2021年3月29日月曜日

20210329 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.169-170より抜粋

 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.169-170より抜粋

今、街頭で、西アフリカやバングラデシュの飢饉のため募金が行われている。ところが私の学生時代には、専ら「冷害で餓死に瀕した東北の農民」のために、街頭募金が行われていたのである。今では想像もつくまい。「トチの実もドングリも食べつくし、ワラモチで飢えをしのいでいます。」といって、その実物を机に並べて街頭に立ったグループもあった。私はどうもこういうことは苦手で、「寄付はするが、街頭には立たない」とことわったため、ひどく非難されたので、今でもおぼえている。こういうこと、すなわち「国民が飢えに瀕しても原爆や戦艦を造る」といったことは、多くの民族が通過しなければならぬ一段階なのかも知れない。だがそれはいずれの国民が行おうと結局はすべて無駄なのである。いまどき、一、二個の原爆や水爆をつくるということは、太平洋戦争の直後に戦艦大和をつくるぐらいの愚行であり、軍事的に見れば、栄光を追う老いぼれの老将軍や軍事委員会主席の白昼夢に基づく浪費にすぎない。

だが、ここで誤解してならないことは、そういう状態を、その国民であれ当時の日本人であれ、圧政とは受けとらなかったことである。ここに軍備というものがもつ奇妙な魔力、子供を異様にひきつける、あの魅力にも似た魔力がある。当時の日本人が、物すごい軍備の重圧下に苦しみうめき、かつ怨嗟の声をあげていたかのように言うのは、戦後の創作された虚構であり、当時はそういうことを言う人は例外であり異端者であって、一般はむしろ逆で、われわれのような「いわゆるインテリ」(この言葉は当時は一種の蔑称であるが)が、ちょっとそういった批判を口にすれば、最も苦しんでいるはずの農民から面詰されるのが普通であった。彼らは軍備を、軍艦や戦闘機や砲を、血と汗できずきあげた誇るべき自分たちの共有財産のように考えており、それらにケチをつけるような者は、ただではおかない、といった面があった。

一方、軍の側にも明らかにこれに対応する考え方があった。人間より兵器を大切にしたことは、前にもいったように事実であるが、兵器について必ずいわれたことで、今では忘れられている言葉は、「御紋章」と同時に「お前たちの父母の血と汗の結晶である」という言葉である。この考え方は海軍にもあったようで、大和出撃の動機の一つが「国民に多大の犠牲を強いて造った戦艦を戦わずして敵の手に渡すことは出来ない」ということだったそうである。いわば「身分不相応」な軍備が国民に極限ぎりぎりの犠牲を強いつづけてきたことを実感している当時の軍人には、「共有財産」を活用もせずに、勝手に敵手にわたして平然と「降服」することは、何としても出来ないことだったのだろう。誤解を恐れずにいえば、私がその立場にいれば、やはり同じことをしたであろうということである。

陸軍には一種の「農民尊崇主義」のようなものがあった。これは前に秦郁彦氏も指摘されたが、日本の陸軍には、都会人とかインテリとかを、最後の最後まで、「陸軍という身内」に入れようとしなかったそうで、これは米英軍にもドイツ軍にも見られなかった大きな特徴だそうである。

同時に反射的に「都市のインテリ」は昔から陸軍を嫌った。「どうせ兵隊にとられるんなら海軍に行きなさいよ。陸軍なんてドロ臭い」とは当時のインテリ女性がよく口にした言葉である。従ってインテリの陸軍嫌いは戦後のことでなく、戦前からの伝統であり、おそらく、これが今でも尾を引いて、自衛隊への批判乃至はいやがらせは、ほぼ陸上自衛隊に集中し、海上自衛隊は実質的にはその対象からはずされているわけであろう。だが当時は農村ではこの感じは一変していた。しかし何らかの意見が活字になるのは、ほとんど「都市インテリ」の場合であり。そのため、何となく陸軍は戦前から全日本人の怨嗟の的だったかのような印象が今では一般的になっているから、陸軍と農民との間に非常に強い「身内意識」あるいは「共同体意識」があったことは、今の人には意外であろう。だがこの関係は、軍隊内における「農民出の下士官」と「都市インテリの兵士」との間の、一種の相互的嫌悪感といったものに、良く表れている。下士官とか軍曹とかいう言葉は、戦後はもちろんのこと、戦時中ですら一種の「蔑称」として使われていたことが、上記の関係を象徴的に示しているであろう。


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