人間の命は短く、国家や民族の命は長い。身分制度や階級制度も、一個人の人生よりはるかに長い歴史がある。また公共機関や政党にしたところで、それらはたいてい、そこで働く政治家たちよりも長く続いている。
だから、たいていの政治家は、実務的に事足れりとするのがふつうである。面白いことに、右寄りの政治家ほど、この傾向が強い。彼らは芝居の結末を知らないのだ。舞台に上がり、短い役柄を演じて降りてゆく。芝居全体を知ることはできないし、知ろうとも思わない。
割り振られた役割を、ほんの一瞬果たすだけで満足する。そのほうが政治家として成功することが多いのだ。遠大な目標を追い求めて、全体の意味を見通そうなどと野心を抱く者ほど失敗に終わる。全体の意味などはじめから信じない。そんなものがあるとも思わない。知ろうともしない、そんな悟りきった政治家ほど成功するものだ。
たとえばビスマルクがそうだった。「神を前に、国家の名誉だの、国家権力などいかほどのものであろう。牛のひづめひとかきで蟻塚はくずれてしまう。養蜂家が育てたミツバチの巣にしたところで一代かぎりのものじゃないか」
これとは異なるタイプの政治家がいる。彼らはきまって理論を実践に移そうとする。国家や政党に仕えると同時に、歴史的使命を果たし進歩思想に貢献したいと考えるのである。こういうタイプはたいてい左翼の政治家で、まず成功しない。挫折した理想主義者、夢破れた夢想家たちの数は、浜の真砂より多い。
それでも、壮大な理想を掲げて成功した大物がいなかったわけではない。とくに希代の革命家には成功例がある。たとえばクロムウェル、ジェファーソンがそうだ。私たちの20世紀ではレーニンと毛沢東がいる。彼らの成功は、実際には期待に反して醜悪なものだったが、それでも成功であったことにはちがいない。
では、ヒトラーはどちらのタイプか。ヒトラーを不用意に右翼政治家に位置づけてしまうのは禁物だ。彼は明らかに後者のタイプ、すなわち左翼政治家のタイプだ。ヒトラーはたんなる実務政治家ではなく、思想的政治家、目的の策定者、彼一流の表現を借りれば「綱領作成者」(プログラマー)であり、いってみればヒトラー主義を唱える「マルクス」であると同時に、それを実践する「レーニン」でもあった。彼は、自分のなかにプログラマーと政治家が同居していることを、たいへん誇りにしていた。「長い人類の歴史でも一度きりのことだ」と。
さらに彼は、理論すなわち「プログラム」に従って進める政治家のほうが、ただの実務政治家よりも成功するのが難しいことを認識していた。これはまったく正しいことだった。「なぜなら後世にとって偉大な仕事ほど、その戦いは困難なものであり、成功もまれであるからだ。だが百年に一度でも花ひらけば、きたるべきのちの世の名声がほのかな光のよるにわが身を包みこむことであろう。」
むろん誰もが知るとおり、ヒトラーにそのような名声は残らなかった。のちの世に彼を包みこんだのは、(名声のほのかな光」とはまったく別のものであった。」
株式会社草思社刊 セバスチャン・ハフナー著 瀬野 文教訳 「ヒトラーとは何か」
ISBN-10: 4794219482ISBN-13: 978-4794219480
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