることがあります・・(苦笑)。
(案外この歴史も古いのかもしれない・・。)

ともかく、こうしたことを考えてみますと、問題は『理想』の社会での浸透以前の、社会における内発的、能動的に考える姿勢の欠如、未発達であるように思われます・・。

これはおそらく教育が大きく関与していると思われるのですが、この点について、当然ではありますが、我が国とは、他の欧米を中心とした先進国と比べ、その基盤、背景となる歴史、文化が大きく異なると云えます。

しかし一方、具体的にそれは歴史、社会学者の多くが述べるような『圧制による負の遺産』ばかりでもないようにも思われるのです・・。

何れにせよ、こうしたことはもう少し考え続けなければならないのでしょう・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。







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