A「先日久しぶりに関西に赴き、勉強会に参加させて頂きました。
そこで行われる議論とは、かつては日常的に行われていたものでしたが、現在になりあらためて思うことは『そうした場での経験を通して創造とは為されるのではないだろうか・・。』ということです。
そこで参加者各々が真摯に自分のコトバで意見を語り合い、議論の紆余曲折を経て、正反合として『新しい考え』に至るのではないでしょうか・・?
またそこから弁証法(Dialectic)と対話(Dialogue)の語源が同一ではないかと思い至るのですが、少なくとも双方に相通じる要素はあるのではないかと考えます。
一方、かつてのブログ記事に書いた通り、我が国には伝統的に『議論』という文化が乏しく、何かしらそれを乱暴な口論と見做すようなところが多分にあるのではないかと思います・・。
(我が国の場合、女性が参加することが困難、躊躇する文化、遊戯等は、それを軟化させるか排除するかの二択であると云える。)
『議論では何も変わらない』というのは、よく聞くコトバですが、それは少なくとも、自国を(文化的な意味でも)先進国と見做している国においては『如何なモノか・・?』と思われます・・。
(実は議論によって何か変えられることが怖くて仕方がないのかもしれない・・誰が・・?。)
とはいえ、たしかに我が国における議論では抽象的、観念的である場合が多い議題、論点に対する各々の考えを述べることよりも、直接的な議論参加者そのものをイジル能力が長けた人間が注目され、それが『優れた人物』と見做されるといった悲しい風土があるように思われます・・。
(それは昨今のテレビ番組をいくつか観てみればわかることではないでしょうか?
また、希望的観測によると昨今テレビがネットに押されつつある現状とは、こうした風土が見透かされてきたということかもしれません・・。)
いや、もとい、こうした風土とは、昨今の世界でのさまざま出来事を見た場合、ある程度世界共通のものとなってきているのではないかとも思われます・・。
そうしますと、現代社会とは、全般的に以前に比べ、議論そのもの自体に変化が生じているのではないかとも考えされられます。
また、それは現在では概ね古本となっている時代(1960~1990年代周辺)に刊行された対談集を数冊読んで頂きますと、その意味が分かって頂けるのではないかと思います・・。
そしてそこには、昨今よく聞く『活字文化の衰頽』といった現象がある程度関与しているのではないかと思われるのです・・。
また、そうした一連の同時代の現象をより大きな視点にて捉えてみますと、時代精神といったものが透けて見えてくるのではないでしょうか?
さらにここまで書いており不図想起されたことは、かつてどこかの喫茶店で話していた折に聞いた『しばらくその人とハナシをしていると、その人が普段から本を読む人か、どういった本を読む人か、あるいはカッコつけてわざとそうしたコトバを使っているだけかが大体分かってしまうのです・・。』といったことで、これには少し考えさせられました・・。
とはいえ、いや、それだからこそ、こうしたことを書き、あるいは読んでみたとしても、実際にそうした対話の経験がなければ、それはあくまでも事実を基点、核とした創造ではないことから結果としてその創造された文章とは内容のないものとなってしまうのではないかと思われるのです・・。
(であるからといって経験さえあれば内容のある文章が書けるわけでもないようですが・・(苦笑)。)
そして、それ故に苦しみ且つ楽しんで真摯に対話をすることが出来る環境をどこかである程度以上の期間持つことが大事なのではないかと思われるのです・・。
また、こうしたことはトーマス・マン著「魔の山」の一つの大きな主題ではないかと思われます。
そしてまた、社会における大学が存在する根源的な意味とは、一つにこういったところにあるのではないでしょうか?
今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
2011年の東日本大震災から6年が経過しました。この大地震および、去る2016年の熊本、山陰東部にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
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