本日、電車内で読んでいた著作内での記述にて、昨今投稿したいくつかのブログ記事内容に対しての異なった視点ともなるのではないかと思われた部分を見つけましたので、以下それを抜粋引用します。
筑摩書房刊 丸山眞男著「忠誠と反逆」pp.422-423より抜粋引用
『歴史的認識は、たんに時間を超越した永遠者の観念からも、また、たんに自然的な時間の継起の知覚からも生まれない。それはいつでもどこでも、永遠と時間との交わりを通じて自覚される。日本の歴史意識の「古層」において、そうした永遠者の位置を占めて来たのは、系譜的連続における無窮性であり、そこに日本型の「永遠の今」が構成されたこと、さきに見たとおりである。この無窮性は時間にたいする超越者ではなくて、時間の無限の線的な延長のうえに観念される点では、どこまでも真の永遠性とは異なっている。けれども、漢意、仏意、洋意に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした「古層」は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる恰好の土壌となった。ところで家系(イエ)の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に、「いま」の感覚はあらゆる「理念」への錨づけから放たれて、うつろい行く瞬間の享受としてだけ、宣命のいう「中今」への賛歌がひびきつづけているかに見える。すべてが歴史主義化された世界認識―ますます短縮する「世代」観はその一つの現れにすぎない―は、かえって非歴史的な、現在の、そのつどの絶対化をよびおこさずにはいないであろう。
しかも眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。
もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の持続」は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。このパラドックスを世界史における「理性の狡知」のもう一つの現れとみるべきか、それとも、それは急速に終幕に向かっているコメディアなのか。―だが、文明論は所詮、この小稿の場ではない。』
これはなかなか深いことを述べているのではないかと思われますが、読んで頂いた皆様は如何お考えになるでしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。
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