2016年7月11日月曜日

20160711 夏期の靴下と革靴・・(日本にて)

A「本日も首都圏は気温が上昇し、若干蒸し暑く感じました。

そして、この時期になりますと、靴下をはき、靴をはいていることに「どうもおかしいのではないか?」と思うことがあります。

身体の他の部分はさておき、この季節の足に靴下と靴とは、本質的に我が国の風土に適していないのではないでしょうか・・(笑)?

しかし、この一方において、常識といったものもまた世間には厳然と存在するようです・・・(笑)。

そして電車の中にいる殆どのサラリーマン達(無論、自身も含め)は、この常識を概ね所与、当然のものとしているのではないでしょうか?

このようなことは、一見些細なことのようですが、この現代における常識?の淵源とは、これもまた明治維新、文明開化による大幅な文化の変化、変動にあるのではないかと思われます・・。

そして同時に、こうしたこと(文明開化による変化、変動)は、少なくとも我が国においては、都市部を中心として周辺地域に波及してゆくような性質が強かったのではないでしょうか・・?

司馬遼太郎がこの現象をどこかで「(西洋)文明の配電盤としての東京」と記しておりましたが、こうした現象が生じるメカニズムとは、明治以降現代に至るまで、あまり変化することなく、また、我々日本人は様々なレベルにおいて、そうした状況を場面、場面に応じ器用に工夫、改変し、やりすごしてきたように思います・・。

また、そうしたことの積重ね、時代の経過に伴い、外から訪れる条件、状況に対し的確に対応、処理することを各々個人が(第二の)天性とすることを望まれるような社会が形成されていったのではないでしょうか?

しかし同時に、こうした意見とは、既に陳腐化するほど様々な場面で主張されてきたことではあるのですが・・(苦笑)。
(夏目漱石著「現代日本の開化」)

ともあれ、以上のことから、我が国社会における様々な文化の大きな変化、変動の原因とは、結局のところ、外部からの強い刺激によって「のみ」惹起され得るものなのでしょうか?

多分、我が国とは、それが微細なものであれ、何かしら実在する対象が存在する場合、その扱い、操作を通じ徐々に習熟し、国際的に遜色ない研究等が為される一方、その対象が自身の文化に属さない(精神を持つ)個人、集団そして文化である場合、その扱いを含め認識が(極めて)拙劣なものとなってしまう傾向があるようにも思えます・・。

その上で現在為されつつある理系立国的な諸施策とは、その根源において、我が国の長所を伸ばすことを企図したものであり、大変素晴らしいとは思いますが、その一方において、様々なレベルでの他者の歴史、文化などを能動的に学ぼうとする精神的姿勢の獲得もまた重要であるのではないかと思いますが如何でしょうか・・?

そして、そうしたことは我々の場合、なかなか難しいことなのでしょうか・・(苦笑)?

とはいえ、上に述べたことも、これまで自身について考えたことを拡大、相変化させた部分も多く、その意味では、能動性を保持するための精神的均衡、バランスらしきものもまた、大変重要であり、同時にそれが、如何なるものであれ、文章を書く際において極めて重要なものであるのかもしれません・・。

異言すると、知識、主題、着想など「だけ」でも多分、(内容、中身のある)文章とは、なかなか書き難いものではないかということになるのでしょうか・・?
とはいえ、こうしたことはなかなか「普遍的に現実に適合している」という見解が出難く、そういった意味において面倒ではあるのですが、さきに述べた内容につながり、なかなか重要な事柄ではないかと思われます・・。
さて、皆様はどのようにお考えになるでしょうか?

そしてここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の九州、熊本での大震災により被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」



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