株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」
pp.215-217より抜粋
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611
ここで私が思い出すのは、戦時下の東京で「蛇屋の娘がかどわかされた」という噂がひろがったことである。物資が欠乏し人心の荒廃した戦争末期の首都で、このように説教本に出てくるような陰惨なデマが横行したことは、作為したものであれ、自然発生的であれ、深い意味をもつと考えられる。
それは期せずして、ささくれ立った人間の心をいっそう逆なでするようなパニック状態を、日本人の意識の深層につくり出したものにほかならなかった。疑心暗鬼の生み出す恐怖やスパイ呼ばわりされる不安、おそらくそれは憑きもの筋の恐怖とは無縁ではないのだ。
トウビョウ(蛇神)すじとか犬神すじと呼ばれるときの、傷あとに塩をすりこむような恐怖は貧しさが慢性化している山村や漁村の荒涼とした風景をぬきに考えられるものではない。そこでは貧しさが共同体をつくって豊かさをはじき出そうと、執念をかけるのである。犬神すじや蛇神すじは、山陰や土佐などの僻地に多くみられる現象で、物質の貧しさとふかくからみ合っている。
しかし、貧しさが豊かさを恐怖する例は現代の企業や組合や政党にもみられないことはない。そこでは貧しさー精神の貧しさが、豊かさをはじき出そうと全力をあげる。精神の貧しさのつくった共同体が組織の名で呼ばれる。無能力な者が能力のあるものを恐怖し、あらゆる卑小な陰謀をもちいて団結する。豊かさへの恐怖、それが現代の犬神すじを成立させる。
奈良時代から今日にいたるまで「良民」の「良」には何の意味もない。それは貧しさの代名詞でしかなく、一種の虚辞である。良民証とは貧しいものが、その貧しさを逆手にとって共同体を形成し、豊かなものを仲間に入れないための検閲証明書である。
「良」が消極的な意味しかもたないことは、私の独断ではない。日本人の伝統意識のなかでは「悪」は積極的な意味をもつのである。「悪」の伝統意識が日本の近代文学のなかでは衰弱していることを、「不幸な芸術」で指摘したのは柳田国男であった。
今日、異端や狂気が復権を求めているのは、そうしたこととつながりがあると私はおもう。
すなわち異端や狂気は一見、先端的思想にみえるけれども、その実は伝統的意識の回復をめざすものにほかならない。それは良民から排除される恐怖、差別者が被差別者を恐怖することへの恐怖を克服する思想運動である。現代の企業、組合、政党などの良民意識と組織へのしがみつきが産み出す「犬神すじ」の差別思想・・・それを打ち破るものとして、私たちは夢野久作の「犬神博士」一冊もっている。
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