2022年7月30日土曜日

20220730 株式会社筑摩書房刊行 山田風太郎著 「戦中派虫けら日記」 pp.212‐214より抜粋

pp.212‐214より抜粋
ISBN-10 : 4480034099
ISBN-13 : 978-4480034090

二十日
○山本連合艦隊司令長官戦死。

このニュースをはじめて定時近い会社のざわめきの中にいたとき、みな耳を疑った。デマの傑作だと笑った者があった。

が、それがほんとうだとわかったとき、みな茫然と立ち上がった。眼に涙をにじませている者もあった。

何ということだ。いったい何ということだ。
ああ、山本連合艦隊司令長官戦死!

二十二日
○先日、大橋図書館にいって芥川龍之介の「大導寺信輔の半生」を読んでいる中に、「本」という一章で、龍之介が幼い日この大橋図書館へ度々通ったことを知って、ふしぎな思いに打たれずにはいられなかった。

信輔、つまり龍之介の、本に対する熱愛、友人に関する一種病的ともいうべき思想、これらをはじめとして、是非は別として、信輔はびっくりするほど、自分と酷似している。もっともいわゆる「文学青年」なるものは、たいていこんなものかも知れない。

それはともかくこの図書館の古びた階段や壁や窓から見て、そう昔ではない龍之介の若い日と今とは、おそらく寸分の違いもないであろう。-この部屋に、この雰囲気に、あの風景を見つつ、あの遠い町のざわめきをききつつ龍之介が熱っぽい若々しい瞳でここの書物をむさぼっていたのだなーあるいは、たび重ねるうちには、彼は今自分の坐っているこの机に向っていたのかもしれない。自分は神秘と憧憬の入り混じった眼を茫然と空中へあげた。

靖国神社は大祭の名残りをひいて、今日も遠い潮鳴りのようなどよめきをあげている。

ああ、時代は変わった。龍之介の生きていた大正末期の頽廃的な日は遠い夢と去って、いま日本は、大アジア帝国建設のために雄渾な戦闘をつづけつつある。自分は龍之介よりも幸福な時代に生きているといわなければならないー但し、「将軍」を書いた彼だから、これはのれんに腕押しみたいなものだがーしかし龍之介だってもし今の時代に生まれたら「辻詳説」くらい書いたかもしれない。

潮は個人を圧倒する。大正時代に戦争を嘲笑した天才も、この苛烈な戦争の中では、その趣味を表面的に現わすことは彼の埋葬を意味するであろう。

三十日
○アッツ島守備隊全滅す。吹雪氷濤の中にアッツ島二千の神兵ことごとく戦死す。自分も戦争にゆきたくなった。ガダルカナル撤退。山本提督戦死。アッツ島全滅。悲報相ついで至る。海軍はいったいなにをしているのか。局部の勝敗に血迷うなかれとは何人がいい得るか。氷獄のごときアッツ島に冬を越した将兵をみすみず見殺しにして、どこに日本軍の真髄があるか。去年の東太平洋作戦の意義は全然霧消したではないか。

神州不敗の信念は国民の熱涙の中にかがやいている。が、キスカ島の安否が気づかわれるのは、いかんともしがたい。

北洋の吹雪に軍旗ちぎれる
潮しずけし夜業の群や天の川


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