2022年7月31日日曜日
20220731 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」 3死の島々 pp.219‐220より抜粋
3死の島々 pp.219‐220より抜粋
ISBN-10 : 4150504369
ISBN-13 : 978-4150504366
大西の深く恨みとするところは、戦争の進行状況についてだけではなかった。艦隊司令部とその抱いている「艦隊第一」という時代遅れの思想のために、それよりももっと重要な航空部隊の要請が蹂躙されていると感じていたのである。大西の考えはもちろん置かれた立場からのものであるが、しかしそれは、文官と軍部とを問わず個々の部課相互間の対立の増大を反映していた。
生産が、ゆっくりとではあるが目に見えて低下してきたために、状況はさらに悪化した。戦闘で資材を失えば、もはやこれを補充することができなくなったのだ。陸海軍の最低限の要求にも応ずることがえきなくなった。占領地域の指揮官たちが、現地資源の開発に失敗したばかりでなく、商船の不足と遠距離を北に向かう船舶に対するアメリカ潜水艦の猛烈な攻撃のため、生産したもので日本本土に到着するのはほんの一部でしかなかった。
この原料のひどい不足は、しばしば重複したり矛盾したりする統制のせいで悪化していたのである。一方アメリカにおける経済動員は、急速に伸びていた。戦争の刺激におり日本の生産が四分の一増加したのに対し、アメリカでは約三分の二増加していた。しかも日本の製造能率はアメリカのそれの三十五パーセントにすぎなかった。もっと重大なことは、日本の国民総生産(GNP)指数(1940年の基礎指数を100として)は1943年の初頭までにわずか102にしか上昇していないのに対し、アメリカのそれは136に達していた。そのうえアメリカの生産拡大はあらゆる面で実によく計画されていた。日本は生産を多様化することができなかった。武器弾薬の生産は急増したーしかしそれは民需品の犠牲において行われていた。真珠湾攻撃の十年前は生産がきわめて大幅に増加を見たので、指導者たちは大した生産拡張をせずに、大戦争を遂行することができると考えていたのである。
現実に直面して、彼らは全般の水準を上げようとあらゆる努力をした。数カ月の間に、国民総生産は急上昇した。全生産が著しい増加を示し、軍需品の生産は今までよりずっと上昇した。見とおしは有望であった。しかしもう遅すぎはしなかったか。
船舶は最大の問題であった。慎重に予算を割当てておいたのだが、アッツの陥落と隣接の島キスカからの秘密撤収のために予定がすっかり狂ってしまった。アリョーシャン列島におけるかれら二つの橋頭保がなくなったので、千島列島を要塞化し、ここに兵力を配置する必要が生じた。そして、こうしたことすべてのために、南方の包囲された地域から大量の船舶を転用しなければならなくなったのである。
2022年7月30日土曜日
20220730 株式会社筑摩書房刊行 山田風太郎著 「戦中派虫けら日記」 pp.212‐214より抜粋
ISBN-10 : 4480034099
ISBN-13 : 978-4480034090
○山本連合艦隊司令長官戦死。
このニュースをはじめて定時近い会社のざわめきの中にいたとき、みな耳を疑った。デマの傑作だと笑った者があった。
何ということだ。いったい何ということだ。
ああ、山本連合艦隊司令長官戦死!
二十二日
○先日、大橋図書館にいって芥川龍之介の「大導寺信輔の半生」を読んでいる中に、「本」という一章で、龍之介が幼い日この大橋図書館へ度々通ったことを知って、ふしぎな思いに打たれずにはいられなかった。
信輔、つまり龍之介の、本に対する熱愛、友人に関する一種病的ともいうべき思想、これらをはじめとして、是非は別として、信輔はびっくりするほど、自分と酷似している。もっともいわゆる「文学青年」なるものは、たいていこんなものかも知れない。
それはともかくこの図書館の古びた階段や壁や窓から見て、そう昔ではない龍之介の若い日と今とは、おそらく寸分の違いもないであろう。-この部屋に、この雰囲気に、あの風景を見つつ、あの遠い町のざわめきをききつつ龍之介が熱っぽい若々しい瞳でここの書物をむさぼっていたのだなーあるいは、たび重ねるうちには、彼は今自分の坐っているこの机に向っていたのかもしれない。自分は神秘と憧憬の入り混じった眼を茫然と空中へあげた。
靖国神社は大祭の名残りをひいて、今日も遠い潮鳴りのようなどよめきをあげている。
ああ、時代は変わった。龍之介の生きていた大正末期の頽廃的な日は遠い夢と去って、いま日本は、大アジア帝国建設のために雄渾な戦闘をつづけつつある。自分は龍之介よりも幸福な時代に生きているといわなければならないー但し、「将軍」を書いた彼だから、これはのれんに腕押しみたいなものだがーしかし龍之介だってもし今の時代に生まれたら「辻詳説」くらい書いたかもしれない。
潮は個人を圧倒する。大正時代に戦争を嘲笑した天才も、この苛烈な戦争の中では、その趣味を表面的に現わすことは彼の埋葬を意味するであろう。
三十日
○アッツ島守備隊全滅す。吹雪氷濤の中にアッツ島二千の神兵ことごとく戦死す。自分も戦争にゆきたくなった。ガダルカナル撤退。山本提督戦死。アッツ島全滅。悲報相ついで至る。海軍はいったいなにをしているのか。局部の勝敗に血迷うなかれとは何人がいい得るか。氷獄のごときアッツ島に冬を越した将兵をみすみず見殺しにして、どこに日本軍の真髄があるか。去年の東太平洋作戦の意義は全然霧消したではないか。
神州不敗の信念は国民の熱涙の中にかがやいている。が、キスカ島の安否が気づかわれるのは、いかんともしがたい。
北洋の吹雪に軍旗ちぎれる
潮しずけし夜業の群や天の川
2022年7月28日木曜日
20220728 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」3死の島々 pp.217‐218より抜粋
ISBN-10 : 4150504369
ISBN-13 : 978-4150504366
渡辺中佐は悲しみにうちひしがれながら、山本の遺体の火葬の指図にあたった。遺骨はパパイヤの葉をしいた小さな木箱に収めた。トラックで戦艦〈武蔵〉にそれを安置し、祖国への悲しい旅に移った。五月二十一日にこの超巨大戦艦は東京湾に到着し、ラジオアナウンサーが涙に詰まった声で、山本が「機上において壮烈な戦死を遂げた」ことを国民に伝えた。提督の遺骨は二つの骨つぼに分けられ、二つの式に向けられた。一つは山本の郷里の長岡へ、もう一つは国葬へ。国葬は六月五日に挙行された。この日はもう一人の日本海軍の英雄、東郷元帥の国葬の記念日でもあった。百万の市民が、その行列を見ようと東京の街路上に並んだ。渡辺中佐は将棋の相手であった山本提督の軍刀を携え、遺骨の安置された砲兵弾薬車の真後ろを歩いた。その遺骨は多摩墓地に埋葬された。
山本の後任者の古賀峯一提督は、「山本の前に山本なく、山本の後に山本なし」と言った。
戦争の最大の英雄の悲劇の死は、日本国民にとって、忍びがたい打撃であった。しかもアメリカがアリョーシャン列島のアッツ島を奪回したという気がめいる発表が直後に続いた。宣伝家たちはアラスカのこの荒涼たる島の上で倒れた二千三百五十一人の戦死を一大叙事詩にうたい、これを「国民の敢闘精神高揚への最高の刺激剤」たらしめようとした。
しかし天皇自身はこの玉砕を深く悲しまれた。天皇は杉山参謀総長に「今後は作戦開始前に相当な成功の機会を見通してから行なうように」と言われ、蓮沼侍従武官長の前で次のように細かく心中を打ち明けられた。
「彼ら(参謀総長と軍令部総長)はそのような状況が起ることえお予測すべきであった。しかるに、五月十二日に敵が上陸して来た後に対策を講じ、それに一週間を要している。濃霧についてなにか言及しているが、霧については当然あらかじめわかっていたはずだ。・・・海軍と陸軍とはほんとうに腹を割って話し合っているのか。どうも一方が不可能な要求を出し、他方が無責任にそれを引き受けると約束しているように見えてならない。いやしくも両者が同意したら、これを完遂しなければならない。もし彼らが互いに約束したことを実行しえない場合には、初めに約束した時点よりも事態は悪くなる。もし陸海軍の間に軋轢があるならば、この戦争の成功はおぼつかない。両者は作戦を計画するにあたり、互いに完全に打ち明け合わねばならない。・・・もしわが方がこのような作戦を続けていれば、それはガダルカナルの場合におけるように敵の士気を鼓舞するのを助けるだけになり、中立諸国は動揺し、中国は勢いづくことになろう。そしてそれは大東亜共栄圏の諸国に重大な影響を及ぼすことになろう。どこかでアメリカ軍に抵抗し、これを打破する道はないのか。・・・杉山は海軍が決戦をやれば、この戦争を終結できると語っていたが、それは不可能なことである」
20220727 歯科技工士養成校の閉鎖が続くことから思ったこと
具体的に、同じ歯科医療専門職である歯科衛生士の養成校と比較してみますと、来年2023年春にも近畿地区で四年制大学の学科が新設されるとのことでした。他方、古くからの養成校で、施設の老朽化などで閉鎖に至った学校があると見聞きはしましたが、それは、さきに述べた歯科技工士養成校閉鎖の「割合」とで比較してみますと、微々たるものであると云えます。
そう、同じ歯科医療に携わる「手に職」と(国家)「資格」でありながら、片方(歯科衛生士)は、かねてより、そしてさらに養成校の新設が続き、そして他方(歯科技工士)では、過日の投稿記事にて述べましたとおり、養成校の閉鎖が続いているのが現状と云えます・・。
そして、この対照的な状況は、それぞれの伝聞されている労働環境や仕事内容によって生じていると聞き及んでおります。また、たしかにそれはそれで間違いではないと思われますが、しかし、同時に、それのみが主要な原因ではないと思われるのです。
これをもう少し考えてみますと、その背景には、歯科衛生士、同技工士それぞれ仕事内容特性の違いがあると思われます。つまり、歯科衛生士は、さまざまな機器、器具を扱う機会が多くありますが、そうであっても、対応するのは主に患者さんであることから、臨床職であると云えます。他方、歯科技工士は通常、患者さんの対応をすることは(殆ど)ありませんので、さきの臨床職とは異なり、いわば歯科医療技術職であり、対応するのは、補綴装置作成のための各種機器や、その材料が、主たるものであると云えます。
そうした事情から、それぞれの養成校での教育について類推してみますと、歯科衛生士の場合、実際に患者さんと接する機会となる臨床実習が(とても)重要なものとなりますが、歯科技工士の教育課程では、上述しました仕事内容の相違から、特に臨床にて患者さんに接するといった機会はありません。
そして、実際にそれぞれの職種についても、一般的に歯科衛生士は、患者さんへの対応、臨床業務の的確さなどが重視され評価されると云えます。他方で歯科技工士の場合、対面での要素が乏しく、主に作成補綴装置の納期、そして仕事の精確さといったものによって評価されると云えます。
つまり、歯科技工士は歯科医療職ではありながらも、他の医療職と比べ、対人の機会が少なく、主として相手にするのは機器、器具と材料であると云えます。
そこで、昨今から今なお続くDXが出てくるのですが、この流れは既存の歯科技工、そしてまた歯科医療も大きく変えます。その場合、歯科医師、歯科衛生士といった対人を主とする職種であれば、大きく変わることはないと思われますが、歯科技工士の場合、それを成立させている技術体系が、ひとたび全面的に更新されますと、各々養成校では、実習にて用いる機器、材料など一式全てを、新たな技術体系に即したものへと変更しなければ実習が困難になります。
とはいえ、歯科技工界隈にて、こうした流れ(DX)が顕著になってきたのは、ここ十数年ほどであり、あるいは、近年、閉鎖に至った養成校の多くは、このDXの潮流に適応可能な歯科技工士の養成・教育を行うことが困難であると考えたことが大きかったのではないかとも思われるのです・・。
今後しばらく、歯科技工士養成校の閉鎖は続くと思われ、また、それが底を打った後、その次には、どのような養成機関での教育課程を経て、新たな歯科技工士が生まれてくるようになるのでしょうか?
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年7月26日火曜日
20220726 深夜での文章作成から思い至った、この先の高等教育について・・
その文章は、日中での取材に基づいたものであったり、あるいは、同じく事前に大まかな題材と文字数を定められたものであったりするのですが、私の見解として、そうしたご依頼頂いた文章を、集中や弛緩を繰り返しつつ作成することは、時には面倒に思うこともありますが、それでも、作成中には、未だに楽しいと感じることが多いと云えます。
そうして文章を作成しながら段々と窓の外が明るくなってくるのを眺めて、何故だかヒリヒリする、追われるような緊張感を覚えて、そこから作成した文章を軽く読み返して、文字数のカウントを行い、それが指定の文字数にまで至っていますと「よし!ここらで文章を終らせて、あとは、いらないところを削ったり、加筆修正すれば、どうにか出来上がるだろう・・。」と安堵感を覚えるのですが、それは24:00過ぎに記事作成を始めてから5~6時間後であることが多く、また、それまでに作成した文章の文字数は2500~3500字程度であり、こうしたことは、当ブログをはじめる以前であれば、おそらく出来なかったことであると思われますので、これまで(どうにか)継続したブログ記事の作成も、全くの無駄ではなかったと云えるのかもしれません・・。
とはいえ、やはり重要であるのは「その内容」であると思いますので、この先もまた、当ブログ記事の作成とあわせて、またほかの種類の文章を作成を行いつつ、自分なりに文章の洗練を目指していきたいと考えています。やはり継続的に作成しませんと、文章の上達は、より困難になってくると思われますので・・(苦笑)。
さて、では今後は、どのような文章を作成してみたいのかと考えてみますと、現今のコロナ禍では難しいでしょうが、西日本の医療介護系大学への取材を行い、記事作成をしてみたいと考えています。おそらく、そうして作成した記事は、当ブログに掲載してみても、おそらく反響は(今のところ)イマイチであると思われますので、また何か他の媒体を検討したいと思います。
また、より具体的な取材先としては歯科衛生士、歯科技工士の養成学科が適当であると思いますが、そういえば、最近の傾向として、歯科技工士養成校の閉鎖がまたいくつか続き、おそらく、しばらく経ちますと、我が国での四年制大学での歯科技工士の養成は、広島大学のみで行われることになります・・。
時々は、小さくとり上げられることもある歯科技工士の不足や、その高い離職率などから、歯科技工士はいくら養成しても追いつかず「いっそのこと、一度更地にしてしまえ!」といった考えが、その背後にあるのかもしれません・・。
とはいえ、歯科技工自体は昨今のDXにより、その様相は変化するものの、それ自体はなくなるものではないことから、やはりまた、今後しばらく経ちますと、さらに先鋭化されて、その問題が指摘されることになるのではないかと思われるのです・・。
そして、そうした事態に至った時に注目されるのではないかと考えるのが、ツイッターでの私のプロフィールに示されている、歯科衛生士と歯科技工士資格の合一化案そして、その他の資格取得も併せて目指すことが可能な、学費が安価な新たなタイプの大学の設置です。
おそらく、今後、数十年あるいは一世紀ほどの我が国は、かつてのように繁栄した先進工業国になることは難しく、また、そうした状況から、どうにか国としての尊厳を保ちつつ、より多くの外貨を獲得可能にするためには、我が国であれば、その国民性とも云える繊細な感性に付随する手先の器用さ、そして此岸的性質を活かし、他方で、外貨獲得のためには必須とも云える英語・中国語を解する、より多くの医療介護専門職を養成することが重要ではないかと私は考えます。
おそらく、かつて我が国の花形産業であった大規模な設備を擁する近代以来の大企業のような組織は、今後の我が国では、かつてほどの重要性はなくなり、それよりも、むしろゲリラ的とも、あるいは知識集約的とも云える、国際的視野と競争力を兼ね備えた、我が国の中小規模の医療介護系組織が世界で優れたものとして認識されるようにになっていくのではないかと私には思われます。
そして、そのためには、さきに述べたような養成機関(大学・専門職大学)が必要であると思われるのですが、しかし今後一体、我が国の高等教育は、どのような変遷の経路を辿っていくのでしょうか・・?
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2022年7月24日日曜日
20220723 作成したブログ記事に「意味」を与えるものについて・・「詩心」?
この「誰に向けての文章を作成するのか?」といった視座がないままで文章を作成すれば、その文章には、込められた意味や具体性などが乏しくなり、何と云いますか「抽象的なお題目」のようなものになってしまうのではないかと思われます。
それとは逆に具体的な、ある存在に向けた、何かを伝えるための文章を作成するのであれば、それは、我々がメールなどで作成する文章のように(卑近とも云えるような)意味や具体性を持ち得ることになります。しかし同時に、こうした文章とは、あまりにも個別具体的な内容であることから、それを、そのままブログ記事とすることは、大抵の場合、困難であるように思われます。
そうしますと「では、抽象的でお題目のような文章にならず、尚且つ、何らかの意味を持ち得るような文章とは、どのように作成するのか?」と疑問に思われるかもしれませんが、これがまさに、さきに述べた「当ブログ開始当初の頃の苦労」であったように思われます。
この「文章を作成する視座の検討」で苦労したからこそ、当初は書籍からの引用記事を多用し、さらには(現在となっては)ある種の苦肉の策であったとも云える、対話形式の文章による、ブログ記事の作成をしていたのだとも云えます・・。
しかしまた、面白いことに、この苦肉の策であった「対話形式」でのブログ記事作成を続けていますと、何時頃か、ポツポツと、ある題材に基づいた独白形式文章を作成出来るようになり、そして、これをさらに続けていますと、そのうちに文章の方もまた、少しづつ洗練され、時には何らかの意味を持つこともあるようになってきたのではないかと思われるのです・・。
では、この「何らかの意味」とは何であるのかと、考えてみますと、その「意味」自体は作成する文章により異なるため、さらにその背景、あるいは基層にある「心の構え」のようなものが、作成する文章に時々「意味」を与えているのではないかと思われるのです。
そして、この(不特定多数の方々に向けた文章を作成する)心の構えとは、あるいは別のコトバにて表現しますと、それは「詩心」になるのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?
*おそらく、現在の我が国社会の多くの場面では、この「詩心」といったものが、曲解あるいは誤解されているのではないかと思われます。
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2022年7月22日金曜日
20220721 経験した出来事から記憶が想起される過程について・・
昨日投稿のブログ記事にて「南紀での在住経験が私にとっては大事であった。」と述べましたが、それは、より具体的には「南紀在住期間にて内面に生じた変化」と云えますが、しかし、その変化の経緯は、以前にも当ブログにて少し述べた記憶がありますが、おそらくは一般的に遅々としたものであり、そしてまた、後になり振り返って「ああ、そうだったのか・・。」と感覚的に理解出来るようになることが多いのではないかと思われます。
そうしますと「その「後になって振り返る」とは、具体的にどのような時であるのか?」と思われるかもしれませんが、その(振り返る)契機となるものは、これまた一般的であるとは思われますが、さまざまな実体験であると云えます。
我々は日常で経験する出来事から、それと何らかの関連があると思われる記憶が想起されるのだと思いますが、この自分の内面にある想起のメカニズムは、以前と比べますと、多少は分かるようになってきた感じはありますが、それでも、未だに全体的には、よく分からないものであると云い得ます。
しかし、そうしたことは、むしろ「分かるようようになってきた感覚」の方をさらに用いることによって、またさきにある、未だ分からない部分も、徐々に理解出来るようになっていくといった性質があるのではないかと思われるのです・・。
そして、こうした感覚をさらに用い続けることにより、何と云いますか、その人なりの歴史観、あるいは、ある程度巨視的な視座からの世界観といったものが生じるのではないかと思われます。ここで「生じる」というコトバ用いましたが、たしかに、この個人に属する歴史観や世界観といったものは「生き物」とも云える性質があり、エサをあげないと衰弱していってしまいます。そこで我々は、この生きている感覚にエサをあげるために、新聞や雑誌や論文あるいは小説などを読むのではないかと思われるのです。
また、面白いもので、いくつかの分野や種類の文章を、ある程度の期間読み続けていますと、次第に読むことに対し困難さを覚えるようになり、そこからさらに読み続けるためには、今度は、自分の方が何か著さなければならなくなるのではないかと思われるのです・・。これは、あまり一般化出来ることではないと思われますが、私の場合は、まさに、2015年の当ブログ開始に至るまでの経緯がこのような感じであったと云えます・・。この経験は、現在このように記していても、その記憶が思い出されて苦しく感じられてくるのですが、しかし、この「苦しさ」があったから、それを克服するためにも、これまでの期間、どうにかブログ記事の作成を継続することが出来たのだとも思われるのです・・。
そして、ここまで述べてきたこととも関連すると思われるのですが、一カ月近くのブログ休止期間を経てから再開して、新たに感じられ、そして思ったこととして「文章の作成を継続している時の方が、文章を読む際の感覚も(自分なりにではあれ)研ぎ澄まされる」といったものがありましたが、はたしてこちらは、ある程度まで一般化出来る「現象」であるのでしょうか・・?
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2022年7月21日木曜日
20220720 計画通りと、偶然が作用する余地があるさきの創造について・・
また、この期間(7年以上)では、その全日数の7割以上の数の文章(ブログ記事)を作成、投稿してきましたので、おそらく、私のこれまでの人生のなかでは、最もアウトプットが多い期間であったとも云えます。そしてまた、その意味において「ブログ」や「ツイッター」といった発信手段があったことは、私にとっては幸運であったとも云えます。
くわえて、これまで数年間(どうにか)ブログ記事の作成を続けてきたためであるのか、昨今はごく稀に(大抵は目上の)知人から「おお、ブログ読んでいるよ!」であるとか「この頃ブログ書いていないようだけれど、どうかしたの?」などと声を掛けて頂くことがあります。面白いことにそうして声を掛けてくださる方々は、医歯系あるいは理工系の先生方であり、やはり、それらの背景にある言語世界に、何らかの関連性があるのではないかと思われました・・。
そして、そのように考えてみますと、再び思い出されるのが文系の師匠であり、20代当時の私は、この師匠が話される歴史ネタの話を大変興味深く、面白いと感じて、話題に出た書籍や映画などを読むなり視るなどして、自分なりの知見を得ようとしていましたが、どうもそこに至るまでには、かなりの時間と努力が必要であることが分かったのが、しばらく経ち社会人になってからであり、また同時にそこで、私は自分の興味関心がある分野であれば、そこまで苦痛を感じることなく、ある程度は楽しんで、それなりに硬質な文章の書籍をも読むことが出来るということが分かりました。
そこから「やはり、当初の希望通りに人文系の大学院に進んでいた方が良かったのかもしれない」とも思われるかもしれませんが、しかし、ここが、とても面白いところであると思うのですが、そこで私は、はじめに希望していたヨーロッパ文化についての研究を専攻することなく、会社の転勤によって(当初は心ならずも)在住することになり、また、後には、その民俗文化などに引っ掛った地域である南紀、そして紀州和歌山の文化についてを専攻しようと考えたことです。
このことも、以前にブログ記事として述べた記憶がありますが、私にとっては、やはり南紀での在住経験が、大きな意味を持っていたのだと思われるのです・・。おそらく、ある程度年齢が若い頃は、たとえはじめは気が進まなくとも、しばらくその地に在住していますと、徐々にそれを受け容れて、適応していくことが、多くの場合、出来るのだと思われるのですが、他方で、当初からの計画通りに、全てを推し進めるのが良いとする視座に拠りますと、こうしたことを受け容れ入ることが自体が困難になってくるのかもしれませんが、しかし、こうした偶然のように、コントロール可能な制御可能範囲の外部からの出来事に対応することによって、我々は何と云いますか、より創造的な未来を見出すことが出来るようになるのではないかと思われるのです。そして、そうした意味からも、太平洋戦争では負けましたが、そうではあっても、さまざまなホンモノの歴史や文化などに対して、血の通った内からの興味を持ち続けることが、思いのほかに大事であるように思われるのですが、さて如何でしょうか?
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2022年7月20日水曜日
20220719 再開後、二度目の投稿「文系師匠について思ったことから」
このブログ記事作成の休止期間の後半では、ブログ記事の作成を行わない日常にも慣れてきてしまったことから「今後、ブログ記事作成の再開は無事に出来るのだろうか?」と少々自らを危ぶむこともありながら、実際、昨日新たな記事作成を行ってみますと、さきに述べましたように、気持ちは落ち着かないものの、短いものではあれ、どうにか作成することが出来、そしてまた本日に関しては、昨日よりもさらに安定したスタンスにて、こうして記事作成を行っていると云えます。しかしながら、その主題が未だ決まっていないことから、昨日の投稿ブログでとり上げました文系師匠のうちのお一人を当面の題材として先を進めたいと思います。
こちらの文系師匠は、知り合ってから既に20年以上が経ちますが、その興味を持たれている方面については、そこまで大きく変わることはないようで、ただ、送付頂いた冊子や別刷りなどから、その深さについては、更に更新されていることが感じられました・・。以前、私はこの師匠に近現代史や国際関係論などの分野については到底勝ち目はないと感じ、自分が興味を持ち得て、そして出来るだけ「一番」に近づける分野を探して、南紀の地域性についての研究を行いましたが、こちらについては、もう一方の文系の師匠に対して到底かなうことは出来ないと、そのうちに悟ることになった次第です・・。
とはいえ、その頃になりますと、たとえ、自らが一番とはならなくても、その研究の進め方の中で、妥当なカタチで自分なりのオリジナリティーを示すことが出来ればそれはそれで良いと考えるようになっており、そこで、銅鐸や古墳などといった我が国の考古学や古代史についての書籍をある程度読み込み、そこから得られた知見を視座として、古くから現在にまで貫く本質的な意味での地域性を看取しようと試みましたが、やってみますと、それはなかなか難しいものでした・・。しかし同時に、その過程において、さまざまなことを知ることが出来たこともあり「興味を持ち続けていれば、また新しい何かが分かるかもしれない・・。」と考えて、その後、さらにいくつかの異なった分野に進みましたが、どのような偶然によるものか、私が戻ってくるのは人文系であると云うことが、ここにきて、ようやく分かってきました・・。また、現在も全五巻本の太平洋戦争を扱った著作の第三巻目を読み進めており、そのほかにも、何冊か新書なども読んでいますが、しかし、こうした何かを読み進めているといった状態が継続しているのであれば、インプットとアウトプットが対であるように、そこそこ自然に、公表する文章を作成することが出来るのではないかと思われました・・。しかし、おそらく、そうした事態とは、実際のところ、もう少し複雑であるのかもしれませんが・・。
ともあれ、今回の記事作成は、未だ本調子とは云えないものの、昨日よりも、さらに少しスムーズに書き進めることが出来ました。そしてまた、その内容につきましても、徐々に充実、洗練させていきたいと考えています。
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2022年7月18日月曜日
20220718 ブログ記事作成再開について
この休止期間の前半では、むしろ、安易に記事作成を再開しないように心掛けていましたが、徐々に慣れてきますと次第に「また、再開しなければいけないのは面倒だな・・。」とも思うようになってきましたが、そこから先、先刻に至り「もうすぐ、休止期間がひと月になるから、まずは一つ作成してみるか・・。」と思い、現在に至り、こうして記事作成を行っています・・。
そういえば、こうして新たに記事作成を思い立つに至った契機があります。それは、つい先日文系師匠の方々から送付物があったことです。それぞれに個性があり、また現在の活動をも示すものであり、大変興味深く思われました。そこで私もと、思い立った次第ですが、こうして書き始めてみますと、その経緯にて、この程度まで書き進めることが出来たことから、とりあえず悪くはなかったものと思われます。
今後も、また断続的に記事作成を再開していきたいと思いますので、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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2022年7月3日日曜日
20220703 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.508-510より抜粋
ISBN-10 : 4163646701
ISBN-13 : 978-4163646701
昼食の時間が来た。閣下たちは三々五々、歩いて来た。だがその日には、いつもと違った一人の新顔が見えた。その人は、米軍のジャングル戦用迷彩を着ており、それが奇妙によく似似合った。彼は、あたかも収容所も鉄柵も軽蔑するかの如く傲然と見下し、それらの一切を無視するかの如く、堂々と歩いてくる。その態度は、終戦前の帝国軍人のそれと、寸分違わなかった。
丸い眼鏡、丸刈りの頭、ぐっとひいた顎、ちょっと突き出た、つっかかるような口許、体中にみなぎる一種の緊張感ー「彼だな」私はすぐに気づいた。それは第14方面軍参謀長武藤章中将その人であった。そして彼の姿と同時に、反射的に四つの言葉がよみがえってきた。
「統帥権、臨時軍事費、軍の実力者、軍の名誉(日本の名誉ではない)」。軍部ファシズムをその実施面で支えたものは何かと問われれば、私はこの四つをあげる。そして私にとってこの四つを一身に具えた体現者は彼であった。
私は師団砲兵隊本部の一少尉に過ぎない。一少尉が、方面参謀長などという雲の上の将官を知るわけはない。その名も顔も知らないのが普通である。従って彼が現れるまで、この収容所でその顔と名を知っている将官は、師団長のM中将だけであった。だが武藤章の名と顔は、まるで脳髄に焼きつけられたように、鮮明に私の中に残っていた。そしてそれは今も残っている。なぜか?それには理由があった。
一体、彼が体現しているかに見える「統帥権」とは、何なのか?
人が一つの言葉に余り痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えてくる。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、平静にはそれを口にできなかった。トースイケン、統帥権、神聖なる統帥権、陛下の大権、統帥の本義にはじまり、統帥権侵害、聖権干犯等々とつづくその口調、そしてそれを口にした時の、軍人たちの狂信的な顔々々々ー。
戦前の日本は、司法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立は明治憲法第11条にも規定されていた。従って政府(行政権)は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いたーというのが私の常識であり、また戦後に一般化した常識である。
「執拗に統帥権の独立を主張して横暴をきわめた軍」は、私にとって余りに身近な存在であったため、軍部以外に統帥権の独立を主張した人間がいようなどとは、夢想だにできなかった。従ってある機会に、明治の先覚者、民権派、人権派といわれた人びと、たとえば福沢諭吉や、植木枝盛が、表現は違うが「統帥権の独立」を主張していることを知ったとき、私は強いショックをうけ、「ブルータス汝もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽侮に転じ、その人たちまで裏切者のように見えた。
従って、その人たちがなぜそう主張したのかさえ、調べる気にならなかった。
だが、このショックは、何か心に残したのであろう。それから十年ほどたって、やっとその間の事情を調べてみる気になった。なぜこの民権派・人権派が「統帥権の確立」-いわば兵権と政権を分離し、政府に兵権をもたせず、これを天皇の直属とせよーと主張したのか。言うまでもなくそれを主張した前提は、明治の新政府が、軍事政権とはいえないまでも、軍事力で反対勢力を圧服して全国を統一した新政府、いわば軍事的政権であったという事実に基づく。
この先覚者たちにとっては、民選議院の設立、憲政へと進むにあたり、まずこの藩閥・軍事的政権の軍事力を封じ込める必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧する能力を政府から奪うこと、これは当然の前提である。彼らがそう考えたのも無理はない。尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころの明治の大官たちは、「われわれは馬上天下をとったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。
これに対して当時の進歩的主張が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用いて我々を弾圧することは、聖権(天皇の大権)の干犯である」となったことも不思議ではない。
また、この先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入してくることであった。たとえば板垣自由党を第一師団が支持し、大隈改進党を第二師団が支持するというようなことになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。
ここに「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立たるべし」という発想がでてくる。南米の国々や第二次大戦後独立した多くの国々を最も苦しめ、今も苦しめているのが、政争に軍が介入してくる内戦であることを思えば、人権派・民権派のこの主張は、当時の主張としては不思議ではない。そしてこの点で、政権と兵権の分離、兵権の独立、天皇と天皇の軍隊の政争への局外中立化は、確かに、当時の進歩的な考え方であったであろう。と同時に日本が範とした当時の西欧諸国にも、同趣旨の規定があったという。
2022年7月2日土曜日
20220702 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」1暁のZ作戦 pp.312‐313より抜粋
ISBN-10 : 4150504342
ISBN-13 : 978-4150504342
責められてしかるべきはただ一つーそれは「時勢」だった。第一次世界大戦後のヨーロッパで起こった社会・経済的な混乱、共産主義とファシズムという二つの巨大な革命的イデオロギーがなかったなら、日本もアメリカも永久に戦争の縁に立つようなことはなかったことだろう。この二つの支配的な力は、ときには前後に重なって、ときには左右に並んで拮抗する力となりながら、ついに11月26日の悲劇を招いたのである。アメリカは、中国のためだけに戦争を起こすようなことはなかったはずだ。アメリカが戦争にすべてを賭ける気になったのは、日本がヒトラーやムッソリーニと手を組んで、全世界を支配するのではないかという恐れからだった。つきつめてみると、悲劇の源はアングロ・サクソンによって相手にされないのを恐れた日本が、ヒトラーと結んでしまったことである。こんな同盟は、名目以上の何ものでもなかった。
相互の誤解、言葉の違い、翻訳の誤りといったものが、日本的な日和見主義、下剋上、非合理性、名誉心、プライド、恐怖、そしてアメリカの人種偏見、東洋に対する不信と無知、硬直化した態度、独善、面目、国家的な自負と不安などといったものによって増幅され、戦う必要のない戦争が、いままさに開始されようとしていた。
「国家というものは、なぜ、こうも激しくいがみ合うのだろう」というヘンデルの問いに対して、以上にあげたことがらは、おそらくその主要な解答になることだろう。ともあれアメリカは、来るべき数十年に禍根を残す重大な誤りを犯してしまったわけである。もしハルが、日本の提案に対して宥和的な回答を出していたなら、日本人は(当時の閣僚のうちの生存者の証言によれば)アメリカとなんらかの合意に達することができたか、少なくとも数週間は外交交渉に費やすことを余儀なくされていたことだろう。それだけの時間の経過があれば、日本は天候の都合もあって開戦の「最終期限」を1942年の春まで延期しなければならなかったはずだ。そのころには、ソ連がドイツの攻勢に耐え抜くことは明瞭だったし、日本は敗色濃厚なドイツ・イタリアと組んで、のるかそるかの戦争をはじめる愚を避け、そのためにはどんな妥協案にも屈していたことだろう。たとえ日米間の合意が達成されなくても、アメリカはフィリピンをもっと多くの爆撃機や増強部隊で強化することはできたわけだ。真珠湾の惨事も避けられたはずである。12月7日の惨劇を招いた、ほとんど信じることもできないほどの偶然の連続は、おそらく起りえなかったのではないだろうか。