2015年10月25日日曜日

小泉八雲著 平川祐弘編「日本の心」講談社刊pp.94-99より抜粋(熊本について)

昨日の福岡発電報によれば、福岡で逮捕された凶悪犯人は裁判にかけられるため、本日正午着の列車で熊本へ護送されるという。すでに熊本から刑事が犯人の身柄引取りのため福岡へ派遣された。
もう四年前になるが、強盗がある夜、熊本相撲町のとある家へ押入り、家人を縛りあげ、数多の金目の品を奪って逃げたが、警察の巧妙な追跡にあい。賊は二十四時間以内に、盗品をばらすひまもない内に、逮捕された。しかし捕って警察へひかれてゆく途中、犯人はやにわに捕縄をふりちぎり、巡査のサーベルを奪って巡査を殺し、逃亡した。そしてそれきり行方は先週まで杳として不明のままになっていた。
ところが先週、たまたま福岡監獄を訪れた熊本の一刑事が労役に従事中の囚人の中に、自分の脳裏に過去四年間、写真のように焼きつけられていた顔を見つけた。「あの男は誰だ?」と刑事は看守に尋ねた。「窃盗を働いた男で、ここの帳簿では草部となっています」刑事はつかつかと囚人の方へ歩み寄った。「おまえの名前は草部ではない。野村貞一、おまえは人殺しの件で御用だ。熊本へ来てもらおう」凶悪犯人はすべて自供した。
私は大勢の人と一緒に停車場まで犯人の到着を見に行った。群集が激昂しているのではないか、と思って出かけたのである。もしかするとリンチまがいの暴力沙汰も起こるのではないか、と内心おそれてもいた。殺された巡査は日ごろ皆からたいへん好かれていたし、それに身内の者だって必ずや見物人の中に混じっているだろう。それに熊本人は、人だかりした時はあまりおだやかな方ではない。また巡査が大勢出て警戒に当っているだろうとも思った。しかし私の予想ははずれた。
汽車はいつもと同じような、せわしげな、騒々しい光景のうちに到着した。乗客たちが小刻みに速足で歩く下駄の音がからころ響き、日本語の新聞や熊本のラムネを売る子供の売子の甲高い叫びが聞こえた。
駅の柵の外で私たち見物人はものの五分近くも待たされた。すると背後から刑事に押されて、改札口を通って、犯人が出てきた―図体の大きい、凶悪な人相をした男で、頭を垂れ、両手は後手に縛られていた。
犯人と刑事とは改札口を出たところで二人とも立ちどまった。すると人々はよく見てやろうと前へ詰め寄せてきた―黙ったままであったが、詰め寄せてきた。すると刑事が大声で呼んだ、「杉原さん、杉原おきび。ここにいませんか?」私のそばに立っていた、背中に子供をおんぶした、ほっそりした、小柄な女が「はい」と答えると、人込みの間を分けて前へ進み出た。
この女が殺された巡査のお上さんだった。背負っているのは殺された巡査の息子だった。刑事が手を振って合図したので、群集は後ずさりして、犯人と護衛のまわりに場所をあけた。その空いた場所で、子供をおぶった女は立ったまま殺人犯と面と向いあった。あたりはしんと水を打ったように静まった。するとお上さんに向ってではなく、その子に向って、刑事がゆっくり話しはじめた。声は低かったけれども、一語一語はっきり言って聞かせたので、私もその一語一語を聞きとることができた。
「坊や、こいつが四年前におまえのお父さんを殺した男だ。坊やはその時まだ生まれていなかった。坊やはお母さんのお腹の中にいた。いま坊やに坊やを大事に可愛がってくれるお父さんがいないのは、この男の仕業なのだよ。
この男をよく見て御覧」といって刑事は犯人の顎に手をかけると、ぐいと力を入れて、うなだれていた男の顔をしゃくりあげ、眼を正面へ向けさせた。「よく見て御覧、坊や。恐がるんじゃない。辛いかもしれないが、これは坊やの勤めだ。じっと見て御覧」母親の肩越しに子供はじっと見つめた。
まるで恐怖心にかられたように、大きく目を見ひらいたままじっと見つめた。それから泣きはじめた。やがて涙が溢れた。しかしそれでもじっと、いわれたとおり子供は見つめた。じっと相手の、すくんだ顔を真正面から見つめ続けた。人々はまるで息を殺したかのようだった。その時、私は、犯人の表情が歪むのを見た。犯人は、手錠をはめられていたにもかかわらず、いきなり地べたに身を投げるようにひれ伏すと、顔を地べたにこすりつけ、喉をつまらせたような声で呻くように叫ぶ様を見た。それは聞く人の心を揺さぶらずにはおかぬ悔恨の情に駆られた叫びだった。
「御免なあ、御免なあ、坊や、許してくれ。俺がやっちまったのは―憎くてしたことじゃない、ただもうおっかなくて、おっかなくて、逃げたい一心でやっちまった。悪かった、本当に俺は悪かった。何ともいえぬほどの悪い事を坊やにしちまった。だがいまはその罪滅ぼしに俺は死にます、俺は死にたい、俺は喜んで死にます。だからな、坊や、どうぞ堪忍しておくれ、俺を許しておくれ」
子供はまだ黙ったまま泣いていた。刑事は地べたでわなないている罪人をひき起こした。静まりかえった群衆は二人を通すために道をあけた。すると、その時突然、その場に集まっていた人々の間からいっせいに啜り泣きが洩れはじめた。そして私は、日に焼けて赤銅色の刑事が私の前を通った時、私がかつて見たことのないもの、世間の人がおよそ見かけることのないもの、そしておそらく私が生涯に二度と見かけることのないであろうものを見た―日本の巡査が目に涙を浮かべているのを見たのである。
潮が引くように人々は去ったが、私はその場に居残って、今日のこの光景の驚きにみちた教訓について深く思いめぐらさずにはいられなかった。そこには豪も容赦仮借はしないけれども、しかも慈悲と慈愛に満ちた正義の裁きがあった―いたいけな遺児を示すことによって、はっきりと悟らせたのである。またそこには絶望にひとしい悔恨があった。それは自分が死ぬ前にただただ罪の赦しのみを乞う悔恨の念であった。そしてまたそこには熊本の庶民がいた―いったん怒りを発すればおそらくこの日本帝国中でいちばん怖ろしいにちがいないこの土地の人たち―その人たちはすべてを了解し、罪人が悔悟し自らを恥じたことを良しとして、激昂や憤怒によってではなく、その罪の大いなる悲しみによって、自分たちもまた心が一杯になったのである―儘ならぬこの人生の難しさ、人間の弱さ、そうしたことについてこの町の人々は、単純素朴な、だが深い体験を通して、しみじみと身にしみて会得するところがあったのである。
しかしこのエピソードでいちばん意味深い事、というのはそうした事はきわめて東洋的だからだが、それは「前非を悔いよ」という訴えが、もっぱら犯人の父性を通してなされた点にあるのだろう。そしてその父性―人の子の父親としての気持は、日本人誰しもの魂の一隅にしっかりと深く根差している、子供たちを可愛がる優しい気持に通じているのである。
日本の心
日本の心
ISBN-10: 4061589385
ISBN-13: 978-4061589384
小泉八雲



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