2016年4月18日月曜日

20160418 「考える」とは・・

先日、熊本を中心として発生した地震は、現在に至るまで予断を許さない状況とのことであり、また被災された方々が出来るだけ早期に居宅に戻ることが出来、また同時に各インフラが復旧されることを祈念いたします。

そして本日夜半においても大きな地震が震源地をより内陸部に移し発生したとのことですが、特に付近におられる方々は大変不安、心配ではないかとお察しします。
どうぞご無事で。

本日も朝電車の中で色々とブログ記事について考えておりましたが、それらを筆記出来る状況ではないため、その内容を憶えていて、後で書こうと思いました。
しかし、その時々にて浮かんだ考えというものは、泡のようなものであり、その時に記しておかないと、どうやらあまり良くないようです・・(苦笑)。

そして、現在は、このようにして、朝電車の中にて考えていたことが突然想起することを願いつつ、この記事を記している次第ですが、残念ながら、なかなか思い出すことができません・・。

こうしたことは大変残念ですので、明日は何か工夫してみようと思います。

とはいえ、この「考える」という日本語の語源とは、一説によると「かむかえる・か迎える」といった感じで「何かしらの想念、観念などを自身の内部に迎え入れる」といったニュアンスがあるそうです。

とはいえ、そうした想念、観念を迎え入れるにしても、それを他者が理解可能な程度に言語化するためには、適切な言語あるいは表出、説明する際において有効と思われる類似した一般概念などの選択、および、そうした知識、見識が必要とされます。

それ故、コトバの奥にある想念、観念そして心、精神が本質的なものとして重要ではありながら、それを適切に表出するための手法、技術などもまた重要なのではないかと思います。

また、こうしたことは、他の様々なことにおいても応用できることではないかと考えます。

しかしながら、そうしますと、我々の多くは、徐々に、この手法、技術といったものに、より大きく心を捉われるようになり、当初考えた、望んだものとは異なる、何だかおかしな方向に行ってしまうこともまた少なからずあるのではないかと思います・・。

そして、そうした実際の生活において一見、所与、ア・プリオリとなって(しまって)いるようなことについて再度熟考させるために、昔ながらの文系学問分野全般といったものは存在意義を有しているのではないかと思いますが、如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。




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