2022年1月7日金曜日

20220106 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「最後の元老・西園寺公望」pp.283-285より抜粋

岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「最後の元老・西園寺公望pp.283-285より抜粋
ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

西園寺公望は、嘉永二年(1849年)10月京都において生まれた。西園寺家は九清華の一つ、公家中の名門である。彼が生まれて3年余りの後に浦賀にペリーの黒船が現れ、そして、これを糸口として幕末動乱の世となる。過去まことに久しい間その存在を世の中から半ば忘れられ政治的にもいわば仮死の状態にあった朝廷は、やがて急速に高揚してくる尊攘運動に、そして、のちには尊王討幕運動に擁せられて、激動、変転する時代の風雲の只中に登場し、歴史の脚光を華やかに浴びることになった。

 このように正に騒然たる世の姿は、年少の西園寺の心を烈しくゆり動かすにはいなかった。彼は馬術を試みた。剣術を学び始めた。但し、剣術は途中で関白から差し止められた。『日本外史』をよみ、王政復古を論じたりするようになった。そのような彼は、古格・先例に呪縛され、煩瑣な伝統的な儀式・慣行の中に明け暮れる朝廷生活の日々を次第に大きな苦痛と感じるようになった。「事々物々が嘆息の種」と彼は後年当時のことを回想している。

 このような気持は、西園寺と限らず、この幕末の若い気概ある公卿たちに多少とも共通した風潮であった。ただ西園寺の場合に注意をひくことは、文久年間14・15歳の頃、いまどき弓術を学ぶのは迂遠であり、今後の武器は銃器だといい、また福沢諭吉の『西洋事情』をよんで、「こういう天地に生まれたならば、さぞ面白かろう」と考えたりしていた、という点である。彼は、多くの公卿たちのように世を王政の古にかえすことにひたすらに憧れて、それのみを夢みていたのではなく、西洋の事物にも関心を寄せていたのであった。幕末・維新の朝廷には排外・攘夷の雰囲気が冬の霧のように深く垂れこめていたことを考えるとき、このことは注目に価する。幕末公卿の子弟に漢学を授けていた儒学者伊藤猶斎は西園寺を柳原前光と並べて年少公卿中の俊秀と評したといわれているが、西園寺は聡明であったとともに、すでに開明的でもあったといえる。

慶応三年(1867年)10月に将軍慶喜によって大政奉還の上表が提出され、12月には王政復古の大号令の渙発をみて、明治新政府が誕生した。それとともに、西園寺は参与職に任ぜられた。時に19歳である。しかし、まもなく戊辰戦争の開幕(慶応4年1月)を迎えると、彼は山陰道鎮撫総督に任ぜられ、烏帽子・直垂をつけ、馬に打乗り、薩長両藩の兵を率いて錦旗を風に翻して丹波にむかった。幕末の日にいそしんだ馬術が、このときはからずも役に立った。家臣から馬上の姿が似合うと誉められたという。やがて大阪に凱旋すると、今度は北陸鎮撫使として越後に出動、同地の平定をみたのちは会津に転戦した。なお、越後に出立する前に西園寺は洋服をつけて参内し、きわめて守旧的・排外的な朝廷のひとびとを驚愕させ、大いに物議をかもした。今後西洋の軍制を大いにとり入れるには先ず服装から、というのが、当時の彼の考えであった。なお、西園寺の回顧によれば、洋服で参内したのは彼が初めてであったともに、公卿の中で断髪したのも彼が最初であったという。


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