今さら、どうしようもない年齢になり、大学騒動にいき当たって、なぜこんなものになって一生を台なしにしてしまったのだろうとくやむのだが、どうして、あのときこんな志望を立てたかは今考えてもはっきりしない。父に相談すると少し驚いたようである。しかし、徹底的に不干渉主義だったせいもあろうか別に反対はしなかった。ただ、こう言った。
「お前のような、自分勝手でずぼらな我がままものは、会社勤めには向かないかもしれないから、まあ、よかろう。だが、言っておくが学者とか大学の教師とかは女のくさったようなのが集まっている世界だぞ。男らしいのだっていないわけではないが、そういうのはたいてい発言力が弱かったり、中心的な人物にはなれないものだ。偽善と嫉妬だけが幅をきかす世界だということは、しっかり胸にたたきこんでおけ。そういう傾向は理科系よりも文科系に強い。半分技術者みたいな工学系より、基礎的な、純学問的なところほど強い。お前の望んでいる文学部などは、その中心だよ」
あとのほうは、動物学者だった父親の偏見かもしれない。しかし、当たっていないわけではない。全体として、この言葉は、もちろん自分自身もふくめて、今さら身にしみて思い出されることではある。このような大学教師の女性的性格は、日本だけのことだろうか。
日本文化というものは受容性が高度なせいもあってたいへん女性的特徴を持つようだ。学問も文化の一つだから、学者も女性的になるのだろうか。国文学者はとりわけ女性的な人が多い、ある博士には女性の長襦袢を身につける趣味があったといわれるが、そういう習慣を持つ人は、さすがに他部門の研究者にはいないようである。欧米では自国文学の研究者が、とくに女性的だという話は聞かないから、これは日本文化の女性的性格と関連するのであろう。ハーバード大学のリースマン教授が来朝したとき、日本の学者は幸福だ、本を読んでも女らしいなどと言われないからと冗談半分にもらした。事実アメリカでは、そういう意識がある。スポーツマンや技術者が男くさいというわけで女性にもてる。
学者、とりわけ本を読む学者はもてないのである。まあ、学者というものは、温和で乱暴者が少ない。女性的な嫉妬心が強いという点ではどこも共通ではある。ニュートンのすさまじい嫉妬と女らしい自己顕示性と競争相手にとった胸くそが悪くなるような術策は有名である。だが、それにしても、今日の日本の学者、とくに大学教授の女々しい性格は際立っている。ここで栄えたり、発言力を持ったりすることはもちろん、生き残るためにもずいぶん女らしい気をつかわなければならない。ここでは良心的ということは媚を売ることであり、誠実とはすがりつくということである。自分の好きなこと、それしかやれないことをやっているにすぎないのに、他の欲望を犠牲にして研究一本に打ち込んでいるように言いふらしたり、見せかけたりするのは、妻君が自分の才能を家庭のために犠牲にしていますということと変らない。ここでいわれる連帯とは徒党のこと、平和を守るとは地位を守ること、すべてが、言葉だけがお上品な江戸の大奥に酷似し過ぎている。こうなった原因の有力な一つには、明治、あるいは、それ以前から日本が文化の純輸入国であり、ほとんど全くといってよいほど輸出しえなかった国だったということがあると思われる。
要するに私たちの学問の世界では、どの分野にも外国が必ず先達がいるのであり、誰かが歩いた道を歩くのであり、落穂をひろうのである。前人未到の世界にふみ迷ったこともなければ、先頭を切って進んだこともない。このことが、ひいては教授のやることを真似ない弟子は憎まれるという風潮を作るに至っている。私は西洋史をやって、その世界で、あいつはドイツ語ができる、フランス語ができるというのが教授などの唯一の評価なのにびっくりした。それは大切な能力であり、不可欠な前提だけれど歴史家としては肝心要の能力ではないはずだ。東洋史で漢文が読める、日本史で古文書が読めるというのと同じことだ。歴史家にとって何がいちばん大切かということは実際の評価の際ほとんど問題にされない。歴史家が育たない根本理由である。中根千枝氏式に言えば、明治の日本の学問はウィスキーやブランデーなどの輸入商である。それを自分が作ったように勿体をつけた解説がうまかったにすぎぬ。もし明治人の持つあの国士風の風格、指導者としての責任感を欠いていたとするなら見られたものではなかったはずである。昭和のころは、それでもいろんなのをまぜ合わせカクテルは作れるようになった。マルキストはウィスキー一本やり、水わりの氷と水を加減しただけだろう。輸入したもとの酒の品質の他に、ここに上手、下手という多少の優劣が生まれた。うまいカクテもまずいのもあったがどちらにしたところで原酒を作ったことはなかったのだ。国粋主義者は、古代ものと称してあやしげなメチル入りのどぶろくを作り、これが絶対唯一のものとして強制し、国民の目をつぶしてしまった。マルクス主義経済学というのは、江戸時代の近代社会分析法を一生懸命学んで、現代にあてはめようとするものだ。現実分析がうまくゆかないし昔に帰れというはずである。人文社会系の学問だけのことではない。理科方面でも改良以外の独創的発見というのは今日に至るまで全く寥々たるものである。
会田雄次
日本人の忘れもの
商品コード 9784041329023
あとのほうは、動物学者だった父親の偏見かもしれない。しかし、当たっていないわけではない。全体として、この言葉は、もちろん自分自身もふくめて、今さら身にしみて思い出されることではある。このような大学教師の女性的性格は、日本だけのことだろうか。
日本文化というものは受容性が高度なせいもあってたいへん女性的特徴を持つようだ。学問も文化の一つだから、学者も女性的になるのだろうか。国文学者はとりわけ女性的な人が多い、ある博士には女性の長襦袢を身につける趣味があったといわれるが、そういう習慣を持つ人は、さすがに他部門の研究者にはいないようである。欧米では自国文学の研究者が、とくに女性的だという話は聞かないから、これは日本文化の女性的性格と関連するのであろう。ハーバード大学のリースマン教授が来朝したとき、日本の学者は幸福だ、本を読んでも女らしいなどと言われないからと冗談半分にもらした。事実アメリカでは、そういう意識がある。スポーツマンや技術者が男くさいというわけで女性にもてる。
学者、とりわけ本を読む学者はもてないのである。まあ、学者というものは、温和で乱暴者が少ない。女性的な嫉妬心が強いという点ではどこも共通ではある。ニュートンのすさまじい嫉妬と女らしい自己顕示性と競争相手にとった胸くそが悪くなるような術策は有名である。だが、それにしても、今日の日本の学者、とくに大学教授の女々しい性格は際立っている。ここで栄えたり、発言力を持ったりすることはもちろん、生き残るためにもずいぶん女らしい気をつかわなければならない。ここでは良心的ということは媚を売ることであり、誠実とはすがりつくということである。自分の好きなこと、それしかやれないことをやっているにすぎないのに、他の欲望を犠牲にして研究一本に打ち込んでいるように言いふらしたり、見せかけたりするのは、妻君が自分の才能を家庭のために犠牲にしていますということと変らない。ここでいわれる連帯とは徒党のこと、平和を守るとは地位を守ること、すべてが、言葉だけがお上品な江戸の大奥に酷似し過ぎている。こうなった原因の有力な一つには、明治、あるいは、それ以前から日本が文化の純輸入国であり、ほとんど全くといってよいほど輸出しえなかった国だったということがあると思われる。
要するに私たちの学問の世界では、どの分野にも外国が必ず先達がいるのであり、誰かが歩いた道を歩くのであり、落穂をひろうのである。前人未到の世界にふみ迷ったこともなければ、先頭を切って進んだこともない。このことが、ひいては教授のやることを真似ない弟子は憎まれるという風潮を作るに至っている。私は西洋史をやって、その世界で、あいつはドイツ語ができる、フランス語ができるというのが教授などの唯一の評価なのにびっくりした。それは大切な能力であり、不可欠な前提だけれど歴史家としては肝心要の能力ではないはずだ。東洋史で漢文が読める、日本史で古文書が読めるというのと同じことだ。歴史家にとって何がいちばん大切かということは実際の評価の際ほとんど問題にされない。歴史家が育たない根本理由である。中根千枝氏式に言えば、明治の日本の学問はウィスキーやブランデーなどの輸入商である。それを自分が作ったように勿体をつけた解説がうまかったにすぎぬ。もし明治人の持つあの国士風の風格、指導者としての責任感を欠いていたとするなら見られたものではなかったはずである。昭和のころは、それでもいろんなのをまぜ合わせカクテルは作れるようになった。マルキストはウィスキー一本やり、水わりの氷と水を加減しただけだろう。輸入したもとの酒の品質の他に、ここに上手、下手という多少の優劣が生まれた。うまいカクテもまずいのもあったがどちらにしたところで原酒を作ったことはなかったのだ。国粋主義者は、古代ものと称してあやしげなメチル入りのどぶろくを作り、これが絶対唯一のものとして強制し、国民の目をつぶしてしまった。マルクス主義経済学というのは、江戸時代の近代社会分析法を一生懸命学んで、現代にあてはめようとするものだ。現実分析がうまくゆかないし昔に帰れというはずである。人文社会系の学問だけのことではない。理科方面でも改良以外の独創的発見というのは今日に至るまで全く寥々たるものである。
会田雄次
日本人の忘れもの
商品コード 9784041329023
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