2022年9月9日金曜日

20220909 中央公論新社刊 保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」pp.99-102より抜粋

中央公論新社刊 保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」
pp.99-102より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122049911
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122049918

 世の中には、完全無欠な人間はいない。誰でも欠点はあり、ふつうの見方をすれば大半が「大したことのない人間」ということになる。ただ、その「大したことのない人間」にも、絶対に取り柄の一つや二つはある。あるいは、ちょっとしたことで取り柄が抑え付けられていて欠点ばかりが目立ってしまっていたり、欠点と取り柄が裏腹の関係で、欠点としての面が強く出てしまっていたり、ということもよくある。

 たとえばドストエフスキーは、一面ではどうしようもないギャンブル狂で、性格破綻者寸前みたいなところもあったらしい。しかし、ギャンブルに入れ込む熱狂みたいなものは、彼の作中人物の性格に確実に反映しているし、それ以上に作品の展開そのものにも色濃くあらわれていると私は思う。

 人間が性格を持っていることや特徴を持っているということは、つまり欠点か取り柄を持っているということであり、欠点が、取り柄の時と所を間違った現れであったり、取り柄となるべきもののなりそびれた形なのだという人間観に立てば、すべての人間には取り柄・長所・美質があるということになる。

 小学校の頃を思い出してみれば、先生からほめられて喜ばない子どもは一人もいなかったはずだ。ほめられて喜ぶということは、大げさに言えば「善に向って成長したい」「善を志向している」ということで、それは大人になっても心の底では変わらずにある。誰もが人間として立派に生きたい、正しく生きたい、まじめに働きたい、真剣に恋愛したい、という思いを持っている。-だから、私は小説の登場人物を、人間には誰しもそういうまっとうな思いがある、という前提でつくっている。

 一見そうは見えないかもしれないけれど、私の小説の登場人物が、みんな使命感をもっているか、少なくとも使命感のなさを自覚しているのは、そういう理由による。誰も近所で起こっていることや国際政治には興味はもたないけれど、みな「世界」には関心を持っている。

 まっとうな思いとか使命感とかいうと、日本人は斜に構えて冷笑する傾向があるけれど、生きるということはやっぱりそういうことだと思う。

 現実というものは、そういうポジティブな志向を覆い隠しがちだけれど、だからといって、小説にネガティブな人間ばかり登場させるという考え方は、リアリティの捉え方の間違いだと思うし、小説家としての思考の怠慢だとも思う。日常的な思考様式の中でしか書いていないと言い換えてもいい。

 ただ卑小なだけでもなければ、ただ善を志向するだけでもない。彼・彼女の癖や社会生活で染まってしまった変な考え方やしゃべり方によって歪められてはいるけれど、よく見ればそれらが美質の発露であるーという人物の描き方には、読者の興味を文字に書かれた先にまで向ける力学がある。

 卑小な人間ばかり出てくる卑小な小説は、読んでいて高揚感や解放される気分がわいてこない。これは、テクニック以前の、ほとんど思想の域での話といってもいいが、小説の書き手は、小さなものから大きなものを見ようとする洞察力、欠点から前向きな志向や人生のどこからの岐路で道を誤ってしまったその人本来の可能性をくみとろうとする志が必要だと思うのだ。

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