とはいうものの、ここ2日ほど新規の記事投稿を行ってこなかったため、何かしら書いておこうと考え、さきほど来から記事作成を開始した次第ですが相変わらず、自身の内面は、何と云いますか無風・凪状態のままであり「何か書いてみよう!」といった能動的な衝動は湧いてきてくれません・・(苦笑)。
それでも、記事を作成しようとするのであれば、何かしらは書かなければなりません・・。それが面白いかそうでないかは別として・・(苦笑)。では、面白い記事を書くことが出来ない状態であるのならば、無理をして記事作成をすることはないといった考えも出てくるのですが、他方で「継続」に重点を置いて考えてみますと、さきの見解とは異なり、たとえ面白い記事を書くことが出来なくとも、そこで作成した記事は、後で何らかの意味を持つ可能性も(充分に)あり、さらに、そうした無風・凪状態の中で記事を作成したといった実感は、自身の考えに影響を与え、さらには自信ともなり得るのだと云えます・・。
むしろ、ある程度の期間、どうにか記事作成を継続することが出来ているのであれば、この程度の状況はなかったとは言い切れませんので、こうした状況においては、やはり、多少自分なりの義務感を発露させてでも、何かしら作成しておく方が良いのではないかと思われるのです・・(苦笑)。
ともあれ、そのような経緯で上記のような文章に至ったと云えますが、ここまで書いていて不図思ったことは、もうじき終戦(敗戦)記念日ということであり、また同時にそれが祖霊が戻ってくるとされるお盆にもあたるということです。祖霊が戻るとされる時季に、多くの犠牲者を出した、まさしく有史以来の大戦争が終結したことは、必然的に記憶に残るようになるのでしょうが、他方で、こうした記憶はそれに関与した当事者の方々が存命であるうちは社会全体にて割合「生きた記憶」として保持されるのでしょうが、それら世代の方々が徐々に減ってきますと「生きた記憶」とは離れ、何と云いますか様式化・形式化していく傾向があると云えます・・。
こうした生きた記憶としての歴史像の様式化・形式化は、異言しますと「文字面による理解」であり、その底に息づいている情念や意味の捨象ということになります。あるいは、こうした行為は、実験などを要する自然科学系の学問であれば、有効な操作であるのかもしれませんが、人文社会科学系においては、事物の本質的な理解は、こうした情念や意味を血肉化・インカーネーションした上での理解ということになり、無論、それは同時代のものではないことから厳密な意味でのそれは不可能と云えますが、それでも、同時代のさまざまな状況の(精確な)認識により、それに迫ることは出来ると云えます。そして、この「(当時の歴史像に)迫ることは出来る」と考え、そこに価値を見出すことこそが、どの時代であっても歴史の意味であり、そしてまた楽しさであるとも思うのですが、多分、この部分が我が国の場合、どうも此岸的というか「今此処」に重点を置き過ぎてしまう傾向があるのではないかと思われるのです・・(過日引用のクローチェ的視点の行き過ぎとも云え、またそれは同、過日引用の「ラッセル教育論」での指摘に通じる)そうしますと、さきの「同時代のさまざまな状況の(精確な)認識」にはあまり力点を置かなくなり、そして、さまざまな借景的とも云える「歴史ドラマ」「マンガ」などの舞台背景の「設定」ということになります・・。
とはいえ、こうしたことは「今此処」で述べたところで、変りようがないとも思いますので、とりあえず指摘するだけ指摘しておこうと思いました。また、自身に関しては、内面の活力や気力が、こうした指摘に関連があるのではないかと不図、ここまで書いて思いました・・(苦笑)。
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5
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