これを興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
しかし本日に関しても昨日同様、今現在、記事作成を開始した時点において、その主題とは定まっておりません・・(苦笑)。
しかしそこで不図思い付いたことは、先日投稿のブログ記事にて扱った関西での小学校開設を巡る問題についてです。
さて、現在の我々が日常的に用いる言語の『右翼』・『左翼』の意味についてですが、その淵源とは、フランス革命後の議会の保守、革新両派議員の議会での着席の様相から名付けられたものであるとされております。
そして上述の原理的な語義に従いますと保守は右翼、革新は左翼ということになりますが、これをかりそめに我が国の近代以降の政治情勢に当て嵌め考えてみますと、ことはそう単純には割り切れないということになるのです・・。
つまり『国権、国体に対して肯定、保守的な政治勢力が右翼であり、それに対し、否定とはいかないまでも、その変革、革新を望む政治勢力が左翼であると云えるのであろうか?』と考えてみますと、それは150年程度の我が国近代の歴史においても、その時代、状況によっても随分と異なるのではないかと思われるのです・・。
具体的には明治政府誕生直後といえる1870年代に九州を中心として発生した一連の明治政府に対する叛乱を起こした勢力とは、現行(当時の)政府に対する変革を要求するものであったにもかかわらず、その思想的背景の主たるものは、概ね保守よりもなお一層強い反動に近い、あるいは国粋的なものであったと考えられております。
そして、それら一連の叛乱の鎮圧後、明治政府の土台は盤石なものとなり、一方、叛乱を起こした勢力の思想を受け継いだ人々は、政府に対して議会の場で議論を以って変革を要求する自由民権運動、あるいは国粋主義を基調とした国権拡張勢力などで活躍の場を見出していくようになりました。
その後、これら両勢力(自由民権派・国権拡張勢力)は随時さまざまな勢力を吸収、拡大していき、後世、前者の中で急進的と云える勢力が左翼、後者が全般的に右翼と称されるようになったのではないかと思われます。
そして、両勢力共にその後の日本近現代史において少なからぬ役割を果たすのですが、こうした経緯の前兆とは、土佐出身の自由民権運動家である中江兆民(篤介)著『三酔人経綸問答』から見出すことが出来るのではないかと考えます・・。
そしてハナシははじめに戻り、以上の経緯から近代以降の我が国における本来の語義的な意味からの『保守は右翼、革新は左翼』といった認識が多少困難になるのではないかと思われるのです。
あるいは、明治初期とは、自由民権、国権拡張といった思想的要素を基軸として分化する以前の、ある種混沌としたエネルギーが社会に満ちていた時代であったのかもしれません・・。
また、そうした視点から現代我が国の様相を考えてみますと不図、どうも『何かが違うのでは・・?』と思ってしまうのですが、その理由とは一体何でしょうか?
あるいは『何も違わなくない』のでしょうか?
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺において発生した大地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
オッペケペー節
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