2022年4月26日火曜日
20220425 文藝春秋刊 司馬遼太郎著「翔ぶが如く」第一巻pp.4-7より抜粋
pp.4-7より抜粋
ISBN-10 : 4167105942
ISBN-13 : 978-4167105945
私に吉野郷ゆきをすすめてくれた知人も、40がらみの大入道のくせに、高原への登り坂のどのあたりの道端に気をつけなさいよ、露草がきれいにならんで紫の小さな花をつけていますから、というようなことを言い添えた。この露草好きの知人は、同時に、「チェーイ」とひき裂くような掛け声で立ち木を打つ示現流の名人という評版があった。
吉野郷への登り道には楠が多く、皮革質の葉のおびたたしいつやめきが陽と風のなかで騒いでいいる。この土地ほど、この照葉樹の似合う風土はなさそうであった。
大崎ノ鼻に立ってみると、なるほど風が強い。私の知人は風のことだけを言ったが、かれがかんじんなことを言わなかったことに気づいた。元来かんじんなことはなるべく口中に含んで言わないというこの土地の古いしきたりを私の知人も身につけていた。
山風や潮風よりも、じつは眺望であった。この大崎ノ鼻に立つと、濃い群青の錦江湾に浮かぶ桜島の山容とその色彩が、どの名陶をも見すぼらしくさせてしまうほどの凄味をもって迫ってくる。
それだけではなかった。
太陽がちょうど桜島の右肩の上にあった。
そのために桜島をとりまく錦江湾のブルーは濃淡をもって縞模様をなしている。
太陽の真下にあたる右手の海は波がきらきらと跳ねあがって見えるばかりに鮮かであり、中央の海は逆光のために黒く、海底に怪魚の蟠るのを想像させるほどに古代的な不気味さをたたえていた。
しかしながら目を左へ転ずると、まったく異なる青の世界がはるかにひらけていた。
海は軽佻なほどにあかるく、
「泣こよっか、ひっ翔べ」
という上代以来の隼人どもの心を、この青が染めあげたかと思われるほどに陽気であった。
この大崎ノ鼻からながめると、桜島が中央の主座にすわり、その右手のほうはるかな天に、薩摩半島の先端に位置して薩摩富士といわれる開聞岳がうかんでいる。
左手には靉々としたかすみのむこうに霧島山がそびえ、しかもそれだけではなかった。高千穂の峰が、衣のすそをひく神人のようにかさなっているのである。
ところがこれらがみな活火山であるために、この風景は猶今後変化するかもしれず、できあがってまだ2000年も経っていないのである。
奈良朝あたりではこれらがしきりと大爆発し、ときに海中が沸いて新島を盛り上げるなど、そのおそろしさに人が住みかねていたらしく、平安初期になってようやく開墾がさかんになって中央の土地制度に組みこまれた。それ以前にはこの国の海岸に住むひとびとは、
「隼人」
といわれていた。歌舞伎の化粧がそうであるように目に赤いクマドリをし、ときに頬に赤い染料をぬり、その行動が敏捷であるためにハヤビトとよばれた「魏志」に出てくる倭人を思わせ、げんに薩摩人はすでに戦国のころから自分たちこそ日本人の原型であり、他は日本人に似た連中であるという優越感をもち、江戸期になると島津家はその家柄についての優越感からひそかに徳川将軍家を軽んじる気配さえあった。げんにかれらが徳川家を倒して明治維新を成立させたとき、仲間の長州人の場合のように過剰な対徳川家憎悪も持たないかわりに、倒れゆく徳川家に対し無用の感傷をもたず、どちらかといえば土俵でうつたおした好敵手に対する闘士としての奇妙な愛情を持ったという、ふしぎとしか言いようのない気配を歴史の上に投影した。
しかもかれらは自分のつくった明治国家をも気に入らず、明治十年までいっさい中央の指令をこばんで独立薩摩圏としてありつづけた。
「君たちはえたいが知れない」
この吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家をあとに訪ねたとき、正直なところそう思った。
2022年4月25日月曜日
20220424 書籍を探す方法の変化、および、季節による興味の変化について
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2022年4月23日土曜日
20220423 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.346-350より抜粋
ISBN-10 : 4833421674
ISBN-13 : 978-4833421676
彼はまた、ホワイトハウスを電話に出させるためにあらゆるチャンスを利用した。アメリカのジャーナリストと交流し、彼らを首相別邸のチェッカーズに招くようになった。
アメリカではラジオの聴取者が増える一方だったので、彼は臆面もなくアメリカの聴衆に向けて演説を行うようになった。有名な1940年6月4日には次のように直接的な訴えで演説を終えている。
ヨーロッパの大部分、伝統ある国の多くがゲシュタポなどナチス支配の嫌悪すべき組織の手に落ちました。あるいは落ちんとしています。しかし私たちは萎れてはなりません。負けてはなりません。最後まで戦い抜きます。私たちはフランスで闘います。海上で、洋上で戦います。高まる信念と強靭さをもって空中で戦います。海辺で戦います。上陸地で戦います。野で戦い、街路で戦います。丘で戦います。けっして屈服しません。そしてもしも、私は一瞬たちともそうなるとは信じませんが、イギリス全土、あるいは大部分が服従を強いられたり、飢えたりしたならば、イギリス艦隊によって武装され、護られた海のかなたのわれわれの帝国が闘争を続けるでしょう。神のお導きにより、新世界が全力で旧世界を救い、解放するために足を踏み出してくれるまで。
神に祈っている点に注目していただきたい。今でもそうだが、神は当時のアメリカ政治においてイギリスよりもかなり大きな役割を果たしていたのである。彼は7月のオラン演説のクライマックスと同じ方式を使った。自分の行動についての判断を「アメリカ合衆国に」委ねたのである。
ゆっくりとではあるが、チャーチルの試みは成果を出しつつあった。しかしそれは困難な道のりであり、対価も大きかった。第一に、駆逐艦と基地の取引があった。イギリスは50隻の退役駆逐艦と引き換えにトリニダード、バミューダ、そしてニューファウンドランドの基地をアメリカに引き渡したのだ。古いバスタブのような駆逐艦は浮かせるのも一苦労で、1940年末までに使用可能になったのはわずか9隻だった。
次にアメリカは何がしかの武器を売ることに同意した。しかし中立法に基づき、イギリスは即座の現金払いを要求された。1941年3月、アメリカの巡洋艦がイギリスの最後のなけなしの金塊50トンを受け取るためにケープタウンに派遣された。借金のかたに薄型テレビを押収する管財人のようなものだった。アメリカにあったイギリス企業は最安値で売却された。イギリスが自分たちは実質破産しているのだと抗議し始めると、アメリカ政府はイギリスの真の支払い能力を調べにかかった。まるで年老いた生活保護費の受給者が財産隠しをしていると咎める社会保障局のようだった。
将来の支払いを見込んで続けられた武器貸与については、チャーチルは「史上最も高潔な行為」と表向きは言っていたかもしれない。しかし内輪では、イギリスはアメリカに皮をむかれ、骨まで鞭うたれていると言っていた。武器貸与の条件として、アメリカはイギリスの海上貿易に干渉することを言い張り、イギリスが大いに必要としていたコンビーフをアルゼンチンから輸入することを停止させた。
武器貸与法は、終戦後もイギリスが自国の商業航空政策を運用する権利を妨げ続けた。この損得抜きの高潔なはずのアメリカ政府の行為に対して、イギリスはなんと2006年12月31日にやっと支払いを終えた。その日、当時財務省の経済担当副大臣だったエド・ボールズ氏が8330万ドル、4250万ポンド相当の最後の小切手とアメリカ財務省に対する感謝の手紙を書いた。戦時債務の支払いに関して、これほどまでに卑屈な几帳面さを示した国がほかにあっただろうか。
アメリカは第二次世界大戦の初期の段階でイギリスが大量の現金を吸い上げ、その流動性のおかげで最終的に大不況から脱出でいたのだという見方もある。アメリカの戦争マシーンを始動するクランクの役割を果たしたのはイギリスの金だった。ところが、アメリカにとって申し分ない条件だったにもかかわらず、1941年の初め頃、アメリカの政治家の多くは、この合意はイギリスにとって寛大過ぎると考えた。結局、法案は下院で260対165の票決で可決されたが、イギリスに法外な金額で救命胴衣をくれてやることを拒否したこれら165人の議員たちは一体何を考えていたのだろうか。彼らは旧世界が沈むのを見たかったのだろうか。実際、そういうことを一瞬考えた者もいただろう。
チャーチルはその手のアメリカ人たちを味方に引き入れなければならなかった。ところがその年の終わりには、これら同じアメリカの国会議員たちをチャーチルは手なずけていた。1941年12月のクリスマスの翌日、彼らは議場を埋め尽くした。チャーチルが演説をするために立ち上がる前から、全上院議員、下院議員が歓呼の声を上げてやまなかった。何が彼らの気持ちを変えたのだろうか。
そう、パールハーバーでちょっとしたことが起きたのである。日本による奇襲があったのだ。その数日後、ヒトラーがアメリカに宣戦を布告するという常軌を逸した決定をした。これらのことがようやくアメリカの議員たちをしてイギリスと一体感を持つに至らせるのに役立ったのかもしれない。
20220422 歴史の通説が相転移的に変わるような出来事があることについて
また、この意識の中でのコトバの流れには、いくつかの相・層があり、当ブログのような公表を前提とする文章なども、いわば、そうした相・層に流れている一つであると云え、そして、それを文章化してブログ記事とすることが、多くの場合、面倒に感じるところであるのですが、ここを何と云いますか、記事のクオリティーよりも、とりあえず作成することに重点を置いて作成してみますと、如上のような書き出しとなります。
しかし、実際斯様に記事作成を始めてみますと、これまでに逡巡しながら作成した諸記事と比べても、あまり大きな差異を感じることはありませんので、今後しばらくの間、出来る限り拙速を許容するスタンスにて進めてみようと思います。
さて、昨日の投稿記事にて述べた、現在読み進めている著作ですが、その後も少し進み、銅矛、銅鐸そして銅剣、銅戈などの青銅器について述べた章へと至りましたが、このあたりの記述からは、既知の知見が更新されて、興味深く読み進めていますが、それでも、当著作が刊行された2020年初旬(執筆されたのはさらに以前)においても、この西日本を主とした、これら各種青銅製祭器の出土分布の様相については、かねてより私が知るものから、あまり大きな変化はないようでした。
この我が国における各種青銅器の出土状況は、記紀などにある記述との関連性などが考察されて、ヤマト朝廷成立以前の社会の様子について検討されることが多くあり、とりわけ「古事記」にある出雲神話について、かつて「出雲」という地域は、大変に強く、近畿のヤマト朝廷とも(西日本での)覇権を争っていたとされるが、かつての、この地域の強大さを示す遺物、遺跡等があまり見出されなかったことから、それはあくまでも神話だけのハナシ、設定であるとも考えられていましたが、それが1984年の出雲市での荒神谷遺跡(国内最大規模、358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土)そして1996年、同県雲南市にて加茂岩倉遺跡(一箇所からの出土としては最多である39個の銅鐸が出土)が発見されたことにより、我が国が地域毎にて独特の青銅製祭器を盛んに用いていた弥生時代中期以降における、出雲地域の重要性、そしてまた「古事記」記載内容への、ある種、史実への妥当性が検証されたことになりました。
つまり、この島根県の2遺跡の発見により、弥生時代末期の我が国社会の様相への認識が大きく変わったと云えるのですが、出土された遺物等に基づき研究される考古学などの分野では、おそらく、この2遺跡の発見といった、いわば「大事件」が生じると、それまでの学問上の通説が大きく変わるということがあるようです。
以前、私がこの出来事を森浩一氏の著作を通じて知ってから、これら遺跡の発見以前に書かれた、本邦青銅製祭器の出土状況および、当時の社会様相についてを扱った書籍を図書館であたってみたところ、いくつかの書きぶりのパターンがあり、そのなかには「古事記」では出雲についての記述が多くあるものの、実際の出雲地域の重要性については疑問視する見解も複数ありましたが、他方で、当ブログにて以前に引用記事とした金関丈夫氏による我が国の青銅器文化について述べた記述は、和歌山のメッサオークワ ガーデンパーク内の書店での立ち読みの際に見つけ「おお!この2遺跡の発見以前に、このような、その後にも通用する見解を述べていた方がいたのか・・。」と、いたく感心した記憶があります。
ちなみに和歌山で思い出し、また以前に当ブログにて述べましたが、前述の銅鐸39個が出土した加茂岩倉遺跡にて出土した四つの銅鐸と、和歌山市のJR和歌山駅東口近くの太田黒田遺跡にて出土した銅鐸は、同一の鋳型にて作成されたものであることが分かっており、それらの関係性や来歴が気になるところですが、こうしたことは、未だ文字の使用が一般的ではなかった時代のことであることから、突飛な仮説や憶測に結び付きやすい易いと思われがちですが、実際の出土遺物に基づいた研究によって、こうしたことが明らかになることは、やはり、それなりに面白く、興味深いことであるように思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
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2022年4月22日金曜日
20220421 ブログ記事作成に際して意識化(文章化)される相・層について
ともあれ、今回は上述のような独白形式にて記事作成を進めてきましたが、こうして作成する文章には、ある種の相・層のようなものにあるようで、たとえば、昨今であれば、日中の移動中にて考えていたことは、そのまま文章化して、当ブログの記事となることはありません。以前であれば、ブログのネタ帳のようなものを持ち歩いており、何か(自分なりに)面白いことが思い浮かぶと、それを書き付けて、それを後に見直してから、夜半に、当ブログの記事作成を行ってきましたが、それは当初から約2年間ほど続いて、そこから後は基本的にネタ帳などを見ないで記事作成を行うようになりましたが、あるいは、さきに述べた文章の相・層に速やかに至るためには、このネタ帳のようなものは有益であったのではないかと、考えることが度々あり、これは、今後のさらなる効率的な記事作成のためにも、あらためて検討してみようと思います。
といった様子で、当ブログのことを考えている相・層もあり、それを意識化しますと、上記のような文章になりますが、それと同時に、他の相・層にあると云える、さきに挙げた、現在読み進めている我が国の古代史に関しての著作は、その題名から、当初、主に古墳時代を扱った書籍であると思われたのですが、実際読み進めてみますと、その前段階と云える主に弥生時代に列島内に広がった水稲耕作社会についての記述部分が思いのほかに長く、120頁を過ぎた今なお、その部分を読み進めています・・。しかし、面白いもので、こうした記述を読んでいますと、また徐々に、以前に知っていた、その分野での知識が、記憶のなかで生気を持ち始め、そして、読み進めている文章の記述と、思い出された当該分野での知見による、すり合わせ、検証のようなことが為され、加上され、新たに編集された知見となったり、あるいは初めて読む知見であることから、とりあえず保留して、憶えておくようにしますが、しかし、こちらの記述を読んでいて面白いと思ったことは、ある遺跡名などが出てきますと、それが以前に読んだ著作に記されていて既知である場合は、自然、その遺跡の概要、特徴が思い出されるのですが、その想起された概要や特徴は、概ね合致しているか、あるいは間違っていないのです・・。
しかし、そうした遺跡に関しての情報は、常時意識にあるわけではありません。しかし同時にそれ等情報は、私の記憶の中にあったと云えるのです・・。
そして、そうした書籍を読み進めて出て来たコトバから、それに対応する以前に知った情報を記憶の中から検索して意識上にあげるという行為を継続して行きますと、その行為を通じた中で、ある種のパターン認識のようなものがあるのではないかとも思われてくるのですが、こうしたことに関しては、何かしら手技を伴う実験とも似た要素があるのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
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2022年4月19日火曜日
20220419 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著【中東大混迷を解く】「シーア派とスンニ派」pp.37‐39より抜粋
ISBN-10 : 4106038250
ISBN-13 : 978-4106038259
英語圏の書籍出版の状況を見ていると、何か顕著な現象が起きた時の「初動」だけであれば、日本の方がかなり早いことが多い。つまり、戦争とか革命といった大変動が起きた時に、日本で最短で三カ月もすれば、その問題に関する専門家(あるいは専門家を称する人)たちを焚きつけて、どうにかこうにか、分析したり、解説したり、背景を説明したりする本が市場に出てくる。もちろんそれらは玉石混淆である。その対象を以前かた見ていた著者が、ちょうどその問題について論文を書いていたりする場合、それを元にした本を出せば、それなりの水準になることがある。しかし自薦・自称の「専門家」による急ごしらえの本は、多くの場合は、長くはもたない、ほんの数カ月で賞味期限が切れてしまう程度の深みと正確さのものとなる。
それに対して、英語圏では、専門家の本はそう簡単に出ない。ある問題について、行き届いた専門書が出るには、通常は、ほぼ十年はかかるものである。つまり、例えば、1989年に冷戦構造が崩壊するという予想外の大事件が生じた。これを受けて、ねぜこの年に冷戦が崩壊したのか、そこから翻って冷戦という事象は何だったのか、という課題について、英語圏で専門的な本が出てくるのは、1990年代も末になってから、あるいは2000年を過ぎてからが本番、ということになる。当然、専門的な本が出る頃には、冷戦崩壊という事象はとっくに過去のものとなっており、人々の一般的な関心は薄れてしまっている。しかし、世間の関心の浮き沈みとはほとんど無関係に、大学世界の内部で営々と研究が積み重ねられ、毎年の学会で議論され、部分的に論文として発表され、学術出版社でまずは著者と出版契約が結ばれ、原稿が出てから別の専門家の目に触れさせて、幾度もの改稿を経て、ようやく完成し、市場に出る、そこまでの時間と手順を経て世に出た本は、そう簡単には古くならない。英語圏の学術書の信頼性は、そこまで時間をかけることのできる制度が整っており、それを許容する社会があるからである。学術書が、世間・読者の「消費者」としての関心という、いわば「需要」にはあまり左右されず、書き手とその背後にある大学を中心とした学術共同体の「供給」の論理にもっぱら従って生産されているから、そも言うことができよう。ただしこれには当然弊害もある。既に述べたように、専門的・学術的な本が出た時には、対象となる事件や事象は遠い昔となっており、今まさに人々が関心を持っている問題には、即座に専門的な書物が提供されないことがある。
日本のように、商業出版社が学術的な出版の一部分をかなり積極的に担い、しばしば編集者が読者の需要を察知して、それを専門家に依頼し、いわば「需要」に引っ張られて多くの学術的な著作が刊行される。というのは、諸外国を見渡してもそれほど多くの類例を見ない。それによって、何か大きな事件を起きた時に、「初動」はかなり早い。編集者が注目の分野に目配りを利かせて、専門家にあらかじめ原稿を依頼していた時などは、世界的に見ても早期に、高水準の専門的著作が世に出ることがある。当然これにも弊害はあり、専門家が世間の関心に合わせて急いで著作を書き上げなければならず、話題になると繰り返し同じようなテーマで本を書き続けなければならないため、一冊一冊の水準が十分に高くならず、深みも足りないものとなりかねない。
このように、少し脱線して、英語圏の学術的・専門的な著作の出版を、日本の場合と対比させてきたのだが、この英語圏の学術出版にも、近年に変化が見られる。英語圏の学術書・専門書でも、やや日本型に近い、即応性の高いタイプの本が出るようになっているのである。
20220418 1760記事に至り思ったこと(これまでの継続の背景にあるもの)
しかし、ここまで文章を作成していて、当ブログにとって、より重要なことを思い出しました・・。それは、ここ直近2年間は、当ブロガーとツイッターにて連携投稿することが多く、それ以前の(当ブログの)ことを忘れていましたが、連携以前では、決して少なくはない方々に、私の作成したブログ記事が読まれるという感覚がほぼ皆無であったために、かえって、あまり緊張することなく、自然な状態にてブログ記事を作成出来ていましたが、ツイッターとの連携以降、閲覧者数が増加し、また、時々は、それらに対して、何らかの反応もあったことから、さきの「緊張することなく」に変化が生じ、より人に読まれることを意識した文章作成をする必要性が生じてきました。これは、それ以前の緊張せずに記事を作成していた時期と比べてみますと、やはり、多少、記事作成に苦労するようになったと云え、連携以前での記事作成にあぶらが乗っていた時期(2017~2018前半)に作成した記事と比べますと、何だか文章全体がぎこちないよう思われるのです・・。
そう、少なくとも、私にとって記事作成時の緊張感とは、今現在、あまり良いものではありませんが、しかし、当ブログ開始の頃から、このブロガーとツイッターとの連携が為された環境であった場合、さきに述べた緊張感から、あるいは継続的なブログ記事の作成も困難になっていたのではないかと思われるのです・・。
そして、そのように考えてみますと、現時点においても、2年前から始めたツイッターとブロガーの連携により生じた緊張感が尾を引いていると云えますが、しかし同時に、当ブログをこれまでに(どうにか)続けることが出来た、一つの要因とは、開始から数年の期間、あまり外からの反応に右往左往することなく、記事作成と投稿という、自分の発信活動に集中出来たからであると云えます。そして、それをしばらく継続した後で、ツイッターとの連携が為されるようになると(ネット上での)他者からの視線によって緊張を感じつつも、現在の当ブログのように、どうにか続けることは出来ているのだと思われます。
つまり、今現在、多少の苦労をしつつも、ともかく、続けることが出来ているのは、普段、あまり意識することはありませんが、これまでに当ブログが(あまり意識されることなく)経て来た、さまざまな(後知恵では良かったとされる)過程の順番があったからであると云えます。
そして、そのように考えが至りますと、今度は、そうしたことは、自らの辿ってきた過程においても云えるのではないかと思われてきますが、こうしたことについては、これまでに当ブログにて度々述べて来たことではありますが、また、ここで、もう少し考え直してみようと思います。
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2022年4月17日日曜日
20220417 1800記事を目指しつつ思ったこと、鬱状態と離人感克服のためのブログ記事作成?
また、この程度(1760記事)まで、どうにか至りますと、1800記事への到達も、これまでよりも多少、現実味を帯びてきますが、しかしながら、未だ先は長く、そして首尾よく6月22日までに(1800記事に)到達するためにも、今しばらくの期間、こうした記事作成を続ける必要性があることは、やはり、いくらか気を重くさせます・・。
しかしながら、この記事作成に際しての「気が重くなる」現象自体は、かなり以前からあり、それが顕著に強くなったのは、以前にも述べましたが、1000記事到達以降しばらく経ってからであり、また、この「気の重さ」に乗じて、しばらく記事を作成しないでいると、更に気が重くなり、記事作成が辛くなることから、昨今であれば、当ブログの安定した継続のためにも、おそらくは5日程度も、当ブログを休止することは出来ないだろうと思われます・・(苦笑)。
そこで、今回目標としている1800記事に到達することが出来ましたら、今度こそは、しばらくの期間、当ブログでの記事作成どころか、ツイッターなどのSNS全般からも離れてみたいと考えています。あるいは私の場合、休息や整理期間を充分設けずに、次の行動に移ってしまっていることが、度々あるのではないかとも思われます。
私にとってのそれは、2013年9月での学位取得から、アルバイトをしながら求職活動を続け、何度か(かつての)専攻分野での求人もいくつかありましたが、その分野では採用されることはなく、そのまま、とにかく応募し続け、そして、どうにか採用して頂いた職も、私にとっては(おそらくはもったいなくも)あまり熱心に打ち込むことが出来るものではなく、そこから、以前にはあった「情熱」のようなものが明らかに減衰していることが判然としました。以前の私は、どちらかと云えば活発に動く方ではあったのですが、この2013年からの求職活動の時期から、あるいは、以前の投稿記事にて述べた、継続する軽い鬱状態がまた強くなり、さらに「燃え尽き症候群」といった状態もあり、色々と動いてはいるものの、それらの意味を、あまり実感として理解することが出来なくなっており、端的には「離人感」と称するものであると思われますが、これは、2010年に師匠が去られた後から。自分なりに(ある程度)培ってきたと考えていた歯科生体材料学分野での知識・知見や技術などが、あまり世間で求められるものではないことを知った時に感じる、ある種の絶望感に近い感覚が発端にあり、こうした感覚が未だ現在、自分に根付いているからこそ「離人感」をおぼえ、そしてまた、それをどうにか健全なカタチで克服するためにも、当ブログを続けているのだとも云えるかもしれません・・。
また、おそらく、以前、私にブログ作成を勧めてくださった方々は、上述のことの半分以上は、傍目で見ていて、気が付かれていたのではないかとも思われます・・。
ともあれ、この継続する鬱状態や離人感の健全な克服のために作成している当ブログではありますが、その起点にあるものは、以前に経験した、あまり一般的ではない出来事であり、また、その結果として、現在、こうした、あまり(以前の専攻分野である)歯科生体材料学とは、あまり内容的には関係がないブログを作成していることは、捉え様にもよりますが、私としては、全く意味がないことではないようにも思われるのですが、さて、如何でしょうか?
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2022年4月15日金曜日
20220415 岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学は何処へ』 pp.106‐108より抜粋
pp.106‐108より抜粋
ISBN-10 : 4004318742
ISBN-13 : 978-4004318743
戦後日本の新制大学は、戦争末期に爆発的に拡張した理工医系の専門機関を衣替えするだけで引継ぎ、そのような体制を前提に出発した。ここにおいて、旧帝大をはじめとする国立大学での理系優位の構造が条件づけられたわけだが、そうした体制は高度経済成長期に工学系が産業的な必要性からさらに拡張を重ねたことで決定的となった。旧帝大と他の国立大学、あるいは国立と私立という必ずしも対等とは言えない関係のなかで、そうした応用的な知に対置されるべきリベラルな知の概念は未発達だった。その結果、戦後日本の学問と教育の体制全体が、理工医系の応用的な知を優位に置き、文系、それもとりわけ人文学系の基礎的な知を下位に置く方向で構造化されていったのである。これが、第一のボタンの掛け違いである。
しかし、大学教育という観点からするならば、より重大なボタンの掛け違いが、旧制帝国大学が国立総合大学となり、旧制高校が廃止されていく際に生じていた。新制大学発足に際し、それまでの複線的な高等教育の体制は、六・三・三・四制という一元的な教育体制のなかに組み込まれ、多くの専門学校や師範学校が大学に統合されていくことになったが、そのようなタテ型の専門教育が大学に統合されれいくに際し、旧制高校が担ってきたようなヨコ型のリベラルアーツの新しい大学教育のなかでの位置づけについての合意はなされなかった。東京大学では南原繁総長のリーダーシップがあり、そのまで旧制一高のキャンパスだった駒場に後期課程までを含む教養学部が誕生したが、そのような例は稀で、多くの旧制高校の教師たちは、大学教授となった後も教養部として専門学部に対して周縁的な位置に留め置かれるか、あるいは文理学部のような仕方でタテ型の教育体制の一部として位置づけられていった。戦後日本では、旧制高校と新制高校の根本的な違いも十分には認識されてこなかったし、その旧制高校に内包されていたリベラルアールが、高等教育にとっていかに根本的かも認識されてこなかった。これが、戦後日本の大学にとっての、最も根本的なボタンの掛け違いである。
それらのボタンの掛け違いは、1990年以降の「上からの改革」で、さらに複雑骨折化し、深刻な袋小路に陥っていくことになる。旧制高校廃止や新制大学における一般教育=リベラルアーツの位置づけの問題が、大綱化以降の教養教育の空洞化と不可分の関係であることは明白である。大学院重点化がもたらした困難も、もともとは新制大学発足の際、旧帝大が大学院大学への転換をせず、旧制高校を吸収しながら大学をカレッジとして再定義しなかったことと関係がある。90年代に実際に行われた大学院重点化よりも、政策として優れていたと思われる改革案は、すでに30年代、阿部重孝らによって提案されていたのだ。つまり、大学=ユニバーシティにおけるリベラルアーツ・カレッジと専門知の教育機関との関係を長い視野から構造化できない限り、新しい時代の大学と大学院、そして社会の関係をデザインし直すことはできない。さらに加えて、国立大学法人化により拡大した文系と理系の貧富の格差は、そもそもは戦争末期にセットされた両者のアンバランスな関係を背景としている。
20220415 欝々とした気分が続く中でも当ブログを続ける理由・・
さて、この新たに読み進めている書籍は、我が国の古代を扱ったものであり、この分野の著作は、以前、自分なりに盛んに読んでいた時期がありましたが、関東に戻ってからは、ありませんでした。また、こちらの分野は、目にした遺跡や古墳などといった、実際に存在するもの、そして、その時の状況とも結び付いて記憶していることが多く、読み進める中で、書かれた地名や状況から、そうした記憶が想起されることも度々あります・・。
そのため、少し暖かくなってきますと、こうした状況の記憶が想起され易くなると云えるのですが、そうであっても、2020年来からのコロナ禍により、あまり遠方への外出が躊躇われますと、ある種の諦念が強くなり、そうした(遠出する)希望自体も徐々に減衰してゆき、そしてまた、その分野での、これまでに培った知識や知見なども、引き出し難くなっていくのではないかと思われるのです。つまり、端的には、興味が減衰すると忘れてしまうということだと思われますが、こちらは、私の場合、去る2009年以来、概ね継続していると云え、あるいは、こうしたブログのような発散もしくは発信活動を続けていなければ、それらの記憶は失われてしまい、そしてまた、より精神的に困難な状況に至っていたのではないかとも思われます。
つまり、2009年末頃から続いていると思われる欝々とした気分、デプレッションは、時に上下に波形を示しつつも、概ね、その調子を保持したまま、現在にまで至っているということになりますが、こうした継続する軽い鬱気味のような状態を、根本的になおすためには、どのようにすれば良いのかと考えることも度々ありますが、それはやはり、ありきたりではありますが、当ブログを続けてみることではないかと私には思われるのです・・。
これまで、当ブログにて、さまざまことを書き散らかしてきましたが、ここ最近では、初期の頃の、何と云いますか、洗練はされていないものの、自分なりの根源的な発信の型がある文章を作成することが困難になってきたと感じられます。しかし、その代わりに、そうした発想を内部に畳み込んだような文章が作成出来るようになってきたようも思われることから、単純に自分の文章に対する読み方が変わっただけであるのかもしれませんが、あるいは、多少の文章作成技術の向上などもあるのかもしれません・・。
また、先日の投稿記事にて述べましたが、読んで頂いていた記事から、私が、さらに別の記憶が想起されるということがあることにより、1000記事以降については、当ブログを続けることが出来ているとも云えますが、今後また、もうしばらくこれを続けてみますと、また別の、何と云いますか「相転移」のような現象が生じるのではないかとも思われるのです・・。しかし、こういった変化といったものは、主体として気が付くことは出来るものなのでしょうか・・?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
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2022年4月14日木曜日
20220413 連携投稿後に読んで頂いた複数記事の間から想起される記憶について・・
こうしたことには、我が事ながら少し驚かされ、また、そこでの状況認識が精確であるならば、興味を持たれるのは「それら記事が、どなたが読まれているか」ということであり、これは、当ブログ投稿先である「ブロガー」では、殆ど分かりませんが、連携先である「ツイッター、フェイス・ブック」では、ある程度までは個人が認識できますので、そうした方々の中で、一体何方が、どのような(気まぐれな)意図で、それら記事を閲覧されたのかは、おそらく、判り得ないことではありながらも、やはり興味深いことであるとは云えます・・。
それ故、その日の夜に、直近の連携投稿記事の中で多くの閲覧者数を得ていた記事を開いて読み、そして、その連携投稿の後に比較的多くの閲覧者数を得ていた、昨今、連携投稿をしていなかった記事を開いて読んでみますと、大変興味深いことに、それらの内容が繋がることが多々あるのです。
そして、それらを繋げるものが、私の記憶であると云えるのですが、ここにおいても面白いことに、それら記憶というのは、具体的には、さらに以前の鹿児島在住時に、それらを繋げた、一つのものとして話していた記憶であり、こうしたことは、関連する投稿記事が提示されなければ、繋がらない、すなわち、記憶が想起されないことから、私としては、大変不思議に思われる現象であると云えますが、しかし、そこで想起された記憶が、果たして、本当に、それら関連するとされる、読まれた記事の関係に合致するものであるのかと考えてみますと、その検証方法ははなはだ困難であるように思われます・・。
とはいえ他方で、読んで頂いたいくつかの投稿記事から、それらの関連性を読み解く際に、過去の記憶が想起されるという現象自体は、一般的なことなのでしょうか・・?ともあれ、こうした内面での考えと、外界での出来事(いくつかの記事の閲覧)の検証のようなことを考えてみますと、何だか難しくなってきますが、しかし、歯科生体材料学での実験においては、こうした(測定機器に)表示される数値が本当に、その材料の測定項目特性を精確に示したものであるのかを調べるような、予備実験が為されることが多くあり、こうした実験の方法や進め方については、師匠が大変詳しく、勉強させて頂きましたが、元来、人文系であった私の意見としましては、こうしたことを、より多くの方々が実習などを通じて学び、さらに、日常生活においても、そこで得た技術や考えを身体化させて運用することが出来るような社会であった方が、我が国の場合は、そのすぐれて即物的な性質を、長所として伸ばしていくことが出来るのではないかと思われるのです。そして、その伸ばすための一つの試みが、かねてより、当ブログにて述べています医療系専門職大学の新設であると云えるのですが、さて読んで頂いている皆さまは、どのようにお考えでしょうか?
しかしまた、ハナシは戻り、ブログをある程度の期間続けていますと、いつの頃か、そのブログ自体が、記憶を想起させる装置のようなものとして機能するようになり、これはこれで、たとえば、新たな種類の表現、発信、そして記事を作成するための材料ともなり、自分としては、なかなか興味深いものであるようにも思われてくるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?
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2022年4月12日火曜日
20220412 株式会社新潮社 池内紀著「ちょん髷とネクタイ」時代小説を楽しむ pp.157‐158より抜粋
pp.157‐158より抜粋
ISBN-10 : 4103755032
ISBN-13 : 978-4103755036
鹿児島県と宮崎県南部にかけて、同じ地名があちこちにある。町村合併あ地名改正で急速に消えていったが、それでも出水市麓町、加世田市麓町、吾平町麓、田代町麓・・といったぐあいにのこっている。かつて薩摩領内で「外城」とよばれた防御拠点であって、総計100あまりをかぞえた。
肥後・熊本城の壮大な石垣や濠や、再建された城を見た人は、薩摩。鶴丸城の貧弱さに驚くだろう。本丸跡は堀にかこまれ、石垣がのこっているが、加賀百万石につぐ七十余万国の雄藩にしては、なんとも小規模なものである。しかもそこには一度も天守閣が建てられず、櫓すらもなかった。城主の居城にあたる館があっただけ。鎌倉時代このかた薩摩一円を領してきた島津氏は、領民を支配するのにことさら威圧的な城郭を築く必要がなかった。「麓」を拠点とする外城がはりめぐらされ、藩内ではどこでも防備がとれる体制になっていた。西南の役で西郷軍の部隊を編制したのも「麓」の旧士族である。強力なつながりではあれ、ひとたび敗れると熊本城のように籠城ができない。
「薩摩の国の藩制は他藩と著しい相違がある」
そんなふうに断った上で、海音寺潮五郎は短編「唐薯武士」のなかでてみじかに述べている。ふつう藩士はほとんど全部が藩主を中心として城下町に集合しているものだが、薩摩藩では城下侍以外に「外城侍」というのがいて、これが城下侍の何十倍もの多数にのぼった。
「外城侍は普通には郷士という名称で呼ばれているが、他藩の郷士とはその身分も職制も違う。他藩では郷士というのは刀は差していても武士ではない。先祖が武士であった百姓がその由緒で帯刀しているに過ぎないし、領主からもよくて名主ぐらいの取扱いしか受けていないのだが、この国においては、立派に武士なのだ、また歴とした藩士なのである」
百姓武士というもので、藩主から禄米や知行所をもらうかわりに田をもらい、みずから耕して生活している。一朝ことあれば武装して出陣するのはむろんのこと、平日にも輪番で城下に出た。
「・・・薩摩領内の俗に百二外城と言われる大きな村々に、四五百から少なくとも四五十に及ぶ家が、麓または脇本と呼ばれる部落をつくって住いしている」
家のつくりに特徴があった。この地方に多い泥灰岩の切石か、スイカほどの大きなの自然石を積み上げた石垣、あるいは柞の生垣にかこまれ、前庭にはミカンや柿、梅、桃などの果樹があり、うしろに菜園をひらいている。
2022年4月11日月曜日
20220411 祥伝社刊 山本七平著「日本人とは何か。」ー神話の世界から近代まで、その行動原理を探るー pp.146‐150より抜粋
pp.146‐150より抜粋
ISBN-13 : 978-4396500931
「マッカーサーが日本を占領して天皇に「人間宣言」を出させた。そこではじめて日本人は、天皇が神であるという迷信から解放された。アメリカ人はそう信じているという話を聞きました。」
「ハハァ、面白い。というのは戦時中のアメリカの世論調査を見ると、天皇を日本人の唯一神と見ている人が44.2パーセントもいます。それが事実で、この事実がマッカーサーの一言で消えたとすれば、彼は神以上の人という、マッカーサー神話ともいうべき新しい神話が出てきたわけですな。アメリカ人も案外迷信深い。20世紀にもそまざまな神話ができるんだなあ」
「山本さんは笑っているけど、私は何とも釈然としないのです。されにそれが、神話をそのまま歴史として教えた結果だと言われるとね」
「私は昭和9年の小卒だけれども、神話をそのまま歴史として教えられた記憶はありませんね。第一、ヒコホホデミが海の底に下って海神の娘トヨタマヒメと結婚し、そこからウガヤフキアエズが生まれ、彼とその叔母、すなわちトヨタマヒメの娘のタマヨリヒメが結婚してカムヤマトイワレヒコすなわち神武天皇が生まれる。これが日本神話の終わりで、「日本書紀」はここで「神代」から「人代」に移るのですが、その直系の子孫がいまの天皇だなどという話は、それを事実だと小学生に言っても、信じますまい。もっとも進化論裁判(モンキー・トライアル)をやったアメリカのファンダメンタリストなら信じるかもしれませんが、日本で進化論がタブーであったことはありませんから。マッカーサーはファンダメンタリストを連想したんじゃないですか。もっとも天地創造神話が形成されたころからの天皇制がありながら、同時にコンピューターの大メーカーがある国なんて、アメリカ人には理解しにくいでしょうなあ。これも駆け足の結果で、誤解は無理もないですが、私がこの神話を読んだのは、実は「人間宣言」の後で、小学生のときではありません。」
なぜこういう誤解を生じたか。誤解にはもちろん「種」があり、そのことは天皇の「人間宣言」の9年前すなわち昭和12年(1937年)の文部省の次の通達に現れている。
「・・・現津神(明神)或いは現人神と申し奏るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいう意味と異なり、皇祖皇宗がその神裔にあらせられる天皇に現われまし、天皇と皇祖皇宗とは御一体にあらせられ・・・」
表現は当時の表現で大仰だが、「現津神」とか「現人神」とかいっても、それは「絶対神とか、全知全能の神」という意味ではないということ、これまた一種の「人間宣言」であり、元来、これらの言葉は道教の用語であるから文部省の定義は正しい。
では一体文部省はなぜこんな通達を出さねばならなかったのであろうか。それは「God」を「カミ」と訳したために生じた概念の混同であったこと、同時に当時「天皇機関説」があったからであろう。「God=カミ」の訳を「甚だしい誤訳」といった人がいるが、そうはいえないまでも、きわめて混乱を引き起こしやすい訳であった。この点、16世紀に日本に来たザビエル以下のイエズス会宣教師が「Deus」をあくまで「デウス」とし、日本語に訳さなかったのは達見である。
では西欧のGodと混同をしなかった時代の「カミ」はどのような定義であったのか。徳川時代の学者、新井白石と本居宣長の定義を次に引用しよう。まず白石の「東雅」からー。
「我国の凡そ称してカミというは、尊尚の義なりければ、君上のごとき、首長のごとき、皆これをカミといい、近く身にとりても頭髪のごときをいい、置く場においても、上なす所をさしてカミという」
これはきわめて受け入れられやすい一般的定義で、政府をオカミ、上流をカワカミ、国の中心地をカミガタ等、ごく普通に使われ、非常に広い意味の「上なるもの」を指す。これをもう少し限定しているのが宣長の「古事記伝」における「カミ」の定義である。
「凡そ迦微とは、古の御典等に見えたる天地の諸々の神たちを始めて、其を祀れる社に坐御霊をも申し、また人はさらにも言ず、鳥獣木草のたぐい、海山など、そのほか何にまれ尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり。抑、迦微は如此く種々にて、貴きもあり、賤きもあり、強きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば、大かた一むきに定めて論ひがたき物になむありける」
さらに彼は説明を進めて次のようにいう。
「すぐれたるとは尊きことを善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず。悪しきもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。さて人の中の神は、先かけまくもかしこき天皇(すめらみこと)は、御世御世みな神坐すこと、申すもさらなり。其は遠つ神とも申して、凡人とは遥かに遠く、尊く可畏く坐しますが故なり。かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下を受け張りてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし。さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人皆神なりし故に、神代とは言なり」
さらに彼は書記・万葉では、木霊も虎も猿もカミといわれ、海山も「磐根、木株、草葉のよく言語し類なども皆神なり」と記されていることを指摘する。
もっとも現代では白石の定義も宣長の定義も、必ずしも正しいとはいえない。しかし重要なことは、西欧と接触する以前の日本人自身は「カミ」という言葉をそのように定義していたという事実である。
20220410 早川書房刊 ジョージ・オーウェル著 高橋和久 訳「1984年」 pp.79‐82より抜粋
pp.79‐82より抜粋
ISBN-10 : 9784151200533
ISBN-13 : 978-4151200533
「辞典の進行状況はどんな具合なんだ?」ウィンストンはそのしゃべり声に負けまいと声を張り上げた。
「時間がかかるね」」とサイムが答える。「形容詞を担当しているんだが、実に面白い」彼はニュースピークの話が出たとたんに顔を輝かせた。シチュー皿を脇にどけ、華奢な手の一方で厚切りパンを、もう一方で角切りチーズを取り、怒鳴らなくても済むようにテーブルの上に身体を乗り出す。
「第十一版は決定版になる」彼は言った。「ニュースピークを最終的な形に仕上げようとしているんだー誰もがニュースピーク以外話さなくなったときの形にね。それが完成した暁には、君のような仕事をしている人間は、きっともう一度すっかり学び直さなくてはならなくなる。おそらく君はわれわれの主たる職務が新語の発明だと思っているだろう。ところがどっこい、我々はことばを破壊しているんだー何十、何百という単語を、毎日のようにね。ニュースピークをぎりぎりまで切り詰めようとしている。第十一版には、2050年までに死語となるような単語は一つとして収録されないだろう。」
彼は貪るようにパンをかじり、二度ほど口一杯に頬張って飲み込むと、衒学者の情熱とでも呼ぶべきものに突き動かされたように話を続けた。細面の浅黒い顔には生気がみなぎり、目からは嘲笑の色が消えていて、ほとんど夢見るような眼差しに変わっている。
「麗しいことなんだよ、単語を破壊するというのは。言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反義語だって無駄だ。つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。一つの単語にはそれ自体に反対概念が含まれているのだ。良い例が〈良い〉だ。〈良い〉という単語がありさえすれば、〈悪い〉という単語の必要がどこにある?〈非良い〉で十分間に合うーいや、かえってこの方がました。〈悪い〉がいささか曖昧なのに比べて、まさしく正反対の意味になるのだからね。或いはまた〈良い〉の意味を強めたい場合を考えてみても、〈素晴らしい〉とか〈申し分のない〉といった語をはじめとして山ほどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけで無駄だろう。そうした意味は〈超良い〉で表現できるし、もっと強調したいなら〈倍超良い〉を使えばいいわけだからね。もちろんわれわれはすでにこうした新方式の用語を使っているが、ニュースピークの最終版では、これ以外の語はなくなるだろう。最後には良し悪しの全概念は六つの語ー実のところ、一つの語ーで表現されることになる。どうだい、美しいと思わないか、ウィンストン?むろん元々はB・Bのアイデアだがね」彼は後から思いついたように最後のことばを付け足した。
〈ビッグ・ブラザー〉の名を耳にしたとき、熱意の醒めたような表情がウィンストンの顔をほんの一瞬だけよぎった。それでもサイムはすぐに相手の意気込みが萎えたのを見抜くのだった。
「ニュースピークの真価を理解していないな、ウィンストン」彼の口調はほとんど悲しげだった。「君はニュースピークで書いていても、まだオールドスピークで考えているんだ。君が《タイムズ》に時折書いているものはいくつか読ませてもらっている。なかなかいいと思うよ。だがあれは翻訳なんだ。心の中ではオールドスピークをあくまでも守りたいと思っている。その曖昧さや意味の無駄なニュアンスなんてものを含めてね。ことばの破壊が持っている美しさが分かっていない。ニュースピークが年ごとに語彙を減らしている世界で唯一の言語であることを知っているかい?」
ウィンストンはもちろん知っていた。彼は共感を滲ませるように微笑んだが、何かを口にする度胸はなかった。サイムは黒っぽい色をしたパンをもう一口かじり、少し噛んだだけで話を続けた。
「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙句、忘れられることになるだろう。すでに第十一版で、そうした局面からほど遠からぬところまで来ている。しかしこの作業は君やぼくが死んでからもずっと長く続くだろうな。年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しづつ縮まっていく、今だってもちろん、〈思考犯罪〉をおかす理由も口実もありはしない。それは単に自己鍛錬、〈現実コントロール〉の問題だからね。
2022年4月9日土曜日
20220409【架空の話】・其の92 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇⑫】
と返答をすると、CH院長は少し驚いた様子で「・・おお、そこまでよく知っているねえ!それに、その推理は全部正しいわけではないけれど、結構イイ線行っていますよ。うん、正直、歯科関係者から、ここまでの返事を聞けるとは思っていませんでしたが、**さんは、たしか歯科技工士でK大院の博士院生であるとお聞きしていますが、あるいは以前に文系の勉強をしていたのですか・・?」と続けて私に訊ねてこられた。そこで私は、今回CH先生を紹介してくださったD先生の医院で歯科治療を受けて、その縁からK医療専門職大学に学士編入し、そして、その後K大院に進んだが、それ以前の専門は英文学であり、ジョゼフ・コンラッドの作品「闇の奥」についての研究で修士号を取得した旨を述べた。
そうするとCH先生は更に驚かれたようで「ええ!K医専大だから向うの方々がいらっしゃるとばかり思っていましたが、**さん、あなたはこっちの人なのですか!?・・しかもD先生の患者さんですか・・。D先生とは同じ研究室に所属したことはありませんが、私が補綴の研究室で院生から医員であった頃、理工の研究室で助教をされていて、また、その少し前にS先生がK大学に教授として赴任されたのではないでしょうかね・・。まあ、そのような感じでして・・それで、先生方はお分かりであると思いますが、補綴分野での実験は(歯科)理工と協力して組み立てることが多いことから、私も当時、D先生には色々とお世話になりましたが、それからすぐにD先生は開業されることになり大学を辞められましたが、その後も勉強会や学会でお目に掛かった時は、一緒に飲みに行ったりしています・・(笑)。
まあ、D先生が大学を辞められた後、私も補綴の研究室でどうにか助教になりましたが、運が良いのか悪いのか、それから1年程経った頃に、割に近い親戚から条件の良い開業向けの物件を教えてもらい、色々と考えて、そこで開業したのが当医院であるのですが、もうあれから随分経ったようにも思えますし、また、昨日のようであるようにも感じられますが、実際には9年ほどなのですね・・。
ええ、まあ、それは置いておきまして、さきのST先生のハナシですが、そう、こちらの先生は、国際関係論の研究者でありつつ著作も数多く、まあ、分野違いの私などは専ら新書ばかりを読んでいるのですが、それでも興味深く、勉強になりますね・・。いや、高校生の頃、私は、そちらの分野への憧れを持っていたのですが、しかし、私のいた高校は医科系大学の付属校でして、周囲の多くは医学部や歯学部などに進むような環境であって、それに進路指導の先生も、熱心にそちらを勧めてきましたので**歯科大学に進学したのですが、歯科の方も私にはそれなりに合っていたようで、現在もこうして続けさせて頂いていますが、少し時間に余裕が出来できますと、やはり、かつて興味を持っていた分野も気になるもので、時間を見つけては色々と読んでいますが、そうした中で、さきのST先生のハナシが新聞に載っていましてね・・。
それによると、後進に快く道を譲ることが出来るようになるためにも、現在の専門分野以外にて何か専門資格を取得しようと思い、そこで、料理が得意であることから、今度はより科学的な観点から料理や食料全般について考えることが出来るようになるために管理栄養士の資格取得を目指し、御実家からもどうにか通うことが可能で、学費が安価な岡山の医療専門職大学に学士編入試験で受験されて、通うことになったとのことですが、既にご家族が東京にいるため単身で移り住み、そこでは、学業と共に執筆や翻訳は出来るだけ続けられるとのことでした。また、出版社なども、そうした云わば「変わった学生さん」は話題になると考えて、おそらく、また、何か執筆依頼をされるのではないでしょうかね・・。しかし、こうしたことは、執筆や翻訳などで、ある程度の収入を得ることが出来ている先生であるから可能なことであり、ほかの研究者では、あまり真似は出来ないのではないでしょうかね・・。
それで、これに対するST先生の見解は「現在勤務している大学は一度退職しますが、医専大で管理栄養士の資格を得ることが出来たら、国際会議や学会での出席者参加の夕食会で料理を饗して、それらを観念的意味での材料として、国際関係論や文学でのトピックと関連させた講演や発表をしてみたい。」とのことでしたが、たしかにこれは新しく興味深く、斬新な試みであると思いますね・・。」とのことでした。」
約言すると、現役の人文系研究者が路線変更をして学士編入で医専大に入り管理栄養士を目指すということであり、たしかにそれは大変興味深いとは云えるが、果たして、その先の具体的なキャリアはどうなるのかと考えてみると、あまり思いつかず、あるいは、現在のような「転換期」とも云える時代にあっては、そうした選択も決して悪くないのかもしれないと思われたが、そこで、不図、我に返り「いや、こうしたことは私の将来にも少なからず関連するかもしれない・・。」と思い慄然としたが、その当時の私は、普段、あまりそうしたことを具体的に考える習慣がなかった・・。
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2022年4月8日金曜日
20220408 気が重くなりつつも当ブログを続ける理由・・
とはいえ、相変わらず、移動中や就寝前での読書は続けており、またここ最近は、これまでに自分が(ほぼ)知らなかった分野、世界を扱った著作をいくつか、読み進めてきたために多少苦労しましたが、不思議なもので、しばらく読み進めていきますと、徐々にその文体に慣れてくるのか、あるいは、その文章の背景にある世界観が、漠然とではあれ、認識出来る様になるのか、ともあれ、相対的に早く読み進めることが出来るようになります。
しかし、早く読み進めることが出来るようになったとしても、その内容の精確な理解は、それとはしばしば随伴しないことから、しばらく読み進めた頁から、また少し頁を戻り、読み返すといったことを続けつつ読み進めて行きますと、どうにか理解出来るようになるといった感がありますが、これが、さらに興味深い著作である場合、さきの手法にて読み進め、読了に至ってから、再度はじめから通読しますと、さらに精確な理解に至ることが出来るように思われます。
とはいえ、この読み進め方は、思いのほかに体力を消耗することから、ある程度の年齢に達すると困難になってくるのではないかと思われます。これは私自身の場合、そうであったと云えます。つまり、端的には、体力は以前より衰え、頭が硬くなり、そして、新たな事物を受け付けなくなっているのだと思われ、また、これについては日々実感していますが、他方で、内発的な動機による何らかの分野での活動をしている場合などは、その分野については、部分的にあまり頭は硬くならずに、比較的柔軟なスタンスにて活動することが出来るのではないかと思われます。
あるいは、こうしたこともあり、私は半ば無自覚的にではあれ、気が重くなりつつも、どうにか当ブログを続けていることが出来ているのかもしれません・・。
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20220407 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳「チャーチル・ファクター」 pp.257-260より抜粋
ISBN-10 : 4833421674
ISBN-13 : 978-4833421676
イギリスが生み出した技術的ブレイクスル―のなかでも戦車は特別である。鍵となる発想がイギリス製だったという話ならよくあることだが、開発も実用化もイギリスで行われたのは特筆すべきことだ。1917年、イギリスは年間数百台の戦車を製造していた。これは当時の交戦国のなかでは最大である。
この頃までに、チャーチルは再度タンクの製造責任者になっていた。この年の7月にロイド・ジョージがチャーチルを軍需大臣に任命して内閣に戻したのである。新聞は騒然とした。サンデー・タイムズはこのような人事は「政府や帝国全体にとって大きな危険だ」、モーニング・ポストは「あの危険で信用のできない人物、ウィンストン・チャーチル氏、体内でブラブラしている遊走腎のようなあの男がまた官庁街に戻ってきた」と書いた。
メディアは完全に間違っていた。チャーチルはこのプロジェクトの成功には欠かせない存在だった。チャーチルは膠着状態を打開するために、ヘイグの指揮による正面からの攻撃は見たこともない狂気の沙汰だった。チャーチルやロイド・ジョージの懸念をよそに、ヘイグはベルギー・イープルの攻撃を開始させた。この作戦で約85万人の兵士が亡くなったが、そのうち35万人はイギリス兵士だった。人類がかつて経験したことがないほどに大規模な殺戮であった。ハンニバルのカルタゴ軍が、ローマ軍を殲滅しさせたポエニ戦争におけるカンナエの戦いの近代版といってもいいだろう。
そして、ついに、十分な台数の戦車がそろった。1917年11月20日、フランス・カンブレーの戦いに400台が導入され、大きな功績をあげた。チャーチルはフル回転となった。戦車委員会を立ち上げ、1919年4月まで4459台を配備する目標を立てた。戦車工場の労働者たちが横柄な態度をとると、前線に送るぞと脅して黙らせた。そして最高に気分を高揚させる瞬間が到来した。1918年8月8日の仏アミアンの戦いで、この怪物が本当にドイツ軍を震撼させたのである。
600台のイギリス製戦車がドイツ戦線に突入した。塹壕の上をギシギシと音を立てて進み、キャタピラーで泥をつかみ、敵の弾丸を弾き返しながら進んだ。まさにチャーチルが思い描いた通りだった。ドイツ軍のほうは、すぐに戦車を必要以上に恐れる必要はないということを学んだ。ローマ軍がカルタゴ将軍ハンニバルの持ち込んだ象に驚かなくなったように。そして数週間後には、ドイツ軍はイギリスの戦車に効率的に反撃を加えるようになった。しかし、戦車がドイツ軍の士気に損害を与えたことに変わりはなかった。ドイツ軍の軍人エーリッヒ・ルーデンドルフは、アミアンの戦いの初日をドイツ軍にとって陰鬱な日と呼んだ。この日は第一次世界大戦の「終わりの始まり」と言ってもいいかもしれない。
その日勝敗を決めたのは戦車だった。チャーチルが翌日9日に目撃した、ドイツ軍の絶望的な捕虜たちのことを考えてみてほしい。チャーチルが海軍と共同発明した機械の力でドイツ軍は完敗させられたのである。そこらじゅうに戦車の跡があった。とチャーチルは報告している。
チャーチルは正確にはどのような役割を演じたのだろう。チャーチルは発明や発想の天賦の才があり、物事を実用的で工学的な観点から考える習慣があった。葉巻がばらばらにならないように茶色の紙製チューブ「ベリーハンドゥ」を考案したり、ノルマンディー上陸作戦のDデーに海上に浮かべた人工港マルベリー・ハーバーを固定させる方法を考えたりしたのもそうした習慣の賜物だった。子供の頃は要塞を組み立てるのが好きで、弟のジャックと平衡錘投石機をつくり、牛に向かってリンゴを投げたりしていた。