中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.84-85より抜粋
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
民権運動もしくはナショナリズムと明治文学の関連を見るとき、もっとも興味のある作品の一つとして東海散士の『佳人之奇遇』をあげることができよう。
「同時代の青年の憧れをこれほど純一な熱情で多彩に表現した小説は、その後も我国の近代文学に現れなかった」という中村光夫の評語に見られるように、それは当時の青年知識層の政治意識に、ほとんどロマンティックというべき高揚をもたらしたものであった。また「一時青年の作文と言えば、悉くこの『佳人之奇遇』張りで、たとえば高山樗牛の青年時代の日記の如きも全然この文体である」と木村毅は記し、「其頃佳人之奇遇と云う小説が出て、文字を読む程の者は皆読んだ」と徳富蘆花も書いている。つまり、この小説は、いわゆる文学青年に限らず(そういうタイプも成立していなかったが)、当時の青年一般によって読まれたことが大切である。
もちろん、近代文学の理念に照らして、この作品の未熟を論ずることは容易である。すでに散士自身その「自叙」において凡そ六個の批評類型をあげ、「皇天ノ仁慈ナル、猶オ且ツ万人ノ所望ヲ満タス事能ワズ。何ゾ独リ散士ノ佳人之奇遇ニ疑ワンヤ」と軽くいなしているが、その漢文調の文体、その構成上の欠点、全体の空想性等々の弱点にもかかわらず、いまもなお、一読巻を措く能わざらしめるほどの魅力をそれに認める人々も少なくないはずである。
小島政二郎の文章を引くと、
「それでは『佳人之奇遇』は興味索然たるものであろうか。―いや、決してそうではない。私は読後作者の鬱屈した熱情を身に浴びる思いがした。
それは飽く事疲れる事を知らぬ熱情だ。明るい喜びの熱情ではない。鬱屈した悲劇的熱情だ。独立国を亡ぼす者に対する怒りと憎しみの中に迸り出ている熱情だ。苦境、逆境に敢然として戦う忍苦の生活となって現れている熱情だ。不義を憎み、正義を愛する精神となって襲って来る熱情だ。(略)この熱情は、或いは単純、単調の譏りを免れないかも知れない。併し贋物では決してない。本物である。純粋である。(略)
私はこの評語に同感する。近代文学史における評価がいかなるものであれ、この小説らしからぬ小説の与える感動に匹敵するものは多く見出せないと思う。そして、その純粋な感動の根源をなすものが鬱勃たる明治の精神であることはともかくとして、その内容な政治情勢との関連でいえば、「圧政政府」に対する天賦人権の主張に結晶した政治への迸るような夢想であったといえよう。
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